私は、森喜朗さんの一件に関する記事の最後に、「昭和の保守派がいなくなったら、この国はもう終わり」と記しました。

しかし、その根拠に納得がいかないという人も、多いかもしれません。世間では、むしろ、「昭和の保守派は、もう要らない」「老害は去れ!」などと、盛んに言われているのですから。

一方で、私は、真逆のことを言っています。そのため、この状況では、私が考えていることを、もう少し詳しく話さなければ、言わんとすることは、十分理解されないかもしれません。

そこで、昭和の何が、それほどまでに必要なのか、平成・令和の人間に何が足りないのか、について、この記事では考察してみようと思います。

 

 

昭和の、特に、戦前生まれの80代の人間にあって、平成・令和の人間に決定的に欠如しているもの、それは、濃密な信頼関係を生むコミニュケーションのスキルです。

このスキルがあるから、森喜朗さんは、オリンピック委員会をまとめあげることができていました。

かつては、ジャーナリストにとっても、渡邉恒雄さんなど、その典型ですが、相手の人間を見極め、その懐に飛び込み、信頼を勝ち得るコミュニケーションのスキルは、絶対的に必要なものでした。しかし、今日、このスキルを豊かに持ちあわせて、第一線で活躍を続けているジャーナリストは、田原総一朗さんぐらいでしょうか。

けれども、以前は、そういうジャーナリストがたくさんいたのです。そして、森喜朗さんの世代の政治家たちは、かつて、そうしたジャーナリストたちとの付き合いが深かったのです。

ですから、森さんのような人から見れば、共感力や洞察力に乏しい、人間的な情感のかけらも感じさせない、現在の若い記者たちは、頭でっかちで、姑息で、まったく信用できない、何を考えているか、まったく分からない〝のっぺらぼう〟のような連中にしか見えないでしょう。森さんにとって、彼らとのやりとりは、何の人間的な温かみも感じられない、砂を噛むように味気ない、そして、時には、我慢できないほど腹立たしいものと感じられるはずです。

あなた、今、私を、一人の人間として、向き合っていますか?」「そんな、のっぺりとした偽りの仮面を顔に貼り付けて、獲物を狙うハイエナのように冷血な目をして、無礼な質問を重ねて、また、私の失言を誘うのか?」「それで、結局、君は、何がしたいんだ?」「君は、この国を、どうしたいのだ?」「人間が人間を信用できない国になっていくことが、日本人にとって、この国にとって、良い方向だと、本気で思うのかね?

森喜朗さんの記者たちへの怒りの根源には、こうした問いがあるのです。ところが、記者たちは、この問いかけを、平然と無視します。彼らは、決して、その問いを、真正面から受け止めて、真摯に向き合おうとはしません。

そういう大切な問いかけを無視されると、存在そのものを無視されているように感じられるものです。人間扱いされていないと感じるのです。特に、昭和の人間は、そうした感情を、胸に強烈に突き上げる熱い奔流のように感じられるものです。

取材相手がそんな風に感じていたら、まともなインタヴューになるわけがないのです。当然、表情は硬くなり、ムッとした表情を隠せません。言わなくていいことも、我慢できずに言ってしまう。それで、今度は、態度が悪いとか、反省がないとか、書き立てられるわけです。

このようなメディアの活動は、あまりにも不毛であり、社会に不信と混乱しかもたらしません。

かつての昭和のジャーナリストは、少なくとも、そうではありませんでした。彼らには、取材相手の言葉を、受け止める度量と誠実さがありました。だから、取材対象の人々に信頼され、さまざまな話を打ち明けられたり、時には相談までされました。そういう人が、実力のある人として、社会的に重んじられていました。その人間的な信頼が、平成・令和の人間に、決定的に欠けている部分です。

ジャーナリストだけでなく、国民全体に欠けてきているのです。

 

彼らは「老害は去れ!」と言います。けれども、その老人たちのお陰で、かろうじて、この国が、世界の国々と渡り合える交渉力、日本社会を有機体として動かす活力、国家としての格好のつく対面を保っていることには、まったく気づいていません。

戦後生まれの団塊の世代以降の人たちの多くが、そうなのです。まして、平成生まれとなれば、まったく異次元の感覚でしょう。

彼らは、自分たちにない昭和のコミュニケーション・スキルが、実は、世界に通用するものであり、日本が、これまで、国際的信用を勝ち取ってきた根源の力であることを知りません。

戦後の人間は、戦中の精神主義が打ちのめされ、欧米の科学を至上とする価値観を絶対的なものと考える価値観の中で育ちました。それは、同時に、日本人が長い歴史の中で培ってきた日本的共感のあり方、日本的受容的精神のあり方を、欧米の客観性を重んじる精神のあり方より劣ったものと考える劣等意識を伴うものでした。しかも、皮肉なことに、その欧米コンプレックスの内面化の傾向は、高い教育を受けた者ほど根深く拭がたいものになり、やがて、団塊ジュニアと呼ばれる子や、さらにその下の孫の世代には、内面に巣食う精神の危機は深刻なものになりました。

日本人は、特に、高等教育を受けた研究者や教育者ほど、伝統的なコミニュケーションのスキルを軽んじ、早期に徹底的に失ってしまいました。その因縁は、子、孫に受け継がれ、より強烈に顕在化するようになります。

そして、この傾向は、平成になると、庶民の範囲にまで広がり、市民社会は、その有機的な繋がりや活力を失ってしまいました。

彼ら、新しい世代の特徴は、主観を排した客観性の極端な偏重と、実利主義の思考に貫かれています。さらに、彼らは、表面上、建前上はどうであれ、内面においては、徹底した個人主義と利己主義を、ためらいなく肯定できるのです。

公への献身を尊重する文化が崩れ、リベラルとリバタリアンしかいない世界では、利他主義を攻撃する客観主義者アイン・ラントが描いた「肩をすくめるアトラス」の物語のように、優秀な人ほど「なぜ、私が、あなたたちのために、犠牲にならなければならないのだ?」と考えるようになります。もう、そういう世界が、日本にも到来しているのです。

公のために私を犠牲にすることを厭わない感覚は、とうに失われてしまいました。

今日、80代以上の人たちは、今では失われてしまった日本人の公を尊ぶ意識と伝統的な共感的コミュニケーションスキルを有する貴重な人材なのです。

それを知らずして、「老害は去れ!」などと心ない言葉を投げつける。何と安易な思考、何と軽々しい言動でしょう。文句を言うばかりで、自分では何も創り出せない。言うだけ言い放って、自分では何も責任を負わない。しかも、その姿勢が、国にとって、いかに破滅的であるか、まったく自覚していない。何と未熟で危うい人たちなのでしょう。

 

この国の社会の共通認識を土台とする統一された文化と価値観は、今、崩壊の危機にあります。この「共通認識」「統一された文化と価値観」が、どれほど大切なものか、私たちは、日常、あまりよくわかっていないのです。

例えば、私たちの社会には「何があっても人を殺してはならない」という共通認識があります。しかし、日本以外の社会では、必ずしも、それは共通認識ではありません。「ある状況においては殺してもよい」という認識が一般的な社会も多いのです。

例えば、アメリカでは、「自分の身を守るためには殺してもよい」というのが共通認識です。だから、一般市民が銃(サブマシンガンからショットガンまで)を持つことが許されています。

また、ロシアの場合は、仲間内の挨拶に「次は誰を殺す?」というものがあります。別にマフィアや暗黒街の挨拶というわけではなくて、ごく一般的な市民の間で使われているのです。お国柄というか、社会通念というか、何かが日本とは全く違うのです。

他にも、日本には、「たとえ落ちていた物でも、他人の物を自分の物にしてはいけない」という共通認識があります。しかし、この認識も、日本以外の国では、ほとんど通用しません。ホテルのロビーやお店の棚に置き忘れた財布は、店を出て数十秒後に気づいて戻ったとしても、日本以外の国では、まず、取り戻すことができません。その場合、中国でも、「盗まれる方が悪い」と言います。

日本以外の国では、自動販売機が路上に置かれていることがないのも同じ理由です。ドイツであろうと、イギリスであろうと、路上に自動販売機があったら、数日以内に、ボコボコにされてしまいます。「なぜ、貯金箱を路上に置いておくんだ?」と、彼らは言います。そんなことをする方が非常識だというのです。

また、中東で、胸のポケットにペンを2本挿していたら、「1本よこせ」と必ず言われます。「お前は2本持っているが、俺は持っていない。だから、俺はその片方を持つ権利がある」と言うのです。

さらに、日本人は「警察は、市民のために役に立とうとするものだ」という共通認識があります。ところが、インドでは、たとえ、自分の娘が誘拐されたとしても、貧乏人は、警察に訴えません。なぜなら、お金(ワイロ)を払わなければ、警察は決して動いてくれないことを知っているからです。

ですから、この世界に、統一された価値観としての共通認識など存在しないのです。幻想は抱かないことです。日本人にとって、当たり前のことが、その他の世界では非常識なのです。ですから、他国の常識に合わせようとすることが、いかに無謀で意味のないことか、それどころか、危険でさえあるということを、私たちは、まず、認識しなければなりません。

私たち日本人が、殺さない、盗まないのは、そのように教育されているからではありません。それが、日本人の当たり前の共通認識だからです。統一された文化の力というものが、どれほど素晴らしいものか、理解できるでしょうか。

この文化は、一朝一夕にできるものではありません。数百年、数千年、数万年の時をかけて、社会の中に醸成されてきたものです。

荒俣宏さんが、「日本には、忍者がたくさんいる」とおっしゃっていたことがあります。何の報酬もなく、名誉も欲せず、ただ、影に隠れて人知れず、みんなのため、国のために、日々、力を尽くしている人たちが、社会の中、いろんなところにいて、この国の屋台骨を支えている、ということをおっしゃっていました。このような文化(価値観)が、そう簡単に生まれるわけがないのです。

ところが、この文化は、生み出すのは至難の業ですが、壊れるのは一瞬なのです。実に、危うく、壊れやすいものです。

そういう貴重で稀有の文化を、無意識のうちに、軽んじ、蔑み、破壊する人たちが、この国にはたくさんいます。そうして、私たちは、今日、日本民族が連綿と受け継いできた1万年の伝統を、わずか数十年で失いつつあります。

 

 

誰が、日本を破壊しようとしているのか?

それこそが、昭和の重鎮たちを、老害の一言で、吐き捨てようとしている愚か者たちです。国際的な価値基準とか、そういう妄想を持って、日本人の共通認識や伝統的価値観を破壊してきたばちあたりの馬鹿者たちです。メディアにも、識者にも、そういう〝脳害〟の人たちが、70代以下の高学歴者には大勢います。彼ら、左派メディアとリベラル言論こそが、最大の癌であり、彼らこそが国を滅ぼすのです。

繰り返しになりますが、もう一度、言います。

「昭和の保守派」が、誰もいなくなった日本は、屋台骨を失った巨大組織のようなものです。あまりにも脆く、有事に対応できず、ただ右往左往しつつ崩れ去るだけです。このままでは、この国の未来は、あまりにも危ういと言わざるを得ません。

昭和の年寄り(80代)の言葉に耳を傾けるべきです、この国を滅ぼしたくなければ。

誰が、あなたたちを支えてきたのか、守ってきたのか、手遅れになる前に、気づきましょう。