平壌の上流地区に暮らす北朝鮮の特権的富裕層や指導層は、貿易封鎖による影響をまったく受けずに、豊かな生活を享受している。

その莫大な資金を用意している巨大な闇の役所は、北朝鮮国内では「39号室」と呼ばれる。

彼らは、北朝鮮国内に数百箇所ある強制収容所で、無実の囚人たちに無賃労働を強制させ、さまざまな工場を運営している。その工場で製造された商品は、中国の会社に秘密裏に輸出され、中国企業は、その商品を、海外の企業に、自社製品と偽って輸出している。

中国企業が、北朝鮮製品輸出の隠れ蓑になっているわけだ。

例えば、イタリアのブランド、アルマーニのスーツは、無実の女性たちを監禁収容した北朝鮮の収容所で、奴隷労働によって製作されたものである。そのスーツを購入した諸外国の富裕層の〝お金〟は、中国企業を経由して、北朝鮮の収容所に支払われている。そして、それらの莫大な資金を徴用しているのが「39号室」だ。

「39号室」は、アフリカでの北朝鮮製兵器工場の開発にも関わっているし、ロシアや中国、インドや中東への派遣労働者の賃金の大半を徴用してもいる。海外に展開する国営北朝鮮レストランの収入のほとんどを徴収してもいる。

金正恩は、北朝鮮レストランの売上や派遣労働者の賃金を搾り取り、兵器やアルマーニのスーツを製造させ、それらを売らせた資金で、贅沢な暮らしを享受している。また、北朝鮮の核兵器や弾道ミサイルも、この資金によって開発されている。

だが、「39号室」資金は、北朝鮮国民の、汗と血と怨念にまみれている。

 

北朝鮮では、選ばれたごく一部の模範国民だけが、首都平壌に住むことを許されている。その平壌市民の中でも、経済制裁の最中においても、何の経済的心配も持たない特権的富裕層は、さらにその一部である。

その他の国民は、平壌に足を踏み入れることさえできない。そして、国民の大多数を占める農村部の人々の4割が、常に飢餓に苦しんでいる。

そのため、北朝鮮国民にしてみれば、食べ物と眠るところがある収容所工場の若者たちは、まだしも恵まれていると感じるのかもしれない。そうして、北朝鮮の若者たちは、金王朝の外貨獲得の為に、工場や海外の建設現場や国営レストランなどで、使い潰されていく。彼らには、夢も希望もない。

北朝鮮は、飢餓を調教手段として、人間を家畜化する巨大な人畜農場半島である。

しかも、その邪悪な奴隷労働システムを支えているのは、アルマーニのスーツを喜んで買う、諸外国のエスタブリッシュメント(富裕支配階層)なのである。アルマーニの制服を採用した銀座の公立小学校も、その一式9万円の制服を安いと喜んだ父母たちも、北朝鮮の〝金王朝〟の財政支援に一役買っている可能性はある。

「日本から北朝鮮への資金の流れは、朝鮮総連やパチンコ屋や在日家庭や統一教会からの仕送りだけではない」ということだ。

日本を含め、各国の富裕層は、喜んで北朝鮮に資金を流している。そして、北朝鮮の核開発と金王朝の存続を支えているのである。

北の人権弾圧を支えているのは、他ならぬ、われわれ自身なのだ。

 

安くて質の良い製品を作る北朝鮮の奴隷労働工場の製品需要は、西側資本主義諸国の企業から引く手数多である。中国製とされるダイソーの100均製品、その他のイタリアブランドの繊維製品など、そのほとんどに、北朝鮮製が多数混じっているものと思われる。

 

Made in China(with North Korea)にだまされるな。

 

今、私たちは、何を見ているのだろう。

2021年3月、これまで1年間、コロナに空騒ぎしている間に、この国は、ズブズブと底なし沼に沈んでいく。それを、誰も止められない。

いったい、どうしてこうなってしまったのか。

私たちは、どこで間違えたのだろう。

 

 

 

 

 

10年前、2011年3月11日、私は、東北の海岸沿いの街や道路や空港を飲み込んでいく巨大な津波の映像を、津波に呑み込まれた後のいくつもの街の廃墟の映像を、福島の原子炉の建物の屋根が吹き飛ぶ映像を、テレビで見ていた。それは、まるで、幼い頃に見たウルトラマンの特撮映像のようだった。奇妙に非現実的だった。黙示録という言葉が、心に浮かんだ。

風評被害に苦しむ福島の農家から、例年なら御所に献上される上質な桃を、安価でネットで購入して、段ボール箱一つ分、送ってもらった。生まれて初めて食べた、もぎたての高級桃の味は、信じられないほど美味だった。

2009年のリーマンショック、中国にGDPで抜かれ、世界2位の座を明け渡したこと、2010年の尖閣での中国漁船衝突事件など、この国を追い詰める暗い出来事が続いていた矢先のことだった。これまで危機を危機とも感じずに、泰平にまどろんできた、どうしようもなくお気楽で、ひ弱で脆弱な日本に、未曾有の災厄が襲ったのだ。

 

2011年、この年、魂のギタリスト、ゲイリー・ムーアが死んだ。魂の歌い手、ジョー山中も亡くなった。北朝鮮の金正日も死んだ。

でも、この頃には、まだ、内田裕也も、樹木希林も、市原悦子も、八千草薫も、島倉千代子も、森光子も、藤圭子も、竹内結子も生きていた。三國連太郎も、高倉健も、菅原文太も、松方弘樹も、渡哲也も、萩原健一も、田中邦衛も、田端義夫も、ムッシュかまやつも、大瀧詠一も生きていた。津川雅彦も朝丘雪路も生きていた。兼高かおるも、小野田少尉も生きていた。ショーン・コネリーも、エディ・ヴァン・ヘイレンも、デヴィッド・ボウイも、ザ・デストロイヤーも生きていた。

〝一億総(精神的)引きこもり〟の世相の中で、それでも、昭和は、まだわずかに生き残っていた、10年前には。

 

この年(2011)7月、FIFA女子ワールドカップで、女子サッカー日本代表チーム「なでしこジャパン」が、男女通じてアジア勢初の大会初優勝を勝ち取った。同時に、日本チームは、フェアプレー賞を、キャプテン澤は、大会最優秀選手賞と大会得点王を獲得した。

翌2012年、ロンドン五輪で、伊調馨と吉田沙保里が、女子レスリングで、オリンピック3連覇を成し遂げた。また、吉田は、この年、世界選手権10連覇も成し遂げ、「霊長類最強女子」と称された。

 

この前年(2010)、アップル社がiPad(タブレット型端末)を初めて発売した。

また、この頃(2011)、ソフトバンクに加えてauが、iPhone(2007〜)の取り扱いを開始し、Androidスマートフォンと共に、国内シェアを拡大した。

これ以降、日本でも、携帯は、ガラケーではなく、スマートフォンが一般的になっていく。スマホの開発に遅れをとった日本メーカーの携帯市場での敗北は決定的となった。

ちなみに、2011年の国内シェアは、ガラケー73.4%、スマホ26.6%だった。

さらに、この年(2011)6月、日本発のメッセージアプリLINEが発売され、発売から半年で、1000万ダウンロードを記録した。これもまた、スマホのシェア拡大を後押しした。

そして、スマホのシェア拡大に伴って、Amazonなどのネット販売ビジネスも、伸びていくことになる。

2009年には、最初の仮想通貨ビットコインが発行され、運用が開始されていたが、2010年5月に、初めてビットコインは購入され、それ以降、全世界で急速に商取引が拡大していくこととなった。

世界中のあらゆる情報・流通に、個人の携帯端末から、いつでも、どこでもアクセスできる、ユビキタスの時代が到来したのだ。

また、2011年、ハイビジョン液晶薄型テレビの価格が急落し、ブラウン管に代わって大画面薄型テレビの普及率が5割を超えた。

2010年、三菱が世界初の量産型電気自動車の一般販売を開始した。

同年、日産が、量産型電気自動車「リーフ」の販売を開始した。

2012年、世界一高いタワーとして、東京スカイツリーが完成した。

 

2009年には、「自発的にログアウトすることが不可能になったバーチャルリアリティー(仮想現実)オンラインゲームを攻略できなければ、プレイヤー自身が本当に死亡してしまう」という設定の2022年を舞台としたライトノベル「ソードアート・オンライン」シリーズの刊行が始まった。

それに伴い、2010年からは、コミカライズの連載が始まり、2012年からは、テレビアニメの放送が始まった。その後、原作は、世界13カ国で翻訳され、第一巻が2020年までに2600万部を突破している。2017年には、劇場版アニメが公開され、興行収入は、全世界で43億円を超えた。

この作品の内容、ライトノベル→漫画→アニメというセールス・プロセスの成功が、その後の類似する異世界転移・転生モノ・ジャンルの興隆のきっかけとなった。このジャンルの作品の底流にあるテーマは、現実の世界と現実の家族への拒絶・無関心と、リアルに対する疑似現実世界の側の圧倒的優位性である。

現実が、サイバーパンクに追いついてしまったのだ。

 

この頃、バーチャルの世界の進展と繁栄の陰で、リアルの世界の侵食は進んでいた。

街には、歌がなかった。今と同様に。

日本の音楽は、産業アイドル文化の中に埋没し、音楽チャートは、AKBグループとジャニーズと韓国アイドルで埋め尽くされていた。

かろうじて、熊木杏里の「君の名前」が、流れていた。ヒットしているようには、思えなかったが、この頃、私が聴いた、唯一、歌らしい歌だった。植村花菜の肩の力が抜けるギター弾き語りの「トイレの神様」が、世間では、何となく売れてはいたが、私には、さほどの思い入れは感じられなかった。

最後のアナログ・シンガーソングライターといえるYUIや小田和正や桑田佳祐は、ギリギリまだ頑張っていたけれど、そろそろ、この国は「歌のない寂しい世界」に入りつつあったのだ。

海外の音楽が、アナログ・アンプラグド・アコースティックへと回帰していくのに対して、日本だけが、その大きな流れから取り残されていった。この国の音楽シーンは、みるみる砂漠化し、音楽の不毛地帯と化していった。

音楽の不毛は、情緒の死である。それは、令和の日本人の情緒的な潤いの枯渇と欠如にも通じる道だった。

 

打っても響かない壁が、人と人との間に、見えないガラスの覆いをつくり、個々の人間を孤立させ始めていた。もはや、共同体など、人工的な擬似空間にしかなかった。人の〝絆〟は、脆かった。

それでも、この年、震災の直後、平原綾香の「ジュピター」が、ラジオから聴こえてきた。多くのリクエストが集まったと言う。

「共感」という言葉が、まだ、かろうじて嘘ではないと思えた、あの頃。

悲劇の大震災は、私たちが〝心〟を取り戻す、最後のチャンスだったかもしれない。

 

 

 

 

 

20年前、2001年9月11日、私は、ニューヨークの巨大なビルディングに、そして、ペンタゴンの五角形の建物に、旅客機が突っ込んでいく映像を、そして、摩天楼が跡形もなく崩れ去る映像を、テレビで見ていた。それは、まるで、ハリウッドのSF映画の特撮映像のようだった。とても、非現実的な夢のような映像だった。これも、また、黙示録的な映像だった。

世界各地でミレニアムが祝われていた、その余韻も冷めやらぬ時期だった。世界は、いきなり近未来的な悪夢の中に叩き込まれたのだ。

この後、アメリカは、アフガン、イラクへの出口の見えない軍事介入を続けることになる。

日本は、「失われた20年」の只中だったが、それでも、まだ、世界第二の経済大国の地位を守っていた。ただ、先行きは、ちっとも明るくなかった。

経済は、相変わらず、思わしくなかった。国内で、格差が広がっていた。そして、中国の台頭の足音が、背後からひたひたと迫っていた。

ところが、多くの日本人は、その危機を前に、何の準備も自覚もなく、見て見ぬふりをしていた。

 

2001年、この年、河島英五が死んだ。三波春夫も亡くなった。前年には、青江三奈が亡くなっていた。

でも、この頃には、まだ、村田英雄も、フランク永井も、森繁久彌も生きていた。大原麗子も、藤田まことも、緒形拳も、植木等も生きていた。忌野清志郎も、坂井泉水も、本田美奈子も生きていた。

昭和は、まだ生きていた、20年前には。

 

2000年から、世界で初めて、携帯でインターネットに接続できるサービス(iモード)が、NTTドコモで始まっていたが、それはまだ一般的ではなかった。当時は、携帯は、すべてガラケーで、スマホは、まだ存在しない。インターネット・アクセスは、パソコンが主流だった。

この年(2001)、アップルが、最初の携帯用デジタル音楽プレーヤーiPodを発売した。

テレビは、2000年から、地上デジタル、BSデジタル放送が始まった。

1997年、トヨタが、世界最初の量産型ハイブリッド車「プリウス」を発売した。

1999年、ホンダが、ハイブリッド車「インサイト」を発売した。

中国のGDPは、まだ日本の1/4に過ぎなかった。

 

この年(2001)、新日本プロレスでは、武藤敬司が、初めてシャイニング・ウィザードを使用した。この最初期のバージョンは、間違いなく、プロレス史上最強の決め技だった。この武藤敬司は、天龍源一郎から、「ミスター・プロレス」の称号を譲り受け、プロレス全盛期の王道を受け継ぐ最後のプロレスラーとなった。

この年(2001)、横綱貴乃花が、右膝を負傷しながら、優勝決定戦に出場し、武蔵丸を破って、現役最後の優勝を果たした。これ以降、日本出身の力士が、横綱として、大相撲を代表する力士として君臨する時代は、終わりを告げる。朝青龍、白鵬など、大相撲は、モンゴル力士の天下となっていく。

2000年のシドニーオリンピックでは、柔道の谷亮子(柔ちゃん)が、三度目のオリンピック挑戦で、初めて金メダルを獲得した。

また、同年(2000)、沖縄サミットが開かれ、主要国の首脳が沖縄に集まった。安室奈美恵が、サミット・イメージ・ソングを、首脳たちの前で披露した。同じ年、沖縄出身のボーカル&ダンスユニットSPEEDが解散した。

 

この年(2001)、時代に反逆するアナログ・シンガーソングライター鬼束ちひろのアコースティックなファースト・アルバム「インソムニア」が人気を博していた。中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」、Coccoの「樹海の糸」が、街に流れていた。夏川りみの「涙そうそう」も流れていた。さらに、古謝美佐子の名曲「童神」が、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」の挿入歌として流れた。

翌2002年には、元ちとせの「ワダツミの木」が大ヒットした。同年(2002)、BEGINが名曲「島人ぬ宝」をリリースした。1998年には、Kiroroの「長い間」「未来へ」がヒットしたばかりだった。この時期、沖縄のアーティストが活躍していた。

また、この年(2001)、札幌出身のガールズバンドZONEが、代表曲「secret base〜君がくれたもの〜」をリリースした。竹内まりやが9年ぶりにオリジナル・アルバム「Bon Appetit!」を発表した。

前年2000年には、サザンオールスターズの「TSUNAMI」が、年間シングル売上1位、歴代売上4位を記録した。

前々年1999年には、宇多田ヒカルのデビューアルバムが発売され、全世界で1000万枚近くのモンスター・セールスを記録した。

とは言え、全体として見れば、「日本の歌」は、静かに終焉の時を迎えようとしていた。「歌のない時代」が、もうすぐそこまで来ていた。

 

2001年、宮崎駿は代表作「千と千尋の神隠し」を公開した。この作品は、2020年に「鬼滅の刃」に抜かされるまで、20年間、歴代興行収入一位だった。

漫画では、児童虐待をテーマにした「彼氏彼女の事情(1996〜2005)」が連載されていた。

1999年には、ライト・ノベル「バトル・ロワイヤル」が刊行された。大きな反響を呼んだが、実際は、1954年に刊行されたノーベル賞作家ウイリアム・ゴールディングの代表作「蝿の王」の酷い劣化版であった。

2001年には、同系列のライト・ノベル「リアル鬼ごっこ」が自費出版され、100万部を超える話題作となった。作品の底流にあるのは、人間と社会に対する徹底した不信と恐怖、無意識の憎悪、殺戮の快感であった。

2002年、「ハイジ」「若草物語」「不思議の国のアリス」「風の妖精たち」「さすらいのジェニー」「七つの人形の恋物語」など、ポール・ギャリコやメアリ・ド・モーガンの著作の翻訳で知られる、日本を代表する児童文学の翻訳家である矢川澄子が、71歳で、自宅で首吊り自殺した。

2003年、漫画デスノートの連載が始まり、全世界で3000万部を売り上げた。しかし、その内容は、ドストエフスキーの「罪と罰」の超劣化版に過ぎなかった。殺すことを自己正当化し、野心と歪んだ自己愛に満ちた主人公の物語が、最後まで魂の再生が訪れない矮小な物語が、なぜ若者の心を捉えるのか、私には理解不能だった。

「精神の死」の先に、肥大した自我の闇が大きく口を開けていた。

 

2001年、洋画では、精神分裂病に苦しんだ数学者の実話を基にした「ビューティフル・マインド」が、映画賞を席捲した。そして、トールキンの「指輪物語」を基にしたファンタジー叙事詩である映画「ロード・オブ・ザ・リング」三部作の第一作が公開された。ジム・キャリー主演の「マジェスティック」も印象底だった。

世界は、ドストエフスキーの予言した「人間不信のウイルスに冒された、互いにまったく言葉の通じない人々」の時代(21世紀)を迎えてはいたが、それでも、まだ、言葉を信じて格闘を続けている少数の人たちがいた。

「あなたは人間を信じられるか?」という問いの前に、誰もが立たされていた。

2001年、小田和正が、これ以降、恒例となる、年一回のコンサート番組「クリスマスの約束」を始めた。

2003年、平原綾香のデビュー・シングル「ジュピター」が発売された。また、夏川りみが、「童神〜ヤマトグチ〜」をリリースした。

私もまた、自分の言葉は、世界に、人々に伝わるのだと、まだ、どこかで無邪気に信じていた。

 

 

 

 

 

30年前、1991年12月、私は、ロシアの各地で、無数のレーニン像が、民衆の手によって打ち倒される様子を、テレビで見ていた。冷戦期の二大国の一つ、ソ連の終焉を象徴するショッキングな映像だった。一つの時代の終わりが実感され、モスクワの赤の広場で無惨に横倒しになった像が目に焼き付いた。

ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わり、昭和天皇が崩御して長かった昭和が終わり、バブルがはじけ、行手には先の見えない暗雲が垂れ込めていた。レーニン像の倒壊は、これから来る多難な平成の時代を暗示しているかのようだった。

当時、オーム真理教は、意外に多くの真面目な若者たちの支持を得ていた。空虚な時代に、中身を埋めようとして、もがいていた。

だが、挫折は目の前だった。誰も予測していなかった阪神淡路大震災が、さらに、地下鉄サリン事件が、これから起こるのだ。

中国のGDPは、当時、まだ、日本の1/9しかなかった。

1990年、新宿には、サンシャイン60を超える日本一の高さを誇る新東京都庁が建った。

しかし、日本は、その繁栄の頂点で、よろめいていた。

 

1991年、春日八郎が亡くなった。その2年前、1989年には、昭和天皇、美空ひばり、手塚治虫と、3人の巨星が亡くなっていた。89年には、松田優作も死んだ。

危篤に陥った昭和天皇のために、雨の中、記帳に並ぶ人たち、皇居前の道端で、じっと祈る人たちの姿が、記憶に焼き付いている。一つの時代が、本当に終わったのだと思う。

でも、この頃には、まだ、村下孝蔵も、尾崎豊も生きていた。ジャイアント馬場も、淀川長治も生きていた。渥美清も、三船敏郎も、勝新太郎も、淡谷のり子も、三原順も生きていた。

当時、連載中だった高口里純の「花のあすか組(1985〜1995)」、渡辺多恵子の「はじめちゃんが一番!(1989〜1995)」、市東亮子の「やじきた学園道中記(1982〜現在)」が好きだった。

この年、小野不由美のライト・ノベル「十二国記(1991〜)」シリーズの刊行が始まった。

親子の絆の脆さが、個人の心の脆さに直結するようになったのは、社会的人間関係があまりに希薄になってきたせいだった。その精神文化の貧困・劣悪な環境で、それでも、絆を求めてもがく、主人公の一途な姿が共感を呼んだ。

まだ、昭和の息吹が、息づいていた、30年前には。

 

この頃、全日本プロレスでは、天龍源一郎の団体離脱に伴って、三沢光晴とジャンボ鶴田の命を削るような頂上対決の死闘が繰り広げられていた。三沢の必殺エルボーと、鶴田のルーテーズ式バックドロップの交差する重厚な戦いだった。

1988年、現在も続いている、サザエさんに次ぐ、ご長寿テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」の放送が始まった。

1989年、スキー・ジャンプのレジェンド葛西紀明が、16歳で、初めて世界選手権に出場した。

1990年、1970年代の日常を描いて人気となり、現在も続くテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」の放送が始まった。

この年(1991)、前人未到の通算1000勝を達成した大横綱千代の富士が、当時、西前頭筆頭だった新鋭貴花田(のちの貴乃花)に、5月場所で敗れたことをきっかけに、現役を引退した。

1992年、現在も続くテレビアニメ「クレヨンしんちゃん」が始まった。

 

1988年度星雲賞に、長編部門でコードウェイナー・スミスの名作「ノーストリリア(1975)」、短編部門では、前年(1987)に銃で頭を撃ち抜いたジェイムズ・ティプトリー・Jrの「たったひとつの冴えたやりかた(1985)」が受賞した。

SF黄金時代からの最後の遺言、置き土産のような二作品である。

時代は、ウイリアム・ギブスンの「ニューロマンサー(1984)」に代表されるサイバーパンクSFの興隆期に入っていたが、それはすなわち、SFの時代の終わりを意味していた。

文学が〝身体〟を見失い、電脳世界にダイブした。それは、つまり、文学が、身体性を喪失し、それと同時に、文学の精神性もまた破壊されてしまったことを意味する。SFは、もはや、肥大した自我による自慰行為的な娯楽に過ぎなかった。

サイバーパンクの興隆、それは「文学そのもの終わり」だったのだ。

これ以降、小説は、単なるエンターテイメント以上のものではなくなる。

 

この頃、まだ携帯電話もパソコンもDVDも、一般家庭には、まったく普及していなかった。電話は固定電話と公衆電話のみ、家庭用レンタル・ビデオはVHSテープ、書類はワープロ仕様だった。

1991年当時、インターネットがほとんど普及していなかったから、パソコンでは、メールぐらいしかできなかった。携帯は、最新型でも小型トランシーバーレベルの機能で、通話のみ可能、留守電もなく、メールもできなかった。パソコンですら、音楽ダウンロードなどするには、そもそも容量的にまったくギガ数が足りなかった。Windows95以前なので、当時のMS-DOS環境のパソコンは、操作も複雑で、一般人の手に余った。

それでも、音楽録音媒体は、CDが主流となり、音楽録音技術のデジタル化が進んでいた。

しかし、その一方で、1987年には、スザンヌ・ベガが、1988年には、トレイシー・チャップマンがデビューし、フォークギター一本で歌う、アコースティック音楽が、人々の注目を集め始めていた。1990年の初来日武道館コンサートでは、生ギター一本で、大観衆を前にたった1人で、最初から最後まで歌い切った姿が印象的だった。

そして、1990年代以降、世界の音楽は、アンプラグドの時代に入っていく。エレクトリックな音ではなく、生の音を重視する時代になるのだ。この潮流は、現在でも、変わっていない。それどころか、今日、ますます、世界のミュージック・シーンは、生のピアノ、生のギター、そして、生の声が伝える自然な音を重視するようになってきている。

 

この年(1991)、街には、小田和正の「ラブストーリーは突然に」、山下達郎の「クリスマス・イブ」、尾崎豊の「I LOVE YOU」、井上陽水の「少年時代」、長渕剛の「しゃぼん玉」「しょっぱい三日月の夜」、チャゲ&飛鳥の「太陽と埃の中で」「SAY YES」、飛鳥の「はじまりはいつも雨」、KANの「愛は勝つ」、久保田利伸の「Missing 」、徳永英明の「壊れかけのRadio」、小泉今日子の「あなたに会えてよかった」、森高千里の「この街」、プリンセス・プリンセスの「M」、今井美樹の「PIECE OF MY WISH」、沢田知可子の「会いたい」などが流れていた。また、この年、スピッツがメジャー・デビューした。

前年(1990)には、「ちびまる子ちゃん」の主題歌、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」が大ヒットし、たまの「さよなら人類」、米米クラブの「浪漫飛行」、サザンオールスターズの「真夏の果実」、竹内まりやの「告白」、Xの「ENDLESS RAIN」、ブルーハーツの「情熱の薔薇」、JITTERIN'JINNの「夏祭り」などが流れていた。

J-POPの黄金期だった。

私は、前年(1990)にリリースされた浜田省吾の「誰がために鐘は鳴る」と中島みゆきの「夜を往け」、そして、ブルーハーツの「THE BLUE HEART(1987)」「TRAIN-TRAIN(1988)」を、ウォークマン・カセットで繰り返し聴いていた。

 

1991年、映画では、リュック・ベンソン監督の「ニキータ」、ロバート・デニーロ主演の「レナードの朝」、竹中直人主演監督の「無能の人」が公開された。アンソニー・ホプキンスジュディ・フォスターが共演した「羊たちの沈黙」は、この年のアカデミー賞主要5部門を制覇した。

前年(1990)には、ロビン・ウイリアムズ主演の「今を生きる」が公開され、私は映画館に繰り返し観に行った。「教育って何なのか?」と自分の胸に繰り返し問いかけていた。ベトナム反戦運動の闘士の実話を基にしたオリバー・ストーン監督作品の「7月4日に生まれて」も胸を刺す作品だった。一方で、ケヴィン・コスナー主演の「フィールド・オブ・ドリームス」、ウーピー・ゴールドバーグの出世作「ゴースト/ニューヨークの幻」は、共に、魂の救済をテーマにした忘れられない名作ファンタジーだった。

この年(1990)の極めつけは、アカデミー賞4部門を制した「ドライビングMissデイジー」だ。アメリカの40年代、50年代を振り返るような作品だった。同傾向の作品に、1993年の「フライドグリーントマト」、1995年、日本公開された、トム・ハンクス主演の「フォレスト・ガンプ」がある。アメリカの50〜80年代を振り返るような作品だった。

1980年代末から、1990年代初頭にかけて、この頃の映画は、人間の実存を問う、重く強烈な作品が多かった。内容の深い名作が、数多く創られた。時代の要請だったのかもしれない。冷戦が終わり、これまでの価値観が崩壊し、これから何を信じて生きていけばいいのか、誰もが道に迷っていた。

 

私は、サトクリフやスピア、イサク・ディネーセンやフィリパ・ピアス、バジョーフやトルストイ、ギャリコやモーガン、ルーマー・ゴッデンやブリッグズ、ジョーン・G・ロビンソンやシーラ・パーンフォード、バーバラ・レオニ・ピカードやルース・エルウィン・ハリス、デイヴィッド・ブリンやコードウェイナー・スミス、ディックやル・グィンやドストエフスキー、ポール・トゥルニエや神谷美恵子、新井素子や吉本ばなな、渡辺一夫や高杉一郎などの書物に熱中していた。

私もまた、「自分の魂を救う」道を探していた。

 

 

 

 

 

40年前、1980年12月、私は、ラジオから流れるジョン・レノン暗殺のニュースを、なんとなく聴いていた。私の傍で、そのニュースを聴いた途端、突然、泣き出す人もいた。

 

1978年には、池袋に、当時、東洋一の建物だったサンシャイン60が完成していた。

1979年には、インベーダー・ゲームが大流行した。

日本は「経済大国」への最後のステップに足を掛けていた。日本経済の黄金時代が始まろうとしていた。

けれども、心のどこかで、私たちは今、足を踏み外そうとしているんじゃないかと、感じていた。なぜこんなに軽いのか、こんなに軽くていいのか、と戸惑っていた。

当時、連載中だった、三原順の「はみだしっ子(1975〜1981)」が好きだった。同じく、連載中だった吉田秋生の「カリフォルニア物語」も好きだった。

この年、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」が刊行された。

前年1979年には、村上春樹が「風の歌を聴け」で群像新人賞を受賞していた。

1980年、原宿はラジカセの音楽に合わせて踊る「竹の子族」の全盛期だった。

1981年、黒柳徹子の自伝的物語「窓ぎわのトットちゃん」が出版された。現在も、世界中で版を重ねる戦後最大のベストセラーである。

同年、任天堂が、アーケードゲームで、「スーパーマリオシリーズ」の初代「ドンキーコング」を稼働した。

1982年、暴走族の構成員が、4万2千人を超え、ピークを迎える。これ以降、族の数は徐々に減少に転じ、その活動も衰退していく。

1983年、NHK連続テレビ小説「おしん」が放映された。激動の明治・大正・昭和を生き抜いた一人の女性の一代記。平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%、テレビドラマ史上最高視聴率を記録した。その後、世界中で放送され、現在でも根強いファンがいる、世界で最もヒットした日本のドラマである。

 

1980年、越路吹雪が亡くなった。巨人軍の王貞治も引退した。でも、この頃、まだ、フィリップ・K・ディックが生きていた。ジェイムズ・ティプトリー・Jrも、まだ頭を撃ち抜いていなかった。石原裕次郎も生きていた。

前年(1979)、ジョン・ヴァーリイの名作「残像」が、ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞の中長編部門で、トリプル・クラウンに輝いた。

また、1980年には、J・P・ホーガンの処女作「星を継ぐもの(1977)」が、日本で翻訳出版されるやいなや、大きな衝撃を与え、1981年度の星雲賞を受賞した。日本国内で45万部を売り上げ、国内で最も評価の高いSF小説となった。

「残像」「星を継ぐもの」は、SFの時代(50・60・70年代)の最後を飾る名品である。

この年(1980)、ジーン・アウル著の「エイラ-地上に旅人」シリーズの第一部「ケープベアーの一族」が出版された。日本での翻訳出版は1983年だった。

ミステリでは、1977年には、ジャック・フィニイの「夜の冒険者たち」が、1980年には、ロバート・B・パーカーの「初秋」、1982年には、P・D・ジェイムズの「皮膚の下の頭蓋骨」が刊行された。

 

前年(1979)には、松本零士原作のアニメ映画「銀河鉄道999」、最初の宮崎アニメ「ルパン三世 カリオストロの城」が公開されていた。テレビアニメでは、機動戦士ガンダムが、初回放送された。

邦画では、松田優作主演の「蘇える金狼(1979)」「野獣死すべし(1980)」が公開された。

洋画では、この年(1980)、ダスティン・ホフマンメリル・ストリープが主演した名作「クレイマー、クレイマー」(←アカデミー作品賞)が公開された。ジャック・ニコルソンの鬼気迫る怪演が衝撃的な「シャイニング」も公開された。

翌1981年には、親子のリアルな葛藤を描く「普通の人々」(←アカデミー賞4部門)が公開された。同年公開のドイツ映画「ブリキの太鼓」、1979年公開のロバート・デニーロ主演の「ディア・ハンター」(←アカデミー作品賞)も、戦争の極限状況をテーマとした、強烈な印象を残す、忘れられない名作だ。

SFでは、1979年、リドリー・スコット監督、シガニー・ウィーバー主演の「エイリアン」が公開された。1982年には、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」をリドリー・スコットが映画化したハリソン・フォード主演の「ブレードランナー」が公開され、その悪夢のような近未来の映像が、観衆に強い衝撃を与えた。

映画が、夢ではなく、剥き出しの現実を描き始めていた。

 

当時、プロレスは、全盛期最後の輝きを放っていた。1979年には、史上最強のプロレスラー、ブルーザー・ブロディが、全日本プロレスに初来日し、馬場、鶴田と死闘を繰り広げた。ブロディの切り札キングコング・ニー・ドロップの強烈な鮮やかさ、あれだけの巨人が高く宙に舞う非現実的な映像の衝撃は、他に類がなかった。

1981年、新日本プロレスでは、佐山聡がタイガーマスクとしてデビューし、ダイナマイト・キッドと名勝負を繰り広げた。初代タイガーマスクの美しいローリング・ソバットは、誰も真似できない伝説の技である。

1982年からは、長州力が藤波辰巳と名勝負を続けた。ラリアットからのサソリ固めを決め技とする長州と、ドラゴン殺法の藤浪の死闘は、名勝負数え歌と呼ばれた。

また、1981年、ボクシングのWBA世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高が、沖縄での凱旋試合で敗れ、14度目のタイトル防衛に失敗し、現役を引退した。

同1981年1月、大相撲では、関脇千代の富士が、横綱北の湖を破って、幕内初優勝を飾った。優勝が決まった瞬間の最大瞬間視聴率は、65.3%であった。

 

この年(1980)、街には、歌が溢れていた。

クリスタルキングの「大都会」、久保田早紀の「異邦人」、五輪真弓の「恋人よ」、シャネルズの「ランナウェイ」、YMOの「テクノポリス」、山下達郎の「RIDE ON TIME」、竹内まりやの「不思議なピーチパイ」、渡辺真知子の「唇よ、熱く君を語れ」、尾崎亜美の「蒼夜曲」、松田聖子の「青い珊瑚礁」、中島みゆきの「ひとり上手」、大友裕子の「来夢来人」、谷村新司の「昴」、アリスの「それぞれの秋」、長渕剛の「順子」、さだまさしの「防人の歌」「道化師のソネット」、オフコースの「さよなら」「Yes-No」、松山千春の「人生の空から」「恋」、ふきのとうの「やさしさとして、想い出として」、五十嵐浩晃の「愛は風まかせ」、雅夢の「愛はかげろう」、山口百恵の「さよならの向こう側」、RCサクセションの「雨あがりの夜空に」「トランジスタラジオ」、村木賢吉の「おやじの海」、八代亜紀の「舟唄」などが、ラジオから流れていた。

前年(1979)末には、松原みきの「真夜中のドア」、山口百恵の「いい日旅立ち」、オレンジの「シーズン」、甲斐バンドの「安奈」、財津和夫の「WAKE UP」、サザンオールスターズの「C調言葉に御用心」、アリスの「秋止符」、海援隊の「贈る言葉」、北島三郎の「与作」などが、流れていた。

翌1981年には、大瀧詠一がアルバム「A LONG VACATION」を、寺尾聰がアルバム「Reflections」を、伊勢正三がアルバム「渚ゆく」を、オフコースがアルバム「We are」「over」を、浜田省吾がアルバム「愛の世代の前に」を、中島みゆきがアルバム「臨月」を、松任谷由美がアルバム「昨晩お会いしましょう」を、下成佐登子がアルバム「秋の一日」を、沢田聖子がアルバム「青春の光と影」をリリースした。

当時〝ニューミュージック〟と呼ばれたJ-Popのゴールデンエイジだった。

この頃、音楽は、貸レコード、そして、FMラジカセでのエアチェックが主流だった。音楽用CDは、まだ存在しなかった。家庭用ビデオは、ソニーのベータが主流で、VHS規格と熾烈な、ベータvsVHS戦争が続いていた。

 

洋楽では、ビリー・ジョエルの「Honesty」、ジョン・レノンの「Starting Over」、REOスピードワゴンの「Keep On Loving You」などが流れていた。翌年(1981)には、スティクスの「The Best Of Times」がヒットした。

アルバムでは、ピンク・フロイドの「The Wall」が、世界的にメガヒットしていた。また、ブルース・スプリングスティーンが、「The River」で、初のアルバム・チャート1位を獲得した。この年11月にリリースされたレノンとヨーコの「ダブル・ファンタジー」は、翌年(1981)のグラミー賞アルバム・オブ・ジ・イアーを受賞した。

さらに、その翌年(1982)には、ジャーニーの「エスケイプ」、TOTOの「TOTO Ⅳ〜聖なる剣」、エイジアの「時へのロマン」、フォリナーの「4」と、ニュー・プログレッシブ・ロックの4大名盤が発表され、世界的にメガヒットした。同時に、ゲイリー・ムーアの出世作「大いなる野望」が、世界に先駆けて、日本でブレイクした。ロックの黄金時代だった。また、盟友ジョンの死を受けてポール・マッカートニーが発表した「Tug of War」のリリースも、この年(1982)だった。

加えて、この年(1982)、マイケル・ジャクソンが、アルバム「スリラー」を発表し、現在までに、全世界で6500万枚を売り上げており、史上最も売れたアルバムとして、ギネスに認定されることになる。

日本も世界も『音楽の時代』の最後の輝きの中にあった。

 

私は、C・S・ルイスやリンドグレーン、ディックやル・グィン、スタージョンやブラッドベリ、ハインラインやクラーク、ジェーン・ギャスケルやロバート・ネイサン、ティプトリーJrやディレーニ、ヴォネガットやストロガツキー兄弟、ギャリコやヴァン・デル・ポスト、サリンジャーやヘッセ、スペンサーやチャンドラー、ジョン・ディクスン・カーやP・D・ジェイムズ、庄司馨やなだいなだ、村上龍や村上春樹、灰谷健次郎や五木寛之、佐々木丸美や高橋たか子、太宰治やカミュ、A・デュマやユーゴー、ディケンズやドストエフスキーを、読み耽っていた。

自分が何を求めているのか、これから生きていく道を探していた。

 

 

 

 

 

50年前、1970年4月、私は、アポロ13号の人類初の月面着陸の映像をテレビで見ていた。人間が月に立ったんだ、と漠然と思いながら、大人たちの興奮する様子を見ていた。三島由紀夫の最後の演説の映像と割腹自殺のニュースも大きな話題だった。

左翼が先鋭化した70年安保闘争のおかげで、ほとんどの大学は閉鎖状態だった。よど号ハイジャック事件もあった。アメリカでは、ベトナム反戦運動が高まっていた。

「左翼こそが正しい」と、人々が思っていた最後の時代だったかもしれない。目の前には、すでに行き詰まりが見えていたのだけれども。

沖縄ではコザ暴動が起きた。まだ、ベトナム戦争が終わっておらず、復帰前のドル時代だった。コザの街は、繁栄の最後の輝きの中にあった。

1969年、庄司馨が、「赤頭巾ちゃん気をつけて」を発表し、ベストセラーとなる。

1969年に自殺した立命館大学の学生高野悦子の日記が、1971年、「二十歳の原点」として出版され、ベストセラーとなった。

 

一方で、日本経済もまた、ドル金本位制に支えられてきた高度経済成長期の最後の輝きの中にあった。

1971年、日清食品が、世界最初のカップ麺「カップヌードル」を発売した。

同年、マクドナルドの日本一号店が、銀座三越店内にオープンした。

1967年、タカラが企画・開発・販売を開始した「リカちゃん人形」は、1969年、アメリカ産のバービー人形を制して、着せ替え人形の日本市場の市場シェアを支配し、その地位を不動のものとした。

1969年、ディズニーアニメ第一作(1937)の「白雪姫」が、リバイバル上映された。銀幕の中は、まさに、輝くように美しい夢の世界だった。

同年(1969)、藤子不二雄の漫画「ドラえもん」の雑誌連載が始まった。また、同年(1969)、現在も続くアニメ「サザエさん」のテレビ放送が始まった。

1970年、時代の光と闇が、交錯していた。

 

1970年、テレビの世帯普及率は100%に近かった。そして、白黒テレビに代わって、カラーテレビの普及率が3割を超えた。この年開催された大阪万博が、カラーテレビの普及に貢献していた。我が家では、まだまだ、当分、白黒テレビだったが。

日本プロレスでは、全盛期のジャイアント馬場とアブドーラ・ザ・ブッチャーが名勝負を繰り広げていた。馬場の脳天唐竹割り・16文キックと、ブッチャーの地獄突き・毒針エルボーの戦いであった。翌71年には、これも、全盛期の仮面貴族ミル・マスカラスが、初来日し、滞空時間の長いフライングクロスチョップに、日本中のファンが度肝を抜かれた。

当時、プロレスは、野球、相撲と並ぶ、国民的な娯楽であった。テレビでも、ゴールデンタイム、午後7時から放映されていた。

野球は、巨人軍の王・長嶋のON砲の全盛期だった。

 

テレビアニメでは、当時、深刻だった環境破壊をサブテーマに、主人公のみつばちハッチが「ほんとうのお母さん」を探して旅を続ける「みなしごハッチ(1970)」の重くシリアスな物語が放送されていた。もう一つの重いアニメ「あしたのジョー(1970)」、さらに悲惨な「タイガーマスク(1969)」、「妖怪人間ベム(1968)」、「巨人の星(1968)」などが放映されていた。どのアニメも、今なら、子どもが見るような話ではない。どの作品でも、主人公は、全員、孤児か、母親がいない。ひとりぼっちの嫌われ者だった。それでも、愛を求めることを諦めていない。泥の中でもがき続け、光を求めてあがき続ける主人公への共感がテーマだった。

真剣である事に、まだ照れない時代だった。仮想現実の向こうには、常に、厳しい現実が顔を覗かせていた。

1971年には、竹宮惠子の「空がすき!」が連載された。

1972年には、萩尾望都の「ポーの一族」の連載が始まった。

同1972年、児童文学の金字塔、斎藤惇夫の「冒険者たち ガンバと15匹の仲間」が刊行された。

 

1969年、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(1968)」が、翻訳出版された。(←ローカス賞20世紀オールタイムベスト26位)また、この年のヒューゴー賞中長編部門で、ロバート・シルヴァーバーグの「夜の翼」が受賞した。

1970年度ヒューゴー賞長編部門で、カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」(ローカス賞20世紀オールタイムベスト31位)を退けて、アーシュラ・K・ル・グィンの「闇の左手」(←ローカス賞20世紀オールタイムベスト5位)が受賞した。短編部門では、サミュエル・R・ディレーニの「時は準宝石の螺旋のように」が受賞した。ともに、ネビュラ賞とのダブルクラウンだった。また、この年、ジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」が刊行された。

1971年度の長編部門では、ラリー・ニーヴンの「リングワールド」(←ローカス賞20世紀オールタイムベスト15位)が受賞した。短編部門では、シオドア・スタージョンの「時間のかかる彫刻」が受賞した。ともに、ネビュラ賞とのダブルクラウンだった。

1972年のヒューゴー賞短編部門では、ニーヴンの「無常の月」が受賞した。

1950年代から続いてきたSFの黄金時代が、最後の輝きを放っていた。

ミステリでは、1972年、P・D・ジェイムズの「女には向かない職業」が刊行された。

 

1971年1月、ココ・シャネルが死んだ。10月、稀代の大横綱大鵬が引退した。1973年には、ブルース・リーが亡くなった。

この頃、街では、この年(1970)解散したビートルズの「Let It Be」「Come Together」「The Long And Winding Road」、同じく、この年、活動を停止したサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」「コンドルは飛んでいく」が流れていた。ジャクソン5の「I'll be there」、ディープ・パープルの「Black Night」、カーペンターズの「Close to You」も流れていた。

前年(1969)には、ヒッピー・ムーブメントを象徴する歴史的な大イベント、ウッドストック・フェスティバルが開催されていた。ジャニス・ジョプリンジミ・ヘンドリックスの伝説的なパフォーマンスが語り継がれた。

翌1971年には、「ロックンロール」「天国への階段」を含む、レッド・ツェッペリンの名盤「レッド・ツェッペリン Ⅳ」がリリースされた。また、ブリティッシュ・プログレッシブ・ロックの雄エマーソン、レイク&パーマーのライブ・アルバム「展覧会の絵」、名曲「吹けよ風、呼べよ嵐」を含むピンク・フロイドのアルバム「こわれもの」が発表された。

 

また、日本では、この年(1970)、宇多田ヒカルのお母さん藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしていた。千賀かほるの「真夜中のギター」も流れていた。和田アキ子の代表曲「笑って許して」も、この年のヒット曲だ。ソルティー・シュガーの「走れコウタロー」、当時、6歳だった皆川おさむの「黒猫のタンゴ」など、変わった歌が大ヒットした。

前年(1969)には、由紀さおりの「夜明けのスキャット」、森進一の「港町ブルース」、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」、千昌夫の「君がすべてさ」、奥村チヨの「恋の奴隷」、クールファイブの「長崎は今日も雨だった」、ピンキーとキラーズの「恋の季節」、ザ・キングトーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」、はしだのりひことシューベルツの「風」、新谷のり子の「フランシーヌの場合」、ピーターの「夜と朝のあいだに」、中山千夏の「あなたの心に」、青江三奈の「池袋の夜」などが流れていた。

1969年は、懐メロ歌謡曲全盛が続いた時代の最後の年だった。

1971年には、加藤登紀子の「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」、倍賞千恵子の「忘れな草をあなたに」、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」、鶴田浩二の「傷だらけの人生」、森進一の「おふくろさん」、はしだのりひことクライマックスの「花嫁」、加藤和彦と北山修の「あの素晴らしい愛をもう一度」、ジローズの「戦争を知らない子供たち」、上條恒彦の「出発の歌」などがヒットした。吉田拓郎の「今日までそして明日から」もリリースされた。

また、1971年には、沖縄嘉手納出身の南沙織が「17才」でデビューし、同年、「私の城下町」でデビューした小柳ルミ子、「水色の恋」でデビューした天地真理と並んで、元祖女性アイドルの新〝三人娘〟として活躍した。また、男性アイドルでは、同年、野口五郎がデビューし、翌1972年には、西城秀樹、郷ひろみがデビューして、〝新御三家〟と呼ばれた。

1971年は、フォークの時代の始まりであり、同時に「アイドル元年」であった。

1972年には、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」、麻丘めぐみのデビュー曲「芽生え」、森昌子のデビュー曲「せんせい」、郷ひろみのデビュー曲「男の子女の子」、ちあきなおみの「喝采」、山本リンダの「どうにもとまらない」、ぴんから兄弟の「女の道」、青い三角定規の「太陽がくれた季節」、GAROの「学生街の喫茶店」、吉田拓郎の「旅の宿」「結婚しようよ」などがリリースされた。

70年代に入り、50・60年代とは、まったく種類の違う歌が、街に流れ始めていた。

 

この年(1970)、ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニのイタリア映画の名作「ひまわり」が公開された。チャールズ・ブロンソン主演のフランス映画の名作「雨の訪問者」も公開された。アメリカ映画ではアメリカン・ニュー・シネマの代表作「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て!」「いちご白書」が公開された。また、日本では「シェーン」がリバイバル・ヒットしていた。日本映画では、前年(1969)から、寅さんの「男はつらいよ」の映画シリーズが始まっていた。

1968年には、ピーター・フォーク主演のアメリカのテレビドラマ・シリーズ「刑事コロンボ」が始まった。

1969年、アメリカのSFテレビドラマの名作「スタートレック/宇宙大作戦(1966〜)」が完結した。

1968年には、アーサー・C・クラークの同名の原作をスタンリー・キューブリックが映画化したSF映画の傑作「2001年宇宙の旅」が公開され、その近未来的映像に、人々が衝撃を受けていた。さらに、もう一つの名作SF映画「猿の惑星」も大ヒットした。また、ダスティン・ホフマンの出世作でアメリカ映画史上に残る名作「卒業」が大ヒットした。

1969年には、ジョン・ウェイン主演の名作「勇気ある追跡」、アメリカン・ニュー・シネマの名作「真夜中のカーボーイ」が公開された。

1971年には、「ダーティーハリー」が公開され、クリント・イーストウッドがスターダムにのし上がった。また、ライアン・オニールの「ある愛の詩」が大ヒットした。

世界は、まだ『映画の時代』だった。終わりかけではあったが。まだ、〝こころ〟を置き去りにしない時代だった。

私も、私なりに、真剣だったと思う。

 

1969年の祭りが終わって、当時、誰もが一つの時代の終焉を予感し、消えゆく何かを悼んでいた。確かに、行き止まりの時代の閉塞感はあったが、それさえも、今の私たちから見ると、〝豊穣〟に思えるのだ。

 

 

 

 

 

60年前、昭和35年、1960年6月、10万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲む60年安保闘争があった。激しい反対運動の中、アメリカの日本防衛義務を明記した新安保条約が成立し、その条約承認をもって、岸信介首相は退陣した。これが安倍首相のおじいさんだ。

今なら、誰が考えても、日本にとって必要な条約だったとわかるが、当時の人々には理解できなかった。ただ、人々の心が、情念が、熱く燃え上がっていた。

私には、その当時の記憶はない。ただ、その頃の、いわゆる60年代(昭和30年代)の雰囲気は、知っている気がする。人間の醸し出す濃厚な空気感。闇は、今よりも深く、光も、今より眩しかった。

 

1957年、初の国産カラーテレビが売り出されたが、まだ、テレビではカラー放送が開始されていなかった。白黒テレビの世帯普及率でさえ、まだ29%に過ぎなかった。

1960年、日本で初めてカラーテレビ本放送が開始された。

プロ野球では、首位打者は巨人の長嶋茂雄、最多奪三振は国鉄スワローズの金田正一、パリーグ・ベストナインの捕手には、南海ホークスの野村克也が入っていた。

1963年、全盛期のザ・デストロイヤーが初来日し、1万2千人の観衆の下で、力道山と初対決した。この試合はテレビで生中継され、平均視聴率64%、現在でも史上4位の視聴率であった。

また、この年(1963)、初の本格的国産連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放送が始まった。カラーではなく、白黒アニメだった。最高視聴率は40.7%であった。

この頃、白黒テレビの世帯普及率は70%を超えた。まだ、カラーテレビの世帯普及率は1%以下だった。

国中に、高度経済成長期(前期)の〝元気〟が溢れていた。

 

1957年(昭和32)の日本の歌謡曲では、三波春夫の「チャンチキおけさ」、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、神戸一郎の「十代の恋よさようなら」、三橋美智也の「おさげと花と地蔵さんと」、島倉千代子の「東京だョおっ母さん」、初代コロムビア・ローズの「東京のバスガール」、美空ひばりの「港町十三番地」などがヒットした。

1958年(昭和33)には、三橋美智也の「赤い夕日の故郷」、平尾昌晃の「星はなんでも知っている」、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」、島倉千代子の「からたち日記」、松山恵子の「だから言ったじゃないの」などが街に流れた。

1959年(昭和34)には、春日八郎の「山の吊橋」、三橋美智也の「古城」、村田英雄の「人生劇場」、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」、ザ・ピーナッツのデビュー曲「可愛い花」、こまどり姉妹のデビュー曲「浅草姉妹」「三味線姉妹」、フランク永井と松尾和子のデュエット曲「東京ナイトクラブ」などがヒットした。

1960年(昭和35)には、橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」、坂本九の実質デビュー曲「ステキなタイミング」、越路吹雪の代表曲「愛の讃歌」、美空ひばりの「哀愁波止場」、西田佐知子の代表曲「アカシアの雨がやむとき」などがラジオから流れた。

1961年(昭和36)には、坂本九の代表曲「上を向いて歩こう」、村田英雄の代表曲「王将」、フランク永井の「君恋し」、植木等の「スーダラ節」、小林旭の「北帰行」、越路吹雪の「ラストダンスは私に」、西田佐知子の「コーヒールンバ」、こまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」、五月みどりの「おひまなら来てね」、沖縄宮古島の血をひく仲宗根美樹の「川は流れる」、石原裕次郎と牧村旬子のデュエット曲「銀座の恋の物語」などがリリースされ、大ヒットした。

1962年(昭和37)には、田端義夫の代表曲「島育ち」、石原裕次郎の「赤いハンカチ」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」、北島三郎の事実上のデビュー曲「なみだ船」、中尾ミエの「可愛いベイビー」、倍賞千恵子のデビュー曲「下町の太陽」、橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」、中山千夏の「ハモニカ小僧」などが発売された。

1963年(昭和38)には、坂本九の名曲「見上げてごらん夜の星を」、三波春夫の「東京五輪音頭」、村田英雄の「柔道一代」、舟木一夫のデビュー曲「高校三年生」代表曲「学園広場」、三田明の「美しい十代」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」、三沢あけみの「島のブルース」、畠山みどりの「出世街道」、西田佐知子の「エリカの花散る時」などが大ヒットした。

1964年(昭和39)には、坂本九の「明日があるさ」、井沢八郎の「ああ上野駅」、新川二郎の「東京の灯よいつまでも」、西郷輝彦のデビュー曲「君だけを」、舟木一夫の「君たちがいて僕がいた」、越路吹雪の「サン・トワ・マミー」、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」、美空ひばりの「柔」、都はるみの「あんこ椿は恋の花」、ペギー葉山の「学生時代」などがヒットした。

当時、人気絶頂にあった橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の三人は〝御三家〟と呼ばれた。

昭和30年代の懐メロ歌謡の全盛期だった。決して、演歌ではない。日本人の声で、日本人の歌が歌われていた時代である。

 

1958年、洋楽では、チャック・ベリーの「ジョニー・B.グッド」、リッチー・ヴァレンスの「ラ・バンバ」、エディ・コクランの「サマータイム・ブルース」、ザ・コーデッツの「ロリポップ」などがリリースされた。

1959年、ボビー・ダーリンの「マック・ザ・ナイフ」、プラターズの「煙が目にしみる」などがヒットした。

1960年、ドリフターズの「ラストダンスは私に」、ニール・セダカの「カレンダー・ガール」、レイ・チャールズの「我が心のジョージア」などがリリースされ、世界中でヒットした。

1961年、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」、エルヴィス・プレスリーの「好きにならずにいられない」、デル・シャノンの「悲しき街角」、マーヴェレッツの「プリーズ・ミスター・ポストマン」などの名曲がリリースされた。

1962年、ビートルズの「ラブ・ミー・ドゥ」、トニー・ベネットの「思い出のサンフランシスコ」、「ティファニーで朝食を」の挿入歌をアンディ・ウイリアムズが歌った「ムーン・リバー」、ポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」、カスケーズの「悲しき雨音」などがヒットした。

1963年、ビートルズの「シー・ラブズ・ユー」、ザ・ビーチボーイズの「サーフィンUSA」、ボブ・ディランの「風に吹かれて」、ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」、スキータ・ディヴィスの「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」などが街に流れた。

50s、60sのオールディーズ全盛の時代である。

 

1959年公開のアメリカ映画には、ヘンリー・フォンダ主演の「十二人の怒れる男」、アルフレッド・ヒッチコック監督の代表作「北北西に進路を取れ」、オードリー・ヘップパーン主演の「尼僧物語」、マリリン・モンローの代表作「お熱いのがお好き」などがあった。

1960年公開の洋画には、アメリカ映画では「5つの銅貨」、チャールトン・ヘストン主演のスペクタル映画「ベンハー」、ビリー・ワイルダー監督でジャック・レモンシャーリー・マクレーン主演の「アパートの鍵貸します」など、フランス映画ではジャン・リュック・ゴダール監督のヌーベルバーグ(新しい波)の代表作「勝手にしやがれ」、ルネ・クレマン監督の代表作でアラン・ドロンの出世作「太陽がいっぱい」など、イタリア映画ではフェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」などがあった。また、この年、チャップリンの歴史的名作「独裁者(1940)」が、本邦初公開された。

1961年公開のアメリカ映画にはユル・ブリンナー主演の「荒野の七人」、ヘップパーンの代表作「ティファニーで朝食を」などがあった。

当時、日本と欧米には、経済的・技術的・文化的な甚だしいギャップがあった。人々は、欧米を、憧憬と羨望の眼差しで見ていた。

この頃、洋画は、庶民にとって、夢のような別世界、憧れの「銀幕の中の世界」だった。

 

この時期のSF小説は、黄金期と呼ばれる1950年代から、ニューウェーブと呼ばれる流れが生まれる1960年代への過渡期にあたる。

1957年には、ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」、ネビル・シュートの「渚にて」、フィリップ・K・ディックの「宇宙の眼」、ジョン・ウィンダムの「呪われた村」が刊行された。

1958年には、ハインラインの「大宇宙の少年」、エドマンド・クーパーの「アンドロイド」が刊行された。

1959年には、ハインラインの「宇宙の戦士」が刊行された。また、ダニエル・キイスの中編「アルジャーノンに花束を」が発表された。

1960年には、コードウェイナー・スミスの短編「星の海に魂の帆をかけた女」が発表された。

1961年には、ハインラインの「異星の客」、アーサー・C・クラークの「渇きの海」、スタニスワフ・レムの「ソラリス」「星からの帰還」、ブライアン・オールディスの「地球の長い午後」が刊行され、コードウェイナー・スミスの短編「アルファ・ラルファ大通り」が発表された。

1962年には、フィリップ・K・ディックの「高い城の男」、レイ・ブラッドベリの「何かが道をやってくる」「ウは宇宙船のウ」、ジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族」が刊行された。

1963年には、ハインラインの「宇宙の孤児」、クリフォード・D・シマックの「中継ステーション」が刊行された。

ミステリでは、1957年、ジョン・ディクスン・カーの「火よ燃えろ!」が刊行された。

この時期、日本は、翻訳文学に飢えていた。欧米SFのめくるめくビジョンは、人々の心を幻惑し、惹きつけてやまなかった。

日本の外の世界には、まだ見たこともない発想やイメージ、自然や風景、文化や文明があると信じられた。

 

 

 

 

 

70年前、1950年、昭和25年、朝鮮戦争が勃発した。米軍の特需のおかげで、戦後の焼け野原から出発した日本経済が、ようやく息を吹き返し始めた。翌年、日本はアメリカを中心とする連合軍から独立した。ここから、戦後の日本が、本格的に始まったのだ。

1953年には、NHKの地上波テレビ放送が始まった。これが、テレビの時代の始まりだった。初の国産白黒テレビが30万円で売り出されたが、当時のサラリーマンの月給が3万円と言われていた。人々は、街頭テレビを観ていた。

私は、この時代のことは、まったくわからない。ただ、想像するのみである。

 

1949年の邦楽では、高峰秀子の「銀座カンカン娘」、藤山一郎の「青い山脈」、竹山逸郎と中村耕造の共唱「異国の丘」、竹山逸郎と藤原亮子のデュエット「月よりの使者」などの名曲が発表された。

1950年には、山口淑子(李香蘭)の「夜来香(えいらいしゃん)」、美空ひばりの「越後獅子の歌」「東京キッド」、辻輝子の「さくら貝の歌」などが発売された。

1951年には、津村謙の「上海帰りのリル」、渡辺はま子の「桑港のチャイナ街(サンフランシスコのチャイナタウン)」などがヒットした。

1952年には、美空ひばりの「リンゴ追分」「お祭りマンボ」、江利チエミの「テネシー・ワルツ」、春日八郎の「赤いランプの終列車」などが大ヒットした。

1953年には、雪村いづみの「思い出のワルツ」、鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」、高英男の「雪の降るまちを」などがリリースされた。

1954年には、江利チエミの「ウスクダラ」、菊池章子の「岸壁の母」、春日八郎の「お富さん」などの名曲がリリースされた。

1955年には、菅原都々子の「月がとっても青いから」、宮城まり子の「ガード下の靴みがき」、大津美子の「東京アンナ」、春日八郎の「別れの一本杉」、三橋美智也の「おんな船頭歌」など、心に沁みる名曲の数々が生まれ、大ヒットした。また、この年、エト国枝の「カスバの女」がリリースされたが、まったく売れなかった。実際に売れたのは、1967(昭和42)年のカバー版。

この頃、10代の人気少女歌手だった美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみは〝三人娘〟と呼ばれた。

50sの懐メロ歌謡の黎明期である。

 

1950年の洋画では、ディズニーの長編アニメ第一作「白雪姫(1937)」が、本邦初公開され、その年の洋画では最大のヒット作となった。当時の日本人の多くは、戦前のアメリカのアニメの完成度の高さに驚愕した。手塚治虫は50回観たという。

1951年には、ディズニー長編アニメ第五作「バンビ(1942)」が、本邦初公開された。

1952年には、ディズニー長編アニメ第二作「ピノキオ(1940)」、第十作「シンデレラ(1950)」が、本邦初公開された。また、ヴィヴィアン・リークラーク・ゲーブル主演の「風と共に去りぬ(1939)」が、本邦初公開され、この年の洋画で最大のヒット作となった。さらに、ゲイリー・クーパーイングリッド・バーグマン主演の「誰がために鐘は鳴る(1943)」も初公開されて大ヒットした。イギリス映画「第三の男(1949)」も、この年に公開された。

1953年には、西部劇の名作「シェーン(1953)」、チャーリー・チャップリンの「ライムライト(1952)」、ルネ・クレマン監督のフランス映画「禁じられた遊び(1952)」などがヒットした。

1954年には、グレゴリー・ペックオードリー・ヘップパーン主演の「ローマの休日」、ハンフリー・ボガードとヘップパーン主演の「サブリナ」、アルフレッド・ヒッチコック監督がグレース・ケリー主演で撮った「ダイヤルMを廻せ!」、ルイ・アームストロングが出演している「グレン・ミラー物語」が公開された。また、日本では、この年、ディズニーアニメの第四作「ダンボ(1941)」が初公開された。

映画史上に輝く名画が、めじろ押しであった。

 

この時期、英米のSF文学は、いわゆる「黄金の50年代」に入った。

1949年には、ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」が刊行された。

1950年は豊穣の年であった。アイザック・アシモフの代表作「われはロボット」、ヴァン・ヴォークトの代表作「宇宙船ビーグル号の冒険」、レイ・ブラッドベリの代表作「火星年代記」、シオドア・スタージョンの「夢みる宝石」、ジャック・ヴァンスの「終末期の赤い地球」が刊行され、コードウェイナー・スミスの最初の短編「スキャナーに生きがいはない」が発表された。

1951年には、ジョン・ウインダムの代表作「トリフィド時代」、ブラッドベリの短編集「刺青の男」が刊行された。

1952年には、クリフォード・D・シマックの「都市」が刊行された。

1953年も、豊穣の年であった。アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」「銀河帝国の崩壊」、ブラッドベリの「華氏451度」、スタージョンの「人間以上」「一角獣・多角獣」、ウインダムの「海竜めざめる」、アルフレッド・ベスターの「分解された男」が刊行された。

1954年、ウイリアム・ゴールディングの「蝿の王」、リチャード・マシスンの「アイ・アム・レジェンド」が刊行され、トム・ゴドウィンの短編「冷たい方程式」が発表された。

1955年、ジャック・フィニイの「盗まれた街」、ウインダムの「さなぎ」が刊行された。

毎年のように、何冊もの名作が発表されていた。信じられないような時代だ。

 

1951年、歴史ミステリの分野で、ジョン・ディクスン・カーの代表作「ビロードの悪魔」が刊行された。

1953年には、ハードボイルドの分野で、レイモンド・チャンドラーの代表作「長いお別れ」が刊行された。

 

超大国アメリカの全盛期だった。

 

 

 

 

 

私たちは、どこで間違えたんだろう?

 

今、沖縄でも、マスクをしていない人を見かけることは、本当に少ない。

一人で、それか、夫婦、子供たちなど、家族だけで、クルマを運転しているドライバーが、車中でマスクをしている。あるいは、閑散とした、周囲に誰もいない琉大の広大なキャンパスを、日中、一人で歩いている大学生が、みんな、マスクをしている。夜、一人か二人で、健康のため、近所を散歩をしている人たちも、みんな、マスクをしている。

しかし、私は、そういう状況で、絶対に、マスクを着用しない。屋外で、ソーシャル・ディスタンスが保たれている状態で、マスクを着用することもしない。

理由は、二つある。

第一に、周囲に、誰も人がいない状態で、マスクを着用することは、まったく無意味だからだ。感染する可能性も、させる可能性もないのに、なぜ、マスクを着用するのか、意味不明である。

第二に、息苦しいからだ。一日中、マスクを着用して、歩き回っていると、息苦しいこと、この上ない。そして、この状態では、血液中の酸素濃度は、当然、低下する。それは、著しい免疫力の低下をもたらす。

 

そもそも、感染を防止できるN95マスクを、日常的に装着するのは、特に、高齢者の呼吸器にとって過酷である。しかし、それ以外の紙マスクや布マスクでは、ウイルスを防ぐことは難しい。にもかかわらず、呼吸器への負担は大きい。

マスクを着け続けることの効能と害を比べると、私には、害の方が大きい。毎日、血液中の酸素濃度を測っているのだが、95〜97をウロウロしていて、98まで上がったことがない。ただでさえ、酸素濃度が低いのに、マスクでさらに濃度を下げるのは御免被る。

ただ、そんな私でも、どうしても、マスクを着けなければならない場所がある。それは、マスク着用をお願いされている店内(建物内)だ。私だって、人の目は気になる。そういう場所では、なるべく早く、コーヒーショップやレストランに入って、早々にマスクを外すようにしている。

レストランに入る目的は、マスクを外すことにあるのだから、マスク会食など、絶対に有り得ない。

 

空気中の微量のウイルスに晒されることを、私はまったく恐れない。その程度の微量のウイルスが体内に侵入したぐらいで発症するなら、日本人は、イギリス並みに発症しているはずである。

ウイルスは、いつでも、そこらじゅうに存在する。私たちは、日常、ウイルスに晒されて生活しているのだ。空気中には、どこでも、普通に、ウイルスが漂っているものだ。だからといって、そう簡単に、しょっちゅう罹患するわけではない。

日本人の場合、その免疫力は、充分、信頼に値する。普段の生活で、ウイルスを必要以上に恐れることはない。心静かに暮らしましょう。

インフルエンザウイルスに対してそうであるように、過労やストレスで免疫が落ちている時が危ないのだ。

私は、何よりも、自分の免疫力を信頼し、免疫低下を招かない生活を心がけている。

長時間のハードトレーニングと、長時間のマスク着用が、免疫を低下させることは、既に、よく知られている事実である。

だから、私は、なるべくマスク着用を避けている。「マスクは自然免疫の敵」である。どこでも、長時間マスクを付けっぱなしにしている人は、ウイルスに弱い身体づくりに勤しんでいるのと変わらない。愚かである。

 

 

 

また、好き好んで、何の自覚症状もないのに、自発的にPCR検査を受ける人がいる。

しかし、私は、絶対に、自覚症状がない状態では、PCR検査は受けない

理由は、二つある。

第一に、PCR検査は、偽陽性の確率が高すぎる。実際には、検査機関によっては、3割もの偽陽性が出ているという可能性も、指摘されている。

何の症状もないのに、偽陽性の判定を下されて、2週間も、不自由なホテル住まいや自宅待機を余儀なくされるのは、まったく意味がない。大迷惑である。

第二に、そのような当てにならない検査を受けること自体が、精神的に大きなストレスだからだ。このような無用の意味のないストレスによって、自己の免疫力を低下させるのは、愚の骨頂である。

 

 

 

さらに、沖縄でも、今日から、ワクチンの接種が始まった。メディアも、ワクチンを、出来るだけ摂取するべきだという意見ばかりを取り上げている。

しかし、私は、絶対にワクチンを打たない

理由は、二つある。

第一に、海外のワクチンは、日本人を対象とした治験が少なすぎる

欧米で、治験を重ねているから、大丈夫じゃないか、と思っている人は多いだろうが、私は、そうは思わない。

なぜなら、コロナウイウスに対する免疫力が、欧米人と日本人では、そもそも違いすぎるからだ。それは、単純に、人口あたりのコロナ関連死者数を比較するだけでも、一目瞭然である。

例えば、100万人あたり死者数では、日本の63人に対して、アメリカは1600人、イタリアが1633人、イギリスは1817人、フランスが1339人、ドイツが854人である。

国民の免疫体質的に、これだけ極端な違いが見られる以上、欧米の治験をそのまま日本に当てはめるのは、極めて危険である。

英米に比べて、日本は、ワクチン接種時のアレルギー反応(アナフィラキー・ショック)の起こる割合が40倍高いという報告もあるが、もともとコロナに対する免疫力が、日本の方が20〜30倍強いということから考えて、理解できない話ではない。

また、アレルギー反応(アナフィラキー・ショック)が起こるのは、9:1で圧倒的に女性が多い。一方で、コロナの重症者・死者は、7:3で男性に多い。つまり、コロナに対する免疫力の強い女性の方が、ワクチンに対するアレルギー反応が起こりやすいのだ。

日本人の20代・30代の女性の場合、2回目の接種時に、7割ぐらいの確率で、重い副反応が出ているという報告もある。もともと、感染率が低く、感染しても、重症化する可能性がほとんどない、この世代の日本人女性が、無理やりワクチンを打つ意味がわからない。医療従事者だからと、ワクチンを強制するのは言語道断である。

第二に、ワクチン接種による長期的影響が、今の時点では、まったく分からない

ワクチンの接種の目的は、獲得免疫をあらかじめ用意することによって、重症化を防ぐことにある。しかし、この獲得された免疫力は、多くの場合、変異種に対しては対応しない。それで、ワクチンと変異種のイタチごっこが始まる。

ヘタをすると、毎年、変異種に合わせて、ワクチンを打たなければならなくなる。ところが、このようなワクチンの重複投与は、長い目で見ると、免疫機能を硬直化させる。そして、ワクチンの効果がない変異種や新型ウイルスに対する免疫力を、さらに低下させる恐れがある。

今の命は救えるかもしれないが、5年後、10年後の死を用意することになるかもしれない。「人間万事塞翁が馬」ということだ。

これが、私が、コロナだけではなく、あらゆるワクチンを忌避する最大の理由だ。

 

子どもが、コロナウイルスに対して、強い免疫を持っているのは、免疫機能が、大人より柔軟で、体内に侵入したウイルスへの対応が素早いからだ。これが、大人になるにつれて、免疫が硬直化するのだが、この硬直化は、ウイルスや細菌に晒される経験が重なることによって起こる。

これは、パソコンに例えれば、データを大量に取り込むと、作動が重くなるのに似ている。

だから、コロナによる死者が一人も出ていない10代の子どもたち、慢性疾患を持病に持っていた2人を除いて死者が出ていない20代の若者たちが、重症化の恐れがないのに、わざわざワクチンを打つのは、身体の免疫機構を硬直化させるという点で、むしろ、マイナスである。

また、お年寄りの場合も、ただでさえ、免疫機能が硬直化している上に、ワクチン接種によって、さらに融通の効かない、変異種に弱い状態に、身体の機能を陥らせることで、今はまだよくても、数年後には、致命的なことになるかもしれない。

 

そもそも、細菌と違って、ウイルスは、撲滅することができない。そして、ウイルスは、必ず変異する

ウイルスに対する集団免疫は、そう簡単には成立しないということだ。

だから、細菌の場合と違って、ウイルスに対するワクチン接種は、特定のウイルスを対象として、短期的に重症化を防ぐ対処療法であるに過ぎない。ワクチンは根本的に免疫力そのものを高める手段ではないのだ。そのことを、よく理解した上で、ワクチン接種を選択するのは、個人の自由である。

とは言え、現状、日本人のコロナによる犠牲者総数は、まったく未知数である。大本営発表よろしく毎日公表されるコロナ関連死者数は、コロナに起因する死者数ではない。超過死亡数から推測して、日本での本当の犠牲者数は、現在、カウントされているコロナ関連死者数よりも、かなり低いと想定されている。実際には、日本の犠牲者数は、欧米の1/50程度かもしれない。そもそも、大本営発表を鵜呑みにしても、年間およそ1万人とされる例年のインフルエンザの犠牲者数よりも、かなり少ない。

そうであるなら、何も、緊急事態の対処療法であるワクチンの接種に、こだわる必要はない

なんとしても緊急に接種すべき切迫した理由もないのに、ワクチンを打つのは愚かだと私は思っている。打ちたい人は、打てばいい。私は、絶対に、打たない。

 

コロナだけでなく、インフルエンザのワクチンについても、まったく同じことが言える。ウイルス性の疾患の予防のためにワクチンを打つのは、自殺行為とまでは言えなくても、間違いなく、意味の薄い自傷行為である。大したことないウイルスの脅威を過大に恐れて、我と我が身をわざわざ好き好んで傷つけるのは、個人の自由ではあるが、やはり、愚かな行為である。

製薬会社(メガファーマ)と医療業界(日本医師会)とWHOの罠にハマっているとしか思えない。

中でも、最も深く取り込まれてしまっているのは、メディアだ。マスメディアは、本当に根っから「科学的権威」とやらに弱い。だから、情報操作の道具として利用されやすいのだ。

むしろ、庶民の生活実感からくる判断力の方が当てになる。ところが、そういう確かな判断力を、庶民が失いつつあるのが、実は大きな問題なのだ。

それで、結局は、過度に専門家に判断を委ねてしまう。こうして、よく考えずにワクチンを打つハメに陥る人も多いのではないか。

専門家が、「アメリカでは、0歳からコロナ・ワクチンをできるように、治験をすすめているし、世界的に国民全員がワクチンを接種するのが常識」と話しているが、どうかしていると思わざるを得ない。

お願いだから、ワクチン強制とか、ワクチン特権とか、絶対にやめて欲しい。

 

 

 

この国の政治家、メディア、国民が、現実を直視しようとせず、ありえない綺麗事に終始して、将来に禍根を放り投げ続けている問題が2つある。

それは、エネルギー問題と安全保障問題だ。

この2つの問題は、実は、表裏一体である。

エネルギーと安全保障は、色々な意味で関連が深いのだが、直接的には、エネルギー(原発)と安全保障(核兵器開発)の技術の互換性・同一性の問題に集約される。

原子力発電所をどうするんだ?」という問題は、実は「この国の核抑止力をどう担保するのか?」という問題と、裏表の関係にある、ということだ。

原子力発電所をなくすということは、原子力技術を捨てるということなのだ。それはすなわち、日本が独自に核開発できる技術を捨てるということに等しい。

その場合、日米同盟が解消された時点で、この国を守る核抑止力は存在しなくなる。北朝鮮、中国、ロシアの核の脅威に、我々は、なすすべもなくなるということだ。

そのような危機的状況を招く「原子力発電ゼロ」を軽々しく主張できる菅直人や小泉純一郎のような政治家は、国家の安全保障について、あまりにも無責任で、非現実的な妄想家というよりない。こうした連中が、この国の首相を務めていたということは、いかに、この国の政治家が、自国の安全保障に関して無頓着か、ということを、如実に示している。

同時に、彼ら政治家は、この国の国民の鏡なのだ。我々国民もまた、「諸外国からの支配を、どのように防ぐのか」ということを、これまで、まったく考えようとしてこなかった。

それは、この国の民が、他者に支配される状態に甘んじて、自立の意志を持ち、独立した精神を持とうと努力してこなかったことを示している。

要するに、日本人一人一人が、未熟なままで、大人になっていないのだ。福沢諭吉が言ったように、一身独立がなければ、一国独立も無理である。

いつまでも、あると思うな、日米同盟。独自防衛の可能性を考察することは、国家と国民の義務である。

だが、残念ながら、この国の誰もが、その義務を怠っている。

 

原発をなくすということは、独自核抑止力保持の可能性を完全に捨てるということだ」「それでいいのか?」と、なぜ、誰も言わないのか。

いつまで、サヨクのくだらない妄想に付き合い続けるのだ?

この国が滅びるまでか?

 

森喜朗さんの発言の中で、女性蔑視発言であると非難されている部分に、「女性は話が長い」という言葉があります。

はたして、この発言は、本当に女性蔑視として、社会的に非難されるべきなのか、そして、問題だとするなら、どの程度の問題なのか、というのが、今回の記事のテーマです。

 

主に私的な会話において「女性は話しすぎる」と、一般に男性が感じやすいのは、女性に比べて共感的コミュニケーション能力が低い傾向があるためです。男性は、自分の気持ちがうまく表現できないということもあって、自分が表現したいという強い欲求を感じない部分で、女性が一生懸命話したがる、と感じているわけです。

これは、男女の脳の構造の違いによるのかもしれないし、ホルモンの問題かもしれません。

そのため、男性は主観的に「女は話が長い」と感じがちなのです。これは、実感を伴った正直な気持ちであって、そう感じるのはおかしいと一方的に断じて、発言を責めるのは不当です。

 

世の大部分の男性は、特に、男女の関係において、女性は話しすぎると感じているのであって、それは嘘偽りのない正直な気持ちだと思うのです。

一方で、女性から見ると男性は話さなすぎます。肝心のこともなかなか言葉にしないと感じることが多いのです。

理性的・論理的思考が、心理学的・社会学的に男性性・男性的な感覚に属しており、感情的・共感的・受容的コミュニケーション能力が、女性性の核とされるのも、無意識世界の構造や集合無意識と関連して考えられますし、脳の構造やホルモン・バランスと密接に関わるのではないか、とも言われます。

 

もちろん、男性の長話は、公的な挨拶などにおいて、非常に多く見られますし、演説が好きなのはむしろ男性の方です。その点では「男性は話が長い」ということも、実感を伴って言えることです。

議論の場においてどうか、ということは、なかなか難しいところですが、相手が自分の関心外の部分で長々と話すという感覚は、男女ともに異性に対して、あるでしょうし、その点では、「会議で、男は(女は)話が長い」という発言は、どちらも実感を伴う正直な言葉であると言えます。

この正直な気持ちを断罪されると、「お前は人間失格だ!」と全人格を否定され、「人類社会の一員として認められない」と選別・排斥・差別・抑圧されるのと変わりありません。

「差別するな!」と、他者の実感を差別するのは、本末転倒です。

ところが、実際には、「差別はいけない」と言う人に限って、ひどい差別をしているものです。というのも、そもそも、人間は差別する生き物だからです。人の脳は、差別せずにはいられないのです。

 

 

 

これは、単にジェンダーの問題として、改革すべきこととして、片付けてしまえることではなく、むしろ、人間性の根幹に関わる問題であるという気がします。

ここで私が提起したいことは、三つあります。

一つは、実感として感じることを大切にすることは、人間性構築の土台であり、人が成長するためには「自分が感じていることを信頼しなければならない」ということです。主観を蔑視するのは間違いなのです。

「男性は共感力が低い」とか「男は気持ちを表現するのが下手」と女性が感じるのが間違いではないのと同様に、「女性は話が長い」「女はすぐ感情的になる」と感じる男性の主観は、間違ってはいないし、そう感じることを恥じるのもよろしくない、ということです。

逆に、あの発言を「気持ち悪い」と排斥する人たちの許容量の低さを、社会は本気で心配すべきです。

 

そうした社会的排斥圧力が強まると、世の中の空気を読んで、表面的に時流に合わせて格好(発言の)を整え、他者の反発を招きそうな本音をひた隠しにする人が、さらに増えることになります。すると、結果として、社会にコミュニケーションの不通をもたらし、互いの心に「この人は本音を言わないので、何を考えているのかわからない」という不信感を生みます。そして、その状態が当たり前になり、社会に他者への不信感が蔓延することで、人はますます保身的になり、融通が効かなくなります。これによって、社会的な摩擦や不満やストレスが、さらに激しくなります。最悪の負のスパイラルです。

だから、本心を偽ることを推奨する社会的圧力を強めるのは、絶対に誤りです。

むしろ、私たちは、本音は、本音として、素直に言葉にして相手に伝え合う、互いに対等に話し合う場を多く持つべきだと思うのです。

「女性は話が長い」という森さんの実感を責めるのではなく、「私は、男性の方が、話が長いと思う」という実感をぶつけて、互いの実感の違いはどこから生じるのか、考えてみることこそが、大切です。非難や排斥や攻撃のための考察とか、相手を黙らせる圧力とか、報復し合う策略にエネルギーを使うのは、実に不毛です。

 

 

 

第二に、女性は、今日、社会的弱者とは言い難い、ということです。

古代ギリシア文明から、ここ二千五百年の間、人類社会において、男性的な論理的思考は、女性的な感情的共感よりも、上位にあると考えられてきました。これは、洋の東西を問わず、ここ数千年、人類社会においては、男性的理性が上位だったのであって、平安期の日本のように、まったく真逆の女性的感性が上位の文明は、非常に稀なものでした。

古代の中国では、この男性性を〝陽〟と呼び、女性性を〝陰〟と呼びました

陽の性質は、合理性、論理性、客観、実証、物質性、外向性、積極性、判断力、行動力、活発、集中、分析、切断、科学、闘争心、権力意志を顕在化させます。これらの性質は男性の身体に体現されるもので、心理学的には「男性原理(アニムス)」と呼ばれます。

陰の性質は、受容性、情緒性、協調性、寛容、主観、内面性、内向性、理解力、共感力、静寂、平和、芸術、感性、維持、安心感、調和意志を顕在化させます。これらの性質は、女性の身体に体現されるもので、心理学的には「女性原理(アニマ)」と呼ばれます。

「陰と陽は、分かち難く、表裏一体であって、そのバランスが、個人の内面においても、社会においても大切である」というのが、陰陽五行説ですが、実際には、中国の歴史において、現代に至るまで、そのバランスは、社会的価値観としても、個々人の内面においても、圧倒的に陽に傾いてきました。

本来対等であるはずの陽が陰を支配するという社会的価値観の上下構造は、個人の内面で陽が陰を抑圧する精神構造と一体となっています。ここでは、この構造を「男性性上位・優位」と表現しています。

この著しい偏向とバランスの崩れは、欧米でも同じです。

 

男性性上位の傾向は、今日の世界でも、非常に色濃く、そのため、今に至るまで、教育は、論理性を養うこと、理性の司る思考力と判断力を鍛えることを主眼としており、共感的感性や豊かな情感を養うこと、感情や感性を表現すること、寛容さや受容性を育て、気持ちを分かち合うことを教育するという意識は、特に学校教育においては、一般にほとんど見られません。

私たちは、主観的な実感よりも、客観的な数値を重んじる社会に生きています。生身の手応えを無視して、データや科学的検証を絶対視しています。学びの気づきや充足より、点数や偏差値を信じています。内的な充実より、他者との比較や競争に忙しいのです。

ですから、私たちの社会は、〝男性性〟上位の社会であり、男性原理に基づく社会である、ということは、間違いのないところです。中国や欧米においては特に顕著であるし、歴史的に女性原理に基づく価値観が根強い日本においても、戦後、男性原理に基づく論理的思考(理性)優位の傾向が、欧米の影響で格段に強まってきているのは確かです。

しかし、「女性性や女性原理に基づく価値観が虐げられた〝男性原理優位の社会〟であること」と、「個人としての女性への蔑視が目立ち、男性に権力が集中する男性上位の男女差階層社会であること」とは、まったく別の問題です。

 

 

 

もちろん、20世紀までの人類社会において、女性蔑視や男性優遇の社会的価値観が、幅を利かせていたことは事実です。戦中育ちの森喜朗という個人の中に、そういう男性上位の差別的価値観が残っていることも確かであるように思われます。

しかし、男性上位・女性蔑視の風潮は、戦後、急速に改善され、今日の日本社会においては、ずいぶんと影を潜めてきているように思います。法的にはもちろん、社会的にも、ある程度まで、男女同権が確立されているということです。

 

また、その一方で、21世紀においても、ユング心理学で言うところの「男性原理」上位の価値観への偏向は、日本社会の中でも、特に、戦後になって急速に強まり、その変化は、現在も進展し続けています。

そして、私たちが生きている極端な「男性原理」優位の社会において、個人としての女性が、社会に関わりながら自然に生きようとする時に、男性上位社会において感じるのと同様に、ある種の生きづらさや息苦しさを強く感じることは、当然ありうると思います。

 

ただし、一人の人間にとって、たとえそれが、男性であっても女性であっても、理性と感情、思考と共感、評価と理解、判断と受容、切断と連結、男性性と女性性の、いずれかに偏ってしまうことは、個性を確立し、自らの豊かな人間性を育てていく上で、甚だしくアンバランスであり、その個性・人格は、不安定で、歪なものになりがちです。

例えば、日頃から感情を排した理性的な思考に偏りがちであるとか、人間的理解よりも、社会的評価ばかり気になり、上昇志向で、人より上か下か、つい比較してしまい、優越感と劣等感の間で揺れている。情緒に乏しく、自分に利がない人間関係は、容赦なく切り捨てられる。策略を巡らせ、相手の弱点を突くのは上手ですが、共感力に乏しく、人を信頼できない。

そうした人間精神内面の極端なバランスの悪さは、個人的な幸福を追求するのにも、社会的な影響力を発揮するのにも、都合が悪いのです。

それは、男性でも女性でも、同じことです。

 

 

 

そして、私たちは、今日の理性偏重の社会において、女性性を内に育んでいく機会を徹底的に奪われています。この影響は、男女共に表れています。女性的な情感の潤いを持たない女性が増えていく一方で、男性は、内なる女性性の完全な枯渇という危機に直面しています。

この深刻さは、女性よりも男性の内面世界において、より深刻です。なぜなら、女性の場合、本来苦手な男性原理を内的に発達させる機会が豊富に与えられているのに対して、男性の場合、本来苦手な女性原理を学ぶ機会が、非常に少ないからです。具体的に言うと、女性は、特に、教育の場において、論理的思考を訓練し、スキルを磨く機会は多いわけですが、男性は、教育の場においても、日常生活においても、社会に出てからも、共感的感性や情緒を豊かに学ぶ機会は、ほぼ皆無です。

したがって、女性の場合、本来持っている女性性に加えて、論理性や思考力を鍛える環境が、社会的に整っているのに対して、男性は、論理的思考は発達しても、柔軟性や受容性や寛容さに乏しく、共感的なコミュニケーション能力の未発達な状態に甘んじる可能性が大きいということです。

 

事実、引きこもりも自殺も、男性の方が多いのです。平成30年度の内閣府の調査によると、40〜65歳の引きこもり61万人のうち、男性が76.6%、女性は23.4%と、男性が圧倒的に多いのです。さらに、自殺者全体のうち、男性は7割を占めます

平均寿命が男性の方が短いことは、言うまでもありません。この男女の平均寿命の差についても、20世紀初めまでは、ほとんど差がなかったのが、年々開いてきており、生物学的要因より、社会的要因の方が大きいということが、わかっています。

コロナの死亡者数も、男性は女性の1.4倍であり、男性より女性の免疫力が、明らかに強いのです。これについても、免疫力の差が見られる原因として、社会的優位性が影響している可能性があります。

以上のデータから、現代の日本社会では、女性よりも、むしろ、男性の方が〝生きにくい〟と考えられます。

 

加えて、21世紀に入って、国際的に、以前からの個人としての女性の復権だけではなく、女性性そのものの復権の傾向が顕著になってきており、ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように、女性が、自らの女性性を強く発揮することで大きな社会的評価を得る機会も増えています。

ただし、その場合も、現状では、十分に論理的思考が訓練されているという条件が付きます。まだまだ、女性性そのものが、そのままでも評価されるという段階からは程遠いのではありますが、少なくとも、女性には、男性以上に、創造的な生き方をする余地があるということは言えるのではないでしょうか。

その意味で、今日、女性は、男性よりも社会的に優位に立っている面も大きいと思われるのです。

そうであるなら、今日の女性優位社会に対応しきれない森さんのような男性の高齢者こそが、社会的マイノリティではないか、と考えることもできます。

 

 

 

ただ、女性について、心配な面もあります。

それは、女性の中の女性性の枯渇は、男性の場合よりも、長い目で見て、人類社会に破滅的な影響を及ぼすということです。

実際、今日の男性性上位の価値観の中で生きている女性たちの中には、内的に混乱し、内なる女性性を否定してしまったり、権力を追いかける中で、自ら喪失してしまったり、極端に未成熟な状態のまま大人になる人も、多く見られます。特に、日本では、客観を重視し、主観を蔑視する価値観の強い高等科学教育を受けた女性ほど、その傾向が強いという面もあります。

そして、古代の女王ゼノビアの悲劇にも見られるように、女性性を見失った母親(指導者)の無意識下の混乱は、子ども(国)に破滅的な影響を及ぼします。そういう意味では、〝毒親〟は、多くの場合、母親なのです。

今回の森さん失言騒動においても、森発言批判の多くは、強烈な男性原理に貫かれており、極めて論理的で、冷徹かつシニカルであり、受容性や寛容さを排した攻撃的なものでした。彼らは、森喜朗氏の率直さや共感的な感性をこきおろし、その表現の偏向を微に入り細に入り分析し、森さん的存在を社会から排除する意思をみせました。

小保方さんの時もそうでしたが、こうした排除の意思、寛容さの欠如の傾向は、男性よりも女性の論者において顕著に発揮される傾向があります。

彼女たちは、客観的論理性(男性性)を、男性より強く発揮することが、自身の社会的影響力の伸長に有効であることを知っているのです。それで、幼い頃から、そうした「手段としての理性」を、権力を得るための武器として鍛えることに、エネルギーを注いできたことで、社会的成功は得られるようになりました。しかし、その一方で、喪ったモノもあるのです。

その一つが、本来充実してあるべきだった、内面における女性性(柔軟性・受容性・情緒)の未熟さです。女性が、自身の内面に、男性性上位の不自然で歪な精神を構築してしまっているのです。

子どもが、今、苦しんでいることに気づけない。子どもの態度や表情、声のトーンや仕草から、感じていることを読み取れない。子どもが置かれている状況を、本人の身になって想像できない。子どもの気持ちよりも、自分の気持ちを優先する。子どもの内面世界に、まったく関心がない。子どもが何が言いたいのか、まったく理解できない。目に見える行動と点数だけで、子どもを評価する。そういう男性原理に支配された母親が、本当に多くなりました。なぜなら、彼女たち自身も、そのように育ったからです。それで、彼女たちは、我が子の子育てを専門家に任せようとします。自分で育てる自信がないのです。

こうした個々人の女性の内面における女性性・母性そのものの枯渇の顕在化は、今日の社会において、私に最も深い不安を感じさせるものの一つです。

 

私たちの内なる混乱は、社会における判断の公正さと冷静さの欠如というかたちで、外面化・顕在化しているのではないでしょうか。

特に、研究者とか教授と呼ばれる高学歴者の発言に、こうした傾向は、近年、ますます強く現れているように思われてなりません。彼らは、自らの学問的権威によって守られているために、森さん以上に、日頃、自らの発言の問題点を自覚することがほとんどないのです。

 

最後に、この記事を通して、私が最も重要な課題と考えていることを述べたいと思います。

それは、日本文明における女性原理の再生・再構築です。そして、その鍵となるのは「誰も見捨てない」「決して見捨てない」ということです。

森喜朗氏を老害として切り捨てることは、この国を、より衰微させる破滅への道であるということを、日本人一人一人が、自覚しなければならないのです。

この「女性原理」復権の問題は、国の将来を見据えて考えれば、老若男女、すべての日本人にとって、森さんの失言より、100万倍重要な問題です。

そして、この救国の観点に立てば、私たちは、森喜朗氏を、退任に追い込んではならなかったのです。

 

さらに言えば、日本文明における女性原理の復権は、人類社会の幸福に、極めて大きく寄与するものです。

さあ、私たちから、始めましょう。

この国は、男性上位の社会である、などと、勘違いの思い込みを続けるのはやめ、男性原理の支配する社会にこそ、挑戦して欲しいのです。

 

 

【参考】

平均寿命 日本→女性87.1歳/男性81.1歳(2016年度)

平均寿命 世界→女性74.2歳/男性69.8歳

自殺率  日本→女性11.4人/男性26.0人(人/10万人)(2016年度)

自殺率  韓国→女性15.4人/男性38.4人

自殺率  米国→女性7.2人/男性23.6人

自殺率  ドイツ→女性7.2人/男性19.7人

自殺率  世界→女性7.7人/男性13.5人