○「泉涌寺不可棄法師伝」を読んでいるが、「泉涌寺不可棄法師伝」は、なかなか面白い。前々回、ブログ『泉涌寺不可棄法師伝』を案内し、前回、ブログ『日本國俊芿法師偈頌』を紹介した。まだまだ「泉涌寺不可棄法師伝」の面白さは、これだけでは終わらない。ただ、それを何時までも続けるわけにも行かないので、今回のブログ『入宋傳法比丘俊芿自賛幷びに辭世頌』で、最後としたい。
○2022年2月2日に、京都東山の泉涌寺へ参詣した。その折、泉涌寺本坊で購入したガイドブック「御寺 泉涌寺」の冒頭、『泉涌寺概略』に、月輪大師・俊芿律師像(重要文化財)が掲載されている。その月輪大師・俊芿律師像の上部に、俊芿法師が書いた自賛がうっすらと見える。このことについて、「泉涌寺不可棄法師伝」では、次のように記している。
令宋朝畫工周担之冩師之像。法師自作賛書銘。其詞曰。
我此喜神
本来怕人
烏眉痩面
誰有可珍
嘉禄三年閏三月朔日
【書き下し文】
我れ此れ神を喜び、
本来、人怕る。
烏の眉、痩せた面、
誰か珍らしがる有らん。
【我が儘勝手な私訳】
私俊芿は、佛に仕える身であるからして、
もともと、世間の人々から恐れられる存在である。
それに私は眉が濃く、貧相な痩せた顔だから、
そんな私俊芿の肖像画などを有り難る人が居るとも思えない。
○俊芿法師が亡くなる七日前の自賛が、現在でも、このように残されている。この肖像画に、こういう経緯が何も記されていないのが残念でならない。そういう状況説明があってこそ、この肖像画が生きて来ると思えてならない。
○また、「泉涌寺不可棄法師伝」は、俊芿法師の辭世の頌についても、次のように記している。
同八日子時。復染筆書辭世頌曰。
生來徧學
經律論敎
一時打拼
寂然無窖
嘉禄三年閏三月初八日
【書き下し文】
生來、徧く學び、
經律、論敎す。
一時、打拼するも、
寂然、無窖ならん。
【我が儘勝手な私訳】
生まれてこの方、ひたすら仏法を学び、
特に、經律について、研究してきた。
この世にあって、一時、奮闘努力はしたが、
これからひっそりと深い眠りに着くことである。
○「泉涌寺不可棄法師伝」を読むと、俊芿法師の辭世の頌そのままであることに、驚く。これ程の頌もまた珍しい。何のてらいも無いし、見栄も無い。『入宋傳法比丘俊芿自賛』がそうであったように、『俊芿法師の辭世の頌』もまた秀作である。ともに、「文は人なり」をそのまま提示している名文である。
○俊芿法師が亡くなったのは嘉禄三年閏三月初八日、六十二歳だったと言う。どうすれば、このように達観して死ぬことができるのであろうか。まことに羨ましい。当古代文化研究所などは、当年、七十二歳で、俊芿法師よりも十年も長く生きているのに、全然達観できない。やはり、人間としての器が違うと言うしかない。