○それでは早速、『利休宗易遺偈』を読むことから始めたい。原文は、次の通り。
利休宗易遺偈
人生七十
力圍希咄
吾這寶剱
祖仏共殺
○偈のあとに、
提ル我得具足の一太刀
今此時そ天に抛
を付す人も居るが、偈は四言四行が基本である。偈の後のものは句(和歌)に過ぎない。それは偈には含まれない。そんなことは当たり前のことである。
○インタネットで、いろいろと見ると、次の読み方が最も多い。
人生七十 じんせいしちじふ
力圍希咄 りきいきとつ
吾這寶剱 わがこのほうけん
祖仏共殺 そぶつともにころす
起句、転句、結句は、誰が読んでもこうなる。問題は、承句である。「りきいきとつ」と言う読み方は、幾ら何でも無い。それでは音読するだけで、読んでいないのと同じである。なぜ、承句だけ、こういう読み方になるのだろうか。
○その説明、解説を読むと、実に面白い。
2行目の「力囲希咄」も、五山禅林の解釈では、「船を出す時の掛け声」だそうですが、
「禅僧が忽然と大悟した時に発する声」というのが定説です。
中国では、「力圍希咄」と言う掛け声を掛けるのだろうか。寡聞にして、聞いたことが無い。「力圍希咄」が読めなくて、こういうふうに処置しているとしか、思えない。
○承句は、やはり、次のように読むべきではないか。
力圍希咄 ちからをこめてとつをこひねがふ
本来なら、、「力圍希咄」は「圍力希咄」であるべきだが、音韻の関係で語順を変えている。中国の韻文ではよくあることである。
●ただ、『利休宗易遺偈』を正確に読むには、相当な奮闘努力が必要となることは、前回、指摘した通りである。まず、蜀成都の韓利休の、次の偈頌である。
韓利休偈頌
人生七十力囲希
肉痩骨枯気未微
這裡咄提王宝剣
露呈仏祖共殺機
●杜甫の「曲江(二)」詩も、忘れてはなるまい。
曲江(二)
杜甫
朝回日日典春衣 毎日江頭尽酔帰
酒債尋常行処有 人生七十古来稀
穿花蛱蝶深深見 点水蜻蜓款款飛
伝語風光共流転 暫時相賞莫相違
●利休が「大燈国師遺偈」を意識していることも見逃せない。
大燈国師遺偈
截断佛祖
吹毛常磨
機輪転処
虚空咬牙
●さらに、臨済宗の開祖臨済義玄の「殺仏殺祖」が、「祖仏共殺」の原型であることも間違いない。
殺仏殺祖
逢佛殺佛
逢祖殺祖
逢羅漢殺羅漢
逢父母殺父母
逢親眷殺親眷
始得解脱
●こういうことを全て学習しない限り、『利休宗易遺偈』を読むことはできない。残念なことに、誰もそういう努力をしない。だから、誰も『利休宗易遺偈』を読むことができないでいる。結構、利休と言う男は面倒な男であることが判る。
◎本当は、これらを全て解読してみせるのが礼儀と言うものである。しかし、それでは、『利休宗易遺偈』で、五つか六つのブログを書く羽目になる。とてもそんな余裕は無い。したがって、ここでは、その結末だけを案内するしかない。
◎真面目に、『利休宗易遺偈』を読むと、おおよそ、次のようになるのではないか。
【原文】
利休宗易遺偈
人生七十
力圍希咄
吾這寶剱
祖仏共殺
【書き下し文】
人生七十、 (じんせいしちじふ)
力を圍めて咄を希ふ。 (ちからをこめてとつをこひねがふ)
吾が這の寶剱、 (わがこのほうけん)
祖仏共に殺す。 (そぶつともにころす)
【我が儘勝手な私訳】
杜甫が言うように、人生七十年はあまりに長い、
私はそういう人生を大悟を得たいと願い、懸命に生きて来た。
その私が生涯、執着し続けて来たのは、茶道一筋であった、
私は茶道に生きることで、解脱を謀ったのだ。それが私の人生である。
◎およそ、『利休宗易遺偈』は、こんな話である。本来、遺偈とは、そういうものである。今回、「京都ぶらり旅」で、幾つかの遺偈を案内している。そういうものを読んで、見比べていただけると、そういうことがよく判る。決して、世の茶人が言うような意味では無い。
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『一休宗純』 (一休宗純の遺偈を載せる)
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『日本國俊芿法師偈頌』
日本國俊芿法師偈頌 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌』
入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『釋辯圓遺偈』
・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『蘭溪道隆禅師遺偈』
蘭溪道隆禅師遺偈 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)
◎「文化は孤ならず、必ず隣人有り」ではないけれども、『利休宗易遺偈』を読むとは、そういう努力をすることである。そうしないと、あまりに利休がかわいそうである。没後432年も経って、全然理解されない人生では。本当は全ての材料を丁寧に分析した上で案内したかったが、スペース的にできなかったのが残念でならない。
◎写真は利休の墓がある大徳寺聚光院。