追憶・花子(3) | 珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

珍説・「豐葦(タカツキノアシ)原の瑞穂の国」 

古事記に載る「豊葦原瑞穂之国」の解釈に付いて、第三の解釈があってもいいのではないかと思い、イネ科ヨシ属の(セイタカヨシ)の登場を願い、此処に珍説を披露するものです。

 ジープ  


運動会を見るのを途中で止めて帰ったところ、店の前で「小川屋」の親父さんに呼び止められた。


清も丁度腹が減っていたので、無理にラーメンを頼んで店に入った。


それで親父さんが云うには、清のパチンコ屋の前に、二人のMPが乗ったジープが一時間近くも停まっていたが、心当たりは無いのかと云う事だった。


清はジープと云われて、直ぐに鰐皮のカバンの件が頭に浮かんだが、親父さんには心当たりは何も無いと答えた。


そして、ラーメンを食べ終わってから暫く、置くの座敷で「小川屋」の小母さんと近所の小母さんの二人が、一緒になって布団作りをしていたので、それを眺めた。


幅広い布団地の上に真新しい綿と古い綿を二重に広げ、それを二人係りで包み込み、次に、縫い糸で仕立て上げるその仕事振りは見事であった。


清はその姿に、熊谷にいる母親を思い出していた。


 急変  


その数日後の夕方、上の方の甥っ子がやって来て、


「今朝早く、お父さんと井上さんがアメリカのジープで何処かへ連れられて行ったが、井上さんは戻ったが、お父さんが未だ帰って来ない」


と、叔父貴の異変を知らせに来た。


清は直ぐに店を閉め、叔父貴の家へ行った。


居合わせた井上さんの話に由ると、数日前に闇ドルの元締めがアメリカ当局に捕まり、その関係で叔父貴まで捕まってしまったとの事。


そして、更に悪い事には、ジープの中で叔父貴が云うには、奴等は本腰の様なので当分帰れそうにないので、叔母達三人は宇都宮の実家に帰り、清には井上さんが仕事先を見つけるとの事だった。


又、井上さんは清のパチンコ屋を再び自分が引き継ぎ、其処で当分の間様子を見る事にした様である。


大黒柱の叔父貴が帰れない以上、他に方法は無く、翌日から慌ただしく事は運び、叔母さん達三人は宇都宮に帰り、清は井上さんの紹介で、京浜急行電鉄の「東品川駅」近くの町工場に勤める事になった。


 東品川  


東品川に移る前の日、清は山川町のパチンコ屋に寄り、井上さんにお礼の挨拶をした後、気になっていた花子を探したが、家にも「幸福食堂」にも見当たらず、止む無く、中途半端な気持ちで帰る事となった。


清が働く町工場は旧東海道の品川宿の近くにあって、ラジオのキャビネットを造っていた。


従業員は四十人程で、木材の板を決められた寸法に切断する清の職場、それをキャビネットに仕上げる職人達の職場、そして、塗装以降の各職場があり、一日中モーターが唸っている忙しい工場だった。


独身寮はあったが、清は工場裏のアパートに住んだ。


アパートの先には有名な商店街があり、休日等にぶらつくには最適であった。


又、昔の「品川宿」の名残りが未だ残っていて、普通の商店に混じって、華やかな二階建ての娼家も点在していた。


 一年後  


清は久し振りに山川町に行き、「幸福食堂」で働いていた美佐子に会えて、花子の近況を知る事が出来た。


アメリカ軍が接収していた高射砲陣地は既に解体と後始末がおわり、去年の十二月には兵隊達も本国に引き揚げてしまった。


それで、花子も美佐子もアメリカ兵と別れ、美佐子はこの店で働き、花子はタクシーの運転手と結婚すると云って、今は、東京の池袋で暮らしているとの事だった。


帰り際に、美佐子が花子の住所を書いたメモを探すと云ったが、清はそれを断り、結婚の祝福を託して「幸福食堂」を後にした。


 更に一年後 


清は班長に昇格し、日々充実した生活を送っていたが・・・

一週間前、その後の花子の消息をしりたくて、久々に「幸福食堂」に行ってみた。


幸い美佐子が未だ店にいて、花子の近況を知る事が出来た。


運転手との東京での生活は結局上手く行かず、半年前には既に別れ、現在は横須賀市の安浦にある、赤線街の「リボン」と云う店で働いているとの事だった。


あれから二年もの歳月が流れ、花子と会える機会は無いものと半ば諦めてはいたものの・・・

居場所が分かった以上、ひよっとしたら会える可能性も出て来た訳である。


若し探し廻って花子に会えたら、「先ず、パンパンと云った、自分の非を謝ろう」と、清は心に誓ったが・・・


本当は、「一目花子に逢いたい」只それだけが正直な気持ちだった。


 そして、今  


清は東品川駅から京浜急行電鉄に乗って、横須賀の「安浦駅」へと向かっていた。

八月の夜空はどんよりと重く、雨が近い事を知らせていた。


「安浦駅」で降り、美佐子から渡されたメモを頼りに赤線街の中を歩き、幾つかの路地を曲がった時、前方に、ネオンで輝く「リボン」の看板を発見した。


清は逸る気持ちを静める為にも、一旦は店の前を通り過ぎる予定だったが・・・


そんな余裕は無く、店の中の柱に寄り掛かっていた赤い浴衣姿の花子と、直ぐに目と目が合ってしまった。


「・・・」

「・・・」


二人共、無言。


花子は、清が何故其処に立っているのか、それが分からず、言葉も出ない。


清の方も、こんなに早く巡り合えるとは考えてもいなかったので、只呆然と立止まるしかなかった。


そして、二人の間の空気が静止して、一秒か二秒経った時!


清がすすっと花子に近付いたかと思ったら、いきなり・・・

花子の頬をピシャっと叩き、


一言も発せず、後ずさりし、その儘向きを変えて「リボン」を後にした。


花子は不思議な眼差しで、去り行く清の後姿を見送り、一方、清も、何故こんな事をしてしまったのか、自分でも自分が理解出来なかった。


更にその時、自分の二つの眼から、数滴の熱い涙が迸ったのを知ったが、それがどんな意味なのか、それも理解出来なかった。


清は頬に流れた涙を拭きもせず、やっと降り出した雨の中、帰りの「安浦駅」に向かって足を速めた。


雨は大粒になり始めていた。


 雨宿り 


雨は「上大岡駅」を過ぎた頃より土砂降りとなり、清は車窓に跳ねる水流を見詰めながら、「リボン」での事を振り返っていた。


あの時、花子を殴ったその動機が今も分からないが、今更それは仕方ない事で、清が車窓の雨に向かって呟いた言葉は・・・


「これで終わりだ」と、云う一言だった。


そして、清の心の中には・・・


さっき自分の両の眼から迸り出た熱い涙の謎と、もう二年前になるが、「桜ヶ丘小学校」の運動会の帰り際に胸にチクッと痛みを感じた、あの時の謎が・・・煙の様に漂っていた。


やがて電車は「六郷土手駅」を過ぎ、雨足も弱まり、「東品川駅」に降りた頃には小降りになっていた。


雨はあと少し待てば止みそうなので、清は改札口を出たところで雨宿りをする事にした。


と、駅舎の裏の方から、「リンゴ追分」の甘酸っぱい歌が聞こえて来た。


             ♪ リンゴの花びらが

               風に散ったよな あああ  


                             (終わり)