この国の政治家、メディア、国民が、現実を直視しようとせず、ありえない綺麗事に終始して、将来に禍根を放り投げ続けている問題が2つある。
それは、エネルギー問題と安全保障問題だ。
この2つの問題は、実は、表裏一体である。
エネルギーと安全保障は、色々な意味で関連が深いのだが、直接的には、エネルギー(原発)と安全保障(核兵器開発)の技術の互換性・同一性の問題に集約される。
「原子力発電所をどうするんだ?」という問題は、実は「この国の核抑止力をどう担保するのか?」という問題と、裏表の関係にある、ということだ。
原子力発電所をなくすということは、原子力技術を捨てるということなのだ。それはすなわち、日本が独自に核開発できる技術を捨てるということに等しい。
その場合、日米同盟が解消された時点で、この国を守る核抑止力は存在しなくなる。北朝鮮、中国、ロシアの核の脅威に、我々は、なすすべもなくなるということだ。
そのような危機的状況を招く「原子力発電ゼロ」を軽々しく主張できる菅直人や小泉純一郎のような政治家は、国家の安全保障について、あまりにも無責任で、非現実的な妄想家というよりない。こうした連中が、この国の首相を務めていたということは、いかに、この国の政治家が、自国の安全保障に関して無頓着か、ということを、如実に示している。
同時に、彼ら政治家は、この国の国民の鏡なのだ。我々国民もまた、「諸外国からの支配を、どのように防ぐのか」ということを、これまで、まったく考えようとしてこなかった。
それは、この国の民が、他者に支配される状態に甘んじて、自立の意志を持ち、独立した精神を持とうと努力してこなかったことを示している。
要するに、日本人一人一人が、未熟なままで、大人になっていないのだ。福沢諭吉が言ったように、一身独立がなければ、一国独立も無理である。
いつまでも、あると思うな、日米同盟。独自防衛の可能性を考察することは、国家と国民の義務である。
だが、残念ながら、この国の誰もが、その義務を怠っている。
「原発をなくすということは、独自核抑止力保持の可能性を完全に捨てるということだ」「それでいいのか?」と、なぜ、誰も言わないのか。
いつまで、サヨクのくだらない妄想に付き合い続けるのだ?
この国が滅びるまでか?