一休宗純 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年2月3日、紫野の大徳寺へお参りした。その大徳寺について、これまで、ブログ『大徳寺』を皮切りに、前回の『茶禅一味』までで、10個のブログを書いている。早く「京都ぶらり旅」の先へ進みたいのだが、なかなか進むことができないでいる。振り返ると、テーマ「京都ぶらり旅」で、すでに95個ものブログを書いている。まさか、ここまで深入りすることになるとは、予想外だった。

○今回は、『一休宗純』と題して、大徳寺中興の祖とされる一休和尚について、触れてみたい。ウイキペディアフリー百科事典が案内する一休宗純は、次の通り。

      一休宗純

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代臨済宗大徳寺派詩人説話のモデルとしても知られる。

6歳で京都の安国寺像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中でも評判となった。

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休は自殺未遂を起こしており、謙翁の死から一週間、石山観音に籠るも悟りが開けず近くの川に身を投げようとしたが、一休の様子が変だと一休の母から見張ることを指示されていた男が制止、説得されて自殺を思い止まった。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り()の世界を指す。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。その毅然とした振る舞いを見た華叟は、口では「ばか者」と言いながらも笑って送り出したと伝わる。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。

文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)においてマラリアにより死去。満87歳没(享年88)。墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が管理している陵墓である

  一休宗純 - Wikipedia

○別に、コトバンクでは、次のように載せる。

      一休

[生]応永1(1394).1.1. 京都
[]文明13(1481).11.21. 山城
室町時代前期の臨済宗詩人。幼は周建。諱 (いみな) は宗純。号は狂雲子,夢閨,天下老和尚など。後小松天皇の落胤といわれる。6歳で安国寺に入り,13歳で作詩法を学び,15歳の頃には詩人として名をなしたという。清叟仁について内外の書を学び,17歳のとき,西金寺に入って謙翁宗為師事没後,近江堅田の華叟 (かそう) 宗曇についた。文明6 (1474) 年に大徳寺住持となったが,まもなく退き,山城薪 (たきぎ) の酬恩庵などに住んだ。宗一般の退廃憤り奇矯行状が多かったが,性格は洒脱で,朝野の崇敬を受けた。また彼の墨跡は室町禅林のなかでも異色ある書風を示し,弟子紹省に与えた『偈頌』が現存する。著書『自戒集』 (55) ,『狂雲集』 (81以前) ,『続狂雲集』。

  一休とは - コトバンク (kotobank.jp)

○他にも、インターネットで一休和尚を検索すれば、多くの興味深いページがヒットする。それぞれ特色があって、なかなか面白い。ただ煩雑になるので、ここでは省くしかない。

○一休宗純が大徳寺の住持となったのは80を過ぎてからのことである。まさに最晩年になってからの話である。大徳寺には一休宗純開山の塔頭、真珠庵がある。残念ながら、これも通常は非公開である。

○また、大徳寺は茶道との関係が深い。前回、その話を、ブログ『茶禅一味』に書いたが、その縁を構築したのも一休和尚だとされる。大徳寺の隆盛は、まさに一休宗純にあると言えよう。

○ちなみに、一休禅師の遺偈は、次の通り。

      一休禅師遺偈

  須弥南畔     須弥の南畔、
  誰会我禅     誰か我が禅を会せん。
  虚堂来也     虚堂来るや、
  不直半銭     半銭に直せず。

    【我が儘勝手な私訳】

  私一休宗純はその生涯を仏道に生きた、

  しかし、たぶん、私の禅を誰も理解できまい。

  大徳寺開山の宗峰妙超の師、南浦紹明のそのまた師である虚堂智愚であっても、

  半銭の価値すら無い、それが私の禅だ。

○偈にある虚堂とは、虚堂智愚を指す。大徳寺の法統は、

  虚堂智愚→南浦紹明→宗峰妙超→徹翁義亨→言外宗忠→華叟宗曇→一休宗純

と続いている。その尊敬する先師、虚堂智愚を挙げて偈は書かれている。

○一休宗純は、その遺偈で、上記のように表現しているが、これを字面通りに受け取るようでは、一休宗純の真意を受け取ることはできない。一休和尚は生来、ひねくれものなのである。わざわざ一休が虚堂智愚の名を掲げるのも、それだけ、虚堂智愚を尊敬しているからに他ならない。

○ちなみに、大徳寺には、「虚堂智愚墨蹟(達磨忌拈香語)」が存在する。東京国立博物館所蔵の「虚堂智愚墨蹟 法語(破れ虚堂)」とともに、国宝となっている。