くにたち蟄居日記
くにたちでぼんやり蟄居しながら書いてきたブログです。
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「安岡正篤 昭和の教祖」 塩田潮

 安岡正篤という方の名前を聞くことは幾度か有ったが、どのような方なのかを知る機会は無かった。従い本書は僕にとっては初めての安岡紹介本である。感想は二点だ。

 

 一点目。本書は決して安易な「安岡賞賛本」ではない点が読んでいて心地よかった。安岡の漢籍に関する高い知見を描き出す一方で、安岡の下世話な部分も書き出している。最終章の細木数子の話は芸能ネタとしてのある種の余談だとしても、それ以外に本書でちらりちらりと出てくる安岡の野心や執着の話は面白かった。田中角栄が「政治とは人間の欲望の調整作業だ」と喝破した場面が本書にも出てくる。おそらくは安岡が嫌いそうな、身もふたもないセリフなのだと思うが、その安岡自身も十分に「欲望の調整作業」を行っていたであろうことは本書の一つの主張であると僕は読んだ。

 

 二点目。安岡の力の根源は、上記の通り漢籍への造詣にあった点には考えさせられるものがある。安岡の大きな機能は「生き字引」であったと本書は言う。その字引とは何の為の字引かというと、文章等の「格調」を上げるための字引だったとしている。

 「格調」とは何かと考えると案外と難しい。「格調が高い」という事を煎じ詰めていくと、「要は装いを飾る」という程度のことではないかとも思えてくる。漢籍から引っ張ってきた「キラキラ語句」で文章を飾ることが本質的かどうかは良く考えなくてはいけない。

 但し、多くの政治家や企業家は、そのような「キラキラ語句」は好きであることは昔も今も変わらない。新聞や雑誌で見かける「新閣僚紹介」や「新社長の横顔」等にはえてして「座右の銘」というコーナーがあり、そこには大体は漢籍から引っ張ってきた言葉がとってつけたように並んでいるものだ。

 つまり、それだけ日本人の美意識に漢籍が根付いてきているとも言える。但し、その「根付いている場所」は決して深部ではなく、表面的に過ぎない。これも本書の裏メニュー的な主張なのだと思う。

 

エンデ「モモ」 

久しぶりに本書を読み返した。還暦を迎えた時期に本書を読むと、若い頃の読後感とはまた少し変わったものがある。仕事の現役を一歩退いた地点から本書を読むと、まさに自分自身が時間貯蓄銀行に囚われてきたことを痛感させられるからである。

 

 本書は童話仕立てであるので、第一義的には子供が読むようになっている。但し、ここが面白いと僕は思うのだが、まだ大して社会に出ているとは言えない子供の世代が本書を味読することができるのかどうかは定かではない。還暦の自分から見ると、本書の怖ろしさは子供には分からないとしか思えない。作者もそれを分かった上で、敢えて童話にしているのはなぜなのかを考えることは本書を理解するにあたっての一つの切り口なのだと思う。

 

 勿論、エンデは子供たちに物語を「刷り込もう」としているとも言える。本書は児童文学としては十分に面白い筋立てであるので、子供たちは喜んで本書を読むだろう。本書のテーマは実際には難解であるので子供たちがロジカルに理解する訳ではないと思うが、皮膚感覚として時間管理銀行や灰色の男達への懸念や疑問は刷り込まれるとも思う。そんな児童期の「刷り込み」が、子供たちの将来に何らかの影響を与えることが出来るというのは、一つの戦略であり戦術でもあると言える。

 

 但し、エンデが本当に想定している読者は子供たちだけなのだろうか。むしろ、大人達ではないのか。日頃色々なものに縛られている大人達を油断させ、その胸襟を開かせるために童話という設定を採用し、迷い込んできた大人達に対して非常に厳しく痛烈なテーマを投げかけているのではないか。そう考えると還暦となって読み返した僕は、やや読み返しが遅かったのかもしれない。そんな反省を少し強いられたところだ。

 

 本書でエンデは時間貯蓄銀行と灰色の男達を「抹殺」している。その「抹殺」に際しては十分な暴力性もあることは見逃してはならないと僕は思う。「モモ」とは色々な意味で暴力的な本だと考えることが本書を正しく読むことに繋がる。エンデが「暴力」を使わなければならなかった理由を考えることが次の課題となろう。

「乾いた花」 篠田正浩

篠田正浩の名高い映画を今回初めて観るきっかけを得た。難解な映画ということで一旦はお蔵入りしたといういわくつきの伝説的な映画である。

 

 本作は一応はヤクザ映画の一つというジャンル分けになるのかもしれないが、とてもそのような

分類に馴染むとは思えない。話の展開としてはヤクザの組同士の抗争という縦糸こそあるものの、「義理と人情」というようなお決まりの横糸はどこにも見つからない。見えてくるのは主人公の乾いたニヒリズムであり、その意味ではヤクザ映画の皮を借りた当時流行のヌーヴェルバーグ映画の一つである。ヤクザ映画でカタルシスを期待している観客が当惑するのも無理はない。

 

 主人公はニヒリズムに陥っている。彼は自分が行ってきている暗殺に関して何の意味も無いと断言しつつ、機械的に淡々とそれを行っている。「淡々とそれを行う」というストイックな自身の姿に自己陶酔しているようにも見えない。色々な意味で何のために暗殺を行うのか分からない。組

組長の為ということなのかもしれないが、そんな忠誠心から遠く離れているようにしか見えない。「太陽のせいだ」とするカミュの「異邦人」のムルソーと比較する観客もおられるかもしれない。

 

 但し、ヒロインとの絡みにおいて、本作は異様な光芒を放っている。加賀まりこが演じるヒロインも主人公に負けず劣らず不可解な人間である。彼女が賭博にのめりこみ、更には薬物に手を出す理由というものは全く伝わってこない。そんなヒロインに対する主人公の姿も、これもまたストイックという言葉が似あう。

 実際主人公とヒロインは似ている。ヒロインは主人公の影法師にも見えてきてしまう。主人公の最後のセリフはヒロインを「渇する」というものだが、彼が「渇している」ものとは他人の異性であるヒロインだとも思えない。自分でも理解できない自分自身を「渇している」のではないかと考える方が納得感があるのではないか。

「特捜取調室」 佐藤優 西村尚芳

 僕にとっては待望の一冊である。 

 

 なぜ待望だったのか。本作の佐藤優の対談相手である西村という方は、佐藤優のデビュー作である「国家の罠」の主要登場人物である。当時の西村の立場は佐藤を尋問する検察官であり、その二人の会話とは「対談」ではなく「対決」であった訳だ。当時の「対決」の様子に関しては「国家の罠」を書き上げた佐藤の言葉に由るしか無かった。西村はほぼ無口を貫いた。そんな西村が20年を経て、佐藤との「対談」を通じて、直接僕らに語ることになったのが本作である。

 

  「国家の罠」を書かれてしまった西村の立場は検察内部、もっと言うと日本国において、困難であったことは当時から十分予想されるものがあった。「国策捜査」というような流行語まで出来てしまうことに「加担」した西村にはそれなり以上の影響やプレッシャーが掛かったろう。その中でも潔く沈黙を保ってきたのが西村である。

 

 では本書ではどうだったのか。 読後の感想は非常に清々しい。西村という方が維持した倫理と矜持が十分に伝わってきた。その厳しい自制と自律は、「職人」を思わせる。西村は本書で「大声」を出していたり、大所高所から何かを語ることを引き続き厳に慎んでいる。但し、小さく静かな声で、検察官というものの「職人」がどうあるべきかということを描き出している。 

 

 今の日本や世界を見渡すと、倫理というものは絶滅しつつあるという印象を拭えない。倫理とはここ2000年間くらい人類は営々と築いてきたものだと思っているが、あっけなく崩れつつあるようにしか見えない。そんな中で本書が描き出す西村という方の姿は貴重である。いうまでもないが、佐藤優が強い「触媒」となっていることも良く分かる一冊である。 最後に考え直した。20年前の「対決」は実は十分に「対談」だったのではないか。

映画「ケス」 ケン・ローチ

ケン・ローチという映画監督の作品を初めて鑑賞する機会を得た。

 

 話の筋自体は救いが無い。主人公の置かれた環境は終始きつい。主人公が愛情を注いで育てた鷹も主人公の兄によって縊り殺されてしまう。主人公が鷹を埋葬したところで映画は終わってしまう。そんな話ではあるが、最後に残った印象は案外と明るいものであった。なぜそうなのかを考えることが本作を鑑賞するということなのだと思う。

 

 主人公自身は美化されて描かれていない。主人公を取り巻く環境、教師、親、兄と同じく主人公もどうしようもない子供のように描かれているという方が正しいのかもしれない。敢えて言うなら、学校の一人の教師だけが主人公の鷹に対する愛情と育成を認める場面はあったが、限定的と言わざるを得ない。

 そんなどこにも行けないような閉塞感の中ではあるものの、主人公の今後を想像すると、とても期待できるのではないかと思える。そんな期待感が本作の最後の印象を明るくしていると僕は思ったし、多くの方も同様の期待感を持って頂いたのではないかと思う。これは僕の勝手な思い込みではあるのだが。

 

 主人公が鷹から何を学んだのか。おそらくは「学ぶ」ということを学んだのだと思う。鷹の育成を教室で語るときの主人公の謙虚な姿は本作の白眉と言える場面だ。主人公は鷹の話をしているだけだが、鷹を通じて「学ぶ」とは何なのかということを結果的に語っている。「学ぶ」ことを覚えた主人公は、主人公は兄の心無い仕打ちによって鷹を失った訳だが、必要以上に悲嘆にくれることはなく、すぐに埋葬するという行為を通じて、成長ぶりを見せていたと僕は思う。おそらくは彼はすぐに「次の鷹」を見つけるに違いあるまい。それは必ずしも「鷹」である必要はない。「何かの研究」かもしれないし、「何かの仕事」なのかもしれない。彼はそれらから更に「学ぶ」ことが出来るだけの能力を得ているに違いあるまい。そんな確信を観客に与えているからこそ、最後の印象が明るくなったのだと僕は思った次第だ。

 

「人文知は武器になる」 山口周、深井龍之介

 評判の一冊を読んだ。感想は三点である。

 

一点目。「AIが今後齎すものは何なのか」が端的に整理されている。

 

日々の報道や議論を見ていると、もともとは単純・定常作業がAIにとって代わられるという話に始まり、最近ではシステム関係が注目されている。かような議論は、但し、各論に留まっていると言って良い。

それに対して本書では「ある課題に関して、正しい解決策や解決方法が存在し、それらを効率的に求める業務」という非常に大きな枠組みが示される。そして、それらの業務に対しては既に人間よりAIのほうに優位性が出ていると断言している。このクリアーカットな整理は非常に斬新であり、納得性が高い。非常に多くの業務が、その枠組みの中にある点を考えると、いささか戦慄すら覚える。僕が今までやってきた仕事にしても、、殆どがそれに該当するからだ。AIのほうが優位であるということの意味は「僕自身はコモディティ化され、競争力を失っている」ということに容易につながるからである。

 

 

 二点目。一点目の前提に立った上で、人文知が齎す可能性を本書は描き出す。

 

 最近の企業の経営幹部研修の記事などを見ていると、中高年である「経営幹部」が、付け焼刃的に茶道に触れたり、東西の古典の講義を受けたりしているものが散見される。リベラルアーツを香水のように自らに吹き付けて悦に入っているようにも見え、個人的には斜に構えてかような記事を見てきた。

 それに対して本書では本格的にリベラルアーツの持つ効用を具体的に主張しようとしている。その「具体的」という点に関しては、文中の言葉使いも含めて、いささか下世話なものにしているという戦術も僕には快かった。人文知のアカデミズムに身を置いている方々が本書にどれだけ賛意を示すのかについては非常に興味がある。むしろ反感を持つ方も多いのではないかとも想像する。但し、本書は人文知こそがコモディティ化されにくい分野であり、従い人間がAIに対して優位性を保てる数少ないものだとしている点は大いに評価して頂きたいと思う。下世話な立場からアカデミズムを強くサポートしている一冊であるとも言えるからだ。

 

 

 三点目。では人文知をビジネスや社会に簡単に実装できるのか。これに関しては本書においても時間が掛かる点を認めている。

 

 僕の本書を読んでの感想としては、人文知とは理系の基礎研究に似ているのではないかということである。理系の基礎研究は「直ぐに実用には結びつかないものの、将来を見据えたものである」という点に関しては一定のコンセンサスが得られている。では同じコンセンサスが人文知にも得られるのだろうか。この点は大きなチャレンジであり、かつ容易ではないと覚悟すべきである。但し本書が相当な評判を呼んでいるという状況を見ると、必ずしも悲観しなくても良いのではないかと思える。

 

 

 以上の三点が現段階での感想である。最近の大学教育の議論を見ていても文系に対する風当たりの強さが目立つ。裏を返すと理系重視という話だが、その理系における「AIの優位性」という逆風や、「すべてを理系的に認識・把握できるという牧歌的な楽観」への疑問などを本書はきれいに提出していると僕は読んだ。実に面白い一冊である。

全体最適と部分最適

日経新聞で以下の言葉を読んだ。

 

 「コストを最小化するために世界全体の広がった調達網は、リスクを最小化するために今では分断に向かう」

 

 昨近の地政学上の問題を受けての分析である。

 

 上記の「コスト」とは具体的には何を意味するのかを考えることは頭の訓練になる。ざっと考えたところでは平凡ながら「人件費」「物流費」「関税」「物価」等である。

 

世界の中でコスト面で「最大最適」を追求するという言葉は麗しい訳だが、実際には「安いもの探し」というさもしい面を拭いされない。特に「人件費」においては、植民地時代とあまり変わらない発想なのではないかと思う。であるとしたら、かような「最大最適」とは全く「最大」ではない。目を凝らすと一部だけが利益をあげる「部分最適」だったのではないか。それが可視化されてきたことも上記「リスク」の大きな要素になっていると僕は思う。

 

 世界全体が「経済」で繋がり、戦争を起こすコストが上昇することで平和が保たれるのではないか。そんな仮説に綻びが見えてきた時代になっている。人間を動かすものは「経済」だけではないということをもう一度真剣に考え直すべきではないだろうか。

「学問と『世間』」 阿部謹也

 阿部謹也の著作は「ハーメルンの笛吹男」など、西欧を扱ったものをいくつか読んできただけである。僕にとって本書は阿部の異なる角度からの一冊となった。大変興味深く読めたことを初めてに申し上げたい。

 

 阿部によると「世間」とは日本人が持つ伝統的な社会であり、そこでの社会規範である。近代化に伴い、日本はやや盲目的に西欧の学問を取り入れてきたが、「世間」が消え去るまでには至らなかったと言う。外形的には西欧を真似し、自分自身も西欧の一部であるかのような錯覚をしつつも、プライベートになった途端に「世間」に表象される伝統的な思考になるという話は興味ふかい。これは方言で育った方が、オフィシャルな場面では共通語で話す一方、同郷の人と話す場合には、無意識に方言に戻るという、よく見る風景にも重なるものがある。

 

 そんな「世間」に対する分析や考察は従来なされてこなかったと阿部は本書で断言していると僕は読んだ。そんな断言から、阿部自身の強い自負心が透けて見える。阿部がどのようにして「世間」を考察対象として「発見」したのかを考えることもなかなか刺激的なテーマなのだと思う。安易に想像すると、西欧社会の研究を通じて日本を異国から眺めた際に「世間」というものが、急にくっきりと見えたのではあるまいかというところだが、あまり意味のある想像でもないのかもしれない。

 

僕らは日ごろから「世間」にすっぽりと包まれてしまっている。従い「世間」とは空気みたいなものになってしまっている。「空気を読む」という言葉があるが、読んでいるものとは阿部の言う「世間」に他ならない。西欧が「自立した個人」を社会の基盤に置いていると言われる一方で、日本の社会の基盤は「世間という集団」にあるのかもしれない。それは西欧が日本に対して優位性があるという意味でもない。「違う」というシンプルな話なのだと僕は思う。

 

大切なことは、自分が自分の所属する「世間」の一員として包まれてしまっているということを自覚する点にあるのではないか。自覚しているかいないかで、世界や他人を理解する深度が変わってくるのだということが本書を読んだ際の最後の感想である。

 

「兵庫県告発文書問題」 奥山俊宏

 イラン戦争や日本国内の憲法を巡る議論等で、兵庫県知事問題がやや話題にのぼらなくなった中で本書が刊行された意義は大きい。本書を読んでいて改めて兵庫県知事問題が齎した問題提起の深刻さと広さを強く感じた。感想は3点である。

 

 一点目。兵庫県知事問題は「公益通報保護制度」の重要性を炙り出した。

「 公益通報」という考え方は、例えば江戸時代の目安箱等にも見られるものであり、決して新しいものではない。新しいものではないにも関わらず、それが決して社会に定着したとは思えない状況を見ると、「公益通報」というものは人間の本性にやや反していると考える方が合理的かもしれない。従い、「公益通報」をする方を「保護」するという制度を作って、人間の本性を牽制するというスキームには納得性はある。

 

 但し、そのスキームが正しく運用されるかどうかはまた別の話だ。兵庫県の場合には、その入り口で運用が間違えられた可能性が高い点を本書は描き出している。初動の重要性はあらゆる事例にも共通する話だ。兵庫県が正しい初動を行っていたかどうかは引き続き解明されるべきである。

 

 二点目。兵庫県の出直し選挙はSNS等の新しい情報ツールの持つ問題性を炙り出した。その問題性とは、ツール自体に留まらず、またもや人間の本性に迫る話に展開する。具体的にはヘイトスピーチ、陰謀論等である。

 

 ヘイトスピーチや陰謀論等も新しい話ではない。関東大震災の際に発生した朝鮮人虐殺等も同類であり、昔からあった事象である。但し、SNSというツールを得たことで、とてつもなく膨張する状況になったことが兵庫県の選挙であったという本書の指摘は僕にとっては納得性が高い。同様にごく最近報道された自民党の総裁選等でのSNS報道も、現時点でどこまで正しいのかは分からないながらも、話としては兵庫県の延長上にあるのであろうかと想像している。

 

 ここでも人間の本性が試されることになりつつある。「言論の自由には言論する内容への責任が伴う」という兵庫県県議の意見は至極真っ当だと僕は思う。それも人間の本性には、やや反するものに見えてきたということも本書で強く感じた。

 

 三点目。各種制度は、案外と人間の性善説に因って組み立てられていることが見えてきた。本書では、「兵庫県の問題は今なお違法状況が続いているにも関わらず是正されない」という姿を強調している。要は「是正されえない」ということが可能になっているという話だ。組織のトップには一定以上の倫理性があるものとして作られた制度やルールは、倫理を欠いたトップには極端に弱いという話だ。これは米国の今の状況を見ても良く分かる話ではないか。

 

 となると、性悪説の基づいた制度やルールの必要性が出てくるという話である。人間の本性が性悪だとしたらやむを得ない軌道修正という話になるだろう。

 

 ということで、本書は良い時期に刊行されたと強く思う。本書は万人が読むべき一冊と言えるのではなかろうか。

「星の古記録」 斉藤国治

 

 1982年刊行の本書が2026年に増刷され、評判となっていると聞いて早速読んだ。普段は特に星に興味が無い僕は、流行に流されやすい読者であると苦笑しつつも楽しく読了した。感想は三点である。

 

 一点目。これは全ての読者に共通する感想だと思うが、古代の人々が実に正確に星の記録を取っていたということに驚いた。日本のみならず、中国、韓国、欧州などでの話である。当時の星に対する考え方は、占いに結びついており、政治の点で重要度が高かったという背景はある。最終的に星で未来を占うという目的自体は非科学的であった訳だが、星を観測するという行為においては極めて科学的であったことが良く理解できた。目的が間違っていても、その目的を目指すということで物事が進むという好例なのだと思う。占星術から産まれてきた「科学」を調べてみると、天文学は当然として、数学(三角法)、暦学、医学、心理学などが挙げられるらしい。心理学についてはユングが占星術に強い興味を持っていたとのことである。

 

 二点目。その「記録を取る」という行為自体も、人類の進歩の大きな原動力となったと判断される。中国、中東、欧州は紀元前から文字に因る「記録」が始まっていた訳だが日本においても日本書紀や古事記が出来たのは7世紀という世界史的にみても早い段階だった。そこから万葉集、源氏物語等が派生してきたことを考えても、意義深い話である。

 

 三点目。本書の後半に描かれる明治時代の日蝕を巡る物語は、なかなか「読ませる」ものになっている。日蝕観測は当日の天気に大きく左右される点はやむを得ない。幸運を祈りながら日蝕観測の準備をする科学者たちのドラマは中々人間臭い話である。時として日の目を見ない無数の努力が今日の科学を支えてきた点を思い知らされた。

 

因みにAIに本書の魅力を尋ねたところ、「文系」の「歴史」と、「理系」の「天文学」を結び付けた点にあるとのことだ。なるほどと感心した次第である。

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