くにたち蟄居日記
くにたちでぼんやり蟄居しながら書いてきたブログです。
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「最後は自分が責任を取る」とはほんとうに可能か?

よく「色々な意見を聞いた上で最後は自分が決断する」という言葉がある。社長などの決定権者が言う言葉だ。大体この言葉の続きは「従い責任は自分が取る。社長は孤独なんだ」というような、いささか感傷的なフレーズになる事が多い。決定権者は、大概悲壮な顔つきで語るものだ。

 但し、よく考えなくても本当に決定権者が一人で取れる責任などたかが知れている。大体は辞任する程度の話だ。決定権者が個人的に辞任するということは「自分に罰を与えた」だけであって、それはよく言っても個人の美学や自己満足、自己弁護に過ぎない。その決断で、迷惑なり被害などを蒙った他人にとって意味があるとも思えないし、救いにもならない。つまり責任は取れないと言う事だ。

 決定権者なのだから一人で決断する事には違和感は無い。但し決断に際して、そう決めた理由や背景はすぐに公表するようなアクションがあるべきではないか。勿論何らかの真っ当な理由で、その段階で公表できない理由があるなら、それもしっかりとその旨を言うべきだ。そうでもしてくれないと、納得感も何もないだろう。

大雪の翌日に「戦前」は始まる

 総選挙は終わり、大方のメディアの予想通り与党の歴史的勝利となった。昨晩のTVの特番がおしなべて通夜のような雰囲気であったことは印象的だった。通夜の翌日からは総括が始まるのだろうが、どのような整理と総括が行われるべきのか。

 

 消費減税や憲法改正等は、いずれも大きな話ではあるものの「各論」の域を出ない。各論と言ったが、それは矮小化している積りもない。「神は細部に宿る」というが、各論の積み上げが全体像を作っていることはジグソーパズルに似ているとも言える。但し、各論は各論として大事であるが、より大きな視点で論点を設定することが中長期的に重要だと思う。

 

 まず今回の選挙の結果をどう見るのか。僕は今回で「戦後の昭和」が終わったと考えるべきではないかと思う。社会党を引き継いだ社民党が議席を失い、昭和から平成にかけての狂言回しであった小沢一郎が落選し、民主党が壊滅的な状況に陥った姿を見ているとそう感じて止まない。「戦後の昭和の終わり」とは「戦後の終わり」と僕の中ではイコールである。従い「戦後」が終わったということになる。「戦後」の次の時代とは何か。「人間は戦争を止められない動物だ」とすると、「戦後」の次は自動的に次の戦争の前であり、すなわち「戦前」である。僕らは今日から「戦前」の時代に生き始めている。

 

 次に「民意」という言葉の意味を再度考え直す必要が無いか。

 ともすると今回の選挙に関してはSNSの効果であるとか、Zだとかアルファという言葉で語られることが多かったが、年代別の支持層を見ても高齢世代の与党支持の高さを考えると、本当にかような「新しい言葉」で分析することが正しいのか疑問もある。

 「民意」とはきれいな言葉ではあるが、その中身は見えない。民意という「箱」があったとして、蓋を開けて中味を覗いたら「ドロドロの液体みたいなもの」なのかもしれないし、実は何もない「からっぽな空間」なのかもしれない。そもそも「民意」というものがあるのかどうかも分からない。今回の選挙期間中において、色々な方が当惑、混乱していたように見えたが、煎じ詰めると「民意」というものが分からなくなってきて、自信を失ってきているという話ではないだろうか。だとすると「民意」という言葉を使わないで論理を構築するということも考えなくてはならないのではないか。

 

 というようなことを大雪の次の日にとりとめなく、ぼんやりと、考えているところだ。

映画「処女の泉」 イングマール・ベルイマン

 最近イングマール・ベルイマンの映画を少しづつ観ている。重い映画ばかりではあるが。

 

 本作の粗筋は「娘をレイプされて殺された敬虔なキリスト教徒の両親がレイプ犯の三人を殺害する」とでも言えば良いのだろうか。話としては簡単なのかもしれないが、どうしょうもない「重さ」があった。

 

 正確に言うとレイプしたのは二名であり、最後の一人は子供である。子供は犯罪には加担しておらず、かつその現場を見ていて強いトラウマになったことが描かれる。僕にしてみると、その子供は無実であり、もっと言うと無垢である。但し、娘の父親は激情に駆られて、その子供も殺害してしまう。罪のない無垢の子供を殺害した段階で、娘の父親は「娘の敵討ち」役を飛び越えて業の深い一人になってしまったと思った次第だ。

 

彼自身もそれを解かっており、最後の場面で神の許しを乞うている。但し、いくら彼が我に還って敬虔なキリスト教徒として悔い改めても子供は還ってこない。それは娘と同じであるのだ。

 

 娘の死に関して自身を責める人が二人いる。一人は娘の母親であり、一人は娘の家に拾われていた妊娠中の娘だ。後者は、犯行現場に居ながらもレイプを止めることが出来なかった、北欧の神を信じる異教徒の娘である。この「異教徒」の存在とはきっと本作の要の要素なのだと思うが、残念ながらキリスト教に素人な僕としては、そこは肌で実感できなかった。

 

 但し、僕にしてみると、結局この悲劇を起こしたのは殺害された娘の底抜けの無邪気さとしか思えなかった。全く見知らぬ三人を単純に信じたことで彼女は殺害された訳だ。その結果として無垢の少年が死に、父親には非常なる罪を犯させ、母親に立ち直れないくらいの悲嘆に追い込んだ。それは全て娘の無邪気さが原因ではなかったのか。そう考えると、本作はいよいよ救われない話でしかあり得ない。

 

 結局ベルイマンが描き出したかったのは、そのような不条理さが時として存在するということなのだろうか。娘の屍の下から湧き出した泉は単純に何かの赦しであるとも思いたくない。若しくは、このような不条理も許すしかないという事をベルイマンは言っているのだろうか。

 

社会の結束のリスクとは  衆議院選挙前の感想

 今回の衆議院選挙の結果は未だこれからの話である訳だが、投票前の各メディアの予想を見ていると、おしなべて与党の圧倒的な勝利を見込むという意見が多い。勿論選挙の結果は終わってみないと分からない。但し、僕が今の段階で注目する点は、多くの「知識人」と言われていそうな人たちには大概は与党及び与党のリーダーに対して否定的なコメントが多いという事と、上記メディア予想との間の乖離である。知識人達も、いささかメディア予想に戸惑っている感じが強いのではないだろうか。

 

 「民意」という、分かるようで良く分からない言葉がある。良く分からないわりにはきちんと独り歩きする言葉でもある。「独り歩き」という表現の中には「どこに歩いて行くのか分からない」という恐怖感の響きを聞くことも可能だろう。今の様々な言説の中には、そのような恐怖感が漂っている。特に「多くの知識人」の戸惑いの中には、そのような恐怖感が強くなってきている。端的に言うと、知識人達は「日本人というものが何を考えている民族なのかが分からなくなってきた」という事態に慄いているのではないだろうか。これも社会の分断の一つの姿なのかもしれない。

 

 「社会の分断」という言葉にはネガティブなイメージがある。では「社会の結束」という言葉は良い言葉なのだろうか。ファッショというイタリア語は「結束」を意味している。「ファッショ」が何を引き起こしたのかは、20世紀前半の歴史が教えてくれる。「社会の分断」を怖れるあまり、「社会の結束」に向かうことのリスクも十分に考えなくてはならない。次の日本に訪れる「破局」とは、「社会の分断」の反作用として発生する「社会の結束」への過度な傾注から起こる可能性もある。特に「結束」の目指す方向性が、独り歩きすぎて、よく分からない場合には。

破局が見えてきた中で

 これは僕の牧歌的な楽観なのだと思うが、日本人は破局級の出来事の後に強さを見せる民族なのだと思っている。「思っている」というよりは、「期待している」「願っている」というレベルの話なのかもしれないが。

 

 例えば元寇のようにモンゴルが攻めてきた時であるとか、黒船が来て開国をせざるを得なかった時であるとか。若しくは、関東大震災で首都が破壊された時、第二次世界大戦で敗戦した時もその例に加えることも出来ると思う。東日本大震災は今なお続いている災害であるので評価は早いとは思うものの、それなりに日本人の底力を感じさせる場面もあった。

 

 そんなことを考えてみると、実は「破局」がはっきりと姿を見せて示される時は案外我々にとってチャンスになる可能性もあるのではないかと思った次第だ。

 

 では、次の「破局」は何なのか。僕の感覚では日本の政治である。今回の総選挙を巡る諸々の出来事を見ていると、日本の政治も来るところまで来たのではないかと思わざるを得ない。政治家の惨状は言うまでもないが、国民の資質の表れである民意も民意だなという気がしている。であるなら、一旦ここは「破局」的な状況に陥ってしまうというのも一つの考え方ではないだろうか。

 

バブル時代以降の日本はずるずると後退している気がしている。「ずるずる」程度のインパクトであると、後退具合が良く見えてこない。良く見えてこないと、なんとなく見過ごしてしまう。そんな30年が最近であるとしたら、一気に後退振りを可視化するのも一案ではないだろうか。その上で、再度立ち上がることが出来るかどうか。

 

日本だけでもない。世界の無茶苦茶振りが酷い中で、人類は存亡の危機を迎えてきているようにしか見えない。地球での生物の歴史は絶滅の歴史でもある。人類もかような歴史に吞み込まれるのかどうかの岐路に立っていると僕は思う。そんな中で、ややコップの中の嵐であろう日本の状況も一つの試金石ではあるまいか。

「高度成長 シリーズ日本近現代史⑧」 武田晴人

 近現代史というものは遥か昔の高校・大学の授業でも学んだ記憶は無い。大学卒業後はリアルタイムで「現代史」を見てきたものの、所詮は「横目」で傍観者的に見てきただけに過ぎない。還暦を超えた今になってそんな自分を反省し、少しは体系的に勉強してみようかと思って本書を手に取った。

 

 戦後の復興に始まり、1970年代以降の「高度成長」なるものを実現してきた背景には様々な偶然や幸運があり、その陰で経済成長の副作用のような問題もあったことを再度認識した。

 

 僕ら日本人は高度成長を自らの努力と知恵で達成したと思いたい訳であるが、そんな単純な話ではない。例えば公害のように人間の健康や自然を犠牲にするような場面も多かった。また、そもそも「高度成長をやり遂げた」というような妙な達成感が日本人の内面を蝕んだ面もあり、それは現在に至るまでの僕らの「考え方」をいささか歪んだものにしているとも言える。その意味では本書が描き出している1955年から1987年という三十年間は、現在である2026年に生きている僕らにとって、直接的な影響をいま齎している生々しい歴史なのだと言える。

 

 当たり前の話ではあるが、僕らは「考える」に際して、自分で思うほど「自由に考える」ことは出来ない。自由に考えている積りでも、気がつかないうちに「今までの自分が過ごしてきた時間」や「いまという時代」に影響され、規定されてしまっている。それは防げない訳だが、少なくとも自分が受けてしまっている規定というものがあるということは意識しておくべきだ。

 

 世界がきな臭いと思っているうちに、気がつくと足元の日本も相当きな臭くなってきている。自分自身がきな臭くなっていないのか。そんな反省をする際に、今の時代や自分の来し方を振り返るという意味で本書を読む価値は高いと思った次第だ。

共通テストとCHAT GPT

 共通テストをCHAT GPTに解かせたら9科目で満点を取ったという。この話を裏がえすと、共通テストの問題とはCHAT GPTが解きやすいような問題となっているということだ。そこから見えてくるものは、共通テスト側が望んでいる「あるべき学生の知性と知見」の一つの姿であると考えても良いのかもしれない。

 

 僕は昨年4月に大学の通信教育部に入学した。約40年ぶりの学生生活である。各種レポート提出等に取り組んできているが、その際に生成AIとどのように付き合うのかという点は40年前には無かった課題である。

 

 ごく個人的な心象としては、学校側としては生徒が生成AIを使うことに対してはネガティブである。生成AIを盲目的に信じてしまう点に警鐘を鳴らしている面もあるが、それ以上に学生の「考える力」を生成AIが削いでしまう点を怖れているというニュアンスも散見される。

 

 その学校側の考え方と、上記の共通テストの状況との間には、結構な落差やギャップがあるような気がしてきている。もちろん、例えば「新入生としての『初期設定』としては、共通テストに対して生成AIのようなレベルの知識・知見を期待するが、入学後は、更に自分の頭での『考える力』を期待する」というような麗しい話なのかもしれない。但し、そんな美談がどこまで現実的に簡単なのかは僕には解らない。

 

 生成AIが机上に挙げてきた課題とは「考えるということは実は何なのか」ということなのだと僕は現時点で思っている。現時点で僕には僕なりの結論は出ていない。出ていないので、これから「考えて」いかなくてはならないと思っているところだ。

「富士山噴火」 武田晴人

 還暦まで生きている間には、それなりに災害を見る機会が出てくる。僕の場合でも、いくつもの大震災、津波等があり、挙句の果てに原発事故まで起こった。そんなことを考えているうちに、残っているものとして富士山噴火があることに気がついた。それが本書を読むきっかけである。

 

 本書の中で著者は繰り返し富士山の噴火は、そのメカニズム含めて分からないことばかりであり、従い現段階で噴火を予測することなどは到底不可能であると主張している。端的に言うと地面の下の世界を地上の我々が理解するすべが現状無いという話である。勿論、著者をはじめとした研究者たちは引き続き探求を続けるであろうし、その成果も今後出てくるだろうが、いずれにしても未だ時間が掛かる話だ。

 

 但し「『富士山の噴火は分からない』ということを分かる」ということ自体は貴重である。富士山の噴火に関しては以前から根拠不明の流説や噂の大きなテーマの一つであり、それに巻き込まれて苦労した人も少なくないと思われる。そんな中で「富士山の噴火は分からない」と言い切っている本書の主張はむしろ清々しい。分からないからこそ生まれてくる物事の「切り口」などもあるからだ。

 

 それにしても実際に富士山が噴火した場合の被害の甚大さは十分想像できるようである。特に問題になりそうなのは火山灰による首都圏の被害だ。前回の富士山の宝永噴火の頃には高速道路やコンピューター関係の施設などは存在していなかったから、大被害を被ったという話ではなかった模様である。しかるに、もし今この瞬間に相応量の火山灰が首都圏に降った場合にはかなりのダメージになりそうだ。物事が進歩するということの負の一面があると言ってもよいかもしれない。僕らは余りにも平時であることに慣れてしまっており、平時を前提として物事を組み立ててしまっているからだ。

「悪名の棺」 工藤美代子

 X(旧ツイッター)か何かで本書の表紙を見た。見覚えのある笹川良一の顔を見ているうちに、そういえば笹川のことは何も知らなかったことに思い至って本書を図書館で借りて読んだところである。

 

 笹川良一というと、僕の年代の記憶では日本船舶協会のテレビCMだとする方は多いだろう。ちょうど「一休さん」のスポンサーであったのではないか。「一休さん」を観るたびに、笹川の法被を着ての「火の用心」であるとか、自分の母親を背負った銅像だとかを見ていた訳である。小学生ながらに、うさんくささを感じたことを今でも覚えている。そんな子供の頃の印象が、還暦を超えたいままで続いていた。「三つ子の魂百までも」とは、このようなことを言うのかもしれない。

 

 作者は本書において、かなり笹川という全体像が把握しにくい人物を肯定的に描き出していると僕は読んだ。巷間言われていた「日本の黒幕」であるとか「影のフィクサー」というような先行イメージを払拭しようと筆を振るっていることが良く伝わってきた。

 

 僕は、引き続き笹川に関する知見は乏しい。従い、著者が描き出している笹川像がどこまで正しいのかを判断することは難しい。但し、従来の悪いイメージだけで笹川を理解した積りになっていたことは間違っていたのではないかという印象は強く受けたところだ。

 

 敗戦後から高度経済成長を辿った時代の日本は混乱期ではあったものの「大まかな経緯」という点では把握しやすいのかもしれないが、神が宿るという「細部」に行けば行くほど分かりにくくなっている時代だったのではあるまいかという気がする。ここでいう「分かりにくさ」とは善悪の判定が難しいという意味である。善悪の判定が難しいのは常ではあるものの、特に時代が激動している場合には特に難しい。それは善や悪の「定義」が揺らいでいるからであり、その「定義」が揺らいでいることが「激動」であるからだ。

 そんな場合には、後世に判定をゆだねることは常に一つの方法なのだと思う。著者が本書で笹川を描き出した理由も、そのような判定の一つということだろう。もう少し他の方や他の角度からの判定を見ないといけないということが僕の最後の読後感ではあった。

映画「ゆきてかへらぬ」 

 昨年に評判の一作だった本作を年明けの一月に鑑賞したところである。

 

 長谷川泰子を巡る中原中也と小林秀雄の三角関係は有名な話だ。但し、どう有名かというと中原と小林の間の葛藤が有名であるということであって、長谷川に関する話は僕の知る限りでは、余り無い気がしている。確か小林は長谷川を狂人と呼んでいたと思うのだが、狂人という言葉で片づけられた長谷川は少し可哀そうな気もしていた。そんなところに本作を観た訳である。

 

 本作は、一方で、完全に長谷川が主人公である。長谷川の周りで中原と小林は狂言回しに近い存在である。本来なら「メルヘンの詩人」と「日本を代表する知性」のお二人をじっくりと深掘るような話であっても良いのだろうが、本作ではそのような扱いにはなっていない。共に長谷川に振り回される頭でっかちの弱々しい青年に過ぎない。

 

そのような筋立ては脚本を書いた田中陽造の嗜好なのかもしれない。田中は「女の情念」を描かせたら当代一と評される脚本家であったことも思い出した。但し、脚本がそうであってもそれを実現する女優が必要である。本作における広瀬すずの演技は、そんな田中の意図をしっかりと踏まえているかのようにみえた。本作の広瀬を「大人の女優の色気が出た」と評する向きも結構あるようだが、それには頷けるものがあった。

 

監督の根岸がお元気そうで嬉しかった。40年前の「ウホッホ探検隊」等も思いながら本作を鑑賞した次第である。「ウホッホ探検隊」の脚本を書いた森田芳光の「それから」を想わせるような昭和初期の風景が綺麗だったことも付け加えておく。

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