「生物学的に大人になること」と、「人間として大人になること」は、まったく違うことです。
生物学的には、人間は、誰でも、歳を重ねれば、何も考えなくても、自動的に大人になるものです。身体が、大きくなり、大人の身体になり、子供を作ることもできるようになります。
生まれてから、18〜20年経過すると、どこの国でも、選挙権も与えられ、法的にも〝成人〟と呼ばれる〝大人〟になります。法的に大人ですから、自分の意思で、就職も結婚もできるようになります。
ですから、生物学的に、また、法律上、大人になることは、誰にでもできます。何もしなくても、時間の経過によって、自然に大人になるのです。
こうした〝子ども〟から〝大人〟への変化は、生物学的には目に見えてわかるものですし、法的にも書類上で証明できます。
けれども、「人間として大人になること」は、それほど簡単なことではありません。なぜなら、人間として大人になるためには、心が大人にならなければならないからです。そして、心が大人であるかどうかを測る物差しは、目に見えるものではないからです。
心が大人になる過程、それは「心が育つ」過程です。身体が育っているかどうかは、自分も他人も、見たり触ったりして、簡単に確かめることができます。しかし、心が育っているかどうかを判断するのは、そう簡単ではありません。
何歳になったから、もう大人だ、と言えるものでもありません。スーツを身につけているから大人というわけではないし、クルマを運転できるから大人というわけでもありません。博士号を持っているから大人というわけでもありません。定職についているから、結婚しているから大人というわけでもありません。外見や資格などからは、なかなか判断できないのです。
一方で、最近は、30歳になっても、40歳になっても、自分のことを〝子ども〟だと認識している人が増えている、という調査結果もあります。
これについては、精神の低年齢化、幼児化、心理社会的モラトリアムの長期化等々と言われていますが、今日の世界的な社会問題でもあります。ピーターパン症候群とも呼ばれています。ニートや引きこもりの増加傾向にも、当然、深く関わっています。大人になれない親による家庭教育の問題、いわゆる〝毒親〟の問題、そして、育児放棄や児童虐待にも関係があります。
心の育っていない親は、子どもの心を育てることができません。その悪循環、負のスパイラルが、今日の人類社会を、劣化させているのです。
ともかく、大人になれない人、大人になりたくない人が、世界全体で増えているということです。
中でも、日本は、特に、その傾向が激しいという気はします。
ただ、目に見えないものを、どうしたら測れるでしょうか。
人の心の〝大人度〟を、どうしたら測れるか、という問題です。
心を測ることができるものは、心だけです。人は、心によって心を測ります。けれども、心で測ったものは、数値化もデータ化もできませんし、目にみえる形で証明することもできません。
現代人は、客観的に測れない問題を重要視しません。だから、そのせいで、あまり深刻に考えられていないのです。
そして、大抵の人は、生物学的、法的に大人になれば、身体が大人になるのだから、自然と心も大人になるものだ、と根拠なく簡単に考えているのではないでしょうか。
ところが、現実は、そうはなっていません。
身体が大人になっても、それに準じて心も大人になるわけではないのです。
では、心が育つ、大人になるとは、どういうことなのか、少し考えてみましょう。
意味深く難しいことですので、とりあえず、まず、箇条書で、心の成長した大人の条件を挙げてみます。
①自分自身や周囲の状況を的確に把握し、自分が何をなすべきか、理解し自覚できること。
②自覚したことを実行に移す強い意思を持ち、かつ、すみやかに実行できること。
③自分のしたことの結果を、自分に責任があると感じ、理解し、受け止められること。
④他人を裁かず、許すことができること。
⑤他人を理解し、信頼し、その存在を受け入れることができること。
⑥他者と共感しあえること。必要な時に助け合えること。信じ合えること。
⑦自分に何ができ、何ができないかを知り、あるがままの自分を受け入れていること。
⑧自分が、他者によって支えられていることを自覚すること。感謝できること。
⑨屈辱も、危機も、困難も、不運も、自分を成長させるために運命の課した試練・糧として、受け止めることができること。
⑩自分以外に、守りたいものがあること。
⑪たとえ何があっても、絶対に信頼できる人がいること。
⑫自分を大切に思うのと等しく、時にはそれ以上に、大切に思える他者がいること。
私見ではありますが、上記の条件すべてにおいて、多少なりとも、当てはまるのであれば、その人は、心が育ってきていると言えるのではないでしょうか。
ところで、上記した理解や自覚や意思が育つためには、その前提条件として、心が自由でなければなりません。
何もかもお膳立てされて、言われるがままに教育されている子どもは、自分の心を育てることが困難になります。エスカレーター式の見込み教育、至れり尽くせり、手取り足取りの熱心な教育は、かえって心の成長を阻害してしまうのです。
あなたは、親や周囲の言いなりになることなく、あなた自身の人生を歩まなければなりません。
また、情報の検索やインプットやアウトプットは、あなたの心を育てません。あなたの心を育てる実効性のあるプログラムに関する情報は、外の現実世界にはないからです。
あなたは、自分の心の赴くままに、あなたの心を育てるしかないのです。
加えて、重要なことですが、経済効率性はあなたの心を育てません。心が育つためには、時として、非常に非効率な時間を過ごす必要があるのです。
「これは何の役に立つのか」という問いを、しばしの間、忘れることです。役に立たなくてよいのです。今、あなたのしていることが、何の役に立つのか、誰にもわからないからです。
「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」「運命は糾える縄の如し」とも、申します。
親から見て〝いい子〟が、必ずしも、心が育っているとは限らないのです。それは、単に、〝親にとって都合のいい子〟を演じているに過ぎないのかもしれません。年老いた時、一番悩まされた〝親の言いつけを聞かなかった悪い子〟に、面倒を見られるというのも、世の中には、よくあることです。
子どもの心を豊かに成長させたいのなら、我が子を、絶対に比較しないことです。他人の子とも、兄弟とも、です。それもまた、子どもの自由を抑圧し、根深いコンプレックスを植え付けてしまい、子どもが自由に生きることを妨げるからです。
子どもは、あなたの飾りやアクセサリーではないのです。あなたの自慢の種になるために、生まれてきたわけでもありません。
子どもを支配してはなりません。信頼し、解き放ちなさい。