猫に惑う
近所の駐車場で猫とにらめっこしてたら、なんだか心が澄んできた。猫の瞳が本当に綺麗だからなんだろうなぁと思う。思い悩んだり、躊躇したり、妥協したり、反省したり、そんなモヤモヤを抱えることもなく奔放に暮らしてる猫を見てるとなんだか羨ましい。動物の目ってどうしてあんなにきらきらしてるんだろう。犬も鳥も猿や虫だってつぶらな瞳で世界をありのままに見てる。厳しい自然のなかで彼らも彼らなりに色々考えてるんだろうけど、“まぁいいや”って開き直って前向きに生きてる。彼らが日本語を話したら、悩んだり落ち込んでる人に、“よくわかんないけど、別にいいじゃん。好きにしなよ。”とかあっさり言って、人間は人間でなんで悩んでんのか分かんなくなってさ、“そうだよね、まぁいっか”って忘れることができる気がする。霊長類とか粋がってんのがばかばかしいよね。猿に戻れんなら戻りたいよ、こっちは。
僕はそこそこ裕福な家庭に生まれたおかげで、衣食住に困ったことはない。いい物食わしてもらってきてるから、食に対するこだわりなんかない。欲しいものも大概は買ってもらったし、やりたいことも大体やった。そうやって恵まれた環境にいたせいか世俗的な欲求が人に較べて薄い人間になった気がする。小さい頃はむしろ引け目を感じることの方が多くて、友達を家に呼ぶのが死ぬほど厭だった。なんか自分のものでない力で人から認められるのがすごく嫌いだった。自分が空っぽな人間だって思い知らされてるみたいで。そのせいか常に逃げたい衝動に駆られていて、中学高校は家から遠い場所に決めたし、大学なんてもっと遠い。自分は恥ずかしい人間で、そのみっともない所を知ってる人間に会いたくなかったのかもしれない。いまでも小学校の友達とか心底会いたくなかったりする。高校以降になると開き直って自分らしきものをボロボロ零すことに多少は慣れてきたおかげか、人格的に少しはマシになったおかげか、それ以後の自分を知る友人は貴重に思えるけど。
温室ではないにしろ、屋根くらいはついてる通路をまっすぐ歩いてきたから、その分打たれ弱い人間になったのはどこかで自覚があって、そんな自分を恥ずかしがる人間になってしまった訳だ。逞しく生きてる友人たちが羨ましかった反面、自分と同じような欠点を持つ人間は軽蔑した。両親も第三者から見れば素晴らしい人達なのかも知れないが、僕には欠点しか見えなくて、自己嫌悪に輪を掛けて嫌いだった。親と話すのは身の毛もよだつくらい厭だ。割と吐き気がする。軟弱な自分を克服するために色々な方策を講じてきたが、それらは概ね失敗に終わり、コンプレックスという名の澱となって沈んでいき、天真爛漫で八方美人で鼻につく糞ガキだった小学生は、斜に構えた可愛気のない青年へと育った。それは思春期が僕にもたらした変化だったように思う。
両親のおかげでいい目をみてきたとも言えるけれど、同時に苦しんできたとも言える。ステーキだ、スキヤキだ、しゃぶしゃぶだ、鮨だ三大珍味だと騒いでいた時期もあったのは確かだけれど、いまは納豆とか秋刀魚とかお新香とか味噌汁とかソーセージとか、素朴なものに感じる驚きの方がでかい。そういったありふれたものがごく当たり前に存在する生活は、なんだかほっとするような生活感が流れていて、安らかに暮らせる気がしている。我が家はあまり仲の良い家族じゃなかった。美味しいものはいっぱいあって、それなりに広い部屋で、自由に進学できる環境ではあったけれど、いつもどこかで乾いた風が吹く家だった。一家団欒とは言いながら、会話の途切れがちな食卓はなんだか侘しかった。表面上だけにこやかな父親、陰気な自分、控えめな母親の構図はあんまり心の温まるものじゃない。もう少し狭い家でもいい。あんまり美味しくない食事でもいい。進路なんかどうでもよかった。心の温もるような、通じ合えるものがどこかに存在していたのならね…。
まぁ程度の差こそあれ、僕らの世代の(つまりはその親の世代の家庭で育った)人間は同じようなモヤモヤを心の片隅に抱えている気がしている。塾に通ったり、習い事や勉強に追われてきたいわゆる中流以上の家庭に育った子供たち、その結果人に話せるくらいの偏差値の大学に進学した“若者”は特にその類型に当てはまる気がしている。僕の経験では。心のどこかに空洞を抱えて、それを忘れるふりをしながら仕事したり、勉強したりしているんじゃなかろうか。無気力世代とかクソッタレな括り方をよくされている僕らは、いまもどこかで“関係”とか“絆”といった単語に(意識的・無意識的に)憧れてる節がある。エヴァンゲリヲンが受けたのは偶然なんかじゃない。サマーウォーズが僕の心を絞めつけるのは、そこに描かれた家族の日常を、自分が手に入れることが出来ない事を知っているからだ。人と人との繋がりが薄まった今の時代では、家族であっても絆なんてものを求めにくいことを知っているからだ。
何か温かいものへの憧れ…多分僕の場合は金銭では贖えない。親の二の舞をするだけのような気がしている。傲慢になった自分に気付けないのは厭だ。頭を冷やしながら考えてはいるが結論はまだ出ない。もう一人の僕は明快に語りかけているけれど。そして時間をかける問題でもきっとないんだろう。切羽詰った右足はいずれ踏み出さないといけない。そういうもんだと思う。希望はいつか不安を乗り越える。
猫の深い眼差しには知性がある。彼らはきっと、車道に飛び出せば車に轢かれることくらい分かっている。彼らはそれでも道路を渡らないといけない。それだけの理由が彼らにはあるんだろう。訳知り顔で猫に注意したところで、猫がいずれは道路を横切るのなら、僕達にできることは猫の無事を祈ることだけだ。平たくなった彼らを悼むよりもまず、次に走りだす猫の今を見守るべきだろう。結局猫には気持ちなんか通じっこないんだから。
僕はそこそこ裕福な家庭に生まれたおかげで、衣食住に困ったことはない。いい物食わしてもらってきてるから、食に対するこだわりなんかない。欲しいものも大概は買ってもらったし、やりたいことも大体やった。そうやって恵まれた環境にいたせいか世俗的な欲求が人に較べて薄い人間になった気がする。小さい頃はむしろ引け目を感じることの方が多くて、友達を家に呼ぶのが死ぬほど厭だった。なんか自分のものでない力で人から認められるのがすごく嫌いだった。自分が空っぽな人間だって思い知らされてるみたいで。そのせいか常に逃げたい衝動に駆られていて、中学高校は家から遠い場所に決めたし、大学なんてもっと遠い。自分は恥ずかしい人間で、そのみっともない所を知ってる人間に会いたくなかったのかもしれない。いまでも小学校の友達とか心底会いたくなかったりする。高校以降になると開き直って自分らしきものをボロボロ零すことに多少は慣れてきたおかげか、人格的に少しはマシになったおかげか、それ以後の自分を知る友人は貴重に思えるけど。
温室ではないにしろ、屋根くらいはついてる通路をまっすぐ歩いてきたから、その分打たれ弱い人間になったのはどこかで自覚があって、そんな自分を恥ずかしがる人間になってしまった訳だ。逞しく生きてる友人たちが羨ましかった反面、自分と同じような欠点を持つ人間は軽蔑した。両親も第三者から見れば素晴らしい人達なのかも知れないが、僕には欠点しか見えなくて、自己嫌悪に輪を掛けて嫌いだった。親と話すのは身の毛もよだつくらい厭だ。割と吐き気がする。軟弱な自分を克服するために色々な方策を講じてきたが、それらは概ね失敗に終わり、コンプレックスという名の澱となって沈んでいき、天真爛漫で八方美人で鼻につく糞ガキだった小学生は、斜に構えた可愛気のない青年へと育った。それは思春期が僕にもたらした変化だったように思う。
両親のおかげでいい目をみてきたとも言えるけれど、同時に苦しんできたとも言える。ステーキだ、スキヤキだ、しゃぶしゃぶだ、鮨だ三大珍味だと騒いでいた時期もあったのは確かだけれど、いまは納豆とか秋刀魚とかお新香とか味噌汁とかソーセージとか、素朴なものに感じる驚きの方がでかい。そういったありふれたものがごく当たり前に存在する生活は、なんだかほっとするような生活感が流れていて、安らかに暮らせる気がしている。我が家はあまり仲の良い家族じゃなかった。美味しいものはいっぱいあって、それなりに広い部屋で、自由に進学できる環境ではあったけれど、いつもどこかで乾いた風が吹く家だった。一家団欒とは言いながら、会話の途切れがちな食卓はなんだか侘しかった。表面上だけにこやかな父親、陰気な自分、控えめな母親の構図はあんまり心の温まるものじゃない。もう少し狭い家でもいい。あんまり美味しくない食事でもいい。進路なんかどうでもよかった。心の温もるような、通じ合えるものがどこかに存在していたのならね…。
まぁ程度の差こそあれ、僕らの世代の(つまりはその親の世代の家庭で育った)人間は同じようなモヤモヤを心の片隅に抱えている気がしている。塾に通ったり、習い事や勉強に追われてきたいわゆる中流以上の家庭に育った子供たち、その結果人に話せるくらいの偏差値の大学に進学した“若者”は特にその類型に当てはまる気がしている。僕の経験では。心のどこかに空洞を抱えて、それを忘れるふりをしながら仕事したり、勉強したりしているんじゃなかろうか。無気力世代とかクソッタレな括り方をよくされている僕らは、いまもどこかで“関係”とか“絆”といった単語に(意識的・無意識的に)憧れてる節がある。エヴァンゲリヲンが受けたのは偶然なんかじゃない。サマーウォーズが僕の心を絞めつけるのは、そこに描かれた家族の日常を、自分が手に入れることが出来ない事を知っているからだ。人と人との繋がりが薄まった今の時代では、家族であっても絆なんてものを求めにくいことを知っているからだ。
何か温かいものへの憧れ…多分僕の場合は金銭では贖えない。親の二の舞をするだけのような気がしている。傲慢になった自分に気付けないのは厭だ。頭を冷やしながら考えてはいるが結論はまだ出ない。もう一人の僕は明快に語りかけているけれど。そして時間をかける問題でもきっとないんだろう。切羽詰った右足はいずれ踏み出さないといけない。そういうもんだと思う。希望はいつか不安を乗り越える。
猫の深い眼差しには知性がある。彼らはきっと、車道に飛び出せば車に轢かれることくらい分かっている。彼らはそれでも道路を渡らないといけない。それだけの理由が彼らにはあるんだろう。訳知り顔で猫に注意したところで、猫がいずれは道路を横切るのなら、僕達にできることは猫の無事を祈ることだけだ。平たくなった彼らを悼むよりもまず、次に走りだす猫の今を見守るべきだろう。結局猫には気持ちなんか通じっこないんだから。