くにたち蟄居日記 -271ページ目
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「火まつり」 柳町監督

 公開当時は話題先行の感が有った。中上健次の脚本、新進気鋭の柳町監督、武満徹の音楽。

 20年以上経って DVDで見直した。悪くないというのが第一印象である。話自体は いささか難解であり 結末も唐突で 突き放された感じが強い。しかし 映像が良い。

 紀伊半島は日本に残された数少ない「秘境」である。南方熊楠、中上健次などの「異人」を生んできた場所である。この映画に出演した太地喜和子も その苗字の通り 太地出身である。この女性も魔性の女であったことは 三国連太郎が告白している通りである。
 そんな「秘境」を本作は上手に切り取っている。

 紀伊の 海、森、山、霧、祭り。

 いずれも神々しいばかりの映像である。その意味では 正しく「紀伊」こそがこの映画の主人公なのかもしれない。

「錦繍」宮本輝

 会社の女の子と本の話をした。彼女は「人の死ぬ話がすき。それに男女のロマンがあればなお良し」と言っていた。世の中のかなりの文学が このテーマであることは この際置いておこう。

 それを聞いた時にすぐ頭に浮かんだのが 本書である。ただしく男女のロマンと死を扱っている。筋としては珍しい話ではない。但し 本書には 菖蒲がすっくと立っているような気品がある。その気品で 他の凡百の恋愛小説から抜きん出ているものがある。

 宮本輝は「泥の河」「幻の光」といった 日常生活をきらめかせる話術には長けていると感心するのみである。

「武蔵野」 国木田独歩

 自宅が武蔵野だったので 本書を始めて手に取ったのは 高校入学をひかえた中学3年生の3月の事だった。薄ら寒い日だったことだけ覚えている。

 短い随筆であり 何かを声高に主張する作品ではない。しかし その美しい日本語に魅かれて その後も幾度も読み返した。どこそこに武蔵野の面影が残っていると聞くと自転車で見に行ったものである。高校時代はそんな時間はいくらでもあった。お陰で武蔵野には多少詳しくなった。それから25年経った。

 国立には鬱蒼とした雑木林がまだ残っている。散歩していると 独歩の武蔵野に迷い込んだ気がする。そんな雑木林は今では生活の一部として貴重なものになった。林を散歩出来るのは 東京では贅沢なのかもしれない。

 「武蔵野に歩する人は 道を迷うことを苦にしてはならない。どの路も足の向く方へゆけば 必ずそこに 見るべく 聞くべく 感ずべき獲物がある」

 この「武蔵野」の一文は有名である。中年になると この一文は人生にもあてはまるかなと不図思った。

「五輪書」 宮本武蔵

 宮本武蔵の名高い古典。

 読んで分かったことだが この本は本当に剣法を具体的、実際的に丁寧に教えているKNOWーHOW 本である。精神論でもなく 思想書でもない。ひたすら「足の使い方」だの「刀の持ち方」だのが書かれているだけである。その意味では現在の「***の達人」であるとか「**料理の極意」といった本と基本的には同じであると言い切って良い。

 但し、ではある。

「細部に神は宿る」とはキリスト教の言葉だが それを強く思わせるものが本書にある。自分の「天職」を「極私的」に「目を凝らしていく」うちに 思いがけなく普遍的な視野が得られるということは 武蔵だけではなく 先達の諸賢にも共通して見られた現象である。その好例は本書からいくらでも抜き出せる。

「遠き所を近く見、ちかき所を遠くに見る事、兵法の専なり」

 これは剣法において「相手の遠いところをしっかり見ろ。目先の動きにとらわれるな」ということを当たり前のように言っているだけだが 考えてみると実に普遍的な内容である。そんな感心している僕を見たら 武蔵は「いったい何に感心しているのだ?」と首をひねるかもしれない。そんなものである。
 その意味では 本書が400年という歳月に耐えて 今なお多くの人の興味と共感を集めていることに
武蔵もあの世で呆れているかもしれない。

はじめに

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 国立(くにたち)蟄居と名づけました。国立とは 東京駅から中央線で一時間弱かかる 東京西部です。武蔵野の面影が残る雑木林、桜と銀杏の並木がある 小綺麗な街です。学生時代にこの街に住んだことがあることですっかり気に入り、20年後に再度棲むことになりました。
 蟄居と書きました。ごく普通のサラリーマンたる小生としては この田舎の街に蟄居している気分ということですかね。暇にまかせて プログを書いてみようと思っています。
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