「異端児、常識を疑う」
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マスコミ亡国論

マスコミ亡国論再販されました。今読んでます。

気力

若いお母さんが亡くなり数か月後、5歳なった男の子が母の死を認識しはじめたという。

残された父親が5歳の息子にかけた言葉が、

「男の子ならこらえて元気にしていなさい」

だったという。

この言葉は、父親が5歳の息子という立場の人間にかけてやれる精一杯の言葉だったかもしれない。

少なくとも他人である自分には、この言葉しかかけようがないと胸打たれる。

相手の身になってかけてやる言葉は、必ず「感動」をもたらす、「笑い」をもたらす、そして「ユーモア」がうまれる。

そして、その前提条件は「まずはその相手のことが好き、愛おしい」相手でなければ、そういう言葉はかけてやりたくても本心からかけらることはできない。

その人の身になれるような相手であることという条件が必要です。

しかし、そういう相手とめぐりあうことは簡単にはいかない。

人が好きな人は、そういう相手とめぐりあう可能性は広がるでしょうが、人が嫌いな人はどうすればよいか。

まず思うのは、好きになれることが少ないかもしれないが、好きな人を見つけること、それに尽きるのではないか。

すべての人を好きになる努力をしても仕方がない。たくさんの人の中で「この人は!」と思える人を探せばいい。

好きな人は数ではない。ひとりいればその相手を思いやり、愛おしく思うことは可能なのだから。
好きな人を愛おしく思えることが大事なのです。

それでも人が嫌いな人はどうすればよいか。
まさに、これは現代の問題です。ひきこもりや社会との接触ができない、方法がわからないという問題です。
好きになることの第一歩目から気力を奪われてる問題です。

ここで気づくのは、好きになるには「気力」が必要であるということ。
この力の源泉は「欲望」なのです。
「欲望」が「気力」を生むのであれば、「気力」が失せている状態は「欲望」すらが発動されない状態。

社会は横に広がっている世界です。横を見れば競争、競合がひしめきあい、嫉妬やエゴイズムで渦巻いてる世界です。
勝ち負けという形で評価を下されたり、その「欲望」は満たされずあえなく失脚の憂き目にあう。
そうして人間を信頼できなくなるのも当然の成り行きに思えます。
逆に欲望の限りを引き延ばし、果てしなく欲望を追求するものがいるのも当然といえば当然でしょう。

どちらも両極端です。終わりなき、節度なき運動の繰り返しです。

ここで考えなければならないのは、横に広がる社会に対し、縦軸につながる世界のことです。

時間軸、世代間と言い換えてもよいでしょう。

時間というものは何のためにあるのか。
ただ物は風化し、人が年老いるだけのものという価値判断も可能であるが、やはり「欲望」に身を浸す人間である以上、
自分が費やした時間を意味あるものにしたい、価値観を見出したいと思うでしょうし、「これは!」と信頼に値するものを手に入れたいと思うでしょう。

「欲望」は満たされるとまた次の「欲望」へと際限がない性質をおびています。
時間というものは、どこまで行っても「欲望」の満たされなさの中に、人間の不完全性を示唆している。
そして、人は一歩とどまり、懐疑することを学ぶ。
このようにして、本来人は時間の中で様々に成功や失敗を繰り返すことによって、良識や価値観を身に着けてゆくのです。

つまり時間というものに人の言葉や体験は熟成され、確実に受け継がれてゆくはずです。

若いお母さんを亡くした5歳の男の子は父親から、最大限身になってかけられた言葉を受け止め、意味を年齢なりに咀嚼し、育ってゆく。

きっとこの男の子はこれから先、「この人は!」と思える人を、「これは!」と信頼に値するものを手に入れようと必ず進んでゆくことと思います。
生きる「気力」を与えられた瞬間ともとれるでしょう。

今、気力を奪われてる人は、「欲望」がないのではないのです。自分の気持ち、立ち位置が分からなくなってるのです。
その相手に対する気持ちは、愛か?恋か?ただの情か?
その前に「愛」と一般的に言うが、実体は何であって、自分にとってどういうものかわかってるのか。
「欲望」を「気力」に変えてゆくとはどういうことか、どんなことが必要なのか、時間軸の中から暗闇の中でつむぎだす作業が求められている。

そういうことを真っ暗などん底の中で何日も悩みゆいた先に、感覚は少しはマシに研ぎ澄まされ、ひとつの答えを手に入れるのはずです。

表現者、西部邁~生命第一主義の命脈を断て

一報は1/21(日)夕方頃、テレビのニュースで知りました。

「西部邁さんが死去、自殺か」

第一報での率直に感じたことは、「ついに来たか」だった。

それは「西部邁」という人間が、実際ご高齢でそう長くはないと自身もおっしゃっていて、再三にわたり「死に方」、死生観について語っており、
もしかしたら…と、漠然と想像していたからそう感じたのだと思う。

そしてこの「死」から西部さんを初めて知った時までさかのぼって振り返ることで、「西部邁」という方がどんな人間だったかをもう一度確かめたい。

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自分にとって西部さんとの出会いは高校生の頃、「朝まで生テレビ」に出演されていたことでした。

政治や民主主義、戦後史観や社会情勢などについて、教科書や新聞から得た知識もしくはイメージしか持っていない、しがない高校生の頃です。

ということで、しゃべっている内容はあいまいにしかわからないのだが、西部さんの語り口には、どこか説得力があり、魅力的であったことはしっかりと覚えています。

物事をきれいごとで片づけるのでなく、しかし単なる毒舌をまき散らかすだけでもない、それでいていたずらに討論におぼれるのでなく、議論の核心となる部分に近づこうとする意欲、
いたずらやおふざけは大抵許してくれそうだが、人生すらもそれで染め上げようなどとは頭がおかしくなるぞというその時代の知識人たちへの警告ともとれるような態度、
高校生でもそういう、本気のオーラを受けとったことは確かでした。

あの魅力はどこから来るものなのか。

西部さんという人間を語るときに代表的な表現として「保守の論客」と言われることが多い。
即ち、敵を作る、排他的という観念で人間性を語られることが多い。

でもそれは間違いと思います。

なぜなら、西部邁ゼミナールでは安部首相が下野していたとき(民主党政権時代)にゲストに呼んで励ましていたが、今の安部政権の政策には厳しく批判をしていたし、
逆に民主党政権を死産せると厳しく批判したが、鳩山由紀夫元首相をゲストに呼んで活動を励ましたりしている。
もっと昔の話だと、宮台真司さんとある番組で議論が激突して西部さんが先に退場したときも、楽屋で宮台さんを待っていて励ましたこともあるという。

なんで"鳩山"なんぞ自分の番組に呼んだのだとか、信念がないぞという意見が先に立つとは思う。特に「保守主義」を標榜する人ならば。

だが、このことは西部さんは思想家であるのだが、人が持つ思想というものにもやはり疑いを持っていることの証だとも解釈できる。

つまり、これも西部さんがよく言っていたことで、人間は誤謬を伴う生きものだということで、
極論するとたかが一人間が、大層立派な思想に至れるというのは、まずはあつかましいと構えるのが自然であって、
ゆえに、あの人やこの人が語る思想にこだわって、非難ばかりしているのも野暮な話で、
それより逆に「お前の言い分も聞いてやるか、それでまたおかしなことを言ったらいくらでもた叩いてやるぞ」と、
そうやって表面上の議論も繰り返される内にやがては、「お前の本心やお前の苦しみなんかが明るみになってくれば、少々ましな思想とやらが垣間見えてくるんじゃないか。」
そんな風に構えていたから、安部さん、鳩山さん、宮台さんへの対し方があったと思うのです。

「思想は大事だが、思想を疑うことはもっと大事である。」ということ、
そして「論客」と世間では言われているものの、自分の意見を堂々と押し通し、相手を論破することだけを目的に議論する人物ではなかったのではないか。

それは著書でこんな風にも言ってもいます。

「私自身は、もう齢だからいってしまいますが、御人好しで情にもろく、困った人がいたら助けたいと思い、威張っている者がいたら喧嘩してしまう気質(たち)の人間にすぎません。
こんな平凡な人間なんです。」と。

こういうふるまい方、表現方法が西部さんの真骨頂なのだと思うし、やはり西部さんは単に思想を内にこもらせてるだけの思想家というより、表現者あるいは実践者と呼ぶのがふさわしいと思うのです。

この表現者として、実践者としての西部さんは、こんな平凡な人間なんだと自己を表現した後にこうも言っています。

「こんな平凡な人間が他人様にみせるに値する「非凡な生と死」を展開できると思っているわけでもないのです。」

「私の念願しているのは、恥ずかしい生き方や死に方はしたくないということだけです。」

もう何年も前ですが、西部邁ゼミナールで、生命尊重だけを叫び、延命のための社会保障が足りぬと不平不満を述べ立てる風潮に対し、
シベリアあたりに鹿かインパラのようなある動物がいて、敵と戦い傷つき自分が役立たずとなったと悟ったら崖から飛び降りて自殺するという話をされて共感されてたのが印象に残っています。

「恥ずかしい死に方はしたくない」
実践者としての西部さんのその信念には今更疑いようがありません。
また自分に問われたとき、その信念が説得してくるように、「あいつは生にしがみつくような生き方だった」と思われるより「潔い死に方だった」と思われたいと願うものである。

だが、それを自分も全うできるか、つまり自分の死を自分で決めることができるかと問われたとすると、はっきり「Yes」とはまだ言えない自分もいる。

「生命第一主義の命脈を断て、生命に対する過剰なこだわりと縁を切れ」
西部さんのこの言葉は、これから決して頭から離れることはないだろう。

いなくなっても構わない

「いらっしゃいませ。」
「あのうすみません、最近色々とつらくて、楽に死ねる方法はありませんか。」
「それなら、首吊りがおすすめです。」

座間9人殺害事件のSNSであった自殺の方法は、あたかも店員が商品をすすめるかのようなやり取りで行われていた。

ビートたけしが、「今の若者は苦労することが生きている証とは思えなくて、足元から生きる意味が無くなってきてる。
自分たちの時代はひどい目にあっても、「それがいきてる証拠だ」と思っていたし、良いことも悪いこともあるから面白いとポジティブに捉えていた」
といったらしい。

時代は変わったといえ、「生きる意味」というものは果たして実在するのだろうか。
そういうものを明確に自覚して生きられてる人はたくさんいるのだろうか。

何を生き甲斐と感じ、何を幸せと感じるか、そういう抽象的な問い掛けに対し、明確な実感を与えてくれるのはやはり物質的なものの満足、リアルな充実感なのでしょう。

しかし物質的なものは満たされてきたときに、そこにはやはり不満があるわけです。

どこまで行っても人間は憧れるものがあり、なお満ち足りないものがある。
そうなるとまたしても「生きる意味」というものは分からなくなってくる。

人間に「生きる意味」を明確な形で持つことは可能なのだろうか。

こういう難しい問いには、
「それなら、福田恒存がおすすめです。」と言ってしまいたくなるものです。

福田恆存氏ならこのように問いを導いています。

人間というのはやっかいなものだが、人間が作ったものには全て「本質」、つまり「目的」があるといいます。
例えば“鉛筆”には鉛筆としての「目的」や「用途」が先にあり、そのあとで「ああこれが鉛筆というものなんだ」と「存在」があります。

逆に“人間”は「本質」や「目的」があとで、「存在」が先にある。
私は何のためにいるのか分からないというのは実は当たり前になる。シビアな言い方かもしれないが、よくわからず生まれてきた、産み落とされたという事実は真っ向から否定できないのです。

すなわち人間というのは本来「目的」がないのだから、いなくなったって一向に構わないわけです。

人間がそんなに貴重だと思うのは何かの錯覚であって、原爆で一瞬に吹っ飛んでもなんということもないのです。

人間はただまず、「存在」したというわけです。

福田恆存氏はこういうところから話を出発させています。
そして単に退廃的なことを言ってるのではありません。

人間はただ生きていたいのでしょう。と。
何かのために生きるのではなく、生きていたいのでしょう。
自然のちからにおされてただ生きてるのでしょう。
自然の一部である人間は、自然的な調和を欲しており、我々はそれを幸福と名づけるわけです。

こうなると、益々わからなくなってしまった人も居るかも知れないので、福田恆存氏は次のようなことが大事だと言っているので付け加えておきます。

人間にはユーモアが大事だと。

ユーモアとは人を笑わせるとかとは少し違います。

論じてる対象、あるいは戦ってる相手との距離を広くする、ゆるくすること。
何でも許すのではなく、距離を置くということで、距離をもって眺めるということです。

みんなが苦しんでることもはたから見れば喜劇となることもありえるでしょう。
だから自分が賢明であり、まじめであり、何かに向かって努力するのはいいけれど、それを眺めてる自分はキリキリ舞いしない、距離を持つことは大事なのことだと言っています。

大報道は朝生まれ、夕に死す

豊田議員のパワハラ疑惑、蓮舫議員の二重国籍問題、元SPEED議員の不倫疑惑、山尾議員の不倫疑惑と、最近立て続けに女性議員のスキャンダルが報道されている。

もちろん国会議員の不祥事は批判されて然るべきものではある。

一方、マスメディアの側は新聞なり映像なりが見られ、売れなければならない。次から次への新しいネタに狙いをつけては世間に垂れ流す。

そして、時が経てば、スキャンダル報道は何もなかったかのように忘れ去られてゆく。

まさに「大報道は朝生まれ、夕に死す」のである。

これは昭和の時代から同じサイクルで今も大して変わりはないであろう。
どうしてこの繰り返しから逃れられないのであろうか。

その答えもマスメディア批判論では、既に繰り返し言われてきている。
その最大の理由は、大衆の「退屈」がそうさせているのだと。

マスメディアが垂れ流すスキャンダルを受信した大衆は、批判の対象である女性議員を憂さ晴らしかのようにバッシングする。
そしてこの一時の退屈しのぎの興奮がおさまるとまた次の批判対象が提供され繰り返される。

この悪循環に大衆が取り込まれてるのは「退屈」が最たる要因であるのだと。

大衆がお粗末なのはわかった。
しかし、もう一方のマスメディア側の正常性についてはどうだろうか?
「売れるためなら何でも垂れ流す」無機質な装置だという批判はこれも昔からある。

だが、目的のためなら手段を選ばないという無機質な性質以外に、致命的な障害がマスメディアには孕まれているということを、
言語学者のローマン・ヤコブソンが分析した失語症患者の症状になぞれらえて見てみると、この問題の本質が一層浮き彫りになってくる。


マスメディアが次から次へとへとスキャンダル報道を転移させてゆく表現の仕方は、失語症患者の「類似性障害」という症状と非常に似ている。
「類似性障害」とは換喩(この場合、女性議員の話題の次に類似した女性議員の話題をつなげてゆく表現法)のみを繰り返してしまう症状とされる。

そしてこの「類似性障害」患者の特徴的な症状は、自分から対話の口火を切るのは難しく、相手との対話でコミュニケーションの理解を深めながら共感を見つけ出すことが苦手とされる。

マスメディアというのは、たんなる情報のやりとりしか実現する能力がなく、大衆に媒体(メディア)を通して、共感や意識・行動の変化を芽生えさせるような能力はないのである。

マスメディアの発するメッセージからは社会の中での共感というものを感じ取ることは不可能なのであり、
マスメディアの発するメッセージを受け取り続けると真の孤独にさいなまれるのである。

ヤコブソンは提唱する。

言語には個人的所有物というようなものはひとつもない。
すべてが社会化されている。
あらゆる言語交換はすくなくとも二人の伝達者を必要としている。と。
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