千利休 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2022年2月3日、紫野の大徳寺へお参りした。その大徳寺について、これまで、ブログ『五山文学』、『禅林墨跡』、『禅と水墨画』、『茶禅一味』、『一休宗純』と続けている。その最後は、やはり、『千利休』となるのではないか。

○折しも、京都市観光協会主催の、今年2022年の「第56回 京の冬の旅」非公開文化財特別公開では、次のような案内があった。

      「第56回 京の冬の旅」非公開文化財特別公開

   にぎやかな紅葉シーズンを終え、落ち着きを取り戻した冬の京都。
   冴え冴えとした冷気は透明感を増し、千年の都の至宝を静かに包み込む。
   高度な技術に裏打ちされた建築物や趣向を凝らしたしつらいに、芸術的歴史

  都市「京都」を創り上げた数多の人々の情熱や美意識、野心や苦悩、悲喜こも

  ごもの歴史物語が聞こえてくるだろう。​​​​
   2020年12月、「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」が

  ユネスコ無形文化遺産に登録された。
   そして奇しくも2022年は茶人・千利休の生誕500年、茶人・織田有楽斎没後

  400年にあたる年。
   第56回「京の冬の旅」では、「建築の美」と「茶人ゆかりの禅寺」をテーマに

  珠玉の文化財の数々を公開する。
  ●非公開文化財特別公開・公開期間:2022年1月8日(土)~3月18日(金)

○つまり、今年2022年は

  茶人・千利休の生誕500年、茶人・織田有楽斎没後400年にあたる年。

だと言う。それで、大徳寺では、聚光院と大光院が特別公開されていた。

      聚光院

      華麗な障壁画が彩る千利休と茶道三千家の菩提寺

   茶聖・千利休の菩提寺である大徳寺 聚光院は利休生誕500年を迎える

  この時期にこそ訪れたい。「京の冬の旅」では、茶席や絢爛豪華な障壁画も公開。

      大光院

      如水好みの茶室を残す豊臣秀長の菩提寺

   豊臣秀吉の異父弟・秀長の菩提寺である大光院。「京の冬の旅」初公開となる

  今回は、狩野探幽筆と伝わる「雲龍画」と茶室が公開される。

●大徳寺と茶道の関係は深い。その話は、すでにブログ『茶禅一味』で案内済みである。

  ・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『茶禅一味』

  茶禅一味 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

●ウイキペディアフリー百科事典が案内する千利休は、次の通り。

      千利休

千利休(せんのりきゅう、せんりきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人茶人

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は粛清されるようになった。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あり、定まっていない。

利休が秀吉の怒りを買った原因を「大徳寺三門(金毛閣)」改修にあたって増上慢があったため、自身の雪駄履きの木像を楼門の2階に設置し、その下を秀吉に通らせた」とする説が知られているが、その他にもさまざまな説があり、詳しくは分かっていない。

  千利休 - Wikipedia

●「大徳寺三門(金毛閣)については、次のページが参考になる。

      大徳寺三門(金毛閣)

現在の三門(山門)は、応仁の乱後の1529年(享禄2年)、連歌師・宗長によって下層が寄進され、1589年(天正17年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられた。
 千利休は、三門改修にあたって楼上に自身の木像を安置。
 その下を豊臣秀吉を通らせたことで怒りをかい、1591年(天正19年)2月28日、聚楽屋敷(参考:晴明神社)で自刃させられたという。
 死後、利休の首は一条戻橋で、自身の木像に踏ませる形で梟首されたと伝えられている。
 ※利休切腹の理由は様々な説ある。

  京都:大徳寺の三門(山門) (yoritomo-japan.com)

●いろいろと経緯のある寺が大徳寺である。 前回の一休宗純と言い、今回の千利休と言い、なかなか凄まじい人物が大徳寺と関係している。そういうこと自体が文化なのだと感じた。