2010年08月22日(日) 18時28分19秒
純文学の〝純〟とはなんぞや
テーマ:不純なエッセイ
答えがでるようで出なくてモヤモヤしていた問題の手がかりを掴んだ。純なんて大仰な漢字が入る言葉はいくつもある。純文学はもとより、純喫茶、純映画、純情、純米酒、純福音派、純和風とか純恋歌なんてのもあった。韓国では純豆腐なんてのもあるよね。
で、大辞泉・大辞林によれば
じゅん【純】
[形動][文][ナリ]まじりけや偽りのないさま。人柄や気持ちがすなおで、けがれたところがないさま。「―な心」「―な男」
[接頭]名詞や形容動詞に付いて、そのものだけ、また、その状態だけで、他の要素がまじらない意を表す。「―日本ふう」「―客観的な報告」
じゅん 【純】
1 (形動)
[文]ナリ
ありのままで飾り気のないさま。純粋でけがれのないさま。
・ ―な心
3 (接頭)
名詞・形容動詞などに付いて、まじりけがない、そのものだけであるなどの意を表す。
・ ―日本調
・ ―大和絵風
・ ―経済的理由
前者は人や心の様子、後者は物事の捉え方のことだから、結局は同じだな。まじりけのない、汚れていないことってことだろう。純米酒は米だけの酒、純情は汚れのない気持ち。で、だれだってそこでよく分かんなくなる。まじりけのない文学って何?そんなのどう定義するんだ。
言葉の意味で行き詰るから比較対照していって違いを見つけるしかない。なんか「詩情がある」とか表現することがあるらしいが、こんな事平気で抜かす奴の頭蓋にはチョーチンアンコウでも寝てるんじゃないか?川端康成とか三島由紀夫の一部を取り出せばそうかもしれないけど、坂口安吾や太宰治の文学のどこに詩情があるのか教えてもらいたい。
取りあえず〝純〟文学という言葉が言葉としてなんかおかしい言葉ってことはお分かり頂けただろうか。文学みたいな複雑なものを純粋な意味で捉えることは、たぶんできない。おそらく、厳密な意味では〝純〟を使う人の数だけ意味が出てくるだろう。
それは純喫茶とか純和風なんかも同じ。〝純〟ワカンネ。でもね、ここから今日思ったこと。例えば、僕が今日これから〝純〟読者として本を読むと表明してみる。突然鳥山明なんかが〝純〟漫画を提唱する。ダチョウ倶楽部が〝純〟お笑い宣言をする。思春期のハナタレが俺は〝純〟人間とか言い出す。純文学、純喫茶なんかも同じ。その定義は人それぞれなんだが、共通するのは、
①世間にある~が薄汚れてる中で、
②自分こそがその正しい~を体現してるんだと言うこと
という自負だろうと思う。厳密な定義よりも、大仰な〝純〟なんて漢字を使う人の気持ちは似たようなもんだろう。これこそがこうなんだ、そうだよ、なぁ?という厨二病的な押し付け、それが世の中の〝純〟の正体なんじゃないか?(純恋歌なんて正にそうだろ?笑)
で、純文学について言えば、勿論その定義は人それぞれなんだが、「私の書いてるのは娯楽小説ではなく、〝純〟文学である」とか「俺最近〝純〟文学とか読んじゃってるんだよね、マジすごいっしょ」とか(悪意のあるニュアンスは置いといて)一方は〝純〟文学作家として、一方は〝純〟文学読者として、一般の小説と差別化をすることで、俺はこんなにすごいんだってことを言いたいんだろう。
上はダメな人の場合。夏目・芥川・川端・三島のようにこれで一家を成した人、つまり世間で認められてる人の場合は〝純〟の響きを本気で信じてる節がある。それは自負である以上に、自尊と言っても良いんじゃないか。
娯楽小説・大衆小説、現代小説と呼ばれてる当たり前の文学は、ストーリーを分かり易く読者に伝えることが主眼にある。こんな人が、こんな友人と知り合って、こんな事件に巻き込まれながら、こんな帰結になりましたよと。一般的にストーリーや設定がつまらなければ、つまらない作品になるんじゃないか。魅力的な登場人物っていうのも、ストーリーの一部だし。できる限り共感できるように噛み砕いて伝えてる。
で。〝純〟文学ってのはその点で異様な文学で、ストーリーというかプロット的にはすっっっごくつまんない、ないし意味がわからないものが多数だと思う。川端康成の踊り子とか、一人旅に出かけた学生が旅芸人の娘と知り合ってその興行についていくだけの話。オチとか特にない。雪国は自称文筆家が、行きずりの恋を忘れずに田舎に行ったり戻ってきたりする話。ちなみに未完だったりします。どうなっとるんだ、ノーベル賞。
ストーリーに頼らないぶん、〝純〟文学作家たちは登場人物、その思考や葛藤なんかを生々しく書く。自分の人生を切り取って小説に貼り付けてる。俺の悩み、苛立ち、嘔吐感すげぇだろって押し付けてくる。同時に「文学ってそういうもんじゃん。は?感動したいんなら娯楽小説読めよ。金いらねぇから帰れ!」って態度をとる。傲慢な訳だ。でも傲慢な態度をとっている分、変態的な面白さがある。それが良いんだ。
長くなってしまった。なにが言いたかったのかと言うと、
①〝純〟なんて平気で使う人間は傲慢であるが
②そういう人間の一貫した価値観には面白みがある
〝純〟は他を貶める言葉な訳だけど、「俺は違うっ!」と言えるだけの思い込み、情熱、愛情がそこにあるんだと思う。ものにもよるだろうけど、文学という意味では、それはとても+に働いてるし、そういう意味では僕は〝純〟読者でありたいし、〝純〟人間として生きたい。なんの話か分からなくなった、おしまい。
有機 純ココア 110g

そういうことです ふと純文学=純私的文学という省略があるような気がしてきたがまぁ良いや あと純パの会ってどういう意味なんだろう?
で、大辞泉・大辞林によれば
じゅん【純】
[形動][文][ナリ]まじりけや偽りのないさま。人柄や気持ちがすなおで、けがれたところがないさま。「―な心」「―な男」
[接頭]名詞や形容動詞に付いて、そのものだけ、また、その状態だけで、他の要素がまじらない意を表す。「―日本ふう」「―客観的な報告」
じゅん 【純】
1 (形動)
[文]ナリ
ありのままで飾り気のないさま。純粋でけがれのないさま。
・ ―な心
3 (接頭)
名詞・形容動詞などに付いて、まじりけがない、そのものだけであるなどの意を表す。
・ ―日本調
・ ―大和絵風
・ ―経済的理由
前者は人や心の様子、後者は物事の捉え方のことだから、結局は同じだな。まじりけのない、汚れていないことってことだろう。純米酒は米だけの酒、純情は汚れのない気持ち。で、だれだってそこでよく分かんなくなる。まじりけのない文学って何?そんなのどう定義するんだ。
言葉の意味で行き詰るから比較対照していって違いを見つけるしかない。なんか「詩情がある」とか表現することがあるらしいが、こんな事平気で抜かす奴の頭蓋にはチョーチンアンコウでも寝てるんじゃないか?川端康成とか三島由紀夫の一部を取り出せばそうかもしれないけど、坂口安吾や太宰治の文学のどこに詩情があるのか教えてもらいたい。
取りあえず〝純〟文学という言葉が言葉としてなんかおかしい言葉ってことはお分かり頂けただろうか。文学みたいな複雑なものを純粋な意味で捉えることは、たぶんできない。おそらく、厳密な意味では〝純〟を使う人の数だけ意味が出てくるだろう。
それは純喫茶とか純和風なんかも同じ。〝純〟ワカンネ。でもね、ここから今日思ったこと。例えば、僕が今日これから〝純〟読者として本を読むと表明してみる。突然鳥山明なんかが〝純〟漫画を提唱する。ダチョウ倶楽部が〝純〟お笑い宣言をする。思春期のハナタレが俺は〝純〟人間とか言い出す。純文学、純喫茶なんかも同じ。その定義は人それぞれなんだが、共通するのは、
①世間にある~が薄汚れてる中で、
②自分こそがその正しい~を体現してるんだと言うこと
という自負だろうと思う。厳密な定義よりも、大仰な〝純〟なんて漢字を使う人の気持ちは似たようなもんだろう。これこそがこうなんだ、そうだよ、なぁ?という厨二病的な押し付け、それが世の中の〝純〟の正体なんじゃないか?(純恋歌なんて正にそうだろ?笑)
で、純文学について言えば、勿論その定義は人それぞれなんだが、「私の書いてるのは娯楽小説ではなく、〝純〟文学である」とか「俺最近〝純〟文学とか読んじゃってるんだよね、マジすごいっしょ」とか(悪意のあるニュアンスは置いといて)一方は〝純〟文学作家として、一方は〝純〟文学読者として、一般の小説と差別化をすることで、俺はこんなにすごいんだってことを言いたいんだろう。
上はダメな人の場合。夏目・芥川・川端・三島のようにこれで一家を成した人、つまり世間で認められてる人の場合は〝純〟の響きを本気で信じてる節がある。それは自負である以上に、自尊と言っても良いんじゃないか。
娯楽小説・大衆小説、現代小説と呼ばれてる当たり前の文学は、ストーリーを分かり易く読者に伝えることが主眼にある。こんな人が、こんな友人と知り合って、こんな事件に巻き込まれながら、こんな帰結になりましたよと。一般的にストーリーや設定がつまらなければ、つまらない作品になるんじゃないか。魅力的な登場人物っていうのも、ストーリーの一部だし。できる限り共感できるように噛み砕いて伝えてる。
で。〝純〟文学ってのはその点で異様な文学で、ストーリーというかプロット的にはすっっっごくつまんない、ないし意味がわからないものが多数だと思う。川端康成の踊り子とか、一人旅に出かけた学生が旅芸人の娘と知り合ってその興行についていくだけの話。オチとか特にない。雪国は自称文筆家が、行きずりの恋を忘れずに田舎に行ったり戻ってきたりする話。ちなみに未完だったりします。どうなっとるんだ、ノーベル賞。
ストーリーに頼らないぶん、〝純〟文学作家たちは登場人物、その思考や葛藤なんかを生々しく書く。自分の人生を切り取って小説に貼り付けてる。俺の悩み、苛立ち、嘔吐感すげぇだろって押し付けてくる。同時に「文学ってそういうもんじゃん。は?感動したいんなら娯楽小説読めよ。金いらねぇから帰れ!」って態度をとる。傲慢な訳だ。でも傲慢な態度をとっている分、変態的な面白さがある。それが良いんだ。
長くなってしまった。なにが言いたかったのかと言うと、
①〝純〟なんて平気で使う人間は傲慢であるが
②そういう人間の一貫した価値観には面白みがある
〝純〟は他を貶める言葉な訳だけど、「俺は違うっ!」と言えるだけの思い込み、情熱、愛情がそこにあるんだと思う。ものにもよるだろうけど、文学という意味では、それはとても+に働いてるし、そういう意味では僕は〝純〟読者でありたいし、〝純〟人間として生きたい。なんの話か分からなくなった、おしまい。
有機 純ココア 110g
そういうことです ふと純文学=純私的文学という省略があるような気がしてきたがまぁ良いや あと純パの会ってどういう意味なんだろう?






