日時計主義の生き方 -11ページ目

法則は神の愛の現われ



神は自分の意志をもって意識的に

人間を処罰し給うことはない。



神は愛であるから、

人間に完全な自由を与えたのである。



しかし神は愛であるから人間が

悪しくなることを好み給わない。



しかし善くなるように「強制する」ことは

人間を機械化することになるから、



人間を「善しか出来ない」と云う様には

型に嵌め給わなかったのである。



神は人間を「自由ならしめたい」と同時に、

「自由意志で善ならしめたい」との願いを実現すめために、



人間自身で、自分の想念や行為が善であるか

悪であるかを検討できるメートルとして「法則」をつくり給うたのである。



そして法則に逆らえば悪い結果が出、

法則に従えば善い結果がでるという事実によって、



人間は自己反省をし、自由意志によって、

善なる想念及び行動を起こし自然に向上することが

できるようになっている。



そして更に人間が自由意志によって神から導きを受けようと思えば

神の知恵を授かることになっているのである。



神の知恵を受けたら成功するのである。


神の知恵を受けよ。


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愛で温めて時期を待つ



人と人との争いが起こる、

そのおもな原因は自分の型に

相手を嵌めようとするからである。



私達は相手の人達を神の子と観て、

「神の持ち給うような善き性、寛大な心、調和した感情、

思慮深さ・・・等々を相手は既に持っている」と念じ観ずることである。



このように観ずることによって、

内部の神性が熟してきて自然にそのような性質が

あらわれて来るのを待つことが必要である。



種を植えても、すぐにそれが大きく成長する訳ではない。

自分の欲する通りの茎が出ないからと、

性急に双葉を引き伸ばそうと思ったら千切れてしまうほかない。



相手をよくしてやろうと思っても、

まだ時期がいたらないのに無理に矯めなおそう

と思ったら折れるのである。



竹で曲げ物細工をするには、

竹を撓うように温めてから曲げなければならない。



これと同じく人を良くするには

愛で温めてから時期を待つことである。



待てないのは愛がないからである。

相手を信じて待つことが真実の愛である。



人を良くするには愛で温めてから時期を待つことである。



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些細な問題も大切



神は無限大であると共に無限に微小なる者の内にも

宿っていたもうのであるから、



私達の願う希望が如何なる小さな問題に関することであっても、

それは小さすぎるということはないのである。



私達は神に祈ってどんな小さな問題でも

神の導きを受けることができるのである。



「今日一日の生活、どんな小さな問題にも神の導きがありまして、

間違いなく身心に叶う生活を送ることができますように」と祈るとよい。



小さな問題は「我の心」でやってもよいが、

大きな問題だけ神様に導いて貰えばよいと考える人もあるけれども



千丈の堤も蟻のうがった小さな孔から崩れることもあるから

小さな問題が大切である。



しかし日常生活のいちいちの小さな問題を、

霊媒的に神と問答して神の導きを受けよと云う意味ではない。



常に神を想い観じ神との一体の祈りをしていれば

常住自然に導かれるのである。



小さな問題が大切である。



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愛は対象を求める



最も幸福なる人間とは自己の内に神の愛を包蔵し、

その愛を傾けて、すべての人類と

すべての生物とに注ぎ得る人である。



人間は神の子であり、神は愛であり、

人間の内性は愛であるがゆえに、



そして愛はそれを注ぎ得る対象を求むるが故に、

人は愛を注ぎ得たとき無限の喜びを

感ずることができるのである。



愛は対象を求める。親は子を愛し、子は親を愛し、

夫は妻を愛し、兄弟姉妹互いに相愛し、

朋友同僚互いに信頼をもって睦び合う。



離れ小島に流されても、

二人ではなお忍び得るが、

ひとりだけで流されていたならば耐えられないと思う。



芝居を見ても、映画を見ても、散歩しても

愛する者同士が共に語りつつあるときに

無常の幸福感に浸ることが出来る。



たとえ世の終わりに火山が爆発して

人類が全部死滅する時にでも、



真に相愛する者同士が抱き合っていたならば、

恐怖も薄れ淋しくないのである。



愛はすべてを癒すのである。



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想念の自由選択とは?


人間は神の子として想念の自由を持っている。

何人も自己が何を考えるか、

何を意志するかの自由をもっているのである。



しかもその自由があるために、

ある人は時々暗黒な事を考え、

疑心暗鬼し、人を憎んだり、怒ったり、嫉妬したり、してしまう・・・



そしてその想念は宇宙に放送され、

それを受けた者達又は本人が、



暗黒な想念を具象化して色々の紛争や葛藤を

惹き起こすのである。



私達は何故人間が想念の自由や意志の自由を有するかを

深く反省してみなければならないのである。



それは、決して、神が人間に、

想念や意志の自由によって悪しき事を

意志したり想念するためにその自由を与えたのではない。



神は人間を機会やロボットやレールを走る汽車のように、

行動の自由を奪いたくなかったからである。



神は人間が単なるロボットや機械ではなく、

神の子として自由意志と想念の自由選択を有しながら、



神の御心と同じように完全なる方向に

想念し意志し行動することを欲し給うたのである。


人間は神の最高の自己実現なのである


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人を癒す祈りとは?

≪お知らせ≫


本日から暫くペタを閉じさせて頂きますので

どうかご了承くださいませ。



『人を癒す祈りとは?』



「誰某を癒し給え」と念ずるよりも、

「誰某の中に神の完全なるいのち流れ入り満々て、

一点の曇りもなく、誰某の全存在が、

既に健康の光で照り渡っているのである」と念ぜよ。



その念が誰某と別々に存在するような観じ方をしないで、

誰某の「全存在」と「神の完全なる命」とが゛不可分゛の

一体として重なりあっているように心に描いて念ずるがよいのである。



神は決して、悪しき事、病めること、乏しき事、不調和な事などを作り

給わないのであるから、そのような不完全な状態や

事物があらわれていても、それはただの夢まぼろしに過ぎない。



この目に映る世界は一瞬一瞬消え去って現に無いではないか、

昨日も無い、先ほどのことも、もう既に消えて無いのだ。

すべては過去となり消え去っている。



だから本来は無いのである。夢まぼろしに過ぎないものを

「有る」と思って、それに心を集中してはならない。



本当にあるものは完全な相(すがた)なのである。

人の悪しき事を語ることなかれ、



病を語ることなかれ、乏しきを語ることなかれ

不完全を語ることなかれ。



どうせ語るなら善き事を語れ、美しきことを語れ、

人の善い面を語り祈りを捧げよう。


すべては語ることが予言となって現われる世界なのだ。


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カレンの過去とは?

知恵の言葉(その12)



新しきものを喜んで受け入れる心は生長する心である。

絶えず機会を掴む心は柔軟な心である。



目を開いて見よ、

すべての環境は我が機会である。



来るもの拒まず、去るもの追わず、

その時来るもの、その時に善く、

その時去るものその時に善し。



神と一体とは、愛を実践することなり、

知恵を実践することなり、生命を実践することなり。

今、生きることなり。寸時も前進することなり。



自ら潔しと力むときに潔さはない。

他を落とさねば自己の潔さが表明できないようなのは

本当の潔さではない。



潔さは黙々としてその潔さを

行ずることによってのみ表明し得るのである。



あなたは思い違いをしている。

悪い人は一人もいない。内にも外にも。



働きも無我献身の働きでないと、

神の力は現れない。

神の力の流れ込む働きなら、働くほど健康になる。



肉体の力で生きているのではない。

生命で生きているのだ。生命が脱けたら肉体は死んでしまう。



喜びは捨てきったところから出でくる。

捨てきらない喜びは何時かは崩れる。



神の力の流れ込む働きなら、働くほど健康になる。



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知恵の言葉(その11)



他が自分の標準に合わないと言って失望するな。

自分の標準が完全だと思い上がることは既に慢心である。

汝の標準が正しいと云う証拠があるか。



自分を標準にして人の善悪を決める・・・

この心を捨てない限り人の心に平和は来ない。



恥づべきは、善いことは自分の手柄で、

悪いことは人の所為にしたがる心である。



近くにいて見誤らぬものは

余程の智者である。



幹の生長は目立たず、

枝葉が先づ栄えて花を開くのである。

枝葉になる者は恵まれている。



何者も自分を縛るものはない、

自分の心のみ自分を縛る。



常に生長する人にとっては、

過去はその踏み台に過ぎないのである。

踏み台の脚が汚れていることを悲しむな。



自分の過去が劣弱であったことを悲しむな。

蛇は自分の脱いだ皮を、現在の身体よりも

小さいことを悲しみはしないのである。



蛇は過去の皮が小さいからこそ

脱ぎ去ったのではないか。



天を摩する巨木も、

土に汚れた一個の団栗であったことがあるのである。



久遠よりこの方、われに生死はない。

われは生ぜず滅せざる神性である。



過去はその踏み台に過ぎないのである。



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知恵の言葉(その10)



不意にあたえられた大きな時間は、

却って徒費やされ易い。



五分十分と云う零細の時間は、

努めて利用する気になれば却って収穫が多い。



賭けて儲けた金は徒費やされ易く、

コツコツ貯めた金が、かえって大いなる資産をなす。



同様に、小時の間暇に自己の才能を磨くものは、

つひに大天才となるのである。



天才と鈍才との分かれ目は

常日頃の心がけにある。



出来ないことを数えるよりも、

出来ることを数えよ。



出来ることを数えて、更に百尺竿頭一歩進めて、

更に出来ることを増やせ。

汝の進歩は目覚しいものがあるであろう。



人と人との相違は、その想いだけの相違である。

想念が正しければ、愛も湧き、実行もおのづから伴う。



流れて止まぬ水は、

腐敗することなくつひに大海原となるのである。



無限生長を信じて進んで止まぬ人は、

遂に大成するのである。



生長の一面は忍耐である。

待てないのは忍耐がないからである。

信じて待つものはつひに生長するのである。



人間は花であり、神は根である。

生け花は早く枯れるが、

大地から咲いた花は根があるから枯れない、



出来ないことを数えるよりも、出来ることを数えよ。



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