「1人の自由は、孤独の代替じゃない。
誰も傷つけずに生きるための、最適解だ。」

 

1人で居たいわけじゃない。ただ、誰も傷つかない選択をしているだけ

 

  一人は、平気なんかじゃない

 

「一人で平気そうだよね」
そう言われることがある。

でも、平気なわけがない。
一人って、そんなに軽いものじゃない。

 

共感を得られない寂しさ。
感情を打ち明けられない寂しさ。
助けが欲しい時に頼れない寂しさ。
弱音を吐ける安心感がない寂しさ。

 

一緒に楽しみたい、盛り上がりたい、感動を分かち合いたい。
そんな瞬間に、向けどころがない寂しさ。

 

そして何より、夜に訪れる、言葉にならない感情。
不安や後悔が紛れず、負の感情がずっと内側に向く時間。

それが、私が感じる「寂しさの辛さ」だ。

 

人は、それを全部抱え込んで生きていけるほど強くない。
少なくとも私は、強くない。

 

だから、吐き出す場所を探してしまう。
SNSでも、文章でも、言葉でもいい。


「弱いだけなのかもしれない」と思いながら、
それでも、どこかで救いを探してしまう。

  寂しさの正体は「共有できない感情」

 

寂しいのは、単に「一人」だからじゃない。

 

本当は、
感情を共有できないことが辛いんだと思う。

 

悲しい時に悲しいと言えない。
嬉しい時に嬉しいと言えない。
頑張った時に、頑張ったと言えない。

感情は、出せないまま溜まっていく。
溜まった感情は、夜に出てくる。
言葉にならない形で、静かに押し寄せてくる。

 

だから「一人は平気?」と聞かれたら、答えはNOだ。
平気なわけがない。

 

  それでも誰かを傷つける方が怖い

 

それでも私は、こう思ってしまう。

誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方が楽。

 

これは、私だけじゃないはずだ・・・


誰かを悲しませて、傷つけて、
取り返しがつかない状況になって、
二度と会えなくなって、
謝罪も贖罪もできないまま、
いつまでも後悔し続けるくらいなら。

それなら、一人の方がまだまし。

ただそれだけのこと。

ここで誤解されたくないのは、
「自分が壊れる方を選んだ」わけじゃないということ。

 

私は、
誰も壊れない選択をしただけだ。

  一人を選んだのではなく、距離を選んだ

 

私は「一人が好き」な人間ではない。

他者に依存することで得られる共感や救いを、
自己の中で完結する方法を探している。

 

それは自己理解であり、
否定や後悔を学びや経験に変えていくという選択。

 

私は常に、取捨選択に重きを置いている。

優先順位の問題だ。

 

他人との繋がりで得られるメリットより、
傷つけないメリットを選ぶ。

自分だけでは乗り越えられない葛藤や寂しさの中に、
自由という可能性を見出していく。

だから私は、「一人」を選んだんじゃない。


距離を選んだ。

 

深く近づきすぎない距離。
傷つけないための距離。
壊さないための距離。

それが、私の生き方の設計だ。

 

  一期一会で十分だと思っている

 

特別な関係にならない。
深い関係にもならない。

仲の良い人がいないわけじゃない。


でも、深くはならない。
そしてそれは「なれない」ではなく、望んでいない

適度な友人でいい。
その時その時に、全力で十分だ。

長くダラダラ続く関係が必要だとは、私は思わない。

 

一期一会。
 

それ以上でも、それ以下でもない。

その瞬間の誠実さと、
その瞬間の温度で、十分だと思っている。

  マイノリティとして生きる選択は、意味がある

 

ここまで書いてしまうと、
社会的には「失敗」なのかもしれない。

繋がりと関係と、他者性と社会性と公共性があって、
初めて人は共同体に属せるのだとしたら。

私は、その多数派の設計から外れている。
マイノリティとして属せていない。

でも私は思う。

 

マイノリティとして生きる選択にも、意味がある。

 

誰かを傷つけない。
自分も傷つけない。
悲しませない。
その一点にピントを合わせて生きる。

それは言い訳でも自己都合でもない。
「自分が望んだ未来の願いの叶え方」だ。

 

自分の人生を自分のために生きて、
その結果、どこかで誰かと繋がるなら、それは素敵。

でも、繋がるために生きるんじゃない。
自分のために生きることが、最初の優先順位にあるだけ。

理解してもらう必要はない。
けれど、私が生きるには十分な意味と価値がある行為だと思う。

 

  1人の自由は、孤独と同義じゃない

 

寂しい夜があるのは当たり前。
苦しい時間があることも知っている。

 

それでも、
自分のために自分に使える時間があること

それは私にとって、最高のご褒美だ。

 シンプルフレーズ

私は一人を選んだんじゃない。1人だから得られる自分の為の時間を享受する。

同じ時間に起きて、
同じ道を通って、
同じ仕事をして、
同じように一日が終わる。

飽き性ってダメですか?刺激がない日常に耐えられないだけなんです

 

特別なトラブルがあるわけでもない。
嫌な人がいるわけでもない。
むしろ「恵まれている」とさえ言われる。

なのに、ふとした瞬間に思う。

「……つまらない」

 

この言葉を口にすると、だいたいこう返ってくる。

「贅沢だよ」
「慣れただけでしょ」
「安定してるじゃん」

そう言われるたびに、
自分が飽き性で、落ち着きがなくて、ダメな人間みたいな気がしてくる。

でも本当にそうなんだろうか。

  飽きるって、我慢が足りないこと?

 

「飽き性だよね」
そう言われたこと、ありませんか??

 

続かないね。
我慢できないね。
落ち着きないね。

 

言われるたびに、ちょっとだけ胸の奥がザラつく。

でも正直に言うと、私はずっと思っていました。

 

これって、本当に悪いことなのかな?

  刺激があると、人はちゃんと楽しい

 

新しい仕事を覚えるとき。
初めての場所に行くとき。
誰かと出会ったばかりのとき。

不安もあるけど、どこかワクワクする。

 

頭が動く。
心が反応する。
世界とちゃんと接触している感じがする。

 

でも、それが・・・

慣れて、当たり前になって、余裕になった瞬間。

 

急に、心が静かになる。

「つまらない」とまでは言わない。
でも、何も感じない。

そのとき、人は言う。

「飽きた」

 

  当たり前になった瞬間、人は飽きる

 

でもそれって、
成長したとか
学び切ったとか
成果を出したとか、
そういう話じゃない。

 

ただ単に、心が揺れなくなったそれだけなんだと思う。

仕事でも、恋愛でも、日常でも。

毎日同じ時間に起きて
同じ道を通って
同じ会話をして
同じ一日を終える。

安定している。
安心もしている。

でも、心がどこにも行っていない。

社会はそれを「正解」と呼ぶ。

普通であること。
当たり前であること。
波風を立てないこと。

確かに、それは必要だ。

 

でも——
刺激が一切ない日常に、耐えられない人もいる。

 

  飽き性な人は、刺激を価値にしている​​​​​​​

 

飽き性って、
わがままなんじゃない。

刺激に反応してしまう感受性を持っているだけなのかもしれない。

 

心が動く瞬間を、
ちゃんと「生きている」と感じてしまうだけ。

だから私は、刺激が欲しい。

 

安心も安定も大事だけど、
それだけで一生を終わらせるほど
器用じゃない。

自分の居場所は、
まだ分からない。

探している途中だし、
正直、疲れることもある。

 

でも・・・この不安定で、未確定で、
出来損ないみたいな人生は、
刺激だけは、たくさんある。

 

だから今日も思う。

さてさて、次は何をしようかな。

それくらいで、生きていてもいいんじゃないだろうか。

 シンプルフレーズ

「飽きるのは、怠けじゃない。
心が動かなくなったことに、正直なだけ。」

落ち着けなくてもいい。
定まらなくてもいい。

刺激を求めて彷徨う人生も、
ちゃんと人生だと思う。

 

「値札を貼られて生きる」っていう世界

私たちは、
結果で評価されていると思っている。

努力したか
積み上げたか
行為に意味があったか

でも現実は、
そこに辿り着く前に値札が貼られる。

 

第一印象。

見た目。
雰囲気。
声のトーン。
距離感。
アクセの数。
髪の長さ。

ほんの数秒。

中身に触れる前に、
人格の仮決定が下される。

「この人は○○な人」

 

それはもう
評価というより仕分け

・信用枠
・警戒枠
・雑に扱っていい枠
・深く関わらない枠

人は思っている以上に、
ラベル処理で生きている。

 

言葉が大事だと言う。
行為が価値を作ると言う。

確かにそうだ。

でもその前に、
入口で弾かれるかどうかがある。

言葉が届く前に
行為が意味になる前に
「はい、あなたはこの棚」

 

恋愛も、仕事も、社会も。

値札はこう書かれる。

・軽そう
・真面目そう
・危なそう
・使えそう
・めんどくさそう

しかも厄介なのは、
この値札が本人不在で貼られること。

 

結果を出しても、
行為を積んでも、
一度貼られた値札は剥がれにくい。

だから人は疲れる。

「ちゃんとやってるのに」
「中身を見てほしいのに」

でも世界は言う。

まず見た目と雰囲気です。

 

じゃあ、どうするか。

世界を恨む?
評価を拒否する?
無価値を肯定する?

それも一つ。

でも私はこう思う。

値札を貼られるなら、
貼られる前提で立つしかない。

 

誤解されることも、
軽く見られることも、
最初から織り込む。

その上で、
行為を積む。
結果を出す。

ひっくり返せる場所では
ひっくり返す。

ひっくり返せない場所では
静かに離れる。

 

価値は、
誰かが決めた値段じゃない。

でも意味は、
自分がやった行為の中に残る。

それだけは、
値札を貼られても
奪われない。

 

 勝手に名言

「値札を貼られても、生き残ってるなら
その人生は安売りじゃない」

 

今日も世界は雑で不条理で優しくない。

それでもどうすることも出来ないんなら、その荒波の上で笑いたいね。

やらないで後悔するより、やって後悔した方が良いって

言う人が居るし、私もそっち側だ。

 

私も、やって後悔した方が良いって思っているし、思っているから・・・

後悔を積み上げているのかもしれない。

今日も失敗

昨日もドンマイ

一昨日もやっちまった・・・

 

また繰り返しなのか?またやってしまったのか?そして・・・またやってしまうのか?

私はいつもそう・・・

 

「やって後悔した方がいい」は、特権だと思う

 

よく聞く言葉がある。
「やって後悔した方がいいよ」って。

 

前向きで、勇気があって、正しそうで、
人生を肯定している言葉にも聞こえる。

でも、私はこの言葉を
そのまま受け取ることができなかった。

 

  本当の後悔や、取り返しのつかない状況を知らない人の言葉

 

「やって後悔した方がいい」って言える人は、
多分、やり直せる世界線に生きている

 

失敗しても、
取り返しがついて、
生活が壊れず、
関係も全部は失わず、
時間もまだ残っている。

それは悪いことじゃない。


でも、それは特権でもある。

やって後悔できるのは、
「やっても致命傷にならない」前提があるからだ。

 

世の中には「やって後悔」できない人がいるから。
そして、私もその境界線を見たことがあるから。

 

  時間は有限で、人生は思ったより短い

 

現実は、もっとシビアだ。

時間は有限。
期限はある。
体力も、気力も、資源も限られている。

  • 今を生きるだけで精一杯

  • お金がない

  • 働けない

  • 今日食べるものが不安

こういう時、
夢も希望も自己実現も、遠のく。

でもそれは、逃げじゃない。

優先順位が「生存」に固定されただけ。

価値がなくなったんじゃない。
「選べる余白」が消えただけ。

 

出来ることは、出来ることだけ。
持てるものは、持てる分だけ。

 

だから人生を彩ろうとしたら、
どうしても行為に頼ることになる。

 

考えて、迷って、悩んでいるだけでは、
世界は何も変わらない。

  選べない・出来ない・やらせてもらえない瞬間は、誰にでも来る

 

選べない状況。
悩めない状況。
選ばされて、強制される状況。

 

そんなもの、珍しくもない。

 

私にも、全部を失ったように見える時期があった

家族がいるのにお金がなくて、住む場所がなくなった時があった。

山の中の古民家を借りて、水を汲みに行って生活したこともある。

物も沢山売った。時計、アクセサリー、家具・・・


何もかも手放した。

その時に捨てたのは物だけじゃない。

  • 見栄

  • 関係

  • 信頼

  • 他人本位

  • “ちゃんとしてる私”という価値観

あの時は、選べなかった。
ただ、生き抜くしかなかった。

 

  それは「優先順位」が生存に固定されただけ

 

出来ない。
選べない。
GOできない。

それは失敗じゃない。
今、生き抜くことが最優先になっただけ

価値がなくなったわけじゃない。
選択可能な範囲が、狭まっただけ。

でも、残ったものが「大切なもの」だった

結果的に、残ったものがあった。

残ったものが、大切なものだった。

 

自分で選んだわけじゃない。
状況に選ばされた取捨選択だった。

 

それでも、嘘の価値が剥がれて、自分の優先順位が、強制的に可視化された。

私はあれを、「いい機会だった」と言い切れる。

綺麗ごとじゃない。

 

「夢」も「挑戦」も、後回しになる。

でも、それは逃げじゃない。

生き抜いた人間だけが持てる実感だ。

  だから私は思う。GOとは、勇気じゃない

 

よく言われる。
「GOする勇気」「一歩踏み出す覚悟」

でも、私にとってGOは、
そんな立派なものじゃない。

GOとは、今の自分の優先順位を、行為に変換すること。

 

GOは、優先順位の上にあるからGOする。


それだけ。

そしてもう一つ大事なのは、
優先順位は“思っているだけ”では意味がないということ。

行為にしなければ、優先順位はただの妄想になる。


だから私は、GOする。

GOして、行為して、
結果を受け入れる。

それ以外に、私には選択肢がない。

だって私は、
優先順位の上から順にGOしているだけだから。

 

行為しなければ、
優先順位に意味はない。

 

  やって後悔するしかない時もある

 

失敗も、ミスも、後悔も、
たくさん積み上がる。

それでも私は、
GOして、行為して、結果を受け入れる以外に、
選択肢を持たない。

だって、
優先順位の上から順にGOしているだけだから。

 

  出来なかったのは、価値がなかったからじゃない

 

最後に、これだけは言いたい。

出来なかったのは、
価値がなかったからじゃない。

それより上の優先順位が来ただけ。

 

GOしなかったのは、
逃げたからじゃない。

生きることが最優先だっただけ。

 

 シンプルフレーズの思想

 

「GOとは、勇気ではない。
今の私の優先順位を、行為に変換することだ。」

そして、もう一つ。

「やって後悔できるのは特権。
それでも私は、優先順位に従ってGOする。」

自分の人生は、
自分の優先順位で動かしていい。

それが、
シンプルフレーズの生き方。

迷いがあるということは、
まだ自分の選択権が残っているということ。

迷っているということは、余裕があるということ。
余裕があるということは、権利が奪われていないということ。

だから私は、責任の話より先に、こう言いたい。

 

選ぶことを責めるな。
選ぶ権利を守れ。

 

そして、最終的に人生を残すのは
「選んだ理由」じゃなく、「やった痕跡」だ。

全部回収できなくてもいい。
順番を作ればいい。
次回を残せばいい。

迷いは、可能性の別名だ。
まだ人生を、自分の手で触れられる証拠だから。

全部回収できないと知った瞬間、人は何を選ぶのか?

 

 

  全部回収できないって、分かった時点で詰む感覚

 

正直に言う。
人生って、全部回収できない。

行かなかった場所。
選ばなかった道。
食べなかったご飯。
言えなかった一言。

あとから「やっぱりこっちも」なんて出来ない。
この現実に気づいた瞬間、
なんかもう、ズシンと来る。

え、じゃあ私、何選べばいいの?
って。

 

晩ご飯ひとつで迷うのも、
予定を決められないのも、
旅先を決めきれないのも、
実は全部ここに繋がってる気がする。

 

選んだ瞬間、
「もう一方」が消えるのが、怖い。

  迷ってる自分を責める社会、ほんと嫌い

 

でさ、ここからが腹立つところなんだけど。

迷ってるとすぐ言われるじゃん。

「優柔不断だね」
「決断力ないね」
「いつまで悩んでるの?」

うるさい。
ほんと、うるさい。

 

迷ってる=ダメ


この刷り込み、誰が作ったん?

だってさ、
選択肢が無かったら、迷わないよ?

上司の言葉。
親の言葉。
生活の事情。
お金。
立場。

それに逆らって、別の行動を取れるほど、
私はそんなに強くない。

だから分かる。
本当に選択肢が無い時、人は迷えない。

迷うって、余裕が無いと出来ないんだよ。

 

  迷ってるってことは、まだ奪われてないってこと

 

ここで、ひっくり返す。

迷ってるってことは、
迷えるってこと。

 

つまり――
まだ自分の選択権を認識できてるってこと。

今日のご飯何にする? 

ハンバーガー?ラーメン? どっち?

プレゼントを上げようって?

ハンカチ?ネックレス? どっち?

 

迷えるのは、
どっちを選んでも「生きていける」範囲だから。

まぁ、後者はプレゼントを上げられる相手が居るっていう勝者の特権だけどね。私は敗者?ドンマイ俺

 

逆に言えば、
迷える範囲って、自分の出来る範囲。

なのに社会はすぐ言う。

「選んだんだから責任取れ」って。

いやいや、待って。
責任の前にさ、

選ぶ権利、守れてる?

私が大事にしたいのは、
「正解を選ぶこと」じゃない。

迷える余地。


次回に回す余地。

今決めないで、次回に選択の可能性を残そうっていう自由意思。
 

選択の責任じゃなくて、
選択する権利を奪われないこと。

ここ潰されたら、
夢どころか、希望もクソも無くなる。

 

  人生を彩るのは、行為だけ。だから私はGOでいい

 

正直・・・正解だったかどうかなんて、どうでもいい。

だって後からしか分からない。

でも一つだけ確かなことがある。

人生を彩るのは、行為だけ。

行った。
食べた。
選んだ。
動いた。
失敗した。
後悔した。

評価は変わる。
意味も変わる。
でも、やった事実だけは消えない。

私は昔からこう。

 

私にはstayが無い。
常にGO。
やってから考える。


失敗も後悔も積み上げるけど、それでいい。

夢を信じる方法って、
キラキラした気持ちを持つことじゃない。

 

私の人生は、行為によって彩られるから

全部回収できないって分かったなら、
全部取ろうとしなくていい。

 

順番を作ればいい。

私は今回、和歌山。で、魚を食べます。
次は四国で、うどんとかカツオ?食べたいって思ってるよ?

分かんないけどね、佐渡島も行きたいし、静岡から関東も気になるからね(笑)

迷いは弱さじゃない。
まだ選べるっていう余裕であり、権利が残ってる証拠。

だから今日も、
文句言いながら、迷いながら、
それでも私はGOで生きる。