日本人は、世界で最も不安遺伝子を持つ人の割合が高いと言われます。

この不安遺伝子には、脳内ホルモンの一つである「セロトニン」が関係しています。セロトニンには、不安を鎮め、満足感を与える機能があり、別名「幸せホルモン」とも言われます。

精神の安定に寄与するホルモン「セロトニン」を、脳内で再回収する「セロトニントランスポーター」には、セロトニンの回収・生成量の多い「L型」と、セロトニン回収・生成量の少ない「S型」の2種類があります。遺伝子型では、セロトニン生成量の多い方から、「LL型」>「SL型」>「SS型」の3種類となります。

L型のセロトニントランスポーターを多く持つ「LL型」遺伝子の人は、楽天的・楽観的で、ストレス下でも精神が安定しやすく、S型のセロトニントランスポーターを多く持つ「SS型」遺伝子の人は、悲観的で、緊張症で、ちょっとしたことでも不安やパニックに襲われやすいということです。この「S型」遺伝子が、不安遺伝子と呼ばれるものです。

この遺伝子型の違いによるセロトニン供給量の差は、個人間の差であると同時に、民族差や人種差も観察されます。

一般に、脳内セロトニンの量は、黒人>白人>黄色人種、アフリカ人>欧米人>アジア人の順で、前者が多く、後者が少ないようです。その理由は、「S型」遺伝子保有率の違いにあります。具体的には、黒人(20〜30%)<白人(40〜60%)<黄色人種(70〜90%)と、「S型」不安遺伝子の割合が相当に違います。

特に、日本人は、L型トランスポーターを持つ人が極端に少なく、総人口の3割程度しかいないのに対して、S型を持つ人は、総人口の9割を超えています。それだけ、セロトニン供給量が少ないわけです。

詳細に見ると、日本人の遺伝子型は、「LL型」が2%、「SL型」が28%、「SS型」が70%という調査があります。このうち「SL型」と「SS型」を合わせて、『S型』不安遺伝子保有と呼ぶわけですが、この場合の『S型』不安遺伝子保有率は、日本人では98%と、世界でも突出しているのです。

アメリカの場合、「LL型」が32%、「SL型」が49%、「SS型」が19%ですから、比較して、日本人が、圧倒的にセロトニン不足であることがわかります。特に、日本人の7割を占める「SS型」の人は、慢性的なセロトニン不足に陥っているのです。

脳内のセロトニンが不足すると、向上心や意欲が低下し、イライラ感や慢性的な疲労感が強まり、不眠やうつ症状が現れるようになります。

さらに、脳内のセロトニン分泌量は、視床下部のストレス中枢の興奮によって、抑制されてしまうので、直接的には、ストレスの増加によって、脳内のセロトニンが欠乏します。そうなると、心のバランスが不安定になり、パニックに襲われやすくなったり、暴力的になったり、ボーッとしてしまったりするほか、慢性的な寝覚めの悪さや姿勢の歪み、慢性的な身体の痛み、自律神経失調症などの原因となります。

このため、日本人は、神経質で、何かと悲観的になりがちで、些細なことで、常に不安に苛まれる人が多いと考えられるのです。

環境要因としては、日光を浴びる時間の短さや更年期障害なども、セロトニン不足の原因となります。逆に、ランニングやサイクリングなどのリズミカルな運動によって、脳内セロトニン分泌が促されます。

もっとも大切なことは、感情を揺すぶられる体験を味わうことです。それによって、セロトニンが多量に分泌され、心が鎮まり、ゆったりと寛ぐことができるようになります。

 

 

今回のコロナ禍においても、日本人の神経症・不安症の側面が顕著に現れています。

多くの日本人が、過剰にコロナを恐れる傾向があり、メディアがその不安を煽るので、政府も世論に押されて、必要以上に経済を失速させる政策を打ち出さざるを得なくなります。しかし、そもそもウイルスを国民生活の自粛によって完全に抑えるのは不可能であるため、いつまで経ってもコロナは終息しません。その結果、経済活動の抑制を強いる政府の支持率は下がります。

自民党政府打倒を目的とする左派メディアの狙いはそこにあるわけです。政府を叩くために、コロナも、国民経済も、天皇陛下すら利用しようというのです。政治権力との闘争に勝つために国民を犠牲にして省みない、そのメディアの独りよがりな独善の姿勢は、本末転倒の極みです。

また、日本医師会などは、コロナ患者を扱いたくないので、医師会会長中川氏、尾崎氏ら、いわゆる〝専門家〟たちは、自分たちの既得権益を守るため、また、保身のために、日本のコロナ病床数が少なすぎるとか、コロナ患者を扱う病院が少なすぎるといった不都合な事実を問題とせず、欧米の1/10以下のレベルの感染者数で、「医療崩壊だ!」と国民を不当に脅します。

さらに、その不要で理不尽な医療業界からの脅迫を、専門家コンプレックスの強いメディアが意味もなく増幅させ、不安症の国民を焚き付けて、世論を政府批判へと誘導します。

しかし、政府には、都市を完全封鎖(ロックダウン)する権限もないし、医療業界にコロナ患者を看るように強要する権限もありません。それで、政府は、仕方なく、人流抑制のために、国民に自粛を求め続けることになります。しかし、それでは感染を抑制しきれない。必ず、次の波が来る。その度に、政府への国民の支持は弱まる。メディアの目論見通りです。

一方で、「世界一権限の弱い日本政府に、パンデミックや情報戦やサイバー戦など安全保障と私権制限に関わる問題に際して、より強い権限を与える必要性」についての公の議論は、一番肝心の議論であるにもかかわらず、これまで同様に回避され続けるのです。この情けない状況には、亡国の危険すら感じます。

自粛要請や休業要請によって、国民が経済的に追い詰められるのは、根本的には身勝手に騒ぐ専門家とメディアのせいです。しかし、容易に不安を掻き立てられ、情報の印象操作によって、たやすく誘導されがちな日本国民の不安症の問題でもあります。

これもまた「万事に悲観的で何かと過敏で神経質な国民性」によるものか、「コロナ関連で1万5千人が亡くなった1年半の間に、実は、コロナ関連の2倍の3万人が自殺している」のが、この国の実情です。統計的には、コロナより自殺の方が、問題として深刻です。

さらに、自殺者のほとんどは、うつ病などの気分障害、統合失調症などの精神障害を抱えています。ですから、脳内のセロトニン不足が、自殺の主要な原因となることは明らかです。

「不安」による負のスパイラルが、この国の活力を奪い、国民に生きる希望を見失わせ、死に追いやっているのです。

創業141年(明治13年/1880年創業)の浅草の老舗すき焼き屋「ちんや」が、来月8月16日からコロナ騒動で閉店に追い込まれることになりました。その他にも、昭和の大恐慌や敗戦、大正期の関東大震災やインフルエンザ・パンデミックを生き延びてきた、江戸期・明治期創業の老舗の名店が、次々と廃業に追い込まれています。これは、人災です。

利己的かつ独善的な思い込みと策略によって、ただでさえセロトニン不足で不安症に陥りがちな日本国民の不安を煽りたて、神経症に追いやるマスメディアと専門家たちの凝り固まった偏向姿勢は、長い目で見て、この国を滅ぼす元凶となるに違いありません。コロナへの不安に駆り立てられた市民による自粛警察とか、マスク警察とか、ワクチン強制とか、何もかもが愚かしい限りです。

このように国民を操ることに、罪の意識を感じられない彼らメディアと専門家の精神こそ、サイコパス的と言わざるを得ません。

 

 

私は、オリンピック開催に絶対賛成です。有観客で結構です。

「政府を批判することが正義」「あらぬ不安を掻き立て、国民を反政府に扇動することが使命」という、この国のメディアの左に偏ったあり方には、もう愛想が尽きかけています。

コロナウイルス対策にゼロリスク(感染の終息)を求めるのは誤りです。愚か者の所業です。

そもそも、総人口1億2千万人の国で、1日の感染者数が千数百人であれば、すでに「感染は収束している」と言っていいでしょう。実際、アメリカ人の多くは、人口あたりで日本の3倍の新規感染者を出している現時点で「コロナはすでに収束した」と考えています。マスクもあまりしません。アメリカだけでなく、大抵の国の人々は、不安・神経症の日本人とは、まったく異なる感覚・理解・判断で生きているのです。

しかし、いずれの国・地域においても「収束」はしても「終息」は決してしない。この手のウイルス感染の終息を期待するのがおかしいのです。コロナは風邪ウイルスの一種なのですから、この先、何年経っても、終息する見込みはありません。感染が終息しないのを、政府のせいにするのは、お門違いというものです。

実際、日本以外の国では、コロナ感染が広がっても、政府の支持率はそれほど落ちません。日本の10〜20倍の感染死者を出しながら、ドイツもスウェーデンもフランスもイギリスもアメリカも、日本より政府の感染対策への支持率が高いのです。また、諸外国には、自分がコロナに感染したからといって、日本人のように罪の意識を感じる人は、ほとんどいません。それに比べて、日本人の神経質さは世界的に見て度を越しています。ウイルス感染にまで責任を感じなければいけないというような神経症社会は、はっきり言って病んでいます。

インフルエンザで、毎年、4000〜1万人が亡くなり、その他、通常の風邪ウイルスによる肺炎で、毎年、年間10万人の死者がでる国で、コロナ関連の一年半での累積死者数1万5千人だけを、殊更に問題とするのは、どうしたことなのでしょう。これは、まさに、コロナ・ヒステリーです。

コロナで年間5000〜1万人亡くなるのが、これほど問題なら、例年、コロナと同じレベルで人の命が失われてきたインフルエンザも、同程度の問題として扱われるべきです。また、毎年コロナの10倍の人数が亡くなる〝風邪ウイルスによる肺炎〟は、コロナの10倍怖いはずです。

しかし、風邪の感染拡大で、緊急事態宣言が出されることはありません。風邪の大流行で、人流抑制のために経済を止めたりはしません。風邪の感染予防で、三密回避など気にしません。なぜ、コロナだけが特別なのでしょうか?

そもそも、たとえ仮に、コロナが「終息」したとしても、この国の死者数は、さして減少する見込みはありません。実際、昨年度は、コロナ禍の最中、実は11年ぶりに死亡者数が減少していたことが、超過死亡の減少からわかっています。コロナのおかげで、かえって死者が減っているというのに、何を怯えているのか。本当に、意味のわからない虚しい空騒ぎです。

現在、新型コロナウイルスは、変異によって、感染力は強まれど、弱毒化して、重症化率・死亡率が下がっていき、風邪ウイルス化していく過程にあると考えられます。

もし、今後、変異によってコロナが風邪ウイルス化したなら、風邪のウイルスに対して、ワクチンを打つ必要などありません。誰も打とうとは思わないでしょう。また、風邪の流行で、オリンピックを中止する国などあり得ません。あったら、その国は、歴史に恥を刻むことになるでしょう。

現時点で、コロナウイルスが、どれほどの脅威なのか、冷静に、よく考えてみましょう。

コロナを、必要以上に恐れないことです。メディアに騙されないことです。

以上、考察してきたように、我が国のコロナ禍は、自然との戦いというより、むしろ、専門家やメディアや運動家が煽る不安と疑心暗鬼による社会的混乱、医療業界の自己都合によるコロナ不対応といった人為との戦いという側面が強いのです。

公益より自分の立場を優先させる心ないメディアと専門家による煽動と情報操作と国民意識コントロールに、これ以上、踊らされてはなりません。

このままでは、我が国の国民と政府は、海外からも容易に情報操作されるようになるでしょう。「日本は情報操作に弱い国」と目されて、諸外国に、いいように操られてしまいます。

 

 

橋本聖子五輪組織委員会会長は、こう述べています。

過去のオリンピックは、どの大会も感染症と戦っています。2016年のリオ大会でも、ジカ熱で現地は大変でした。ジカ熱が怖いから、(大会に)こなかった選手もいました。私も、選手団団長として、自国の選手を守るために、独自の対策をしなければなりませんでした。リオでどれほど大変だったか、日本の皆さんには伝わっていないかもしれません。

自転車の大会でも、周辺地域で、エボラ出血熱が発生していて、対策して行った経験があります。(スポーツの大会は、すべての国において、常に、感染症との戦いになっているのです。

また、オリンピックは「平和の象徴」です。すでに、2019年の国連総会で、世界186ヵ国の共同提案で「オリンピック休戦決議」が採択されています。オリンピック開幕の7日前から、終幕の7日後まで、59日間は、世界が休戦するという決議をしてもらっているんです。このような休戦決議を伴う大会・イベントは、オリンピックだけです。たとえ一時的であっても、戦火に怯える人々に安らぎを与えられる。その価値は、決して小さくありません。

ところが、この休戦の意義や重さについてお話ししても、メディアはなかなかニュースにしてくれないのです。

日本が、(オリンピックを中止し)世界との約束を果たせないということになれば、非常に大きな責任問題だと思います。

困難なことをやめるのは誰にでもできます。それをどうやって克服して、日本の素晴らしい力を世界に発信していくのか、そのことが今一番大切だと思うんです。

あらゆる力を結集して前に行こう。それをしないことは、元々日本の持つ素晴らしい文化を、何か、なくしてしまうんじゃないか、という危機感さえ感じます。

 

 

私も、その通りだと思うのです。

東京オリンピック開催に向けての強い意志が感じられ、いろいろあったけど、この人が、会長になって本当に良かったと思います。

その逆に、西村宮内庁長官の発言は、天皇陛下の政治利用によって、メディアのオリンピック攻撃の片棒を担ぎ、東京オリンピック、政府、日本国に打撃を与えようという意図を持った、万死に値する亡国発言と言うべきでしょう。

「(直接そういうお言葉があったわけではありませんが)陛下は東京オリンピック開催が感染拡大につながらないか懸念を抱いていると拝察いたします。」

あの発言ではまるで、天皇陛下が東京オリンピック開催に反対の心情を匂わされたかのように、あるいはオリンピックへの国民の反発を気にして、長官の言葉を介して姑息な保身を図っているかのようにさえ、受け取られる可能性があります。しかし、それが昭和天皇のお孫さんである陛下の困難に立ち向かう姿勢とは、とうてい思われません。まさに、秋篠宮家、あるいは西村長官自身の左派的、あるいは保身的な人格の滲み出た愚かな発言です。

日本国は、東京オリンピックを、力を結集して成功させねばならない。そのために、無私の心で必死に頑張っている人たちがいます。一方では、たかだか累積感染者数が総人口の1%累積死者数が欧米の1/20の感染症に怯えて、オリンピックをするな、と叫ぶ、どうしようもない政府不信の人々や自己中心的で神経症的な不安に取り憑かれた人々がいます。

しかし、繰り返しますが、日本は、絶対に東京オリンピックを成功させなければならない。

国家のメンツというのは、それほどに重いものなのです。メンツを失うことが、結果として、その国の滅亡につながるかもしれない。そういう、ごく当たり前の大局観や危機意識を持たない、大人としての知恵の足りない、〝せこい〟〝みみっちい〟〝情けない〟〝自己中心的な〟〝神経症的でヒステリックな〟日本人が増えすぎたのかもしれません。

私の中国の友人たちは、皆、日本人の態度を理解不能と首を振っています。「オリンピックをやめろって、国のメンツを潰してどうするんだ。」「これは自由ではない、ひどいわがままだ。」「中国人にも、わがままはいるが、こんなことを言うのは許されない、いや、許してはいけない。」

その通りです。実に危ういことです。

「何が危機なのか?」を取り違えないことです。

 

 

私たち、日本人は、偏った情報と印象操作によって増幅された不安に翻弄されるのではなく、不安と闘うことを学ばなければなりません。不安から逃れようとして、かえって「ハメルンの笛吹の笛の音に操られて、一斉に崖から海に飛び込んでいく子どもたち」のような愚かな結末を招く、近視眼的な国民性を、いつまで経っても脱却できないままでは困るのです。

常に、深い哲学と豊かな感情を持って、自らの心を揺り動かし、セロトニンの分泌を促す術を学ばなければなりません。

自ら豊かに生きることが、この国を豊かにすることにつながるような生き方を探らねばなりません。

自分自身と、大切な人と、この国の未来のために。

まずは、せかせかと焦らず、ヒステリックにならず、ゆったりと構えてみましょう。

 

 

繰り返しますが、次々と現れるコロナ変異種は、感染力は強まりますが、その代わりに弱毒化していきます。重消化率も致死率も、次第に低くなります。症状も、風邪に近いものになっていきます。

例えば、デルタ株(インド株)は、アルファ株に対して、感染率は2倍ですが、死亡率は1/20という英国の調査結果もあります。

変異が進むと、ワクチンは効きにくくなりますが、そもそも、風邪レベルまで弱毒化したウイルスに対して、副反応の強いワクチンの接種など必要ありません。ワクチンは、まだ感染者の重症化率が高い初期の段階での緊急対処の一つに過ぎないのです。獲得免疫の抗体も、どうせ、半年程度しか持ちません。変異種には、そのうちワクチン接種で獲得した抗体も効かなくなりますし、ワクチンが唯一の希望だなんて、誤った認識にすがるのはやめましょう。ワクチン接種後の死者数(350人/7月5日現在)も増えていますしね。

感染対策として、手洗いはこまめにすべきですが、屋外ではマスクなど必要ありません。屋内でも、エチケットとしてはマスクも有用ですが、ほとんどの場合、感染対策にはなりません。現在の日本人は、血中酸素濃度をいたずらに低下させてしまうマスク神経症の状態にあります。

リラックスして、セロトニンを分泌させ、自然免疫を高める方が、感染対策としては、はるかに有用です。

たとえ感染者数が、1日に5、6000人程度にまで増えようと、何の問題もありません。

安心して、オリンピックを楽しみましょう。

 

 

歓迎、賛成、東京オリンピック開催!有観客OK!

コロナ神経症に負けるな!

 

 

〈参考〉

イギリス(総人口6665万人)ワクチン2回目接種率50%

1日の新規感染者数2万4千人(7/3) 1日の死者数(1週間平均)17人

日本(総人口1億2630万人)ワクチン2回目接種率13% 

1日の新規感染者数1884人(7/3) 1日の死者数(1週間平均)25人

※デルタ株の割合が50%を超えているイギリスでは、ワクチ接種していない若者の間に感染が広がっているが、重症化率は低く、死者数も低く抑えられている。日本は、ワクチン接種率はイギリスよりはるかに低いが、人口あたりの感染者数はイギリスの1/20以下である。

日本ではデルタ株の割合が10%未満だが、これから増えるだろう。それに伴い、感染者が若年層に若干広がることは間違いないだろうが、ワクチン接種していない若者が感染しても、イギリスの例から推測できるように、重症化率・死亡率は低く抑えられるだろう。

コロナ・パンデミックは、日本においては、これまでも、心配するほどのことではなかったし、これからも何も心配することはない。

 

※※例えば、昭和46年の交通事故死は年間1万6,000人でした。命のリスクをゼロにしたければ、高度経済成長の只中で、日本全土をロックダウンするしかなかったでしょう。

ゼロリスクってアホらしいです。

緊急事態宣言が発令された東京都及び沖縄県内のホテルは、軒並み満室に近く予約が取りにくい現状です。宿泊料金も高いです。ツアーの料金も、6月末と比べて、倍以上に値上がりしています。実際には、本当は誰もコロナなど恐れていなかった。

なぜ、無観客にするかなあ。馬鹿じゃなかろか。

デルタ株という、本来、恐れる必要のないものを恐れている。これも、すべて、ゼロリスクを求める専門家たちとメディアのせいです。感染者数が多少増えようが、重症者数が減少している以上、有観客で行うべきだったのです。

 

 

 

 

 

 

過保護かつ過干渉で、それでいて、欠片も想像力がなく、まったく子どもの内面に理解のない大人たち」の元で、幼い頃から、あまりにもさわられすぎて育ち、強烈な過敏症になり、病んでしまった子供たちの歌です。

この歌が、大人たちが不自然に干渉しすぎ、共感も理解もないままに、自分の「思い込み」に基づいた価値観や教育方針で、とことん圧力をかけて、強制的にひ弱な「よい子」に育ててしまった子供たちの内なる暗い叫びを表現した歌であることに、子どもを愛してはいても、子どもの内面に関心のない親たちは気づきません。

かつての昭和の優等生は、尾崎豊(1983年18歳でデビュー)のように「よい子」の枠からはみ出そうともがきました。そういう意味では、わかりやすかった。その行動力に見合った逞しさやエネルギーがあったとも言えるでしょう。でも、今どきの優等生は、あくまでも、安全な枠の内にとどまり、小利口な「よい子」であり続けようとします。

それだけ、以前にも増して、「よい子」しか愛せない親が増えてきたせいかもしれません。若者の〝枠〟をぶち破ろうとする暴力性に対する社会・大人・親の許容度や理解度が、さらに低くなっているためでもあるでしょう。

 

正しさとは、愚かさとは、それが何か見せつけてやる」という個性的なフレーズで、この奇妙な歌は始まります。

ちっちゃな頃から優等生」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、あなたが思うより健康です」「私が俗に言う天才です」「一切合切凡庸な、あなたじゃわからないかもね」「頭の出来が違うので問題はナシ」と、心の中で、相手の低脳愚鈍さや不潔さへの軽蔑と、自身の優越性と健全さと正しさに対する屈折した誇りを表現しています。

ここで言う「相手」とは、「酒が空いたグラスがあれば、すぐ注ぎなさい」「皆がつまみやすいように串外しなさい」「会計は注文は先陣を切る」などと、不文律に口うるさい上司や先輩に代表される社会人の大人たちです。

「つっても私、模範人間、殴ったりするのはノーセンキュー」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、くせー口塞げや、限界です」「絶対絶対、現代の代弁者は私やろがい」「私も大概だけど、どうだっていいぜ、問題ナシ」と、自分の脳内で、大人の説教をゴミ箱に掃き捨てて、自分こそが『現代の代弁者』であると断言します。

 

「私は狂っているけど、あんたたちは、もっと狂っているだろ!」「寄るな触るな、気持ち悪いんだよ!」「あんたたちには言われたくない!」「私はあんたたちよりはかしこいんだよ!」「構うな!」「もうしゃべるな!」「もうたくさんだ、ウンザリだ!」という優等生のホンネを歌っています。そのホンネからは、『ちょっとでも人に意見されることに耐えられない、強烈で徹底的な拒絶反応』が読み取れます。

けれども、そうした「よい子」たちのホンネは、決して大人たちに向かって直接ぶつけられることはありません。その、誰も語ることのないホンネを表現し得たという点で、syudouさん、Adoさんは、芸術家なのだと思います。

 

 

「うっせぇわ」の作詞・作曲者であるsyudou さんは、1995年(平成7年)生まれの25歳のボーカロイドプロデューサーです。彼が生まれた1995年は、ちょうど、THE BLUE HEARTSが解散した年です。この年のヒット曲には、スピッツの「ロビンソン」やZARDの「マイフレンド」、DREAMS COME TRUEの「サンキュ.」や中島みゆきの「旅人のうた」などがあります。また、前述した尾崎豊は、この3年前、1992年に26歳で亡くなっています。

「うっせぇわ」の歌い手であるAdoさんは、2002年(平成14年)生まれの18歳の覆面女子高生歌手(←2020.10.23リリース時において)です。彼女の生まれた2002年のヒット曲には、元ちとせの「ワダツミの木」や鬼束ちひろの「流星群」、平井堅の「大きな古時計」や小田和正の「キラキラ」などがあります。

とは言っても、この2人が、これら上記の音楽の影響を受けているようには思えませんが。

そして、syudouさんが作詞・作曲し、Adoさんが歌う「うっせぇわ」のYouTube MV再生数は、2021年、6/15時点で、1億5千万回を突破しています。リリースから8ヶ月目に入っても、この曲は、一種の社会現象であり続けているようです。

ただし、この曲の受け止め方には、世代間に大きな断絶があります。10代〜30歳ぐらいの平成生まれの世代は、この曲を受け入れられるのでしょうが、その上の世代は、特に年齢が上なほど、この曲を理屈抜きで嫌いな人が多くなります。

そして、この曲のテーマは、「上の世代の大人どもは、どうしようもないから無視しよう」という10〜20代の若者たちへのメッセージなのです。

 

語られないホンネ、言葉にされない深い想いを、どう受けとめ、どう理解するか』は、現代の親や大人にとって、人と関わって生きていく上で、最大のテーマであると思います。ところが、たいていの大人は、この問題にまったく関心がありません。現代人は、書かれた情報、話された言葉、数値に表されたデータの収集と解析に忙しく、言語化も数値化もされないものに、心を向ける余裕がありません。

 

現代(2020年代/令和)の子どもたちの多くは、親の世代を諦めています。「心が通じ合うことなど決してない」と、とっくの昔に。それでいて、親や大人たちの前では、いい子で通してきたのです。徹底して「よい子」を演じとおす、けっしてホンネを見せない、それがルソーの言う二重の人間性です。そういう「親や大人との共感を諦めた、上辺は優等生の良い子」を育てたのは大人たちです。その大人たちも、実は、人様から何か言われることが大っ嫌いなのです。

彼ら、現代の親たち自身もまた、俗に言う「大人にならない子どもたち」です。自らの〝枠〟や価値観から、一度もはみ出したことのない人たちであり、内なる価値観の崩壊と再構築を経験したことのない人たちです。

そして、もう、その世代が、年齢的にも、実質的にも、社会的には立派な親になっています。

大人になれない親と子が、互いに共依存する社会は、自堕落な上に重苦しく救いがありません。

 

 

子どもにさわらないことです。日本の親は、手をかけて育てるのが当然だと思っていますが、大切なことは、手を出さずに見守ることなのです。あなたが、さわればさわるほど、子どもはおかしくなるのです。

自分の安心のために、むやみやたらに確かめようとせず、子どもを信じることです。土足で踏み込まず、子どもの生きる領域を尊重することです。

踏み込むなら、覚悟を持って、踏み込んでください。理解するために必死に努力してください。

子どもが自分の思う通りになると思わないでください。自分の価値観が揺らぎ、崩れる覚悟もしてください。相手の人生に干渉するなら、自分の人生も変わる覚悟が必要です。

 

子どもは病んでいますが、それに気づかない大人は、もっとおかしいのです。虚弱で過敏でヤワな子どもが問題なのではなく、問題は、そのように子どもを育てた大人の方にあるのです。そのことに気づいてください。

大人の子どもへの接し方、方針や手段が問題なのではなく、大人の生き方、価値観、内面の本質にこそ、変わるべき重大な問題があるのです。

とは言え、とりあえず、私が声を大にして言いたいのは「子どもを監視するな!」「子どもに圧力をかけるな!」「子どもを操作しようとするな!」ということです。

 

子どもの内面を感じられないのは、あなたが、あなた自身の内面をないがしろにして生きてきたからです。

 

平成以降の子どもたちの多くからすると、昭和の大人たちの多くが、自分の言葉が一切通じない「人間の壁」と感じられるのです。煮ても焼いても食えない、石膏ボードのようなモノです。

ひとりよがりの傲慢さ、隠された利己性、無自覚の権力行使と横暴さ、愚鈍さと無教養の臭いを漂わせる、無知愚昧なる精神が構築する社会秩序の暴力性に抗しえない子どもたちの諦念(あきらめ)が、この歌を生んだのです。

 

この歌は〝警告〟あるいは〝事象〟に過ぎません。この病んだ叫びは、あなたの魂の影の部分と一体なのです。そのことに気づきましょう。

 

「子どもは、いつの時代も、こうやって反抗してきたんだ」などと、自分を不自然に納得させようとするのは誤りです。この歌の「反抗」は病んでいる。極度に病的なのです。それは、この国の「人間関係」が、病んでいるためです。関係性そのものが、不自然で歪んでいる、ということです。

病んでいる状態が〝ふつう〟になってしまったことに、異常さと深刻さを感じない大人たち」こそが、一番やっかいな存在なのです。

 

ASD(自閉スペクトラム症)ADHD(注意欠如・多動症)という用語は、「発達障害」と称される〝脳の機能の微細な偏りに起因する症候群〟のうち、それぞれ、ある範囲の症候群を、指します。

この脳の機能の偏りは、あまりに微細であるために、脳の科学的検査によって、物理的・生物学的に明らかにすることはできません。したがって、どちらも具体的な症状から判断するしかないのが現状です。

しかも、どちらも、今のところ、根本治療のための薬はありません。ASDに関しては、症状を軽減するための対処療法の薬さえ、現状では存在しません。身体の成長や、時間の経過によって、大人になったら自然に治るというものでもありません。むしろ、現在では、「脳の機能の偏りは、一生涯続く可能性が高い」と考えられています。

また、ASD、ADHDの人には、非常に知能が高い場合もあり、学習能力が優れている場合もあります。「知的能力障害」ではないのです。

 

ADHDとASDは、共に遺伝的要因が強いと考えられています。兄弟姉妹では50%、親子でも50%の確率で発症します。特に、母子の遺伝確率が高く、母親がADHDの場合は70%、母親がASDの場合には90%の確率で子に遺伝します。ただし、男女の比率は、ADHDで2:1、ASDで4:1と、男性の方が発症率は高いです。

世界人口において、ASDは2%、ADHDは3〜5%存在するとされますが、昨今は「グレーゾーン(境界線上)」の人も加えると、それぞれ10%程度は存在するのではないか、とも言われています。

 

ASDは、1、2歳から発症しますが、ADHDは、少し遅く5、6歳から発症します。また、ASDを発症した人は、60%の確率でADHDを発症します。したがって、「グレーゾーン」の人も加えると、人類の総数のおよそ14%は、ASDとADHDのいずれかの境界線上にあり、人類の6%は両方を同時に発症する可能性があるということになります。また、ハッキリと、ASD・ADHD症状が併存して発症している人が、少なくとも、人類の1%は存在するということです。割合として100人に1人ですね。

ただ、同じように「ASD・ADHDの併存」であっても、人によって〝ASD優位の人〟と、〝ADHD優位の人〟がいます。

 

以前に、ASDとADHDについては、非常に詳しく記述した記事を書いていますので、今回は、この併存症状について考えてみます。かつてはASDとADHDは併発しないものとされていました。その併存が認められたのは、2013年、アメリカ精神医学会の判断基準が更新され、DSM−5が発表されて以降のことです。

また、2010年代以降、世界的に注目されているのは、大人になっても症状が改善しない成人ASDと成人ADHDであり、同時に、それらの併存症状の特性についてのあれこれです。

かつては、発達障害、特にADHDに関しては、大人になるにつれて自然に改善されていくものと考えられていました。ですから、大人になってから、さまざまな生活上の支障が生じ、その症状から「脳の機能の偏りに起因する発達障害」と診断されるべき人も、ほとんどが「本人の性格上の問題」として片付けられていたのです。

「発達障害は、一生涯続く脳の機能の偏りによるもの」と、一般に理解されるようになったのも、ごく最近のことです。そして、研究の進展につれて、今日、『大人の発達障害』は、誰にとっても急速に非常に身近な問題になってきています。

ですから、今回の記事のテーマも、この「成人ASDと成人ADHDの併存について」としました。

 

 

まず、ADHDの機能の偏りについてですが、主に報酬系に強い偏りが見られます。自分が「心地よい」「気持ちいい」と感じる行動が、極端に偏っているのです。そして、その〝快〟へと向かう短絡的な衝動を抑えることができません。常に、どこか興奮気味で、思いつきの行動や衝動買いが多く、何かに熱中すると、ほどほどでやめるということができないのです。一つの行動や趣味や仕事に「はまる」と抜けられません。

また、不快を我慢することもできません。その結果として、自分のしたい行動ならば、どこまでも際限なく続けられるのですが、それ以外のやりたくないことをさせると、不注意から失敗が目立ちます。また、脳が報酬(快)が得られないことから欲求不満に陥り、イライラと落ち着きなく身体の一部を動かしたり、苛立ちから癇癪を爆発させたりします。望まないことを強要されると、怒鳴ったり、なじったり、暴力を振るうこともあります。

ともかく、何事も、まったく辛抱できません。忍耐力がないのです。会話でも、相手の話をさえぎったり、相手が話している上に、かぶせてモノを言う場面が目立ちます。

しかも、その「自分の好きなこと」というのが、非常に単純な「成功報酬(快楽)をストレートに求める行動」になりがちです。逆に、特に苦手なのは、「段取り」と「鳥瞰図的視点」と「時間配分」と「複数の作業を同時にすること」が求められる仕事です。例えば〝大掃除・整理整頓・後片付け〟〝料理〟など、ともかく家事全般が苦手なのです。そして、面倒なことや苦手なことは、常に後回しにします。

「後でやろう」「明日やろう」といつまで経っても、掃除・整理・後片付けが始まらないので、部屋はどんどん散らかっていきます。しかし、散らかっていること自体が気にならないわけではなく、本人も、うんざりしてはいるのですが、どうしても作業が進まないのです。

また、ADHDの人は、複数の情報を瞬時に総合して臨機応変に柔軟に対処することができないので、アクシデントに弱く応用がききません。要点をまとめることが苦手で、物事の優先順位をつけられません。そのため、簡潔に話すのが大の苦手です。

加えて、注意が一点に注がれると、集中し過ぎて、その他のことが、どうでもよくなります。ところが、一つのことに取り組んでいても、何かのきっかけで別のことに注意が逸れると、今度はそっちに夢中になり、さっきまでしていたことを忘れてしまいます。だから、後片付けも、忘れてしまうのです。次から次へと、やり散らかすばかりです。

切り替えがうまくできず、気が散りやすく、それが原因で、単純な〝うっかりミス〟を頻発することにも繋がります。

これは、ADHDの脳が、複数の情報を同時に解析することができないためです。一度に幾つもの情報が入ってくると、彼らの脳はパンクしてしまうのです。

話す時は、自分の関心ある話題について、猛烈な勢いで、いつまでも話し続ける一方で、自分の守備範囲の外の話題については、唖のように黙ってしまいます。とても気まぐれで、わがままで、飽きっぽく、時に理不尽に見えます。それは、常に、自分が「気持ちよくなるもの」にしか興味がないからです。

ADHDの症状を示す人は、一般に生きることに貪欲であり、サバイバル能力に秀でています。

 

次に、ASDの機能の偏りについてですが、主に記憶回路に強い偏りが見られ、感覚過敏感覚鈍麻もあります。ASDの人は、体験したこと、その時、感じたことを、丸ごと正確に記憶してしまう一方で、その時、自分が感じた感覚や体験を絶対的な判断基準として、その後、2次的な体験によって修正されることなく、いつまでも持ち続けます。過去の嫌な体験を、繰り返し思い出して再体験してしまい、イライラやストレスから抜け出せないこともあります。自分のさまざまな体験を、統合的に概念化・客観化・一般化したり、自己の体験を内省して成長の契機とすることが難しいのです。

そのため、第三者からは、「変化を異常に嫌い、自分の感覚や体験に極端に執着し、そこから生まれた判断基準や価値観を絶対視している」ように見えます。言わば、一度、頭の中に記憶の名画(迷画?)が完成してしまうと、劣化はせず、修復要らずですが、二度とその上に新しい絵を描くことができないキャンバスのようです。

中には「レインマン」のように、写真的記憶力を持つ人もいます。概して文字や数字に強い興味を持ち、単純計算や丸暗記が得意です。「人よりも、モノ(道具や機械)や知識・情報に強い関心を持つ」傾向があります。ところが、手先は不器用で、モノの取り扱いは、ぎこちないのです。運動も、球技などは苦手です。

文脈や状況を考えず、相手の表情やトーンから感情を読めず、言葉を字義通りに受け取ってしまうのも、ASDの目立った特徴の一つです。「鶏小屋を掃除して、全部綺麗にしてね」と言われた養護学校の生徒が、鶏小屋のニワトリをぜんぶ締め殺してゴミ袋に詰めて小屋を全部綺麗にしてしまったことがありますが、本人は言われた通りにやったつもりなのです。

また、相手も同じことを知っているという前提(勝手な思い込み)で話をしたり、状況判断ができずに場違いな発言をしたり、相手の発言を思い込み(自己中心的な妄想)で取り違えたりします。ともかく「相手の立場に立って考えることができない」のです。

一般に、言葉の使い方がぎこちなく、かたい言い回しが多く、敬語の使い方が不自然だったり、会話が噛み合わなかったりします。比喩表現や遠回しな表現が苦手で、言外の意味を受け取れず、皮肉が通じず、心理的な文脈を把握できないことから、共感的なコミュニケーション(気持ちのキャッチボール)が苦手です。ですから、人の言葉や歌や詩や物語に、心を動かされるということがないのです。

行動する時は、一点に集中してしまうために、周りがまったく見えなくなります。「融通がきかない」「空気が読めない」ということもあります。逆に、音楽が鳴っていると、気が散って、人の話に集中できないとか、複数の人と話をしていると、混乱しやすいという面もあります。不安を感じると、過敏な神経をなだめようとして、同じフレーズを繰り返したり、同じ動作を続けたり、唇や頬をさわったり、そっとなでたりする仕草に特徴があります。

また、ASDの脳は、次に起こることを予測する直観的想像力に欠けているため、未知の世界に飛び込むことに、恐怖感を感じることから、同じパターンの単純な行動を繰り返すことで安心感を得ようとします。それが、「非常に限られた範囲の物事への強い関心と執着」と見えるのです。〝木を見て森を見ず〟という態度が一般的なのです。一般に誰でも気にするようなことは無視して、普通であれば気にしないような「非常に細かい特定の物事に対して、強いこだわりと関心を持つこと」に、ASDの特徴が見られます。

一方で、予期せぬ事態にはパニックを起こし、完全に固まってしまいます。心の余裕とか、柔軟性とか、臨機応変の応用力というものが、かけらもないのです。

ただし、ASDの症状を示す人の多くは、一般に知能指数が高く、本人の興味のある分野においては、突出したスペシャリストとなることも少なくありません

 

では、上記のADHDとASDの症状が併存している人の場合はどうでしょうか。

ADHDの短絡的で単純化された報酬系回路と突発的行動衝動が、ASDのモノや情報への執着という特性に拍車をかけるために、モノの収集癖が強まると同時に、情報を得ることにも強い快感を感じるようになります。その上、片付けや整理がまったくできず、モノを捨てられないので、家は大量のモノやデータを無秩序に積み上げた〝ごみ屋敷〟になります。しかも、全体を見る注意力を欠くために、その足の踏み場もない状態が、本人はまったく気になりません。

さらに、ASDの偏った記憶機能によって、自分の体験や、その時感じたことを、絶対的なものとして行動・判断の基準としている上に、ADHDの単純報酬回路を通して、同じ快楽体験を求める強い衝動を感じて行動しますから、その時、そこで感じた快感を、繰り返し〝最高に価値あるもの〟として記憶を上書きして、遂には絶対化してしまいます。思い込みが激しいどころではなく、その自分の判断に、疑いを挟む余地が一切なくなります。どんな新しい情報や体験によっても、その凝り固まった〝習癖〟から、心が解き放たれることはありません。あらゆる趣味行為において、中毒に陥る可能性が、非常に高くなります。

人並み以上に記憶はするのですが、それが、情報の集積だけに終わってしまい、情報を取捨選択・整理統合することができないからです、ある意味、頭の中も〝ゴミ屋敷〟になってしまうのです。

そのため、話し合いにおいては、相手の話をまったく聞こうとせずに、自分の言いたいことを一方的にまくしたてる場面が多くなります。全体の話の流れが頭に入らないので、部分的で瑣末でどうでもいい事柄に、話が無限ループし続けます。

その他の場面でも、「自分に快感を与える物事は『意味がある』と没頭し、逆に、自分に不快を与える事物や人や言葉や時間は『無意味である』とあからさまに拒絶する」というように、快不快に伴う価値基準の絶対化が、即、具体的で衝動的な行動に結びつくのが特徴です。

一般的には、例えば、繰り返し「褒められる快感」を味わうことで、強烈な成果主義の虜になります。そして、必死になって、「結果を出して褒めてもらおう(より高い評価を得たい)」と努力するのですが、ごく小さなパターンの変化や、ちょっとした不測の事態に対しても、臨機応変に柔軟に対処する能力を欠くため、つまらない単純な失敗を繰り返します。それでも、めげずに、脇目も振らずに突っ走り続けるので、諦めることを知らない、その姿は、側から見ていると、〝回し車〟をムダに回し続ける、檻の中のモルモットのように見えます。

経験から学べず、事態が改善していく様子は見えません。不都合な事実をそのまま受け止めることができず、常に、自分にとって都合の良い、居心地のよい、勝手な思い込みの中で生きているからです。

この〝思い込み〟が、怒りの起爆源にもなります。

部分だけに集中して、全体が見えず、「自分が本当はどこに向かっているのか、今どの過程にあるのかも、何もわかっていない」のです。それでも、自分の短絡的な価値観を修正することができず、不毛な行動パターンを変えることができません。そもそも、本人は、どこまでいっても変える必要性を感じません。客観的には深刻な問題を、彼らの主観では、さして問題だと思わないのです。

ASDの特徴として、体験から学ぶことができず、内省が苦手なので、失敗は自分以外の何かの所為(せい)にします。度重なる失敗から、うまく責任を回避することを覚えて、不誠実な〝逃げ上手〟〝ごまかし上手〟になる傾向が強いということです。そうなると自分に対しても、他人に対しても、日常的に、ごまかす癖がついてしまうのです。そのせいか、意図せずして、常に、話がずれていきます。

強度の依存症に陥りやすい面もあり、無意識に人を都合よく利用します。また、本当は何もわかっていないのに、わかったフリとか、共感したフリをすることが多くなります。正確に言うと、多くの場合、本人は「わかっているつもり」なのです。しかし、実際には、何もわかっていないので、必然的に話が噛み合わなくなります。それを取り繕う必要が出てくるため、わかったフリをしてしまうのです。

そして、状況から〝自分を変える必要性〟に強く迫られた時には、「自分は精一杯やっている」「これ以上のレベルで改善を求められても無理だ」「どうしていいかわからない」と言うのです。繰り返し、同じ困難にぶつかっては途方に暮れます。あるいは、何度同じ失敗をしても、同じ〝まずいやり方〟で対処しようとします。「自分自身を見つめる」ということが、本当に苦手なのです。苦い良薬は拒絶します。

 

 

特に、子どもが過保護に育てられることの多い現代日本の社会では、多くの場合、ASD・ADHD併存タイプの人が、自己を客観的に見つめ、気づきを得る体験から阻害されています。そのため、大人になっても修正が効かず、症状がさらに悪化していくことが多いのです。

核家族化や地域共同体の解体によって、家族以外の人との濃密な交流の機会が減り、「周囲からの助言や忠告や指導や真摯な批判を受けて、本人が自分の脳の機能の偏りを意識するようになる」、そうした気づきの契機となるイベントが少ないことも問題です。

また、学校では、人間関係は孤立しがちでも、テストの点数は取れて、成績優秀で、教師に高く評価され、さして苦労も感じず、順風満帆であっても、大人になって、社会に出て、家庭を持ったりすると、コミュニケーションの問題や家事の問題が表面化し、ストレスから体調を崩し、心療内科を受診した際に、初めて、自分が『発達障害』であることがわかる、という人も増えています。

この場合、仕事や家庭での人間関係の躓きや失敗や挫折から、評価という報酬を得られない欲求不満と自信喪失と自己評価の動揺とコンプレックスとストレスに苛まれ、うつ病や適応障害などのニ次障害を発症したり、逆に、夫婦関係で、心が通じ合えないことから、配偶者がカサンドラ症候群に陥ったり、本人が自分の正しさへの盲信のあまり、「他者の苦痛に対して痛みを感じることなく、自己中心的・暴君的・独善的・策略的になり、他者を操ることに快感を感じるようになる」ことで、いわゆる〝サイコパス〟的に振る舞うようになる可能性もあります。

 

症状の改善のために、最初のもっとも重要なポイントは「己を知る」ことです。「発達障害」は、遺伝により家族も同じ問題を抱えている場合が多いので、家族ぐるみで問題の解決を図ろうという合意(コンセンサス)が必要になります。

実は、家族の間では、各々が共通する脳機能の偏りを持っているため、問題が問題として認識されないまま、見過ごされ、放置されていることが多いのです。ですから、家族の間で、問題の共通認識を得ることが重要です。

そして、「他者の協力を得て、自分が生きていける環境を整えること」が、状況改善の大前提となります。ただ、あくまでも、自分の意思で生きること、肝心のところでは依存せずに、自分で考えてみること、「どうすればうまくいくのか」ではなく「何が問題の本質なのか」を問い続ける姿勢が大切です。

「現実問題として、どうすればいいかを知らなければ、具体的に動けない」と思うかもしれませんが、「『何が問題の本質か』を知らずして『どうすればいいんだろう』と悩み続ける」という不毛な思考の無限ループの中で、頭の中に、無秩序に大量の情報が積み上げられていき、内面も、意味のないクズ情報の山に埋もれた〝ゴミ屋敷〟と化していく場合が多いのです。

手始めにすべきことは、家の整理と頭の整理、具体的には、物理的生活面での断捨離と、知識面での断捨離、そして、行動習慣や考え方のパターンにおける断捨離です。支援者の状況改善のアプローチもまた、モノと情報と生活上のパターンに対する、つまらないこだわりや執着を「捨てること」「手放すこと」を促すことが重要です。

 

 

 

 

インドでは、日本のマスコミが「世界最悪」と騒ぐほどには、コロナ感染が広まっていない。

 

「インドでは1日の新規感染者数が40万人(10万人あたり28人)だ」とか「今は20万人だ」とか、いかにも大変そうな数字を挙げて、この国のメディアは、連日、大げさに騒ぎたてているが、本当に頭がおかしい。どうかしている。

インドの人口は13億8000万人だ。人口3億3100万人のアメリカの4倍以上である。アメリカはピーク時には、1日25万人の新規感染者(10万人あたり75人)を出していた。現在でも、1日3万人程度(10万人あたり9人)の新規感染者を出している。

現在のインドの新規感染者は1日20万人程度(10万人あたり14人)だが、人口比で考えると、1日の感染者数は、現在、コロナからの順調な回復を喜んでいるアメリカの2倍もないのである。さらに、最盛期同士で比べると、インドの感染者数はアメリカの半分以下だ。

また、ブラジルは、ピーク時で1日の新規感染者数が8万人、現在でも、1日6万5000人程度である。しかし、ブラジルの人口は2億1260万人で、インドの1/6以下だから、人口比で考えると、現在も、インドのピーク時を超える感染者(10万人あたり30人)を、連日、出している状況だ。

フランスは、ピーク時で1日に5万人以上、現在でも毎日1万人以上の新規感染者を出している。フランスの人口は6530万人で、インドの1/20以下である。人口比で考えると、フランスは、ピーク時には、インドのピーク時の2.5倍の新規感染者を出していた。そして、現在でも、人口あたり(10万人あたり15人)ではインド以上に多くの感染者を出している。それでも、フランスはピーク時でさえ医療崩壊など起こさなかったし、今では、フランス政府は、「感染状況がある程度収まってきたから」と、ロックダウンからの大幅な規制緩和を始めているのだ。

現在のインドの新規感染者数は、スリランカ(10万人あたり13人)と何も変わらない。

 

コロナ関連死者数で考えても、「インドは累計死者30万人を超えた」とメディアは騒いでいるが、人口比ではフランスの1/7以下、アメリカの1/8以下、ブラジルの1/9以下である。実際には、インドの死者は累計100万人を超えているという見方もあるが、そうだとしても、人口比で考えるとフランスの1/2以下である。インドの累計死者数は、人口比では、せいぜいフィリピンやインドネシアに毛が生えた程度なのだ。

医療体制の充実度の違いから考えても、先進的医療を持ちながら、大量の死者を出している欧米と比べて、インドの死者数が、メディアで騒がれているほど深刻な数字とは思われない。もっと深刻な事態に陥っている国はいくらでもある。

例えば、今、現在の感染状況で考えても、南米諸国の方が、はるかに事態は深刻なのだ。

現在、インドの1日の死者数は4000人程だが、人口4494万人(インドの1/30以下)のアルゼンチンでは、5/25現在、連日3万人の新規感染者を出し、1日の死者は500人ほど、累計死者数は7万5000人にのぼる。1日の新規感染者数(10万人あたり67人)でも1日の死者数でも累計死者数でも、人口比でインドの3〜7倍の被害と犠牲を出している。

人口5000万人(インドの1/27以下)のコロンビアでは、5/25現在、連日2万人の新規感染者(10万人あたり40人)を出し、1日の死者は500人弱、累計死者数は8万5000人を超える。こちらも人口比でインドの3〜7倍の被害と犠牲を出している。

ロシアだって、人口比でインドの4倍の累計死者数を出している。結局、欧州や米大陸に比べると、アジアのコロナ禍は、最小限で被害が抑えられている。変異種が生まれても、その状況に大きな変化はない。

 

「マレーシアが、人口比でインドの1日の新規感染者数を超えた(10万人あたり21人)」というニュースもあるが、これもくだらない。そもそも、インドの感染者数が大したことないのだから、それを超えるのは、どこの国でも簡単である。マレーシアの感染者数も、実は大したことないのだ。

なぜ、このように中身のない空ニュースで騒ぐのか。

 

沖縄だって、全国ニュースでは、1日の新規感染者が300人を超えたとか、人口あたりでは1日の感染者が国内で過去最高(10万人あたり20人超えた←インドを超えている)と言われているが、住んでいる実感としては、そんな緊張感はどこにもない。

レストランは、お客さんでいっぱいで、年寄りも、みんな、集まって楽しく食事している。警戒心とかストレスとか不安とか、県民には無縁の世界だ。もちろん、マスク会食など誰もしない。

中学生も高校生も、部活動の県大会が行われている。当然、大会前の練習も普通に行われている。小中高、授業はすべて対面授業だ。多少のクラスターは出ているが、子どもたちは基本的に無症状が多い。

那覇市内の居酒屋は、さすがに、ここ数日、ほとんど夜店を閉めるようになったが、それは、これまで玉城デニー知事が休業要請出さなかったのが悪い。沖縄は飲み屋が多すぎる。酔っ払った琉大生が、大学構内で、留学生をクルマで轢いた事件があった。老いも若きも、酒飲みの無軌道ぶりは目にあまる

県民は、何もコロナに怯えていない。気にしていない。日常生活には、それぞれの個人にとって気がかりなことは、他にいくらでもあるからだ。

実際、私の親戚や知り合いで、コロナに感染した人など、これまで一人もいない。

だから、沖縄県民の多くは、コロナの心配などしていない。そもそも、この県の感染者数、死者数は、インドやマレーシア同様に、何も高くないからだ。騒いでいるのはメディアだけだ。

それでも、この国が医療崩壊に陥るとしたら、それはコロナのせいではない。実際の理由は、医療システムが、まともに機能していないからだ。欧米では、日本の10倍以上の感染者を出しても、医療崩壊など起こさない。医師会という利益団体がのさばっているうちは、いつまでたっても、この国の医療は、公益性あるシステムとして機能しないだろう。

コロナの蔓延で、一つ良かったことは、「医師会が利己的な圧力団体であること」が世に知られたことと、「メディアが一切それを正面から批判しない、ワクチンの批判もしない、製薬会社と病院の既得権益の守護者であること」が明らかになったこと、「市民が簡単に老人ホームに入れなくなったこと」ぐらいだろうか。

 

どうして、この国のメディアは、これほどまでに印象操作が大好きなのだろうか?

国民を不必要に怖がらせて、楽しんでいるとしか思えない。

実に悪質である。

「コロナは怖いぞ、家から出るな、ワクチン打て!」と言いたいのだろう。

その意図は、「コロナ怖い!」→「頼みの綱はワクチンだけ!」→「早くワクチンを打とう!」という意識を国民に喚起させ、そのように国民の行動を誘導することにある。

コロナ禍とワクチンの問題は、本質的には「病院の営業の自由」「圧力団体としての医師会・医療機関側の利益」と「個人の自己決定権と幸福追求権」「デパート・映画館などの営業の自由」と「国家の安全保障(自衛権)」の三つ巴のぶつかり合いだ。メディアが、そのうち一方に加担してどうするのだ。

政府がゼロリスクを求める国民に引きずられるのは、ある程度、仕方がないとしても、メディアがメガファーマの手先になってはいけない。

 

ドイツのメルケルさんは12才以上に接種を決めたとか、海外メディアや知識人らの「ワクチン信仰」は、さらに狂信的ではあるが、日本の専門家やメディアは、海外メディアの報道の論調を無批判に取り込み、影響をもろに受け、容易に同じ色に染まりやすい。しかも、「欧米リベラル・メディアと同じ色(思想)に染まって同化できた自分を誇りに思う」という、実に屈折した欧米至上主義のコンプレックスに心を支配されている人が多い。

残念なことである。

 

そもそも、毎年、風邪ウイルスによる肺炎で9万人が亡くなっている国で、なぜ、わずか1万2000人のコロナウイルス関連死だけが、ここまでクローズアップされ、問題視されるのか?

騒がず、静かに、普通に暮らしていれば、コロナなど我々の敵ではない。

そもそも、我が国では総人口の1%(120万人)しか感染していない、そして、新型インフル並みの死者(1万2000人/総人口の0.01%)しか出ていないウイルス感染を抑えるのに、長期的な副反応や後遺症のはっきりしないワクチンに頼る必要などまったくないのだ。

12歳以上に接種するとか、まともな判断力も失っているようだ。コロナ以前に、脳が既に新種の別ウイルスに侵されてしまっているのか。

 

それにしても、ここまでメディアの情報が操作されるのは、「コロナ・ワクチン接種で妊娠を抑制して、『口減らし』のために、人類の増え過ぎた人口を減らそう」という世界的な裏の合意でもあるのだろうか?

日本でも、これから職場でのワクチン接種が始まると、間違いなく強い同調圧力に晒されることになるだろう。医療従事者たちの場合と同様に、未知のワクチンなど本当は打ちたくない人たちが、さらに大勢、嫌々ながら仕方なく接種をすることになるに違いない。

 

 

 

〈沖縄県内の10万人あたりの陽性者数(5/26〜6/1)〉

①与那国町→291人

②石垣市→218人

③浦添市→180人

④沖縄市→162人

⑤宜野湾市→162人

⑥那覇市→156人

⑦西原町→136人

⑧北中城村→133人

⑨宮古島市→110人

⑩北谷町→103人

⑪嘉手納町→102人

⑫うるま市→98人

⑬豊見城市→96人

⑭八重瀬町→93人

⑮南風原町→91人

⑯恩納村→91人

⑰名護市→74人

⑱伊是名村→70人

⑲宜野座村→66人

⑳与那原町→66人

㉑糸満市→63人

㉒中城村→56人

㉓南城市→46人

㉔金武町→43人

㉕読谷村→41人

 

 

 

私はワクチン接種拒否派であるが、反ワクチン派ではない。

私は「自分はワクチンを打たないが、打ちたい人は、自己責任で打てばいい」と考えている。

ワクチン接種は強制ではない。個人の判断に任されている。つまりは、自己決定権の問題である。自己決定のために重要になるのは、当然、判断に必要な情報の提供、いわゆるインフォームド・コンセントの充実だ。

この場合の〝情報〟とは、ワクチンを接種しない場合のリスクと、接種した場合のリスクとを比較検討するための、できるだけ正確なデータである。このデータを参照・分析することで、私たちは、ワクチン接種が適切かどうか、正しい判断を行うことが可能となる。

 

今日、5月20日、モデルナ社・アストラゼネカ社の2種類のワクチンが、日本政府によって新たに認可される予定である。これにより、これまで使用されてきたファイザー社のワクチンを加えて、3種類のワクチンが、国内で使用されることになるだろう。

今後は、65歳未満の若い人たちにも接種が広がっていく予定だ。

 

ワクチン接種時のリスクについて、重要なことは3つである。

そのうちの一つは、「副反応について」である。いずれのワクチンにおいても、インフルエンザ・ワクチンなどとは比較にならないほど、強い副反応が高い確率で現れている。その主な症状は、発熱、頭痛、立ちくらみ、局所の痛み、全身の倦怠感である。その他、全身の筋肉痛、手の震え、吐き気、悪寒、リンパ腺の腫れなどが、数日から一週間程度続くことが多い。筋肉注射した側の腕が赤く腫れ上がったり、筋肉がひきつって腕が上がらなくなる人もいる。

ワクチンの「効果について」の情報も、また、重要である。加えて、ワクチン接種の「長期的影響について」も、誰もが知りたいだろう。

 

 

 

副反応について

副反応は、男性より女性に、老人より若者に、より強く現れる。接種時の副反応は、ワクチンに対する身体のアレルギー反応であり、自然免疫が強い健康な人ほど反応が激しく現れるため、コロナに対する自然免疫が比較的強い東アジア系の若い女性が、より強い副反応を引き起こす可能性が高い。

実際、日本では、ファイザー製ワクチンを、医療従事者380万人に1回の接種、120万人に2回の接種を終えているが、副反応がまったく現れないほうが珍しいくらいで、特に、20代の医療従事者では、2回目接種時に、全体の7〜8割に何らかの目立った副反応が現れたという報告もある。医療従事者全体でも、6人に1人が、38〜40度の高熱を出し、数日間は解熱剤を使用しても熱が下がらなかったと報告されている。

高齢者は副反応が比較的軽いとは言われるが、これも絶対ではない。例えば、イギリスでは、76歳のエリック・クラプトンが、アストラゼネカ製ワクチンを接種したが、1度目の接種時には10日間、2度目接種時には14日間、激しい副反応が続いた。全身に感覚の麻痺が生じて寝込んでしまい、二週間、まったく起き上がることができず、「2度と音楽ができない身体になるのではないかと不安になった」と述べている。

 

②副反応は、アストラゼネカ製では、1回目に強く現れ、ファイザー・モデルナ製では、2回目に強く現れる傾向がある。アストラゼネカ・モデルナ製は、ファイザー製の2倍以上の確率で強い副反応が現れる。

また、例えば、1回目にアストラゼネカ製を、2回目にファイザー製をと、それぞれ別のワクチンを接種した場合、2度ともアストラゼネカ製を接種した時と比べて、2回目接種時の副反応の確率が跳ね上がる。副反応が厳しくなる一方で、獲得免疫はしっかり得られるようだ。

 

③まれに、ワクチン接種直後に、じんましんや唇の腫れ、咳や息苦しさや呼吸困難、下痢や嘔吐、血圧低下や意識障害などを含む、アナフィラキシー反応が起こり、重いショック症状では昏睡状態に陥ることもある。ひどい場合には、数ヶ月にわたって入院を強いられたり、亡くなることもある。これも、ワクチンに対する急性のアレルギー反応の一種である。

さらに、例えば、アストラゼネカ製の接種に伴う自己免疫(アレルギー)反応として、中枢神経系の異常が起こり、急性横断性脊髄炎を発症する事例が複数ある。

一般に、アナフィラキシー反応は、アストラゼネカ製>ファイザー製>モデルナ製の順で、高頻度で起こる。

しかし、日本では、ファイザー製ワクチンの医療従事者への接種が進むにつれて、英米の10〜40倍の頻度でアナフィラキシー反応が報告されており、これはワクチンの種類による差ではなく、民族的なコロナへの自然免疫の差によるものと考えられる。

世界的に男性(10%)より圧倒的に女性(90%)に多い。年齢的には、40代を中心に18歳〜50代で起こっている。これから、10代への接種が進むと、激しいアナフィラキシー反応を起こす人も増えるかもしれない。

しかし、このアナフィラキシー反応は、コロナに感染した時にも、さらに高い頻度で起こると言われる。

 

④これも、まれな反応だが、血管中に血栓が生じて、脳内出血や心筋梗塞や腸の壊死を起こし、死に至ることもある。アストラゼネカ製では、ファイザー・モデルナ製より、この血栓が生じやすい。また、血栓は、老人より若者に、男性より女性に生じやすい

基礎疾患のまったくない18歳〜50代の健康な成人男女が、ワクチン接種後に血栓が生じたことによる出血性脳卒中や心疾患によって、世界中で亡くなっている。今後、10代の接種が増えると、10代でも血栓が生じることによる死亡が増えるものと思われる。

そのため、アストラゼネカ製ワクチンは、イギリスでは40歳以上に推奨され、ドイツ・スペインでは60歳以上に限定されている。また、カナダの一部の州、デンマーク、ノルウェーでは、アストラゼネカ製ワクチンは使用を中止している。ブラジルでは、妊婦への使用が中止されている。オーストリアも、6月から使用中止の予定である。

この血栓が生じるリスクの高さは、アストラゼネカ製と同タイプのアデノウイルス・ベクター・ワクチンに共通する特性と考えられている。同タイプのワクチンには、アメリカのジョンソン&ジョンソン、ロシアのスプートニクVなどがある。

また、ファイザー、モデルナでは、絶対に血栓が生じないとは言い切れない。ファイザー製ワクチンを接種した後で死亡した日本の医療従事者に、圧倒的に多い死因は、出血性脳卒中や心疾患であり、この原因が血栓が生じたためである可能性は拭えない。

ただし、コロナ感染時には、ワクチン接種時の10倍の確率で血栓が生じるという研究報告もある。

 

 

効果について

①老人より若者で、効果は持続する。老人の場合は半年、若者は1年で、ワクチンの効力はなくなると考えられている。半年から1年で、再び接種する必要がある。

②変異種への効果については、アストラゼネカ製ワクチンは、南アフリカ株には、ほとんど効果がない。一方で、ファイザー・モデルナ製も、南アフリカ株には、効果が半減する。インド株に対する効果は不明。ウイルスの変異は速いので、遅かれ早かれ、現在のワクチンでは効かなくなる。

③その他の変異種では、一般に、感染率を、ファイザー・モデルナ製で90%以上、アストラゼネカ製で70%程度減らすことができると考えられている。

 

 

身体への長期的影響について

今のところは、まったく不明である。

一般に、自然免疫の弱化によるワクチン依存症の問題などが、指摘される。

明石家さんまさんが、「自分は、これまで一度もワクチンを打ったことがないので、もしコロナワクチンを打ったら、身体が変わってしまうから打たない」と言ったのは、この意味においてであろうと考えられる。

たとえウイルスが身体に侵入しても、自然免疫が十分に働けば、侵入したウイルスを、速やかに撃退することができる。その場合は、獲得免疫がなくとも、ウイルスには感染しない。欧米人よりも、アジア人、特に中国と周辺国は、コロナに対する自然免疫は強いようだ。

一方で、明石家さんまさんのように、ワクチンを打つことで、ウイルス感染後と同様に、自然免疫の硬直化が進み、むしろ、身体全体の免疫機構のバランスが崩れることを心配する人は多い。

事実、子どもがコロナに感染しにくいのは、子どもの身体の自然免疫が、大人よりも柔軟にウイルスに対処することができるためと考えられている。

日本では、コロナ・ワクチンの接種可能年齢を、16歳以上としているが、身体への長期的影響についてわかっていない以上、コロナ感染によって命を失う危険性がほとんどない10代の若者の接種には、私は反対だ。

また、妊婦への接種による胎児への影響についても、まったく不明である。ASDなどの発達障害、喘息、アトピーなどのアレルギーを誘発する懸念について心配されているが、最低でも数年は経過を観察しなければ、何もわからない。

もう一つ、気になる情報は、ファイザー・モデルナといったmRNAワクチンは、女性の胎盤形成を阻害する自己免疫反応を生じさせる可能性があるというものである。女性の不妊化につながるというのだ。

いずれにしても、現状、来年、再来年までは、世界規模でワクチンの治験が続いているものと考えた方がいい。

もちろん、コロナに感染した人にも、人によって、さまざまな後遺症があることが知られている。この後遺症の中には、回復まで長くかかるものもある。

 

 

 

新型コロナウイルスの感染は、若者より老人に、女性より男性に、高い頻度で発症する。重症化率、死亡率も同じだ。

これまでのところ、日本国内で、10代のコロナ感染関連死者はゼロである。20代では4人だが、そのうち3人は基礎疾患があり、1人は基礎疾患のない健康な男性であった。今のところ、20代の健康な女性のコロナ感染関連死者は出ていない

したがって、我が国の10代の男女と20代の女性には、ワクチン接種をためらう十分な理由がある。ワクチンを接種する方が、接種しないよりリスクが高い可能性があるからだ。

また、欧米に比べて、感染率が人口の1%程度と極端に低く、コロナ関連死者数も、欧米の1/20しか出ていない日本人が、未知のワクチン接種をためらうのも理解できるところである。

健康な10代・20代のオリンピック・アスリートに、ワクチン接種を義務付けるのも、私は絶対に反対する。例えば、ロシアの10代の体操選手が、スプートニクVの接種をためらうのは当然である。選手生命どころか、命にも関わる選択を強いることになる。

ロシアでは、ワクチン接種拒否派の割合は60%を占める。この数値も、理解できないものではない。

 

我が国では、総人口の10%がワクチン接種拒否派と考えられている。接種を迷っている人も含めると、全体の3割程度と思われる。さらに、「今すぐには打ちたくない人」を含めると、4割近い。その人たちに接種を強いてはならない。ワクチン接種を拒否するのは、接種するリスクとしないリスクを考慮して、自ら決断する個人の権利の行使である。

医療従事者の10%が、ワクチン接種を拒否したのも、上記のワクチン接種リスクを重視したためであり、当然の権利の行使でもある。「今打たなければ、後で打とうと思ってもできないよ」などと脅す不逞のやからの暴言も、医療従事者の風上にも置けぬ、言語道断、極悪非道の所業である。人権無視も甚だしい。

それでも、日本人は、欧米に比べると、ワクチン接種拒否派は、割合的に少ない。日本よりはるかに多くのコロナ感染者や関連死者を出しているにも関わらず、アメリカでは25%、フランスでは30%が、強固なワクチン接種拒否派と言われる。そのため、ワクチン接種のリスクに対する反応も激しい。しかし、その一方で、日本の10〜20倍の感染犠牲者を出しているために、感染蔓延への危機感も強く、ワクチン接種を最後の希望とすがりたい気持ちも強い。そのせめぎ合いの中でも、接種を迷っている人を含めて、「今すぐにはワクチン接種を行いたくない人」は、日本と同じく、アメリカ・フランスでも4〜5割程度は存在する

ワクチン推進派は、ワクチン・パスポート・システムを導入することで、集団免疫を早く達成するために、ワクチン接種拒否派の権利を侵害することにためらわない姿勢を露わにしている。ワクチン接種しなければ、大学の講義やゼミや実習に出席させない。退職や休職を迫る。公共交通機関に乗車できない。図書館や美術館や研究所に入れない。海外に行けない。

このように、国民のおよそ半数に、自らの意思に反して命に関わる決断を強いるのは、明らかな憲法違反の人権無視である。

彼らワクチン推進派は、ワクチン接種を〝絶対善〟とする感覚が強く、ワクチン接種拒否を愚劣な偏見に支配された「反知性主義」の現れと考える。「ワクチン接種を拒絶する人は、科学的素養がなく知能が低い」「貴様ら愚民どもは、何も考えずに、我々、優秀なエリートに従えばいいのだ」というわけだ。

もっと具体的に、「ワクチン接種をためらう人は、低収入で資産がなく、お金を稼ぐ充分な能力もないために、将来への不安が非常に大きい人に多い」という研究結果を真面目に発表した広島大学人間科学研究科の〝すごい〟教授さえいる。しかし、アメリカではむしろ、「低所得者層やマイノリティのワクチン接種率は、富裕層や白人層よりはるかに高い」という調査もあるのだが。

いずれにしても、この侮蔑の連鎖の構図は、トランプ派と反トランプ派の対立構造に近い。

しかし、実際には、ワクチン接種・接種拒否の判断は、政治的なものでも経済的なものでもなく、自分の命に対するリスクを考慮した結果である。

ワクチン・パスポートが、この命に関わる選択に影響を与えるような事態は、深刻な自己決定権の侵害である。

そう非難されるのを避けるために、ニューヨーク州のクオモ知事は、ワクチン接種に来た人に、最高5億円の宝くじ券を配ると発表した。オハイオ州でも、ワクチン接種者に、1億円の宝くじが当たった。宝くじで接種率を上げる作戦は、アメリカでは効果をあげているようだ。ある意味、アメリカ人らしい選択である。

 

テレビなどの主要メディアは、ワクチンのプラス面ばかりを強調し、ワクチンのマイナス情報やリスクについて、ほとんど報道しない。そのことが、結果として、個人の自己決定権の行使を妨げている。政治的な忖度に満ちたメディアの印象操作が極めて有害である実例の一つとなっている。

例えば、コロナ関連死は、正確には、コロナに起因する死亡を意味しない。正しくは「コロナ感染者の死亡」である。同様に、ワクチン接種後の死亡は、ワクチン接種が原因の死亡を意味しない。正しくは「ワクチン接種後20日以内の死亡」である。

ところがメディアは、「コロナ感染者の死亡数」を、あたかも「コロナによる死亡数」であるかのように、その数字を大々的に報道し続ける。まるで〝大本営発表〟のように、国別に、都道府県別に、連日その数字を連呼する。

その一方では、「ワクチン接種後の死亡数」については、メディアは完全に黙殺している。政府も、国ごとの数値も、県ごとの数値も、公表していない。しかも、有識者らは、ワクチン接種後の死亡数については〝原因は不明〟であることを強調する。海外の数値など、まったく報道されない。

一方で、コロナ感染者が老衰で死亡した場合は、その老衰の事実や実数を明らかにせず、そのままコロナ関連死としてカウントされているが、ワクチン接種後1〜3日の老衰は3人と公表されている。

また、日本のコロナ感染者数は、パンデミックの1年半の累計で、総人口のわずか1%に過ぎないにもかかわらず、コロナの脅威を過大視して、「ワクチンによる集団免疫の獲得が〝すべての国民にとって〟急務である」とメディアと有識者の多くは主張する。そして、すでに(5/20現在)ワクチン接種者の方が、1回目接種完了者が総人口の5%、2回接種完了者は総人口の2%を超えているのに、「ワクチン接種が遅い!」と騒ぐ。

日本の医療崩壊の危機は、大したことない感染者数のせいであるというよりも、むしろ、コロナ病床確保が遅々として進まない「医療システム」と、金儲けのために病院を老人ホーム化してきた「病院の営業の自由の是非」の問題であるのに、そのことは無視して、「ワクチンが唯一の希望だ!」と騒ぐ。

根拠のないコロナへの不安をかきたてて国民をワクチン接種へと扇動するのがメディアの仕事なのだろうか?

エリック・クラプトンも、「これほどの副反応を覚悟する必要があるとは誰も教えてくれなかった」「『ワクチン接種には何の心配もない!』と宣伝するワクチン・プロパガンダは、大きな問題だ」と述べている。

 

私には、多くの日本人にとってワクチンが本当に必要とはまったく思われない。欧米の数十倍の副反応を覚悟してまで、敢えて打つべき状況にはない。ワクチンを好む人、どうしても打ちたい人は打てばよい、と思うぐらいだ。

ロシア人の56%が、コロナ感染を恐れない(だから、大多数の人がワクチンを打たない)」という調査結果があるが、ロシアの1/9の感染状況に過ぎない日本でならば、90%の人が感染を恐れないとしても、何の不思議もない。

ところが、現実には、「コロナ感染に不安を感じる」という回答が、5/15の電話世論調査で90%だったそうだが、もしこれが本当なら、日本人は、ある種の病的な不安症に冒された民族ということになる。

だが、本当にそうなのだろうか、まったく恐れていない人々が、実は結構多いのではないか?

また、このように生真面目で不安症の日本人によって感染対策のとられた店で、感染が広がっているなどということがあるだろうか?

真実は、緊急事態でも何でもない。一部のまったくモラルのない店で、モラルのない無軌道で恐れ知らずの躾の悪い若者たちが、目も当てられない大騒ぎを繰り広げて、感染を広げているだけの話だ。これは教育の失敗、あるいは多文化主義の失敗だ。

その連中を懐深く抱え込み、ある程度の感染拡大には余裕で対応できる医療を構築できていないのは、もう一つの問題だ。これは、日本医師会や医療専門家のオピニオン・リーダーたちの無責任と利己主義と無策と無能と自堕落によるものだ。

これで、オリンピック中止などという情けないことになれば、この国のメンツもクソもない。中国に笑われる。そのような脆弱な国は、遠からず滅びるだろう。

メディアには、そんな当たり前のことを指摘する定見もない。本当の意味で、何が危機なのか、何もわかっていない。

 

パンデミック発生から1年半で、関連死者1万2000人というのは、新型インフルエンザ流行時の死者数にも及ばない。しかも、新型インフルの死者数は超過死亡から割り出された「インフルエンザを原因とする死者数」であり、「コロナ感染者の老衰や事故死や末期ガン患者の死も含む(インチキ?)コロナ関連死者数」とはまったく異なるホンモノの数値である。しかし、インフルエンザで、連日、感染者数や死者数がカウントされ、ニュースがインフル一色に染め上げられる状況など、これまであっただろうか。インフルの死者数や自殺者数はどうでもよくて、コロナの死者数だけが特別なのか?

今のメディアのコロナ狂騒は異常である。事実を無視して、勝手に舞い上がり、勝手にワクチンに依存する。

総人口の0.01%に過ぎない死者数に慌てふためいて、未知の副反応を無視して「総人口の70%のワクチン接種による集団免疫を目指す」というのは、国を滅ぼす気狂いの所業である。

 

 

 

 

ワクチン接種後の死亡

日本国内→40人(ファイザー製)

韓国→192人(ファイザー製25%/アストラゼネカ製75%)

※日本も韓国も2回目接種120万人、1回目接種380万人の段階である。

※日本と韓国の差は、ファイザーとアストラゼネカの差、および、日本人と韓国人の免疫力の差によると考えられる。人口あたりコロナ関連死者数から考えても、日本より韓国の方が、若干コロナへの免疫が強いと推測できる。

※日本では、その後、5/21までに、601万人に866万回接種し、死亡例の累計は85人となった。死因は、大半が出血性脳卒中や心不全。子宮から出血という例もある。

 

ワクチン接種後の血栓発生による死亡

イギリス→58人(アストラゼネカ製)

ドイツ→9人(アストラゼネカ製)

※英独の「ワクチン接種後の死亡数」は、当然、上記の数値より桁が一つ、二つ上である。

 

〈「あなたはワクチンを接種したいですか?」日本のネット調査〉5/14

今すぐ接種したい→38%

もう少し様子を見てから接種を考えたい→33%

まだ決められない→11%

なるべく接種したくない→13%

絶対に接種しない→5%

※絶対に接種しない人(5%)となるべく接種したくない人の半数(6%)が、ワクチン接種拒否派(11%)と推測される。一方で、接種をしたい人の割合は、最大で71%である。

 

〈「ワクチン接種をどうするか?」毎日新聞世論調査〉5/22

すぐに接種を受けたい→63%

急がずに様子を見る→28%

絶対に接種しない→6%

※電話での調査では、同調圧力が強く働くためか、ネット調査に比べて、今すぐ接種したい人の割合(63%)が高い。それでも、接種を拒否、ないしは、ためらう人の割合は3割以上(34%)ある。

 

〈国際世論調査〉4/21

①国のコロナ対応を評価する

イギリス→74%(死者13万人/人口6700万人)

スウェーデン→63%(死者1万4千人/人口1000万人)

アメリカ→52%(死者58万人/3億3000万人)

ドイツ→43%(死者8万6千人/8300万人)

フランス→39%(死者10万7千人/6700万人)

日本→21%(死者1万1千人/1億3000万人)

※日本人の国への不満の高さは、コロナ禍の犠牲者の少なさに完全に反比例している。日本人の長年の教育によって培われた自虐意識の強さが浮き彫りとなった調査結果である。欧米コンプレックスに冒された〝根性なしメディア〟による印象操作の悪影響も大きいと思われる。日本では、何も非常事態ではないのに、「非常事態だ!」と事実と異なる間違った大騒ぎをしているのだ。誰も自分の頭で考えようとしない。これも教育の失敗だ。

 

②ワクチンをすでに接種した、あるいは(すぐに/いずれ様子を見て)接種したい

イギリス→90%(接種率1回目→54%/2回目→30%)

スウェーデン→84%(接種率1回目→32%/2回目→10%)

ドイツ→78%(接種率1回目→37%/2回目→11%)

アメリカ→76%(接種率1回目→47%/2回目→36%)

日本→70%(接種率1回目→3%/2回目→1%)

フランス→69%(接種率1回目→30%/2回目→13%)

※日本は、コロナ禍の犠牲者の少なさに比例して、ワクチン接種のスピードが緩やかである。これは自然なことだ。世界的に大手メディアはワクチン礼賛報道一辺倒ではあるが、各国で接種に慎重な人も多い。フランスの場合は、コロナ禍の犠牲者の多さにも関わらず、ワクチン接種への拒否意識が強い。

今すぐには接種したくない人は、各国とも、意外と多い(4割程度?)と考えられる。その人たちは、今は接種しないので、これ以降は、各国とも、接種率が、なかなか上がらないだろう。

アメリカやフランスの場合、政府の対応如何によっては、政府の強権的で強引なワクチン接種強要政策を人権抑圧と捉え、政府への抗議の意味で、ワクチン接種を拒否する市民も増えるかもしれない。