いなくなっても構わない | 「異端児、常識を疑う」

いなくなっても構わない

「いらっしゃいませ。」
「あのうすみません、最近色々とつらくて、楽に死ねる方法はありませんか。」
「それなら、首吊りがおすすめです。」

座間9人殺害事件のSNSであった自殺の方法は、あたかも店員が商品をすすめるかのようなやり取りで行われていた。

ビートたけしが、「今の若者は苦労することが生きている証とは思えなくて、足元から生きる意味が無くなってきてる。
自分たちの時代はひどい目にあっても、「それがいきてる証拠だ」と思っていたし、良いことも悪いこともあるから面白いとポジティブに捉えていた」
といったらしい。

時代は変わったといえ、「生きる意味」というものは果たして実在するのだろうか。
そういうものを明確に自覚して生きられてる人はたくさんいるのだろうか。

何を生き甲斐と感じ、何を幸せと感じるか、そういう抽象的な問い掛けに対し、明確な実感を与えてくれるのはやはり物質的なものの満足、リアルな充実感なのでしょう。

しかし物質的なものは満たされてきたときに、そこにはやはり不満があるわけです。

どこまで行っても人間は憧れるものがあり、なお満ち足りないものがある。
そうなるとまたしても「生きる意味」というものは分からなくなってくる。

人間に「生きる意味」を明確な形で持つことは可能なのだろうか。

こういう難しい問いには、
「それなら、福田恒存がおすすめです。」と言ってしまいたくなるものです。

福田恆存氏ならこのように問いを導いています。

人間というのはやっかいなものだが、人間が作ったものには全て「本質」、つまり「目的」があるといいます。
例えば“鉛筆”には鉛筆としての「目的」や「用途」が先にあり、そのあとで「ああこれが鉛筆というものなんだ」と「存在」があります。

逆に“人間”は「本質」や「目的」があとで、「存在」が先にある。
私は何のためにいるのか分からないというのは実は当たり前になる。シビアな言い方かもしれないが、よくわからず生まれてきた、産み落とされたという事実は真っ向から否定できないのです。

すなわち人間というのは本来「目的」がないのだから、いなくなったって一向に構わないわけです。

人間がそんなに貴重だと思うのは何かの錯覚であって、原爆で一瞬に吹っ飛んでもなんということもないのです。

人間はただまず、「存在」したというわけです。

福田恆存氏はこういうところから話を出発させています。
そして単に退廃的なことを言ってるのではありません。

人間はただ生きていたいのでしょう。と。
何かのために生きるのではなく、生きていたいのでしょう。
自然のちからにおされてただ生きてるのでしょう。
自然の一部である人間は、自然的な調和を欲しており、我々はそれを幸福と名づけるわけです。

こうなると、益々わからなくなってしまった人も居るかも知れないので、福田恆存氏は次のようなことが大事だと言っているので付け加えておきます。

人間にはユーモアが大事だと。

ユーモアとは人を笑わせるとかとは少し違います。

論じてる対象、あるいは戦ってる相手との距離を広くする、ゆるくすること。
何でも許すのではなく、距離を置くということで、距離をもって眺めるということです。

みんなが苦しんでることもはたから見れば喜劇となることもありえるでしょう。
だから自分が賢明であり、まじめであり、何かに向かって努力するのはいいけれど、それを眺めてる自分はキリキリ舞いしない、距離を持つことは大事なのことだと言っています。