社会の結束のリスクとは 衆議院選挙前の感想
今回の衆議院選挙の結果は未だこれからの話である訳だが、投票前の各メディアの予想を見ていると、おしなべて与党の圧倒的な勝利を見込むという意見が多い。勿論選挙の結果は終わってみないと分からない。但し、僕が今の段階で注目する点は、多くの「知識人」と言われていそうな人たちには大概は与党及び与党のリーダーに対して否定的なコメントが多いという事と、上記メディア予想との間の乖離である。知識人達も、いささかメディア予想に戸惑っている感じが強いのではないだろうか。
「民意」という、分かるようで良く分からない言葉がある。良く分からないわりにはきちんと独り歩きする言葉でもある。「独り歩き」という表現の中には「どこに歩いて行くのか分からない」という恐怖感の響きを聞くことも可能だろう。今の様々な言説の中には、そのような恐怖感が漂っている。特に「多くの知識人」の戸惑いの中には、そのような恐怖感が強くなってきている。端的に言うと、知識人達は「日本人というものが何を考えている民族なのかが分からなくなってきた」という事態に慄いているのではないだろうか。これも社会の分断の一つの姿なのかもしれない。
「社会の分断」という言葉にはネガティブなイメージがある。では「社会の結束」という言葉は良い言葉なのだろうか。ファッショというイタリア語は「結束」を意味している。「ファッショ」が何を引き起こしたのかは、20世紀前半の歴史が教えてくれる。「社会の分断」を怖れるあまり、「社会の結束」に向かうことのリスクも十分に考えなくてはならない。次の日本に訪れる「破局」とは、「社会の分断」の反作用として発生する「社会の結束」への過度な傾注から起こる可能性もある。特に「結束」の目指す方向性が、独り歩きすぎて、よく分からない場合には。