ASD(自閉スペクトラム症)ADHD(注意欠如・多動症)という用語は、「発達障害」と称される〝脳の機能の微細な偏りに起因する症候群〟のうち、それぞれ、ある範囲の症候群を、指します。

この脳の機能の偏りは、あまりに微細であるために、脳の科学的検査によって、物理的・生物学的に明らかにすることはできません。したがって、どちらも具体的な症状から判断するしかないのが現状です。

しかも、どちらも、今のところ、根本治療のための薬はありません。ASDに関しては、症状を軽減するための対処療法の薬さえ、現状では存在しません。身体の成長や、時間の経過によって、大人になったら自然に治るというものでもありません。むしろ、現在では、「脳の機能の偏りは、一生涯続く可能性が高い」と考えられています。

また、ASD、ADHDの人には、非常に知能が高い場合もあり、学習能力が優れている場合もあります。「知的能力障害」ではないのです。

 

ADHDとASDは、共に遺伝的要因が強いと考えられています。兄弟姉妹では50%、親子でも50%の確率で発症します。特に、母子の遺伝確率が高く、母親がADHDの場合は70%、母親がASDの場合には90%の確率で子に遺伝します。ただし、男女の比率は、ADHDで2:1、ASDで4:1と、男性の方が発症率は高いです。

世界人口において、ASDは2%、ADHDは3〜5%存在するとされますが、昨今は「グレーゾーン(境界線上)」の人も加えると、それぞれ10%程度は存在するのではないか、とも言われています。

 

ASDは、1、2歳から発症しますが、ADHDは、少し遅く5、6歳から発症します。また、ASDを発症した人は、60%の確率でADHDを発症します。したがって、「グレーゾーン」の人も加えると、人類の総数のおよそ14%は、ASDとADHDのいずれかの境界線上にあり、人類の6%は両方を同時に発症する可能性があるということになります。また、ハッキリと、ASD・ADHD症状が併存して発症している人が、少なくとも、人類の1%は存在するということです。割合として100人に1人ですね。

ただ、同じように「ASD・ADHDの併存」であっても、人によって〝ASD優位の人〟と、〝ADHD優位の人〟がいます。

 

以前に、ASDとADHDについては、非常に詳しく記述した記事を書いていますので、今回は、この併存症状について考えてみます。かつてはASDとADHDは併発しないものとされていました。その併存が認められたのは、2013年、アメリカ精神医学会の判断基準が更新され、DSM−5が発表されて以降のことです。

また、2010年代以降、世界的に注目されているのは、大人になっても症状が改善しない成人ASDと成人ADHDであり、同時に、それらの併存症状の特性についてのあれこれです。

かつては、発達障害、特にADHDに関しては、大人になるにつれて自然に改善されていくものと考えられていました。ですから、大人になってから、さまざまな生活上の支障が生じ、その症状から「脳の機能の偏りに起因する発達障害」と診断されるべき人も、ほとんどが「本人の性格上の問題」として片付けられていたのです。

「発達障害は、一生涯続く脳の機能の偏りによるもの」と、一般に理解されるようになったのも、ごく最近のことです。そして、研究の進展につれて、今日、『大人の発達障害』は、誰にとっても急速に非常に身近な問題になってきています。

ですから、今回の記事のテーマも、この「成人ASDと成人ADHDの併存について」としました。

 

 

まず、ADHDの機能の偏りについてですが、主に報酬系に強い偏りが見られます。自分が「心地よい」「気持ちいい」と感じる行動が、極端に偏っているのです。そして、その〝快〟へと向かう短絡的な衝動を抑えることができません。常に、どこか興奮気味で、思いつきの行動や衝動買いが多く、何かに熱中すると、ほどほどでやめるということができないのです。一つの行動や趣味や仕事に「はまる」と抜けられません。

また、不快を我慢することもできません。その結果として、自分のしたい行動ならば、どこまでも際限なく続けられるのですが、それ以外のやりたくないことをさせると、不注意から失敗が目立ちます。また、脳が報酬(快)が得られないことから欲求不満に陥り、イライラと落ち着きなく身体の一部を動かしたり、苛立ちから癇癪を爆発させたりします。望まないことを強要されると、怒鳴ったり、なじったり、暴力を振るうこともあります。

ともかく、何事も、まったく辛抱できません。忍耐力がないのです。会話でも、相手の話をさえぎったり、相手が話している上に、かぶせてモノを言う場面が目立ちます。

しかも、その「自分の好きなこと」というのが、非常に単純な「成功報酬(快楽)をストレートに求める行動」になりがちです。逆に、特に苦手なのは、「段取り」と「鳥瞰図的視点」と「時間配分」と「複数の作業を同時にすること」が求められる仕事です。例えば〝大掃除・整理整頓・後片付け〟〝料理〟など、ともかく家事全般が苦手なのです。そして、面倒なことや苦手なことは、常に後回しにします。

「後でやろう」「明日やろう」といつまで経っても、掃除・整理・後片付けが始まらないので、部屋はどんどん散らかっていきます。しかし、散らかっていること自体が気にならないわけではなく、本人も、うんざりしてはいるのですが、どうしても作業が進まないのです。

また、ADHDの人は、複数の情報を瞬時に総合して臨機応変に柔軟に対処することができないので、アクシデントに弱く応用がききません。要点をまとめることが苦手で、物事の優先順位をつけられません。そのため、簡潔に話すのが大の苦手です。

加えて、注意が一点に注がれると、集中し過ぎて、その他のことが、どうでもよくなります。ところが、一つのことに取り組んでいても、何かのきっかけで別のことに注意が逸れると、今度はそっちに夢中になり、さっきまでしていたことを忘れてしまいます。だから、後片付けも、忘れてしまうのです。次から次へと、やり散らかすばかりです。

切り替えがうまくできず、気が散りやすく、それが原因で、単純な〝うっかりミス〟を頻発することにも繋がります。

これは、ADHDの脳が、複数の情報を同時に解析することができないためです。一度に幾つもの情報が入ってくると、彼らの脳はパンクしてしまうのです。

話す時は、自分の関心ある話題について、猛烈な勢いで、いつまでも話し続ける一方で、自分の守備範囲の外の話題については、唖のように黙ってしまいます。とても気まぐれで、わがままで、飽きっぽく、時に理不尽に見えます。それは、常に、自分が「気持ちよくなるもの」にしか興味がないからです。

ADHDの症状を示す人は、一般に生きることに貪欲であり、サバイバル能力に秀でています。

 

次に、ASDの機能の偏りについてですが、主に記憶回路に強い偏りが見られ、感覚過敏感覚鈍麻もあります。ASDの人は、体験したこと、その時、感じたことを、丸ごと正確に記憶してしまう一方で、その時、自分が感じた感覚や体験を絶対的な判断基準として、その後、2次的な体験によって修正されることなく、いつまでも持ち続けます。過去の嫌な体験を、繰り返し思い出して再体験してしまい、イライラやストレスから抜け出せないこともあります。自分のさまざまな体験を、統合的に概念化・客観化・一般化したり、自己の体験を内省して成長の契機とすることが難しいのです。

そのため、第三者からは、「変化を異常に嫌い、自分の感覚や体験に極端に執着し、そこから生まれた判断基準や価値観を絶対視している」ように見えます。言わば、一度、頭の中に記憶の名画(迷画?)が完成してしまうと、劣化はせず、修復要らずですが、二度とその上に新しい絵を描くことができないキャンバスのようです。

中には「レインマン」のように、写真的記憶力を持つ人もいます。概して文字や数字に強い興味を持ち、単純計算や丸暗記が得意です。「人よりも、モノ(道具や機械)や知識・情報に強い関心を持つ」傾向があります。ところが、手先は不器用で、モノの取り扱いは、ぎこちないのです。運動も、球技などは苦手です。

文脈や状況を考えず、相手の表情やトーンから感情を読めず、言葉を字義通りに受け取ってしまうのも、ASDの目立った特徴の一つです。「鶏小屋を掃除して、全部綺麗にしてね」と言われた養護学校の生徒が、鶏小屋のニワトリをぜんぶ締め殺してゴミ袋に詰めて小屋を全部綺麗にしてしまったことがありますが、本人は言われた通りにやったつもりなのです。

また、相手も同じことを知っているという前提(勝手な思い込み)で話をしたり、状況判断ができずに場違いな発言をしたり、相手の発言を思い込み(自己中心的な妄想)で取り違えたりします。ともかく「相手の立場に立って考えることができない」のです。

一般に、言葉の使い方がぎこちなく、かたい言い回しが多く、敬語の使い方が不自然だったり、会話が噛み合わなかったりします。比喩表現や遠回しな表現が苦手で、言外の意味を受け取れず、皮肉が通じず、心理的な文脈を把握できないことから、共感的なコミュニケーション(気持ちのキャッチボール)が苦手です。ですから、人の言葉や歌や詩や物語に、心を動かされるということがないのです。

行動する時は、一点に集中してしまうために、周りがまったく見えなくなります。「融通がきかない」「空気が読めない」ということもあります。逆に、音楽が鳴っていると、気が散って、人の話に集中できないとか、複数の人と話をしていると、混乱しやすいという面もあります。不安を感じると、過敏な神経をなだめようとして、同じフレーズを繰り返したり、同じ動作を続けたり、唇や頬をさわったり、そっとなでたりする仕草に特徴があります。

また、ASDの脳は、次に起こることを予測する直観的想像力に欠けているため、未知の世界に飛び込むことに、恐怖感を感じることから、同じパターンの単純な行動を繰り返すことで安心感を得ようとします。それが、「非常に限られた範囲の物事への強い関心と執着」と見えるのです。〝木を見て森を見ず〟という態度が一般的なのです。一般に誰でも気にするようなことは無視して、普通であれば気にしないような「非常に細かい特定の物事に対して、強いこだわりと関心を持つこと」に、ASDの特徴が見られます。

一方で、予期せぬ事態にはパニックを起こし、完全に固まってしまいます。心の余裕とか、柔軟性とか、臨機応変の応用力というものが、かけらもないのです。

ただし、ASDの症状を示す人の多くは、一般に知能指数が高く、本人の興味のある分野においては、突出したスペシャリストとなることも少なくありません

 

では、上記のADHDとASDの症状が併存している人の場合はどうでしょうか。

ADHDの短絡的で単純化された報酬系回路と突発的行動衝動が、ASDのモノや情報への執着という特性に拍車をかけるために、モノの収集癖が強まると同時に、情報を得ることにも強い快感を感じるようになります。その上、片付けや整理がまったくできず、モノを捨てられないので、家は大量のモノやデータを無秩序に積み上げた〝ごみ屋敷〟になります。しかも、全体を見る注意力を欠くために、その足の踏み場もない状態が、本人はまったく気になりません。

さらに、ASDの偏った記憶機能によって、自分の体験や、その時感じたことを、絶対的なものとして行動・判断の基準としている上に、ADHDの単純報酬回路を通して、同じ快楽体験を求める強い衝動を感じて行動しますから、その時、そこで感じた快感を、繰り返し〝最高に価値あるもの〟として記憶を上書きして、遂には絶対化してしまいます。思い込みが激しいどころではなく、その自分の判断に、疑いを挟む余地が一切なくなります。どんな新しい情報や体験によっても、その凝り固まった〝習癖〟から、心が解き放たれることはありません。あらゆる趣味行為において、中毒に陥る可能性が、非常に高くなります。

人並み以上に記憶はするのですが、それが、情報の集積だけに終わってしまい、情報を取捨選択・整理統合することができないからです、ある意味、頭の中も〝ゴミ屋敷〟になってしまうのです。

そのため、話し合いにおいては、相手の話をまったく聞こうとせずに、自分の言いたいことを一方的にまくしたてる場面が多くなります。全体の話の流れが頭に入らないので、部分的で瑣末でどうでもいい事柄に、話が無限ループし続けます。

その他の場面でも、「自分に快感を与える物事は『意味がある』と没頭し、逆に、自分に不快を与える事物や人や言葉や時間は『無意味である』とあからさまに拒絶する」というように、快不快に伴う価値基準の絶対化が、即、具体的で衝動的な行動に結びつくのが特徴です。

一般的には、例えば、繰り返し「褒められる快感」を味わうことで、強烈な成果主義の虜になります。そして、必死になって、「結果を出して褒めてもらおう(より高い評価を得たい)」と努力するのですが、ごく小さなパターンの変化や、ちょっとした不測の事態に対しても、臨機応変に柔軟に対処する能力を欠くため、つまらない単純な失敗を繰り返します。それでも、めげずに、脇目も振らずに突っ走り続けるので、諦めることを知らない、その姿は、側から見ていると、〝回し車〟をムダに回し続ける、檻の中のモルモットのように見えます。

経験から学べず、事態が改善していく様子は見えません。不都合な事実をそのまま受け止めることができず、常に、自分にとって都合の良い、居心地のよい、勝手な思い込みの中で生きているからです。

この〝思い込み〟が、怒りの起爆源にもなります。

部分だけに集中して、全体が見えず、「自分が本当はどこに向かっているのか、今どの過程にあるのかも、何もわかっていない」のです。それでも、自分の短絡的な価値観を修正することができず、不毛な行動パターンを変えることができません。そもそも、本人は、どこまでいっても変える必要性を感じません。客観的には深刻な問題を、彼らの主観では、さして問題だと思わないのです。

ASDの特徴として、体験から学ぶことができず、内省が苦手なので、失敗は自分以外の何かの所為(せい)にします。度重なる失敗から、うまく責任を回避することを覚えて、不誠実な〝逃げ上手〟〝ごまかし上手〟になる傾向が強いということです。そうなると自分に対しても、他人に対しても、日常的に、ごまかす癖がついてしまうのです。そのせいか、意図せずして、常に、話がずれていきます。

強度の依存症に陥りやすい面もあり、無意識に人を都合よく利用します。また、本当は何もわかっていないのに、わかったフリとか、共感したフリをすることが多くなります。正確に言うと、多くの場合、本人は「わかっているつもり」なのです。しかし、実際には、何もわかっていないので、必然的に話が噛み合わなくなります。それを取り繕う必要が出てくるため、わかったフリをしてしまうのです。

そして、状況から〝自分を変える必要性〟に強く迫られた時には、「自分は精一杯やっている」「これ以上のレベルで改善を求められても無理だ」「どうしていいかわからない」と言うのです。繰り返し、同じ困難にぶつかっては途方に暮れます。あるいは、何度同じ失敗をしても、同じ〝まずいやり方〟で対処しようとします。「自分自身を見つめる」ということが、本当に苦手なのです。苦い良薬は拒絶します。

 

 

特に、子どもが過保護に育てられることの多い現代日本の社会では、多くの場合、ASD・ADHD併存タイプの人が、自己を客観的に見つめ、気づきを得る体験から阻害されています。そのため、大人になっても修正が効かず、症状がさらに悪化していくことが多いのです。

核家族化や地域共同体の解体によって、家族以外の人との濃密な交流の機会が減り、「周囲からの助言や忠告や指導や真摯な批判を受けて、本人が自分の脳の機能の偏りを意識するようになる」、そうした気づきの契機となるイベントが少ないことも問題です。

また、学校では、人間関係は孤立しがちでも、テストの点数は取れて、成績優秀で、教師に高く評価され、さして苦労も感じず、順風満帆であっても、大人になって、社会に出て、家庭を持ったりすると、コミュニケーションの問題や家事の問題が表面化し、ストレスから体調を崩し、心療内科を受診した際に、初めて、自分が『発達障害』であることがわかる、という人も増えています。

この場合、仕事や家庭での人間関係の躓きや失敗や挫折から、評価という報酬を得られない欲求不満と自信喪失と自己評価の動揺とコンプレックスとストレスに苛まれ、うつ病や適応障害などのニ次障害を発症したり、逆に、夫婦関係で、心が通じ合えないことから、配偶者がカサンドラ症候群に陥ったり、本人が自分の正しさへの盲信のあまり、「他者の苦痛に対して痛みを感じることなく、自己中心的・暴君的・独善的・策略的になり、他者を操ることに快感を感じるようになる」ことで、いわゆる〝サイコパス〟的に振る舞うようになる可能性もあります。

 

症状の改善のために、最初のもっとも重要なポイントは「己を知る」ことです。「発達障害」は、遺伝により家族も同じ問題を抱えている場合が多いので、家族ぐるみで問題の解決を図ろうという合意(コンセンサス)が必要になります。

実は、家族の間では、各々が共通する脳機能の偏りを持っているため、問題が問題として認識されないまま、見過ごされ、放置されていることが多いのです。ですから、家族の間で、問題の共通認識を得ることが重要です。

そして、「他者の協力を得て、自分が生きていける環境を整えること」が、状況改善の大前提となります。ただ、あくまでも、自分の意思で生きること、肝心のところでは依存せずに、自分で考えてみること、「どうすればうまくいくのか」ではなく「何が問題の本質なのか」を問い続ける姿勢が大切です。

「現実問題として、どうすればいいかを知らなければ、具体的に動けない」と思うかもしれませんが、「『何が問題の本質か』を知らずして『どうすればいいんだろう』と悩み続ける」という不毛な思考の無限ループの中で、頭の中に、無秩序に大量の情報が積み上げられていき、内面も、意味のないクズ情報の山に埋もれた〝ゴミ屋敷〟と化していく場合が多いのです。

手始めにすべきことは、家の整理と頭の整理、具体的には、物理的生活面での断捨離と、知識面での断捨離、そして、行動習慣や考え方のパターンにおける断捨離です。支援者の状況改善のアプローチもまた、モノと情報と生活上のパターンに対する、つまらないこだわりや執着を「捨てること」「手放すこと」を促すことが重要です。