「過保護かつ過干渉で、それでいて、欠片も想像力がなく、まったく子どもの内面に理解のない大人たち」の元で、幼い頃から、あまりにもさわられすぎて育ち、強烈な過敏症になり、病んでしまった子供たちの歌です。
この歌が、大人たちが不自然に干渉しすぎ、共感も理解もないままに、自分の「思い込み」に基づいた価値観や教育方針で、とことん圧力をかけて、強制的にひ弱な「よい子」に育ててしまった子供たちの内なる暗い叫びを表現した歌であることに、子どもを愛してはいても、子どもの内面に関心のない親たちは気づきません。
かつての昭和の優等生は、尾崎豊(1983年18歳でデビュー)のように「よい子」の枠からはみ出そうともがきました。そういう意味では、わかりやすかった。その行動力に見合った逞しさやエネルギーがあったとも言えるでしょう。でも、今どきの優等生は、あくまでも、安全な枠の内にとどまり、小利口な「よい子」であり続けようとします。
それだけ、以前にも増して、「よい子」しか愛せない親が増えてきたせいかもしれません。若者の〝枠〟をぶち破ろうとする暴力性に対する社会・大人・親の許容度や理解度が、さらに低くなっているためでもあるでしょう。
「正しさとは、愚かさとは、それが何か見せつけてやる」という個性的なフレーズで、この奇妙な歌は始まります。
「ちっちゃな頃から優等生」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、あなたが思うより健康です」「私が俗に言う天才です」「一切合切凡庸な、あなたじゃわからないかもね」「頭の出来が違うので問題はナシ」と、心の中で、相手の低脳愚鈍さや不潔さへの軽蔑と、自身の優越性と健全さと正しさに対する屈折した誇りを表現しています。
ここで言う「相手」とは、「酒が空いたグラスがあれば、すぐ注ぎなさい」「皆がつまみやすいように串外しなさい」「会計は注文は先陣を切る」などと、不文律に口うるさい上司や先輩に代表される社会人の大人たちです。
「つっても私、模範人間、殴ったりするのはノーセンキュー」「うっせぇうっせぇうっせぇわ、くせー口塞げや、限界です」「絶対絶対、現代の代弁者は私やろがい」「私も大概だけど、どうだっていいぜ、問題ナシ」と、自分の脳内で、大人の説教をゴミ箱に掃き捨てて、自分こそが『現代の代弁者』であると断言します。
「私は狂っているけど、あんたたちは、もっと狂っているだろ!」「寄るな触るな、気持ち悪いんだよ!」「あんたたちには言われたくない!」「私はあんたたちよりはかしこいんだよ!」「構うな!」「もうしゃべるな!」「もうたくさんだ、ウンザリだ!」という優等生のホンネを歌っています。そのホンネからは、『ちょっとでも人に意見されることに耐えられない、強烈で徹底的な拒絶反応』が読み取れます。
けれども、そうした「よい子」たちのホンネは、決して大人たちに向かって直接ぶつけられることはありません。その、誰も語ることのないホンネを表現し得たという点で、syudouさん、Adoさんは、芸術家なのだと思います。
「うっせぇわ」の作詞・作曲者であるsyudou さんは、1995年(平成7年)生まれの25歳のボーカロイドプロデューサーです。彼が生まれた1995年は、ちょうど、THE BLUE HEARTSが解散した年です。この年のヒット曲には、スピッツの「ロビンソン」やZARDの「マイフレンド」、DREAMS COME TRUEの「サンキュ.」や中島みゆきの「旅人のうた」などがあります。また、前述した尾崎豊は、この3年前、1992年に26歳で亡くなっています。
「うっせぇわ」の歌い手であるAdoさんは、2002年(平成14年)生まれの18歳の覆面女子高生歌手(←2020.10.23リリース時において)です。彼女の生まれた2002年のヒット曲には、元ちとせの「ワダツミの木」や鬼束ちひろの「流星群」、平井堅の「大きな古時計」や小田和正の「キラキラ」などがあります。
とは言っても、この2人が、これら上記の音楽の影響を受けているようには思えませんが。
そして、syudouさんが作詞・作曲し、Adoさんが歌う「うっせぇわ」のYouTube MV再生数は、2021年、6/15時点で、1億5千万回を突破しています。リリースから8ヶ月目に入っても、この曲は、一種の社会現象であり続けているようです。
ただし、この曲の受け止め方には、世代間に大きな断絶があります。10代〜30歳ぐらいの平成生まれの世代は、この曲を受け入れられるのでしょうが、その上の世代は、特に年齢が上なほど、この曲を理屈抜きで嫌いな人が多くなります。
そして、この曲のテーマは、「上の世代の大人どもは、どうしようもないから無視しよう」という10〜20代の若者たちへのメッセージなのです。
『語られないホンネ、言葉にされない深い想いを、どう受けとめ、どう理解するか』は、現代の親や大人にとって、人と関わって生きていく上で、最大のテーマであると思います。ところが、たいていの大人は、この問題にまったく関心がありません。現代人は、書かれた情報、話された言葉、数値に表されたデータの収集と解析に忙しく、言語化も数値化もされないものに、心を向ける余裕がありません。
現代(2020年代/令和)の子どもたちの多くは、親の世代を諦めています。「心が通じ合うことなど決してない」と、とっくの昔に。それでいて、親や大人たちの前では、いい子で通してきたのです。徹底して「よい子」を演じとおす、けっしてホンネを見せない、それがルソーの言う二重の人間性です。そういう「親や大人との共感を諦めた、上辺は優等生の良い子」を育てたのは大人たちです。その大人たちも、実は、人様から何か言われることが大っ嫌いなのです。
彼ら、現代の親たち自身もまた、俗に言う「大人にならない子どもたち」です。自らの〝枠〟や価値観から、一度もはみ出したことのない人たちであり、内なる価値観の崩壊と再構築を経験したことのない人たちです。
そして、もう、その世代が、年齢的にも、実質的にも、社会的には立派な親になっています。
大人になれない親と子が、互いに共依存する社会は、自堕落な上に重苦しく救いがありません。
子どもにさわらないことです。日本の親は、手をかけて育てるのが当然だと思っていますが、大切なことは、手を出さずに見守ることなのです。あなたが、さわればさわるほど、子どもはおかしくなるのです。
自分の安心のために、むやみやたらに確かめようとせず、子どもを信じることです。土足で踏み込まず、子どもの生きる領域を尊重することです。
踏み込むなら、覚悟を持って、踏み込んでください。理解するために必死に努力してください。
子どもが自分の思う通りになると思わないでください。自分の価値観が揺らぎ、崩れる覚悟もしてください。相手の人生に干渉するなら、自分の人生も変わる覚悟が必要です。
子どもは病んでいますが、それに気づかない大人は、もっとおかしいのです。虚弱で過敏でヤワな子どもが問題なのではなく、問題は、そのように子どもを育てた大人の方にあるのです。そのことに気づいてください。
大人の子どもへの接し方、方針や手段が問題なのではなく、大人の生き方、価値観、内面の本質にこそ、変わるべき重大な問題があるのです。
とは言え、とりあえず、私が声を大にして言いたいのは「子どもを監視するな!」「子どもに圧力をかけるな!」「子どもを操作しようとするな!」ということです。
子どもの内面を感じられないのは、あなたが、あなた自身の内面をないがしろにして生きてきたからです。
平成以降の子どもたちの多くからすると、昭和の大人たちの多くが、自分の言葉が一切通じない「人間の壁」と感じられるのです。煮ても焼いても食えない、石膏ボードのようなモノです。
ひとりよがりの傲慢さ、隠された利己性、無自覚の権力行使と横暴さ、愚鈍さと無教養の臭いを漂わせる、無知愚昧なる精神が構築する社会秩序の暴力性に抗しえない子どもたちの諦念(あきらめ)が、この歌を生んだのです。
この歌は〝警告〟あるいは〝事象〟に過ぎません。この病んだ叫びは、あなたの魂の影の部分と一体なのです。そのことに気づきましょう。
「子どもは、いつの時代も、こうやって反抗してきたんだ」などと、自分を不自然に納得させようとするのは誤りです。この歌の「反抗」は病んでいる。極度に病的なのです。それは、この国の「人間関係」が、病んでいるためです。関係性そのものが、不自然で歪んでいる、ということです。
「病んでいる状態が〝ふつう〟になってしまったことに、異常さと深刻さを感じない大人たち」こそが、一番やっかいな存在なのです。