遅ればせながら、安倍晋三元首相の死について、いくつかの疑問がある。

 

その一つは、「なぜ出血箇所が見つからなかったのか?」ということだ。

ドクター・ヘリの中で、出血箇所が分からず、その位置を特定するだけで、病院に着いてしまい、止血などの救命行為がほとんどできなかったと、ヘリに乗っていた医師が告白している。しかし、そうであるなら、ヘリが到着するまで、30分以上の間、その場にいた医療関係者もまた、出血箇所が分からず、血止め処置が一切できなかったということを意味する。なぜ、それほどまでに出血箇所がわからないまま、時間だけが過ぎていったのか、意味不明である。

銃撃から6分後に現場に到着していた消防(救急隊員)が、銃撃から30分後、ドクター・ヘリが着く直前に、右上腕部の銃槍を確認したらしいが、止血処置は行われないまま、ドクター・ヘリに乗せられ、そのヘリの中でも、再び銃槍の位置がわからなくなり、結局、止血できずに病院に着いている。ようやく胸部を開いて止血処置が行われたのは、銃撃から50分後、救命救急センターでのことである。これでは助かるわけがない。

安倍晋三元首相の死因は「失血死」である。血を失いすぎたということだ。だが、当時の現場を考えると、「本来なら助かったはずの命が、死ぬべくして死んでいる」という気がしてならない。

安倍さんの命を救う方法は、ドクター・ヘリに乗せられる前に、現場で、応急の止血処置を行なっておくことに尽きた。それが、失血死を防ぐ唯一の方法だったのである。

 

もう一つは「出血箇所もわからず、止血処置もされていない段階で、なぜ心臓マッサージが行われたのか?」ということだ。

銃撃時の血管損傷が原因の出血性ショックによる心肺停止に際して、損傷出血部の位置も状態もわからないまま、当然、止血もなされない状態で、AEDを使用したり、心臓マッサージを行えば、かなりの確率で、すでに損傷している血管や心臓にさらなるダメージを与え、修復不能の状態に陥り、大量失血死の恐れがあることは、火を見るより明らかである。

現場で必死の救命活動を行った善意の人々を責めるつもりはないが、この心臓マッサージが、安倍さんの命を縮めた可能性は大きいのではないか。

その場に、銃撃に対応した外科医療の専門家がいなかったのは不幸なことだった。日本には、残念ながら、銃撃を受けた時の応急治療の知識と経験を持つ者は少ないだろう。これが、例えば、現場(戦場)での止血手術の経験が豊富なアメリカ軍の軍医であれば、かなりの確率で、安倍さんの命は助かったのではないだろうか。

安倍晋三元首相の死因は、正確には、「左肩(上腕部)の銃槍から体内に入った1発の銃弾が、体内を徐々に移動して、鎖骨下の動脈を損傷したことが致命傷となった」とされている。だから、最初は意識があって受け答えもできていたのが、その後、意識不明になり、やがて、心肺停止に陥ったのだ。逆に言えば、早期に 右肩上部の銃槍を発見し、鎖骨下の損傷した動脈を、開胸手術によって止血していれば、一命をとりとめた可能性は高い。

たとえ心肺停止の状態に陥ったとしても、即座に脳死するわけではない。脳に酸素を送るのも大切だが、血管や心臓の損傷の悪化を防ぎ、それ以上の大量出血を防ぐことは、この場合、より切迫した危機対応だったのではないか。

そして、損傷した血管の止血後、心肺蘇生を行う必要があるが、そのタイムリミットは10分以内。銃撃後、15〜20分以内の処置が生死を分けたということだ。

銃弾を受けて一刻を争う場合、当然ながら病院に運んでいるヒマはない。その場での的確な応急処置が必要になる。今回の状況では、銃槍の発見と開胸手術による損傷した動脈の止血、および、その後の心肺蘇生が、必要な手順であった。しかし、そうした手順での処置は行われなかった。

やはり、「助かるはずの命が失われた」という思いが湧く。

だが、失われた命は取り戻せない。そういう意味では、後から何を言っても始まらない。

私としても、気になることは、そこではない。最大の問題は、そうした反省や総括さえなされない、この国の現状だ。失敗から学ばないようでは、この国の未来は危うい。

 

さらに最後の疑問だが「安倍元首相の警備陣(SPら)は、銃撃を受けた際の適切な基本的対応・行動が、なぜ、できなかったのか?」ということがある。

この国では、要人警護のスペシャリストたちに、もしもの時の適切な対応能力が必要とされないのか、そんなことがあり得るのか、私がもっとも不思議に思う点である。

私の疑惑の中心は、ここにある。

一発目の銃声がした後、まだ無傷だった安倍さん自身が、なぜ、その場で屈まなかったのか、3秒もあったのに、SPが、なぜ覆い被さらなかったのか、防弾バッグを開かなかったのか、警備要員の誰かが、安倍さんを壇上から引きずり下さなかったのか、も含めて、銃撃時の危機管理対応が、まったくなされていない。

それらのうち、いずれか一つでも実行できていれば、右肩上部に致命傷を負うことは防げた可能性が高い。しかし、実際には、どの危機回避行動も行われなかった。

なぜ、この国の要人警護体制が、それほどまでに脆弱であるのか、そんなことが許されるのか、私にはどうしても納得がいかない。それでは三流国以下ではないか?

さらに、このことをメディアが追及しないのが解せない。

私も現場の個々人の責任を問うべきとは思わない。ただ、あり得ないほど稚拙な救命体制であったこと、危機管理能力が欠如していたことの理由が知りたい。

なぜなら、真摯な反省こそが、次なる悲劇を防止する行動・対応を生むと信じるからだ。

韓国ソウルの中心に位置する観光地区である梨泰院(イテウォン)で、10月29日夜、ハロウィンに繰り出した若者たちが、両側を壁に囲まれた狭い斜面の路地で、坂を上ってくる人と下ってくる人が、両側の大通りから流れ込んできて立ち往生し、一時間以上、まったく身動き取れない状態に陥り、業を煮やした一部の若者たちが、押し合いへし合いを始めたり、さらにふざけて、その押し合いに迎合する連中もいたために、特に、坂の下の方にいた人たちを中心に、158人が圧死し、196人が負傷する大事故となりました。午後10時15分頃のことでした。

人が圧死していく最中にも、後ろの特に坂の上の方では、さらに人を押し続けて馬鹿騒ぎを続けている連中もいて、現場は「やめて、人が死んでる!」と「押せ、押せ!」の掛け声が入り混じる、混乱を極めた状況でした。

亡くなったのは、特に、背が低いために、人の壁に塞がれて息のできなくなった若い女性が多く、犠牲者の3分の2は、10代、20代の女性でした。「群衆雪崩」で倒れて押し潰されるように亡くなった人もいれば、立ったまま周囲の人間の壁に全方位から押されて圧死した人もいました。多くは、立ったまま意識を失い、そのまま亡くなったものとみられています。

また、亡くなった人のうち、26人は外国人でした。中国人、ロシア人、イラン人、トルコ人、アメリカ人、オーストラリア人、フランス人、etc。そして、2人の日本からの留学生もいました。

 

通りの混雑がひどいため、警察も救急車も、現場に容易に近づくことができませんでした。さらに、警察官や医療関係者が走って現場に向かうも、ハロウィンの仮装と勘違いした人々は、道を開けることもしませんでした。

不法駐車の車が多かったことも、救急車の乗り入れに苦労した原因の一つでした。結局、医師や看護婦が、すべての医療装備を持って、混雑をくぐり抜けながら、歩いて現場に入ったのは、事故発生から3時間後の翌日午前1時頃のことでした。そのため、助かる命も助かりませんでした。

加えて、事故の現場では、これほど多くの人たちが死に瀕している状況でありながら、心肺停止の友人に必死で心臓マッサージを施す人たちの周りで、助けようとするわけでもなく、不躾にスマホを向けて、黙って囲んで撮影している人たちが大勢いました。その向こうでは、救急車や死者たちの姿を目の前にして、ゲラゲラ笑って踊ったり、酔っ払って歌を歌ったり「飲みに行こうぜ!」とはしゃいでいる若者たちがいました。

 

多くの無責任な人たちが、彼らを殺した。まさしく人災だ。この日、ハロウィンの梨泰院は、陸のセウォル号と化したのだ。

 

そんな思いが湧いてきます。

死にゆく友人1人と重態の友人2人の側でなすすべもなく救助を待っていたオーストラリア人の男性が「誰も助けようとしなかった。私は自分の友人が息絶えようとしている間に、人々が事故現場を撮影したり、歌を歌って笑ったりしているのをずっと見ていた」「私たちは人々に向かって『後ろに下がって!来ちゃダメだ、人が死んでる!』と大声を張り上げたけど、誰も聞いていなかったし、人々はさらに死んでいった」「警察が到着するまで30分、支援の人々が投入されるまでに1時間かかったし、救急隊が来るまでは、もっと長く(上記の報告では3時間!)かかった。専門家ではない一般人からCPR(心肺蘇生法)を受けている人々が地面に横たわっていた」と当時の状況を伝えています。

 

今日11月1日、韓国紙は、事故発生の4時間前から、雑踏の過密の危機的状況を知らせる電話があり、また、1時間前には「息ができない」「大型事故の一歩手前」と助けを求める現場からのより切迫した電話通報が多数(合計400件以上)あったにも関わらず、知らせを受けたソウル地方警察庁の治安総合状況室では、本来いるべき状況管理官が不在で、情報が適切に扱われず、一切、総合的な対応が取られず、所轄の龍山警察署からも状況確認に出動せず、あるいは出動したはずの警官から知らされたはずの情報が生かされず、結果、初動が大幅に遅れたことを、警察が初めて認めたと報じています。

事件発生前、切迫した状況を伝える市民からの通報(全文公表された11件を含む)は、同じ場所(梨泰院)からのものであると、ソウル警察庁の治安総合状況室内では、まったく認識されていなかったのです。そして、席を外していた状況管理官が、総合状況室に戻ったのは、事件発生から1時間24分後の11時39分でした。その直後、11時42分に、大統領指揮下の国政状況室は件の状況管理官に電話をしましたが、管理官は電話に出ませんでした。到着して3分では、事故の状況が把握できず、状況室に詰めていなかったことが、大統領にバレるのが怖かったのでしょう。結局、管理官が中央警察庁に事件の報告を行ったのは、状況報告を受け始めてから23分後の翌30日午前0時2分のことでした。すでに事故発生から1時間57分が経過していました。彼女の報告は、もはや何の意味もないものでした。もう、世界中が、この事件を知っていたからです。

 

事故が発生したのは午後10時15分頃でしたが、ソウル警察庁が事態を把握したのは、事件発生の40分後、11時近く(10時56分)で、それも、消防庁からの電話連絡によってであったと報じられています。

市民からの通報を受ける警察庁内の治安総合状況室からの報告よりも、身内である所轄の龍山警察署からの報告よりも先に、消防庁が「救急車が通れないから、緊急に交通整理してくれ!」と切羽詰まって連絡してきたということです。

消防から警察への交通・人員統制を求める出動要請の電話は、その後、29回に及んだということです。

現場に到着した消防隊員は、事故発生後27分経過した10時42分、「15人ほど心肺蘇生措置を続けているが人員が足りない」と本部に無線を送っています。その14分後、事故発生から41分後の10時56分には別の隊員が「心肺蘇生が必要な患者が急増している」「隊員が足りず、市民が心肺蘇生を行なっている」と本部に伝えています。さらにその10分後、事故発生の51分後、11時6分には、地元の消防署長が、現場から「心肺蘇生の患者が何人なのか数えきれない」と混乱した状況を伝えています。

 

それにしても、現場にいた警官からの悲鳴のような緊急要請は署に届いていたはずなのですが、その情報も、所轄の龍山警察署で止まっていたのかもしれません。現場から歩いて10分のところにある所轄の龍山警察署から、署長が現場に到着したのは、事故発生から50分も経った11時5分頃のことでした。

なぜなら、龍山署長は、続々と切迫された状況が伝えられる中、9時24〜44分、飲食店で20分かけてゆったりと夕食をとり、その後、渋滞でまったく進まない道を、1時間以上かけて、官用車両で現場へ向かったからです。車が現場に到着したのは、11時5分頃のことです。現場近くで車を降り、手を後ろに組んで、急ぎもせず悠々と現場へ近づいていく署長の姿が、11時頃の監視カメラに映っています。

ちょうどその時、11時1分に、大統領に事件が電話で知らされ、警察の対応の遅さに大統領は激怒しています。11時26分・30分に、大統領指揮下の国政状況室からの状況報告を求める電話に対して、現場に居る件の龍山署長は「状況把握中」とだけ答えています。ともかく、相当無能な男と思われます。

そして、龍山署長が、ソウル警察庁へ最初の報告の電話をしたのは、現場に到着して30分後の11時36分のことです。

ソウル警察庁の交通統制の動きが本格的に始まったのは、それからさらに後になるわけです。結局、現場に機動隊が本格的に配置され始めたのは11時40分以降となりました。その頃には、すでに世界中がこの事件を知っていました。

 

日本と異なり、些細なことでも何でも直ぐに警察に通報する韓国社会の「オオカミ少年」化も、警察の対応が杜撰になる原因ではある、と言われます。

しかし、深刻な状況を目の前で見ながら見過ごし、事態の悪化を放置していた無責任さも、あったのではないかと思うのです。例えば、伝えられた情報から事件の切迫性を即座に理解できない愚鈍な人物が、現場の所轄警察署長であったことは、市民にとって不幸なことでした。ソウル警察庁の治安総合状況室の担当管理官が無断で欠席していたことも、警察の状況把握に大きな悪影響を及ぼしました。

そもそも、この日、ハロウィンの13万人の人出に対して、雑踏警備など秩序維持のために配置されていた警察官は、わずか58人でした。そして、イベント時には一方通行か通行止めにするべき狭い通りなども、一切規制されず、そのまま放置されていました。初動の遅れとともに、この準備対策がとられていなかったことも、事故が起きた原因とされています。

例えば、コロナ前の2015年のハロウィンでは、20万人の人出があったものの、ソウル警察が事前に動員され、細い危険な路地は予め一方通行か通行止めに指定されて、警察官が交通整理にあたっていたため、事故を免れていました。それに比べて、今回は、人出が少ないにもかかわらず、警察・行政は、明らかに準備も心構えも足りていませんでした。

 

死亡した156人のうち、20代が一番多く、104人でした。次いで30代が31人、10代が12人です。

2014年のセウォル号の事故時には、304人の犠牲者のうち、修学旅行中だった10代の高校生が250人亡くなりました。船長含め多くの船員が船を我先に脱出する中、「船室で待つように」という乗務員のアナウンスを信じた生徒たちが、皆、溺れ死んだのです。生き残った生徒は、大人の言葉を鵜呑みにせず、自分の判断で、自分の身を守るために動いた子たちでした。

その当時の高校生だった世代は、8年後の今、20代半ばで、今回の事故で最大の犠牲者を出した世代となっています。

どちらの事件においても、共通している犠牲者の思いは、「責任ある大人たちが、誰も助けてくれなかった」ということです。

韓国では、この世代全体に重くのしかかる深刻な人間不信のトラウマを心配する声もあるようです。

しかし、そもそも、韓国人は、他人の言葉を信じない。それだけ、騙す人が多いのかもしれません。

だから、切迫した雰囲気で走ってくる警察も救急隊員すらもコスプレだと思ってしまう。「押すな!中で人が死んでいる!」という叫びが聴こえても、無視して群衆を押すことができてしまう。

 

また、「国際的な祭りの体験の中で、人々との『一体感』に身を委ねたい、韓国の若者に特有の文化的特性」が、この事故を引き起こした背景にはあるとする評論もあります。

考えてみると、祭りの中で「一体感」を求める感覚というのは、日本人にも見られる特性で、岸和田だんじり祭などのように、ある意味、命懸けで「一体感」を競う場まで、社会の中で許容されています。

コロナ禍による、修練・練習不足から、今年は、このだんじり祭でも、引き手の男性4人がだんじりの下敷きになり、1名死者がでています。この祭りでは、過去にも何度か死者が出ています。文字通り、命懸けの祭りなのですが、それでも、伝統の祭りとして、危険はあっても存続しています。

ただ、今回の梨泰院の156名の圧死というのは、祭りの「一体感」の代償としては、あまりにも酷い。

日頃、社会も人も、信じられないのに、集団になると思考停止して群集心理に行動を委ねてしまう。不可思議な矛盾した心理があるようです。しかし、これは非常に危険なことです。ハメルンの笛吹きに導かれて、大集団が川にずぶずぶ入っていき、一斉に集団自殺することになりかねません。

今回の事故でも、一人一人が、「一体感」の中で、依存的に思考停止することなく、手遅れになる前に冷静な判断をすることで、自分の命を守らねばならなかったことは明らかです。

 

まったくもって、痛ましくもおぞましい事件です。

しかし、「責任は政府にある」と訴えて、20代の若者が「政府は若者の命を守れ!」とデモをするという韓国の現状は、やはり、どこかおかしいと感じます。

セウォル号の時と同様に、事件が政争の具にされているというのも確かですが、それ以上に、責任を押し付け合い、スケープゴートを探して、自らを絶対的な正義の側に仕立て上げる、韓国社会特有の悪き伝統の力が、ここでも圧倒的な勢いで働いていると言わざるを得ません。

結局、切迫した命の危険にさらされていた一部の人を除いて、警察に通報した大部分の人たちも、目の前で惨事を見ながら動かない警察も市民も、次から次へと密集地帯にむやみに突っ込み、高密度の群衆を外から押して圧死や群衆雪崩を招いたのに知らんぷりをしている若者たちも、問題解決へ向けての努力を、すべて他人に押し付けて、自分は被害者だと叫ぶ、お馴染みの「私は正義→貴方は悪」型の誤った二項対立の韓国的社会構造を構成しているのです。その意味で、原因と責任は、すべての市民にあると言えます。

ですから、20代の若者世代は、犠牲者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことから、目を逸らすべきではありません。

無責任なのは、政府ではなく、韓国社会そのものであり、20代の若者たちもまた、既に、無責任な大人社会の一部となっているのです。問題(責任)は他者にあると責めるよりも、各々自分自身が、自分の命に責任を持つ方がよいと思います。

今日、韓国の社会では(いや、日本社会でも)、各々個々人が、外に悪者を探すのではなく「問題は自分たち自身の内にある」という自覚を深めること、それこそが求められているのではないでしょうか?

 

内(ウリ)に問題があるのに、外(ナム?)に抗議しても問題は解決しません。

 

今回、物議を醸しているひろゆき氏の辺野古訪問騒動についてだが、私はひろゆき氏を責めるのは間違っていると思う。

実際、ひろゆき氏は、辺野古で抗議運動をしている人たちを馬鹿にし、基地反対運動の活動のあり方を揶揄しているように見えることは確かだが、それが沖縄県民全体を愚弄したことにはならないし、彼の表現が〝沖縄差別〟の表れである、などというのも、事実ではないと思うのだ。

彼は、単に、〝辺野古座り込み〟の活動家(前記事で述べた④グループの人々)を、おちょくっただけである。

そして、彼ら(④グループに属する)基地反対運動の活動家たちの非常に偏った考え方は、県民全体からみると、むしろ、少数派である。また、前述したように「オール沖縄」勢力を支持する人々の中でも、彼ら④グループは特異な思想の持ち主たちの集団なのである。

だから、一部活動家による〝辺野古座り込み〟が揶揄されたからと言って、沖縄が揶揄されたと受け取るべきではない。

そして、沖縄県民のひとりとして、私は彼の言動に、十分共感できる。

「一日一時間程度の抗議活動を、〝座り込み〟3011日目と表現するのは不適切」「休みの日もあるようだし、〝座り込み〟0日でいいのでは?」「米軍出て行け、自衛隊出て行け、の大合唱は、中国を利するだけ」「米軍も自衛隊もなしで、どうやって沖縄を守るの?」といったひろゆき氏の言動が、④グループの活動家たちの心を傷つけたのだという。それは確かなのだろう。しかし、そうだとしても、一方では「アメリカ人出て行け!自衛隊出て行け!」「安倍は戦争好き!」という活動家たちの罵声によって、傷つけられる人たちもいるのである。

おあいこではないだろうか?

辺野古の活動家の方々を含めて、反米・反安保・護憲・反自衛隊の立場をとる④グループの人々が、ひろゆき氏の言動に反発するのはよくわかる。だが、繰り返すが、彼らの立場が、多様な沖縄県民の意見を代表しているわけではない。

そもそも、辺野古の運動家の方々は、ひろゆき氏に対して、非常に猜疑的・好戦的・敵対的であり、平和を愛する人々とは思えない刺々しい態度・雰囲気である。「武器を取らずに、話し合いで解決するべき」とか言いながら、当の彼ら自身が、まったく話が通じない。

県民の中にも、彼ら④グループの人々と真っ向から対立する立場をとり、ひろゆき氏の主張に共感する人々だっているのだ。

県内二紙を筆頭に、東京新聞、毎日新聞などが、今回、ひろゆき氏に対するネガティブキャンペーンを展開している。

しかし、彼ら左派メディアの、ひろゆき氏を悪者扱いする〝印象操作〟は、到底、公正とは言いがたい。基地容認派・賛成派への言論封殺とも受け取れる。そのような姑息な策略は、沖縄の基地問題に関わる言論の質を、さらに低下させる。

何より、そうしたスジの悪い非難は、みっともないからやめたほうがいい。

県内外の良識的市民から「やっぱり基地反対派は低脳だ」と思われるのがオチである。

今回、玉城デニーさんの知事再選に関して、県内メディアなどで「沖縄の民意が示された」とよく言われる。

この場合の〝民意〟というのは「米軍基地反対」の民意と言うことだ。細かく言えば「辺野古米軍基地建設反対」ということだ。

辺野古基地建設反対派の玉城デニーさんの34万票に対し、基地容認派の佐喜真淳さんは27万5000票であった。これをもって、5対4で反対派の勝ちというわけだ。

では「辺野古だけの問題か?」というと、そうでもない。

 

特に、座り込みを続けている市民らなどは、「アメリカ軍は沖縄から全員出ていけ!」と抗議している。

実際、辺野古の海岸には「米軍は出て行け!(USA Army, go home!)」の大きな横断幕が貼ってあるのだ。

さらに、反対派は、辺野古の抗議活動で、「アメリカ軍出て行け!自衛隊出て行け!」の大合唱をするのである。

ということは、反対派は、すべての米軍基地と自衛隊基地に反対しているということなのだろう。

それが、玉城デニーさんを支持する「オール沖縄」の〝民意〟なのだろうか?

 

しかし、私は、〝沖縄の民意〟という表現、「オール沖縄」という政治勢力の名称にも、メディアによる〝印象操作〟の臭いを嗅いでしまうのだ。

辺野古の基地反対派運動家たちは叫ぶ。

「米軍は沖縄から出て行け!」

「自衛隊も出て行け!」

「武器を持つから戦争になる!」

「基地があるから攻撃を受ける。だから、基地はないほうがいい。」

「戦争大好きな安倍は死ね!」

「沖縄は中立だ!」

本当に、それが県民の多数派(つまりは民意)なのだろうか?

そして、県民の大多数が、日米同盟は要らないと考えているのだろうか?

アメリカの核の傘など要らないと考えているのだろうか?

そこのところが、現実とは異なるという気がしてならない。

考え得る可能性としては、下記のようになるだろう。

 

 

 

玉城デニーさんを支援する「オール沖縄」勢力の主張する〝沖縄の民意〟の内実とはー

 

 

(1)①辺野古米軍基地の埋め立て建設には反対だが、沖縄のすべての米軍基地の存続に反対しているわけではない。日米同盟には反対しない。核抑止力は必要と考える。自衛隊基地建設にも反対しない。基本的には、沖縄の米軍基地及び日米同盟を容認する立場で、自衛隊基地の増強にも寛容。

 

▶︎このような現実的で穏健な考え方の人々が、実は、「オール沖縄」勢力を支持する県民の多数派なのかもしれない。そうであるなら、彼ら①グループの辺野古基地容認への心理的距離は、それほど遠いものではない。

彼らは、政府による沖縄への米軍基地押し付けに不快感を持っている。とは言え、国土防衛の必要性は、よく理解しているのだ。

しかし、こうした巷でよく聞く理性的な意見は、少なくとも、県内メディアや学識者の論調の主流ではない。メディアは、よりはっきりした米軍基地反対の立場を鮮明にしたがる傾向が強い。そうしたメディアの過激な論調によって、県内の世論が不自然に誘導されてしまっている傾向があると、私は思っている。

 

 

(2)②辺野古基地建設に反対であるだけでなく、沖縄の米軍基地は、なるべくなくすべきだと主張する。しかし、自衛隊基地は容認。加えて、日米同盟は必要と考え、自衛隊は増強すべきと考える人々。米軍基地負担は県民への差別と考え、県内の米軍基地の県外移設を主張する立場。

 

▶︎この主張をする人々は、国土防衛の必要性は認めるが、米軍基地の県内比率の異常な高さを問題としており、基地負担の軽減を主張する。このような偏りの少ない考え方の人も相当程度存在する。

しかし、この種の人々②グループは、上記①グループの人々と同様に、むしろ、基地容認派予備軍と考えられる。国からの補償次第では、基地容認となるだろう。そして、この①②グループが、県内の無党派層の多数派である。

ただし、この①②グループの人々の一部は、「反対した方が補償が大きくなる」と考えて、利を求めてわざと反対の立場をとる傾向がある。実際、県内では、こうした悪しき風潮が相当に強いのが現状である。

現在、基地関係の国家予算は年間5000億円で、そのかなりの部分が沖縄に投入されている。例えば、基地使用料が2000億円、さらに、思いやり予算として基地従業員の給料、米軍人の家賃として県民に支払われているお金もある。加えて、自治体への特別に高い補助金もある。すべて、国民の納める税金である。

あまりにも上記のような「補償を吊り上げるための姑息な反対の態度」が目立つと、県外の人々から、沖縄が白い目で見られるようになってしまう。現にそうなっている面もある。残念なことである。

 

 

(3)③辺野古基地含む、県内県外すべての米軍基地に反対の立場。日米同盟は必要ないと考えている。ただし、自衛隊は増強すべきだし、場合によっては独自核武装も視野に入れるべきと考える。

 

▶︎アメリカからの完全な自立と自主防衛を志向する立場の人々。アメリカの核の傘に頼るよりも、むしろ、自前の核を持つべきと考える。極めて愛国的であると同時に、自立的な国家像をビジョンとして掲げる独立独歩の生き方を好む人々である。しかし、この③グループの勢力は、沖縄だけでなく、今の日本国内では極めて少数派であろう。当然だが、「オール沖縄」支持者の中にも、この③グループは、ほとんどいないと思われる。

 

 

(4)④辺野古基地含む、すべての米軍基地は、沖縄には必要ない。それだけでなく、この国に米軍基地は一切必要ないし、日米同盟そのものが要らない。つまり、「アメリカの核の傘は要らない」ということだ。

加えて、沖縄には自衛隊基地も必要ない。アメリカにも日本にも守ってもらう必要はない。「この島には、いかなる国の軍事力も要らない」という立場だ。

❶何故なら、「核攻撃力を含む軍事力を背景としない、威嚇を伴わない穏便な話し合い、つまり、非武装・中立の外交力で、東アジアの平和と安全は維持できる」と信じるからだ。彼らは、むしろ、「基地があるから、自ら武器を持つから戦争になるのだ」と主張する。

 

▶︎まず、県内でも、最もナイーブかつ純真な、子供のように欠片も邪気のない方たちの考える沖縄の民意は上記の考え方であろう。「殺すより、殺されたほうがいい」というフレンド派(クェーカー)の信仰に基づいて作られた憲法前文と9条の平和主義の精神に殉じるものでもある。

しかし、多少なりとも考える頭があり、現実を知っている良識のある大人であれば、「攻撃するより、攻撃されたほうがいい」というような無防備極まる非武装の方針には従えないだろう。アーミッシュのような筋金入りの信仰者であれば別だが。

もっとも、県内に、そのような筋金入りの平和信仰者がそれほど多くいるとは考えにくい。むしろ、国際政治の過酷な現実を見ようとせず、妄想のファンタジーに浸っている非現実的な夢想者が、この種の人々④❶グループの多数派であろう。大学生など、世間知らずの若者に多いようだ。さもなければ、裕福に育った左翼の頭の凝り固まった理想主義者だろうか。内地出身の活動家も多い。

いずれにせよ、彼らは、ロシア・ウクライナ戦争のような侵略戦争に実際に晒されない限り、目覚めることはないだろう。目の前に爆弾が落ちない限り、目覚めない人々である。

 

 

ところで、④の「沖縄に武器はいらない」「核も米軍もいらない」「日米同盟も自衛隊もいらない」派の人々の中には、実は、④❶グループの「お花畑な人々」以外に、もう一つ、別の考え方を信奉する人々がいる。それは、アメリカ以外の核に依存することを夢見る人々である。この人々が、いわゆる〝沖縄独立派〟である。

沖縄独立派には、大まかに考えて以下の二つの潮流がある。

 

 

(5)④辺野古含め、あらゆる米軍基地・自衛隊基地は、沖縄にはいらない。

❷何故なら、「沖縄は、中国の庇護のもとで繁栄できる」と信じるから。最悪、「中国の核によって守られればよい」と考える立場である。

彼ら④❷グループは、基本的な心情として、中国が好きで、日本は嫌いなのである。

 

▶︎沖縄には、もともと、中国にルーツがあることを誇りとする一族が多くいる。韓国ほどではないが、歴史的に「事大主義」の勢力が強いのだ。

彼らは知事や国会議員など、多くの権力者を輩出し、沖縄の政界・経済界・学会に隠然たる巨大権力を有している。そして、彼らは、「日本の一部であるより、むしろ、中国の一部であったほうがよい」と考えているようだ。

沖縄では、島国であることもあって「長いものには巻かれよ」という強者への迎合の意識が根強いが、その〝長いもの(権力者たち)〟が、県内では伝統的に中国シンパの勢力であるため、この親中派④❷グループは、潜在的には県民全体の1/3程度を占める大勢力となっている。また、中国がより強大になってきたことで、このグループは、以前より力が強まっている。

彼らは、そもそも日本人であるという意識が薄い。だから、政府のことを、わざわざ〝日本政府〟と呼ぶ。言外に「自分たちの政府ではない」ということを匂わせる物言いである。

そして、この④❷グループの人々が、沖縄の言論をリードしている。彼らは、県内の学者、文化人、ジャーナリスト、教育者などの中核を成しているのだ。

 

 

(6)④辺野古含め、あらゆる米軍基地・自衛隊基地は、沖縄にはいらない。

❸何故なら、「沖縄は、北朝鮮の核によって守られるべきだ」から。

北朝鮮は、偉大な指導者金正恩によって統治される〝地上の楽園〟であると信じる人々。彼らによれば、アメリカの核は悪の核であり、北朝鮮の核は善の核である

基本的な心情として、彼ら④❸グループは、日本もアメリカも大嫌いである。

 

▶︎沖縄の社会活動家、学者、政治家の中には、毎年1月に那覇市で、『金正恩生誕祭及びチュチェ思想勉強会』を開催している人々がいる。その会合では、100名以上の同志たちが集まり、辺野古基地反対運動の報告もなされる。

オール沖縄勢力の中核には、この北朝鮮シンパの④❸グループの人々がいる。数はそれほど多くないが、沖縄の左派の社会活動家は、大なり小なり、この親北派④❸グループの影響を受けていると考えるべきである。

その特徴は〝強烈な反米・反日意識〟にある。

特に、辺野古・高江に集う過激な活動家ほど、このグループに属している可能性が高い。在日朝鮮人グループや、韓国の従北左派の若者などが、辺野古などの反対活動に参加するのも、こうした思想的親和性の高さから、仲間意識が醸成されやすいためと考えられる。

 

 

 

 

以上、概観してみただけでも、沖縄の未来をどう考えるか、そのビジョンがあまりにも異なる人々(1)〜(6)が、ごちゃ混ぜになって、「オール沖縄」勢力を名乗っていることがわかる。

そもそも、日米同盟は必要と考える人々①②グループと、中国の一部になってもよい人たち④❷グループと、北朝鮮の核に期待する人々④❸グループと、純粋に非武装の平和な中立の島となることを夢見る人たち④❶グループが、同じ船に乗って仲良く進めるはずがない。

この辺をはっきりさせなければ、いずれ、とんでもないことになるだろう。「船頭多くして船山に登る」ということになりかねない。

いや、むしろ、今、すでに、そうなっているのかもしれない。

 

ちなみに、私自身は辺野古容認派である。そして、①②③グループとは、話が通じ得ると考えている。だが、④❶、④❷、④❸のグループとは、まったく相容れない。私からみると、彼ら④グループは、まるで話の通じない人々である。彼らと理解し合えるという期待は一切ない。

だが、この④グループが、知事選で「オール沖縄」勢力(玉城デニーさん)に投票した民意の多数派であるとは、私には思えない。④グループは、むしろ、県内の少数派だろう。

それでは、沖縄の民意とは、いったいどのようなものなのか?

結局、何が沖縄の民意なのか?

その答えは、まだでない。

少なくとも、辺野古で抗議している偏った思想に凝り固まった少数派の人たちの意見が、沖縄を代表する民意というわけではないはずなのだ。

それだけは、はっきりしている。

 

遊説中の銃の狙撃による、安倍晋三元首相の突然の悲劇的な死に対して、その国家的な喪失感を表し癒すために、内外の弔問者を迎えて、今日、国葬が行われました。

安倍さんのいない日本に生きることの心許なさは、筆舌に尽くし難いものがあります。これからの日本の安泰が、甚だしく脅かされているという、寄る辺ない不安感が拭えないまま、私たちは、今日の国葬の日を迎えました。

安倍さんは、日本が、アメリカ、中国、そして、世界とどう向き合っていくか、的確で明確で説得力あるビジョンを持って、具体的・現実的なリーダーシップを取ることができた、この国で唯一の政治家でした。

私の個人的な感覚では、エリザベス女王の死と安倍さんの死では、1人の日本人として、喪失感の重みが違いすぎて、まったく比べ物になりません。

エリザベス女王の死は、悲しい出来事とは言っても、大往生ですし、さらに言えば、遠い海の彼方の国で起こった他人事の事件です。

それに対して、安倍さんの死は、この国の行く末を左右する大きな悲劇であり、まったく他人事では済まない大変な出来事です。

私にしても、「これから、この国は、どうなってしまうのだろうか?」という不安が、いかにしても振り払うことができない焦燥感となって、今も心の奥底にたゆたっている状態です。

そうした不安感と哀しみは、安倍さんの国葬に反対する人々を、ニュースなどで目にするたびに、ますます強まります。彼らの心無いアジテーションは胸に突き刺さり、心の深いところで鋭い痛みをいっそう際立たせ、私は怒りすら覚えます。「いったい、この人たちは、何を考えているのだろうか?」とため息をつき、首を降らざるを得ません。

安倍首相の国葬に反対する人々、彼らは、なぜ、反対するのでしょうか?

今回の記事のテーマは、このことについてです。

まず、その理由を、整理してみましょう。

 

安倍さんの国葬に反対する理由

 

①安倍さんが嫌いだから

私のみたところ、デモをしてまで国葬に反対している人たちのほとんどは、安倍さんが大嫌いです。首相としてまったく評価していなかったどころか、早く辞めて欲しかった人たちです。さらに言えば、死んで喜んだ人たちもいたはずです。

「どうして、あんな奴の葬儀が国葬になるんだ?」というムカつきが感じられます。

だから、国葬当日にまで、反対のデモ行進をして、花を抱えて弔問に向かう人々の心を深く傷つけても、気にしないでいられるのです。

これは、ある意味、悪質な嫌がらせです。そのぐらい安倍さんが嫌いなのです。

また、アンケートなどで、国葬に反対と答えた人たちの多くは、安倍首相の功績をそれほど重く考えていない人が多いでしょう。

逆に、国葬に賛成の人たちは、安倍首相の功績を高く評価しているだけでなく、今の日本の政治に欠くことのできない重い役割を果たし続けているリーダーとして、今後の活躍にも大きな期待を寄せていた人たちが多いはずです。私のように。

結局、安倍さんが好きか嫌いか、それですべて決まりなのです。国葬の手続きが云々とか、法的根拠が云々とか、いくら屁理屈を言い立てても、そんなことは実は理由にならない(←特に、一般の人にとっては/よほどのへそ曲がりでない限り)。

安倍さんを好きな人は普通に国葬をやりたいし、嫌いな人は、なんだかんだと理由をつけてやりたくない。シンプルな話です。それだけのことですよね。

国葬が分断を生んだのではなく、もともと国民の間に根深い分断があるのです。

 

②自分の評価していない人の葬儀に、国費がつかわれることが不満だから

「なんであんなヤツの葬儀に、私が納めた税金を使うのよ!」という納得できない感があるようです。

国の費用としては、「いったい誰がこんなに費っているのだ?」と、よく問題になる生活保護費や精神障害年金の予算何兆円などと比べれば、たかだか十数億円程度の話なのですが、それすら費わせたくないという〝セコさ〟と〝みみっちさ〟を感じます。

同時に、税金をびた一文使わせたくないほど安倍さんが嫌い、という面もあるでしょう。

ただ、安倍さんが大好きだった私としては「なぜ、こんなに国費を使うんだ?」という反対に対しては、「なんてせこい人たち!」「セコいというにも、あまりにセコすぎて、このみみっちさは、形容のしようもないほど! ともかく酷すぎる!」という思いを禁じ得ません。

たとえ反対するにしても、そこまでセコい話をするか、と悲しくなります。

私欲ではなく、国のために命懸けで尽くした人に対して、そのぐらいの敬意を表して、税金使ってもバチはあたらないと思うのですが…。

ともかく、昨今は、あらゆる面で、日本人の精神が、どんどんケチ臭く、みみっちく、セコく、意地悪くなってゆく。100均精神というのでしょうか。情けない限りです。

皆んなが皆んな、百円均一で間に合わせようとする社会では、その国の文化は消滅し、経済もジリ貧になっていきます。自分で自分の首を絞めているようなものです。

結局、現代日本人のセコい精神が、いずれはこの国を滅ぼすことになるように思えてなりません。

 

③嫌いな人の葬儀に「弔意を示せ」と国から強要されていると感じ、ムカつくから

「あの人が死んでも、何も悲しくないのだが、どうして弔意を表さねばならないんだ?」「国が国民に葬式行けって強制するな!」という言い分です。

これも、共産党などが主張していることですが、そのくらい安倍さんを嫌いだし、国民にも安倍さんを評価させたくないという、反啓蒙(本人たちは啓蒙だと思っているようですが…)の意識の表れでもあるでしょう。

安倍憎し、ここに極まれり。

同時に、それほどまでに、彼らは、人も国も政府も神も、まったく信じていないのでしょう。だからこそ、むしろ、共産党の人たち(あるいは極左)ほど、自らの我欲に満ちた卑近な意思を持って、そして、自らの世俗に汚れた手で、フランクフルト学派の言う道具的理性を用いて、国(あるいは他者)をコントロールしたいという、上から目線の思い上がった欲望(権力欲/権力への意志)に、心が支配されやすいように思えます。

そのくせ、そのような傲慢な態度をとりながら、自分たちが、どれほど国によって守られ、世話されているか、なんの自覚もないようです。コロナ治療費が全額タダになる国に住み、当たり前のように恩恵を享受しながら、「この国は、国民のことを何も考えていない!」と、国に向かって唾吐くのはいかがなものか、と思うのですが…。

 

④安倍さんはカルト(統一教会)とつながっていたじゃないか、と非難の気持ちがあるから

安倍さん、及び自民党が、統一教会の支持を受け、その支持を利用していたというのは確かです。けれども、カルトと政治の問題は、統一教会との関係だけにとどまるものではありません。極右にも極左にも、政治に関わるカルト(≒セクト)集団は山のようにあります。

右であれば、顕正会、幸福の科学が、その代表でしょう。一方、左であれば、中核派・革マル派があります。その他、ラエリアンとか、アーレフとか、エホバの証人とか、いろいろ不思議な興味深いカルト・セクトが山のようにあります。ともかく、非常に香ばしいSF・ファンタジーを教義・ドグマとする集団が数多くあり、それらのカルト・セクトにまつわる事件や悲劇も数多く起こっています。

カルト・セクトは、日本の社会の闇であり、重大な社会問題であると同時に、社会に根を張っているという意味では、根絶し難いものであって、日本社会の根幹に関わる大問題でもあります。

私は、広い意味では、池田大作の創価学会も不破哲三の共産党も、カルト(セクト)と言ってよい権力装置・集金装置なのではないかと思っています。

その意味では、今回、メディアが、左翼セクトに加担して大騒ぎしているから、殊更、統一教会の問題だけがクローズアップされているという面も強いと思うのです。

つまり、メディアも安倍さんが嫌いで国葬にしたくないし、安倍さんを賞賛したくないと思っているということですね。

 

⑤安倍さんのような極悪人を国葬にしようとする政府・自民党・国は信用できないから

根本には「安倍は戦争好き」「安倍は権力を私物化した悪人」「殺されて当然の極悪人」という勝手な思い込み(妄想)があるようです。

だから、国葬の日に、安倍さんの遺影を射的のまとにして、嘲り嬲るという、信じられないほど無神経で品性下劣な反対集会を行うことができるのです。

そして、こうした「安倍は大悪党だ!」という共同幻想を国民に広めようとする洗脳戦略に、大々的に加担している一部メディア、一部政党、一部市民団体などに、私は、強烈なカルト・セクトの匂いを嗅いでしまうのです。

彼らは、信じたいものを信じる。信じたくないものは、何があっても信じない。これって、カルト・セクトの構成員(信者・メンバー)の基本姿勢ではないでしょうか。

そういう意味では、安倍さんの国葬に反対する人々の姿を見ていると、「カルト・セクトに踊らされる情けない日本人」を見せつけられているようで、やるせない、そして、とても情けない気持ちにさせられます。

特に、メディアは、国葬において献花に訪れる何万人もの良識ある国民の姿を、市民の心情に寄り添うかたちでは報道しようとはしません。そして、一部少数の非常識な連中による破廉恥な反対集会の様子ばかりを好意的にとりあげるのです。偏向報道、ここに極まれり、との感があります。少なくとも、メディアの報道からは、追悼の気持ちは一切感じられませんでした。残念なことです。

 

 

 

盟友菅義偉さんの弔辞で、安倍さんが最後に読んでいた『山縣有朋』のマーカーが引いてあった箇所として紹介されていた、盟友伊藤博文に先立たれた山縣が詠んだ歌。

 

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 

菅さんの想いが伝わってくる気がします。

安倍晋三元首相のご冥福をお祈り致します。

 

ここ数日、吉田松陰の辞世の句が思い出されてなりません。

 

身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂