意味をつけるのは、いつでも自分だ

価値なんて、いつだって相対的だと思う。

誰かが良いと言ったから。
誰かが認めたから。
みんなが欲しがったから。
社会がそれを正しいと決めたから。

そうやって、価値は作られていく。

 

でも、そこには意外と「自分」がいないことが多い。

 

私がどう思ったのか?
私が何を感じたのか?
私にとって、それは本当に大切なのか?

 

そういう自分の感覚よりも、誰かの評価や、世間の空気や、みんなの正解に左右されてしまうことがある。

 

それは仕方ないことだろう・・・

人は一人で生きているわけじゃない。


誰かに認められたいし、間違っていると思われたくないし、できるなら「それでいいよ」と言ってほしい。

だから、自分の感覚だけで価値を決めるのは、思っているより怖い。

  辞書の意味も、誰かが決めたもの

意味も、きっと同じなんだと思う。

例えば、辞書に書いてある言葉の意味。
あれだって、私が決めたわけじゃない。

どこかの誰かが、いつの日か決めた。
長い時間の中で、多くの人が使って、認めて、広がって、今の意味になった。

たったそれだけのことでもある。

 

もちろん、それは大切なことだ。
言葉の意味がみんなバラバラだったら、会話なんて成り立たない。

 

新しい何かに意味を持たせるのは、作り手の特権なんじゃないか?

 

親が子どもに名前を付ける時、その名前に願いや想いを込めるように。
誰かが作品を作る時、そこに自分だけの意味を込めるように。
何気ない日常に、自分だけの意味を見つけるように。

意味は、最初からそこに落ちているものじゃない。
自分で付けていくものでもあるんだと思う。

 

  誰も認めなくても、意味は付けられる

誰も認めてくれないと、価値は決まらないことがある。

誰も知らないものは、広がらない。
誰も評価しないものは、世間的には価値がないように扱われる。


どれだけ自分が大切にしていても、他人から見れば「何それ?」で終わることもある。

それは寂しい・・・

 

でも、意味は誰も認めてくれなくても、自分で意味を付けることはできる。

今までの日々。
今の努力。
これからの苦難。
失敗したこと。
逃げたこと。
悔しかったこと。
誰にも言えなかったこと。

それらに、どんな意味を付けるのか?

 

「無駄だった」と思うのか。
「必要だった」と思うのか。
「まだ終わっていない」と思うのか。
「ここから始まる」と思うのか。

それを決めるのは、最後は自分なんだと思う。

  でも、自分は感情に左右される

意味を付けるのは自分だ。
でも、その自分は感情に左右される。

気分が良い時は、世界が少し明るく見える。
過去の失敗さえ、「まあ、あれも経験だったな」と思えることがある。

でも、気分が沈んでいる時は違う。

世界は敵だらけに見える。
あの努力も無駄だった。
あの我慢も意味がなかった。
あの優しさも報われなかった。
結局、何だったんだよ。

そう思ってしまう時がある。

同じ出来事なのに、心の状態ひとつで意味が変わってしまう。

これは悲しい。
でも、すごく人間らしいことだとも思う。

いつも前向きに意味を付けられるほど、人は強くない。
いつも自分の人生を肯定できるほど、心は安定していない。

 

だからこそ、誰かが決めた価値や意味に縋りたくなる。

 

社会が認めたもの。
みんなが良いと言うもの。
辞書に書いてある意味。
誰かが保証してくれる正解。

 

それに頼れば、自分の揺れに振り回されなくて済むから、

自分の思いより、他人の目線に逃げてしまうことを悪いとは言えないな・・・

 シンプルフレーズ

いい意味をつけるのも、悪い意味をつけるのも、いつでも自分だ。 

だったら、明日世界がどっちを向いていたとしても、その決定権だけは、誰にも渡さずに握りしめていよう。

感情に振り回される、この愛すべき、どうしようもない自分と一緒に。

それでいいんだと思う。

一般的なマインドフルネスって、どうしても「静寂」「瞑想」「座禅」「呼吸」「自分と向き合う」みたいな方向に行きがちなんだけど、そこに私は少し違和感がある。

 

もちろん、それで落ち着ける人はいる。
静かな部屋で自分を見つめ直せる人もいる。
一人で座って、呼吸を整えて、心を鎮められる人もいる。

 

でもさ。

一人で抱えきれない夜もあるんだよ。

眠れない夜こそ、深夜のコンビニをガチれ

一人になった瞬間に、余計なことばかり考えてしまう夜がある。
静かすぎるからこそ、頭の中の雑音が爆音になる夜がある。
目を閉じた瞬間に、過去の後悔や怒りや恐怖が押し寄せてくる夜がある。

 

そんな時に「一人で自分と向き合いましょう」なんて、ちょっと無理がある。

かといって、誰かと話したいわけでもない。
慰めてほしいわけでもない。
説教されたくもない。
正論なんて聞きたくない。
「大丈夫だよ」って軽く言われるのも、正直しんどい。

 

つまり、必要なのは会話じゃないんだ。

 

必要なのは、ただそこに人がいるという気配。
触れてこない他人。
干渉してこない他人。
でも、確かに同じ時間に同じ場所に存在している他人。

この距離感が、たぶん救いになる時があるんだ。

 

静かな場所で自分を見つめるのは確かに出来るかもしれない。

でも、どうしてもネガティブに嫌な事に意識が言ってしまうこともあるんだ。

そういう時に、雑踏っていう・・・遠いところでする他人の営みって心が休まる時がある。

他人が居るけど、居ないような距離感。

 

深夜のコンビニには、それがある。

会社でもない。
家庭でもない。
友人関係でもない。
誰かの期待に応える場所でもない。

ジャージでもいい。
スウェットでもいい。
髪がボサボサでもいい。
ノーメイクでもいい。
何も買わなくてもいい。
買うとしても、プリンでもカップ麺でもエナジードリンクでもいい。

そこでは、ちゃんとした自分を作らなくていい。

これがかなり大きい。

 

スターバックスが「家庭でも職場でもない第三の場所」みたいな居場所を大切にしている、という話がある

けど、コンビニはもっと雑で、もっと生活に近くて、もっとラフなんだよね。

 

スタバに行くには、少しだけ「そこにいる自分」を作る。
でもコンビニは違う。

コンビニには、生活のまま行ける。
弱ったまま行ける。
眠れないまま行ける。
どうしようもないまま行ける。

しかも夜でも開いている。

公園は夜だと怖い。
スーパーは閉まっている。
カフェは気軽だけど、深夜には開いていないことが多い。
誰かの家に行くには重すぎる。
電話をするには相手が必要になる。

 

でも、コンビニはそこにある。

明かりがある。
店員がいる。
客がいる。
棚に商品が並んでいる。
冷蔵庫の音がする。
レジの音がする。
誰かが唐揚げを買っている。
誰かが明日の朝食を選んでいる。
誰かが煙草を買っている。
誰かが無言で帰っていく。

 

それだけでいい。

 

静かなのに、静かじゃない。
一人なのに、孤独じゃない。
誰とも関わっていないのに、人の気配に包まれている。

この矛盾した環境が、眠れない夜にはちょうどいい。

だから、これは逃避じゃない。
これは依存でもない。
これは甘えでもない。

夜に飲み込まれそうな自分を、いったん現実に戻すための儀式だ。

マインドフルネスが「今ここ」に意識を戻すことだとするなら、深夜のコンビニはかなり強いと思う。

 

なぜなら、そこには強制的に「今」があるから。

棚の商品。
白い光。
冷たい床。
自動ドアの音。
知らない人の足音。
レジ袋の音。
外の湿った空気。

頭の中の地獄から、体の感覚に戻してくれる。

 

深夜のコンビニは、悟りの場所じゃない。
癒しの場所でもない。
人生を変えてくれる場所でもない。

でも、孤独で壊れそうな夜に、
ほんの少しだけ呼吸を戻してくれる場所ではある。

​​​​​​​

 シンプルフレーズ流に言うなら

一人で自分を見つめられない夜は、
触れない他人のいる場所へ行けばいい。

孤独だけど、孤立じゃない。
一人だけど、世界からは切り離されていない。

 

それを思い出すために、
眠れない夜こそ、深夜のコンビニをガチるんだ。

マインドフルネスって、世界や社会から離れて隔離されて自分だけの時間に気付いて、

自分の細かな変化や感情や何かに気が付くための瞬間を知るための時間なんだろうね。

今この瞬間を、ちょっと変な自分で楽しむ

マインドフルネスって言うと、
瞑想して、呼吸に集中して、今ここに意識を向ける。

 

そんなイメージがある。

もちろん、それも大切なんだろう・・・?

でも、私は思うんだ。

本来のマインドフルネスって、もっと日常の中にあるんじゃないか?

 

もっと言えば、
ちょっと狂気との境目にあるくらいが、ちょうどいいんじゃないかと思っている

  レトルトカレーに話しかける夜

たとえば、レトルトカレー・・・

普通に食べたら、ただの飯だ。

皿に出して、動画を見ながら食べて、
気付いたらなくなっている。

 

腹は満たされる。
でも、何とも味気ない。

 

そこで、あえて言ってみる。

「ふふふw今日は貴様を食べてやる」

うん。
誰かに見られたら終わりだ。

 

「大丈夫?」って言われる。
異常者か、寂しい人か、疲れている人に見えるかもしれない。

 

でも、最高じゃないか(笑)🤪

 

その瞬間、ただのレトルトカレーが、
今日の相手になる。

食事が作業じゃなくなる。
部屋が舞台になる。
自分が、演出する側になる。

見られたら終わりかもしれないけれど、自分だけの一人だけの孤独な夜なんだ。

自由に演出しようじゃないか(笑)

 

  今を大切にするって、綺麗なことだけじゃない

「今この瞬間を大切にする」って、
なんだか綺麗な言葉に聞こえる。

 

でも、実際はもっと変でいい。

一人でグラスに目を落とす。
ビールの泡だけを掬ってみる。
ウイスキーに塩を一つまみ入れてみる。
買ってきた氷をグラスに入れて、音を聞いてみる。

 

特別な準備なんていらない。
特別な肴もいらない。
音楽だって、いつものでいい。

 

ただ、普段通りの中に、
普段通りじゃない目線を入れる。

 

それだけで、日常は少し変わると思うんだ。

ほんの少しの変化で、それは普段の日常から、異常に変わって、日常以上に変わっていく。

  享受するだけでは、まだ足りない

動画を見る。
音楽を聞く。
酒を飲む。
飯を食べる。

それも楽しい。


それも必要だと思う。

 

でも、それだけだと、ずっと受け手なんだよね。

見る側。
聞く側。
言われる側。
使われる側。
流される側。

社会では、だいたいそうだ。

 

だからこそ、自分の部屋くらい、
自分の夜くらい、
自分の一杯くらい、
自分で演出していいと思うんだ。

 

娯楽を享受するだけじゃなく、
娯楽を自分で作る。

それが、シンプルフレーズ式のマインドフルネスだ。

  旅行が特別なのは、自分で演出しているから

旅行が特別に感じるのも、
きっと同じことなんだと思う。

 

行き先が特別だからだけじゃない。

自分で調べて、
計画して、
準備して、
今日はここを楽しむって決めている。

 

だから、非日常になる。

だったら、普通の夜だって同じだ。

眠れない夜。
疲れた夜。
一人の夜。
いつもの部屋。
いつもの酒。
いつもの飯。

それでも、少しだけ演出すればいい。

 

今日は、この一杯を見る。
今日は、このカレーを相手にする。
今日は、この夜をただの消費で終わらせない。

 

そう決めた瞬間に、
日常はちょっとだけ非日常になる。

  変な自分で、今を楽しめばいい

バカと天才は紙一重と言う。

 

なら、日常を楽しむために、
少しバカになったっていいじゃないか?

 

レトルトカレーに話しかける。
グラスをじっと見る。
買った氷をありがたがる。
一人飲みをガチる。

 

誰かに見せるためじゃない。
誰かに褒められるためでもない。

自分が、自分の今を楽しむためだ。

 

マインドフルネスって、
世間に見せられる綺麗な自分になることじゃないと思う。

 

誰にも見せられない変な自分で、
この一瞬を面白がること。

 

それこそが、今を大切にするってことなんじゃないか?

 シンプルフレーズ

一人飲みをガチれ。
レトルトカレーを敵にしろ。
眠れない夜を舞台にしろ。

 

日常を非日常に変えるのは、
高級な何かじゃない。

 

自分の世界を、自分で作り上げて、
切り取って、楽しむことなんだ。

何度も何度も思い出す後悔って、
いつの間にか後悔じゃなくて、日常になっているのかもしれない。

日常としての後悔

ふとした瞬間に思い出す。

仕事中。
通勤中。
スマホをいじっている時。
音楽を聴いている時。
寝る前。

何度も何度も、同じシーンが蘇ってきて、辛い気持ちになる。

 

悔しさだったり、贖罪の気持ちだったり、いろいろな感情が繰り返し押し寄せてくる。

 

私だってそうだ・・・

 

  後悔は、上書きされていく

昔は、学生時代の苦い記憶に縛られていた。

いじめられたこと。
殴られたこと。
勉強が出来なかったこと。
友人関係がうまくいかなかったこと。

 

沢山あった。

でも、それがいつの間にか、違う後悔に変わっていた。

 

人生って、結構長いんだ。

私の場合は、子供たちのこと。
付き合った相手のこと。
仕事のこと。

 

学生時代の記憶に縛られていた時から、
今は違うことに縛られているような気がしている。

 

特に何度も思い出すのは、子供たちのことだ。

 

もう、きっと簡単に会うことも出来ない。
謝ることも、埋め合わせることも出来ない。

 

だから、それがいつまでも残り続ける。

でも、それももしかしたら、
新しい後悔で上書きされる時が来るのかもしれない。

 

人生って、思ったよりも長いからね。

 

  後悔は分岐点なのかもしれない

 

何度も思い出す後悔って、
もしかしたら分岐点なのかもしれない。

 

人生が変わったと感じる時。
人生を変えることが出来たかもしれない瞬間。

 

その場所を、何度も思い出しているんじゃないだろうか。

後悔って、やっぱり杭として残っている瞬間なんだ。

それを乗り越えることは出来ない。
開き直って受け入れることも出来ない。
原因を追究して分けていったとしても、解決なんて出来ない。

だから、後悔ってきっと必要な瞬間だったんだ。

その瞬間の繰り返しが、人を作っていくんだろう。

 

何かが解決するわけじゃない。

 

ただ・・・
自分を作っているのは、あの時の私なんだなって思うだけなんだよね。

  後悔が、私を作ってしまった

やり直しも出来ない。
取り返しも出来ない。
なんなら、やり返しも出来ない。

見返すことすら出来ない。

それも、足跡でしかないんだよね。

 

過去を未来のために役立たせる・・・?


そんなことは出来ない。

 

それでも、同じ後悔をすることになった時に、
私はやっぱり私なんだなって思えることしか出来ないだろうね。

 

だって、自分の成長や進化より、
世界の変化の方が早いから。

ついていけないよ。

もうそれは、自分のせいじゃない。

 

  日常にフラッシュバックする後悔は・・・

日常としての後悔。

それは、どんな前向きでポジティブな言葉や論理で固めようとしても解決出来ない。

 

だから、日常で何度も繰り返す瞬間になる。

その瞬間は、もうどうしようもなく、
自分をいじめたくなる気持ちになる。

 

誰が何と言おうと、
どれだけアドバイスされて諭されたとしても、
どうにもならない・・・

 

それが楔であり、杭であり、悔いなんだから。

 

それを抜く方法?
解決する方法?
生かす方法?

あったとしても、乗り越える手段があったとしても、
それは何の解決にもならない。

 

日常にフラッシュバックするあの瞬間は、
ただの後悔を超えて、トラウマに近い状態なんだから。

  どうにもならないものが、私を作っている

他者の介入で救われることなんて無い。

自分で解決出来ることなんて無い。

だって、人生は自分だけのモノなんだから。

 

誰かの何かで人生に影響されているのは間違いない。

影響もされる。
感化もされる。
支配もされる。
支配もするだろう。
影響も与えるだろう。
被害にもあうだろう。

それもこれも、自分だけの人生の物語なんだ。

 

誰かの助言や進言で解決出来るほど、人生はあまくない。


そして、短くもない。

 

だから、その後悔をどうする?
どうやって生きていく?

 

そう考えてしまう。

 

でも、私は思う。

どうにもならん。

 

だって、それがあなたを作っていて、
私を作っているんだから。

苦しむしかないんだよ。

 

だから、人生は苦しいって、誰もが言っているんでしょ?

なんなら、終わりが無いって、こういうことを言うんだろう。

 

  終わらないから、続いている

私の人生は、後悔の連続と、悲しみと苦しみと、失うことと失敗に彩られている。

 

だからこそ思う。

もう手に入らないから、
何も手に入れないっていう選択肢はあっても良い。

手に入れると、失うことが怖い。
新しい後悔に繋がるから。

 

もう手に入れないで、
その都度、自分の感情と欲望に任せた人生設計にしても良いんじゃない?

 

だって、人生は結構長いからさ。

新しい後悔が来てからでも、
長い人生はまだまだ残っているんだよ。

 

だって、まだ終わってないでしょ?

 

コンティニューなんていらない。
リスタートもいらない。

だって、終わらないんだもの。

 シンプルフレーズ

後悔は、乗り越えるものじゃない。
私を作ってしまった日常だ。
どうにもならないまま、私は私として続いている。

 

ホント・・・人生って長いね。

 

それでも、シンプルフレーズは諦めない

「自閉スペクトラム症(ASD)」
「失感情症(アレキシサイミア)」
「共感性の欠如」

 

私の取扱説明書になり得るかもしれない名前が、この世界にはいくつか用意されている。

原因だって、今の世界には懇切丁寧に列挙されている。
脳のどの部位が、どんなメカニズムで機能していないのか。
専門書にもネットの海にも、いくらでも答えらしきものがある。

 

現代社会は実に親切だ。

「分からない」という不気味なものに、ちゃんと名前を与えて、分類し、可視化してくれる。

 

けれど、名前がついて原因が判明したからといって、社会や組織の中に私たちの「居場所」が自動的に与えられるわけではない。

「名前は分かった。
でも、私たちの輪に入れないなら、それ相応の扱いになるのは仕方ないよね」

分類はされても、包摂はされない。
名前があっても、居場所は与えられない。

 

それが、この世界の持つ本当の冷たさだ。

  会話という名の承認欲求の物々交換

最近、本当に会話が難しいと思う。

誰もが簡単に盛り上がっている。
私だって、それなりに会話は出来ていると思う。

 

でも、同じように盛り上がっているか?


そう聞かれたら、そうじゃないとも思う。

少なくとも、私は自分が振った話でないと、なかなかうまく回せない。
相手の話を聞くのが得意じゃない。

 

これが一番たちが悪い。

人は誰もが語りたい。
人は誰もが教えたい。

子供も、人に教わるより教えたいらしい。
教える方が楽しいし、娯楽になり、満たされる。

 

伝説の、

「志村!うしろうしろ!」

あれと同じだと思う。

 

自分が気づいたことを言いたい。
自分が知っていることを渡したい。
自分の感情を受け取ってほしい。

会話は、情報交換だけじゃない。
会話は、承認欲求の物々交換でもある。

人は、自分の中にある感想や想いといった、不確かな、形のない主観を会話に差し出す。


そして相手に同じ色で染まってもらうことで、感情の足場固めをしている。

でも、私にはその感情を受け取るカゴがない。

相手の「語りたい娯楽」の受け皿になれない。
相手が求めている共感の反応を、自然に返すことが出来ない。

 

だから、計算する。
演じる。
顔色を伺う。
合わせる。
擬態する。

それは社会における生存戦略にはなる。

 

でも、それ自体が自分を見失う原因になる。

  無我か、全肯定の孤独か

演じているだけでは満たされない。
でも、本当の自分では誰も寄り付かない。

 

ここが悲しいほどに、詰んでいる。

社会で生き残るためには、無我になる。
相手に合わせて、空気を読んで、求められた反応を返す。

 

でも、それを続ければ、自分がどこにいるのか分からなくなる。

 

かと言って、世間の啓発本が言うように、

「自分らしく生きよう」
「自分のペースで生きよう」

と舵を切れば、待っているのは周囲との断絶だ。

全肯定の孤独。

私は私でいい。
私を否定しない。
無理に合わせない。

それは綺麗な言葉だ。

 

でも、その先に誰もいなかったら?


その静寂は、やがて自己否定と自責へと反転していく。

「やっぱり私が悪いのか」
「やっぱり私はおかしいのか」

そうやって戻ってくる。

恋人が欲しい。
誰かと繋がりたい。
居場所が欲しい。

そう思った時、入り口で求められるのは、自分を殺して演出した虚像だ。

 

でも、本当に理解してほしいのは、その奥にある「共感できない実像」だ。

 

実像を明かせば、相手にとって期待外れになる。
同族を求めても、お互いに共感の回路がない以上、破綻するかもしれない。

悲しいほどに、詰んでいる。

 

バランタインのグラスを傾けながら、私は一度、静かに投了の準備をしかけた・・・

  それでも、シンプルフレーズは諦めない

しかしだ。

シンプルフレーズは諦めない。

 

大丈夫って言いたい。
手を差し伸べるためにいるのが、シンプルフレーズなんだ。

 

ここで投了を宣言するためだけに、私は言葉を紡いでいるわけじゃない。

だとしたら?

 

全部じゃなくていいんじゃないか。

全部を理解してもらおうとするから詰む。
全部を隠して演じるから苦しくなる。
全部をさらけ出すから誰も寄り付かなくなる。

 

だったら、部分的な打開は可能じゃないだろうか?

趣味の一部分だけ。
好みの一部分だけ。
嫌いや苦手の一部分だけ。
大切にしたい何かの一部分だけ。

全部じゃなく、一部分だけを公開する。


一部分だけを公表する。
一部分だけに理解を求める。

これは、ギリセーフだと思うんだ。

最初から全部を認めてもらいたいとか、全部を理解してもらいたいとか、全部分かってほしいとか。


それはどんな人だって無理なんだ。

 

だから、切り捨てるんじゃなく、切り分ける。

一部分だけにフォーカスする。

そこだけを、共感でも共有でも理解でも押し付けでもいいから、求めていく。

 

全部を押し付けるから重い。
でも、一部分なら、それは表現になる。

 

  私の場合は、シンプルフレーズだ

言葉で手を差し伸べること。
大丈夫って言いたいこと。
誰かの逃げ場になりたいこと。

 

そしてもう一つ。

「冴羽獠」を目指す生き方の姿勢。

 

普段はお調子者でいい。
ふざけていてもいい。
軽く見られてもいい。
まともじゃないと思われてもいい。

 

でも、本当に誰かが詰みそうな時。
本当に逃げ場をなくした時。
本当に手を伸ばす相手がいない時。

その最後の場面で、ちゃんと手を取れる人でいたい。

 

冴羽獠のかっこよさは、完璧な正義じゃない。
綺麗な聖人君子でもない。

ふざけて、壊れていて、どうしようもない部分を抱えながら、
それでも最後には人を見捨てないところにある。

私が目指しているのは、そういう姿勢だ。

全部の私を理解してもらわなくてもいい。
全部の私を受け入れてもらわなくてもいい。

この一部分だけは、誰にも譲らないし、世界に突き立てていく。

  居場所は、全部じゃなくていい

居場所って、全部の自分を受け入れてくれる場所だと思っていた。

でも、もしかしたら違うのかもしれない。

 

居場所は、全部の自分が許される場所じゃない。
一部分の自分を、ちゃんと置ける場所なのかもしれない。

名前を知るだけでは、世界は一ミリも優しくならない。

 

だから私は、全部の私ではなく、一部分の私を世界に突き立てる。

言葉として。
美学として。
シンプルフレーズとして。

居場所は与えられない。
なら、静かに刻み込むしかない。

 

全部を分かってくれなくていい。
でも、この一部分だけは見てくれ。
ここに、私はいる。