猫に惑う
近所の駐車場で猫とにらめっこしてたら、なんだか心が澄んできた。猫の瞳が本当に綺麗だからなんだろうなぁと思う。思い悩んだり、躊躇したり、妥協したり、反省したり、そんなモヤモヤを抱えることもなく奔放に暮らしてる猫を見てるとなんだか羨ましい。動物の目ってどうしてあんなにきらきらしてるんだろう。犬も鳥も猿や虫だってつぶらな瞳で世界をありのままに見てる。厳しい自然のなかで彼らも彼らなりに色々考えてるんだろうけど、“まぁいいや”って開き直って前向きに生きてる。彼らが日本語を話したら、悩んだり落ち込んでる人に、“よくわかんないけど、別にいいじゃん。好きにしなよ。”とかあっさり言って、人間は人間でなんで悩んでんのか分かんなくなってさ、“そうだよね、まぁいっか”って忘れることができる気がする。霊長類とか粋がってんのがばかばかしいよね。猿に戻れんなら戻りたいよ、こっちは。
僕はそこそこ裕福な家庭に生まれたおかげで、衣食住に困ったことはない。いい物食わしてもらってきてるから、食に対するこだわりなんかない。欲しいものも大概は買ってもらったし、やりたいことも大体やった。そうやって恵まれた環境にいたせいか世俗的な欲求が人に較べて薄い人間になった気がする。小さい頃はむしろ引け目を感じることの方が多くて、友達を家に呼ぶのが死ぬほど厭だった。なんか自分のものでない力で人から認められるのがすごく嫌いだった。自分が空っぽな人間だって思い知らされてるみたいで。そのせいか常に逃げたい衝動に駆られていて、中学高校は家から遠い場所に決めたし、大学なんてもっと遠い。自分は恥ずかしい人間で、そのみっともない所を知ってる人間に会いたくなかったのかもしれない。いまでも小学校の友達とか心底会いたくなかったりする。高校以降になると開き直って自分らしきものをボロボロ零すことに多少は慣れてきたおかげか、人格的に少しはマシになったおかげか、それ以後の自分を知る友人は貴重に思えるけど。
温室ではないにしろ、屋根くらいはついてる通路をまっすぐ歩いてきたから、その分打たれ弱い人間になったのはどこかで自覚があって、そんな自分を恥ずかしがる人間になってしまった訳だ。逞しく生きてる友人たちが羨ましかった反面、自分と同じような欠点を持つ人間は軽蔑した。両親も第三者から見れば素晴らしい人達なのかも知れないが、僕には欠点しか見えなくて、自己嫌悪に輪を掛けて嫌いだった。親と話すのは身の毛もよだつくらい厭だ。割と吐き気がする。軟弱な自分を克服するために色々な方策を講じてきたが、それらは概ね失敗に終わり、コンプレックスという名の澱となって沈んでいき、天真爛漫で八方美人で鼻につく糞ガキだった小学生は、斜に構えた可愛気のない青年へと育った。それは思春期が僕にもたらした変化だったように思う。
両親のおかげでいい目をみてきたとも言えるけれど、同時に苦しんできたとも言える。ステーキだ、スキヤキだ、しゃぶしゃぶだ、鮨だ三大珍味だと騒いでいた時期もあったのは確かだけれど、いまは納豆とか秋刀魚とかお新香とか味噌汁とかソーセージとか、素朴なものに感じる驚きの方がでかい。そういったありふれたものがごく当たり前に存在する生活は、なんだかほっとするような生活感が流れていて、安らかに暮らせる気がしている。我が家はあまり仲の良い家族じゃなかった。美味しいものはいっぱいあって、それなりに広い部屋で、自由に進学できる環境ではあったけれど、いつもどこかで乾いた風が吹く家だった。一家団欒とは言いながら、会話の途切れがちな食卓はなんだか侘しかった。表面上だけにこやかな父親、陰気な自分、控えめな母親の構図はあんまり心の温まるものじゃない。もう少し狭い家でもいい。あんまり美味しくない食事でもいい。進路なんかどうでもよかった。心の温もるような、通じ合えるものがどこかに存在していたのならね…。
まぁ程度の差こそあれ、僕らの世代の(つまりはその親の世代の家庭で育った)人間は同じようなモヤモヤを心の片隅に抱えている気がしている。塾に通ったり、習い事や勉強に追われてきたいわゆる中流以上の家庭に育った子供たち、その結果人に話せるくらいの偏差値の大学に進学した“若者”は特にその類型に当てはまる気がしている。僕の経験では。心のどこかに空洞を抱えて、それを忘れるふりをしながら仕事したり、勉強したりしているんじゃなかろうか。無気力世代とかクソッタレな括り方をよくされている僕らは、いまもどこかで“関係”とか“絆”といった単語に(意識的・無意識的に)憧れてる節がある。エヴァンゲリヲンが受けたのは偶然なんかじゃない。サマーウォーズが僕の心を絞めつけるのは、そこに描かれた家族の日常を、自分が手に入れることが出来ない事を知っているからだ。人と人との繋がりが薄まった今の時代では、家族であっても絆なんてものを求めにくいことを知っているからだ。
何か温かいものへの憧れ…多分僕の場合は金銭では贖えない。親の二の舞をするだけのような気がしている。傲慢になった自分に気付けないのは厭だ。頭を冷やしながら考えてはいるが結論はまだ出ない。もう一人の僕は明快に語りかけているけれど。そして時間をかける問題でもきっとないんだろう。切羽詰った右足はいずれ踏み出さないといけない。そういうもんだと思う。希望はいつか不安を乗り越える。
猫の深い眼差しには知性がある。彼らはきっと、車道に飛び出せば車に轢かれることくらい分かっている。彼らはそれでも道路を渡らないといけない。それだけの理由が彼らにはあるんだろう。訳知り顔で猫に注意したところで、猫がいずれは道路を横切るのなら、僕達にできることは猫の無事を祈ることだけだ。平たくなった彼らを悼むよりもまず、次に走りだす猫の今を見守るべきだろう。結局猫には気持ちなんか通じっこないんだから。
僕はそこそこ裕福な家庭に生まれたおかげで、衣食住に困ったことはない。いい物食わしてもらってきてるから、食に対するこだわりなんかない。欲しいものも大概は買ってもらったし、やりたいことも大体やった。そうやって恵まれた環境にいたせいか世俗的な欲求が人に較べて薄い人間になった気がする。小さい頃はむしろ引け目を感じることの方が多くて、友達を家に呼ぶのが死ぬほど厭だった。なんか自分のものでない力で人から認められるのがすごく嫌いだった。自分が空っぽな人間だって思い知らされてるみたいで。そのせいか常に逃げたい衝動に駆られていて、中学高校は家から遠い場所に決めたし、大学なんてもっと遠い。自分は恥ずかしい人間で、そのみっともない所を知ってる人間に会いたくなかったのかもしれない。いまでも小学校の友達とか心底会いたくなかったりする。高校以降になると開き直って自分らしきものをボロボロ零すことに多少は慣れてきたおかげか、人格的に少しはマシになったおかげか、それ以後の自分を知る友人は貴重に思えるけど。
温室ではないにしろ、屋根くらいはついてる通路をまっすぐ歩いてきたから、その分打たれ弱い人間になったのはどこかで自覚があって、そんな自分を恥ずかしがる人間になってしまった訳だ。逞しく生きてる友人たちが羨ましかった反面、自分と同じような欠点を持つ人間は軽蔑した。両親も第三者から見れば素晴らしい人達なのかも知れないが、僕には欠点しか見えなくて、自己嫌悪に輪を掛けて嫌いだった。親と話すのは身の毛もよだつくらい厭だ。割と吐き気がする。軟弱な自分を克服するために色々な方策を講じてきたが、それらは概ね失敗に終わり、コンプレックスという名の澱となって沈んでいき、天真爛漫で八方美人で鼻につく糞ガキだった小学生は、斜に構えた可愛気のない青年へと育った。それは思春期が僕にもたらした変化だったように思う。
両親のおかげでいい目をみてきたとも言えるけれど、同時に苦しんできたとも言える。ステーキだ、スキヤキだ、しゃぶしゃぶだ、鮨だ三大珍味だと騒いでいた時期もあったのは確かだけれど、いまは納豆とか秋刀魚とかお新香とか味噌汁とかソーセージとか、素朴なものに感じる驚きの方がでかい。そういったありふれたものがごく当たり前に存在する生活は、なんだかほっとするような生活感が流れていて、安らかに暮らせる気がしている。我が家はあまり仲の良い家族じゃなかった。美味しいものはいっぱいあって、それなりに広い部屋で、自由に進学できる環境ではあったけれど、いつもどこかで乾いた風が吹く家だった。一家団欒とは言いながら、会話の途切れがちな食卓はなんだか侘しかった。表面上だけにこやかな父親、陰気な自分、控えめな母親の構図はあんまり心の温まるものじゃない。もう少し狭い家でもいい。あんまり美味しくない食事でもいい。進路なんかどうでもよかった。心の温もるような、通じ合えるものがどこかに存在していたのならね…。
まぁ程度の差こそあれ、僕らの世代の(つまりはその親の世代の家庭で育った)人間は同じようなモヤモヤを心の片隅に抱えている気がしている。塾に通ったり、習い事や勉強に追われてきたいわゆる中流以上の家庭に育った子供たち、その結果人に話せるくらいの偏差値の大学に進学した“若者”は特にその類型に当てはまる気がしている。僕の経験では。心のどこかに空洞を抱えて、それを忘れるふりをしながら仕事したり、勉強したりしているんじゃなかろうか。無気力世代とかクソッタレな括り方をよくされている僕らは、いまもどこかで“関係”とか“絆”といった単語に(意識的・無意識的に)憧れてる節がある。エヴァンゲリヲンが受けたのは偶然なんかじゃない。サマーウォーズが僕の心を絞めつけるのは、そこに描かれた家族の日常を、自分が手に入れることが出来ない事を知っているからだ。人と人との繋がりが薄まった今の時代では、家族であっても絆なんてものを求めにくいことを知っているからだ。
何か温かいものへの憧れ…多分僕の場合は金銭では贖えない。親の二の舞をするだけのような気がしている。傲慢になった自分に気付けないのは厭だ。頭を冷やしながら考えてはいるが結論はまだ出ない。もう一人の僕は明快に語りかけているけれど。そして時間をかける問題でもきっとないんだろう。切羽詰った右足はいずれ踏み出さないといけない。そういうもんだと思う。希望はいつか不安を乗り越える。
猫の深い眼差しには知性がある。彼らはきっと、車道に飛び出せば車に轢かれることくらい分かっている。彼らはそれでも道路を渡らないといけない。それだけの理由が彼らにはあるんだろう。訳知り顔で猫に注意したところで、猫がいずれは道路を横切るのなら、僕達にできることは猫の無事を祈ることだけだ。平たくなった彼らを悼むよりもまず、次に走りだす猫の今を見守るべきだろう。結局猫には気持ちなんか通じっこないんだから。
東北地方太平洋沖地震
地震、津波、原発、どれも過去最低水準の災害。関東では今も一時間に一回くらいの頻度で余震が起きていて、テレビには嘘みたいな映像が流れてる。東北で罹災した人たちの、家を流されたり、安否の分からない家族・友人への心配、避難場所での心細い気持ちを考えると胸が痛む。何もできることのない僕らは、いまはただ祈るしかない。 また更新できればしよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/2011%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87#.E5.8E.9F.E5.AD.90.E5.8A.9B.E7.99.BA.E9.9B.BB.E6.89.80
↑Wikipediaにはもう詳細な情報が集まってます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/2011%E5%B9%B4%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87#.E5.8E.9F.E5.AD.90.E5.8A.9B.E7.99.BA.E9.9B.BB.E6.89.80
↑Wikipediaにはもう詳細な情報が集まってます。
Too late To die
世の中下らないことばかりだ。予測通りになったことなんて一度もない。下らない風に惑わされ、下らない波に翻弄されて、下らない結論が導かれる。自分の小賢しい、その場限りの決断のせいで、暴風雨に曝されながら、それでもなんとか舵取りしないといけない。鮪がいれば鮪を釣り、カジキがいればカジキを釣り、何がいるのか分からなければ取り敢えず釣り糸を垂れる。船さえ沈まなければ、いずれ嵐は抜け出すだろう。その場限りの決断でもしないよりはマシだ。あるホステスが言った。結婚なんて、タイミングと縁なのだと。自分で決められることが限られているのなら、時間に身を任せることもいいだろう。この下らない時代に、それでも下らない決断を下すこと、それ自体に意味がある。下らない銀座というきらびやかな街で、下らない大人たちが下らない夢を散らす。下らない空には、今日も下らない星が瞬いて、下らない僕を見守っている。夢のなかで歌い上げよう。暴風雨はいずれ平穏な波に破られる。信じられることなど何も無い。予言や宗教や運命論は僕を救わない。一番下らない自分こそが、唯一この下らぬ現実世界を打破する鍵なのだ。いつかこの下らぬ現実を絞め殺すその日まで、僕は釣り糸を垂れよう。波と戯れよう。波の下に眠る、安らかな魂にそう誓ったのだ。僕は今日も生きている。
第144回芥川賞選評を読んだので、感想文
悲しいお知らせである。とても悲しい。僕が四半世紀以上にわたって守り抜いてきた玄人童貞を本日喪失するはこびとなった。ただしヘルスなので嚴密にいえば“事実上”という前置きがつく。某亀君の熱心な説得がついに実を結んだのである。僕からまた一つ天真爛漫な純潔が大手を振って去ってゆき、もはや残ったのは尻の穴の処女性だけである。これだけはなんとしても死力を尽くして守らねばならん。準備はまるで整っていないにも関わらず、環境だけが僕を大人に仕立て上げる。こうして星空を見ていた少年は、このように飯櫃だけを眺める醜悪な存在に変貌するのである。亀君、ありがとう。皮肉ではなく。
このまま僕のヘルスヴァージン・喪失記を微に入り細をうがって書き連ねても良いのだけれど、書いてる本人も含めてブログに関わる全員が損するだけなので、一応やめておく。語るべきことはあるようでいて、ないのだ。ちなみに僕はこの三週間で「金閣寺」「潮騒」「青の時代」を読了して、いま「禁色」を読んでいる。釈明のつもりである。
前置きが長くなってしまったが、今月10日に出た文藝春秋をようやく手に入れた。慎太郎の選評を含めて両作品「苦行列車」「きことわ」を取り巻く世間の反応は気になっていたので、思ったことを書き記しておきたいと思う。本来ならここで二作品を精読して(この前のエントリでは30分くらいで通読しただけなので)、その感想も書くつもりだったのだけれど、残念ながら、ヘルス嬢のせいで気が昂ぶって小説の内容がまるで頭に入らないので、それは別の機会にとっておく。ありがとう亀君。心から。
絶賛発売中の文藝春秋3月号であるが、実はその選評の要旨はネットにアップされていたりする。芥川賞のすべて、のようなもの。(ちなみに苦役列車は試し読みできる)あんなジジイ臭い雑誌店頭で買うのはちょっと、という人ももし時間があれば確認してみれば良いと思う。店員に確認したところ、今月号の売れ行きは例年の受賞作発表号に較べてもよく売れてるのだとか。新宿の紀伊国屋で売り切れていたほどだから。それだけ世間の注目度が高いということなのだろう。
で、選評について。僕は技巧的にも情緒的にも無難な「きことわ」は評価されて、「苦役列車」の方は賛否両論の色物扱いかと思っていたが、意外にも両作ともに概ね好意的なコメントが目立っていた。「きことわ」に関しては、
◎高樹のぶ子
触覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして視覚を、間断なく刺激する作品、この受感の鋭さは天性の資質だ。(中略)さらに言えば、文章に韻律というかリズムがあり、これも計算されたというより、作者の体内から出てくるもののように感じた。
◎池澤夏樹
時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは希有な成功例と言うことができる。
◎宮本輝
ジグソーパズルの小さなピースに精密でイメージ喚起力の強い図版が描かれてあって、そのピースを嵌め込んで完成した全体図は奇妙に曖昧模糊とした妖しい抽象画(中略)その難易度の高い絵画的手法を小説の世界でやっておけた二十六歳の才能はたいしたものだと思う。
○山田詠美&○黒井千次と5人が賞賛。それに対して
△島田雅彦
この作品はその技術、才能の紛れもない証拠ではあるけれども、まだ彼女自身が真に書くべき素材、とらえどころのない夢を生け捕りにしたり、忘れられそうな歴史と格闘する困難には出会っていない、と「美女に優しく、野郎に厳しい」と思われがちな私はいいたい。
■川上弘美
読む快楽を十分に感じながら読みつつ、わたしはいくつかの表現に首をかしげました。(中略)どれも「絶対にだめ」という表現ではないのですが、この小説の(中略)「意匠としての言葉のゆらぎ」にあらざる「単なる表現の揺れ」は、ごくオーソドックスな小説よりも遥かに大きな疵となってしまうのではないかと思うのです。
■石原慎太郎
読みながらすぐにプルーストを想起したが、人間の意識に身体性がないとはいわないが、プルーストやジョイスが苦手な私にはいささか冗漫、退屈の感が否めなかった。ある時点での意識を表象するディテイルの描写にもむらがあるような気がする。
と三人が辛口。しかしダメ出しをしつつも全員が、小説に流れる独特の情緒・時間処理の巧さを高く評価している。これがダメ、というよりはより高みを目指すための、箴言のようなものを敢えて書いた印象を受ける。彼らは偏屈の国に住む偏屈な芸術家たちだから、感性にそぐわないものには遠慮呵責なく攻撃するので、この文脈ではむしろ賛辞の方がより近いと書いておく。
で、西村賢太「苦役列車」。
○島田雅彦
社会や政治を呪うことさえできず、何事も身近な他人のせいにするその駄目っぷりだが、随所に自己戯画化が施してあり、笑える。
○山田詠美
この愛すべきろくでなしの苦役が芥川賞につながったかと思うと愉快でたまらない。私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品。
○宮本輝
主人公が外の世界、たとえば荷役会社での重労働や、そこで働く多くの人間とのつながりが描かれたことで、氏の独特の私小説世界に、息づく生な世の中が加味された。それは「苦役列車」に小説として文字どおり「面白さ」をもたらしたのだ。(中略)基礎的な強い文章力があればこその副産物であって、出会い頭に偶然に生まれた面白さではない。
&○黒井千次で四人が高評価。そして…
◎石原慎太郎
この作者の「どうせ俺は――」といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジュニュインなるものを感じさせてくれる。(中略)この豊穣な甘えた時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である。昔、(中略)池田得太郎の「家畜小屋」という作品を褒めた誰かが、「色の黒いの七難隠す」といっていたが、この作家の特性もそれに繋がるものと思う。
慎太郎なんと絶賛。都知事は酷評ばかり書くので、瑕瑾に指を突っ込まない時は手放しの称賛だと思っていい。高評価で、かつ一作品に40行も割くのはここ15年で三作品。オリンピックも霞む栄光を賢太は勝ち取ったことになる。これは名誉なことであると声を大にして言いたい。で、評価が△以下の選考委員も4人いるけれど、それと分かる批判・ダメ出しはない。評価の高低は作品の出来云々というよりは好みの問題なのかなと思う。女性からは酷評されると予想したが、案外そんなでもなかったことには驚いた。
という訳で「きことわ」「苦役列車」ともに近年稀に見る高評価であったことはお伝えしておきたい。特に、慎太郎&テルのペアから酷評が消え去ったことは素直に慶賀すべきである。…ただ一読者としてのごく主観的な批評をチラリと吐露すれば、両作の出来が真に素晴らしいというより、近年の受賞作が酷すぎたのではないか、という気も正直している。芥川賞とは本来こうあるべきものだったのではないか?居丈高な論評が更に許されるとすれば、今回の受賞作は良く出来てはいるが何か足りない、そんな感触も少しある。ここで上では敢えて加えなかった意外な選考委員の選評を。
□村上龍
(引用者注:両作共に)相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である。(中略)作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。(中略)一般論としてだが、高度な洗練は、この閉鎖的な現実を目の前にしたとき、作品を陳腐化する場合がある。
つまらない(文体の洗練されていない)作品にも高評価を与えるので、僕は村上龍がてっきり審美眼の鈍い選者なのかと思っていたが、どうやら視点が違うだけで厳しく作品を見ていたことに気付かされた。彼の言うテーマとは、意訳すれば「新しさ」だと思う。実験的な文体(ある意味残念な・未映子とか王太郎)にエールを送っていた理由は、文学の新境地を切り拓こうとした気概や気負いを評価したのだろう。彼の批評を読んで、靄のように漂っていた違和感が少し形になった。
僕は第144回芥川賞ではばたく二人の作家の門出を祝ぐとともに、概ね村上龍の選評を支持する。特に曖昧、という形容動詞にいたく共感するものがある。「きことわ」にせよ「苦役列車」にせよ、純文学の様式は存分に満たしているが、純文学本来の、何か「渇望」に似た強い意志が内在していないように思う。極端に書けば「きことわ」は描写の枠からはみ出るものが少ないし、「苦役列車」は自虐的な日記という域を超えない。形式を満たせば純文学で、更に面白みがあれば名作かと問われると僕は答えに詰まる。
名作の僕なりの勝手な基準は、その小説がどれだけ深く僕自身を「突き刺す」か、という点にあるように思う。価値観を揺さぶり、不条理な切所に立たし、不愉快な吐き気に安っぽい幸福や偽善を重ねて塗り固められた汚物や異形のグロテスクな塊を、鮮やかで輝くような文体で鋭利に投げつける、それが純文学の醍醐味じゃなかろうかと思う。僕自身の偏った価値観であることは素直に認めたうえで、そういった個々人の期待する「ナニモノか」に応えるのが、自慰的に排他を求める“純”というけったいな漢字を冠っている文学の矜恃なのではなかろうか。
石原慎太郎の言うように、“甘ったれた”平成を生きる一人の青年として、迷い、悩み、苦しみから嘔吐や逃避や悲鳴を導く現状への怒り、哀しみの妖しい沈殿を焼却するには、彼らの文学の内包する“心”の熱量はいかにも心細い。この平成に生まれるべき名作とは、そんな小説ではないかと願う。し、そうあるべきだと感じている。
第144回平成22年度下半期芥川賞受賞作は、近年稀に見る素晴らしい出来の二作品に決まった。個人的には『苦役列車』のひどく醜い描写が流儀の、旧い私小説の自虐的なユーモアを交えた面白さには感動した。それらは消滅を危惧されていた純文学という、時代錯誤な表現様式に喝を入れる事ができるかも知れない。ただし彼らの作品が、この平成に生きる、俯き加減の我々日本人の仮面を貫いてその魂に届くようになるまでにはおそらく、精神的・空間的・時間的な飛躍が必要なのだろう。期待はしていいに違いない。ただ浮かれるには、まだまだ早いのだと思う。
関連:2010年下半期芥川賞(2011/01/18)
引用元:http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/index.htm
撒餌的なワード: 昇天 苦行列車 苦役列車 きことわ 西村賢太 2010下半期 2011上半期 朝吹真理子 芥川賞 選評 文藝春秋 石原慎太郎 宮本輝 村上龍 自慰 自己満 ヘルス・ヴァージン喪失記
>

苦役列車 西村賢太 著/新潮社

¥1,260
きことわ

¥1,260
文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]/著者不明

選評の全文及び受賞作全文、さらに西村賢太のチャーミングなインタビューと朝吹真理子のハイソでなんか癇に障るインタビュー記事つきでなんと¥860
曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。
そしてたて続けにハイライトをふかしつつ、さて今日は仕事にゆこうかゆくまいか、その朝もまたひとしきり、自らの胸と相談をするのであった。
その貫多は十日ばかり前に十九歳となっていたが、未だ相も変わらず日雇いの港湾人足仕事で生計を立てていた。……
あ、苦役列車冒頭載せときます 試し読みはこれの45倍量あるので気になる方はどうぞ
このまま僕のヘルスヴァージン・喪失記を微に入り細をうがって書き連ねても良いのだけれど、書いてる本人も含めてブログに関わる全員が損するだけなので、一応やめておく。語るべきことはあるようでいて、ないのだ。ちなみに僕はこの三週間で「金閣寺」「潮騒」「青の時代」を読了して、いま「禁色」を読んでいる。釈明のつもりである。
前置きが長くなってしまったが、今月10日に出た文藝春秋をようやく手に入れた。慎太郎の選評を含めて両作品「苦行列車」「きことわ」を取り巻く世間の反応は気になっていたので、思ったことを書き記しておきたいと思う。本来ならここで二作品を精読して(この前のエントリでは30分くらいで通読しただけなので)、その感想も書くつもりだったのだけれど、残念ながら、ヘルス嬢のせいで気が昂ぶって小説の内容がまるで頭に入らないので、それは別の機会にとっておく。ありがとう亀君。心から。
絶賛発売中の文藝春秋3月号であるが、実はその選評の要旨はネットにアップされていたりする。芥川賞のすべて、のようなもの。(ちなみに苦役列車は試し読みできる)あんなジジイ臭い雑誌店頭で買うのはちょっと、という人ももし時間があれば確認してみれば良いと思う。店員に確認したところ、今月号の売れ行きは例年の受賞作発表号に較べてもよく売れてるのだとか。新宿の紀伊国屋で売り切れていたほどだから。それだけ世間の注目度が高いということなのだろう。
で、選評について。僕は技巧的にも情緒的にも無難な「きことわ」は評価されて、「苦役列車」の方は賛否両論の色物扱いかと思っていたが、意外にも両作ともに概ね好意的なコメントが目立っていた。「きことわ」に関しては、
◎高樹のぶ子
触覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして視覚を、間断なく刺激する作品、この受感の鋭さは天性の資質だ。(中略)さらに言えば、文章に韻律というかリズムがあり、これも計算されたというより、作者の体内から出てくるもののように感じた。
◎池澤夏樹
時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは希有な成功例と言うことができる。
◎宮本輝
ジグソーパズルの小さなピースに精密でイメージ喚起力の強い図版が描かれてあって、そのピースを嵌め込んで完成した全体図は奇妙に曖昧模糊とした妖しい抽象画(中略)その難易度の高い絵画的手法を小説の世界でやっておけた二十六歳の才能はたいしたものだと思う。
○山田詠美&○黒井千次と5人が賞賛。それに対して
△島田雅彦
この作品はその技術、才能の紛れもない証拠ではあるけれども、まだ彼女自身が真に書くべき素材、とらえどころのない夢を生け捕りにしたり、忘れられそうな歴史と格闘する困難には出会っていない、と「美女に優しく、野郎に厳しい」と思われがちな私はいいたい。
■川上弘美
読む快楽を十分に感じながら読みつつ、わたしはいくつかの表現に首をかしげました。(中略)どれも「絶対にだめ」という表現ではないのですが、この小説の(中略)「意匠としての言葉のゆらぎ」にあらざる「単なる表現の揺れ」は、ごくオーソドックスな小説よりも遥かに大きな疵となってしまうのではないかと思うのです。
■石原慎太郎
読みながらすぐにプルーストを想起したが、人間の意識に身体性がないとはいわないが、プルーストやジョイスが苦手な私にはいささか冗漫、退屈の感が否めなかった。ある時点での意識を表象するディテイルの描写にもむらがあるような気がする。
と三人が辛口。しかしダメ出しをしつつも全員が、小説に流れる独特の情緒・時間処理の巧さを高く評価している。これがダメ、というよりはより高みを目指すための、箴言のようなものを敢えて書いた印象を受ける。彼らは偏屈の国に住む偏屈な芸術家たちだから、感性にそぐわないものには遠慮呵責なく攻撃するので、この文脈ではむしろ賛辞の方がより近いと書いておく。
で、西村賢太「苦役列車」。
○島田雅彦
社会や政治を呪うことさえできず、何事も身近な他人のせいにするその駄目っぷりだが、随所に自己戯画化が施してあり、笑える。
○山田詠美
この愛すべきろくでなしの苦役が芥川賞につながったかと思うと愉快でたまらない。私小説が、実は最高に巧妙に仕組まれたただならぬフィクションであると証明したような作品。
○宮本輝
主人公が外の世界、たとえば荷役会社での重労働や、そこで働く多くの人間とのつながりが描かれたことで、氏の独特の私小説世界に、息づく生な世の中が加味された。それは「苦役列車」に小説として文字どおり「面白さ」をもたらしたのだ。(中略)基礎的な強い文章力があればこその副産物であって、出会い頭に偶然に生まれた面白さではない。
&○黒井千次で四人が高評価。そして…
◎石原慎太郎
この作者の「どうせ俺は――」といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジュニュインなるものを感じさせてくれる。(中略)この豊穣な甘えた時代にあって、彼の反逆的な一種のピカレスクは極めて新鮮である。昔、(中略)池田得太郎の「家畜小屋」という作品を褒めた誰かが、「色の黒いの七難隠す」といっていたが、この作家の特性もそれに繋がるものと思う。
慎太郎なんと絶賛。都知事は酷評ばかり書くので、瑕瑾に指を突っ込まない時は手放しの称賛だと思っていい。高評価で、かつ一作品に40行も割くのはここ15年で三作品。オリンピックも霞む栄光を賢太は勝ち取ったことになる。これは名誉なことであると声を大にして言いたい。で、評価が△以下の選考委員も4人いるけれど、それと分かる批判・ダメ出しはない。評価の高低は作品の出来云々というよりは好みの問題なのかなと思う。女性からは酷評されると予想したが、案外そんなでもなかったことには驚いた。
という訳で「きことわ」「苦役列車」ともに近年稀に見る高評価であったことはお伝えしておきたい。特に、慎太郎&テルのペアから酷評が消え去ったことは素直に慶賀すべきである。…ただ一読者としてのごく主観的な批評をチラリと吐露すれば、両作の出来が真に素晴らしいというより、近年の受賞作が酷すぎたのではないか、という気も正直している。芥川賞とは本来こうあるべきものだったのではないか?居丈高な論評が更に許されるとすれば、今回の受賞作は良く出来てはいるが何か足りない、そんな感触も少しある。ここで上では敢えて加えなかった意外な選考委員の選評を。
□村上龍
(引用者注:両作共に)相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である。(中略)作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実と対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。新人作家に対し、このような注文をつけるのは、『きことわ』と『苦役列車』が質の高い作品だとわたしが認めているからである。(中略)一般論としてだが、高度な洗練は、この閉鎖的な現実を目の前にしたとき、作品を陳腐化する場合がある。
つまらない(文体の洗練されていない)作品にも高評価を与えるので、僕は村上龍がてっきり審美眼の鈍い選者なのかと思っていたが、どうやら視点が違うだけで厳しく作品を見ていたことに気付かされた。彼の言うテーマとは、意訳すれば「新しさ」だと思う。実験的な文体(ある意味残念な・未映子とか王太郎)にエールを送っていた理由は、文学の新境地を切り拓こうとした気概や気負いを評価したのだろう。彼の批評を読んで、靄のように漂っていた違和感が少し形になった。
僕は第144回芥川賞ではばたく二人の作家の門出を祝ぐとともに、概ね村上龍の選評を支持する。特に曖昧、という形容動詞にいたく共感するものがある。「きことわ」にせよ「苦役列車」にせよ、純文学の様式は存分に満たしているが、純文学本来の、何か「渇望」に似た強い意志が内在していないように思う。極端に書けば「きことわ」は描写の枠からはみ出るものが少ないし、「苦役列車」は自虐的な日記という域を超えない。形式を満たせば純文学で、更に面白みがあれば名作かと問われると僕は答えに詰まる。
名作の僕なりの勝手な基準は、その小説がどれだけ深く僕自身を「突き刺す」か、という点にあるように思う。価値観を揺さぶり、不条理な切所に立たし、不愉快な吐き気に安っぽい幸福や偽善を重ねて塗り固められた汚物や異形のグロテスクな塊を、鮮やかで輝くような文体で鋭利に投げつける、それが純文学の醍醐味じゃなかろうかと思う。僕自身の偏った価値観であることは素直に認めたうえで、そういった個々人の期待する「ナニモノか」に応えるのが、自慰的に排他を求める“純”というけったいな漢字を冠っている文学の矜恃なのではなかろうか。
石原慎太郎の言うように、“甘ったれた”平成を生きる一人の青年として、迷い、悩み、苦しみから嘔吐や逃避や悲鳴を導く現状への怒り、哀しみの妖しい沈殿を焼却するには、彼らの文学の内包する“心”の熱量はいかにも心細い。この平成に生まれるべき名作とは、そんな小説ではないかと願う。し、そうあるべきだと感じている。
第144回平成22年度下半期芥川賞受賞作は、近年稀に見る素晴らしい出来の二作品に決まった。個人的には『苦役列車』のひどく醜い描写が流儀の、旧い私小説の自虐的なユーモアを交えた面白さには感動した。それらは消滅を危惧されていた純文学という、時代錯誤な表現様式に喝を入れる事ができるかも知れない。ただし彼らの作品が、この平成に生きる、俯き加減の我々日本人の仮面を貫いてその魂に届くようになるまでにはおそらく、精神的・空間的・時間的な飛躍が必要なのだろう。期待はしていいに違いない。ただ浮かれるには、まだまだ早いのだと思う。
関連:2010年下半期芥川賞(2011/01/18)
引用元:http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/index.htm
撒餌的なワード: 昇天 苦行列車 苦役列車 きことわ 西村賢太 2010下半期 2011上半期 朝吹真理子 芥川賞 選評 文藝春秋 石原慎太郎 宮本輝 村上龍 自慰 自己満 ヘルス・ヴァージン喪失記
>

苦役列車 西村賢太 著/新潮社
¥1,260
きことわ
¥1,260
文藝春秋 2011年 03月号 [雑誌]/著者不明

選評の全文及び受賞作全文、さらに西村賢太のチャーミングなインタビューと朝吹真理子のハイソでなんか癇に障るインタビュー記事つきでなんと¥860
曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。
そしてたて続けにハイライトをふかしつつ、さて今日は仕事にゆこうかゆくまいか、その朝もまたひとしきり、自らの胸と相談をするのであった。
その貫多は十日ばかり前に十九歳となっていたが、未だ相も変わらず日雇いの港湾人足仕事で生計を立てていた。……
あ、苦役列車冒頭載せときます 試し読みはこれの45倍量あるので気になる方はどうぞ
俺のホリエモンがこんなに可愛いわけがない
激論!日本は本当にダメな国なのか?!
司会: 田原 総一朗
進行: 長野 智子・渡辺 宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)
パネリスト: 大塚耕平(厚生労働副大臣、民主党・参議院議員 51)
齋藤健(自民党・衆議院議員 51)
松田公太(みんなの党・参議院議員 42)
辻元清美(無所属・衆議院議員 50)
東浩紀(批評家・作家 39)
飯田泰之(駒沢大学准教授 35)
猪瀬直樹(東京都副知事、作家 64)
金美齢(評論家、JET日本語学校理事長 76)
竹田恒泰(慶応大学講師 36)
津田大介(ジャーナリスト 37)
堀江貴文(元ライブドア社長 38)
夏野剛(慶応大学大学院教授 45)
動画観直してみたんだけど、ホリエモンやあずまんの意見は他のパネリストと角度が違うのか、新しすぎるのか、漠然としている印象がある。分かるようでよく分からん。そのくせ揚げ足を狙ったり、都合の良い議論展開をしたり、勢いで極論出して意見を穴だらけにしていくから、受け入れる気がまるで起きない。ただ一部のネット市民の中には支持する向きもあるらしい。個人的にも、漠然と彼ら二人の言いたいことを掬いとればそれとなく正論を吐いてる気がせんでもない。
堀江のいうことがおかしいとは思わない。
国家とか国境とか単なる空想の産物/『想像の共同体』的なもんに執着してどうすんのよ?って話。
もっと個々人ベースの実利に基づきましょうよ、って話。
というコメントもありました。今もすごい勢いでコメント伸びてるので優雅な休日を過ごしている人は確認してみても良いかもしれませんね。ストレス耐性低い人にはオススメしないが。ホリエモンとあずまんの主張を正しく理解できた人は俺に論旨教えてください。では、御機嫌よう。良い休日を。俺は二日酔いなのでこの一日は棒に振ります。
追記:http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10790687425.htmlこんなものが キモいのがいっぱい湧いてやがる