イスラエル国内のパレスチナ人自治区のひとつであるガザ地区を実効支配し、パレスチナ人によるパレスチナの地の解放と建国(※もともとパレスチナ人の土地であったパレスチナの地〈=イスラエル〉からユダヤ人を追い出し、パレスチナ人の手に取り戻すこと)を目標とするイスラム武装勢力ハマスは、10月7日、午前6時半頃から前例のない大規模攻撃をイスラエルに向けて行い、1000人を超す死傷者を出し、200人以上のイスラエル人や外国人を拉致してガザ地区に連れ去った。

その後、イスラエル側によるガザ地区への激しい報復攻撃が続いている。

イスラエルの現ネタニヤフ政権は極右政党と連立した史上最も右寄りのタカ派政権であり、イスラエルをユダヤ人の民族国家と規定し、ユダヤ人のみに民族自決権を認めると定め、ヘブライ語を唯一の公用語として、アラビア語を公用語から排除した政権である。

したがって、今回のハマスの襲撃に対して、政権のメンツにかけて100倍返しの報復を行うものと考えられている。

この紛争が短期間で集結する見込みはほとんどない。


この紛争は、イスラエルの同盟国アメリカと、ハマスを支援するイランの代理戦争でもある。

エジプト・サウジアラビアがイスラエルへの態度を軟化させている現状、イランは唯一の積極的なハマス支援国家となっている。

一方で、イスラエルの同盟国であるアメリカのバイデン民主党政権は、イスラエルのガザ地区への地上軍の侵攻を支持している。

ガザ地区では凄惨な民間人の犠牲が生じるのは必至だが、リベラルを信条とするはずのバイデン民主党政権に地上戦を止めようという意思はない。普段きれいごとばかり言うくせに、肝心の時には何も行動しない。民主党政権のお馴染みの態度である。


この戦争の直接的な原因として、第一次世界大戦中から第二次世界大戦中にかけて、イギリスに味方して戦うことを条件に、ユダヤ人にはイスラエル建国を、パレスチナ人には独立をと、結果として同じ土地に二つの異なる約束をしたことがある。

このイギリスの無節操さが、パレスチナ問題の実質的原因となっているのだ。

何だかんだと言って、1番悪いのはイギリスである。しかし、今回も、イギリスは、イスラエルへの支援を早々に表明し、パレスチナは無視である。ズル賢いイギリスは、相変わらず、自らの歴史的責任を放置して、強者であるイスラエル側にべったりである。

米英は、神の約束の地であるパレスチナに王国を再建しようとするユダヤ人のシオニズム運動に理解を示しているが、土地を奪われた被害当事者のパレスチナ人にとってみれば、「2000年前にユダヤ人が住んでいたのだから、ここはユダヤの土地だ」と言われても、まったく理不尽な物言いにしか聞こえないだろう。到底、納得できる話ではない。


また、中東問題の背景には、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の三者の宗教対立がある。

しかし、この3つの宗教は、元を正せば、実は3つとも同じ一神教の神を信仰する兄弟のような宗教である。

共通要素の一つとしては、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教において、3者に共通する同一の預言者(神の声を聴く者)の存在がある。

例えば、有名なアブラハムとノアとモーセは、この三つの宗教において、共通して預言者として認められている。つまり、アブラハムとノアとモーセは、ユダヤ教徒の祖先であると同時に、キリスト教徒、イスラム教徒の祖先でもあるということだ。

そして、ユダヤの神は、キリスト教の神と同一の神であるのと同様に、イスラム教の神とも同じ神である。対立する三つの宗教は、実は同じ神を信仰している。

ユダヤ教とキリスト教の共通の聖典は、これらの預言者が活躍する『旧約聖書』の物語だが、実はイスラム教の経典『コーラン』にも、旧約聖書と共通する記述は多く含まれている。

三つの宗教の教えには共通点が非常に多い。


だから、モーセが神から与えられた『十戒』は、ユダヤ教徒だけでなく、キリスト教徒やイスラム教徒にとっても神の戒めである。

その十戒の中に『汝殺すなかれ』という戒めがある。唯一の神は殺すことを禁じている。

それなのに、ユダヤ教徒とキリスト教徒とイスラム教徒は、共通する聖地であるエルサレムの領有権・支配権をめぐって、千数百年の間、争い続け、互いに殺し合ってきた。神の言葉を完全に無視する罪深い行いである。

異教徒との『聖戦』などというものは、神が殺すことを命じたのではない。人間が勝手に異教徒を殺すことを正義と思い込んでいるだけである。

三つの宗教が認める預言者モーセは、「殺すな」という神の言葉を伝えているのだ。殺すことは神の戒めに反する大罪である。


イエスについては、この三者で見解が異なる。キリスト教においてイエスは、それまで預言者たちが「神がユダヤの民を救うためにつかわすだろう」と繰り返し言ってきたメシア(救い主・救世主・神の子)である。そして『イエスがメシアである』と信じた者たちがキリスト教徒となった。

一方、イスラム教では、イエスはアブラハム、ノア、モーセの次の時代に現れた第四の預言者である。だから、イエスの存在についての捉え方は異なるが、キリスト教徒にとってと同様に、イスラム教徒にとってもイエスの言葉は神の言葉(イエスが神から与えられた言葉)である。だから、コーランにもイエスは偉大な預言者として描かれている。

そのイエスの有名な言葉に「己の敵を愛しなさい」「右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい」という言葉がある。簡単に言えば、「敵を憎むな」「敵と争うな」ということだ。

しかし、このイエスの教えは、キリスト教徒・イスラム教徒の双方によって、長年、無視されてきた。「剣か、コーランか」「十字軍よ集え」と、双方が、互いを異教徒として憎み、殺し合ってきた。それによって、彼らは、イエスの教えに反逆してきた。


一方で、ユダヤ教においてはイエスは預言者でもメシア(神の子)でもない。ユダヤ教徒にとってのイエスは、メシアを偽称した詐欺師である。ユダヤ教徒は「メシアはまだ地上に使わされていない」「メシアはこれから地上に現れる」と信じており、イエスの時代以降も、2000年の長きにわたって、辛抱強くメシアの到来を待ち続けているのである。

多くのユダヤ人は、20世紀のイスラエル建国の実現はメシア到来の予兆と考えている。

しかし、イエスに対する否定的な見方が、この2000年間、ユダヤ教徒がキリスト教徒によって迫害されてきた根本的な理由の一つである。

また、イスラム教徒は、ムハンマドを最後の預言者であるとして、これ以後、神の声を聴く者は現れないとしている。ムハンマド以降に現れた教祖は、すべて偽物の詐欺師ということだ。

一方で、ユダヤ教やキリスト教では、ムハンマドを預言者とは認めていない。彼らユダヤ教徒やキリスト教徒にとっては、ムハンマドは預言者を自称する詐欺師なのだ。


こうしたことから、共通の神を信仰し、共通する預言者の言葉を信じながら、この三つの宗教は、肝心な点でまったく相容れない教えとなっている。互いに憎み合うのも無理はない状況ではあるが、しかし、だからと言って「邪教を信じる人々を殺せ」というのは神の教えではない。

むしろ、彼らは、共通する預言者モーセによって与えられた神の戒め(『汝殺すなかれ』)に逆らう不信心者となっている。

キリスト教徒とイスラム教徒については、一方にとって神の子であり、一方にとって預言者であるイエスの根本的な教え『己の敵を愛せ』にも真っ向から逆らっている。彼らは、互いに、「己の敵を憎み、右の頬を打たれたら、相手の頭をかち割る」という態度を身につけている。

つまりは、ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、イスラム教徒も、実は、誰も本質的には神を信じていない。誰もが神を恐れぬ不心得者の背教者である。


旧約聖書には、歴史上、このような背教者しかいない時代が繰り返し訪れたと記されている。

アブラハムの時代(ソドムとゴモラの都市)、ノアの時代、モーセの時代にもあった。その度に、神の怒りが神の教えに反する人々を滅ぼした。

我々のこの時代においてもまた、神を恐れぬ行為の代償を払わねばならない裁きの時が近づいているのかもしれない。

イスラエルはガザ地区に戦車部隊を侵攻させる準備が完了し、地上戦開始は秒読み段階となっている。

また、イスラエル北部ではイランの支援を受けてレバノンを支配する民兵組織ヒズボラとの戦端が開かれつつある。

戦争の拡大は避けられそうもない。




2023年10月6日、埼玉県議会は、自民・公明による賛成多数で悪名高い『虐待禁止条例』を委員会で可決した。

13日には本会議で自民・公明党議員による賛成多数で可決され、条例が成立する予定だ。

以下に、その頭のおかしい条例の内容を記す。


小学校3年生以下の子どもが、大人を伴わず、たとえ高校生の兄姉と一緒であっても、自宅で留守番をするのは放置による虐待で条例違反。(市民の通報義務あり)

※親がゴミ捨てで家を離れるのも条例違反。

◯小学校3年生以下の子どもが、大人を伴わず、高校生の兄姉と登下校するのも条例違反。(通報義務あり)

◯小学校3年生以下の子どもが、高校生の兄姉と公園で遊ぶのも条例違反。(通報義務あり)

◯小学校3年生以下の子どもが、高校生の兄姉とおつかいに行くのも条例違反。(通報義務あり)

◯小学校3年生以下の子どもが、高校生の兄姉と外へ遊びに行くのも条例違反。(通報義務あり)

小学校4年生以上6年生以下の子どもが、大人を伴わず、留守番、登下校、おつかい、公園へ行く、外へ遊びに行くのもダメ!(努力義務)


田舎の子どもたちが、夏休みに自転車で川に遊びに行くというような風物詩も、完全に条例違反だ。

子どもの誘拐が頻発する欧米の事情で生まれた海の向こうの法令を、普遍的・絶対的に正しいものと考える欧米価値観至上主義に毒されて、哀れにも脳みそが膿んで腐ってしまった人々によって支配された自民党埼玉県連が、この国の実情を完全に無視した、ブラックジョークそのものの、とんでもない狂気の条例を通そうとしている。

彼らは、『欧米のやり方は、なんでも正しい』と思い込んでいるのだろう。

毎年46万人もの子どもたちが行方不明になり、父親が、公園で、でっかい銃を持って子どもの見守りをしなければならない物騒な国と同じ法令を実施することになんの違和感も抱かないとは…。

これでは『クレヨンしんちゃん』『ちびまる子ちゃん』や『柚木さんちの四兄弟』『の、ような』に描かれている、ほのぼのした日常のシーンが、ことごとく条例違反であり、児童虐待の置き去り行為ということになる。

そんな理不尽な法令があるか?

そもそも『クレヨンしんちゃん』の舞台は埼玉県春日部市ということだが、5歳のしんちゃんが春日部市で活躍する愉快な物語は、条例が可決すれば、丸ごと幼児虐待ストーリーということになって、放送禁止案件になってしまう。

その不合理さに気づきもしないとは、どうして、こんなに政治家の質が低くなってしまったのだ。

それとも、地域柄なのか。埼玉の自民党県会議員は伝統的にバカしかいないのか。

しかも、普通のバカではない。信じられないほどの馬鹿、途方もない極めつけの馬鹿だ。


私は自民党支持者だが、こんな非現実的で実行不可能な漫画にもならないトンデモ条例がまかりとおる埼玉県にだけは絶対に住みたくない。

動機は定かではないが、よっぽど子育て世代の家族を埼玉県から追い出したいのだろう。

まさか、子供のいない地域社会の構築を狙っているのだろうか。

『目指せ、高齢化地域!』とか…。

もし、万が一、こんなひどい法令が全国で施行されたら、この国では2人目の子どもを産む親はいなくなる。

まさに、異次元の少子化促進対策だ。

どうやら自民党埼玉県連は、この国を滅ぼしたいらしい。



※10月10日、全国的な批判にさらされた埼玉県自民党県議団は、虐待禁止条例案を取り下げると発表した。

この条例ができることで、社会全体に子どもを守る機運が高まることを期待していたそうだが、全国からの批判・非難の集中にさらされて、そうした趣旨が広く社会に受け入れられる状況にないことがわかったためだとの説明が県議団からあった。

いずれにしても、今回の件で、埼玉の自民党県議団は、大いに株を下げ、全国的な悪名を轟かせたことは間違いない。


①LION ライオン 25年目のただいま(2016)

インドで迷子になり、オーストラリアのリベラルな白人夫婦の養子となってオーストラリアに渡った5歳の男の子が、25年後に故郷を探し当て、母親に再会した実話を映画化したオーストラリア映画の名作。

アカデミー作品賞、助演男優賞、助演女優賞ノミネート。

しかし、この素晴らしい作品がアカデミー賞を一つもとれないのは不思議。



②ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011)

9.11をテーマにしたアメリカ映画の名作。

ニューヨークに住む11歳の男の子が主人公。主人公の男の子オスカーはアスペルガーだが、非常に頭がよく、神経が繊細で容姿の美しい子だ。

オスカーの最大の理解者であるお父さん役はトム・ハンクス。お母さん役はサンドラ・ブロック。

物語は、2001年9月11日の朝、国際貿易センタービルの50階にいたオスカーのお父さんの葬儀の場面から始まる。棺の中には遺体はない。空っぽの棺を埋葬する儀式に最中、オスカーは「詐欺だ」と叫び、そっぽをむく。オスカーは、理不尽な父の死を納得もできないし、我慢することもできない。ここから、オスカーの父を探す旅が始まる。

アカデミー作品賞、助演男優賞ノミネート。

この映画が批評家たちの評価が低かったせいで受賞できなかった理由がまったくわからない。



③約束の旅路(2005)

1984年、エチオピアに住むユダヤ人をイスラエルが引き取る(帰還させる?)という「モーセ作戦」により8000人のエチオピア系ユダヤ人が、内戦中のエチオピアから命懸けの移送作戦によってイスラエルに移住した。この時、母親の機転によって、ユダヤ人の集団に入れられて、ユダヤ人と偽ってイスラエルに渡った9歳の少年が、リベラルなフランス系ユダヤ人夫婦の養子となって成長し、医師となってエチオピアに赴き、難民キャンプで母親に再会するまでを描いたフランス映画の名作。しかし、この映画も意外に評価が低い。



④アイ・アム・サム(2001)

7歳児程度の知能という知的障害ゆえに、児童福祉局から父親としての養育能力なしと判断されて6歳の娘と引き離されたシングルファザーが、娘の養育権を取り戻すために戦う物語。

ロサンゼルスを舞台に、スターバックスで働く父親サム(ショーン・ペン)と娘ルーシー(ダコタ・ファニング)の親子の絆を描く。

アカデミー主演男優賞ノミネート。



⑤ライフ・イズ・ビューティフル(1997)

第二次世界大戦前夜、北イタリアに駐留したナチス・ドイツ軍によって強制収容所に送られたユダヤ系イタリア人の父親が幼い息子を守るために奮闘する物語。

ホロコーストの極限状況で息子の心を守り切る父親の姿を描いたイタリア映画の傑作。

第51回カンヌ映画祭審査員グランプリ受賞。第71回アカデミー主演男優賞・作曲賞・外国語映画賞。



⑥アメリカン・ハート(1992)

仮釈放で刑務所から出てきた元強盗犯の父親と貧民街で育った15歳の息子の交流と絆を描いたアメリカ映画の名作。売春やスリなどを生業として暮らすシアトルの少年少女たちの希望のない殺伐とした現実を舞台として描かれたリアリティのある物語。監督は1983年にシアトルのストリート・チルドレンを追ったドキュメンタリー映画「子供たちをよろしく」を制作したマーティン・ベル。残念ながら、あまりにも作品の評価が低過ぎる。



⑦旅立ちの時(1988)

ベトナム戦争の時期に反戦活動家として反政府活動に参加して指名手配を受け、それ以後、流浪の逃亡生活を続けている両親と共に暮らしている17歳の少年の葛藤と成長を描くアメリカ映画。主人公は、当時、人気絶頂だった若手俳優のリヴァー・フェニックス。

シドニー・ルメット監督作品。

アカデミー助演男優賞、脚本賞ノミネート。

もっと評価されてよい作品だと思う。



⑧普通の人々(1980)

長男の水死事件以来、その死に責任を感じて傷ついている繊細で豊かな感受性を持つ次男を中心に、家族の心が離れてバラバラになってしまっているシカゴ郊外に住む弁護士一家の家庭を描く物語。

この作品に出てくる自己中心的で酷薄な母親の姿は、今では珍しくもないありふれたよくある母性欠如タイプの母親である。だが、その姿を『普通の人々(邦題:アメリカのありふれた朝)』と銘打って著した原作小説(著者ジュディス・ゲスト)は、当時、センセーションを巻き起こした。私も映画以前に新刊の翻訳本(1981)を読んで強く印象付けられた記憶がある。

映画の方も、アメリカのWASPの上流中産階級家庭の崩壊をテーマとする名作。

第53回アカデミー作品賞・監督賞・助演男優賞・脚色賞受賞作品。



⑨クレイマー、クレイマー(1979)

ニューヨークを舞台に、夫(ダスティン・ホフマン)と5歳の息子を置いて、妻(メリル・ストリープ)が突然失踪し、父と子の手探りの生活が始まる。

父親の子育ての悪戦苦闘を描いた名作。母親の母性に対する父親の父性の勝利ということか?

いや、父親でも母親でも、より身近にいて自分の時間と精力を子どもに捧げ、共に喜び、悲しみを味わって生きてくれた方を子どもは選ぶという単純なことなのだろう。

第52回アカデミー作品賞受賞作品。




九つの物語に共通するテーマは『家族』『父と子』『母と子』の絆。西欧文明、特にアングロ・サクソンにおいては、母性の蔑視と父性の尊重の価値観が根深いようだ。9作品のうち、5作品(②④⑤⑥⑨)は、アングロ・サクソンの父親の愛がテーマとなっている。9作品のうち、母性愛の本能的で根源的な強さを描いた2作品(①③)は、アジア・アフリカ系の母親の母性を恋慕う息子の物語である。また、⑧はアングロ・サクソンの母親の母性の欠如を描いた作品。⑨では、アングロ・サクソンの母親の母性の動揺を描いている。唯一、⑦は、母親の愛と父親の愛をバランスよく描いている。

世界的に見ても、1970年代から、一般家庭の普通の人々において、親子の葛藤や断絶、家族愛の欠如や家庭の崩壊が顕在化してきた。

しかし、その一方で、親子の深い愛情や絆を描く名作が多く生まれるようになった。

実社会で、一般家庭における家族の絆の脆さや親子の情の薄さが顕著になる一方で、映画作品の中では、失われた親子の関係を取り戻そうとする強い動きが見られるようになったということだ。

『大道廃れて仁義あり、六親和せずして孝慈あり』ということだろうか。



ジャニーズ問題の構造について考えてみたい。


芸能界における小児性加害問題は、絶対に男子だけではない。現在告白によって表面化しているのは氷山の一角であり、むしろ、ジャニーズ以前から女子アイドルを餌食とする小児加害は芸能事務所の営業の一環として芸能界に広く蔓延していたものと考えるのが自然である。


②しかも、その強制的で騙し討ち的な枕営業の相手は、テレビ局の大物プロデューサーなどがメインであったろうと推測される。つまり、もともとテレビ局と芸能界は、小児加害の温床だったのであり、その闇は一度として暴かれたことはなかった。


③だから、ジャニー喜多川氏の常習的性加害も、芸能界にありがちな行為として、業界内部では、とりたてて騒ぐべきものでもなかった。業界内では、どこにでもある珍しくもない話だったのだ。

ジャニー喜多川氏の存在以前に、既に芸能界とテレビ局とのタッグは小児性加害の再生産装置として、戦後、長い間、十二分に働いてきたからだ。その需要は、政界や関係するスポンサー企業の一部にも深く食い込んでいることだろう。


④従って、美川憲一さんや古舘伊知郎さんや上沼恵美子さんがおっしゃるように、根本からズブズブに腐りきっている芸能界とテレビ局の自浄作用に期待するのは、そもそも不可能である。「これまでべったりの共犯関係だったものを、いまさら、どう反省しろというのだ?」という困惑すら広がっているのが業界やメディアの現状(本音)ではないか?。

そして、BBC報道のような外圧に対しても、『何とかお茶を濁してごまかしておいて、ほとぼりが冷めるまで逃げ切ろう』という時間稼ぎの意識が業界全体に強く働いている。

口ではまことしやかなきれいごとを並べているが、本心などどこにもない。関係者は、皆、嘘つきだ。


⑤新浪氏のように、もともと芸能界の闇の部分との裏の結びつきの弱いクリーン(?)な企業人たちは、この状況にフラストレーションを募らせている

「なぜ、まともな自浄作用が働かないのか?」(なぜジャニーズが存続しうるのか)と。

しかし、彼ら、清廉潔白な産業界の諸氏については、同業者(企業人)ですら、この小児性加害の闇にのまれている人々があまりにも多いという深刻な実情を、どれほど理解できているか、いささか心許ない。


私がイメージするのは、聖書にあるソドムとゴモラの都市、そして、ポンペイの悲劇だ。

欲望の資本主義に呑まれたソドムとゴモラの都市は、神の審判により塩の柱に変えられた。同じく欲情と背徳の歓楽都市であった古代ローマのポンペイも、突然のヴェスビオス火山の大噴火によって、降り注ぐ火山灰の下に埋もれて滅びた。

今、この国にも、当時と似たような破滅的な危機が迫っていることを強く感じる。

自らを浄化できない者は、遅かれ早かれ、歴史の審判に向き合うことになるのだ。

それは、そう遠いことではないだろう。



※10月4日、ジャニーズ事務所による10月2日の記者会見における「質問NG記者リスト」と「指名優先記者リスト」の存在とその使用をNHKが報道し、ジャニーズ事務所はそのリストの存在を認めた。

ただし、ジャニーズ事務所の釈明によれば、このリストを作成したのは記者会見の進行を委任していた外資系コンサルタント企業であって、ジャニーズ事務所の意向ではなく、むしろ、事前に質問拒否はしないように申し入れたのであって、会見を進行した6名のスタッフが「NGリスト」と「指名優先リスト」を会見中持ち歩いて、NG記者や優先記者の席をチェックしていたことなどは、ジャニーズ事務所のスタッフは誰1人知らなかったと釈明している。

けれども、決定的なのは、ジャニーズ側が事前に「NGリスト」の存在を知っていたということを告白していること。このリストを廃棄させなかったのは事務所の責任。また、外資系企業がわざわざ依頼もないのにそうしたリストを作成した動機も理解し難い。さらに、ジャニーズ事務所側が、リストを作成・使用した責任を記者会見進行委託会社になすりつけているのも見苦しい。コンサルタント会社側の担当者は、会見の方針はジャニーズ事務所側と共有していたと述べている。事務所側を陰で操る裏ボス白波瀬氏(元メディア対策担当副社長・現嘱託社員)あたりが関与していた可能性は誰しも想像するところだ。

このリスト(司会松本和也氏にも渡されていた)に基づく司会進行役による恣意的な質問指名によって会見は必然的に紛糾したわけだが、それを松本さんは「フェアです」「茶番ではないです」と言い、井ノ原さんが「皆さん、もっと落ち着いて、平和的に振る舞いましょう」と呼びかけたのも、今となっては茶番にしか見えない。井ノ原さんも、めんどくさい記者の質問は後半に持ってきて時間切れを狙うことには了承していたんですよね?

結果として「もともと公明正大な会見を行うつもりがなかったのではないか?」という決して拭えない疑念を一般社会に印象付けることになった。また、未来を背負う子どもたちに、またしても、過ちを犯した大人の汚い誤魔化し方を教授してしまったことは間違いのないところだ。



取材側「合宿所でジャニー喜多川の餌食になる未成年の性被害者の後輩に向かって、最年長の先輩として『今日はお前やられてこいよ』と言っていたというのは本当ですか?」


東山社長「昔のことで記憶が定かではありません。」


孔子を知らずに孔子をありがたがる人々のことを、『論語読みの論語知らず』と言う。

確かに孔子の実像を知らずに、孔子の教えを批判する人は多い。

特に、孔子の教えは、堅苦しい偉そうな先生によるつまらない言葉だと思っている人が多いようだ。『朝に道を知れば夕に死すとも可なり』とか『己の欲せざるところを他人に施すこと勿れ』とか、建前ばかりの綺麗事で、非現実的な道徳くさい言葉ばかりだと言うのだ。

しかしながら、そうしたイメージを持つ人は、おそらく論語を本当には読んでいないのではないだろうか。

つまり、論語読みですらないのではないか。『論語読まずの論語知らず』ということだ。


私は、論語を読んでいて、誰を連想するかというと、ギリシャのソクラテスだ。

孔子とソクラテスには、共通点が多い。

一つは、ほぼ同時期(紀元前5世紀頃)に活躍した2人は、ともに貧しい生まれであること。孔子は、母1人子1人で、母親の苦労を見ながら育った。ソクラテスも、ある意味、着の身着のままで、何の資産も持たず暮らしていた。しかし、その一方で、2人とも、良き家庭人で、子どもたちには母親を敬うようにと教えた。

孔子は、「私は、よく人にあなたは何でもできるとよく言われるが、それは貧しくて何でもやらないと生きていけなかったからだよ」と弟子に言っている。

ソクラテスも、「まず生活できなければ、綺麗事を言っても始まらない、ともかく稼がないと」と人にアドバイスしている。

もう一つの共通点は、孔子もソクラテスも、実際の戦場を知っている生粋の戦士であるということだ。当然、殺し殺される体験を潜り抜けてきている。孔子は、小国だった魯国の宰相として、自国が生き延びるために隣国を叩くこと、隣国の王を和睦の席で暗殺することさえ画策した。諸国を巡っていた時も、時には生き延びるために、弟子たちを率いて戦った。ソクラテスはアテネ軍が退却する時は〝しんがり〟を務めたこともある。2人とも、大男で、恐れを知らない勇猛な戦う男だった。

孔子は、国が維持されるために、もっとも必要なものは、武器でも食糧でもなく志だと言った。食糧がなければ人は死ぬ。けれども、もともと人はいつか死ぬ生き物だ。大切なのは互いに信じ合うことができ、命すらも犠牲にして惜しまぬ共通の目標なのだ。そうした国を想う志がなければ、たとえ武器があり、食糧があっても、民が立ち上がることはない。そういう国は、いずれ遠からず滅びるということだ。

ソクラテスは、自らの生きる意味を神(ダイモーン)に委ね、自分は十分に生きたと信じられた時には、不当な裁判による死刑判決さえも受け入れて、少しも心を乱すことなく毒杯をあおることができた。

三つ目の共通点は、孔子もソクラテスも、真に優れた一部の若者たちに深く敬愛され、生涯を共にする弟子たちに恵まれたが、その一方で、決して時の権力に迎合することなく、どれほど排斥されようと、命の危険が及ぼうと、まったく怯むことなく、一切保身による権力者への忖度をせずに、生涯、己の信じるところを曲げず、貫き通したことだ。

当時、支配階層の人々は、アテネでも、春秋戦国の中国でも、彼らの存在を疎んじていた。そして、2人は、たびたび排斥された。孔子は、弟子たちとともに諸国放浪中に、孔子を亡き者にしようとする追手との激しい戦闘を、何度も潜り抜けなばならなかった。ソクラテスは、「青少年を得体の知れない宗教で惑わした」として、アテネ市民の排斥派によって裁判にかけられ、死刑宣告を受けた。

しかし、2人とも生涯自らの境遇を嘆くこともなく、自らの運命を進んで引き受けた。

私には、孔子とソクラテスは、同時期に、中国とギリシャに別れ別れに生きた、二つの同種の魂のように感じられる。


さて、孔子と同時代の人物とされる中国の思想家で「老子」がいる。しかし、孔子と違って老子は実在しなかった架空の人物ではないか、とも言われている。あるいは孔子より後の戦国末期の人物ではないかとも言われる。

しかし、中国では、「荘子」に載っている〝孔子が老子の教えを受けた〟という記述を信じる人が多い。つまり、老子は孔子の先生であるという主張である。

しかし、この説には無理があると思う。

むしろ、孔子の教えに対する批判として後世に生まれた諸説が、伝説上の人物の言葉として創作され、それが語り継がれたものではないか。そう考える方が自然である。

一方で、中国では、老子の思想は「反権力」を象徴するものとしてイメージされる。その反対に孔子の思想は権力者にとって都合の良い「人を支配するための思想」と考えられることが多いようだ。

確かに孔子より後の時代、儒家の思想の一部が身分や地位に分相応であることを主張したことは確かだ。しかし、孔子の思想そのものは、同時代の権力におもねるものではなかったし、権力者に都合の良い思想でもなかった。

上記したように、論語によると、孔子は、国を治める上で大切なものを武と食と信と述べた。このうち大切なのは食と信であり、最も大切なものは信であると言った。食がなければ人は死ぬが、いずれにしても人は死ぬ。そして、国への信頼がなければ、国民が立ち上がることはない。信頼がなれば、国は立ち行かないと言うのだ。

孔子は戦国時代のリアルな国際政治の現場を知る大政治家だった。小国の宰相を務めたこともあった。だから、孔子の言葉は、徹底したリアリズムに貫かれている。

それに対して、老子の言葉は夢幻的で非現実的で桃源郷的でさえある。

無為自然、小国寡民、上善如水、それら老子のものとされる言葉は哲学的な魅力に満ちているが、実生活を生きる指標には適さない。

『大道廃れて仁義あり。』(無為自然の大いなる道が廃れたので、人為的な道徳を説くために仁義という概念が生まれたのだ。)

孔子の教えへの激しい批判の言葉であるが、孔子の死後、その教えが世間に広まっていた状況での批判と考えるのが妥当だろう。

教育は悪である。文明は悪である。発展は悪である。国は小さい方がいい。一生涯、自分の生まれた村の外と付き合う必要はない。道も橋も要らない。文字(文化)もお金(経済)も必要ない。商業も流通も要らない。進歩も努力も要らない。上を目指すな、下を目指せ。

それが人為を否定する老子の教えだ。

今、多くの教育熱心な中国人が、教育を重んじて学ぶことに価値をおいた孔子より、老子の方が好きだと言う。

しかし、本気とは思えない。本気だとしたら、相当に老子の教えを誤解(曲解?)しているのではないだろうか。

「老子の教えは自由の教えだ」と中国人は言う。「無為自然というのは自由にしてよいということだ」と。

「いや、違うだろう」と反論しても、「日本人は変わった捉え方をしているんだね」で済まされてしまう。

どうにも話が通じない…。