くにたち蟄居日記 -267ページ目

「鏡」 映画 タルコフスキー

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 アンドレイタルコフスキーの映画は 日本では結構人気を博していると思う。多分 彼の映画が好きな人の数という点では 世界でも有数かと思う。僕も そんなささやかな一人だ。

 彼の映画は眠いことで知られている。実際 余りに多くの人が映画鑑賞中に眠り しかもそれを誇らしげに語らせるという点では むしろ異様と言って良い。民俗学で「入眠現象」という言葉があるが それに極めて近い体験なのかもしれない。

 「鏡」は そんな彼の作品群の中でも 飛びぬけて話の筋が無く 従い 「抜群に眠い」一作に仕上がっている。不眠症の方がいらしたら 是非試して頂きたい位だ。僕もうとうとしながら観続けるわけだが 美しさが比類が無いことも確かである。

 タルコフスキーの映画は難解だ。それは間違いない。但し その中で起きているのだが眠っているのだかわからない自分という状態も中々心地よいものである。それが 彼の映画の絶大なる人気の鍵のような気がしてならない。

鎌倉という書庫の為の初めの一文

 「鎌倉」という書庫だけ作って 何も書かない日が経ったことに気が付いた。

 鎌倉は僕にとって 特別な場所の一つである。(もっとも多くの人にとっても鎌倉は特別な場所だろうが。) 住みたいと思っていたし いつか住めないかとも思っている。勿論今住んでいる国立はいまや離れがたい街になったが それはそれとして他でも住んでみたい土地があるということは 人生を豊かな気持ちで過ごすには大切なことだと思っている。結婚にも そんな一面があるかもしれない。

 鎌倉とは何か。寺が点在する古都である。潮風が吹く海の街である。蝉がうるさい位の山間の小さい村である。こうやって 定義しても 中々表現出来ないところに この街の魅力がある。

 「鎌倉」という書庫を作って 何か書こうと思っても この程度しか書けない自分に今がっかりしているところである。まこと 鎌倉は近くて遠い街なのだ。

 また 何か思いついたら「鎌倉」に戻ろう。

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治

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 宮沢賢治は短編の人だったのかと思う。この人で長編というと 「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」程度しか思いつかない。しかも 考えてみると この二作も 通常の作家ならせいぜい「中篇」程度ではなかろうか。賢治が書いているから妙に長く感じさせるのかもしれない。

 本作は 漫画「銀河鉄道999」等に翻案されたこともあって 賢治の最も有名な作品だ。ジョバンニやカムパネルラという不思議なネーミングもあいまって 今でも非常に人気を博している作品である。その意味では「星の王子様」の人気を思い出させるものがある。

 賢治の本質は詩人だったと思う。彼の詩は 国立に在住したこともある草野心平が見出したことは昭和の歴史である。実際 賢治の「春と修羅」を拾い読みしていても 賢治が独創的な詩人であったことははっきりしている。言葉をきらめかす詩人という点では日本有数だ。

 賢治に「銀河鉄道の夜」を書かせたものは何なのか。我々は ともすると本作に流れていそうな「哲学」についつい惹かれてしまう。ジョバンニとカムパネルラが銀河を行く「死への旅」と自分の人生を重ねて読んでしまう人もいるのではないか。何の為、誰の為にカムパネルラは死ななくてはならなかったのか。賢治の説明が少ない分 解釈の余地が広い。
 但し 僕の「直感」としては 本作は賢治の「詩人魂」から出来ていると思う。「死に向かって銀河を疾走する列車」という 極めて鮮烈なイメージに賢治がとりつかれ 書き上げた一種の散文詩ではなかろうか。カムパネルラは そのイメージのためにも死ななくてはならなかったのだと思う。

 

カレー 「香鈴亭」

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 古本屋、喫茶店とくると次はカレーというのは神田だけではない。国立もカレー好きには中々ディープな街である。

 「香鈴亭」は 国立でも老舗である。先日カレー特集雑誌の表紙を飾ったところを見ると 知名度も全国区になってきたのかもしれない。それでも 相変わらず小さい店で夫婦お二人でやっている。常連客と楽しそうに話している姿も和やかである。
 出すカレーは非常に独創的である。定番のチキンカレーやビーフカレーに加えて ラムカレーなどが楽しい。また季節のカレーもある。この間はアサリのカレーであったが実に美味しい。他にアサリでカレーを作る店は 僕は寡聞にして知らない。

 二日酔いの土曜のお昼をここで食べて それからいつもの喫茶店Sに行って 苦味の強いコーヒーを飲んだ。二日酔いの窮状をマスターに訴えたが あまり聞いてもらえなかった。早く家に帰って寝たらという至極真っ当な助言に従ったことは言うまでもない。


  

また 雑木林で

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 早春といえば早春か。暖かい日に 雑木林を歩いていると 梅の開花に出会った。梅を見ていると次のような言葉を思い出した。

 「誰もがファーストネームで呼び合う社会を私は信用しない。そういう馴れ馴れしい人間に限って 暗い廊下で人を撃ったりする。」
 思わず くすりと笑ってしまう。

 日本人はファーストネームで呼び合うことは稀と言って良い。大概がファミリーネームだ。ごく親しい間や家族の中だけがファーストネームを使う場である。それだけに名前で呼ばれるとどきりとする。それに対し 欧米はむしろファーストネームで呼びあうことが普通だ。そのファーストネームで呼ぶのか ファミリーネームで呼ぶのかという 微妙な人間と人間の距離感の違いというのは 立派な比較文化論になりえるのかもしれない。

 そう考えると 上記 言葉は 日本人にとっては 一つのアイロニーに読めても 欧米人には 何がおかしいのかが 分からないのかもしれない。

 早春の雑木林で梅を愛でながら考える内容でもないかもしれないが 蟄居の暇つぶしには丁度良いかもしれない。一つ言い忘れた。上記言葉は 塩野七生からの引用である。彼女らしい スパイスの効いた言葉だ。

また 古本屋で

 僕がよく行く古本屋の店主は 暇なときには本を修理するという。一度修理しているところを見せてもらった。ボンドとへらで 本の背表紙を器用に直していくのに見惚れた。無駄が無くて 手早い指使いは職人の域に達している。そして何より 本への愛情に満ちている。

 古本屋という空間は 本への愛情がなくしては成立しえない。店主にしても 本が好きでなければ務まらないだろう。また来る客も 本好きに限られると言ってよい。本が好きな両者だからこそ 店主と客の間に会話が成り立つ。本を媒介として 個人的な関係が築かれていく過程は ほのぼのしている以上のものがある。

 思えば本というものも 作者と読者との「会話」だ。本を媒介とした人と人との関係という点では店主と客の関係とパラレルにあるのかもしれない。

 店主は一冊 一冊と本を修理していく。修理された箇所は外見からでは分からない。ボンドとへらと そして愛情で修理された本というものも ちょっと後光がさしている気もしないでもない。そんな感傷を自分に許すのも 蟄居の楽しみである。


 

「椿三十朗」 映画

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 黒澤明の映画は傑作ぞろいだ。どれが一番の傑作かという質問は意味を成さないと僕は思う。また 僕自身がそれを聞かれても 返答に困るだろう。但し「どれが一番好きか」という質問には答えられる。「椿三十郎」である。

 黒澤映画の中では 小粒である。小品と言って良い。前作の「用心棒」は このジャンルの大傑作であり いつ見ても舌を巻く。それに比べると「椿三十郎」は そもそも続編である。続編である以上 オリジナリティーが若干薄い点はやむを得ない。そんな中で 僕が本作を「買う」のは その上質のユーモアに尽きる。

 実際「椿三十朗」は笑える。黒澤明のユーモア感覚は「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」を見ても 第一級であることははっきり分かる。しかし 本作ほど その質の高さが分かる作品は他には無い。僕らは黒澤に存分に笑わさせられてしまう。しかも 実に洒落たセンスのユーモアに、 である。

 気持ちが落ち込んだ際には 是非ごらんになったらと思う。

国立の喫茶店 S で

 ここで紹介してもらったアルバムが 武久源造という盲目のチェンバリストの演奏するバッハのゴルドベルグ変奏曲であったことは前にも書いた。

 ゴルドベルグ変奏曲というと グレングールドのアルバムが「どうしても」有名になってしまうかと思う。彼が世の中に出てきたのは1955年のこの曲からだった。
 「ジャズ感覚のバッハ」という触れ込みだったらしい。とにかくその演奏は 軽くて早くてかろやかである。バロックという古めかしいジャンルを吹っ飛ばすかのような一種の「事件」であったらしい。22歳だったグールドが若さと生意気さで疾走するかのようなアルバムだ。

 そんなグールドが1982年に再度ゴルドベルグ変奏曲を演奏したことは20世紀の音楽史の歴史である。1955年度版と余りに違う演奏には深い内省を誘うものすらある。重くてゆったりとして。祈りを感じるかのような重厚な演奏だ。同じ人が30年の年月を経て演奏しなおすバッハというように定義し直すと バッハという音楽家の持つ悪魔的な魅力が分かるのかもしれない。バッハが「悪魔的」に見えないのは 題材に宗教が多いからだ。一皮剥けば 音楽という魔力に取り付かれ 悩んでいる宗教人という姿
が見える気がする。

 喫茶店Sで コーヒーを飲んでたわいないことを考える日曜の午後は 曖昧で素敵である。マスターとの五輪談義もさっき終わったところである。外は冬の雨。銀の針のような雨だ。
 

「旅の絵本」 安野光雄

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 高校時代に始めてこのシリーズを読んだ。絵本だから「読んだ」ではなくて「見た」か?それから既に20年以上経ったわけだが 今見ていても新しい発見があって楽しい。何より 本に通常低音として流れている そこはかとない旅情が素晴らしい。

 どの絵本も主人公が孤独でポツンとしている場面から始まる。やがて馬を手に入れ旅が始まる。田舎町を過ぎていく。安野が描く田舎町は 住んでいる人たちの心の温かさが伝わってくる。
 やがて主人公は 都市に入っていく。都市では大体お祭りだ。本の中から 音楽、哄笑、酔客の大騒ぎが立ち上る。確かに聞こえるような気がする。
 都市を過ぎると また鄙びた風景になる。馬を降りる。旅してきた土地に別れを告げて 海を渡っていく場面が最後だ。

 何のセリフもない。それでも 僕らは極端な程に感情移入を余儀なくされる。最後に主人公が海を渡っていく時には 僕らは海を見下ろす小高い丘に立っているのを感じる。そう 足元で踏みしだいている草を感じるような気すらする。

エリク サティの音楽とモツ鍋が似ていること

1980年代半ば。僕の前にサティが突然登場した。正確に言うと 僕の前 というよりは 時代の中に サティが現れたということかと覚えている。

 「白い音楽」というのが当時のコピーであった。CMにしても映画にしても舞台にしても それこそサティだらけという時代だった。日活ロマンポルノですら彼の音楽を起用していた程である。今になって見ると どう考えてもポルノ映画とサティは合わないと思うが それが時代だった。サティの音楽は 手っ取り早く「芸術味」を付けるのに便利だったのかもしれない。あのブームは1990年代初頭のモツ鍋ブームに重なるものがある。

 モツ鍋ブームは嵐のように日本列島を席捲し 風の様に去った。本当に美味しい店のみが残り 今日に至っている。サティも それに似て ブームが去った現在では「静かな場所」にひっそりと座っているかのような印象を受ける。サティを使うことはちょっと陳腐になってしまったかもしれない。
 しかし じっくり聞き直してみると やはり素敵な音楽である。今流行っている「癒し系」の音楽の様ではあるが それだけではない。ゆったりとした毛布の中に ちくりと針が混ざっているかのような緊張感がある。そうして それが油断できないものを感じさせる。

 モツ鍋も 今でも一年に一回くらいは食べに行く。生き残った店の鍋は 実に美味しい。そんな鍋を楽しみながら思うことは 変な形で起こったブームとは 時には色々なものを不幸にするということである。