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福岡県の学習塾コンサルタント|学習塾運営の手引き

福岡の学習塾コンサルタントが語る、塾運営のヒント満載ブログ。
開業から集客、講師育成まで、現場で役立つ実践的なノウハウをやさしく解説。塾の魅力を引き出し、長く地域に愛される運営をサポートします。

学習塾において「生徒数」は確かに重要な指標の一つです。しかし、その「数」だけを追い求めることには、私は疑問を感じます。むしろ、「どのような生徒が在籍しているか」という質の面にこそ、塾の本質が表れるのではないでしょうか。つまり、ただ多くの生徒が集まっている塾ではなく、「塾の理念に共感し、共に学ぶ意志を持った生徒が集まっている塾」こそが、真に価値ある学びの場だと考えます。

 

塾が掲げる教育理念には、それぞれの思いや目指すべき方向性が込められています。それに共鳴する生徒たちが集まることで、塾内には自然と同じ価値観や目標を共有する空気が生まれ、相互に学び合う文化が育まれます。逆に、誰でも受け入れるという方針では、理念に共感していない生徒も入り混じることになり、教室はまるで満員電車のように雑多で窮屈な空間になってしまいます。そのような環境では、生徒も講師も本来の力を十分に発揮できず、居心地のよい学習環境とは言い難くなります。

 

だからこそ、入塾の段階で「この塾の考え方に共感できるか」「この学びの場で成長していきたいと思えるか」を丁寧に確認し、選抜することはとても重要です。その精査を怠らない塾は、理念に忠実であり、生徒一人ひとりと誠実に向き合っている証拠です。結果として、塾全体が一つのチームのようにまとまり、生徒同士の間にも信頼関係や切磋琢磨の精神が生まれやすくなります。

 

私たちが目指すべき塾の姿は、「誰でも来られる場所」ではなく、「同じ志を持つ仲間が集う場所」であるべきです。生徒数という数字の裏にある「共感の深さ」にこだわることで、本当に意味のある教育が実現できるのだと思います。これは、表面的な数値では測れない、しかし確かに塾の質を左右する大切な視点ではないでしょうか。

私たちは日常生活の中で、誰かを褒める場面に多く出会います。「テストで良い点を取った」「大会で優勝した」「志望校に合格した」など、結果が出たときに称賛の言葉が向けられることが多いのではないでしょうか。しかし、私は結果以上に、挑戦するという「行動」そのものに注目し、そこを讃えることこそが、もっとも大切であると考えています。

 

挑戦には、常にリスクが伴います。うまくいかないかもしれない、失敗するかもしれないという不安と向き合いながら、それでも一歩を踏み出す勇気は、簡単なものではありません。その勇気ある一歩を踏み出したという事実だけで、すでに大きな価値があると私は思うのです。

 

もちろん、挑戦の結果が良ければそれは素晴らしいことです。しかし、私がより大切にしたいのは、その「結果に至るまでのプロセス」や、「挑戦する姿勢」そのものです。挑戦の価値を結果の有無だけで判断してしまうと、「成功しなければ意味がない」「失敗したから無駄だった」という誤った認識が生まれてしまいます。そのような風潮は、挑戦すること自体を恐れさせ、消極的な選択を生みかねません。

 

挑戦を繰り返す中で、たとえ失敗したとしても、その失敗の質は確実に向上していきます。なぜなら、人は経験を通して学び、工夫し、次はどうすればより良くなるかを考えるようになるからです。ある意味で、失敗の中にも「収穫」や「成長の芽」は必ず存在しているのです。そして、そうした小さな積み重ねこそが、やがて本当の意味での「成功」へとつながっていくのではないでしょうか。

 

挑戦する人を褒めるという文化が根づけば、社会全体がもっと前向きになり、多様な可能性に満ちた環境が育まれるようになると思います。「やってみたい」と思った瞬間に、「でも失敗したらどうしよう」という不安よりも、「挑戦してみること自体に価値がある」と信じられる社会こそが、柔軟で創造的な未来をつくる鍵になると私は信じています。

 

だからこそ、私は何かに挑戦した人に対して、結果とは関係なく、まずその行動を心から讃えたいと思います。挑戦は、何よりも尊い行動です。それを支え、称賛するまなざしが、次の挑戦者を生み、またその人自身がもう一度立ち上がる勇気にもなるのです。

英語を教える際に、教師が「知識の伝道者」になってはいけないという指摘には、深く共感します。英語学習の本質は、知識のインプットではなく、実際に使えるスキルとしてのアウトプットにあります。そのため、教師のスタンスは「教える人」ではなく、「コーチ」であるべきです。

 

たとえば、ピアノの習得を考えてみると分かりやすいでしょう。どれだけ優れた指導者から知識を受け取っても、本人が毎日練習しなければ、指は動くようにはなりません。ピアノの先生がするべきことは、演奏のポイントを簡潔に伝え、生徒が自ら練習する時間を最大限に確保することです。英語学習もまったく同じです。教師は必要な知識や方法を的確に提示した上で、生徒が「自分で英語を使う時間」をどう増やすかを考え、支援する存在であるべきなのです。

 

しかし、現実には、教師が文法事項を細かく日本語で説明し、短い文を分析する授業が多く見られます。これは一見、理解の助けになるようで、実際には生徒の英語力の本質的な向上にはつながりません。なぜなら、こうした授業は、知識を「理解した気になる」だけで、「使えるようになる」こととは別問題だからです。

 

また、長文対策やリスニング対策、整序問題対策といった「テクニック中心の指導」が行われることもあります。しかし、英語の本質を学んでいない段階でこうした点的な対策をしても、それは「枝葉」を整えるようなもので、根が育っていなければ、結局は実を結びません。つまり、問題演習に追われるだけで、英語という言語に対する感覚や自信を身につけることができないのです。

 

ですから、英語教師に求められるのは、生徒の練習をどう支援するか、どのようにモチベーションを維持させ、継続的な学習を促すかという「コーチ」としての資質です。生徒に「使ってみる場」「間違える機会」「自分の課題を自覚する瞬間」を与えることこそが、教師の最大の役割だと考えます。

 

これからの英語教育には、「教える」から「引き出す」への転換が必要です。生徒が自ら主体的に英語に向き合い、使いながら学ぶ環境づくりを、教師がコーチとしてサポートしていくことこそ、真の英語力育成につながると私は考えます。

「いい先生」と聞くと、どのような人物像を思い浮かべるでしょうか。多くの人は、「成績を上げてくれる先生」「志望校に合格させてくれる先生」「わかりやすい授業をする先生」を思い浮かべるかもしれません。確かに、これらの要素は生徒や保護者にとって魅力的で、一般的には「理想的な教師」として高く評価されます。しかし、私は、それだけでは本当の意味での「いい先生」とは言えないのではないかと感じます。

 

学力向上や受験合格は、教育の成果として分かりやすく、短期的な指標としても機能します。そのため、学校現場ではそうした成果が強調されがちです。生徒本人にとっても、志望校に合格することやテストの点数が上がることは、努力の結果として達成感や満足感につながるでしょう。保護者にとっても、子どもの進路や将来を考える上で、成績の良し悪しは非常に重要な関心事であることは否定できません。

 

しかし、それらの成果を重視するあまり、本質的な教育の目的を見失ってはいないでしょうか。つまり、「何のために学ぶのか」「学ぶことによって何を得るのか」という問いに向き合う姿勢が、教育現場から薄れてはいないかということです。知識を詰め込み、テストのためだけに学ぶのではなく、「学ぶことの意味」を伝える存在こそが、本当に「いい先生」なのではないかと私は思います。

 

真に「いい先生」とは、生徒が年齢を重ね、社会に出てからその存在の価値を実感できるような人であると思います。そのときの授業内容は忘れてしまっていても、その先生の言葉や姿勢、生き方が、心の奥に深く刻まれている。そんな先生こそが、生徒の人生に長く、深く関わっていく存在なのではないでしょうか。

 

私自身、今までに出会ってきた先生の中に、そうした存在がいます。その先生は、決して派手な授業をするわけでもなく、特別に成績が上がったわけでもありませんでしたが、常に「自分で考えること」の大切さを問い続けてくれました。どんなときでも私たち生徒の「可能性」を信じ、「学びを通して人間として成長する」ことを根気強く支えてくれました。その先生の言葉は、今でも私の判断基準の一部となっています。

 

だからこそ、成績を上げることやわかりやすい授業に長けている先生方にも、今一度考えてほしいのです。「いい先生とは何か」「いい授業とは何か」と。本当に生徒の人生に寄り添い、学ぶことの意味を共に考えてくれる存在であること。それこそが、教育に携わる者としての覚悟であり、誇りなのではないでしょうか。

 

教えることは、一方的な知識の伝達ではありません。生徒の内面に働きかけ、自ら考え、学ぶ力を育む営みです。短期的な成果にとらわれず、長い目で生徒の成長を支えていく。そのためには、先生自身が「学び続ける姿勢」を持ち、「生き方そのもの」で生徒に示していく必要があります。

 

学ぶことを学ばせる先生。そのような先生こそが、本当に「いい先生」と呼ばれるにふさわしい存在であると、私は信じています。

  

教育に携わる者として、常に忘れてはならないことがあります。それは、「自分のやり方がすべてではない」という視点です。特に塾の現場においては、日々の忙しさに追われ、自分の教室や授業に集中するあまり、気づけば「井の中の蛙」になってしまっている先生が少なくないように思います。

 

しかし、それでは本当に子どもたちの力を最大限に引き出す教育にはつながらないのではないでしょうか。他塾の様子を知ること、他者の授業を体感すること、これは単なる興味本位の行動ではなく、自分自身の教育観や指導法を見つめ直す重要な機会です。まさに、教師自身が学び続ける姿勢を持ち続けるための第一歩だと言えます。

 

私自身、先日、新しく立ち上げられる塾に見学に行く機会を得ました。見学といっても、ただ物理的な空間を見るだけではありません。そこに流れる空気、子どもたちが自然に集まってきそうな雰囲気、講師と生徒との距離感、そして何より、楽しそうに学べる環境の予感――そういった「数値化できない領域」が、実際に足を運ぶことで伝わってきました。

 

これは非常に大きな気づきでした。どれだけウェブサイトやSNSで情報を得たとしても、「実際に行って、雰囲気を感じる」ことで得られる学びには到底かないません。「同じことも、同じでない」という言葉の通り、一見似たようなカリキュラムや教材を使っていたとしても、指導の空気感や生徒の反応は全く異なるのです。

 

また、このような見学を通して、自塾の強みや課題も相対的に見えてきます。「自分の教室には足りないものは何か」「この工夫は自塾にも取り入れられるか」といった視点が自然と育まれるのです。そうした気づきの積み重ねが、より良い授業作り、より良い塾運営へとつながっていきます。

 

教育に正解はありません。だからこそ、他者の実践を学び、自分の在り方を問い続ける謙虚さと柔軟さが求められます。他塾見学という行動は、その最たるものではないでしょうか。現場で教えるすべての先生にこそ、ぜひ一歩を踏み出してほしいと強く願います。視野を広げることでしか見えてこない「教育の本質」が、そこにはあるのです。