日時計主義の生き方 -10ページ目

運もお蔭も我が心にあり



「今までは運がついていなかった」とか

「運さえめぐってくれば成功する」など

という人が時々あるけれども、



゛運゛というものは向こうからめぐってくるのではなく、

自分の゛心のハンドルをもって廻すべきものなのである。



゛運゛というカラクリが向こうからめぐって来る

などという他力本願のことを考えてはいけない。



「環境も肉体も自分の心の影」なのである。

イエスは汝の信ずる如くに汝にまで成れ」と言っている。



そして「もし芥子種ほどの信だにあらば,

この山に動いて海に入れと言うとも必ず成らん」

ともいっているのである。



釈尊は此の世界を゛唯心所現゛の世界、

すなわち゛心の展開する世界゛と解釈せられたのである。



金光教祖は「頼まないでもお蔭はやってある・・・・

まことの大道を」開き見よ、お蔭は我が心にありと

教えられた。



お蔭も運も、先方からめぐってくるのではなく、

自分の゛心のハンドル゛または゛信仰の鍵゛をもって、



すでに神から与えられている無限の宝庫を

開くことによって、得られるのである。



環境も肉体も自分の心の影」なのである。



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   












゛二者択一゛に途惑う場合には


右にすべきか左にすべきか決定しがたい事が

人生には度々起って来るのである。



その時、あなたは、心を神に振り向けて、

神の無限の繁栄の叡知の導きを受けるがよいのである。



神に心を振り向けるまでになすべきことがある。

それは自分の計画または「なさんと目論見つつある事」が、

゛自分の野心゛か、゛利己心の満足゛のためか、



それとも、何らかの人生に、社会に、国家に寄与せんとする

愛他的精神が動機になっているかを省みることである。



そして、゛自分の野心゛や゛利己心の満足゛が目的である場合には、

右にするも左にするも一時はうまくゆくように見えても、

やがてそれは墜落するほかはないのであるから、



計画を建て直し、考え直す事の方が

最もよい事になるのである。



私達は何事をなすにも、その行為が、神の栄えになるか、

人間の栄えになるか、公の栄えになるかを考え、神の栄光を

現すための行為であることを念願して行なわなければならない。



むろんレクリェーションも人間の元気快復やストレス解消に

必要であるけれども、自分の肉体を楽しますことや

野心の満足だけがその行為の目的となった時、



その行為は神の栄えを現すことにも、人間の栄えを現すことにも

ならないで、゛人間神の子゛が墜落して、゛肉体の子゛となり、

エデンの楽園から追放されることになるのである。



毎日脚下照顧して、自分の足が゛自己の快楽゛の方向に向いているのか、

゛神゛または゛公゛の方に向いているか、よく見定めて、毎日、心の脚の向き

を修正して、正しい方向に歩み出すことが必要なのである。



自分の脚がどの方向に向いているか毎日脚下照顧せよ



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方



み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   










明るい心の福音


あなたの心を明るくもて、瞬時といえども暗い影を

あなたの心に投じてはならない。



この世界には゛類をもって集まる゛という法則があり、

もしあなたが暗い想念をもつならば、

その瞬間から、あなたは暗い影の受像機になりつつあるのである。



恐怖や取りこし苦労や、心配の黒い霧があなたを包もうとするとき

あなたは大急ぎで、その黒い霧を払いのけて、明るい゛心の太陽゛

を仰ぐようにしなければならないのである。



明るい太陽の下では、人間を病気にするような細菌は繁殖しないように

明るい心の持ち主のところでは不幸も病気も発生しないのである。



真理を幾分かでも知ったのであるならば明るい心で

善いことのみを考え想い例え一時悪いと見える事柄が

現われたとしても、それを善意に解釈して生きるのである。



あなたは決して消極的な暗い心をもたないのである。

全ての憂鬱を明るい微笑をもって吹き飛ばす。



そして何ものに対してでも、愛と深切と行き届いた

思いやりをもって接し、行動するのである。



愛の或るところに愛は来たり、深切のあるところに深切は来たり、

行き届いた精神のあるところには失敗はないのである。

しかし我の努力で行き届こうとあせっても失敗は来たるであろう。



あせることなく常に゛神われを通じて御業をなさしめ給うのである゛

と信じ唱えながら、落ち着いた心で゛遊戯三昧゛(することを楽しむ)

で仕事をするとよいのである。


全ての憂鬱を明るい微笑をもって吹き飛ばせ


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方



み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   











神の自己実現としての人間



神は゛霊゛であり、人間は神の子

であるから同様に゛霊゛である。



それを゛物質的肉体゛が自分だと

思っていたのが間違いであったのてある。



゛神の子゛というのは神よりいと小さきもの

であるという意味ではないのである。



神の世継ぎであり、最高の具体的顕現

であるという意味なのである。



従って私達人間は、「神が愛である」ごとく、

愛を行じなければならないのである。



また神が清潔であるがこ゜とく清潔なる生活を

営まなければならないのである。



神は光であるが如く、また明るい生活を

送らなければならないのである。



神は全てのすべてである。

一切のものは神の生命、知恵、愛の実現である、



一枚の木の葉、一輪の草花、日光、空気、水、その他

どんな大きいものも、どんな小さなものも、ことごとく

神の生命、知恵、愛・・・・などの実現ならざるものはないのである。



あなたは神の生命に包まれ神の愛に抱かれ、

神の知恵に導かれて生活しているのである。



わたしたちはそれを単に物質に取り囲まれ、

物質の供給を受けて生活しているのだなどと

考えてはならないのである。



こうして私達を導いて下さる神の霊の存在を自覚して

神に感謝しなければならないのである。



感謝するとき与えられた恵みは増幅し、

さらにますます供給されることになるのてある。



一切のものは神の生命、知恵、愛の実現である



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   











人間は肉体ではない霊である。



「神の国は汝の内にあり」と云う場合の、

「汝の内」とは如何なるところであるのか?



この肉体の皮膚を切り、肉を切り、

メスで切り開いて内蔵の中をあまねく探し回って見たところで

そんな処に「神の国」は見出すことはできないのです。



「神の国」の存在する「汝の内」というのは、

そんな肉体の縦横厚みの三次元世界の中にはないのです。



縦横厚みの三次元空間にある物質(肉体を含む)は、

それは「汝の内」ではなくて「汝の外皮」にすぎないのです。

゛汝゛それ自身なる本当の゛自己゛というものは決して、



「肉体」という殻の中に閉じ込められている存在ではないのです。

それは゛意識゛を本体とする存在であって、



心で呼べはそれを感じてそこへ出現することができるという

神通自在の存在であるのです。



「汝みずからを知る」であって、

自分はいったい何者であるのか?肉体であるのか?

物質であるのか?心であるのか?霊であるのか?



いずこより来たり、いずこに行くのであるのか?

物質なる肉体から生まれて、物質なる元素に還るのであるのか?

霊より生まれて霊に還るのであるのか?



その根本を知らないで、眼前に見える利得に心奪われ狂奔している

愚かなる人達が多いのは残念なことです。



人間は物質ではない証拠に、人間の霊がこの世を去るときには、

どんな物質の蓄積も、物質界の企業も計画もそれを置き去りにして

霊界へ移転していくのです。



すなわち物質は霊に属するものではなく、

霊とは異質のものだからそれを携えてゆくことができない。



物質はただ地球上の生活で霊が仕事をする際の

道具になるだけのものにすぎないのであることが判るのです。



人間は物質ではない肉体ではない霊である



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方

み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   












肉食と殺生の問題について


私達は日常生活において肉食を平気でしているが、

考えてみると、これは「殺すなかれ」の宗教的立場から

見て非情な行為に感じられる。



牛や豚の悲しい運命を思う前に、

自己の糊口を思い、動物の肉を食する人間が、



おいしいと舌鼓をうつだけで、殺される牛のうめき声や、

悲痛な思いに関してはあまりにも無頓着である。



人類はあまりにも懺悔がなさすぎる。人類は過去幾世紀にもわたって、

あまりにも多くの生命を犠牲にし続けてきた。



牛や鶏の生命くらいどうでもいい、と反発を感じる人もいるに

ちがいないのであるが、殺す者は殺されるという人類の業の波

によって動かされるということもゆがめない。



そもそも「殺生」は良くないということは、

釈尊の説かれた十善の徳の中でも不殺生から始まっているし。

モーセの十戒にも謳われているのである。



ただ、食物食ばかり食べようと思っても、

親、家族、皆から「栄養が偏る」などと言われ心配される。



その牛や鳥や魚とかが誰かに食われる運命であるならば、

犠牲を通して活かされている自分の生命であるのだから、

人類のために貢献しましょうと、その貢献にいそしむことになると、



その人が牛や魚を食べたことが、かえって間接的にその牛、

又は魚の霊魂が善行を積んでいることになり、

さらにその霊魂たちの冥福に寄与することになり、



そのほうがかえって牛や魚の霊魂も

救われるということになるのである。



そういうわけで、釈尊も、本来、僧たる者は

動物を食さないのだけれども、供養された食物である場合には、

それを殺生とみないで、そこに「供養の愛念」をみて、



仏の慈悲というものが食物としてそこに姿を現しているものだとして、

拝んで頂くことを許されたのであると思う。



ゆえに私達も肉を食するときには、

懺悔の心を起こし、その犠牲に対して



「すみません。この供養の食を受ける限りは、

この身を無駄にすることなく、供養の恩に報いるために

人類の幸福のために尽くさせていただきます」



と、あやまり、あやまり感謝して食べるというならば、

殺生の業の循環が少なくなって、

肉食もまた許されるというように説かれているのである。



肉を食するときには、その犠牲に対して懺悔と感謝

の心を起こすことによって 肉食もまた許される。



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方



み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   















人間は二つの世界に住んでいるとは?



人間は二つの世界に住んでいるとは?

どうゆうことかと云うと・・・・



その一つは゛五感の世界゛である。

すなわち5つの感覚(目、鼻、耳、口、皮膚、)

によって感じられる世界である。



これは象(かたち)を現している世界であるから、

゛現象世界゛ともいうのである。



現象世界にはいろいろな矛盾や

さまざまな不幸が満ちている。



病気もあれば、自動車事故もあれば、家庭争議もある。

国際戦争もある。貧乏もあれば経済闘争もある。

地震災害もあれば弱肉強食もある。



このような悲惨な不幸、闘争、矛盾にみちみちた

世界を観るとき、それを合理的な善き世界だと

観ることができないのである。



強いものが弱者を食い物にして生きている。

悪賢い者が栄えていって、善人が馬鹿を見るのである。



私達は、そのような不合理な世界を観るに堪えない。

何とかして救済せずにはいられないと思う感じが起ってくる。



では、そのような世界を不合理として見る

根拠はどこにあるのであろうか?



それは自己の中に、そのような「不合理でない世界」が

「自己の内」に既にあり、



その「合理の尺度」に照らしてみるとき、

五感の弱肉強食、いろいろな不幸災難みちみちて

゛現象世界゛を不合理だと感ずるのである。



このゆえに、私達は自己の内に「合理の世界」が既にあり、

この゛現象世界゛の「不合理の世界」と

自己の内にある「合理の世界」と両方の世界に

生きているのだということが解ると思うのである。



自己の内にある「合理の世界」----  一切の不幸もなく、

弱肉強食もなく、病気も貧乏もない世界------これが

実相世界であり、神の創造し給える「神の国」なのである。



人間の頭脳知で、理屈をこねて真理に目を閉じている者、

自分を霊的存在と認められず肉体が自分だと思っている者

には理解しがたい世界が現にあるのである。



キリストが「神の国は汝の内にあり」と言ったところの

「神の国」が自己の内に在り、その神の国の尺度でもって

現象世界の不幸災厄の充ち満ちたる状態を見るとき、



その尺度に合わないものであるから、

この現象世界を不合理と観、何とかそれを改造することにより、

もっと常楽の世界を現出したいと思わずにはいられなくなるのである。



「神の国は汝の内にあり」



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   













本当の祈りは教えの実践


゛謙虚な心゛とは゛

そのまま受ける心゛である。



゛そのまま受ける心゛なくしては、

既にある「神の恵み」も其のまま

受けることができない。



神の恵みは無限であるが自分が受けた

程度だけ゛自分のもの゛になる。



゛無限の可能性をもちながら、

しかも有限なのはその理由である。



私達は「人間、神の子、無限力、

何でもできる」と不屈不撓の勇を鼓して、



神の教えを素直に実践するよう

努力しなければならない。



「神よ神よと言う者、

必ずしも天国に入るにあらず」

とイエスは教えられたが、



更にまた「汝ら我を愛せば、

わが誡めを護るべきなり」とも

教えられている。



ゆえに神の教えを守ろうとする努力こそ

「神への愛」の表現であり、

それこそが本当の祈りである。



゛山上の垂訓゛は私達が、

「柔和である」ことの次に「義に飢え乾く者」

であることを教えていられる。



義(ただ)しいと思うことには飢え乾くが如く

勇敢に実行すべきである。



゛謙虚な心゛とは゛そのまま受ける心゛である。



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   










何よりもまず謙遜の心を



神は人間が傲慢になることを嫌い給うのである。

だからイエスは゛山上の垂訓゛の冒頭に、



「幸いなるかな、心の貧しき者、

天国は其の人のものなり、



幸いなるかな、悲しむ者、

その人は慰められん」と教えられている。



゛心の貧しき者゛とは、所謂る進歩的文化人のように

頭脳的知識だけで、傲慢不遜に゛自分の考え゛だけが

正しいと思い上がっている人とはおよそ反対の人である。



イエス自身「われみずからにては何事も成し得ず

天の父ここにありて御業を成さしめ給う」と肉体の

自己の力を謙遜に否定しているのである。



喜び明るく笑えといえども、

その「喜びと明るさ」とは一度「肉体人間」の

弱さに気付いて、それを悲しみ歎き、神を求めて、



「悲しみの奥にある聖地」に達した

「喜びと明るさ」でなければならない。



むしろ私達は、゛神の祝福を受け得るに足る

「謙遜な心」「柔和な心」を与えたまえ゛と祈るべきである。


神は人間が傲慢になることを嫌い給う


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓                   










感謝の心境を育てるには



もし私達が、この世の事物に色々

ブツブツと不平の念を持ちながら、



祈りの時だけ「神の恵みに感謝します」などと

念じたり唱えたりするならば、



それは神に対して体裁のよい

おべっかを使っているに過ぎない。



先ず中味の無い「感謝」の言葉を唱えるよりも、

静かに、自分が神から既に受けている恵みについて

心に考えてみるがよい。



自己は価なく、労苦なくして、

空気を恵まれ、日光を与えられ、水を供給され、



自分の造ったこともない衣食住の色々な無くてはならぬ

必需物を与えられていることを

しっかりと心の底深く考えてみるがよい。



そして今までそんなに多くの恵みを与えられていたのに、

感謝の心を起こしながら、

自分の現在を反省してみるがよい。


この世に神のものでないものはひとつもないのである


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─


カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方


み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



ぽちっ☆ちてやるでちラブラブ       

   ↓