私たちの生きている世界は、二つの世界にわかれている。その二つの世界に、私たちは、誰もが、一生の中で、否応なく、片方だけでなく、両方の世界で生きることを強いられる。最初から、どちらか一方を自由に選ぶことはできないのだ。

この二つの世界とは「昼の世界」と「夜の世界」である。

一日が、昼と夜でできているように、私たちもまた、等しく昼と夜を共に歩まなければならない。

私たちは、誰もが、生きていく上で、両方の世界を知る運命だが、最終的には、どちらの世界を大切にするか、どちらの世界の住人になるか、自分の意思で選ばなければならない。

 

 

 

昼の世界」は、「陽の世界」である。

〟とは、男性原理の象徴である。〝死〟に対して〝〟を、〝冬〟に対して〝〟を、〝月〟に対して〝太陽〟を、〝目に見えない幽玄の世界〟に対して〝目に見える現実の世界〟を意味する。

その内包するものは、物質的世界、つまり、現世の実社会を生き抜く意志と、社会に変化と進歩と改革をもたらすエネルギーである。

「昼の世界」を支配するのは、徹底した物質主義であり、科学技術文明であり、効率と生産性であり、資本主義(お金)帝国主義(権力)である。

この世界では、数値がすべてである。GDP、株価、地価、為替相場、資産総額、年収、顧客契約数、視聴率、偏差値、フォロワー数など、あらゆる数値が、価値を決定する。

「昼の世界」は、弱肉強食の競争社会である。少数の〝勝ち組〟がいて、無数の〝負け組〟がいる。競争があり、淘汰がある。この「昼の世界」の不文律は、適者生存の法則である。人生はサバイバルなのだ。

したがって「昼の世界」の絶対的価値基準は、社会の中で「自分が勝ち残ること」である。そのために大切なのは、健康であり、体力であり、容姿であり、学歴であり、資格であり、職歴であり、年収であり、資産であり、社会的地位であり、職業上のステイタスであり、社会的コネクションであり、世間の評価であり、門地(家柄)であり、成果である。

 

その人が、どこの一族の出自であるか、どの大学を出ているか、資産はどのくらいあるか、どんな職業についているか、年収はいくらか、加えて、どんな学歴・地位の人と家族・親族・友人として繋がりを持っているかなどで、その人の社会的価値が決まる。『有力者の縁戚や友人は、すなわち有力者である』というわけだ。

さらには、土地や家やマンションを所有しているか、レクサスやベンツやフェラーリを所有しているか、ローレックスやエルメス、アルマーニやシャネルを身に付けているか、などでも判断される。

不動産は〝要塞(拠点)〟であり、ブランドは〝鎧(防御壁)〟である。

そもそも、〝昼の住人〟は、鎧の中身には、ほとんど興味がないのである。大切なのは、「どんな人物か?」ではなく「何を所有しているか?」だ。

だから、「昼の世界」で、社会の生存競争に勝ち残るために必要なのは、物的欲求を土台とする強い上昇志向と野心である。

他人を利用する策略や取引や政治力も必要である。「目的のためには手段を選ばず」という生き方も、この「昼の世界」では肯定される。この世界の価値観では、過程より結果がすべてであり、騙す側よりも騙される側が悪いのである。騙すのも自由だし、騙されるのも自由なのだ。〝昼の住人〟にとっては、まず「いかに相手を利用するか?」を考えるのが、人付き合いの大前提なのだ。

個人主義自由主義は、「昼の世界」を支配する根本原理である。

 

しかし、もう一つ、この「昼の世界」を支配しているルールがある。それは、〝法律〟である。

「そもそも法は、我々の権利(既得権益など)を守るために在る」と「昼の世界」の住人たちは考える。だから、法を破ることは、自ら利益を害する行為にほかならない。この損害を防ぐため、自らの社会的正当性を守り、自ら利益を最大限獲得するため、法律は適正に利用されねばならない。

必ずしも、真実が明らかになる必要はない。真実なんて、誰にもわからない。人の言葉は信用できない。証拠がなく、証明できないことは、信じてもらえなくても仕方がない。人は嘘をつくことができるからだ。

裁判は、法的に適ったやり方で勝てばよいのだ。そのためには、自分に非がないことを主張でき、法的手続きに則って相手を叩き潰すことのできる、自分に都合の良い〝論理的道筋(ロジック)〟が必要になる。同時に、常に相手の言質を取り、自分に非がないことを証明できる証拠を集めておくことが大切だ。総じて、自己正当化のスキルを磨かねばならない。

これが「昼の世界」のルール、『法治主義』である。

 

この「昼の世界」の価値観・処世術に基づいて、物事の価値を測り、あらゆる選択肢から、自らの行動を判断・選択・決定する上で、常に問われる質問は、次の2つである。

これは何の役に立つのか?(自分の利益に貢献しうる、どんな利用価値があるのか?)」

どうしたらいいのか?(保身と利益と野望実現のため、どういう方法・戦略・策略を実行に移すのがベストか?)」

人々の日常の思考は、この二つの命題に支配されている。

そして、「昼の世界」の住人であれば、誰もが求めるものが、この世に三つある。それは〝お金と権力と名声〟である。

その一方で、彼ら〝昼〟の住人にとって、根源的不安は、上記の三つを失うことへの恐れである。なぜなら、彼らの「安心立命」は、これら三つのいずれかに支えられているからだ。

 

このように、我が国の国民のほとんどは、『昼の世界』に生きている。

アメリカに多いリバタリアン(自由至上主義者)と、たいていのリベラル(自由主義者)もまた、『昼の世界』の住人である。

政治家も、実業家も、経済学者も、弁護士も、科学者も、医師も、教師も、親たちも、そのほとんどは、「昼の世界」の価値観に依って生きている。

進歩と前進、成長と改革、獲得と排除、野望と貪欲、闘争と策略、勝利と敗北を司る、この真昼の〝太陽〟の輝きは、戦後76年間、ますます強まり、今や、その〝昼〟の価値観は、世界中のほとんどの人々の生き方を、実質支配している。

例えば、己の野望実現のためにあらゆる手段を利用する紀子さまや小室圭さんなども、典型的な「昼の世界」の住人である。

一方、俗世の野心・欲得にまみれた〝昼〟の住人にとって、「夜の世界」は禁域・聖域である。彼ら〝昼の住人〟が「夜の世界」に土足で足を踏み入れることは、許されてはならない。「夜の世界」に、安易に昼の価値観を持ち込むことほど、破滅的なことはないからだ。それほどに、「夜の世界」は、「昼の世界」とは、対極にあるのである。

 

 

 

夜の世界」は、「陰の世界」である。

〟とは、女性原理の象徴である。〝生〟に対して〝〟を、〝夏〟に対して〝〟を、〝太陽〟に対して〝〟を、〝目に見える現実の世界〟に対して〝目に見えない幽玄の世界〟を意味する。

その内包するものは、現実世界からの逃避、あるいは、無意識界を含む精神世界全体の内面の情動、つまり、人の心の中の不安と安心、内的な空虚と充実、苦悩と哀感、愛情と幸福感、共感と信頼である。

「夜の世界」を支配するのは、徹底した精神主義であり、芸術と文化であり、品格と人間性であり、霊性と祈りであり、共同体主義(絆)である。

この世界では、心のあり方がすべてである。相手に向き合う態度、心遣い、配慮、その裏にある本心、恨み、憎しみ、怒り、喜び、哀しみなどの心情、他者への信頼と共感などを、大切なものとして重んじられる。

「夜の世界」は、死と向き合う世界でもある。その意味で、平等な世界である。なぜなら、死は、分け隔てなく、誰の身にも訪れるものだからだ。また、現世のいかなる権力も富貴も、死の運命の前には無力である。資産も宝物も、あの世まで持っていける者はいない。

「夜の世界」の絶対的価値基準は、死を目の前にした時に「悔いのない人生を送ること」である。そのために大切なのは、人生を共に歩む伴侶であり、心を通わせることのできる友人であり、「ここで死にたい」と、心から思える〝死に場所〟である。

そして、この「夜の世界」には、一つの不文律がある。それは「決して見捨てない」ということである。

 

この「夜の世界」の価値観に基づいて人生を見るなら、その人が、どんな有名企業や政府官庁で働いていていたか、どこの大学を出たか、どの一族で生を受けたか、子どもや孫が何人いるか、子どもがどの大学を出たか、年金がいくらあるか、などは、ほとんどどうでもよいことである。

持ち家があろうとなかろうと、どんなクルマに乗っていようと、どんな時計やバッグや服を身に付けようと、本人の中身には、まったく関係がないのである。この世界では、数字もまた、意味をなさない。数字で人の心は測れないからだ。あなたは、品性、忍耐力、率直さ、誠実さ、愛情深さ、人間的理解力の深さなどによって評価される。

だから、「夜の世界」で、人と関わって生きていく上で必要なのは、その人の本質を見抜く目である。そして、相手の言葉の裏にある〝本音〟を読み取ること、言葉で表現しきれない相手の心を受け取ることが、できなければならない。それも、相手を利用するためではなく、相手を深く理解し、共感を持って支えることができるために、である。また、日常の煩雑な仕事を離れて、「自分が本当は何がしたいのか?」を、自らに問いかける一人の時間も大切だ。

共感瞑想想像力は、「夜の世界」を支配する根本原理である。

 

しかし、もう一つ、この「夜の世界」を支配しているルールがある。それは〝信仰〟である。

「信仰は、死に往く運命に定められた我々にとって、心の慰めである」と「夜の世界」の住人たちは考える。

また、「そもそも、人のつくる法など、常に不完全なものであり、あらゆる成文法の上に〝神(天)の法〟は在るのだ」と信仰者は信じる。

「三権を含む絶対的権力を有する国王や独裁者といえども、法(神の法)には従わなければならない」と、彼ら「夜の住人たち」は主張する。

現世のどんな法律も裁くことのできない巨大な悪が、この世の中には山のようにある。しかし、人間社会の法が裁くことができない罪も、神(天)の法は裁くのだ。そのことを信じる。

これが「夜の世界」のルール、『法の支配』である。

 

この「夜の世界」の価値観・処世術に基づいて、物事の価値を測り、あらゆる選択肢から、自らの行動を判断・選択肢・決定する上で、常に問われる質問は、次の2つである。

何が自分の、そして、相手の幸せなのか?(それを邪魔しているものは何か?)」

自分に何ができるのか?(自分含めてみんなの願望実現のために、何か役に立てるか?)」

人々の夜の思考は、この二つの命題に占められる。

そして、「夜の世界」の住人、誰もが求めるものが三つある。それは〝愛情〟と〝友情〟と〝魂の平安〟である。

その一方で、彼ら〝夜〟の住人にとって、根源的不安は、上記の三つを失うことへの恐れである。さらに、突き詰めて考えると、この不安の大元には、「自らの存在意義の喪失」への恐れがある。「この生を生きる価値はあるか?」という疑いが、心の内に沸き起こるのだ。

 

このように考えると、例えば、現在、我が国の国民には、めっきり少なくなってしまった、昔堅気のコミュニタリアン(共同体主義者)は、基本的には「夜の世界」の住人である、と言うことができる。

また、芸術家、音楽家、詩人、歌い手、文学者、哲学者、信仰者は、「夜の世界」の価値観を生きている。

しかし、そのように真夜中の〝月〟の輝きに目を留める人は、近年ますます減っており、今や、その〝夜〟の価値観は、世界中の人々に、徹底的に無視されて、忘れ去られつつある。

それでも、例えば、日本の皇室は、「夜の世界」の価値観を代表する存在である。そして、皇族の一員である秋篠宮眞子さまは、本来ならば、その夜の価値観を体現する存在であらねばならない方である。

しかし、残念ながら、眞子さまは、「夜の価値観」を体現できるように、しっかりと皇族としての教育を受けてはこなかったようだ。

また、皇室は、皇室の一員になりたいと望む者を迎え入れてはならない。自分から、皇室に入りたいと望む者は、「夜の世界」の住人ではないからだ。したがって、皇族は、己の野心から皇族とお近づきになりたいと望む者を伴侶に選んではならないのである。

そのことが理解できない者は、皇族として失格である。

 

 

 

日本国民の多くは、「昼の世界」と「夜の世界」は絶対に相容れないし、この両者を一緒くたに、混ぜこぜにすることは、「夜の世界」の破滅につながることを、本能的に気づいている。そして、私たちの〝夜〟を破壊することは、すなわち生命そのものの喪失に繋がる。だから、国民の多くは、小室圭さんと眞子さまの婚姻を忌むべきこととして、猛烈に拒絶反応を示しているのだ。

陰と陽は、互いに、この世界を補完し合っている。どちらが失われても、世界は崩壊するのだ。それを心の何処かで知っている日本人は、これまで、日本社会の防波堤として、礎として、皇室を大切に守ってきた。

 

また、心理学的には、陽(太陽)は「意識」を、陰(月)は「無意識」を司るものである。

小室圭さんの意識は、いかにも真昼の〝太陽〟らしく、強い野心と強烈な上昇志向と物質主義に支配されているように見える。しかし、圭さんの無意識は、母親佳代さんという〝闇の月〟に依存し支配されている。

眞子さまの意識は、いかにも〝月〟らしく、自分を取り巻く状況や自分に課せられた使命の重さから、優雅に逃避しているように見える。しかし、眞子さまの無意識(月の本性)は、圭さんの強烈な野心(太陽)に魅了され、目をくらまされ、操作されている。あるいは、太陽の背後に隠れている闇の月(佳代さん)の〝自らの利己的欲求を満たすために、周囲のすべてを呑み込み、無に還す力〟に、共鳴し感化(洗脳)されているのかもしれない。

少なくとも、私からはそう見える。

私たちの時代の〝月〟は、〝太陽〟の意志に、盲目的に引きずられる存在であってはならない。もちろん、すべてを呑み込む〝闇の月〟であってもいけない。

私たちに必要なのは、現世的な野心(太陽)とは対局にある夜の叡智、すなわち、闇夜を照らす月のもたらす深い知恵と慈愛の光(心)なのだ。

 

 

 

⭐️先日、先崎彰容さんの「高山樗牛〜美とナショナリズム」を読み、強い感銘を受け、インスピレーションを与えていただいた。この記事は、先崎さんの著書に刺激を受けて書いたものだ。この贈り物に感謝したい。