森喜朗さんの発言の中で、女性蔑視発言であると非難されている部分に、「女性は話が長い」という言葉があります。

はたして、この発言は、本当に女性蔑視として、社会的に非難されるべきなのか、そして、問題だとするなら、どの程度の問題なのか、というのが、今回の記事のテーマです。

 

主に私的な会話において「女性は話しすぎる」と、一般に男性が感じやすいのは、女性に比べて共感的コミュニケーション能力が低い傾向があるためです。男性は、自分の気持ちがうまく表現できないということもあって、自分が表現したいという強い欲求を感じない部分で、女性が一生懸命話したがる、と感じているわけです。

これは、男女の脳の構造の違いによるのかもしれないし、ホルモンの問題かもしれません。

そのため、男性は主観的に「女は話が長い」と感じがちなのです。これは、実感を伴った正直な気持ちであって、そう感じるのはおかしいと一方的に断じて、発言を責めるのは不当です。

 

世の大部分の男性は、特に、男女の関係において、女性は話しすぎると感じているのであって、それは嘘偽りのない正直な気持ちだと思うのです。

一方で、女性から見ると男性は話さなすぎます。肝心のこともなかなか言葉にしないと感じることが多いのです。

理性的・論理的思考が、心理学的・社会学的に男性性・男性的な感覚に属しており、感情的・共感的・受容的コミュニケーション能力が、女性性の核とされるのも、無意識世界の構造や集合無意識と関連して考えられますし、脳の構造やホルモン・バランスと密接に関わるのではないか、とも言われます。

 

もちろん、男性の長話は、公的な挨拶などにおいて、非常に多く見られますし、演説が好きなのはむしろ男性の方です。その点では「男性は話が長い」ということも、実感を伴って言えることです。

議論の場においてどうか、ということは、なかなか難しいところですが、相手が自分の関心外の部分で長々と話すという感覚は、男女ともに異性に対して、あるでしょうし、その点では、「会議で、男は(女は)話が長い」という発言は、どちらも実感を伴う正直な言葉であると言えます。

この正直な気持ちを断罪されると、「お前は人間失格だ!」と全人格を否定され、「人類社会の一員として認められない」と選別・排斥・差別・抑圧されるのと変わりありません。

「差別するな!」と、他者の実感を差別するのは、本末転倒です。

ところが、実際には、「差別はいけない」と言う人に限って、ひどい差別をしているものです。というのも、そもそも、人間は差別する生き物だからです。人の脳は、差別せずにはいられないのです。

 

 

 

これは、単にジェンダーの問題として、改革すべきこととして、片付けてしまえることではなく、むしろ、人間性の根幹に関わる問題であるという気がします。

ここで私が提起したいことは、三つあります。

一つは、実感として感じることを大切にすることは、人間性構築の土台であり、人が成長するためには「自分が感じていることを信頼しなければならない」ということです。主観を蔑視するのは間違いなのです。

「男性は共感力が低い」とか「男は気持ちを表現するのが下手」と女性が感じるのが間違いではないのと同様に、「女性は話が長い」「女はすぐ感情的になる」と感じる男性の主観は、間違ってはいないし、そう感じることを恥じるのもよろしくない、ということです。

逆に、あの発言を「気持ち悪い」と排斥する人たちの許容量の低さを、社会は本気で心配すべきです。

 

そうした社会的排斥圧力が強まると、世の中の空気を読んで、表面的に時流に合わせて格好(発言の)を整え、他者の反発を招きそうな本音をひた隠しにする人が、さらに増えることになります。すると、結果として、社会にコミュニケーションの不通をもたらし、互いの心に「この人は本音を言わないので、何を考えているのかわからない」という不信感を生みます。そして、その状態が当たり前になり、社会に他者への不信感が蔓延することで、人はますます保身的になり、融通が効かなくなります。これによって、社会的な摩擦や不満やストレスが、さらに激しくなります。最悪の負のスパイラルです。

だから、本心を偽ることを推奨する社会的圧力を強めるのは、絶対に誤りです。

むしろ、私たちは、本音は、本音として、素直に言葉にして相手に伝え合う、互いに対等に話し合う場を多く持つべきだと思うのです。

「女性は話が長い」という森さんの実感を責めるのではなく、「私は、男性の方が、話が長いと思う」という実感をぶつけて、互いの実感の違いはどこから生じるのか、考えてみることこそが、大切です。非難や排斥や攻撃のための考察とか、相手を黙らせる圧力とか、報復し合う策略にエネルギーを使うのは、実に不毛です。

 

 

 

第二に、女性は、今日、社会的弱者とは言い難い、ということです。

古代ギリシア文明から、ここ二千五百年の間、人類社会において、男性的な論理的思考は、女性的な感情的共感よりも、上位にあると考えられてきました。これは、洋の東西を問わず、ここ数千年、人類社会においては、男性的理性が上位だったのであって、平安期の日本のように、まったく真逆の女性的感性が上位の文明は、非常に稀なものでした。

古代の中国では、この男性性を〝陽〟と呼び、女性性を〝陰〟と呼びました

陽の性質は、合理性、論理性、客観、実証、物質性、外向性、積極性、判断力、行動力、活発、集中、分析、切断、科学、闘争心、権力意志を顕在化させます。これらの性質は男性の身体に体現されるもので、心理学的には「男性原理(アニムス)」と呼ばれます。

陰の性質は、受容性、情緒性、協調性、寛容、主観、内面性、内向性、理解力、共感力、静寂、平和、芸術、感性、維持、安心感、調和意志を顕在化させます。これらの性質は、女性の身体に体現されるもので、心理学的には「女性原理(アニマ)」と呼ばれます。

「陰と陽は、分かち難く、表裏一体であって、そのバランスが、個人の内面においても、社会においても大切である」というのが、陰陽五行説ですが、実際には、中国の歴史において、現代に至るまで、そのバランスは、社会的価値観としても、個々人の内面においても、圧倒的に陽に傾いてきました。

本来対等であるはずの陽が陰を支配するという社会的価値観の上下構造は、個人の内面で陽が陰を抑圧する精神構造と一体となっています。ここでは、この構造を「男性性上位・優位」と表現しています。

この著しい偏向とバランスの崩れは、欧米でも同じです。

 

男性性上位の傾向は、今日の世界でも、非常に色濃く、そのため、今に至るまで、教育は、論理性を養うこと、理性の司る思考力と判断力を鍛えることを主眼としており、共感的感性や豊かな情感を養うこと、感情や感性を表現すること、寛容さや受容性を育て、気持ちを分かち合うことを教育するという意識は、特に学校教育においては、一般にほとんど見られません。

私たちは、主観的な実感よりも、客観的な数値を重んじる社会に生きています。生身の手応えを無視して、データや科学的検証を絶対視しています。学びの気づきや充足より、点数や偏差値を信じています。内的な充実より、他者との比較や競争に忙しいのです。

ですから、私たちの社会は、〝男性性〟上位の社会であり、男性原理に基づく社会である、ということは、間違いのないところです。中国や欧米においては特に顕著であるし、歴史的に女性原理に基づく価値観が根強い日本においても、戦後、男性原理に基づく論理的思考(理性)優位の傾向が、欧米の影響で格段に強まってきているのは確かです。

しかし、「女性性や女性原理に基づく価値観が虐げられた〝男性原理優位の社会〟であること」と、「個人としての女性への蔑視が目立ち、男性に権力が集中する男性上位の男女差階層社会であること」とは、まったく別の問題です。

 

 

 

もちろん、20世紀までの人類社会において、女性蔑視や男性優遇の社会的価値観が、幅を利かせていたことは事実です。戦中育ちの森喜朗という個人の中に、そういう男性上位の差別的価値観が残っていることも確かであるように思われます。

しかし、男性上位・女性蔑視の風潮は、戦後、急速に改善され、今日の日本社会においては、ずいぶんと影を潜めてきているように思います。法的にはもちろん、社会的にも、ある程度まで、男女同権が確立されているということです。

 

また、その一方で、21世紀においても、ユング心理学で言うところの「男性原理」上位の価値観への偏向は、日本社会の中でも、特に、戦後になって急速に強まり、その変化は、現在も進展し続けています。

そして、私たちが生きている極端な「男性原理」優位の社会において、個人としての女性が、社会に関わりながら自然に生きようとする時に、男性上位社会において感じるのと同様に、ある種の生きづらさや息苦しさを強く感じることは、当然ありうると思います。

 

ただし、一人の人間にとって、たとえそれが、男性であっても女性であっても、理性と感情、思考と共感、評価と理解、判断と受容、切断と連結、男性性と女性性の、いずれかに偏ってしまうことは、個性を確立し、自らの豊かな人間性を育てていく上で、甚だしくアンバランスであり、その個性・人格は、不安定で、歪なものになりがちです。

例えば、日頃から感情を排した理性的な思考に偏りがちであるとか、人間的理解よりも、社会的評価ばかり気になり、上昇志向で、人より上か下か、つい比較してしまい、優越感と劣等感の間で揺れている。情緒に乏しく、自分に利がない人間関係は、容赦なく切り捨てられる。策略を巡らせ、相手の弱点を突くのは上手ですが、共感力に乏しく、人を信頼できない。

そうした人間精神内面の極端なバランスの悪さは、個人的な幸福を追求するのにも、社会的な影響力を発揮するのにも、都合が悪いのです。

それは、男性でも女性でも、同じことです。

 

 

 

そして、私たちは、今日の理性偏重の社会において、女性性を内に育んでいく機会を徹底的に奪われています。この影響は、男女共に表れています。女性的な情感の潤いを持たない女性が増えていく一方で、男性は、内なる女性性の完全な枯渇という危機に直面しています。

この深刻さは、女性よりも男性の内面世界において、より深刻です。なぜなら、女性の場合、本来苦手な男性原理を内的に発達させる機会が豊富に与えられているのに対して、男性の場合、本来苦手な女性原理を学ぶ機会が、非常に少ないからです。具体的に言うと、女性は、特に、教育の場において、論理的思考を訓練し、スキルを磨く機会は多いわけですが、男性は、教育の場においても、日常生活においても、社会に出てからも、共感的感性や情緒を豊かに学ぶ機会は、ほぼ皆無です。

したがって、女性の場合、本来持っている女性性に加えて、論理性や思考力を鍛える環境が、社会的に整っているのに対して、男性は、論理的思考は発達しても、柔軟性や受容性や寛容さに乏しく、共感的なコミュニケーション能力の未発達な状態に甘んじる可能性が大きいということです。

 

事実、引きこもりも自殺も、男性の方が多いのです。平成30年度の内閣府の調査によると、40〜65歳の引きこもり61万人のうち、男性が76.6%、女性は23.4%と、男性が圧倒的に多いのです。さらに、自殺者全体のうち、男性は7割を占めます

平均寿命が男性の方が短いことは、言うまでもありません。この男女の平均寿命の差についても、20世紀初めまでは、ほとんど差がなかったのが、年々開いてきており、生物学的要因より、社会的要因の方が大きいということが、わかっています。

コロナの死亡者数も、男性は女性の1.4倍であり、男性より女性の免疫力が、明らかに強いのです。これについても、免疫力の差が見られる原因として、社会的優位性が影響している可能性があります。

以上のデータから、現代の日本社会では、女性よりも、むしろ、男性の方が〝生きにくい〟と考えられます。

 

加えて、21世紀に入って、国際的に、以前からの個人としての女性の復権だけではなく、女性性そのものの復権の傾向が顕著になってきており、ドイツのメルケル首相やニュージーランドのアーダーン首相のように、女性が、自らの女性性を強く発揮することで大きな社会的評価を得る機会も増えています。

ただし、その場合も、現状では、十分に論理的思考が訓練されているという条件が付きます。まだまだ、女性性そのものが、そのままでも評価されるという段階からは程遠いのではありますが、少なくとも、女性には、男性以上に、創造的な生き方をする余地があるということは言えるのではないでしょうか。

その意味で、今日、女性は、男性よりも社会的に優位に立っている面も大きいと思われるのです。

そうであるなら、今日の女性優位社会に対応しきれない森さんのような男性の高齢者こそが、社会的マイノリティではないか、と考えることもできます。

 

 

 

ただ、女性について、心配な面もあります。

それは、女性の中の女性性の枯渇は、男性の場合よりも、長い目で見て、人類社会に破滅的な影響を及ぼすということです。

実際、今日の男性性上位の価値観の中で生きている女性たちの中には、内的に混乱し、内なる女性性を否定してしまったり、権力を追いかける中で、自ら喪失してしまったり、極端に未成熟な状態のまま大人になる人も、多く見られます。特に、日本では、客観を重視し、主観を蔑視する価値観の強い高等科学教育を受けた女性ほど、その傾向が強いという面もあります。

そして、古代の女王ゼノビアの悲劇にも見られるように、女性性を見失った母親(指導者)の無意識下の混乱は、子ども(国)に破滅的な影響を及ぼします。そういう意味では、〝毒親〟は、多くの場合、母親なのです。

今回の森さん失言騒動においても、森発言批判の多くは、強烈な男性原理に貫かれており、極めて論理的で、冷徹かつシニカルであり、受容性や寛容さを排した攻撃的なものでした。彼らは、森喜朗氏の率直さや共感的な感性をこきおろし、その表現の偏向を微に入り細に入り分析し、森さん的存在を社会から排除する意思をみせました。

小保方さんの時もそうでしたが、こうした排除の意思、寛容さの欠如の傾向は、男性よりも女性の論者において顕著に発揮される傾向があります。

彼女たちは、客観的論理性(男性性)を、男性より強く発揮することが、自身の社会的影響力の伸長に有効であることを知っているのです。それで、幼い頃から、そうした「手段としての理性」を、権力を得るための武器として鍛えることに、エネルギーを注いできたことで、社会的成功は得られるようになりました。しかし、その一方で、喪ったモノもあるのです。

その一つが、本来充実してあるべきだった、内面における女性性(柔軟性・受容性・情緒)の未熟さです。女性が、自身の内面に、男性性上位の不自然で歪な精神を構築してしまっているのです。

子どもが、今、苦しんでいることに気づけない。子どもの態度や表情、声のトーンや仕草から、感じていることを読み取れない。子どもが置かれている状況を、本人の身になって想像できない。子どもの気持ちよりも、自分の気持ちを優先する。子どもの内面世界に、まったく関心がない。子どもが何が言いたいのか、まったく理解できない。目に見える行動と点数だけで、子どもを評価する。そういう男性原理に支配された母親が、本当に多くなりました。なぜなら、彼女たち自身も、そのように育ったからです。それで、彼女たちは、我が子の子育てを専門家に任せようとします。自分で育てる自信がないのです。

こうした個々人の女性の内面における女性性・母性そのものの枯渇の顕在化は、今日の社会において、私に最も深い不安を感じさせるものの一つです。

 

私たちの内なる混乱は、社会における判断の公正さと冷静さの欠如というかたちで、外面化・顕在化しているのではないでしょうか。

特に、研究者とか教授と呼ばれる高学歴者の発言に、こうした傾向は、近年、ますます強く現れているように思われてなりません。彼らは、自らの学問的権威によって守られているために、森さん以上に、日頃、自らの発言の問題点を自覚することがほとんどないのです。

 

最後に、この記事を通して、私が最も重要な課題と考えていることを述べたいと思います。

それは、日本文明における女性原理の再生・再構築です。そして、その鍵となるのは「誰も見捨てない」「決して見捨てない」ということです。

森喜朗氏を老害として切り捨てることは、この国を、より衰微させる破滅への道であるということを、日本人一人一人が、自覚しなければならないのです。

この「女性原理」復権の問題は、国の将来を見据えて考えれば、老若男女、すべての日本人にとって、森さんの失言より、100万倍重要な問題です。

そして、この救国の観点に立てば、私たちは、森喜朗氏を、退任に追い込んではならなかったのです。

 

さらに言えば、日本文明における女性原理の復権は、人類社会の幸福に、極めて大きく寄与するものです。

さあ、私たちから、始めましょう。

この国は、男性上位の社会である、などと、勘違いの思い込みを続けるのはやめ、男性原理の支配する社会にこそ、挑戦して欲しいのです。

 

 

【参考】

平均寿命 日本→女性87.1歳/男性81.1歳(2016年度)

平均寿命 世界→女性74.2歳/男性69.8歳

自殺率  日本→女性11.4人/男性26.0人(人/10万人)(2016年度)

自殺率  韓国→女性15.4人/男性38.4人

自殺率  米国→女性7.2人/男性23.6人

自殺率  ドイツ→女性7.2人/男性19.7人

自殺率  世界→女性7.7人/男性13.5人