森喜朗という83歳の高齢老人、週に3回透析を続けている、いつ死んでもおかしくない個人にならば、くだらないことで、「差別発言だ」と、ネチネチ死ぬまで攻撃することができても、世界2位のGDPを有し、世界3位の軍事力を有するデジタル独裁国家に対しては、真っ当な人権抑圧の批判すらできない。

世界総人口の半分を占める女性に対して、ちょっと差別的な失言をしてしまった個人の過失に対しては、「女性蔑視だ」と国民的な大バッシングを行い、「オリンピック精神に反する」とボランティアはやめる、聖火ランナーは走らないと大げさに騒ぎ立てる。

そして、ほとんどのメディアが印象操作の偏向報道を続け、有識者とやらが、連日、非難・中傷・人格否定しまくるのだ。

 

こうして、弱小な個人に対しては、これでもか、というほどに、粘着質にまとわりつき、執念深く追い回し、重箱の隅まで突いて、暴き立て、大々的に報道するくせに、チベット族・ウイグル族・人権活動家に対して、非人間的な虐待を続ける「人権圧殺国家」中国のオリンピック開催には、ほとんど何一つ文句を言わない。それが、この国のリベラル・メディアだ。

要するに、小さな失敗をした弱き者を一斉に個人攻撃して挫き、強き者(大国)の巨大な悪には何一つ文句を言わないのが、今の日本の主要メディアやオピニオン・リーダーである識者たちの実態ということだ。

 

 

 

個人を集団で非難するのは実に楽しい。無抵抗な者をみんなで殴るのは、相手が攻撃してこないのがわかっているから楽だし、たとえ抵抗があったとしても、さらなる集団リンチの口実になるから、これもまた楽しみである。

一方で、強大な悪を攻撃するのは、報復が恐ろしい。責任問題にもなる。火の粉が自分に降りかかる恐れがある。下手すると、自分が破滅するかもしれない。だから、誰も攻撃しようとしない。

そうして、チベット・ウイグルの市民、香港・中国国内の人権派、暴行される女性たち、最も弱き者たちを、自分が黙ることで、見殺しにしているのである。

彼ら左派リベラルの人々は、彼らの自負するところに反して、実際には弱者の味方ではない。自らの持つ権力の増大に伴う快感を存分に楽しみながら、その権力行使の結果に良心の痛みを感じることもない。正義という名の手垢で薄汚れた看板を掲げることで得られるチープな優越意識によって、他者をめちゃめちゃにするサディスティックな快感を巧みに覆い隠すのが上手な、不誠実極まりない〝ろくでなしども〟が、左派リベラルには驚くほど多い。

現に、「余人をもって変えがたい」森会長を潰して、オリンピック委員会を立ち往生させている責任は、主にメディアにあるのだが、その重大な責任を感じているとも思えない。

また、マスコミが、かよわい個人をスケープゴートにして、一斉に襲いかかる様子、どこまでも情け容赦なく追い詰める様子は、この国の子供たちに〝いじめの快感〟を教える良い見本になっている

「情の問題ではない」と彼らは言う。
なるほど、確かに、リベラルは、「いじめと差別の学校」の熟練の教師たちである。いかにして効果的に虐めるか、いかにして自分の立場を道徳優位に立たせて相手を巧妙に差別するか、いかにして自分の責任を回避するか、いかにして自らの正当性をプロパガンダし、相手方に味方しようとする者たちを孤立させるか、自らの行動を通して子供たちに教えるスペシャリストである。

確かに、彼らには他者の痛みを感じる情などないのだろう。ついでに、「もし自分が、その立場だったら」と考える想像力もない。これらは、いじめ常習犯の典型的な特徴である。
 

 

 

わが国のリベラル(サヨク)は、思えば、これまでも、ずっと、本当に視野が狭く身勝手であった。そして、我が国では、左派法学者たちの偏向思想の支配の下、冷静な考察による戦後日本の総括が、まったくなされてこなかった。

例えば、「冷戦下において、ドル金本位制に担保されたドルー円固定相場制を維持し、日米安保条約の締結と再調印を行なって、日米の関係を深める以外の選択肢が、当時の日本に、あり得たのか」とか、「中国の台頭と超大国アメリカの力の相対的低下に直面している現在、憲法9条は、日本国にとって、国を守るための現実的な法(国防政策の根幹)でありうるか」とか、そういう重要な議論を、まったくしてこなかったのである。

 

そもそも、我が国は、周囲を4つの核保有国(米露中北)に囲まれており、しかも、そのうち3カ国(中露北)は独裁国家である。通常兵器の軍事力でも3つの国(米露中)には及ばず、GDP(経済力)でも、2カ国(米中)には遠く及ばない。しかも、周辺の3カ国(中露韓)とは、領土紛争を抱えている。

さらには中韓とは、歴史問題で解決不可能な対立を抱え、そのせいで、仮想敵国とまで見做されている。特に、中国は、東シナ海と南シナ海の覇権を求めており、日本の漁船や貿易船は、中国海軍と海警の大進出によって、航行の自由が危機に瀕している。

しかも、アメリカは、日本との同盟を重視して、露骨に中国北朝鮮に接近する文在寅政権の韓国や、ますます軍事大国化する習近平の中国に対して、非常に厳しい対応をしていたトランプ大統領から、中国に融和的な民主党のバイデン大統領になり、日本にとっては厳しい時期に差し掛かっている。

 

この極めて危機的な状況で、唯一の同盟国であるアメリカの米軍基地に「日本から出ていけ」と猛攻撃しているのが、この国のリベラルである。

世界最強の軍事力と世界最大の経済力を有する超大国アメリカに対して、「ゴー・ホーム(帰れ!)」と書かれた巨大な垂れ幕が、辺野古基地の前になびいている。

 

日本の自衛隊は、憲法9条下において、専守防衛の軍隊、つまり、戦えない軍隊である。もし、他国が日本に攻め込んできた場合、あるいは、核や通常兵器で威嚇や脅迫をしてきた場合、日本には対抗手段(矛)がない。唯一の頼みの綱は、国内にある米軍基地である。

それを「帰れ!」とは、正気の沙汰とは思えない。

地主たちは、「我々の先祖代々の土地が、アメリカの軍事基地にされている、基地はいらない、米軍は出て行け」と嘆いて見せる一方で、年間1000億円の基地使用料は、日本政府(税金)からちゃっかりいただいている。

そのくせ、中国人に先祖代々の土地を売るのは、まったく気が咎めないらしい。すでに、あまりにも多くの土地が、中国人の手に渡っている。

 

 

 

イギリスのBBCワールドニュースは、2月11日、これまで中国政府によるウイグル人への甚だしい人権侵害の実態について、繰り返し報道し、激しく非難してきたために、中国国内での放映権を取り上げられた。対するイギリス外相は、2022年の北京オリンピックボイコットを検討していると発表している。

 

ところが、その間、日本の左派メディア(朝日・毎日・東京新聞・TBS・NHK)は、こうした海外の極めて重要なニュースを完全に黙殺して、つまらない些細な失言で森会長を吊し上げ、東京オリンピック潰しにメディアスクラムを組んできた。

ともかく、彼らは、日本政府の力を削ぐことにしか関心がない。本当は、人権など、どうでもいいのだ。

あまりの不可解さに、日本のメディアには、相当数の中国の工作員が入り込んでいるのではないか、と疑いたくなるほどだ。中国の工作員を通して、さまざまな圧力がかかっているのかもしれない。

残念ながら、我が国の国民は、そうした圧力に抗し得るだけの気骨や信念や見識や愛国心を持たない。そんな精神力や知力を持っているのは、戦争を経験した80代の重鎮たちだけだろう。70代より下の戦後生まれの軟弱な連中は、どうしようもない。簡単に捻られて、敵の軍門に下る。

自民の議員が、中国企業からお金をもらうと、大ニュースにするが、自分たちが中国政府に招待され、お金をもらっているのは、当然ながら、一切ニュースになることはない。

 

はたして、自国が中国に飲み込まれるかどうかの瀬戸際に立っているのに、中国をほめそやし、自国政府を攻撃することしか関心がない、この国の亡国メディアに存在価値があるのか。

少なくとも、私は、欠片も感じない。

しかし、この国の国民は、こうした悪質な情報操作に、あまりにも無防備であり、簡単に操られてしまう

実際、先進諸国民中で、日本人は、抜きん出てメディアへの信頼度が高い。信じやすい素直な国民なのだ。ちょろいとも言うが。

笑い事ではなく、メディアを信頼する日本人の割合(68%)と、森会長辞任を当然と考える日本人の割合(72%)は、ほぼ重なるのだ。

 

 

 

森会長の失言を批判したトヨタは、なぜ中国政府の人権弾圧を非難しないのか。

森会長の失言程度でボランティアを辞めた市民は、当然、森さんとは比較にならないほど人権意識の欠落した中国の北京オリンピックボイコット運動を激しく展開しているに違いあるまい。まさか、森発言レベルで、あれだけ、国際的な大問題と騒いでいたのに、中国の激しい人権弾圧には関心がないとは言わないだろう。

森さん批判に熱心だったワイドショーのコメンテーターは、全員、北京オリンピックボイコット賛成に署名し、テレビで連日ボイコットを呼びかけてくれるに違いない。森さんレベルの失言で、どこまでもしつこく許さなかったぐらいだから、中国のジェノサイドを看過するなど、絶対にあり得ない。日本政府へのボイコット要求は、当然だろう。

森さん辞任要求で、日本オリンピック委員会に激しく抗議した一般市民のみなさんは、今すぐ、中国大使館に人権抑圧抗議の電凸して欲しい。

女性人権運動家のメンバーは、白装束でも黄装束でも青装束でも、黒装束でもかまわないから、中国大使館を囲んで、早く無言の座り込み抗議を行なうべきだ。行動しないという選択肢はないはずだ。

 

沖縄では、今年、2月に入って、例年見たこともないほど、桜が狂い咲きしている。本島中、どこの木も満開である。桜がこれほどまでに、咲き誇っている様子は、近年、あまり、見た記憶がない。美しいのは確かだが、何やら不気味な気もした。不吉にも思えた。

これは、何の前触れだろうと思っているうちに、森さんが辞任に追い込まれ、東北では10年ぶりの大地震が起こった。

今年の日本は、どうなるのだろうか。

 

 

私は、森喜朗さんの一件に関する記事の最後に、「昭和の保守派がいなくなったら、この国はもう終わり」と記しました。

しかし、その根拠に納得がいかないという人も、多いかもしれません。世間では、むしろ、「昭和の保守派は、もう要らない」「老害は去れ!」などと、盛んに言われているのですから。

一方で、私は、真逆のことを言っています。そのため、この状況では、私が考えていることを、もう少し詳しく話さなければ、言わんとすることは、十分理解されないかもしれません。

そこで、昭和の何が、それほどまでに必要なのか、平成・令和の人間に何が足りないのか、について、この記事では考察してみようと思います。

 

 

昭和の、特に、戦前生まれの80代の人間にあって、平成・令和の人間に決定的に欠如しているもの、それは、濃密な信頼関係を生むコミニュケーションのスキルです。

このスキルがあるから、森喜朗さんは、オリンピック委員会をまとめあげることができていました。

かつては、ジャーナリストにとっても、渡邉恒雄さんなど、その典型ですが、相手の人間を見極め、その懐に飛び込み、信頼を勝ち得るコミュニケーションのスキルは、絶対的に必要なものでした。しかし、今日、このスキルを豊かに持ちあわせて、第一線で活躍を続けているジャーナリストは、田原総一朗さんぐらいでしょうか。

けれども、以前は、そういうジャーナリストがたくさんいたのです。そして、森喜朗さんの世代の政治家たちは、かつて、そうしたジャーナリストたちとの付き合いが深かったのです。

ですから、森さんのような人から見れば、共感力や洞察力に乏しい、人間的な情感のかけらも感じさせない、現在の若い記者たちは、頭でっかちで、姑息で、まったく信用できない、何を考えているか、まったく分からない〝のっぺらぼう〟のような連中にしか見えないでしょう。森さんにとって、彼らとのやりとりは、何の人間的な温かみも感じられない、砂を噛むように味気ない、そして、時には、我慢できないほど腹立たしいものと感じられるはずです。

あなた、今、私を、一人の人間として、向き合っていますか?」「そんな、のっぺりとした偽りの仮面を顔に貼り付けて、獲物を狙うハイエナのように冷血な目をして、無礼な質問を重ねて、また、私の失言を誘うのか?」「それで、結局、君は、何がしたいんだ?」「君は、この国を、どうしたいのだ?」「人間が人間を信用できない国になっていくことが、日本人にとって、この国にとって、良い方向だと、本気で思うのかね?

森喜朗さんの記者たちへの怒りの根源には、こうした問いがあるのです。ところが、記者たちは、この問いかけを、平然と無視します。彼らは、決して、その問いを、真正面から受け止めて、真摯に向き合おうとはしません。

そういう大切な問いかけを無視されると、存在そのものを無視されているように感じられるものです。人間扱いされていないと感じるのです。特に、昭和の人間は、そうした感情を、胸に強烈に突き上げる熱い奔流のように感じられるものです。

取材相手がそんな風に感じていたら、まともなインタヴューになるわけがないのです。当然、表情は硬くなり、ムッとした表情を隠せません。言わなくていいことも、我慢できずに言ってしまう。それで、今度は、態度が悪いとか、反省がないとか、書き立てられるわけです。

このようなメディアの活動は、あまりにも不毛であり、社会に不信と混乱しかもたらしません。

かつての昭和のジャーナリストは、少なくとも、そうではありませんでした。彼らには、取材相手の言葉を、受け止める度量と誠実さがありました。だから、取材対象の人々に信頼され、さまざまな話を打ち明けられたり、時には相談までされました。そういう人が、実力のある人として、社会的に重んじられていました。その人間的な信頼が、平成・令和の人間に、決定的に欠けている部分です。

ジャーナリストだけでなく、国民全体に欠けてきているのです。

 

彼らは「老害は去れ!」と言います。けれども、その老人たちのお陰で、かろうじて、この国が、世界の国々と渡り合える交渉力、日本社会を有機体として動かす活力、国家としての格好のつく対面を保っていることには、まったく気づいていません。

戦後生まれの団塊の世代以降の人たちの多くが、そうなのです。まして、平成生まれとなれば、まったく異次元の感覚でしょう。

彼らは、自分たちにない昭和のコミュニケーション・スキルが、実は、世界に通用するものであり、日本が、これまで、国際的信用を勝ち取ってきた根源の力であることを知りません。

戦後の人間は、戦中の精神主義が打ちのめされ、欧米の科学を至上とする価値観を絶対的なものと考える価値観の中で育ちました。それは、同時に、日本人が長い歴史の中で培ってきた日本的共感のあり方、日本的受容的精神のあり方を、欧米の客観性を重んじる精神のあり方より劣ったものと考える劣等意識を伴うものでした。しかも、皮肉なことに、その欧米コンプレックスの内面化の傾向は、高い教育を受けた者ほど根深く拭がたいものになり、やがて、団塊ジュニアと呼ばれる子や、さらにその下の孫の世代には、内面に巣食う精神の危機は深刻なものになりました。

日本人は、特に、高等教育を受けた研究者や教育者ほど、伝統的なコミニュケーションのスキルを軽んじ、早期に徹底的に失ってしまいました。その因縁は、子、孫に受け継がれ、より強烈に顕在化するようになります。

そして、この傾向は、平成になると、庶民の範囲にまで広がり、市民社会は、その有機的な繋がりや活力を失ってしまいました。

彼ら、新しい世代の特徴は、主観を排した客観性の極端な偏重と、実利主義の思考に貫かれています。さらに、彼らは、表面上、建前上はどうであれ、内面においては、徹底した個人主義と利己主義を、ためらいなく肯定できるのです。

公への献身を尊重する文化が崩れ、リベラルとリバタリアンしかいない世界では、利他主義を攻撃する客観主義者アイン・ラントが描いた「肩をすくめるアトラス」の物語のように、優秀な人ほど「なぜ、私が、あなたたちのために、犠牲にならなければならないのだ?」と考えるようになります。もう、そういう世界が、日本にも到来しているのです。

公のために私を犠牲にすることを厭わない感覚は、とうに失われてしまいました。

今日、80代以上の人たちは、今では失われてしまった日本人の公を尊ぶ意識と伝統的な共感的コミュニケーションスキルを有する貴重な人材なのです。

それを知らずして、「老害は去れ!」などと心ない言葉を投げつける。何と安易な思考、何と軽々しい言動でしょう。文句を言うばかりで、自分では何も創り出せない。言うだけ言い放って、自分では何も責任を負わない。しかも、その姿勢が、国にとって、いかに破滅的であるか、まったく自覚していない。何と未熟で危うい人たちなのでしょう。

 

この国の社会の共通認識を土台とする統一された文化と価値観は、今、崩壊の危機にあります。この「共通認識」「統一された文化と価値観」が、どれほど大切なものか、私たちは、日常、あまりよくわかっていないのです。

例えば、私たちの社会には「何があっても人を殺してはならない」という共通認識があります。しかし、日本以外の社会では、必ずしも、それは共通認識ではありません。「ある状況においては殺してもよい」という認識が一般的な社会も多いのです。

例えば、アメリカでは、「自分の身を守るためには殺してもよい」というのが共通認識です。だから、一般市民が銃(サブマシンガンからショットガンまで)を持つことが許されています。

また、ロシアの場合は、仲間内の挨拶に「次は誰を殺す?」というものがあります。別にマフィアや暗黒街の挨拶というわけではなくて、ごく一般的な市民の間で使われているのです。お国柄というか、社会通念というか、何かが日本とは全く違うのです。

他にも、日本には、「たとえ落ちていた物でも、他人の物を自分の物にしてはいけない」という共通認識があります。しかし、この認識も、日本以外の国では、ほとんど通用しません。ホテルのロビーやお店の棚に置き忘れた財布は、店を出て数十秒後に気づいて戻ったとしても、日本以外の国では、まず、取り戻すことができません。その場合、中国でも、「盗まれる方が悪い」と言います。

日本以外の国では、自動販売機が路上に置かれていることがないのも同じ理由です。ドイツであろうと、イギリスであろうと、路上に自動販売機があったら、数日以内に、ボコボコにされてしまいます。「なぜ、貯金箱を路上に置いておくんだ?」と、彼らは言います。そんなことをする方が非常識だというのです。

また、中東で、胸のポケットにペンを2本挿していたら、「1本よこせ」と必ず言われます。「お前は2本持っているが、俺は持っていない。だから、俺はその片方を持つ権利がある」と言うのです。

さらに、日本人は「警察は、市民のために役に立とうとするものだ」という共通認識があります。ところが、インドでは、たとえ、自分の娘が誘拐されたとしても、貧乏人は、警察に訴えません。なぜなら、お金(ワイロ)を払わなければ、警察は決して動いてくれないことを知っているからです。

ですから、この世界に、統一された価値観としての共通認識など存在しないのです。幻想は抱かないことです。日本人にとって、当たり前のことが、その他の世界では非常識なのです。ですから、他国の常識に合わせようとすることが、いかに無謀で意味のないことか、それどころか、危険でさえあるということを、私たちは、まず、認識しなければなりません。

私たち日本人が、殺さない、盗まないのは、そのように教育されているからではありません。それが、日本人の当たり前の共通認識だからです。統一された文化の力というものが、どれほど素晴らしいものか、理解できるでしょうか。

この文化は、一朝一夕にできるものではありません。数百年、数千年、数万年の時をかけて、社会の中に醸成されてきたものです。

荒俣宏さんが、「日本には、忍者がたくさんいる」とおっしゃっていたことがあります。何の報酬もなく、名誉も欲せず、ただ、影に隠れて人知れず、みんなのため、国のために、日々、力を尽くしている人たちが、社会の中、いろんなところにいて、この国の屋台骨を支えている、ということをおっしゃっていました。このような文化(価値観)が、そう簡単に生まれるわけがないのです。

ところが、この文化は、生み出すのは至難の業ですが、壊れるのは一瞬なのです。実に、危うく、壊れやすいものです。

そういう貴重で稀有の文化を、無意識のうちに、軽んじ、蔑み、破壊する人たちが、この国にはたくさんいます。そうして、私たちは、今日、日本民族が連綿と受け継いできた1万年の伝統を、わずか数十年で失いつつあります。

 

 

誰が、日本を破壊しようとしているのか?

それこそが、昭和の重鎮たちを、老害の一言で、吐き捨てようとしている愚か者たちです。国際的な価値基準とか、そういう妄想を持って、日本人の共通認識や伝統的価値観を破壊してきたばちあたりの馬鹿者たちです。メディアにも、識者にも、そういう〝脳害〟の人たちが、70代以下の高学歴者には大勢います。彼ら、左派メディアとリベラル言論こそが、最大の癌であり、彼らこそが国を滅ぼすのです。

繰り返しになりますが、もう一度、言います。

「昭和の保守派」が、誰もいなくなった日本は、屋台骨を失った巨大組織のようなものです。あまりにも脆く、有事に対応できず、ただ右往左往しつつ崩れ去るだけです。このままでは、この国の未来は、あまりにも危ういと言わざるを得ません。

昭和の年寄り(80代)の言葉に耳を傾けるべきです、この国を滅ぼしたくなければ。

誰が、あなたたちを支えてきたのか、守ってきたのか、手遅れになる前に、気づきましょう。

 

今(2/7時点)、ご本人の不用意で迂闊な発言が、大きく取り沙汰され、森喜朗会長自身の進退が問われる事態となっている件について、少し申し上げたいと思います。

 

まず、ご本人の認識は、いかにも昭和の政治家らしく、非常に古い感覚であり、本人にはそのつもりがなくとも、結果として著しく差別的な発言となっていることは確かです。

たしなめるべきこと、諭すべきことであるのも確かですし、ご本人にも自覚を促したいとは思います。そうした議論は、大いにあって良いと思います。

ご本人も、ご自分の発言を、よく吟味されて、大いに反省されて然るべきです。きっと、森さんの奥様も娘さんもお孫さんも、そう思っていらっしゃることでしょう。

今回の発言は、ご本人がどう弁解なさろうと、明らかに女性差別的な発言でした。それは認めます。その通りです。森さんを非難される方達の言説は、いちいちごもっともで、何一つ間違ってはいません。

 

しかし、です。

現在のこの国のメディア報道のあり方は、それであっても、やはり、いただけないと思うのです。以下に、何がまずいのか、私の感じていることを正直に記します。

 

 

海外メディアが批判?

いえいえ、日本の左派メディアが、海外左派メディアに、わざわざ発言の切り取り情報を提供して、厳しい批判報道を促し、さらに取材に行って非難のコメントを頂く、つまり、海外の批判を焚き付けているだけでしょう?

目的は、外圧の逆輸入ですよね?

こうして、森喜朗さんの失言(?)の言葉尻を捉えて、殊更、悪意に解釈し、世界中に日本社会への誤解を広める、お馴染みのマッチポンプ戦略が、現在、例によって、日本の左派メディアを中心に、大々的に繰り広げられているわけなのですが、私は、毎度の如く、飽きもせずに行われる、この告げ口外圧逆輸入プロセスに、辟易しています。

リベラルを自認する皆さん、保守政治家の発言を切り貼りして海外メディアに流し、自分たちに都合の良い政府批判を巻き起こそうと画策する、そして、政権を倒すことを目指す。いい加減、こういう姑息な保守政権打倒のやり方は、やめにしませんか。

見苦しいだけでなく、社会の分断をさらに深めるだけですから。何一つ、日本のためにならない。

それに、国民の方も、欧米コンプレックスが今だに根深過ぎて、本当に外圧(CNNとかルモンドとか)に弱いものだから、すぐにころりとリベラルの策略にしてやられるのです。情けない。

日本以上に社会倫理が進んでいる国なんて、実は、どこにもないのです。ですから、海外に批判されようと、どうせ、批判している相手の国にしたところで、大したことないのですから、「ああ、そうね、一応聞いとくわ」と堂々としていればいいのです。

 

日本人は海外からの批判に弱すぎるのです。

実際、日本以外のどこの国に行っても、都市部には無数のホームレスが、路上で放置されています。あれだけの数の悲惨なホームレスの存在を、目の前で完全に無視できる欧米人に、人権がどうのこうの言われたくないです。

日本人よ、海外の人から何を言われようと、無視しろ、無視!

中野信子さんがおっしゃっていたように、日本人は、欧米では、男女差別が日本より少ないはず、と勘違いしているが、実はそうではないのです。

欧米の社会は、日本より優れているという間違った思い込みは、もういい加減、払拭されてもいい頃です。

海外が何を言おうと知ったことか!

「日本に文句を言うより、欧米人は自分の頭のハエを追え!」

そう言い放ち、堂々としている点では、中国を見習っていいと思うのです。

自分の価値観にそぐわないものを無理して受け入れる必要はない、ということです。受け入れたフリをする必要もありません。

演技はいらない。猿芝居はやめましょう。真実の自分の価値観を大切にしましょう。

日本は、今のような「劇場国家」から、いつになったら卒業するのです?

 

2015年に肺がんの手術をし、今も週3回透析を受けながら、無報酬で誰もやりたがらない力仕事を、強い使命感を持って、ここまで頑張ってやってきた戦前生まれの83歳のじいさんを、寄ってたかってスケープゴートに仕立て上げて、どうするのです。

政界を引退している御隠居の身で、健康に不安を抱えながら、命を削る覚悟で、最後の国へのご奉仕と、老体に鞭打って、誰もやりたくない仕事を引き受け、奔走してきた邪気の無い人物を、小さな小さな男尊女卑とも言えないくらいのたわいのない発言一つで、そこまで追い詰めなくてもいいでしょう。ちょっとぐらいユーモラスに感じて、仕方がない爺さんだなあ、と寛容に反応するぐらいの余裕があっていいのではありませんか?

「もうその辺でいいんじゃないか?」

「これ以上、功績ある御老体を鞭打つものじゃない。」

「見苦しいからやめろ!」

中国人なら、おそらくそう言うと思います。そして、そういう点でも、私は中国を見習うべきだと思うのです。

韓国を見習って、小さな瑕疵をことさら大きく取り上げて、辞めるまで叩き続けるというのは、どうしても好きになれません。もっとも、韓国の場合は、朴槿恵さんの時のように、辞めても更に激しく叩き続け、罪もないのに有罪にして刑務所にぶち込み、死ぬまでバッシングを続けるということも多いのですが。

韓国の日本叩きには、その特徴がよく現れていますよね。

 

机の上の勉強だけしてきて、世の中や人間を知らない〝識者〟たちが、テレビで正論ぶって森さんを激しく非難するのも、左派メディアが森さんを追いかけ回して辞任を求めるのも、本当に聞き苦しいです。

社会的認識の古さや多少の思い上がりから失言を生んでしまったことで、追い詰められている森さんの無私の心より、追い詰めている側の酷薄さや野心に満ちた策略や独善的ルサンチマンの方が、私から見ると、はるかに気持ちが悪い。

唯我独尊の極地に脳が固まっている欧米価値基準至上主義のリベラルが、無慈悲に騒ぎたてるのはいつものことで仕方がないとしても、偏向した左派メディアの策略に踊らされて、国民全体が森さん排除に傾いてどうするのです。

聖火ランナーが走らないとか、ボランティアが辞めるとか、メディアによるプロパガンダに簡単に操られる、日本国民の総白痴化傾向には処置なしです!

メディアはウソをつかないという思い込みにも呆れますが、同時に、ここにも〝空気の支配〟があります。たとえ異論があっても自分に火の粉が飛んでくるのが嫌で沈黙する国民もまた、亡国に加担しているのです。

繰り返しますが、自分の価値観を、遅れているとか、進んでいるとか、思い込まないことです。権威に依存せず、人任せにせず、時代や時勢に流されず、何が正しいのか、自分の感性と理性で判断しましょう。

この点で、私は、「日本は外圧に弱いと見做され、外国にコントロールされてしまう」という中野信子さんの懸念に、大いに同意します。

 

田原総一朗さんが言うように、森さん自身は、「自分が辞めて済むなら、いつでも辞める。あれこれ言われ続けるより、その方が楽だ」と思っているでしょう。

奥様にも相当叱られたそうですし、お孫さんが、心配のあまり倒れられたことから、森さんご本人も「謙虚でありなさい」という奥様の言葉を真摯に受け止められているようです。

そもそも、自分の欲心で会長に就任しているわけではないでしょうし、この難しいコロナの時期に、史上最も困難な仕事に、あのお歳で、責任感を持って立ち向かうのは、正直、重圧が大きく、難儀なだけで、何の旨みもなく、また、誰でもできることではありません。そもそも、森さん本人には会長職への未練などないでしょう。「国へのご奉仕」という言葉にも嘘偽りはないと思うのです。

それを「辞めろ、辞めろ」とサイレント・デモするとか、なんだか、凝り固まった理念や情念だけで動く、感情の深みのない、心の潤いの枯れ果てた人たちのように感じます。

 

しかし、舛添さんの時も、猪瀬さんの時も、小保方さんの時も思ったのですが、一生懸命頑張っている人への敬意も感謝も信頼もない、血も涙もない、これで、この国はいいんですかね。

現代の日本社会では、人間精神が、ここまで薄情で不信に満ちた薄っぺらなものになってしまったのでしょうか。これこそ〝いじめ社会〟ではありませんか。

こうした無惨な左翼メディアによる世論操作活動によって、社会から〝おおらかさ〟〝寛容さ〟がますます失われ、ストレスの多い社会になっていきます。

言葉尻を捉えて騒がれ、進退問題になる社会では、誰もが、保身のために、言葉遣いに神経を使いすぎるあまり、時折、ガードを下げて面白いことを言う、サービス精神のある個性的で味わい深い人間的な人が、まったく出てこない、無味乾燥で面白みのない、出涸らしのお茶のような世の中になってしまいます。それは、人が人を信じられない社会でもあります。

 

私は、森さんの失言より、コロナ禍を過剰報道し続けて、コロナへの不必要な恐怖を煽りつづけてきたメディア関係者の方が、はるかに高慢で思い上がっているし、反省もないし、煮ても焼いても食えない、社会にとって深刻な害悪であると思うのです。

また、上記したように、これまでも、猪瀬さん、舛添さん、小保方さんへのメディアのバッシングは、本当に酷いものでした。安保法制などの時の安倍さんへのバッシングも、最低でした。メディアの個人攻撃は、国民的な人格否定の動きの温床となりました。

左派メディアの場合、あらゆる一次情報や二次情報、正しいデータを無視して、「自分たちは正当なことをしている」「世の中をいい方向に変えるために努力している」「私は正義の側にいる」と、根拠なく思い込んでいるところが、一番始末に負えないのです。

都合の良いすり替えと自己正当化が、とても上手であるということは、情報戦やプロパガンダの才覚があるのです。言い換えれば、対等の議論のできない権威主義者であり、同時に〝良心のない人〟ということでもあります。

 

そして、常々思うことは、「権力者はすべて野心に満ちた悪党」という妄想は、リベラルの側の勝手なミラーイメージではないか、ということです。この国の社会に巣食う深刻な人間不信の最たるものが、リベラルの抱く権力不信と利己的な野心と一方的で偏った権威主義だと思うのです。

さらに、彼らの権力不信の裏側には、根深い人間不信が横たわっています。自分以外の人間を信じない者たちが、相手を蔑み、黙らせ、コケにして、自分の側の優越性を誇示することで、世の中を変えようとする。それを〝啓蒙〟だと勘違いしている。

けれども、相手を馬鹿にしながら、啓蒙なんてできるわけがない。無理、無理、絶対無理です。

人間を信じない者たちが、社会を良い方向に変えられるわけがないのです。

「思い上がってはいけない」という戒めは、森さんだけでなく、いや、むしろ、森さんの断罪者たちにこそ、ふさわしい。

 

 

こういう状況では、私は、森さん擁護にまわります。辞める辞めないは、ご本人が決めることですが、どちらであっても、私は、今の批判のあり方は間違っていると思うからです。

あなたは会長には適任ではないと思いますよ」と、インタビューしている記者が、面と向かって言ってどうするのでしょうか。そういう人間の質問に、素直に答えられる人がいるでしょうか。

自分が知ろうとするべき報道対象を、自らの勝手な思い込みで〝敵〟と認定した時点で、その記者はジャーナリストではなく、悪質なプロパガンダ要員に成り下がっているのです。

私は、とことんあなたの発言を印象操作させていただきますよ」と言っているのに等しく、これはメディアによるハラスメントにあたります。

こうしたメディアの不適切な活動が、大々的に繰り広げられ、「森、辞めろ!」の大合唱が演出される。これがメディア・スクラムです。

小保方さんバッシング、猪瀬さんバッシング、舛添さんバッシング、安保法制バッシング、安倍さんバッシングなどで、これまでも散々行われてきたワンパターンの手法ですが、国民は、なぜか、毎回、この恣意的なメディアのスクラムに乗ってしまうのですよね。素直と言うか、ナイーブと言うか、騙されやすい人たちです。

小保方さん、猪瀬さん、舛添さん、森さん、皆、その犠牲者です。正直、私は、国民のあまりの定見のなさと操られやすさと人間不信の強さとバッシングの酷薄さに、毎度のことながら、胃が締め付けられ、胸がムカムカしてしまいます。

(2月7日記)

 

 

 

※2月11日、森さんが、辞任なさるそうです。ご本人にとっては、重荷を下ろされて、良かったのではないでしょうか。本当にお疲れ様でした。

「後を誰かに託す必要もない」「あなたが決めるのはおかしい」とまで言われているのだから、どうぞ、すべて放り投げちゃってください。

どうせ、次の会長なんて、誰もなりたくないんだから。

決まらなくても、いいんじゃないですか。

辞めろと言ったのは、メディアと国民なのだから、あなたのせいではありません。

「あと何年生きられるかもわからない、それでも、日本のために、自分の最後の時間まで使いたい」というあなたの心意気が、残念ながら、この国の国民、メディアには、もはや通じないのです。

寂しいですね。寂しい国です。

だから、この国は、どこまでも落ちぶれていく。

 

ただ、なんだか、もう、私も、オリンピックなんて、どうでもいい感じです。

功労者を次々と血祭りにあげる

こんな国民のために、誰が一生懸命に、尽くせるでしょうか?

この国は、もうダメです。

この国のために、日本のために、日本人のために、みんなのために、何か頑張りたいという人は、この国では、お呼びじゃないんです。必要じゃないんです。いらないんです。

だったら、そんな国は、滅びるしかない。

消防士も、警察官も、自衛官も、海上保安官も、どうして命をかけられますか?

どうして、こんな国民のために、天皇皇后両陛下が、自分の人生を犠牲にしなけりゃならないんです。

無私の心で、みんなのために尽くす人は、この国では邪魔なんですよ。

国が潰れることを願っている人が多いのでしょう。

日本が嫌いなんです、きっと。

 

 

 

⭐️参考までに、失言(と言われている発言)の全文

「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた。(笑いが起きる)5人います。

 

女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それで、みんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。


 私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。」

 

この失言(?)、人格否定されるほどの暴言なのでしょうか?

欧米人に、この発言のニュアンス、そして、御本人の人格、すべて裁けるでしょうか?

この程度の失言で、これまでの功績を完全に無視され、全人格を否定され、ここまで全世界人類社会から叩きのめされるようになっては、この社会に、おおらかさや寛容さなど、一切期待できないでしょう。この国のメディアは「失言警察」か!

私は、失言ではないとは言っていない。失言ではあっても、これで必ず辞任させなければならないほどのことか、そこまで追い詰めなければならないことか、と言っているのです。

反省がない、と言われても、本人には、男尊女卑の意識などかけらもなく、言葉遣いが悪いだけなので、そんなことは、周囲もみんなわかっているわけです。それを「隙を見せたお前が悪い!」と、まるで溝に落ちた犬を叩くが如く、リンチにかけるのが正しいのか、ということです。

無意識の差別を問題視するなら、私は、例えば、トランプ支持者に対するリベラルの差別意識は、こんなレベルではないと思います。けれども、CNNは、決して問題にはしません。

この世界の最も深刻な問題、学歴差別、見かけ上の知性差別、英語力差別、資格差別の甚しさについて、世界のメディアは、どこまで無視し続けるのでしょうか。

 

さらに言えば、このレベルで森さんが排斥され、ボランティアも辞め、聖火ランナーも走らないのであれば、ノーベル平和賞受賞者を牢獄に繋ぎ続け、その死後も、配偶者を監禁し続けている、習近平の中国でのオリンピックなど、とんでもない話です。むり、むり、むりです。

朝日、毎日、CNN、世界のあらゆるメディア、加えて、今回、森おろしに賛同した日本国民は、「天安門事件をいまだになかったことにしている情報統制デジタル独裁国家、ウイグルやチベットを収容所化している人権弾圧国家である中国でのオリンピック開催に抗議し、「オリンピック憲章に反する!」と徹底的に非難し、ボイコットしてください。トヨタも、NBCも、IOCも、小池都知事も、当然、「オリンピック精神に反する国家での開催には協力できない!」と、北京オリンピック反対の声明を出すんですよね。

辻元清美さんも、蓮舫さんも、福島瑞穂さんも、北京オリンピック反対の大合唱、待ってます。

日本と中国で、ダブルスタンダードの扱いは、到底許し難いですからね。

 

 

静岡県川勝知事の発言→「森さんは、女性蔑視する人ではない」「ちょっとしたユーモアのつもりで言葉が過ぎるのが欠点ではあるが、(メディアの)レッテル張りが、辞任要求という事態を招いている」

舛添元都知事の発言→「都民は森さんに感謝すべき」「功績も評価しなくてはならない」「(発言への野党女性議員の非難抗議表現のあり方には)失笑を禁じ得ない」

それぞれに、見直しました。

リベラルとか、保守とか、関係ないですね。

要は、痛みがわかるかどうかです。

この二人は、黙っていられなかったのでしょう。

そうした一方で、何も感じないサイコが、世の中、本当に多くなりました。

彼らは、言葉で、遊びで、虐待を楽しむ心で、人を殺します。

アメリカ人のデーブ・スペクター氏ですら「失言ではあるけれども、森さん本人に悪意はないですよ。欧米メディアは、切り取られた言葉しか読んでいない。IOCに権威なんかないですよ。本当は、ここまで騒ぐことではないでしょう。みんな、騒ぎ過ぎです。冷静さを失っている。これほどまでに騒いで、いったい何を目指しているのか、何がしたいのか、ちょっとわからない」と普通に言っています。

ところが、この当たり前の感覚が、肝心の日本人にわからない。情けない限りです。

 

昭和の保守派」が、いなくなったら、おそらく、この国はもう保たない。この国の屋台骨を支えている80代の人たちを、老害などと罵って排除して、自分の首を絞めている。そのことにすら気づかず、ある意味、眠ったまま自殺を図る夢遊病者のバカ者どもが、この国には多過ぎるようです。

 

「生物学的に大人になること」と、「人間として大人になること」は、まったく違うことです。

生物学的には、人間は、誰でも、歳を重ねれば、何も考えなくても、自動的に大人になるものです。身体が、大きくなり、大人の身体になり、子供を作ることもできるようになります。

生まれてから、18〜20年経過すると、どこの国でも、選挙権も与えられ、法的にも〝成人〟と呼ばれる〝大人〟になります。法的に大人ですから、自分の意思で、就職も結婚もできるようになります。

ですから、生物学的に、また、法律上、大人になることは、誰にでもできます。何もしなくても、時間の経過によって、自然に大人になるのです。

こうした〝子ども〟から〝大人〟への変化は、生物学的には目に見えてわかるものですし、法的にも書類上で証明できます。

 

けれども、「人間として大人になること」は、それほど簡単なことではありません。なぜなら、人間として大人になるためには、心が大人にならなければならないからです。そして、心が大人であるかどうかを測る物差しは、目に見えるものではないからです。

心が大人になる過程、それは「心が育つ」過程です。身体が育っているかどうかは、自分も他人も、見たり触ったりして、簡単に確かめることができます。しかし、心が育っているかどうかを判断するのは、そう簡単ではありません。

何歳になったから、もう大人だ、と言えるものでもありません。スーツを身につけているから大人というわけではないし、クルマを運転できるから大人というわけでもありません。博士号を持っているから大人というわけでもありません。定職についているから、結婚しているから大人というわけでもありません。外見や資格などからは、なかなか判断できないのです。

 

一方で、最近は、30歳になっても、40歳になっても、自分のことを〝子ども〟だと認識している人が増えている、という調査結果もあります。

これについては、精神の低年齢化、幼児化、心理社会的モラトリアムの長期化等々と言われていますが、今日の世界的な社会問題でもあります。ピーターパン症候群とも呼ばれています。ニートや引きこもりの増加傾向にも、当然、深く関わっています。大人になれない親による家庭教育の問題、いわゆる〝毒親〟の問題、そして、育児放棄や児童虐待にも関係があります。

心の育っていない親は、子どもの心を育てることができません。その悪循環、負のスパイラルが、今日の人類社会を、劣化させているのです。

ともかく、大人になれない人、大人になりたくない人が、世界全体で増えているということです。

 

中でも、日本は、特に、その傾向が激しいという気はします。

ただ、目に見えないものを、どうしたら測れるでしょうか。

人の心の〝大人度〟を、どうしたら測れるか、という問題です。

心を測ることができるものは、心だけです。人は、心によって心を測ります。けれども、心で測ったものは、数値化もデータ化もできませんし、目にみえる形で証明することもできません。

現代人は、客観的に測れない問題を重要視しません。だから、そのせいで、あまり深刻に考えられていないのです。

そして、大抵の人は、生物学的、法的に大人になれば、身体が大人になるのだから、自然と心も大人になるものだ、と根拠なく簡単に考えているのではないでしょうか。

ところが、現実は、そうはなっていません。

身体が大人になっても、それに準じて心も大人になるわけではないのです。

 

 

 

では、心が育つ、大人になるとは、どういうことなのか、少し考えてみましょう。

意味深く難しいことですので、とりあえず、まず、箇条書で、心の成長した大人の条件を挙げてみます。

 

①自分自身や周囲の状況を的確に把握し、自分が何をなすべきか、理解し自覚できること。

②自覚したことを実行に移す強い意思を持ち、かつ、すみやかに実行できること。

③自分のしたことの結果を、自分に責任があると感じ、理解し、受け止められること。

④他人を裁かず、許すことができること。

⑤他人を理解し、信頼し、その存在を受け入れることができること。

⑥他者と共感しあえること。必要な時に助け合えること。信じ合えること。

⑦自分に何ができ、何ができないかを知り、あるがままの自分を受け入れていること。

⑧自分が、他者によって支えられていることを自覚すること。感謝できること。

⑨屈辱も、危機も、困難も、不運も、自分を成長させるために運命の課した試練・糧として、受け止めることができること。

⑩自分以外に、守りたいものがあること。

⑪たとえ何があっても、絶対に信頼できる人がいること。

⑫自分を大切に思うのと等しく、時にはそれ以上に、大切に思える他者がいること。

 

私見ではありますが、上記の条件すべてにおいて、多少なりとも、当てはまるのであれば、その人は、心が育ってきていると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

ところで、上記した理解や自覚や意思が育つためには、その前提条件として、心が自由でなければなりません。

何もかもお膳立てされて、言われるがままに教育されている子どもは、自分の心を育てることが困難になります。エスカレーター式の見込み教育、至れり尽くせり、手取り足取りの熱心な教育は、かえって心の成長を阻害してしまうのです。

あなたは、親や周囲の言いなりになることなく、あなた自身の人生を歩まなければなりません。

また、情報の検索やインプットやアウトプットは、あなたの心を育てません。あなたの心を育てる実効性のあるプログラムに関する情報は、外の現実世界にはないからです。

あなたは、自分の心の赴くままに、あなたの心を育てるしかないのです。

加えて、重要なことですが、経済効率性はあなたの心を育てません。心が育つためには、時として、非常に非効率な時間を過ごす必要があるのです。

「これは何の役に立つのか」という問いを、しばしの間、忘れることです。役に立たなくてよいのです。今、あなたのしていることが、何の役に立つのか、誰にもわからないからです。

 

「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」「運命は糾える縄の如し」とも、申します。

親から見て〝いい子〟が、必ずしも、心が育っているとは限らないのです。それは、単に、〝親にとって都合のいい子〟を演じているに過ぎないのかもしれません。年老いた時、一番悩まされた〝親の言いつけを聞かなかった悪い子〟に、面倒を見られるというのも、世の中には、よくあることです。

子どもの心を豊かに成長させたいのなら、我が子を、絶対に比較しないことです。他人の子とも、兄弟とも、です。それもまた、子どもの自由を抑圧し、根深いコンプレックスを植え付けてしまい、子どもが自由に生きることを妨げるからです。

子どもは、あなたの飾りやアクセサリーではないのです。あなたの自慢の種になるために、生まれてきたわけでもありません。

子どもを支配してはなりません。信頼し、解き放ちなさい。

 

厚労省の人口動態統計の速報によると、2020年1〜11月の死者数は、前年比で15,000人減少したそうです。少子高齢化のために、毎年18,000人程度増加していたのが、11年ぶりに減少に転じたのです。12月に多少死者数が増えているのは事実ですが、例年、冬には夏場の1.4倍程度死者数が増えるものなので、たとえ、冬場の増加が、例年以上になるとしても、それによる逆転が起こる可能性は低いと思われます。

そのため、死亡数予想値に対する超過死亡に関しても、予想値に対して30,000人以上の減少になりますから、日本の場合は、2020年度の超過死亡がまったくない、ということです。コロナ禍による死者数の増加はなかったのです。

欧米諸国が、数十万人、数百万人レベルで、超過死亡数が増えているのとは、ぜんぜん違う状況です。

 

個別に見ていくと、自殺数は増えましたが、インフルエンザの感染者数が激減し、そのためか、肺炎による死者数が目立って少なく、これが、全体の死亡者数を下げました。

結局、コロナ禍によって、死者数が、例年の増加状況に比べて、3万人以上低いということになります。感染を恐れて、なるべく病院へ行かずに、自助努力で健康を保とうとした国民一人一人の努力が功を奏したということかもしれません。

また、これにより、コロナの関連死亡者数は、寿命による老衰の死亡者数と、かなりの部分、重なっている可能性が強まりました。

 

日本では、コロナが原因で亡くなった人の数は、せいぜい1〜2,000人ぐらいで、統計上、目立つほどではない、ということです。

例年のインフルエンザの方が、むしろ、深刻なレベルであったのです。

2類感染症指定を外し、私立の医療機関が、コロナの中等症・無症状の患者を診て、大病院はICUを分けて、コロナの重症者を診れば、緊急事態宣言解除、及びGo To再開も可能です。

メディアも、状況把握を的確に行なって、きちんとした報道をしましょう。

根拠のない政権批判は、本当に見苦しいです。野党も、メディアも、コロナを、これ以上、政争の具にするのはやめましょう。

新規感染者数や累計関連死者数の数字を恣意的に用いて、脅威を煽り、国民を脅すのはやめましょう。もうたくさんです。これ以上、姑息な印象操作を続けるのは、メディアへの信頼を失わせるだけです。

日本の実情は、十分経済を回せるレベルなのですから。

 

変異型ウイルスが、1.7倍の感染力だろうと、ワクチンが効かなかろうと、重症化率が1.3倍になろうと、我が国のコロナ状況に、大した影響はありません。

メディアの変異型ウイルスに関する報道姿勢については、過剰反応による恣意的な偏向報道である、と言うよりほかありません。

お願いですから、人口比で日本の15倍近い関連死者を出しているドイツの厳格なコロナ対策を取り上げて、「日本はドイツに学ばなければならない!」「さもないと日本は大変なことになる!」という使い古された印象操作を、マスコミは、これ以上、繰り返さないで欲しい、と強く思うのです。

「ドイツは、日本より優れている」という思い込みから、そろそろ卒業しましょう。

 

ただ、感染が確認されているのに、病院を抜け出して、お酒を飲みにいく人たちには、罰則を設けるべきです。海外からの渡航者が、自宅待機期間に街をうろつくのもやめさせましょう。私権の制限も、それぐらいは必要です。

この点では、諸外国の対策を、少しは学んでもいいのではないでしょうか。

マスクを着用しないと罰金とか、そういうくだらない規制は真似しないでいいと思いますが、共産や立憲やメディアの人たちのように、何があっても私権制限は許さないという態度は、本当におかしい。主権者である国民の権利として、陽性の軽症患者や無症状者が、病院や待機場所から勝手に抜け出して街をうろつくのを防ぐ権利もあるでしょう。これこそ〝公共の福祉〟というものです。

それすらできないとなると、安心してオリンピックも開催できません。