肉食と殺生の問題について | 日時計主義の生き方

肉食と殺生の問題について


私達は日常生活において肉食を平気でしているが、

考えてみると、これは「殺すなかれ」の宗教的立場から

見て非情な行為に感じられる。



牛や豚の悲しい運命を思う前に、

自己の糊口を思い、動物の肉を食する人間が、



おいしいと舌鼓をうつだけで、殺される牛のうめき声や、

悲痛な思いに関してはあまりにも無頓着である。



人類はあまりにも懺悔がなさすぎる。人類は過去幾世紀にもわたって、

あまりにも多くの生命を犠牲にし続けてきた。



牛や鶏の生命くらいどうでもいい、と反発を感じる人もいるに

ちがいないのであるが、殺す者は殺されるという人類の業の波

によって動かされるということもゆがめない。



そもそも「殺生」は良くないということは、

釈尊の説かれた十善の徳の中でも不殺生から始まっているし。

モーセの十戒にも謳われているのである。



ただ、食物食ばかり食べようと思っても、

親、家族、皆から「栄養が偏る」などと言われ心配される。



その牛や鳥や魚とかが誰かに食われる運命であるならば、

犠牲を通して活かされている自分の生命であるのだから、

人類のために貢献しましょうと、その貢献にいそしむことになると、



その人が牛や魚を食べたことが、かえって間接的にその牛、

又は魚の霊魂が善行を積んでいることになり、

さらにその霊魂たちの冥福に寄与することになり、



そのほうがかえって牛や魚の霊魂も

救われるということになるのである。



そういうわけで、釈尊も、本来、僧たる者は

動物を食さないのだけれども、供養された食物である場合には、

それを殺生とみないで、そこに「供養の愛念」をみて、



仏の慈悲というものが食物としてそこに姿を現しているものだとして、

拝んで頂くことを許されたのであると思う。



ゆえに私達も肉を食するときには、

懺悔の心を起こし、その犠牲に対して



「すみません。この供養の食を受ける限りは、

この身を無駄にすることなく、供養の恩に報いるために

人類の幸福のために尽くさせていただきます」



と、あやまり、あやまり感謝して食べるというならば、

殺生の業の循環が少なくなって、

肉食もまた許されるというように説かれているのである。



肉を食するときには、その犠牲に対して懺悔と感謝

の心を起こすことによって 肉食もまた許される。



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さぁ~今日も明るく元気に
日時計主義の生き方で行ってみよう~(*゜▽゜ノノ゛☆


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カレン教祖を通して


天の一声が・・・Σ(~∀~||;)


日時計主義の生き方



み~んな 幸でありますように!*^。^人^。^* )シアワセ!!∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



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