蒼龍の棲む洞穴 -11ページ目

さよならホリエモン それからフィフィblogの紹介

 朝生観てたんですが。ホリエモンが面白すぎる。尖閣諸島を中国にあげて何の問題が?とか平気で言う神経はすごいぞ。左派の辻元清美ですら引き気味だったし、パネリストの話を遮ってでも自分の意見を話す“あの”総一朗に話をさせない突破力とか素敵すぎる(一喝されてたけど)。パネリスト喋ってる時にゲラゲラ笑い出すし、金美齢に「キャバ嬢の方が能力ある」とか言って激怒させるしさ。ホリエモンのことは正直好きだったんだけど、コイツは人格的にはクズなんだなってことを確認した。あぁはなりたくない。

視聴者として受けた印象としては、(意見の良し悪しは別にして)自分の意見を話すだけで人の話をまったく聞こうとしないし、その自分の意見らしきものも他人への反論でしか構成されてなくて、何が言いたいんだかいまいち分からん。更に言えば視野が狭い。尖閣諸島を中国に渡して問題が解決するとは俺には思えんよ。声もでかいし。こんな人間が政治を語ると怒る人がいっぱい出てくるぞ。

出所してからホリエモンは穏やかになってたし、人間的な面白さがクローズアップされてネットではそこそこの人気者だったんだけど、今回の朝生でそれもちょっと翳りそうだな。実況板は荒れに荒れてたし。俺は人格面だけで人を評価したくないんだけど、今回のホリエモンにはさすがにぞっとした。朝生観てて総一朗とか金美齢とか辻元清美がまともに見えるとかどうかしてるだろ…。


そうそう、あと関係ないけどエジプトのデモは100万人規模に膨れ上がってるみたいですね。なんかニュース観ててもいまいち何に対して怒ってるのかピンと来ない、正直。民主化とかなんか嘘くせぇ。色々調べてたらフィフィのブログがエジプト人として書いてて、伝わるものがあったんで引用します。ちょっと量多いですけど、原文もっと長いんで我慢して読んでください。

エジプトは対外的に良い面をしていますが、本当に外国人ばかりが優遇されていて、国民は虫けらのように扱う国です。極端な話、外国人の方が仕事に就きやすくてエジプト人はあぶれてるなんてこと、ほんとに過言ではないくらい。わたしもいく度となく大使館で不快な思いをしています。大使館に働いている外国人スタッフは高い給料をもらっていながらエジプトのために積極的に働いてもいない、それを嗜めると、エジプト人スタッフが外国人をかばい、同じ国民をバカにする。エジプトの政府の態度がまさにそれ。そんな事があたりまえの国だったんです。だからそれに不満を持ち度々旅行客を狙ったテロも起きたんです。エジプト政府に、海外ではなく、国民に目を向けて欲しい、または今の外国に媚び売る政権にダメージを与えるためにテロが起きていたわけです。

(中略)今まさにミダン・タハリール(解放の広場)で100万にも及ぶ民衆が新たな歴史の一頁を塗り替えようとしている。わたしはこの人々を見るとき、わたしの生まれる前ではあるが、かつて記録映像で見たナーセルの死を悼む群衆と重なった。あの時と目的は違えど、エジプト国民が一つになった事がどれだけの重みを持つのか、今この時代に、これだけの人間が情報を遮断されてもなを一つになれる事がどれほどの意味を持つのか、世界中に問いかけているようでならない。

http://ameblo.jp/fifi2121/

民主化とか独裁政権の打破とかそういう表層だけでなく、エジプト人が何に苦しみ不満に思ってきたのか、そういう情報を提供してこそのメディアだと思う。ざっと目を通しただけだから迂闊に書くべきじゃないんだろうけど、結局メディアは必要な情報を欲しい時に与えてくれない気がしている。…もうどうでもいいんだけどさ。


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音楽のない生活なんて味気ない


かりゆし58 - 風のように (PV)
アップロード者 ChaOko_01. -


強い向かい風の中 また今日も走り続ける
巡り会いを紡ぎながら

どうやら間違いなかった 正解なんてなかった
「そうかもな でも そうじゃないかもな」ってことなんだ
考え方は様々で 人の数だけあるだろう
それでも僕は思うんだ 君に会えて良かったよ

この星を君にあげるよ 君も誰かにあげるといい
始めからずっと僕たちは 全部を分け合ってた

強い向かい風の中 また今日も走り続ける すれ違いを重ねて
今 物語がひとつになって動き始める
巡り会いを紡ぎながら

どんなに強く願っても 僕は君になれないし
気持ちを繋ぎ止めるなんて 誰にも出来やしないし
近付けば近付く程に 違いを感じるけれど
やっぱり僕は思うんだ 君に会えて良かったと

海を越え 言葉を越えて 心は理解を目指すだろう
僕が君を信じているって どうか信じてほしい

夕暮れに世界中が同じ太陽を眺めてたり
手拍子や歌声に誰もが心踊らせたり
笑ったり飛び跳ねたり
違いを違いのままにして

自由色に染まる未来 また今日を描き足していく
昨日までの明日へ
時代は変わり続けるだろう 僕も走り続けよう
この世界を風のように



なんか歌詞がヌルヌルしてるよね。でも不思議に気持ちの良い歌詞。曲も楽しいしね。どうやら俺はサビはっきりしてる曲じゃないと好きになれないみたいだ。ハナマサで流れてた曲。歌詞が聞き取りにくいのはなんでだろう。そういや、



ハンバートハンバートの曲がCMになってるよね。あとドラえもんをすげー久しぶりに観たんだけど、アニメとしてのクオリティー結構高い。よく動くようになった気がする。OPが楽しい。


ドラえもん新オープニング曲
アップロード者 yoshikazux64. -

映像は旧ですれど、歌は一緒です。あ、そのうち読んでる本とかについて書くかな。予告してりゃモチベーションが保たれるかもしれん。最近書きたいことは色々あるんだけど、なんかうまく文章にならんのです。気が向いたら。じゃ



渡り廊下走り隊7 - バレンタイン・キッス
アップロード者 masa37610. -
カバーとかズルくね?


通常盤■かりゆし58 CD【風のように】11/1/26発売

¥1,050

2010年下半期芥川賞と、せむし男

 諸事情あってレポートを書いた。芥川賞について書こうかと思ってたし、いちいちまた書きなおすのも面倒だからそのままアップしてみる。一部伏せ字。こんなものをレポートとかいって堂々と出す自分が面白くなってにやにやしながら書きました。彼の人柄から言ってたぶん大丈夫だと思うけれど。


2010年下半期芥川賞が発表された。
「苦行列車」西村賢太、「きことわ」朝吹真理子がダブル受賞した。
ニュースでそれを知ったとき何か虫の知らせがあったので、翌日の朝には図書館で受賞作に目を通した。二作品を読み終えた後、読後の気だるい悦びに浸る間もなく、形のない、それでいて大きくて熱い衝撃がほとばしった。図書館のベンチで放心しながら、目ばかりギョロギョロ動かして自分なりに整理をしたので、たまたま趣旨の合致した×××のレポートという形にまとめたい。

「苦行列車」は西村の実体験に基づいた“私小説”である。19歳である貫太の荷揚げ人足の同い年の人足仲間との交流を描いている。人足らしく罵りあったり、妬みや嫉みといった負の感情を読者に叩きつけるように書いている。汚い言葉、卑しい思考に代表される作品の特徴は、まるで公衆便所に設置された「痰壺」を思わせる。その佇まいはいかにも汚らしいが、どこで販売され誰が作ったのかも分からないミステリアスさ、また幾分のユーモラスを含んでいる。

文章自体は近代小説に傾倒している西村らしく、大時代的ではあるが平易で読みやすい。私小説という存在の定義上、一点突破で読者の胸にストレートに著者の言い分が伝わるが、その代わりにテーマは卑小にならざるを得ない。しかし西村の中卒“荷揚げ人足”ライフは一般人からあまりにもかけ離れており、まして父親が犯罪者という暗黒面まで孕んでいるので、それが下らぬ日常の羅列であろうとも読者をぐいぐい引き込む訴求力がある。西村の授賞式での異様な存在感や滑稽な発言は作品の私小説としての存在意義を裏付けるものであり、その魅力を遺憾なく発揮している。

また彼の作品の主人公は一貫して「貫太」であり、受賞作にしても西村の人生の一段階を切り取ったものに過ぎない。作家を志す青年期から作家になる中年にかけての「貫太」に非常に個人的な興味をそそられる。もしこの「貫太」が完結したとすれば大長編となるであろうし、そこに文学的な価値が付与されたとしてもなんら違和感を感じさせないだろう。また一つの読み物として、読後のカタルシスは非常に大きいに違いない。

「貫太」完結後、自身そのままを主人公としない文学にとりかかる時、西村の作品はより普遍性を勝ち得るだろう。他者の人生を覗き見る面白さだけでなく、それを裏打ちする確かな技術が西村にはあるからだ。


朝吹真理子の「きことわ」は透明感のある作品である。鮮やかに広がる色彩的で静かなイメージ、水面が波打つように滑らかなリズム。透明で繊細な文体。まるで薄いブルーを基調とした水彩画のように清潔な印象を読者に与える。確固とした世界観の中で、朝吹が想像力に遊びながら自在に筆をふるっているような優雅さがあり、一字一句といえど添削されない、つまりは引っかかりなく美しさが流れている。

読書には、本からテーマを抽出して噛みしめる読書、文章の美しさやリズムを目で追う読書、物語の中の突飛な出来事に動揺したり、登場人物に感情移入したり、教訓を得たり、娯楽としての面白さを楽しんだり、多様な種類の楽しみ方がある。「きことわ」は特に文章の美しさやリズムを目で楽しむ読者を悦ばせるだろう。

その色彩的・韻律的な美しさは樋口一葉や与謝野晶子のように、“日本の”女流文学の系譜を受け継ぎ、その先端に位置しているように思われる。もはや内容やテーマを超えて、文章力だけで読者を魅了する力を感じた。文体だけを取り出しても三島由紀夫のように自然で、揺るぎない。

日本の純文学の面白さは文体、固有名詞の選択、リズムの三つの要素が第一に存在していて、テーマや物語性は補完的なものである。「きことわ」には三要素すべてに不備がない。すなわち「きことわ」は朝吹の二作目でありながら、その前途は輝かしい光に包まれていると言っても過言ではない。遠くない未来に朝吹が時代を代表する作家になっても個人的には、まったく驚かない。


芥川賞の受賞者はここ十年以上、石原慎太郎の“駄作の羅列”という嘆息に代表される通り、社会に影響を及ぼすような作家が出ていない。
似たような作品。
無意味な作品。
訴求力のない作品。
自己満足的な作品。
冗長で面白くもない作品ばかりで、金原綿矢のW受賞があった(文学賞の商業主義化が問題視された)2003年下半期芥川賞が妥当であったとすら思える不毛さであった。文学全体を見渡しても、(文壇の孤児村上春樹を除いて)純文学は盛り上がるどころか消滅が危惧されるほどであった。

一方で日本経済は失われた10年が20年に達しようとしており、平成不況・なべ底不況、ITバブルは弾け、リーマンショック、円高・デフレーションと何ら明るい話題のないまま停滞しており、それに伴った形で就職難が暗い影を落としている。政治の舞台では政権与党が実力を発揮できず、野党は足を引っ張り、政局の混乱が拍車を掛けている。文化においてもK-POPや韓流など外国文化が話題に上がるばかりで、それ以外は盛り上がる気配がない。

この様な先の見えない時代では人の心も荒み、視線が下ばかりに向きがちである。人々は救いを求めている。その受け皿として文学それも純文学が今ほど必要とされている時代はそうない。

そんな2011年上半期、芥川賞は二本の輝かしい作品を世に出そうとしている。素人目にも駄作の羅列であった芥川賞からである。それはわずかな希望であるかもしれないが、文学を中心に日本が再び動き出そうとする兆しのように思われた。

シンクロニシティという言葉がある。グリセリンが1920年代に世界各国で突然結晶化したり、サルが世界中同時期に芋を洗いだしたり、第二次大戦・イラク戦争期は優秀な指導者が多く現れたのに現在は有能な指導者が少ないといった、「意味のある偶然の一致」を表すオカルティックな用語なのだが、不思議な説得力がある。

日本文学の活気が世界に波及してゆき、また相互作用で文学が社会に活力を与える(戦後復興に美空ひばり・黒澤明・湯川秀樹が希望となったように)影響を考えた時、ふと今まで暗澹たる黒に塗りつぶされた日本の未来が、将来が、不意に開けて希望に包まれたような気がした。それは微かな、ほんの僅かな可能性であるにも関わらず、温かい力で僕自身を和ませた。固く閉じられた蕾がほんのりと色づいた。

2011年、それは始まりの年であるかも知れない。僕の愛する故郷、日本にとっての。
そして同時に×××××である僕自身にとっての旅立ちの年でもある。

2011年上半期芥川賞がもたらしたごくごく微小な可能性に支えられた希望は、旅立ちを迎える僕をまるで祝うかのように訪れた。何か自身を中心に世界が動いているかのような錯覚、それは不吉さに武者震いする戦慄と、眩しいほどに輝く未来への希望の入り混じった複雑な色をしていて、喜ぶべきなのか脅えるべきなのかもわからない衝撃となって、僕を突き抜けた。




 
 雨のおとがきこえる
 雨がふってゐたのだ
 
 あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう
 雨があがるようにしづかに死んでゆこう



八木重吉
詩稿「母の瞳」

お嫁においで



お嫁においで
作詞 岩谷時子
作曲 弾厚作
唄 加山雄三

もしもこの舟で
君の幸せ 見つけたら
すぐに帰るから 僕のお嫁においで
月もなく淋しい 闇い夜も
僕にうたう 君の微笑み
舟が見えたなら ぬれた身体で
駈けてこい 珊瑚でこさえた
紅い指輪あげよう

もしもこの海で
君の幸せ 見つけたら
すぐに帰るから 僕のお嫁においで
波も夢を見てる 星の夜は
僕にゆれる 君のささやき
舟が見えたなら ぬれた身体で
とんでこい 空へ抱きあげて
もえるくちづけしよう





ワガママな男ってのは、時として魅力的に映る。人の意見なんかまるで耳を貸さないで、好き勝手して。勝手に成功したり、失敗したりして一人でゲラゲラ笑ってなんかしてさ。なんとなく周りを巻き込んでいて、いつの間にか自分もその中にいたりして。

この歌を歌ってる加山雄三もそんな男だったんだろうと思う。歌詞を書いたのは別人でも、この男のイメージとぴったり。一人で好きになって、突然船に呼んで、“お嫁においで”“とんでこい”。女から見ればとんでもない男。でも笑顔が優しくて、温かい。包容力っていうんだろうな。女を連れ回して喜んでる。女は女でため息をつきながら、なんだか許しちゃう。

ちょっと前まで草食系男子なんてクソッタレな言葉が跋扈してましたよね。この言葉自体というか、この言葉を多用する種類の人間に対して僕は不快感しか覚えなくて、もし自分がそういうレッテル貼りされた日には冷たい目でいつまでも睨んでると思います。でもね、加山雄三みたいな青春を謳歌してきた素敵なオヤジに“もっと覇気出せよ!”とか言われて背中バンバン叩かれたりすると、なんか納得しちゃうだろうね。

どうもこのワガママさ、ある種の傲慢な色合いがそう嫌いじゃないらしい。あー言われたら嫌だなとか、こういう時はこう言えば喜ぶかなとか、体裁を繕って話をするよりも何も考えず言いたいことを言って、やりたいことに人を付き合わせる、それはとってもエゴイスティックなことかもしれないし、人によっては耐えられない位ツラい事柄かもしれん。でも思うんだな。そっちの方がよっぽど人間らしいなと。

その結果嫌われようが好かれようが、そんなのはしらねぇってなもんですよ。僕自身どうも遠慮と言いますか、八方美人と言いますか、なんかそういう色々勝手に気疲れしてるところがあるもんだから余計にそう思う。し、そうなれるもんならなりたいよ。

ま、そういう弱くなって女々しいPOPSしか歌わなくなった平成の時代に架けられた男臭い昭和の歌謡曲。それはなんだか力強くて、少しメランコリックで。なんだか忘れていた楽しい思い出が不意に甦ってくるみたいな妙な快さ、爽やかさがあると思いました。

人に何かを薦めるとき、しつこく言ってると嫌われることが最近なんとなく分かってきました。でもまぁブログですしね。僕の自己満の、自己満による、自己満のためのブログです。好き勝手しようじゃないか。もう少しだけ。

一番と二番の最後にある「指輪あげよう」「くちづけしよう」、助詞を省いたこの言葉遣いすごく好きです。どこかレトロ、でも魅力的な日本語だと思いません?そしてこれを自然に歌える雄三はやっぱりすごい。この曲を聴いてるあいだ、今よりは少しだけ活気のあった列島で遊び呆ける自分に思いを馳せましょう。

あと後ろのモニターに映ってる映像、たぶん雄三の映画なんだろうけど、その途中波止場をボートが横切ってなぜか波止場から人が飛び込むシーン。これも意味不明に僕の心を捉えます。なんでだろうなぁ。



加山雄三意外に苦労人です

お嫁においで /加山雄三

¥200
iTunes
Youtubeに昔の音源もあったけど、いまの雄三の錆びのきいた声の方が曲にあってる気がします

お嫁においで

¥4,016
たぶんこれですね