7月20日です。

東京オリンピック開会式(7月23日)を3日後に控えています。

あいも変わらず、この国は、コロナ空騒ぎの最中にあります。

しかし、下記のデータから、この国のコロナ騒動が、実態のない空騒ぎであることは明らかです。

コロナを理由にオリンピックに反対するのは、実に愚かです。

朝日新聞は、この17・18日に、オリンピック開催の是非を問う世論調査を実施して、19日に発表しました。

「東京オリンピックの支持率は3割、7割反対」と、鬼の首をとったように報道しています。

おめでとうございます。これも、あなたたちがせっせと行ってきた「コロナ怖いよ」印象操作キャンペーンの成果ですね。

どうも、彼ら反対派は「安心安全なオリンピック」に対して、コロナ感染ゼロリスクを求めているようです。アホです。世界の常識に、真っ向から反した不合理極まる考え方です。それだけ、国民のコロナへの不安や恐れが強いとも言えます。

しかし、それは不必要な恐れです。

この「コロナ怖いよ」意識の蔓延は、データからみた現実の状況から乖離したものです。サヨクに都合の良い〝コロナ妄想〟〝危機創作〟を、メディアが大規模に国民に刷り込む。それを一年以上、繰り返してきた洗脳効果であるに過ぎません。

以下に、日本の現状の真実について、述べたいと思います。

 

 

7月19日

日本   新規感染者数2,368人   1日の死者数13人   ワクチン2回23%

イギリス 新規感染者数39,538人  1日の死者数19人  ワクチン2回54%

アメリカ 新規感染者数55,828人  1日の死者数622人  ワクチン2回49%

フランス 新規感染者数4,151人  1日の死者数20人  ワクチン2回40%

スペイン 新規感染者数61,628人  1日の死者数23人  ワクチン2回51%

ブラジル 新規感染者数15,281人  1日の死者数542人  ワクチン2回17%

メキシコ 新規感染者数5,307人  1日の死者数138人  ワクチン2回17%

 

7月20日

日本   新規感染者数3,836人  1日の死者数20人   ワクチン2回23%

イギリス 新規感染者数46,125人 1日の死者数96人  ワクチン2回54%

アメリカ 新規感染者数62,012人 1日の死者数300人  ワクチン2回49%

フランス 新規感染者数18,181人 1日の死者数33人  ワクチン2回42%

スペイン 新規感染者数27,286人 1日の死者数29人  ワクチン2回52%

ブラジル 新規感染者数27,592人 1日の死者数1424人 ワクチン2回17%

メキシコ 新規感染者数13,853人 1日の死者数341人   ワクチン2回17%

 

7月21日

日本   新規感染者数4,915人  1日の死者数20人    ワクチン2回23%

イギリス 新規感染者数43,404人 1日の死者数73人   ワクチン2回55%

アメリカ 新規感染者数60,838人 1日の死者数249人   ワクチン2回49%

フランス 新規感染者数21,539人 1日の死者数22人   ワクチン2回43%

スペイン 新規感染者数30,587人 1日の死者数18人   ワクチン2回53%

ブラジル 新規感染者数54,517人 1日の死者数1,424人  ワクチン2回17%

メキシコ 新規感染者数15,198人 1日の死者数397人   ワクチン2回18%

 

7月26日

日本   新規感染者数4,699人   1日の死者数12人   ワクチン2回26%

イギリス 新規感染者数24,386人  1日の死者数14人    ワクチン2回56%

アメリカ 新規感染者数88,696人  1日の死者数273人  ワクチン2回50%

フランス 新規感染者数5,307人    1日の死者数44人    ワクチン2回46%

スペイン 新規感染者数61,625人  1日の死者数47人    ワクチン2回55%

ブラジル 新規感染者数18,999人  1日の死者数578人  ワクチン2回18%

メキシコ 新規感染者数5,920人  1日の死者数171人  ワクチン2回19%

 

7月27日

日本   新規感染者数7,708人  1日の死者数12人    ワクチン2回26%

イギリス 新規感染者数23,228人   1日の死者数131人   ワクチン2回56%

アメリカ 新規感染者数108,775人 1日の死者数406人   ワクチン2回50%

フランス 新規感染者数26,871人   1日の死者数37人   ワクチン2回47%

スペイン 新規感染者数26,399人   1日の死者数55人   ワクチン2回55%

ブラジル 新規感染者数41,411人   1日の死者数1,333人  ワクチン2回18%

メキシコ 新規感染者数17,408人   1日の死者数484人   ワクチン2回19%

 

7月31日

日本   新規感染者数12,340人   1日の死者数9人    ワクチン2回28%

イギリス 新規感染者数25,754人  1日の死者数71人   ワクチン2回57% 

アメリカ 新規感染者数29,692人  1日の死者数144人   ワクチン2回50%

フランス 新規感染者数23,471人  1日の死者数43人   ワクチン2回48%

スペイン 新規感染者数

ブラジル 新規感染者数20,503人  1日の死者数464人   ワクチン2回20%

メキシコ 新規感染者数18,809人  1日の死者数450人   ワクチン2回20%

 

イギリスは、人口比にして日本の6〜20倍の感染者と3〜20倍の死者を出していますが、7月19日から、ロックダウンを解除し、ナイトクラブの営業再開を許可し、イベントや劇場の人数制限を撤廃し、ソーシャルディスタンスの義務化をやめ、リモートワークの解除の推奨を始めました。入場制限もなく、サッカーの試合を応援する観客は、誰もマスクをしていません。

アメリカは、人口比で日本の5〜10倍の感染者と5〜15倍の死者を出しながら、ニューヨーク州はじめ、多くの州で、すべての制限を解除しています。屋外・屋内でのマスク着用義務も解除されました。球場で野球の試合を観戦する観客は、誰もマスクをしていません。

上記のデータからわかるように、ワクチン接種が、どれほど進んでいても、感染者数も死者数も、イギリス・アメリカともに、日本よりはるかに多い状態です。

それでも、規制を解除して、社会生活は正常化しています。彼らは、日本をはるかに上回る感染者と死者を出しながら「コロナは終わった」と言います。

フランス・スペイン・ブラジル・メキシコも、感染者数・死者数(←人口比)でともに、日本より数倍〜数十倍高いです。スペインの海岸には、イギリスからのマスクを着けない観光客が押し寄せているそうです。

感染者数の割に死者が少ないのは、ワクチン接種率のほか、インド株(デルタ株)の弱毒化も、原因の一つかもしれません。大方の人は「新規感染者数が数万人に増えても、1日の死者数がそれほど増えなければ、経済を止める必要はない」と考えているようです。

コロナ深刻化の目安として重要なのは、新規感染者数ではなく、重症化率であり、死者数なのです。

日本の人口や自然免疫の強さや医療を考えれば、新規感染者数が1万人を超えても、それほど心配する数値ではないと思われます。

 

7月19日

インドネシア 新規感染者数34,257人  1日の死者数1,338人  ワクチン2回6%

マレーシア  新規感染者数10,972人 1日の死者数129人  ワクチン2回15%

タイ     新規感染者数11,784人 1日の死者数81人    ワクチン2回5%

ベトナム   新規感染者数4,335人   1日の死者数80人    ワクチン2回0.3%

ミャンマー  新規感染者数5,189人   1日の死者数281人  ワクチン2回3%

フィリピン  新規感染者数5,641人   1日の死者数72人    ワクチン2回4%

インド    新規感染者数30,098人 1日の死者数374人  ワクチン2回6%

 

7月20日

インドネシア 新規感染者数38,325人  1日の死者数1,280人  ワクチン2回6%

マレーシア  新規感染者数12,366人 1日の死者数93人    ワクチン2回15%

タイ     新規感染者数11,305人 1日の死者数80人    ワクチン2回5%

ベトナム   新規感染者数5,427人   1日の死者数0人    ワクチン2回0.3%

ミャンマー  新規感染者数5,860人   1日の死者数286人  ワクチン2回3%

フィリピン  新規感染者数4,507人   1日の死者数58人    ワクチン2回4%

インド    新規感染者数42,015人 1日の死者数3,998人 ワクチン2回6%

 

7月21日

インドネシア 新規感染者数33,772人  1日の死者数1,383人   ワクチン2回6%

マレーシア  新規感染者数11,985人 1日の死者数199人   ワクチン2回15%

タイ     新規感染者数13,002人 1日の死者数108人   ワクチン2回5%

ベトナム   新規感染者数5,537人   1日の死者数36人     ワクチン2回0.3%

ミャンマー  新規感染者数6,093人   1日の死者数247人   ワクチン2回3%

フィリピン  新規感染者数6,546人   1日の死者数30人     ワクチン2回5%

インド    新規感染者数41,383人 1日の死者数507人   ワクチン2回6%

 

7月26日

インドネシア 新規感染者数28,228人  1日の死者数1,487人   ワクチン2回7%

マレーシア  新規感染者数14,516人 1日の死者数207人   ワクチン2回18%

タイ     新規感染者数15,376人 1日の死者数87人     ワクチン2回5%

ベトナム   新規感染者数5,174人   1日の死者数154人   ワクチン2回0.4%

ミャンマー  新規感染者数4,637人   1日の死者数396人     ワクチン2回3%

フィリピン  新規感染者数6,641人   1日の死者数23人     ワクチン2回6%

インド    新規感染者数29,689人 1日の死者数415人   ワクチン2回7%

 

7月27日

インドネシア 新規感染者数45,203人. 1日の死者数2,069人   ワクチン2回7%

マレーシア  新規感染者数16,117人 1日の死者数207人   ワクチン2回18%

タイ     新規感染者数14,150人 1日の死者数118人   ワクチン2回5%

ベトナム   新規感染者数10,774人 1日の死者数0                ワクチン2回0.4%

ミャンマー  新規感染者数4,964人   1日の死者数338人   ワクチン2回3%

フィリピン  新規感染者数7,024人   1日の死者数71人     ワクチン2回6%

インド    新規感染者数43,654人 1日の死者数640人   ワクチン2回7%

 

これまで、死者数・感染者数ともに少なかった東南アジアでも、インド株の蔓延によって、インド・マレー系の人々を中心に感染が広まり、医療技術やシステムや政治機構や経済力の問題から、死者数も増えています。

とは言え、100万人あたり累積死者数は、日本の2倍程度、欧米から見ると、わずか1/10程度に過ぎません。

そもそも、コロナへの免疫は、関連死者数から考えて、日本、韓国、台湾、中国など、東アジア圏が最も強く、次いで東南アジア、南アジアと続きます。

地球規模で考えると、人種・地域的に死者数の偏りは著しく、明らかにコロナの交差免疫(※)の強さは、東アジア>東南・南アジア>西アジア・北アフリカ>欧州の順であり、東南アジアはかなり自然免疫の強い地域なのです。これは、人口あたり累計死者数の比較から、誰でも容易に判断できることです。なので、東南アジア地域においては、ワクチン接種率が低いままであっても、コロナ弱毒化の影響もあり、今後、欧米並みにコロナが猛威を振るうとは考えられません。

「インド株(デルタ株)は、重症化率が高い」という報道ステーションによる報道情報は、何のデータ的裏付けもない、いい加減なものです。例によって、朝日特有の反政府的な「コロナ怖いよ」的な印象操作の常習化から、つい口が滑ってしまったかたちのデマ情報なのです。

データから考えれば、デルタ株は、実は、そんなに怖くありません。新型コロナは、今、風邪ウイルス化の過程にあります。

ですから、東南アジア諸国が、ワクチン接種率を上げようと焦って、何の役にも立たない中国製ワクチン(シノバック)に飛びつき、わざわざ高いお金を払って打ち続けている意味は、まったくありません。

 

日本の死者数(2020年)

交通事故死   年間2,839人    1日平均8人↓

コロナ関連死者 年間3,414人    1日平均9人

自殺者数    年間20,919人    1日平均57人↑

風邪による肺炎 年間78,445人    1日平均215人↓

脳血管疾患   年間102,956人   1日平均282人↓

老衰      年間132,435人   1日平均363人↑

心疾患     年間205,518人   1日平均563人↓

悪性腫瘍    年間378,356人   1日平均1,037人↑

死者総数    年間1,372,648人 1日平均3,760人↓

 

日本の死者数(2019)

交通事故死   年間3,215人    1日平均9人

自殺者数    年間19,959人    1日平均55人

風邪による肺炎 年間95,498人    1日平均262人

脳血管疾患   年間106,506人   1日平均292人

老衰      年間121,868人   1日平均334人

心疾患     年間207,628人   1日平均569人

悪性腫瘍    年間376,392人   1日平均1,031人

死者総数    年間1,381,098人 1日平均3,784人

 

現在、日本のコロナの死者数は、1日平均で15人程度交通事故死よりは多いけれども、自殺者数よりはずっと少ないレベルです。風邪による肺炎と比べると1/10以下に過ぎません。

1日に3800人亡くなるうちの15人ですから、死者250人のうちの1人が、コロナ関連で亡くなっているわけです。残り249人の死は無視ですか?

コロナを恐れて自粛するなら、これまでも、毎年、コロナの20倍犠牲者を出していた風邪(肺炎)を恐れて、家から一歩も出れなかったはずです。データ上、明らかにコロナより風邪の方が怖いのですから。

この数値で、なぜ、コロナの死者数だけが、報道上、特別扱いなのか、本当に理解に苦しむ状況です。

また、2020年は、2019年に比べて、総死者数も、肺炎の死者数も、大きく減少しました。増えたのは自殺者数と老衰と悪性腫瘍で、減ったのは交通事故死と肺炎と心疾患です。しかも、現状、コロナ関連の死者数より、自殺者数の方が多いのです。コロナ規制や自粛圧力によって経済を止めることで、自殺者数は増加しますから、メディアによるコロナの特別扱いは、まったく理不尽であるとわかります。

国民を苦しめているのは、メディアの偏向報道なのです。

もし、この国のメディアが公正・公平で、より良心的であるなら、毎日のニュースの冒頭は次のようになるはずです。

こんにちは、今日1日のの死者数は、総数3760人。その内訳は、交通事故死8人、新型コロナ関連死15人、自殺者57人、風邪による肺炎の死者は215人、老衰363人、心疾患563人、悪性腫瘍による死者は1,037人などです。」

 

日本の交通事故死者数

1970年 年間16,765人  1日平均46人

1980年 年間8,760人    1日平均24人

1990年 年間11,227人  1日平均31人

2000年 年間9,073人    1日平均25人

2010年 年間4,948人    1日平均14人

 

上記のデータから、コロナで外出を自粛するのは、交通事故を恐れて外出を自粛するのと同等の行動だということがわかります。

そして、コロナ蔓延を心配してオリンピック開催を危惧するのも、レベルとしては同じようなものなのです。どこの世界に、交通事故を恐れて、外出自粛を呼びかける国やメディアや専門家がいるでしょうか。

コロナを恐れるのも、オリンピック開催を危惧するのも、バカバカしい限りです。

恐れる必要は、どこにもありません。

「マスメディアの偏向報道による日本国民の〝コロナ妄想感染〟こそが、恐るべし」です。国民の恐れが、本来なら必要のないコロナ対策をとらざるを得ないように、政府を追い込むのです。しかし、当然ながら、感染者は出続けます。すると、野党もメディアも、待ってましたとばかり、政府のコロナ対策の稚拙を槍玉にあげるのです。

コロナ騒動は、完全に、政府攻撃の道具とされています。オリンピック反対キャンペーンも、また、然りです。無観客を望んだのは国民とメディアです。けれども、愚かな決定だったと思います。

しかし、こんな報道を続けていたら、そのうち誰もメディアを信用しなくなるのではないでしょうか。

IOCにも、自民党にも、小池知事にも、問題はたくさん感じますが、一番の問題は、やはり、メディアと国民にあると思わざるを得ません。

情報をあまりに自己都合に操るマスメディアと、その稚拙な印象操作に、いちいち踊らされる国民の側に、です。

そのせいで、「国民に人気のないオリンピックの開会式に出席するのは陛下に利がない」とか、ともかく利益と保身しか考えない小人西村長官の画策もあって、天皇皇后両陛下の開会式出席も、天皇陛下単独での出席になってしまいました。「この国のため、オリンピックを成功させるため、逆風の中でも、無私の心と犠牲的精神で奔走している善意のボランティアの人々の負担を少しでも労い、コロナ禍の最中に、世界中から集まった勇敢なアスリートたちに声援と祝福を送る」のは、そもそも皇族の最も大切な務めではありませんか。バイデン大統領夫人や鬱で苦しんでいた大坂なおみさんが出席して、なぜ皇后陛下が出ないのでしょうか。

西村宮内庁長官の姑息で矮小な判断、本当に、情けないです。国のため、世界のアスリートのために、無私の心で寄与した人たちに、平気で泥をかける恥知らずの日本嫌いのアホどもが、この国には多過ぎます。

それにしても、23日、開会式直前に、五輪反対デモを決行している連中は、本格的に脳味噌が膿んでいるに違いありません。

 

この国を滅ぼすのは、ウイルスではなく、人間です。

 

メディアも、多少なりとも反骨・気骨があるなら、製薬会社や専門家たちに対抗して、正しい知識とデータに基づいてワクチン接種の是非を考察する議論でも展開して欲しいものです。

「ワクチンより、治療薬を!」とか。

 

 

善意で情報コントロールする者たちが世界を滅ぼす。」

(自分が真っ当なことを言っていると思っているアホどもが世界を滅ぼす)

 

 

7月23日、東京オリンピック開会式は素晴らしいものでした。橋本聖子会長の心のこもった挨拶も感動的でした。ジョン・レノンのイマジンも感涙ものでした。ボランティアの皆さんも、205の国と地域からのアスリートを招いて、最後まで立派にやり遂げました。ここまで、本当に困難の多い準備だったでしょう。ご苦労さまでした。聖火ランナーに登場した長嶋茂雄さんも、ここで命を失っても悔いなしという覚悟を感じました。

大坂なおみさんも、何の得もなくても、泥を被るの覚悟で最終聖火ランナーを引き受けたことに敬意を表したいです。

世界を滅ぼすのも人間ですが、その一方で、世界を救うのも人間です

 

 

 

※「アジア人は、交差免疫(歴史免疫)が強いため、コロナ感染者と死者が少ないと言うなら、欧米に住むアジア系の人たちにコロナ感染者や死者が多いのはなぜか」とよく言われますが、私は、「人は、生まれ故郷とまったく異なる環境の中では、体力・生命力・免疫が弱まる」と考えています。

中南アフリカの黒人のコロナ感染率や死亡率が低いのに、欧米で黒人にコロナ犠牲者が多いのも、同じ理由によります。実際には、中南アフリカ在住の黒人のコロナウイルスへの抵抗力は、東アジア圏並みに強いのです。

 

 

現在、数多存在する異世界ジャンルのライトノベル→漫画化→アニメ化が進む作品群は、本当に玉石混交で、屑もあれば宝石もあります。

私は、まず、ライトノベルというものは、一切、読みません。自分なりに〝文章〟にはこだわりがあるので、「十二国記」「デルフィニア戦記」レベルのある程度しっかりした一定水準の域にある文章であれば、楽しんで読めますが、正直言うと、現代のライトノベルのあまりにも適当な文章には、まったく馴染めないからです。

これほどまでに「物語」の語りに使用される日本語のレベルが、お気軽な話し口調の、軽いと言うにも程がある、味わいもクソもない文章になってしまっている現状を考えると、この国の国語レベルは、今後、どうなってしまうのでしょうか。本当に心配です。

また、私はアニメも一切、見ません。ストーリー、内容において、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」など、宮崎アニメのレベルのアニメなら観ますが、それ以下の質のものでは、到底、長時間かけて観る気になりません。映像作品は、芸術であって欲しいというのが、私の感覚というか価値観です。気晴らし程度なら、寅さんとか釣りバカを観た方がマシです。

ですから、必然、異世界モノは漫画で読むことになります。その漫画も内容的に満足できるレベルの作品は限られています。

「葬送のフリーレン」「幼女戦記」「神たちに拾われた男」「図書館の大魔術師」「転生したらスライムだった件」「村づくりのゲームのNPCが生身の人間にしか思えない」などは、確かに楽しめます。これらの良くできた作品に共通する特徴は、主人公含めて登場人物が、血の通った生身の感覚があることです。逆に、読んでいて、主人公が現実を生きているという生の感覚が感じられない作品は、とても読む気になりません。

後は、ストーリー展開自体が、ご都合主義でなく、納得できるもので、リアルな実感が感じられ、生身の感覚で違和感なく読めるなら、文句はありません。

その意味では、転生・転移した先の世界が、史実に基づいた過去の現実の世界で、主人公の能力が普通の人間の範囲に限定される、歴史改変ストーリーは、私の好みにあった良質な作品が多いです。

例えば、古くは、小説ではありますが、高木彬光氏の古典的名作「連合艦隊遂に勝つ」がそうであったように、膨大な資料を用いて、詳細な史実を生かした、歴史への強いこだわりを見せてくれる作品にこそ、強い魅力を感じます。

その点では、特に、「淡海乃海 水面が揺れる時」「転生!竹中半兵衛 マイナー武将に転生した仲間たちと戦国乱世を生き抜く」「項羽と劉邦、あと田中」の三作は、素晴らしいです。

淡海乃海」と「転生!竹中半兵衛」は、ほぼ同時代を舞台として、現代からの転生者が活躍するお話です。どちらの物語も、朽木基経、竹中半兵衛という、戦国時代においては、かなりマイナーな国人領主が、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、毛利元就ら、名だたるメジャー武将を相手取って、現代の知識を活かして天下統一を目指します。

「転生!竹中半兵衛」の方は、原作のライトノベルの方が完結してしまっているようなので、マンガの方も、じきに終わってしまうのでしょうが、残念なことです。

「淡海乃海」は、パラレルワールドの同一主人公の転生者朽木基経を描いた公家編もスタートし、武家本編の方も、ますます絶好調のようで、これからも楽しみです。

項羽と劉邦、あと田中」は、秦末に転移し、「田中(たなか)」という自分の印鑑を所持していたお陰で、たまたま出会った斉の王家の一族である田横に、同族であると間違われ、田一族に迎えられて「田中(でんちゅう)」と呼ばれ、現代の歴史知識を利用して、田家で重用されるようになり、やがては、斉王田横の軍師として、項羽と劉邦相手に渡り合うことになるという物語です。この作品は、まだ始まったばかりで、これからの展開が気になります。

三作品とも、異世界モノ特有のチートが一切ないところが、素晴らしいです。歴史上、本来なら、取るに足りない存在として、早々に表舞台から退場してしまうはずの存在、史実での〝負け組〟が、天下を狙うというのが、歴史好きにはたまらなく魅力的です。

はたして、朽木基経は、竹中半兵衛は、田中は、如何にして天下を取るのか。ロマンです。

日本人は、世界で最も不安遺伝子を持つ人の割合が高いと言われます。

この不安遺伝子には、脳内ホルモンの一つである「セロトニン」が関係しています。セロトニンには、不安を鎮め、満足感を与える機能があり、別名「幸せホルモン」とも言われます。

精神の安定に寄与するホルモン「セロトニン」を、脳内で再回収する「セロトニントランスポーター」には、セロトニンの回収・生成量の多い「L型」と、セロトニン回収・生成量の少ない「S型」の2種類があります。遺伝子型では、セロトニン生成量の多い方から、「LL型」>「SL型」>「SS型」の3種類となります。

L型のセロトニントランスポーターを多く持つ「LL型」遺伝子の人は、楽天的・楽観的で、ストレス下でも精神が安定しやすく、S型のセロトニントランスポーターを多く持つ「SS型」遺伝子の人は、悲観的で、緊張症で、ちょっとしたことでも不安やパニックに襲われやすいということです。この「S型」遺伝子が、不安遺伝子と呼ばれるものです。

この遺伝子型の違いによるセロトニン供給量の差は、個人間の差であると同時に、民族差や人種差も観察されます。

一般に、脳内セロトニンの量は、黒人>白人>黄色人種、アフリカ人>欧米人>アジア人の順で、前者が多く、後者が少ないようです。その理由は、「S型」遺伝子保有率の違いにあります。具体的には、黒人(20〜30%)<白人(40〜60%)<黄色人種(70〜90%)と、「S型」不安遺伝子の割合が相当に違います。

特に、日本人は、L型トランスポーターを持つ人が極端に少なく、総人口の3割程度しかいないのに対して、S型を持つ人は、総人口の9割を超えています。それだけ、セロトニン供給量が少ないわけです。

詳細に見ると、日本人の遺伝子型は、「LL型」が2%、「SL型」が28%、「SS型」が70%という調査があります。このうち「SL型」と「SS型」を合わせて、『S型』不安遺伝子保有と呼ぶわけですが、この場合の『S型』不安遺伝子保有率は、日本人では98%と、世界でも突出しているのです。

アメリカの場合、「LL型」が32%、「SL型」が49%、「SS型」が19%ですから、比較して、日本人が、圧倒的にセロトニン不足であることがわかります。特に、日本人の7割を占める「SS型」の人は、慢性的なセロトニン不足に陥っているのです。

脳内のセロトニンが不足すると、向上心や意欲が低下し、イライラ感や慢性的な疲労感が強まり、不眠やうつ症状が現れるようになります。

さらに、脳内のセロトニン分泌量は、視床下部のストレス中枢の興奮によって、抑制されてしまうので、直接的には、ストレスの増加によって、脳内のセロトニンが欠乏します。そうなると、心のバランスが不安定になり、パニックに襲われやすくなったり、暴力的になったり、ボーッとしてしまったりするほか、慢性的な寝覚めの悪さや姿勢の歪み、慢性的な身体の痛み、自律神経失調症などの原因となります。

このため、日本人は、神経質で、何かと悲観的になりがちで、些細なことで、常に不安に苛まれる人が多いと考えられるのです。

環境要因としては、日光を浴びる時間の短さや更年期障害なども、セロトニン不足の原因となります。逆に、ランニングやサイクリングなどのリズミカルな運動によって、脳内セロトニン分泌が促されます。

もっとも大切なことは、感情を揺すぶられる体験を味わうことです。それによって、セロトニンが多量に分泌され、心が鎮まり、ゆったりと寛ぐことができるようになります。

 

 

今回のコロナ禍においても、日本人の神経症・不安症の側面が顕著に現れています。

多くの日本人が、過剰にコロナを恐れる傾向があり、メディアがその不安を煽るので、政府も世論に押されて、必要以上に経済を失速させる政策を打ち出さざるを得なくなります。しかし、そもそもウイルスを国民生活の自粛によって完全に抑えるのは不可能であるため、いつまで経ってもコロナは終息しません。その結果、経済活動の抑制を強いる政府の支持率は下がります。

自民党政府打倒を目的とする左派メディアの狙いはそこにあるわけです。政府を叩くために、コロナも、国民経済も、天皇陛下すら利用しようというのです。政治権力との闘争に勝つために国民を犠牲にして省みない、そのメディアの独りよがりな独善の姿勢は、本末転倒の極みです。

また、日本医師会などは、コロナ患者を扱いたくないので、医師会会長中川氏、尾崎氏ら、いわゆる〝専門家〟たちは、自分たちの既得権益を守るため、また、保身のために、日本のコロナ病床数が少なすぎるとか、コロナ患者を扱う病院が少なすぎるといった不都合な事実を問題とせず、欧米の1/10以下のレベルの感染者数で、「医療崩壊だ!」と国民を不当に脅します。

さらに、その不要で理不尽な医療業界からの脅迫を、専門家コンプレックスの強いメディアが意味もなく増幅させ、不安症の国民を焚き付けて、世論を政府批判へと誘導します。

しかし、政府には、都市を完全封鎖(ロックダウン)する権限もないし、医療業界にコロナ患者を看るように強要する権限もありません。それで、政府は、仕方なく、人流抑制のために、国民に自粛を求め続けることになります。しかし、それでは感染を抑制しきれない。必ず、次の波が来る。その度に、政府への国民の支持は弱まる。メディアの目論見通りです。

一方で、「世界一権限の弱い日本政府に、パンデミックや情報戦やサイバー戦など安全保障と私権制限に関わる問題に際して、より強い権限を与える必要性」についての公の議論は、一番肝心の議論であるにもかかわらず、これまで同様に回避され続けるのです。この情けない状況には、亡国の危険すら感じます。

自粛要請や休業要請によって、国民が経済的に追い詰められるのは、根本的には身勝手に騒ぐ専門家とメディアのせいです。しかし、容易に不安を掻き立てられ、情報の印象操作によって、たやすく誘導されがちな日本国民の不安症の問題でもあります。

これもまた「万事に悲観的で何かと過敏で神経質な国民性」によるものか、「コロナ関連で1万5千人が亡くなった1年半の間に、実は、コロナ関連の2倍の3万人が自殺している」のが、この国の実情です。統計的には、コロナより自殺の方が、問題として深刻です。

さらに、自殺者のほとんどは、うつ病などの気分障害、統合失調症などの精神障害を抱えています。ですから、脳内のセロトニン不足が、自殺の主要な原因となることは明らかです。

「不安」による負のスパイラルが、この国の活力を奪い、国民に生きる希望を見失わせ、死に追いやっているのです。

創業141年(明治13年/1880年創業)の浅草の老舗すき焼き屋「ちんや」が、来月8月16日からコロナ騒動で閉店に追い込まれることになりました。その他にも、昭和の大恐慌や敗戦、大正期の関東大震災やインフルエンザ・パンデミックを生き延びてきた、江戸期・明治期創業の老舗の名店が、次々と廃業に追い込まれています。これは、人災です。

利己的かつ独善的な思い込みと策略によって、ただでさえセロトニン不足で不安症に陥りがちな日本国民の不安を煽りたて、神経症に追いやるマスメディアと専門家たちの凝り固まった偏向姿勢は、長い目で見て、この国を滅ぼす元凶となるに違いありません。コロナへの不安に駆り立てられた市民による自粛警察とか、マスク警察とか、ワクチン強制とか、何もかもが愚かしい限りです。

このように国民を操ることに、罪の意識を感じられない彼らメディアと専門家の精神こそ、サイコパス的と言わざるを得ません。

 

 

私は、オリンピック開催に絶対賛成です。有観客で結構です。

「政府を批判することが正義」「あらぬ不安を掻き立て、国民を反政府に扇動することが使命」という、この国のメディアの左に偏ったあり方には、もう愛想が尽きかけています。

コロナウイルス対策にゼロリスク(感染の終息)を求めるのは誤りです。愚か者の所業です。

そもそも、総人口1億2千万人の国で、1日の感染者数が千数百人であれば、すでに「感染は収束している」と言っていいでしょう。実際、アメリカ人の多くは、人口あたりで日本の3倍の新規感染者を出している現時点で「コロナはすでに収束した」と考えています。マスクもあまりしません。アメリカだけでなく、大抵の国の人々は、不安・神経症の日本人とは、まったく異なる感覚・理解・判断で生きているのです。

しかし、いずれの国・地域においても「収束」はしても「終息」は決してしない。この手のウイルス感染の終息を期待するのがおかしいのです。コロナは風邪ウイルスの一種なのですから、この先、何年経っても、終息する見込みはありません。感染が終息しないのを、政府のせいにするのは、お門違いというものです。

実際、日本以外の国では、コロナ感染が広がっても、政府の支持率はそれほど落ちません。日本の10〜20倍の感染死者を出しながら、ドイツもスウェーデンもフランスもイギリスもアメリカも、日本より政府の感染対策への支持率が高いのです。また、諸外国には、自分がコロナに感染したからといって、日本人のように罪の意識を感じる人は、ほとんどいません。それに比べて、日本人の神経質さは世界的に見て度を越しています。ウイルス感染にまで責任を感じなければいけないというような神経症社会は、はっきり言って病んでいます。

インフルエンザで、毎年、4000〜1万人が亡くなり、その他、通常の風邪ウイルスによる肺炎で、毎年、年間10万人の死者がでる国で、コロナ関連の一年半での累積死者数1万5千人だけを、殊更に問題とするのは、どうしたことなのでしょう。これは、まさに、コロナ・ヒステリーです。

コロナで年間5000〜1万人亡くなるのが、これほど問題なら、例年、コロナと同じレベルで人の命が失われてきたインフルエンザも、同程度の問題として扱われるべきです。また、毎年コロナの10倍の人数が亡くなる〝風邪ウイルスによる肺炎〟は、コロナの10倍怖いはずです。

しかし、風邪の感染拡大で、緊急事態宣言が出されることはありません。風邪の大流行で、人流抑制のために経済を止めたりはしません。風邪の感染予防で、三密回避など気にしません。なぜ、コロナだけが特別なのでしょうか?

そもそも、たとえ仮に、コロナが「終息」したとしても、この国の死者数は、さして減少する見込みはありません。実際、昨年度は、コロナ禍の最中、実は11年ぶりに死亡者数が減少していたことが、超過死亡の減少からわかっています。コロナのおかげで、かえって死者が減っているというのに、何を怯えているのか。本当に、意味のわからない虚しい空騒ぎです。

現在、新型コロナウイルスは、変異によって、感染力は強まれど、弱毒化して、重症化率・死亡率が下がっていき、風邪ウイルス化していく過程にあると考えられます。

もし、今後、変異によってコロナが風邪ウイルス化したなら、風邪のウイルスに対して、ワクチンを打つ必要などありません。誰も打とうとは思わないでしょう。また、風邪の流行で、オリンピックを中止する国などあり得ません。あったら、その国は、歴史に恥を刻むことになるでしょう。

現時点で、コロナウイルスが、どれほどの脅威なのか、冷静に、よく考えてみましょう。

コロナを、必要以上に恐れないことです。メディアに騙されないことです。

以上、考察してきたように、我が国のコロナ禍は、自然との戦いというより、むしろ、専門家やメディアや運動家が煽る不安と疑心暗鬼による社会的混乱、医療業界の自己都合によるコロナ不対応といった人為との戦いという側面が強いのです。

公益より自分の立場を優先させる心ないメディアと専門家による煽動と情報操作と国民意識コントロールに、これ以上、踊らされてはなりません。

このままでは、我が国の国民と政府は、海外からも容易に情報操作されるようになるでしょう。「日本は情報操作に弱い国」と目されて、諸外国に、いいように操られてしまいます。

 

 

橋本聖子五輪組織委員会会長は、こう述べています。

過去のオリンピックは、どの大会も感染症と戦っています。2016年のリオ大会でも、ジカ熱で現地は大変でした。ジカ熱が怖いから、(大会に)こなかった選手もいました。私も、選手団団長として、自国の選手を守るために、独自の対策をしなければなりませんでした。リオでどれほど大変だったか、日本の皆さんには伝わっていないかもしれません。

自転車の大会でも、周辺地域で、エボラ出血熱が発生していて、対策して行った経験があります。(スポーツの大会は、すべての国において、常に、感染症との戦いになっているのです。

また、オリンピックは「平和の象徴」です。すでに、2019年の国連総会で、世界186ヵ国の共同提案で「オリンピック休戦決議」が採択されています。オリンピック開幕の7日前から、終幕の7日後まで、59日間は、世界が休戦するという決議をしてもらっているんです。このような休戦決議を伴う大会・イベントは、オリンピックだけです。たとえ一時的であっても、戦火に怯える人々に安らぎを与えられる。その価値は、決して小さくありません。

ところが、この休戦の意義や重さについてお話ししても、メディアはなかなかニュースにしてくれないのです。

日本が、(オリンピックを中止し)世界との約束を果たせないということになれば、非常に大きな責任問題だと思います。

困難なことをやめるのは誰にでもできます。それをどうやって克服して、日本の素晴らしい力を世界に発信していくのか、そのことが今一番大切だと思うんです。

あらゆる力を結集して前に行こう。それをしないことは、元々日本の持つ素晴らしい文化を、何か、なくしてしまうんじゃないか、という危機感さえ感じます。

 

 

私も、その通りだと思うのです。

東京オリンピック開催に向けての強い意志が感じられ、いろいろあったけど、この人が、会長になって本当に良かったと思います。

その逆に、西村宮内庁長官の発言は、天皇陛下の政治利用によって、メディアのオリンピック攻撃の片棒を担ぎ、東京オリンピック、政府、日本国に打撃を与えようという意図を持った、万死に値する亡国発言と言うべきでしょう。

「(直接そういうお言葉があったわけではありませんが)陛下は東京オリンピック開催が感染拡大につながらないか懸念を抱いていると拝察いたします。」

あの発言ではまるで、天皇陛下が東京オリンピック開催に反対の心情を匂わされたかのように、あるいはオリンピックへの国民の反発を気にして、長官の言葉を介して姑息な保身を図っているかのようにさえ、受け取られる可能性があります。しかし、それが昭和天皇のお孫さんである陛下の困難に立ち向かう姿勢とは、とうてい思われません。まさに、秋篠宮家、あるいは西村長官自身の左派的、あるいは保身的な人格の滲み出た愚かな発言です。

日本国は、東京オリンピックを、力を結集して成功させねばならない。そのために、無私の心で必死に頑張っている人たちがいます。一方では、たかだか累積感染者数が総人口の1%累積死者数が欧米の1/20の感染症に怯えて、オリンピックをするな、と叫ぶ、どうしようもない政府不信の人々や自己中心的で神経症的な不安に取り憑かれた人々がいます。

しかし、繰り返しますが、日本は、絶対に東京オリンピックを成功させなければならない。

国家のメンツというのは、それほどに重いものなのです。メンツを失うことが、結果として、その国の滅亡につながるかもしれない。そういう、ごく当たり前の大局観や危機意識を持たない、大人としての知恵の足りない、〝せこい〟〝みみっちい〟〝情けない〟〝自己中心的な〟〝神経症的でヒステリックな〟日本人が増えすぎたのかもしれません。

私の中国の友人たちは、皆、日本人の態度を理解不能と首を振っています。「オリンピックをやめろって、国のメンツを潰してどうするんだ。」「これは自由ではない、ひどいわがままだ。」「中国人にも、わがままはいるが、こんなことを言うのは許されない、いや、許してはいけない。」

その通りです。実に危ういことです。

「何が危機なのか?」を取り違えないことです。

 

 

私たち、日本人は、偏った情報と印象操作によって増幅された不安に翻弄されるのではなく、不安と闘うことを学ばなければなりません。不安から逃れようとして、かえって「ハメルンの笛吹の笛の音に操られて、一斉に崖から海に飛び込んでいく子どもたち」のような愚かな結末を招く、近視眼的な国民性を、いつまで経っても脱却できないままでは困るのです。

常に、深い哲学と豊かな感情を持って、自らの心を揺り動かし、セロトニンの分泌を促す術を学ばなければなりません。

自ら豊かに生きることが、この国を豊かにすることにつながるような生き方を探らねばなりません。

自分自身と、大切な人と、この国の未来のために。

まずは、せかせかと焦らず、ヒステリックにならず、ゆったりと構えてみましょう。

 

 

繰り返しますが、次々と現れるコロナ変異種は、感染力は強まりますが、その代わりに弱毒化していきます。重消化率も致死率も、次第に低くなります。症状も、風邪に近いものになっていきます。

例えば、デルタ株(インド株)は、アルファ株に対して、感染率は2倍ですが、死亡率は1/20という英国の調査結果もあります。

変異が進むと、ワクチンは効きにくくなりますが、そもそも、風邪レベルまで弱毒化したウイルスに対して、副反応の強いワクチンの接種など必要ありません。ワクチンは、まだ感染者の重症化率が高い初期の段階での緊急対処の一つに過ぎないのです。獲得免疫の抗体も、どうせ、半年程度しか持ちません。変異種には、そのうちワクチン接種で獲得した抗体も効かなくなりますし、ワクチンが唯一の希望だなんて、誤った認識にすがるのはやめましょう。ワクチン接種後の死者数(350人/7月5日現在)も増えていますしね。

感染対策として、手洗いはこまめにすべきですが、屋外ではマスクなど必要ありません。屋内でも、エチケットとしてはマスクも有用ですが、ほとんどの場合、感染対策にはなりません。現在の日本人は、血中酸素濃度をいたずらに低下させてしまうマスク神経症の状態にあります。

リラックスして、セロトニンを分泌させ、自然免疫を高める方が、感染対策としては、はるかに有用です。

たとえ感染者数が、1日に5、6000人程度にまで増えようと、何の問題もありません。

安心して、オリンピックを楽しみましょう。

 

 

歓迎、賛成、東京オリンピック開催!有観客OK!

コロナ神経症に負けるな!

 

 

〈参考〉

イギリス(総人口6665万人)ワクチン2回目接種率50%

1日の新規感染者数2万4千人(7/3) 1日の死者数(1週間平均)17人

日本(総人口1億2630万人)ワクチン2回目接種率13% 

1日の新規感染者数1884人(7/3) 1日の死者数(1週間平均)25人

※デルタ株の割合が50%を超えているイギリスでは、ワクチ接種していない若者の間に感染が広がっているが、重症化率は低く、死者数も低く抑えられている。日本は、ワクチン接種率はイギリスよりはるかに低いが、人口あたりの感染者数はイギリスの1/20以下である。

日本ではデルタ株の割合が10%未満だが、これから増えるだろう。それに伴い、感染者が若年層に若干広がることは間違いないだろうが、ワクチン接種していない若者が感染しても、イギリスの例から推測できるように、重症化率・死亡率は低く抑えられるだろう。

コロナ・パンデミックは、日本においては、これまでも、心配するほどのことではなかったし、これからも何も心配することはない。

 

※※例えば、昭和46年の交通事故死は年間1万6,000人でした。命のリスクをゼロにしたければ、高度経済成長の只中で、日本全土をロックダウンするしかなかったでしょう。

ゼロリスクってアホらしいです。

緊急事態宣言が発令された東京都及び沖縄県内のホテルは、軒並み満室に近く予約が取りにくい現状です。宿泊料金も高いです。ツアーの料金も、6月末と比べて、倍以上に値上がりしています。実際には、本当は誰もコロナなど恐れていなかった。

なぜ、無観客にするかなあ。馬鹿じゃなかろか。

デルタ株という、本来、恐れる必要のないものを恐れている。これも、すべて、ゼロリスクを求める専門家たちとメディアのせいです。感染者数が多少増えようが、重症者数が減少している以上、有観客で行うべきだったのです。

 

 

 

 

 

 

過保護かつ過干渉で、それでいて、欠片も想像力がなく、まったく子どもの内面に理解のない大人たち」の元で、幼い頃から、あまりにもさわられすぎて育ち、強烈な過敏症になり、病んでしまった子供たちの歌です。

この歌が、大人たちが不自然に干渉しすぎ、共感も理解もないままに、自分の「思い込み」に基づいた価値観や教育方針で、とことん圧力をかけて、強制的にひ弱な「よい子」に育ててしまった子供たちの内なる暗い叫びを表現した歌であることに、子どもを愛してはいても、子どもの内面に関心のない親たちは気づきません。

かつての昭和の優等生は、尾崎豊(1983年18歳でデビュー)のように「よい子」の枠からはみ出そうともがきました。そういう意味では、わかりやすかった。その行動力に見合った逞しさやエネルギーがあったとも言えるでしょう。でも、今どきの優等生は、あくまでも、安全な枠の内にとどまり、小利口な「よい子」であり続けようとします。

それだけ、以前にも増して、「よい子」しか愛せない親が増えてきたせいかもしれません。若者の〝枠〟をぶち破ろうとする暴力性に対する社会・大人・親の許容度や理解度が、さらに低くなっているためでもあるでしょう。

 

正しさとは、愚かさとは、それが何か見せつけてやる」という個性的なフレーズで、この奇妙な歌は始まります。

ちっちゃな頃から優等生」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、あなたが思うより健康です」「私が俗に言う天才です」「一切合切凡庸な、あなたじゃわからないかもね」「頭の出来が違うので問題はナシ」と、心の中で、相手の低脳愚鈍さや不潔さへの軽蔑と、自身の優越性と健全さと正しさに対する屈折した誇りを表現しています。

ここで言う「相手」とは、「酒が空いたグラスがあれば、すぐ注ぎなさい」「皆がつまみやすいように串外しなさい」「会計は注文は先陣を切る」などと、不文律に口うるさい上司や先輩に代表される社会人の大人たちです。

「つっても私、模範人間、殴ったりするのはノーセンキュー」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、くせー口塞げや、限界です」「絶対絶対、現代の代弁者は私やろがい」「私も大概だけど、どうだっていいぜ、問題ナシ」と、自分の脳内で、大人の説教をゴミ箱に掃き捨てて、自分こそが『現代の代弁者』であると断言します。

 

「私は狂っているけど、あんたたちは、もっと狂っているだろ!」「寄るな触るな、気持ち悪いんだよ!」「あんたたちには言われたくない!」「私はあんたたちよりはかしこいんだよ!」「構うな!」「もうしゃべるな!」「もうたくさんだ、ウンザリだ!」という優等生のホンネを歌っています。そのホンネからは、『ちょっとでも人に意見されることに耐えられない、強烈で徹底的な拒絶反応』が読み取れます。

けれども、そうした「よい子」たちのホンネは、決して大人たちに向かって直接ぶつけられることはありません。その、誰も語ることのないホンネを表現し得たという点で、syudouさん、Adoさんは、芸術家なのだと思います。

 

 

「うっせぇわ」の作詞・作曲者であるsyudou さんは、1995年(平成7年)生まれの25歳のボーカロイドプロデューサーです。彼が生まれた1995年は、ちょうど、THE BLUE HEARTSが解散した年です。この年のヒット曲には、スピッツの「ロビンソン」やZARDの「マイフレンド」、DREAMS COME TRUEの「サンキュ.」や中島みゆきの「旅人のうた」などがあります。また、前述した尾崎豊は、この3年前、1992年に26歳で亡くなっています。

「うっせぇわ」の歌い手であるAdoさんは、2002年(平成14年)生まれの18歳の覆面女子高生歌手(←2020.10.23リリース時において)です。彼女の生まれた2002年のヒット曲には、元ちとせの「ワダツミの木」や鬼束ちひろの「流星群」、平井堅の「大きな古時計」や小田和正の「キラキラ」などがあります。

とは言っても、この2人が、これら上記の音楽の影響を受けているようには思えませんが。

そして、syudouさんが作詞・作曲し、Adoさんが歌う「うっせぇわ」のYouTube MV再生数は、2021年、6/15時点で、1億5千万回を突破しています。リリースから8ヶ月目に入っても、この曲は、一種の社会現象であり続けているようです。

ただし、この曲の受け止め方には、世代間に大きな断絶があります。10代〜30歳ぐらいの平成生まれの世代は、この曲を受け入れられるのでしょうが、その上の世代は、特に年齢が上なほど、この曲を理屈抜きで嫌いな人が多くなります。

そして、この曲のテーマは、「上の世代の大人どもは、どうしようもないから無視しよう」という10〜20代の若者たちへのメッセージなのです。

 

語られないホンネ、言葉にされない深い想いを、どう受けとめ、どう理解するか』は、現代の親や大人にとって、人と関わって生きていく上で、最大のテーマであると思います。ところが、たいていの大人は、この問題にまったく関心がありません。現代人は、書かれた情報、話された言葉、数値に表されたデータの収集と解析に忙しく、言語化も数値化もされないものに、心を向ける余裕がありません。

 

現代(2020年代/令和)の子どもたちの多くは、親の世代を諦めています。「心が通じ合うことなど決してない」と、とっくの昔に。それでいて、親や大人たちの前では、いい子で通してきたのです。徹底して「よい子」を演じとおす、けっしてホンネを見せない、それがルソーの言う二重の人間性です。そういう「親や大人との共感を諦めた、上辺は優等生の良い子」を育てたのは大人たちです。その大人たちも、実は、人様から何か言われることが大っ嫌いなのです。

彼ら、現代の親たち自身もまた、俗に言う「大人にならない子どもたち」です。自らの〝枠〟や価値観から、一度もはみ出したことのない人たちであり、内なる価値観の崩壊と再構築を経験したことのない人たちです。

そして、もう、その世代が、年齢的にも、実質的にも、社会的には立派な親になっています。

大人になれない親と子が、互いに共依存する社会は、自堕落な上に重苦しく救いがありません。

 

 

子どもにさわらないことです。日本の親は、手をかけて育てるのが当然だと思っていますが、大切なことは、手を出さずに見守ることなのです。あなたが、さわればさわるほど、子どもはおかしくなるのです。

自分の安心のために、むやみやたらに確かめようとせず、子どもを信じることです。土足で踏み込まず、子どもの生きる領域を尊重することです。

踏み込むなら、覚悟を持って、踏み込んでください。理解するために必死に努力してください。

子どもが自分の思う通りになると思わないでください。自分の価値観が揺らぎ、崩れる覚悟もしてください。相手の人生に干渉するなら、自分の人生も変わる覚悟が必要です。

 

子どもは病んでいますが、それに気づかない大人は、もっとおかしいのです。虚弱で過敏でヤワな子どもが問題なのではなく、問題は、そのように子どもを育てた大人の方にあるのです。そのことに気づいてください。

大人の子どもへの接し方、方針や手段が問題なのではなく、大人の生き方、価値観、内面の本質にこそ、変わるべき重大な問題があるのです。

とは言え、とりあえず、私が声を大にして言いたいのは「子どもを監視するな!」「子どもに圧力をかけるな!」「子どもを操作しようとするな!」ということです。

 

子どもの内面を感じられないのは、あなたが、あなた自身の内面をないがしろにして生きてきたからです。

 

平成以降の子どもたちの多くからすると、昭和の大人たちの多くが、自分の言葉が一切通じない「人間の壁」と感じられるのです。煮ても焼いても食えない、石膏ボードのようなモノです。

ひとりよがりの傲慢さ、隠された利己性、無自覚の権力行使と横暴さ、愚鈍さと無教養の臭いを漂わせる、無知愚昧なる精神が構築する社会秩序の暴力性に抗しえない子どもたちの諦念(あきらめ)が、この歌を生んだのです。

 

この歌は〝警告〟あるいは〝事象〟に過ぎません。この病んだ叫びは、あなたの魂の影の部分と一体なのです。そのことに気づきましょう。

 

「子どもは、いつの時代も、こうやって反抗してきたんだ」などと、自分を不自然に納得させようとするのは誤りです。この歌の「反抗」は病んでいる。極度に病的なのです。それは、この国の「人間関係」が、病んでいるためです。関係性そのものが、不自然で歪んでいる、ということです。

病んでいる状態が〝ふつう〟になってしまったことに、異常さと深刻さを感じない大人たち」こそが、一番やっかいな存在なのです。

 

ASD(自閉スペクトラム症)ADHD(注意欠如・多動症)という用語は、「発達障害」と称される〝脳の機能の微細な偏りに起因する症候群〟のうち、それぞれ、ある範囲の症候群を、指します。

この脳の機能の偏りは、あまりに微細であるために、脳の科学的検査によって、物理的・生物学的に明らかにすることはできません。したがって、どちらも具体的な症状から判断するしかないのが現状です。

しかも、どちらも、今のところ、根本治療のための薬はありません。ASDに関しては、症状を軽減するための対処療法の薬さえ、現状では存在しません。身体の成長や、時間の経過によって、大人になったら自然に治るというものでもありません。むしろ、現在では、「脳の機能の偏りは、一生涯続く可能性が高い」と考えられています。

また、ASD、ADHDの人には、非常に知能が高い場合もあり、学習能力が優れている場合もあります。「知的能力障害」ではないのです。

 

ADHDとASDは、共に遺伝的要因が強いと考えられています。兄弟姉妹では50%、親子でも50%の確率で発症します。特に、母子の遺伝確率が高く、母親がADHDの場合は70%、母親がASDの場合には90%の確率で子に遺伝します。ただし、男女の比率は、ADHDで2:1、ASDで4:1と、男性の方が発症率は高いです。

世界人口において、ASDは2%、ADHDは3〜5%存在するとされますが、昨今は「グレーゾーン(境界線上)」の人も加えると、それぞれ10%程度は存在するのではないか、とも言われています。

 

ASDは、1、2歳から発症しますが、ADHDは、少し遅く5、6歳から発症します。また、ASDを発症した人は、60%の確率でADHDを発症します。したがって、「グレーゾーン」の人も加えると、人類の総数のおよそ14%は、ASDとADHDのいずれかの境界線上にあり、人類の6%は両方を同時に発症する可能性があるということになります。また、ハッキリと、ASD・ADHD症状が併存して発症している人が、少なくとも、人類の1%は存在するということです。割合として100人に1人ですね。

ただ、同じように「ASD・ADHDの併存」であっても、人によって〝ASD優位の人〟と、〝ADHD優位の人〟がいます。

 

以前に、ASDとADHDについては、非常に詳しく記述した記事を書いていますので、今回は、この併存症状について考えてみます。かつてはASDとADHDは併発しないものとされていました。その併存が認められたのは、2013年、アメリカ精神医学会の判断基準が更新され、DSM−5が発表されて以降のことです。

また、2010年代以降、世界的に注目されているのは、大人になっても症状が改善しない成人ASDと成人ADHDであり、同時に、それらの併存症状の特性についてのあれこれです。

かつては、発達障害、特にADHDに関しては、大人になるにつれて自然に改善されていくものと考えられていました。ですから、大人になってから、さまざまな生活上の支障が生じ、その症状から「脳の機能の偏りに起因する発達障害」と診断されるべき人も、ほとんどが「本人の性格上の問題」として片付けられていたのです。

「発達障害は、一生涯続く脳の機能の偏りによるもの」と、一般に理解されるようになったのも、ごく最近のことです。そして、研究の進展につれて、今日、『大人の発達障害』は、誰にとっても急速に非常に身近な問題になってきています。

ですから、今回の記事のテーマも、この「成人ASDと成人ADHDの併存について」としました。

 

 

まず、ADHDの機能の偏りについてですが、主に報酬系に強い偏りが見られます。自分が「心地よい」「気持ちいい」と感じる行動が、極端に偏っているのです。そして、その〝快〟へと向かう短絡的な衝動を抑えることができません。常に、どこか興奮気味で、思いつきの行動や衝動買いが多く、何かに熱中すると、ほどほどでやめるということができないのです。一つの行動や趣味や仕事に「はまる」と抜けられません。

また、不快を我慢することもできません。その結果として、自分のしたい行動ならば、どこまでも際限なく続けられるのですが、それ以外のやりたくないことをさせると、不注意から失敗が目立ちます。また、脳が報酬(快)が得られないことから欲求不満に陥り、イライラと落ち着きなく身体の一部を動かしたり、苛立ちから癇癪を爆発させたりします。望まないことを強要されると、怒鳴ったり、なじったり、暴力を振るうこともあります。

ともかく、何事も、まったく辛抱できません。忍耐力がないのです。会話でも、相手の話をさえぎったり、相手が話している上に、かぶせてモノを言う場面が目立ちます。

しかも、その「自分の好きなこと」というのが、非常に単純な「成功報酬(快楽)をストレートに求める行動」になりがちです。逆に、特に苦手なのは、「段取り」と「鳥瞰図的視点」と「時間配分」と「複数の作業を同時にすること」が求められる仕事です。例えば〝大掃除・整理整頓・後片付け〟〝料理〟など、ともかく家事全般が苦手なのです。そして、面倒なことや苦手なことは、常に後回しにします。

「後でやろう」「明日やろう」といつまで経っても、掃除・整理・後片付けが始まらないので、部屋はどんどん散らかっていきます。しかし、散らかっていること自体が気にならないわけではなく、本人も、うんざりしてはいるのですが、どうしても作業が進まないのです。

また、ADHDの人は、複数の情報を瞬時に総合して臨機応変に柔軟に対処することができないので、アクシデントに弱く応用がききません。要点をまとめることが苦手で、物事の優先順位をつけられません。そのため、簡潔に話すのが大の苦手です。

加えて、注意が一点に注がれると、集中し過ぎて、その他のことが、どうでもよくなります。ところが、一つのことに取り組んでいても、何かのきっかけで別のことに注意が逸れると、今度はそっちに夢中になり、さっきまでしていたことを忘れてしまいます。だから、後片付けも、忘れてしまうのです。次から次へと、やり散らかすばかりです。

切り替えがうまくできず、気が散りやすく、それが原因で、単純な〝うっかりミス〟を頻発することにも繋がります。

これは、ADHDの脳が、複数の情報を同時に解析することができないためです。一度に幾つもの情報が入ってくると、彼らの脳はパンクしてしまうのです。

話す時は、自分の関心ある話題について、猛烈な勢いで、いつまでも話し続ける一方で、自分の守備範囲の外の話題については、唖のように黙ってしまいます。とても気まぐれで、わがままで、飽きっぽく、時に理不尽に見えます。それは、常に、自分が「気持ちよくなるもの」にしか興味がないからです。

ADHDの症状を示す人は、一般に生きることに貪欲であり、サバイバル能力に秀でています。

 

次に、ASDの機能の偏りについてですが、主に記憶回路に強い偏りが見られ、感覚過敏感覚鈍麻もあります。ASDの人は、体験したこと、その時、感じたことを、丸ごと正確に記憶してしまう一方で、その時、自分が感じた感覚や体験を絶対的な判断基準として、その後、2次的な体験によって修正されることなく、いつまでも持ち続けます。過去の嫌な体験を、繰り返し思い出して再体験してしまい、イライラやストレスから抜け出せないこともあります。自分のさまざまな体験を、統合的に概念化・客観化・一般化したり、自己の体験を内省して成長の契機とすることが難しいのです。

そのため、第三者からは、「変化を異常に嫌い、自分の感覚や体験に極端に執着し、そこから生まれた判断基準や価値観を絶対視している」ように見えます。言わば、一度、頭の中に記憶の名画(迷画?)が完成してしまうと、劣化はせず、修復要らずですが、二度とその上に新しい絵を描くことができないキャンバスのようです。

中には「レインマン」のように、写真的記憶力を持つ人もいます。概して文字や数字に強い興味を持ち、単純計算や丸暗記が得意です。「人よりも、モノ(道具や機械)や知識・情報に強い関心を持つ」傾向があります。ところが、手先は不器用で、モノの取り扱いは、ぎこちないのです。運動も、球技などは苦手です。

文脈や状況を考えず、相手の表情やトーンから感情を読めず、言葉を字義通りに受け取ってしまうのも、ASDの目立った特徴の一つです。「鶏小屋を掃除して、全部綺麗にしてね」と言われた養護学校の生徒が、鶏小屋のニワトリをぜんぶ締め殺してゴミ袋に詰めて小屋を全部綺麗にしてしまったことがありますが、本人は言われた通りにやったつもりなのです。

また、相手も同じことを知っているという前提(勝手な思い込み)で話をしたり、状況判断ができずに場違いな発言をしたり、相手の発言を思い込み(自己中心的な妄想)で取り違えたりします。ともかく「相手の立場に立って考えることができない」のです。

一般に、言葉の使い方がぎこちなく、かたい言い回しが多く、敬語の使い方が不自然だったり、会話が噛み合わなかったりします。比喩表現や遠回しな表現が苦手で、言外の意味を受け取れず、皮肉が通じず、心理的な文脈を把握できないことから、共感的なコミュニケーション(気持ちのキャッチボール)が苦手です。ですから、人の言葉や歌や詩や物語に、心を動かされるということがないのです。

行動する時は、一点に集中してしまうために、周りがまったく見えなくなります。「融通がきかない」「空気が読めない」ということもあります。逆に、音楽が鳴っていると、気が散って、人の話に集中できないとか、複数の人と話をしていると、混乱しやすいという面もあります。不安を感じると、過敏な神経をなだめようとして、同じフレーズを繰り返したり、同じ動作を続けたり、唇や頬をさわったり、そっとなでたりする仕草に特徴があります。

また、ASDの脳は、次に起こることを予測する直観的想像力に欠けているため、未知の世界に飛び込むことに、恐怖感を感じることから、同じパターンの単純な行動を繰り返すことで安心感を得ようとします。それが、「非常に限られた範囲の物事への強い関心と執着」と見えるのです。〝木を見て森を見ず〟という態度が一般的なのです。一般に誰でも気にするようなことは無視して、普通であれば気にしないような「非常に細かい特定の物事に対して、強いこだわりと関心を持つこと」に、ASDの特徴が見られます。

一方で、予期せぬ事態にはパニックを起こし、完全に固まってしまいます。心の余裕とか、柔軟性とか、臨機応変の応用力というものが、かけらもないのです。

ただし、ASDの症状を示す人の多くは、一般に知能指数が高く、本人の興味のある分野においては、突出したスペシャリストとなることも少なくありません

 

では、上記のADHDとASDの症状が併存している人の場合はどうでしょうか。

ADHDの短絡的で単純化された報酬系回路と突発的行動衝動が、ASDのモノや情報への執着という特性に拍車をかけるために、モノの収集癖が強まると同時に、情報を得ることにも強い快感を感じるようになります。その上、片付けや整理がまったくできず、モノを捨てられないので、家は大量のモノやデータを無秩序に積み上げた〝ごみ屋敷〟になります。しかも、全体を見る注意力を欠くために、その足の踏み場もない状態が、本人はまったく気になりません。

さらに、ASDの偏った記憶機能によって、自分の体験や、その時感じたことを、絶対的なものとして行動・判断の基準としている上に、ADHDの単純報酬回路を通して、同じ快楽体験を求める強い衝動を感じて行動しますから、その時、そこで感じた快感を、繰り返し〝最高に価値あるもの〟として記憶を上書きして、遂には絶対化してしまいます。思い込みが激しいどころではなく、その自分の判断に、疑いを挟む余地が一切なくなります。どんな新しい情報や体験によっても、その凝り固まった〝習癖〟から、心が解き放たれることはありません。あらゆる趣味行為において、中毒に陥る可能性が、非常に高くなります。

人並み以上に記憶はするのですが、それが、情報の集積だけに終わってしまい、情報を取捨選択・整理統合することができないからです、ある意味、頭の中も〝ゴミ屋敷〟になってしまうのです。

そのため、話し合いにおいては、相手の話をまったく聞こうとせずに、自分の言いたいことを一方的にまくしたてる場面が多くなります。全体の話の流れが頭に入らないので、部分的で瑣末でどうでもいい事柄に、話が無限ループし続けます。

その他の場面でも、「自分に快感を与える物事は『意味がある』と没頭し、逆に、自分に不快を与える事物や人や言葉や時間は『無意味である』とあからさまに拒絶する」というように、快不快に伴う価値基準の絶対化が、即、具体的で衝動的な行動に結びつくのが特徴です。

一般的には、例えば、繰り返し「褒められる快感」を味わうことで、強烈な成果主義の虜になります。そして、必死になって、「結果を出して褒めてもらおう(より高い評価を得たい)」と努力するのですが、ごく小さなパターンの変化や、ちょっとした不測の事態に対しても、臨機応変に柔軟に対処する能力を欠くため、つまらない単純な失敗を繰り返します。それでも、めげずに、脇目も振らずに突っ走り続けるので、諦めることを知らない、その姿は、側から見ていると、〝回し車〟をムダに回し続ける、檻の中のモルモットのように見えます。

経験から学べず、事態が改善していく様子は見えません。不都合な事実をそのまま受け止めることができず、常に、自分にとって都合の良い、居心地のよい、勝手な思い込みの中で生きているからです。

この〝思い込み〟が、怒りの起爆源にもなります。

部分だけに集中して、全体が見えず、「自分が本当はどこに向かっているのか、今どの過程にあるのかも、何もわかっていない」のです。それでも、自分の短絡的な価値観を修正することができず、不毛な行動パターンを変えることができません。そもそも、本人は、どこまでいっても変える必要性を感じません。客観的には深刻な問題を、彼らの主観では、さして問題だと思わないのです。

ASDの特徴として、体験から学ぶことができず、内省が苦手なので、失敗は自分以外の何かの所為(せい)にします。度重なる失敗から、うまく責任を回避することを覚えて、不誠実な〝逃げ上手〟〝ごまかし上手〟になる傾向が強いということです。そうなると自分に対しても、他人に対しても、日常的に、ごまかす癖がついてしまうのです。そのせいか、意図せずして、常に、話がずれていきます。

強度の依存症に陥りやすい面もあり、無意識に人を都合よく利用します。また、本当は何もわかっていないのに、わかったフリとか、共感したフリをすることが多くなります。正確に言うと、多くの場合、本人は「わかっているつもり」なのです。しかし、実際には、何もわかっていないので、必然的に話が噛み合わなくなります。それを取り繕う必要が出てくるため、わかったフリをしてしまうのです。

そして、状況から〝自分を変える必要性〟に強く迫られた時には、「自分は精一杯やっている」「これ以上のレベルで改善を求められても無理だ」「どうしていいかわからない」と言うのです。繰り返し、同じ困難にぶつかっては途方に暮れます。あるいは、何度同じ失敗をしても、同じ〝まずいやり方〟で対処しようとします。「自分自身を見つめる」ということが、本当に苦手なのです。苦い良薬は拒絶します。

 

 

特に、子どもが過保護に育てられることの多い現代日本の社会では、多くの場合、ASD・ADHD併存タイプの人が、自己を客観的に見つめ、気づきを得る体験から阻害されています。そのため、大人になっても修正が効かず、症状がさらに悪化していくことが多いのです。

核家族化や地域共同体の解体によって、家族以外の人との濃密な交流の機会が減り、「周囲からの助言や忠告や指導や真摯な批判を受けて、本人が自分の脳の機能の偏りを意識するようになる」、そうした気づきの契機となるイベントが少ないことも問題です。

また、学校では、人間関係は孤立しがちでも、テストの点数は取れて、成績優秀で、教師に高く評価され、さして苦労も感じず、順風満帆であっても、大人になって、社会に出て、家庭を持ったりすると、コミュニケーションの問題や家事の問題が表面化し、ストレスから体調を崩し、心療内科を受診した際に、初めて、自分が『発達障害』であることがわかる、という人も増えています。

この場合、仕事や家庭での人間関係の躓きや失敗や挫折から、評価という報酬を得られない欲求不満と自信喪失と自己評価の動揺とコンプレックスとストレスに苛まれ、うつ病や適応障害などのニ次障害を発症したり、逆に、夫婦関係で、心が通じ合えないことから、配偶者がカサンドラ症候群に陥ったり、本人が自分の正しさへの盲信のあまり、「他者の苦痛に対して痛みを感じることなく、自己中心的・暴君的・独善的・策略的になり、他者を操ることに快感を感じるようになる」ことで、いわゆる〝サイコパス〟的に振る舞うようになる可能性もあります。

 

症状の改善のために、最初のもっとも重要なポイントは「己を知る」ことです。「発達障害」は、遺伝により家族も同じ問題を抱えている場合が多いので、家族ぐるみで問題の解決を図ろうという合意(コンセンサス)が必要になります。

実は、家族の間では、各々が共通する脳機能の偏りを持っているため、問題が問題として認識されないまま、見過ごされ、放置されていることが多いのです。ですから、家族の間で、問題の共通認識を得ることが重要です。

そして、「他者の協力を得て、自分が生きていける環境を整えること」が、状況改善の大前提となります。ただ、あくまでも、自分の意思で生きること、肝心のところでは依存せずに、自分で考えてみること、「どうすればうまくいくのか」ではなく「何が問題の本質なのか」を問い続ける姿勢が大切です。

「現実問題として、どうすればいいかを知らなければ、具体的に動けない」と思うかもしれませんが、「『何が問題の本質か』を知らずして『どうすればいいんだろう』と悩み続ける」という不毛な思考の無限ループの中で、頭の中に、無秩序に大量の情報が積み上げられていき、内面も、意味のないクズ情報の山に埋もれた〝ゴミ屋敷〟と化していく場合が多いのです。

手始めにすべきことは、家の整理と頭の整理、具体的には、物理的生活面での断捨離と、知識面での断捨離、そして、行動習慣や考え方のパターンにおける断捨離です。支援者の状況改善のアプローチもまた、モノと情報と生活上のパターンに対する、つまらないこだわりや執着を「捨てること」「手放すこと」を促すことが重要です。