ゴールデン・ウイーク真っ只中の今日、大規模店舗が多い新宿は、デパートなど大型店舗休業のため、いつもと比べて、あまり人がいないが、小規模店舗ばかりで、ほとんどの店が開いている南青山や銀座の人通りは、若者を中心に、いつも通りの大混雑である。

結局、百貨店やテーマパークなど大型商業施設、劇場や映画館や美術館などをいじめたところで、コロナはおさまらない。しかも、マスクを外せる百貨店内のレストランと一階化粧品コーナーは開いていて、その他のブランドショップが閉まっている意味がわからない。

というか、1日平均の新規感染者5000人程度、重症患者は全国で1000人程度、1日平均の関連死者60人程度(5月3日現在)という、大したことない微々たるコロナ感染者数の増加を、さも甚だしいかのように、大仰に問題にする意味があるのか。

それよりも、今だに、この程度のレベルで、医療崩壊の危機に陥る、この国の医療システムを、どうにかしてほしい。世界一の急性期病床数が有りながら、いまだ、コロナ病床数3%とかって、頭おかしいだろ!

それで、コロナ医療が逼迫するのは、何の不思議もない。いくらなんでも国民舐めすぎだ。

 

今の世界に、日本レベルの感染数で、医療崩壊の危機に陥る先進国はどこにもない

人口6700万人のフランスでは、1日の新規感染者が2万人を超え、1日の関連死者が300人を超えているが、それでも、「医療崩壊の危機」など、まったく叫ばれていない。それどころか、集中治療室で5000人が治療を受けている状況で、そろそろロックダウンを解除すると言っている。当然、医療に過負荷などかかっていない。

ところが、人口1億2600万人の我が国では、1日の新規感染者が5000人を越し、重傷者が1000人を超えると、医師会とメディアが「医療崩壊だ」と騒ぎ出し、「緊急事態宣言を出すべき」と、専門家たちや知事たちが声高に叫ぶのだ。

『なぜ、フランスの1/10の規模の感染状況で、医療が崩壊するのか?』

不思議なことに、この国では誰も、その国民の〝封じられ続けている疑念と怒り〟に応えようとはしない。

こうして、政治家も、医師会も、医療システムの不備の皺寄せと負担を、一年以上経って、今に至るも、物言わぬ生真面目な国民とごく一部の良心的な医療機関に押し付け続けている

日本医師会の中川会長も、医師として、現実にはコロナが大したことないと知っているから、発起人として医師会会員100人を集めて、「まん延防止等重点措置」中の4/20に、東京都内のホテルで政治資金パーティーを開いたのだ。つまり、実は、「医療崩壊!」を連呼していた医師会会長・会員たち自身、デパートや美術館や映画館を閉鎖する必要はないし、運動会も自粛する必要はないことを、よく知っているということだ。

彼らが国民に自粛・休業を求める理由はただ一つ、彼ら自身が負担を負いたくない、つまり、楽したいからだ。コロナ患者への対処をしたくないのだ。「俺たちの手を、コロナごときで煩わせるなよ!」ということだ。

医師会は、本当にどうしようもない。

しかし、とりわけ、こうしたこの国の医師会及び医療システムのお粗末さと改善のなさとやる気のなさと無責任さについて、まったく批判せず、おとなしく医師会の意向に沿って、国民にさらなる理不尽な苦渋を強いる、定見のないメディアの偏向報道が、本当に終わっている。

今のメディア報道のあり方は、この国にとって、害にしか思えない。何も良いところがない。

かえって、メディアが、経済苦で危機に陥っている国民の足を引っ張っているとしか思えない。

 

私は、基本、「ワクチンは打たない」主義だ。インフルエンザのワクチンなど、一度も打ったことがないし、コロナ・ワクチンも、絶対に打たない。

ファイザーとか、モデルナとか、アストラゼネカとか、関係ない。ともかく、「私はワクチンは要らない」のだ。

いったんワクチンに頼ると、以後、毎年ワクチンを接種しなければならなくなる可能性が高い。獲得免疫の抗体の寿命が、そのくらいだからだ。

また、私の感覚では、「ワクチンをよく打つ人に限って、むしろ、変異種に弱い」と思っている。ワクチン接種によって自然免疫の硬直化が進むためだ。

ウイルス・ワクチンは、二重の意味で変異種に弱い。「ワクチン自体が変異種に効きにくい」という意味と、「ワクチン接種者の自然免疫が変異種に対応しにくくなる」という意味で、だ。

だから、ワクチンをよく打つ人ほど、変異インフルエンザによく罹患する感がある。さまざまなアレルギー反応に悩まされるようにもなる。母体にワクチンを接種することで、子どもの脳が傷つくとも言われる。それによってASD・ADHDなど、発達障害が増えている可能性がある。

また、世界的にコロナワクチン接種後の突然死の事例が多く報告されている。日本でも、ファイザー社のコロナワクチン接種後20日以内に突然死した医療従事者の例が19件報告されている。その内11件は接種後3日以内の突然死である。基礎疾患なく健康な26代の女性看護婦が接種から4日で脳出血で突然死した例を含めて、健康な若い人の突然死も多い。ファイザーワクチンでも、アストラゼネカ同様、血栓が生じる可能性がある。

これまで、日本では、感染率1%で、20代のコロナ関連死は4件確認されているが、基礎疾患のない20代の女性のコロナ関連死は報告されていない。ところが、接種率1%で、基礎疾患のない20代女性のワクチン関連死が1件報告されているというのは気になるところだ。

そもそも、日本人のコロナに対する自然免疫の強さを考えれば、ワクチンなど打つ必要があるのか。

特に、健康な自然免疫の強い若者は、副反応が強く現れる傾向が強いため、なるべくなら、ワクチンは打たない方がいい。基礎疾患のない20代の女性はなおさらだ。コロナに対する自然免疫が比較的強い日本の20代の女性の場合、7割程度の人が重いワクチンの副反応を経験している。

その意味で、事実上のワクチン強制であるワクチン・パスポート・システムや接種証明書など、言語道断である。アメリカで広がる大学生のワクチン接種義務化も危険な動きだ。まして、日本では死者が出ていない10代以下の子どもにワクチンを接種させるのは、絶対によした方がいい。

 

私は、なるべくマスクを着けない。公共のエチケットの問題から許される限り、マスクをしない。マスクをしたくない。

マスクで神経質になる人の気が知れない。

私が、法令上求められる最低限しか、マスクをしないのは、個人の自由の問題というよりも、防疫の観点から、血中酸素濃度を保ち、それによって、免疫力の低下を防ぐためだ。

ウイルスは、そこいら中にいるのだから、ウイルスの侵入を完全に防ぐことなど、考えない方がいい。そもそもマスクでウイルスは防げない。防ごうとすることに無理がある。むしろ、防がなくていいのだ。

特に、外を歩いていて、マスク着用に神経質になるのは、愚か者である。

マスク会食など、誰がするものか。静かに食事をし、コーヒーを飲むのに、マスクなどまったく必要ない。小学生が学校でマスクをするのも大反対だ。中学生・高校生だって、教室でマスクなど必要ない。節度を持って生活することを教えれば良い。

ただし、狭い空間で、酒を飲んで酔っ払い、大声で捲し立てる傍若無人な若者には腹が立つ。

 

私権制限なしで、〝お願い〟だけで、外出制限の効果を期待するのも愚かなことだし、ウイルスへの恐怖を煽ることで国民の自粛を促し、ウイルス感染者を減らすとか、まったく非現実的である。

「今だに街に人が出ています」と、国民を非難する報道ばかりしているメディアは、クズメディアである。日本の20倍のコロナ関連死者を出し、3度目の強制ロックダウン中の欧州では、ロックダウンに反対する市民のデモ隊が警官隊と衝突している。それでも、1日に数万人の感染者を出し続けている。ウイルスとの戦いに終わりはない。

ドイツでは、1日の新規感染者が10万人あたり100人を下回った地域は、規制が緩和されるが、1000万都民の東京都に当てはめて考えると、1日の新規感染者が1万人以下なら規制が大幅に緩和されるわけだ。1日の新規感染者が700人程度の現在の東京の状況は、欧州の感覚で言えば、何の問題もない。

この程度のコロナ感染状況で、内閣支持率が下がる日本は、本当に異常である。日本の累積コロナ関連死者数は、世界平均の1/5に過ぎないと、誰か、もののわからない国民に教えてあげて欲しい。日本の感染状況は、ぜんぜん大したことない〝さざなみレベル〟なのだと、中川会長でもいい、誰か、国民に〝正しい現実〟を教えてあげていただきたい。

特に、野党や小池都知事に対しては強く言いたい。「コロナを政局に利用するな!」

 

そもそも、中国・台湾・韓国並のよほど強力な〝私権制限〟を行わなければ、たとえ、数ヶ月にわたるロックダウン(都市封鎖)をしても、完全にはウイルス蔓延を抑えられない。まずは、そこが大前提だろう。

我が国が、強力な私権制限を行わない選択をするなら、ウイルスの完封は諦めるべきだ。ウイルスは、そこにある。それを認めよう。そして、次なる問題は、体内に侵入してきたウイルスを、どう撃退するかだ。

そのためには、免疫力を下げないことが、最も大切になる。

 

私は、基本的には、コロナは、かつてインフルエンザがそうであったように「ちょっとタチの悪い新種の風邪」以上のものとは思わないし、コロナを交通事故を恐れる以上に恐れる気はまったくない。確率的に恐れる必要を感じないからだ。少なくとも、東アジア地域の日本においては。

1年3ヶ月間で、コロナ関連死者1万人ということは、例年のインフル関連死者より、かなり少ない。インフルの場合、確実にインフルに起因する死者が、毎年1万人程度であった。対して、コロナに起因する死者は、まだ確定していないが、おそらく数千人レベルであろう。コロナに感染して老衰とか癌とか脳腫瘍とか心臓発作とか、本来、コロナに感染していなくても亡くなっている死亡数も、すべてカウントされているためだ。したがって、実際のコロナによる年間死者数は、例年の交通事故死3000人と、それほど変わらないレベルと考えられる。

そうであるなら、確率的には、コロナで死ぬことを恐れるより、経済苦などで自分が自殺することを恐れた方がよい。その方が、何倍も現実的である。自殺者は、毎年2〜3万人である。

交通事故死と同レベルの「コロナへの恐れなど、さほど必要ない」というのが、私の正直な気持ちだ。

 

我が国の国民の〝不安症〟は、世界一のレベルだと思う。

その不安症ゆえに、全国民が、一方向を向き、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」となるのは、実によろしくない。

ワクチンを打たない自由、マスクをしない自由が許されることは素晴らしいが、それ以上に、なぜワクチンを打つ必要があるのか、ないのか、マスクをするべきなのか、しなくてよいのか、その効果や正当性を、大いに公に議論するべきだ。

この点に関して、マスク着用の同調圧力など要らない

なぜ、緊急事態宣言は必要なのか、実は必要ないのか、日本の感染状況を恐れる必要があるのか、ないのか、日本の医療システムがどれほどクソなのか、日本医師会中枢が、コロナへの対応に、どれほどやる気がないか、日本国民は、大いに公正に議論すべきである。

 

その上で、「なぜ、東京は、この程度の感染者数、重症者数で、デパートを休ませてまで、人手を抑え、経済を撲滅しなければならないのか」「知事が、観光業を撲殺して、『東京に来ないでください』と言わねばならないほどなのか、本当に、外出自粛の必要があるのか」、「私権を制限するべきなのは、医療機関の営業の自由の方ではないのか」等々、吟味すべきだ。

専門家であっても、ある人々は「デパート閉鎖は必要」と言い、ある人々は「その必要はない」と言う。ある人々は「外出自粛は必要」と言い、ある人々は「自粛の必要はない」と言う。ある人々は「医療崩壊だ」と言い、ある人々は「有り得ない」と言う。

私たちは、何が正しいのか、公に議論する必要がある。いろいろな考え方がある、では済まされない。

国の方針を固めるためには、早急に国民の勘違いを是正しなければならない。

その妨げとなる存在しない危機を煽るだけの偏向メディアは、そろそろ滅びてもらいたい。この国の未来のために。

 

 

ともかく、安全保障上、「緊急時における医療機関の私権制限の仕組み」については、早急に法整備すべきだ。誰でもわかること、危機意識を持てることに手をつけないのは、メディアと政治家と専門家の怠慢である。同時に、主権者たる国民の怠慢である。

誰もが、利己と自己保身だけを考える〝一億総保身社会〟が、この国の活力を奪っている。そして、まともな議論すらできない末期的状況を作り出している。

「王様は裸じゃないか!」と、誰も言えない。

誰も言わないので、私が言おう。

コロナは、ただの風邪の一種だ。特に、コロナへの免疫の強い東アジア人にとっては。

 

もっとも、風邪でも、拗らせば、亡くなることもある。しかし、その確率は、日本においては交通事故死の確率にほぼ等しい。

交通事故や風邪の感染を恐れて、外出を恐れるか?経済を止めるか?

そんなことをするのは、コロナ不安症・恐怖症という精神の病に冒された人たちだけだ。

一般に、健全な精神を保っている人は、そのようなおかしな考えに陥ることはない。

間違っていると気づいていながら、その狂った方針に黙って従うのは、単に大人の自己保身のためである。

政治家もメディアも専門家も、保身から、奇妙な狂った意見を言い続けている。無責任なこと、この上ない。

国家の愚劣な自殺行為に手を貸す非国民だ。

こんなことを続けていては、政権も保たなくなる。

 

何度も繰り返すが、誰も言わないので、私は、声を大にして言いたい。

コロナは、何も怖くない!

怖くても、確率的に、運悪く交通事故に遭うレベルの怖さに過ぎない。

「交通事故が怖いから、街に出ないでください!」と市民に要請する知事はいない。

交通事故死が、1000人減っても、経済苦や孤独による自殺者が5000人増えたら、意味がないからだ。

コロナだって、同じだ。

コロナを理由に経済を止めてはならない。国を滅ぼしたくなければ。

一方で、「ワクチンは万能ではない」ということも、よく考えて欲しい。むしろ、ワクチンは、深刻な感染事態に陥っている場合の緊急の対処の方策であり、長期的には諸刃の刀なのだ。マスクもそうだ。

ワクチンにもマスクにも、過度に頼る必要はない。経済を止める必要もない。国民が『人災的医療逼迫』の犠牲になることはない。自らの免疫を信頼しましょう。

同時に、主権者としては、安全保障の観点から「病院の営業の自由を効果的に制限する」法律の成立を求めましょう。

 

 

 

〈参考〉

◯アメリカでのワクチン接種義務化の動き

賛成50%

反対48%

 

民主党の地盤であるカリフォルニア州やマサチューセッツ州では、州立大学や私立大学が、今秋の新年度授業参加の条件として、学生のワクチン接種義務化を打ち出した。

一方、テキサス州、ユタ州、フロリダ州など共和党の地盤の州では、公的機関がワクチン接種証明書の提示を求めることを禁じている。これらの州では、公立大学も私立大学も、学生のワクチン接種義務化を行わない方針だ。

 

また、バイデン大統領は、就任直後1月から、公共の場でのマスク着用を大統領令で義務化しているが、テキサス州、アイオワ州、フロリダ州など16の州が、2月以降、相次いで、大統領令に反して、マスク着用義務を解除している。

さらにバイデン大統領は、4月27日、ワクチン接種した人は、屋外ではマスク着用をしなくてよいとする新方針を打ち出し、国民にワクチン接種を呼びかけた。

 

◯アメリカのワクチン接種率

1回目43.7%

2回目30.9%

※日本は1回目2%、2回目1%以下

※インドは1回目10%、2回目2%

 

◯新規感染者数5/7

アメリカ  47,784人

日本      6,046人

 

◯1日の死者数5/7

アメリカ    815人

日本      146人(←過去最高)

※ワクチン接種でコロナ終息の明るい雰囲気が満ちているアメリカの1日の死者数は、実は、人口あたりでは、現在感染爆発が続いているインド(4,187人)とそれほど変わらない。

100万人あたりでインド3人、アメリカ2.5人、日本1.15人である。インドとアメリカの医療レベルの差を考えると、これはどう考えればよいのだろうか。

また、上記のデータからわかるように、日本は、国民の半分近くがワクチンを接種しているアメリカよりもコロナ禍が小さい。

日本社会が、コロナ、コロナと騒ぐ意味がわからない。大阪で、医療が逼迫する意味もわからない。

また、国民の半分近くがワクチンを接種しているのに、人口あたりで日本の2倍の感染者と死者を出しているアメリカについても、なぜこうなるのか、意味がわからない。

これでも、日本人は、ワクチンを打つ意味があるのか。

 

 

◯今年2〜3月の日本の調査(慶應医学部の全国アンケート)

新型コロナのワクチンを接種するつもり→56%

わからない→33%

ワクチン接種しない→11%

※「ワクチンを接種しない、わからない(合計44%)」の理由としては、コロナ・ワクチンの安全性・副反応への疑念の他に、あらゆるワクチンの安全性・副反応への懸念がある。

世界的に見ても、他のアンケートによると、特に先進国では、「ワクチン接種したくない」人の割合は、どの国でも10〜40%いる。ほとんどの国で、日本の10〜20倍の死者を出していることを考えれば、これは驚異的な数値である。

世界の現実を伝えず、ワクチン礼賛一辺倒の偏向報道を続ける我が国の亡国メディアによる印象操作は、自己都合の〝大本営発表〟にしか見えない。

 

あと、小池都知事の百貨店いじめは、明らかに異常。コロナを政局にしている。それに乗るメディアも終わっている。

私は、百貨店の営業再開を、全面的に支持する!

イーグルスの1973年の大ヒット曲「デスペラード(ならず者)」です。

2ndアルバムの表題曲ですが、シングルカットはされていません。にもかかわらず、イーグルスの数あるバラード曲の中でも、唯一無二の代表曲とも言える名曲中の名曲なのです。

70年代アメリカン・ミュージック屈指のロック・バラードのスタンダード・ナンバーと言ってもいいほど有名な作品で、これまで多くのミュージシャンによって、カバーされています。

しかし、やはり、作詞者ドン・ヘンリーの独特の渋い濁声のボーカルが、この曲には一番合っていると思います。

当時、26歳のドン・ヘンリーが、友人に向けて語りかけるように書いた詞が、心に沁みます。

 

以下に、歌詞と和訳を記します。

ドン・ヘンリーの歌詞は、とても意味が奥深いので、歌詞の和訳は、実に厄介ですが、原文の意味になるべく忠実に、雰囲気やニュアンスを損なわないように訳すように努めました。

 

 

Desperado.
どうしてそうなんだ

Why don't you come to your senses?
そろそろ気付いてもいい頃なんじゃないか?

You've been out ridin' fences for so long now.
いつまで、独りで、フェンスの上にまたがって、すくんでいるつもりなんだ

Oh, you're a hard one.
本当に頑固な奴だな

But I know that you got your reasons.
それには、お前なりの理由があるんだろう

These things that are pleasing you
だが、今、これでいいと思っていることが

can hurt you somehow.
いつか、お前自身を傷つけることになるんだ

Don't you draw the queen of diamonds boy.
ダイヤのクイーンを、引いてはだめだ

She'll beat you if she's able.
隙を見せれば、彼女は、いつか、お前を打ちのめすだろう

(だから、お金に執着するのは、やめたほうがいい)

You know the queen of hearts is always your best bet.
どんな時も、ハートのクイーンに賭けるのが一番いい手だと、わかっているはずだ

Now it seems to me, some fine things
have been laid upon your table.
今、テーブルの上には、十分勝負できるカードが揃ってるように、俺には見える

But you only want the ones that you can't get.
だが、お前は、手に入らないものばかり求めたがる

Desperado, oh, you ain't gettin' no younger.
この分からず屋め、お前はもう決して若くない

Your pain and your hunger,
お前が感じている痛みや飢えが

they're drivin' you home.
そのことを、お前に痛感させ、郷愁を覚えさせるだろう

And freedom, oh freedom, well,
自由か、自由こそが大事だ、なんて

that's just some people talkin'.
確かに、そんなことをいう奴もいるだろうさ

Your prison is walking through this world all alone.
だが、お前が周囲に築いた自我の牢獄は、この世界を独り、彷徨い続けている

Don't your feet get cold in the winter time?
足元から、冬の寒さが感じられないか?

The sky won't snow and the sun won't shine.
空からは雪も降らないし、太陽が輝くこともない

It's hard to tell the night time from the day.
今が、昼なのか、夜なのかもわからない

You're losin' all your highs and lows.
高揚と歓喜の瞬間も、落胆と苦渋の時も、すべての感情が失われていく

Ain't it funny how the feeling goes away?
心の躍動のすべてが、そんな風に消え去ってしまうなんて、おかしいと思わないか?

Desperado, why don't you come to your senses?
なあ、そろそろ気付いてもいい頃じゃないか?

Come down from your fences, open the gate.
フェンスから降りて、扉を開いて、門の外へ出てごらん

It may be rainin',
外は、雨が降っているかも知れない

but there's a rainbow above you.
けれども、見上げれば、そこには虹がかかっているだろう

You better let somebody love you.
(Let somebody love you.)
誰かに愛されて生きなさい

You better let somebody love you.
誰かに愛してもらうんだ

Before it's too late.
手遅れになる前に、な

 

 

 

前回の記事『昼の国民、夜の皇室』で論じた「昼の世界」「夜の世界」に当てはめて、この詞の意味を考えてみたいと思います。

この詞で描かれているフェンスの上で立ちすくんでいる若者は、故郷を遠く離れて、虚ろな心を抱えて、「昼の世界」を彷徨っています。

もう誰も信じられない。世の中、お金がすべてだ。人間と違って、お金は決して裏切らないからな、などと考えているかもしれません。

運命の御手も、人の心も、友との絆も、家族の愛情も、「目に見えない世界」の一切を、彼は、信頼していないのです。

信じられるものは、自分自身だけ。彼は、金と権力と名声、数値と論理と証明と言質に依って生きる「昼の世界」の住人だからです。

「昼の世界」は、目に見えないもの一切を信じない人たちの暮らす世界です。理解も共感もない、心が通い合うことのない諦めの世界、冷たい虚無の世界です。

彼が感じている痛みも飢えも、物質的なものではなく、内なるものです。故郷を喪失し、根なし草になって、自我の牢獄を引きずりながら、彼は「昼の世界」を独りで彷徨い続けているのです。

 

若者は、外界に心を閉ざして、精神的引きこもりの状態で、自ら閉じこもった牢獄の中から、外の世界を眺めています。

この自閉の檻は、「自由という名の牢獄」と言うこともできるでしょう。彼の心は、何にも縛られず、何も信じず、期待せず、糸の切れた風船のように、現実の表層を漂っているのです。

心の何処かでは、このまま「昼の世界」にいても、自分はきっと幸せになれないと、若者は気づいています。

そして、おそるおそる「夜の世界」を覗き込んでもみるのですが、いつまで経っても、思い切ることができません。どうしても、外へ、一歩、足を踏み出せず、躊躇しています。

若者は、これまで慣れてきた物質主義的な「昼の世界の価値観」を手放すことができず、これまでの自分に執着し続けてしまうのです。

ドン・ヘンリーは、そんな風に頑なに「昼の世界」にしがみついている友人に、「いつまで、そこにいるつもりだ?」「いい加減、こっちへ降りてこいよ!」と、「夜の世界」から優しく声をかけているのです。

 

最後に、ダイヤとハートのクイーンについてです。ダイヤは〝富の象徴〟であり、地位、名声、評価を司ります。ハートは〝愛情の象徴〟であり、友情、理解、親密さを司ります。そこで、クイーンの意味なのですが、クイーンは伴侶を意味するのか、もっと抽象的に〝生き方〟〝信じるもの〟を意味するのか、受け取り方によって、イメージが変わるのではないでしょうか。

「冷たい金持ちの女」より「貧しくても愛情のある女」を選べ、というメッセージと受け取るか、「本当は愛していなくても、資産やステイタスに魅力を感じる女」より「社会的ステイタスもなく貧しい女だが、心から愛している人」を選べ、という意味か、はたまた、「富・地位・社会的評価を重んじ、それらを求める生き方」より「愛情・友情・理解・親密さに価値を置き、それらを大切にする生き方」を選びなさい、と言われていると受け取るべきなのか。

また、「金を武器とし、金に引きつけられる女」を選ぶと、紀州のドンファンのような目に遭うぞという意味にもとれます。

 

私が思うに、お金と愛情には、一つの重要な共通点があります。それは、どちらも、人が生きていく上で不可欠のエネルギーである、ということです。人は、どちらが欠けても生きていく事ができません。ですから、どちらか一方を選ぶなんてことは、通常は、できないのではないでしょうか。

しかし、それでもなお、どうしても選ばなければならない時がくるとすれば、それはある種の極限状況においてです。「どちらかしか、選べない」という場面です。

その時、あなたはどちらを選ぶでしょうか?

 

 

 

〈参考〉

トランプの起源は、中国の宋代のカードゲームにあり、その後、イスラム諸王朝で、刀剣・ポロ用スティック・貨幣・カップの4つの絵柄に発展し、さらに、14世紀に南欧スペインで、スティックが棍棒になりました。そして、15世紀には、フランスで、絵柄がスペード・クラブ・ダイヤ・ハートに変わりました。このカードがイギリスに伝わりました。

仏英式トランプのカードの4つの絵柄(スート)は、現在、ラテンカード及び14世紀末にトランプから派生して作成されたとされるタロットの小アルカナのカードの4種類の絵柄(スート)と対応しています。

タロットは、もともと遊戯用カードではありますが、ユダヤのカバラ(秘儀)にルーツを持つ神秘主義的な知恵と結びついているカードであり、18世紀以降、占いにも使われるようになります。そのためか、タロットの元祖であるトランプのカードの絵柄もまた、非常に霊的な意味合いを感じさせるものとなっています。

トランプの4つの絵柄の意味するものは、次のようなものです。

 

スペード♠️(タロット・ラテンカードでは・swords・ソード

→四大元素では〝〟を象徴する

騎士/冬/情報の拡散/思考/衝突/判断力/信念/決断/悲壮/脱出

▷能動/外向/理性/冷静/言語/批判/改革/攻撃/策略/審判/戦い

男性原理/夜/文明/国家/法律/メディア/分析/科学/論争/政治家

◉破壊/ナイト/若い男性/太陽/美(ティファレト)🟡/正義/戦術

▶︎通常兵器/インターネット/裁判所/放送局/輸送用機器/新聞社

 

クラブ♣️(タロット・ラテンカードでは棍棒・wands・ワンド

→四大元素では〝〟を象徴する

農民生命力/春/知識の統合/行動/創造/情熱/夢/理想/楽天/快活

▷能動/内実/勇気/闘志/直感/独立/活動/主張/野心/開拓/知恵

男性原理/夜/共同体/村/組合/連帯/友情/技術/発明/指導者

◉建設/キング/成熟した男性/至高の父/知恵(コクマー)⚪️/愚者/戦略

▶︎核兵器/発電所/先端研究施設/大学/工場/ボーイスカウト

 

ダイヤ♦️(タロット・ラテンカードでは金貨・pentacles・ペンタクル

→四大元素では〝大地〟を象徴する

商人お金/夏/物理的安定/富裕/評価/継続/人脈/実績/磐石/停滞

▷受動/外向/物質/バランス/五感/立場/地位/社会性/成果/維持/土台

女性原理/昼/社会/資本/企業/建築物/保全/経済/庭園/血族

◉繁栄/ペイジ/若い女性/地球/王国(マルクト)🌈/世界/管理

▶︎投資事業/商業施設/遊園地/市場/農園/銀行

 

ハート♥️(タロット・ラテンカードでは聖杯・cups・カップ

→四大元素では〝〟を象徴する

僧侶愛情/秋/感情的充足/幸福/理解/受容性/信頼/穏健/適応/心

▷受動/内実/内面/流動/空想/依存/保護/和合/奉仕/育成/慈愛

女性原理/昼/文化/宗教/芸術/伴侶/育児/物語/音楽/詩人

◉爛熟/クイーン/成熟した女性/至高の母/理解(ビナー)⚫️/魔術師/無私

▶︎慈善事業/美術館/教会/保育所/劇場/スタジアム

 

 

 

私たちの生きている世界は、二つの世界にわかれている。その二つの世界に、私たちは、誰もが、一生の中で、否応なく、片方だけでなく、両方の世界で生きることを強いられる。最初から、どちらか一方を自由に選ぶことはできないのだ。

この二つの世界とは「昼の世界」と「夜の世界」である。

一日が、昼と夜でできているように、私たちもまた、等しく昼と夜を共に歩まなければならない。

私たちは、誰もが、生きていく上で、両方の世界を知る運命だが、最終的には、どちらの世界を大切にするか、どちらの世界の住人になるか、自分の意思で選ばなければならない。

 

 

 

昼の世界」は、「陽の世界」である。

〟とは、男性原理の象徴である。〝死〟に対して〝〟を、〝冬〟に対して〝〟を、〝月〟に対して〝太陽〟を、〝目に見えない幽玄の世界〟に対して〝目に見える現実の世界〟を意味する。

その内包するものは、物質的世界、つまり、現世の実社会を生き抜く意志と、社会に変化と進歩と改革をもたらすエネルギーである。

「昼の世界」を支配するのは、徹底した物質主義であり、科学技術文明であり、効率と生産性であり、資本主義(お金)帝国主義(権力)である。

この世界では、数値がすべてである。GDP、株価、地価、為替相場、資産総額、年収、顧客契約数、視聴率、偏差値、フォロワー数など、あらゆる数値が、価値を決定する。

「昼の世界」は、弱肉強食の競争社会である。少数の〝勝ち組〟がいて、無数の〝負け組〟がいる。競争があり、淘汰がある。この「昼の世界」の不文律は、適者生存の法則である。人生はサバイバルなのだ。

したがって「昼の世界」の絶対的価値基準は、社会の中で「自分が勝ち残ること」である。そのために大切なのは、健康であり、体力であり、容姿であり、学歴であり、資格であり、職歴であり、年収であり、資産であり、社会的地位であり、職業上のステイタスであり、社会的コネクションであり、世間の評価であり、門地(家柄)であり、成果である。

 

その人が、どこの一族の出自であるか、どの大学を出ているか、資産はどのくらいあるか、どんな職業についているか、年収はいくらか、加えて、どんな学歴・地位の人と家族・親族・友人として繋がりを持っているかなどで、その人の社会的価値が決まる。『有力者の縁戚や友人は、すなわち有力者である』というわけだ。

さらには、土地や家やマンションを所有しているか、レクサスやベンツやフェラーリを所有しているか、ローレックスやエルメス、アルマーニやシャネルを身に付けているか、などでも判断される。

不動産は〝要塞(拠点)〟であり、ブランドは〝鎧(防御壁)〟である。

そもそも、〝昼の住人〟は、鎧の中身には、ほとんど興味がないのである。大切なのは、「どんな人物か?」ではなく「何を所有しているか?」だ。

だから、「昼の世界」で、社会の生存競争に勝ち残るために必要なのは、物的欲求を土台とする強い上昇志向と野心である。

他人を利用する策略や取引や政治力も必要である。「目的のためには手段を選ばず」という生き方も、この「昼の世界」では肯定される。この世界の価値観では、過程より結果がすべてであり、騙す側よりも騙される側が悪いのである。騙すのも自由だし、騙されるのも自由なのだ。〝昼の住人〟にとっては、まず「いかに相手を利用するか?」を考えるのが、人付き合いの大前提なのだ。

個人主義自由主義は、「昼の世界」を支配する根本原理である。

 

しかし、もう一つ、この「昼の世界」を支配しているルールがある。それは、〝法律〟である。

「そもそも法は、我々の権利(既得権益など)を守るために在る」と「昼の世界」の住人たちは考える。だから、法を破ることは、自ら利益を害する行為にほかならない。この損害を防ぐため、自らの社会的正当性を守り、自ら利益を最大限獲得するため、法律は適正に利用されねばならない。

必ずしも、真実が明らかになる必要はない。真実なんて、誰にもわからない。人の言葉は信用できない。証拠がなく、証明できないことは、信じてもらえなくても仕方がない。人は嘘をつくことができるからだ。

裁判は、法的に適ったやり方で勝てばよいのだ。そのためには、自分に非がないことを主張でき、法的手続きに則って相手を叩き潰すことのできる、自分に都合の良い〝論理的道筋(ロジック)〟が必要になる。同時に、常に相手の言質を取り、自分に非がないことを証明できる証拠を集めておくことが大切だ。総じて、自己正当化のスキルを磨かねばならない。

これが「昼の世界」のルール、『法治主義』である。

 

この「昼の世界」の価値観・処世術に基づいて、物事の価値を測り、あらゆる選択肢から、自らの行動を判断・選択・決定する上で、常に問われる質問は、次の2つである。

これは何の役に立つのか?(自分の利益に貢献しうる、どんな利用価値があるのか?)」

どうしたらいいのか?(保身と利益と野望実現のため、どういう方法・戦略・策略を実行に移すのがベストか?)」

人々の日常の思考は、この二つの命題に支配されている。

そして、「昼の世界」の住人であれば、誰もが求めるものが、この世に三つある。それは〝お金と権力と名声〟である。

その一方で、彼ら〝昼〟の住人にとって、根源的不安は、上記の三つを失うことへの恐れである。なぜなら、彼らの「安心立命」は、これら三つのいずれかに支えられているからだ。

 

このように、我が国の国民のほとんどは、『昼の世界』に生きている。

アメリカに多いリバタリアン(自由至上主義者)と、たいていのリベラル(自由主義者)もまた、『昼の世界』の住人である。

政治家も、実業家も、経済学者も、弁護士も、科学者も、医師も、教師も、親たちも、そのほとんどは、「昼の世界」の価値観に依って生きている。

進歩と前進、成長と改革、獲得と排除、野望と貪欲、闘争と策略、勝利と敗北を司る、この真昼の〝太陽〟の輝きは、戦後76年間、ますます強まり、今や、その〝昼〟の価値観は、世界中のほとんどの人々の生き方を、実質支配している。

例えば、己の野望実現のためにあらゆる手段を利用する紀子さまや小室圭さんなども、典型的な「昼の世界」の住人である。

一方、俗世の野心・欲得にまみれた〝昼〟の住人にとって、「夜の世界」は禁域・聖域である。彼ら〝昼の住人〟が「夜の世界」に土足で足を踏み入れることは、許されてはならない。「夜の世界」に、安易に昼の価値観を持ち込むことほど、破滅的なことはないからだ。それほどに、「夜の世界」は、「昼の世界」とは、対極にあるのである。

 

 

 

夜の世界」は、「陰の世界」である。

〟とは、女性原理の象徴である。〝生〟に対して〝〟を、〝夏〟に対して〝〟を、〝太陽〟に対して〝〟を、〝目に見える現実の世界〟に対して〝目に見えない幽玄の世界〟を意味する。

その内包するものは、現実世界からの逃避、あるいは、無意識界を含む精神世界全体の内面の情動、つまり、人の心の中の不安と安心、内的な空虚と充実、苦悩と哀感、愛情と幸福感、共感と信頼である。

「夜の世界」を支配するのは、徹底した精神主義であり、芸術と文化であり、品格と人間性であり、霊性と祈りであり、共同体主義(絆)である。

この世界では、心のあり方がすべてである。相手に向き合う態度、心遣い、配慮、その裏にある本心、恨み、憎しみ、怒り、喜び、哀しみなどの心情、他者への信頼と共感などを、大切なものとして重んじられる。

「夜の世界」は、死と向き合う世界でもある。その意味で、平等な世界である。なぜなら、死は、分け隔てなく、誰の身にも訪れるものだからだ。また、現世のいかなる権力も富貴も、死の運命の前には無力である。資産も宝物も、あの世まで持っていける者はいない。

「夜の世界」の絶対的価値基準は、死を目の前にした時に「悔いのない人生を送ること」である。そのために大切なのは、人生を共に歩む伴侶であり、心を通わせることのできる友人であり、「ここで死にたい」と、心から思える〝死に場所〟である。

そして、この「夜の世界」には、一つの不文律がある。それは「決して見捨てない」ということである。

 

この「夜の世界」の価値観に基づいて人生を見るなら、その人が、どんな有名企業や政府官庁で働いていていたか、どこの大学を出たか、どの一族で生を受けたか、子どもや孫が何人いるか、子どもがどの大学を出たか、年金がいくらあるか、などは、ほとんどどうでもよいことである。

持ち家があろうとなかろうと、どんなクルマに乗っていようと、どんな時計やバッグや服を身に付けようと、本人の中身には、まったく関係がないのである。この世界では、数字もまた、意味をなさない。数字で人の心は測れないからだ。あなたは、品性、忍耐力、率直さ、誠実さ、愛情深さ、人間的理解力の深さなどによって評価される。

だから、「夜の世界」で、人と関わって生きていく上で必要なのは、その人の本質を見抜く目である。そして、相手の言葉の裏にある〝本音〟を読み取ること、言葉で表現しきれない相手の心を受け取ることが、できなければならない。それも、相手を利用するためではなく、相手を深く理解し、共感を持って支えることができるために、である。また、日常の煩雑な仕事を離れて、「自分が本当は何がしたいのか?」を、自らに問いかける一人の時間も大切だ。

共感瞑想想像力は、「夜の世界」を支配する根本原理である。

 

しかし、もう一つ、この「夜の世界」を支配しているルールがある。それは〝信仰〟である。

「信仰は、死に往く運命に定められた我々にとって、心の慰めである」と「夜の世界」の住人たちは考える。

また、「そもそも、人のつくる法など、常に不完全なものであり、あらゆる成文法の上に〝神(天)の法〟は在るのだ」と信仰者は信じる。

「三権を含む絶対的権力を有する国王や独裁者といえども、法(神の法)には従わなければならない」と、彼ら「夜の住人たち」は主張する。

現世のどんな法律も裁くことのできない巨大な悪が、この世の中には山のようにある。しかし、人間社会の法が裁くことができない罪も、神(天)の法は裁くのだ。そのことを信じる。

これが「夜の世界」のルール、『法の支配』である。

 

この「夜の世界」の価値観・処世術に基づいて、物事の価値を測り、あらゆる選択肢から、自らの行動を判断・選択肢・決定する上で、常に問われる質問は、次の2つである。

何が自分の、そして、相手の幸せなのか?(それを邪魔しているものは何か?)」

自分に何ができるのか?(自分含めてみんなの願望実現のために、何か役に立てるか?)」

人々の夜の思考は、この二つの命題に占められる。

そして、「夜の世界」の住人、誰もが求めるものが三つある。それは〝愛情〟と〝友情〟と〝魂の平安〟である。

その一方で、彼ら〝夜〟の住人にとって、根源的不安は、上記の三つを失うことへの恐れである。さらに、突き詰めて考えると、この不安の大元には、「自らの存在意義の喪失」への恐れがある。「この生を生きる価値はあるか?」という疑いが、心の内に沸き起こるのだ。

 

このように考えると、例えば、現在、我が国の国民には、めっきり少なくなってしまった、昔堅気のコミュニタリアン(共同体主義者)は、基本的には「夜の世界」の住人である、と言うことができる。

また、芸術家、音楽家、詩人、歌い手、文学者、哲学者、信仰者は、「夜の世界」の価値観を生きている。

しかし、そのように真夜中の〝月〟の輝きに目を留める人は、近年ますます減っており、今や、その〝夜〟の価値観は、世界中の人々に、徹底的に無視されて、忘れ去られつつある。

それでも、例えば、日本の皇室は、「夜の世界」の価値観を代表する存在である。そして、皇族の一員である秋篠宮眞子さまは、本来ならば、その夜の価値観を体現する存在であらねばならない方である。

しかし、残念ながら、眞子さまは、「夜の価値観」を体現できるように、しっかりと皇族としての教育を受けてはこなかったようだ。

また、皇室は、皇室の一員になりたいと望む者を迎え入れてはならない。自分から、皇室に入りたいと望む者は、「夜の世界」の住人ではないからだ。したがって、皇族は、己の野心から皇族とお近づきになりたいと望む者を伴侶に選んではならないのである。

そのことが理解できない者は、皇族として失格である。

 

 

 

日本国民の多くは、「昼の世界」と「夜の世界」は絶対に相容れないし、この両者を一緒くたに、混ぜこぜにすることは、「夜の世界」の破滅につながることを、本能的に気づいている。そして、私たちの〝夜〟を破壊することは、すなわち生命そのものの喪失に繋がる。だから、国民の多くは、小室圭さんと眞子さまの婚姻を忌むべきこととして、猛烈に拒絶反応を示しているのだ。

陰と陽は、互いに、この世界を補完し合っている。どちらが失われても、世界は崩壊するのだ。それを心の何処かで知っている日本人は、これまで、日本社会の防波堤として、礎として、皇室を大切に守ってきた。

 

また、心理学的には、陽(太陽)は「意識」を、陰(月)は「無意識」を司るものである。

小室圭さんの意識は、いかにも真昼の〝太陽〟らしく、強い野心と強烈な上昇志向と物質主義に支配されているように見える。しかし、圭さんの無意識は、母親佳代さんという〝闇の月〟に依存し支配されている。

眞子さまの意識は、いかにも〝月〟らしく、自分を取り巻く状況や自分に課せられた使命の重さから、優雅に逃避しているように見える。しかし、眞子さまの無意識(月の本性)は、圭さんの強烈な野心(太陽)に魅了され、目をくらまされ、操作されている。あるいは、太陽の背後に隠れている闇の月(佳代さん)の〝自らの利己的欲求を満たすために、周囲のすべてを呑み込み、無に還す力〟に、共鳴し感化(洗脳)されているのかもしれない。

少なくとも、私からはそう見える。

私たちの時代の〝月〟は、〝太陽〟の意志に、盲目的に引きずられる存在であってはならない。もちろん、すべてを呑み込む〝闇の月〟であってもいけない。

私たちに必要なのは、現世的な野心(太陽)とは対局にある夜の叡智、すなわち、闇夜を照らす月のもたらす深い知恵と慈愛の光(心)なのだ。

 

 

 

⭐️先日、先崎彰容さんの「高山樗牛〜美とナショナリズム」を読み、強い感銘を受け、インスピレーションを与えていただいた。この記事は、先崎さんの著書に刺激を受けて書いたものだ。この贈り物に感謝したい。

 

たとえ、どんな盗聴・盗撮内容が暴露されるとしても、小室圭さんを退け、縁を切ることが、秋篠宮家を、ひいては皇室を救うことになります。

国民は、その勇気ある決断を、必ず支持するでしょう。国民を信頼することです。

 

今、皇室に関わるすべての人に求められていることは、強い意志を持って、眞子さまを説得し、破談に持ち込むことです。

それが、結果として、この国を救うことになるのです。

 

あまりにも、世間知らずすぎて、モノを知らなすぎて、人を見る目がない上に、人の言うことをまったく聞かない眞子さまの説得が、誰の言葉を持ってしても不可能であるなら、そのように眞子さま、佳子さまを育てたこと、子どもに言い聞かせることができない親子関係であることから、秋篠宮さまと紀子さまへの国民の批判は、ますます強まるでしょう。

悠仁さまの次期天皇としての未来を危惧する声も高まるでしょう。

「公」より「私」を先に考える天皇など、あってはなりません。

しかし、秋篠宮家の子どもたちに、それを期待できるでしょうか。

秋篠宮家の教育力そのものに対して、国民は深い疑念を抱き始めているのです。

 

現在、さまざまなアンケートや世論調査の結果で、ほとんどの国民(9割以上)が、小室圭さんと眞子さまの結婚に反対しています。

多くの国民の結婚反対の理由は、次第に誰の目にも明らかになってきた小室圭さんの〝人間性〟にあります。

「自分も母も、何も悪くない。悪いのは元婚約者。」

「俺は裁判になっても絶対に勝つから、争うならいつでも相手になってやる。」

「法的に負けるつもりはないから、誰にも文句は言わせない。」

「両性の合意に基づいて、自分たちの好きに結婚させてもらう。」

「世の中、どれだけ人を自分のために利用しようと、何が悪いというんだ?」

「最後は、金と権力を得て、のし上がった者の勝ちなんだよ。」

「じきに、お前ら、下々の連中には手が出せないところまで、上り詰めてやるよ。」

そう言わんばかりの、あれほど世話になった相手への感謝も思いやりも、かけらも感じられない、自分の正当性だけを誇示する態度に、国民はほとほと嫌気がさしているのです。

その厚かましい野心を、日本国の象徴である皇室にだけは向けて欲しくない。

これが、日本国国民の総意です。

 

このままの状態が続けば、あるいは、今年の秋に予定されているという眞子さまと小室圭さんの結婚が現実のものとなれば、国民は、秋篠宮家そのものを見限るでしょう。

その場合、早急に皇室典範の改正が必要になります。

女系天皇である愛子さま立太子を可能とするためです。

 

とは言え、すでに、結果は、ほとんど見えていると言ってよいかもしれません。

次代の天皇家、秋篠宮家では、ダメです。

紀子さまが、よほど改心なさらない限り。

 

沖縄では、親の世代の性情や失敗や悔いや欠陥や所業や因縁が、子や孫や曾孫の世代に持ち越され、受け継がれて、間違いが繰り返されてしまう現象を、非常に重視して、あらゆる家族の問題を掘り下げて考えていく風習があります。

この家族に受け継がれる負の連鎖を『チヂウイ(血筋継ぎ)』と言います。そして、この不幸な連鎖を、自分の代で断ち切りたくて、沖縄人は『ウガン(御願)』を行います。

しかし、多くの場合、このチヂウイを解消するのは、非常に難しく、生半可なことでは解決されないのです。

偉いユタに大金を積んでおがんでもらったとしても、そうそう簡単に解決するものではありません。

 

そして、今、秋篠宮家で起こっていることが、まさに、このチヂウイです。

少なくとも、私には、そう思えます。

この秋篠宮家のチヂウイですが、どう考えても、400万円程度の〝解決金〟で解決するものではないでしょうね。

 

『現状、皇室の存在意義が問われる事態となっている』と、ネット上の言論空間では、取り沙汰されるようになっています。

その通りなのですが、さらに言えば、『日本国が日本国のままであり続けられるか』が問われているのです。

皇室のない日本など、もう日本ではないからです。

一方で、個人の野心に容易に利用される皇室など、誰も望みません。

1800年の歴史の終焉が近づいています。

この危機を、どうしたいのか、国民も問われています。

 

皇室を、日本国を、あなたはどうしたいですか?

どのような日本に、あなたは生きたいですか?

 

さらに、日本国の国民が、皇族の方々にとって「自分の命をかけて、人生すべてを捧げて、守っていきたい」と、素直に思えるだけの存在であるのかどうか。

それが、問われているということでもあります。

「こんな国民のために、どうして自分が犠牲にならなければいけないんだ?」と、皇族の方々が、思ってしまうような国民であるのならば、皇族が「私」を優先するのも当然、ということになります。

それが、皇族に課せられた葛藤・煩悶であるならば、国民もまた、自分に課せられた義務や試練として、「日本国と皇室と国民の関係をどう考えるか、どうしたいか」を、自らに真摯に問うことは、当然のことです。

それが、他人事であるなら、私たちは、この皇族のご結婚問題に口を挟む権利など、ないのです。

三井不動産が、新宿三井ビルを売り払った。

天下の三井ともあろうものが、実に愚かな所業である。

電通やエイベックスや日通やNECの本社ビル売却もそうだが、土地の切り売りを始めたら、その企業は、もうダメだ。先が見えている。

本社ビルのセール・アンド・リースバックは悪魔の囁きである。

電通は、建築家フランク・ロイド・ライトの建てた建築物含む、鎌倉の社員用研修施設も売却した。これもまた、愚かである。

土地を切り売りする者は、いずれ必ず滅びるからだ。

 

昨今は、「日本の地価はもう上がらないから、土地を所有していてもしょうがない」などと、まことしやかに土地の切り売りを人々に勧める〝専門家〟が多い。

コスト削減、効率性、バランスシート、資金繰りの確保などという悪魔の囁きが、この国の至る所で、人々を滅びのアリ地獄へと引きずり込んでいく。

だが、「土地を売れ!」という勧めは、世界の実情を知らない者たちの浅はかな言動である。

彼ら〝専門家〟は、机上の空論を並べ立てるが、現実の世間の恐ろしさを知らない。

 

目先の現金に目が眩むのは、貧乏人の哀しさである。

貧すれば貪ず。

しかし、どんなに貧しても、自分の身なりを整え、顔を磨いておくことの大切さを、創業者は忘れなかったものだ。

一旦、企業の顔が潰れると、取り返しがつかないからだ。

本社ビルを売るということは、会社の顔を潰すということだ。

その重大さを認識できないとは、なんと無邪気な赤子のように未防備な経営者たちであることよ。

 

しかも、彼ら〝専門家〟の言に反して、日本の土地は、むしろ、これからますます需要が高まるだろう。

世界中の人々が、この国の土地を狙っている。

治安が良く、医療保険が完備され、交通の便がよく、国の隅々に至るまでインフラ整備の行き届いた、この日本国に、多くの外国人が住みたがっている。

豊かな自然遺産、文化遺産を持ち、商売の機会にも恵まれ、外国人の権利がきちんと保障されている。そういう稀有の地である、この国の土地を、外国人は何とかして手に入れたがっている。

だから、「この先、日本の土地の価格は、まったく上がらない」などと言うのは、見当違いも甚だしい。

 

そして、日本人よ、高く売れるからと、土地を安易に切り売りしてはならない。

「たとえ、子孫が滅びても、自分さえ良ければいいんだ」という田舎者の百姓どもは、それでもいいのだろう。

けれども、子孫へ遺産を繋ぐことを望むなら、未来の子供達の繁栄をカケラでも願うなら、絶対に土地を売ってはならない。

世界に名を知られた大企業が、本社ビルを売るなどということは、先見の明があるどころか、地獄の一丁目への道案内人を買って出るに等しい。まさに、自殺行為にほかならないことを知るべきだ。

 

個人としても、土地を売る者の子孫は、決して末広がりにはならない。

未来は先細るばかりで、遂には行き詰まりとなる。

逆に、先々、貧乏になって、破滅したければ、土地を売り、マンションを買うことだ。

そうすれば、時とともに、マンションの資産価値は目減りしていき、労せずして、簡単に、家(一族)が傾いていく。

人々のマンションが廃墟になっていくのとともに、国も傾いていく。

 

長い目で見れば、土地を売る大企業、土地を売る国民が、国を滅ぼすのだ。

だから、日本人よ、もう土地を他人に流すのはやめよう。

土地から土地へ、根無し草のように流れるのもやめよう。

これからは、自分が土地に根付くこと、人を地域に根付かせることを考えよう。

土地を愛さない者は、国を愛することも知らないのだ。

あなた、今借りている賃貸マンションを愛せますか?

 

社員に数年で転勤を繰り返させる企業文化など、ろくなものではない。

転勤、転勤、また転勤と、人はどこにも根付くことなく、ただ、流れていく。

だが、地域に根付けない社員は、組織のためにはなるかもしれないが、国のためにはならない。

根無し草には、土地への〝想い〟がない。

家屋敷への深い愛着もないし、近所の人たちへの想いも信頼もないし、地域への想いもない。

思い入れのない土地を、誰が守ろうとする?

 

企業や国の組織を守るより、土地を、そして、人を守れ!

支社から支社へと転勤を繰り返す根無し草の社員は、定年退職したら、自分の居場所もない。

慣れた人も、慣れた土地もない。

昔ながらの友達も、馴染みの店もない。大切な記憶も思い出もない。

愛着のない家、愛着のない家族、愛着のない街、愛着のない土地、愛着のない国。

そんな空虚な人生に、何の生きがいがある?

 

土地も、人も、流れていく。

それは、世のならいかもしれない。

しかし、流すこと、流れることは、時に、悪なのだ。

この国は、これまでに、あまりにも多くを流しすぎ、失いすぎた。

この先も〝流す〟のは、少なくとも、この国においては、国そのものを滅ぼす〝害〟であり〝罪〟である。

 

お金はフローであり、文化(絆)はストックである。

金は天下の回りものだが、土地や人はそうではない。

土地はストック、人もストックである

人も、土地も、これ以上、根切りして、流してしまってはならない。

土地を売らないこと、人を根無し草のまま漂流させないこと、それがこの国を救う道である。

 

土地を売るな!

本社売るな!

リースとかするな!

部屋の賃貸するな!

マンション買うな!

土地も家もクルマも買って使え!

社員に無意味な転勤をさせるな!

社員を地元に根付かせろ!

土地に馴染め!

一生モノの友達を作れ!

金を求めて生きるより、絆を求めて生きろ!