レビューっていう口コミ

商品を買った時、食事をした時

普段の買い物でも、旅先やデートや趣味の行き先や道具の選択

どんなときにも、どんな場所にも、どんな物にも

そこには誰かの評価と感想が付いている。

 

新商品や新店舗や新しい施設だとしても、広告や宣伝に対して誰かの言葉がついている。

 

それは、誰かの評価や感想の無いものが無いっていうことなんだ。

そして私達は、常に誰かの評価と感想に一喜一憂しながら生きている。

 

だからこそ・・・

そのレビュー、「どうやって使っている?」っていうことを見直しても良いんじゃないかな?

レビューっていう口コミには、自分を見つける可能性がある

「レビュー見てから行こう」

今の時代、そんな選び方は当たり前になった。
でも私は最近、レビューって“お店の評価”だけじゃないんじゃないか?と思い始めている。

 

   レビューで、人は“安心”を買っている

例えば、カフェを探す時。

「静かでおしゃれなお店でした。コーヒーも香りがよく、スイーツも甘過ぎず、ゆっくり過ごせました」

そんなレビューを見ると、「良さそう」と思って行くことがあるだろう。

でも、その時って、自分は何を選んでいるんだろうか?

コーヒー?
スイーツ?
おしゃれさ?
静かさ?
それとも、「人気だから外れなさそう」っていう安心感?

 

実際、人はそんなに明確に生きていない。

「なんか良さそう」
「失敗したくない」
「評価高いから」

そんな理由で選ぶことなんて山ほどある。

 

だからこそ、レビューを見るっていう行為は、実は“他人の視線”を借りて安心を買っているのかもしれない。

  でも、レビューを書く時に人は変わる

🌟面白いのはここからだ。

こと“レビューを書く側”になった瞬間、人は「自分が何を感じたのか?」を考え始める。

 

例えば、

「静かさが良く、店員さんも気さくで構い過ぎず、ゆっくり過ごせた」

って書いたとする。

 

すると見えてくる。

自分は、静かな場所を求めていた。
距離感を大切にしていた。
安心して一人で過ごせる空間が欲しかった。

つまり、レビューを書いているようで、本当は“その時の自分”を言葉にしているんだ。

レビューは「感情の記録」になる

レビューって、お店の説明みたいに見える。

 

でも実際は違う。

「何が美味しかったか?」より、

「なぜ、その時間が心地良かったのか?」

の方が、自分をよく表している。

例えば、

  • 静かな空間が好き
  • 店員さんが構い過ぎない方が楽
  • 甘過ぎない味が好き
  • 一人の時間が落ち着く

そういう“小さな好み”って、自分では案外気づいていない。

でもレビューを書くと、それが浮かび上がる。

 

つまりレビューは、「お店を評価する場所」であると同時に、「自分の感情を確認する場所」でもあるんだろう。

  ブログやSNSより、レビューは軽い

ここがレビューの面白いところだと思う。

ブログやSNSって重い。

「どう見られるか?」
「共感されるか?」
「嫌われないか?」

どうしても意識してしまう。

 

でもレビューって、少し違う。

書き捨てでもいい。
誰も困らない。
大きな責任もない。

もちろん、「いいね」や評価はある。
感想に対して感想が返ってくることもある。

 

つまり現代では、“レビューする自分”すら評価される。

 

だから、人は無意識に「見栄えの良い言葉」を選ぶ。

「洗練された空間」
「上質な時間」
「落ち着いた雰囲気」

そんな言葉を並べたくなる。

 

でも、それすら悪いことじゃないと私は思う。

だって、その言葉選びには、

「どう見られたいか?」

っていう、自分の理想や美学が滲むからだ。

  レビューの可能性

レビュー文化って、批判されがちだ。

他人の評価に流される。
SNS映えに支配される。
評価経済だ。

確かに、それも間違っていない。

 

でも私は、レビューには別の可能性もあると思っている。

レビューを書く時、人は初めて、

「自分は何を求めていたんだろう?」

を考える。

何に安心した?
何が好きだった?
何を心地良いと思った?

それを言葉にする。

つまりレビューとは、“対象を評価する行為”ではなく、“自分の感性を読む行為”なのかもしれない。

 

  シンプルフレーズ

「人はレビューを書きながら、お店を語っているようで、本当は“その時の自分”を語っている。」

前を見て歩く。

足元を見て歩く。

そんな当たり前のことさえ、現代の私達は出来ない。

見ることが出来ないんだ。

自分の立っている場所も、進んで行く先も・・・

見ているのは、スマホの画面と周囲の他人の顔ばかり・・・

「見る」は、いつから“評価”になったんだろう?

人は毎日、何かを見ている。

街を眺める。
鏡を見る。
SNSを見る。
写真を見る。
レビューを見る。

でも、その「見る」は、本当にただ見ているだけなんだろうか?

 

今回考えたいのは、「眺める」「凝視する」の違いだ。

  ■ 眺めるということ

例えば、街を歩いている時。

看板が見える。
人が通る。
空の色が変わる。
花が揺れる。

そこに強い意味は無い。

興味は流れ、視線は移動し、感情も変わっていく。

 

これは「眺める」に近い状態なんだと思う。

流動的で、固定されない。


ただ世界を受け流している状態。

鏡を見る時も、少しこれに近い。

髪を整える。
顔を見る。
なんとなく不満を持つ。


でも、次の瞬間には別の角度を見ている。

鏡の自分は固定されない。
常に変化しているからだ。

  ■ 写真になった瞬間、人は“凝視”を始める

でも、それが写真になると変わる。

切り取られた瞬間、意味が固定される。

  • 顔の形
  • 年齢
  • 表情
  • 雰囲気

全部が「評価対象」になる。

つまり写真は、「見る」から「判定」に変わるんだ。

 

そして現代は、そこからさらに進む。

加工する。
修正する。
演出する。

動画になれば、動きまで整え始める。

 

それはもう、「自分」ではなく「見られたい自分」を作る作業だろう。

 

アイドルとは偶像だ。

つまり、「見られるために設計された存在」。

今のSNS時代は、その偶像化を誰もがやっている。

  ■ 人は、自分を直接見ることが出来ない

ここで面白いのは、自分を探そうとした時だ。

私は未だに「自分」が分からない。

適当に生きているように見られる。
別に不満だけではない。
でも、モテないのは悲しい。

なら、どうしたらいいのか?

 

結局、人は「どう見られているか?」を気にする。

 

ちゃんと考えていそう。
余裕がありそう。
誠実そう。
魅力的そう。

そういう“印象”で判断されるからだ。

つまり、人は自分を直接見ることが出来ない。

 

だからこそ、他人の目の中に映る自分を探し始める。

  ■ 「どう見られたいか?」の方が見つけやすい

本当の自分を探すのは難しい。

でも、

  • 強く見られたい
  • 優しく見られたい
  • 面白く見られたい
  • センス良く見られたい

こういう「どう見られたいか?」は、案外見つかる。

 

だから最初に探すべきなのは、「本当の自分」じゃなく、「見られたい自分」なのかもしれない。

 

ただ、その瞬間から人は迷い始める。

自分が見ている自分と、他人が見ている自分がズレるからだ。

そのズレが、他者依存を生み、「もっと自分を探したい」に繋がっていく。

  ■ レビューは、“他人の視線”の集積

そこで現代人が使うのがレビューだ。

レビューとは、単なる感想じゃない。

「他人がどう感じたか?」の記録だ。

  • この店は映える
  • この服は好印象
  • この香水はモテる
  • この場所はセンスが良い

そういう「他人の評価」が大量に並んでいる。

人はそれを見て、取捨選択する。

そして、その評価を自分の中に取り込み、「見られたい自分」を編集していく。

 

だから、「形から入る」は間違いじゃない。

内面を直接育てるのは難しい。
でも、形は真似できる。

服装。
場所。
話し方。
雰囲気。

外側を整えることで、後から内面が追いつくこともある。

  ■ 現代は、新しい規律訓練型社会なのかもしれない

ここで、私は思う。

これも一つの「規律訓練型社会」byフーコー なんだろう。

昔は、

  • 学校
  • 工場
  • 軍隊

みたいな場所が、人を訓練した。

 

でも今は違う。

SNS。
レビュー。
アルゴリズム。

それらが、「どう見られるべきか?」を教えてくる。

 

しかも怖いのは、誰かに命令されているわけじゃないことだ。

人は自分から進んで、

  • 加工し
  • 修正し
  • 空気を読み
  • 好印象を作り
  • 正解っぽい人格を演出する

つまり、他人の視線を、自分の中に住まわせている。

 

  ■ それでも、人は“見られたい”を捨てられない

でも、人は社会の中で生きている。

だから「どう見られるか?」を完全に捨てることは出来ない。

 

問題は、他人を気にすることじゃない。

「どの視線を採用するか?」なんだと思う。

レビューを見てもいい。
SNSを見てもいい。

 

でも、その全部を取り込めば、自分は他人の評価の集合体になってしまう。

 

だから最後に必要なのは、

「私は、どの見られ方を選びたいのか?」

という、自分なりの美学であり価値観なんだろう。

 

どうありたいか?

って言うのを知る時に、既にある他人の評価を参考にするのは決して間違いじゃないと思う。

  シンプルフレーズ

「人は、自分を直接見ることが出来ない。
だから、他人の目の中に映る自分を探し続ける。」

 

次回はレビューっていうモノの使い方の可能性を模索したい

自分探しの一歩は、レビューっていう投稿にあるのかもしれないと私は思うから

連休前みたいな日は、仕事を早く終わらせたくなる。
でも、そういう日に限って、周りとの温度差がやけに目につくことがある。
誰も悪くないのにしんどい・・・そんな日って、案外たくさんあるんだと思う。

温度差は、静かに人を削っていく。だから私はネガティブを吐き出す

 

はっきり言うね。

もう、超帰りたいの!

1秒でも早く帰って、連休を週末を休日を満喫したい!そして・・・お酒が飲みたい・・・

 

そう、私は仕事より、休日に命を懸けている。

最近聞く「ワークライフインテグレーション」?あほか?って思う。

  それぞれ正しいのに、モチベーションだけが噛み合わない

もう週末。
明日から連休。
こちらとしては、出来るだけ早く仕事を終わらせて帰りたい。

 

でも、現実はそんなに単純じゃない。

休日出勤の人もいる。
日にちがズレて連休の人もいる。
予定がない人もいる。
少しでいいから残業したい人もいる。
予定はあっても、そこまで急いでいない人もいる。

 

状況は本当にさまざまだ。


そしてその違いは、そのままモチベーションの差になる。

早く終わりたい人。
急いでいない人。
残業代が欲しい人。
少し余裕を持って進めたい人。

 

ここで厄介なのは、誰も間違っていないことだと思う。
悪い人がいるわけでもないし、サボっているわけでもない。


みんなそれぞれ、自分の事情の中で理性的に正しい判断をしているだけなんだよね。

だからこそ、余計にしんどい。
正しさでは、この温度差は埋まらないから・・・

  この温度差は、仕事だけの話じゃない

こういうことって、仕事だけじゃないと思う。
たとえば子育ての時の夫婦の温度差も、きっとそうだろう。

 

主観的に強く関わる側と、少し引いて客観的に見ている側。
どちらが正しいとかじゃない。


でも、感じている熱量は違う。

 

音楽を習わせるのか。
スポーツをさせるのか。
勉強を優先するのか。
何を大事にするのか。

方向性が違うことだってあるし、そこまで対立していなくても、温度差は生まれる。


そして、それを放置すると、だんだん亀裂になる。

小さなズレが、軋轢になる。
「なんで分かってくれないの?」が積もっていく。


最後には、関係そのものが危うくなることだってある。

 

だから、温度差を甘く見ない方がいいんだと思う。
誰も悪くないからこそ、余計に扱いが難しいんだ。

  じゃあ、今日のモヤモヤをどうするのか?

問題はここからだと思う。

今日の感情や想いを、どこでどう吐き出すのか?


コントロールするのか。
発散するのか。
ぶつかるのか。
ぶつけるのか。
それとも、一度飲み込んで別の場所で出すのか?

 

この選択肢を、自分の中に持っておくことは大事だと思う。

感情って、放っておけば自然に消えるほど都合が良くない。
言えなかったこと。
飲み込んだ不満。
モヤモヤした違和感。
そういうものは、溜まっていく。

そして、溜まったものは、いつか別の形で出る。
 

どうでもいい一言にイラついたり、関係ない相手に強く当たってしまったり、自分の中だけで腐っていったりする。

だから、出口は必要なんだよね。

  私は、出来ることをやるしかないと思っている

私の場合、予定を立てる時は基本的に余裕ありきだ。


仕事のしがらみがあることも前提にするし、思い通りに進まないことも込みで考える。

子育ての時もそうだった。
私に出来ることなんて限られていたし、一緒にいられる時間が少ない側だったから、フォローが中心だった。

 

結局、出来る側が、出来ることを全力でやる


そのくらいが現実的なんだと思う。

全部を自分の理想通りにしようとすると、苦しくなる。
みんなのモチベーションを揃えようとしても無理がある。


だって、事情が違うんだから。

でも、そう分かっていても、感情は残る。
そこが厄介なんだよね・・・

 

  ネガティブな投稿には、案外ちゃんと価値がある

だから私は思う。
案外、ネガティブな方向性のブログや投稿って、共感の力と可能性を持っているんじゃないか?って。

 

前向きな言葉が刺さる日もある。
でも、しんどい時って、眩しい言葉は重たいことがある。


そんな時に救いになるのは、「分かる、その感じ」と思える愚痴や不満だったりする。

 

毎日不満を投稿し続けるのも、ありだと思う。
専用のアカウント、いわゆる裏垢みたいなものも、使い方によってはかなり理にかなっている。

ただし、そこに落とし穴もある。

投稿するために、わざわざ意識や感情をネガティブな方へ持っていったら意味がない。
吐き出すための場所だったはずなのに、不満を探しに行く場所になったら本末転倒だ。

 

だから、ネガティブ投稿は「住む場所」じゃなくていい。
あくまで、吐き出すための場所
叫ぶための場所。
王様の耳はロバの耳って叫ぶための、古井戸みたいなものなんだと思う。

 

  愚痴は弱さじゃなく、自分を守るための出口かもしれない

愚痴や不満って、あまり良くないものみたいに扱われることがある。


でも私は、そうは思わない。

溜め込みすぎた感情を外に出すことは、自分を守ることでもある。

 

誰かを傷付けるためじゃなく、自分が壊れないために吐き出す言葉なら、それは必要なものだと思う。

 

誰も悪くないのにしんどい日。
正しさでは埋まらない温度差に削られる日。
そんな日に、「こんなことでモヤモヤする自分が悪い」なんて責めなくていい。

ちゃんとしんどかった。
ちゃんとズレを感じた。
だから、ちゃんと吐き出していい。

それだけで、明日は少し違うかもしれないから。

 シンプルフレーズ

誰も悪くない温度差ほど、人を静かに削っていく。
だからこそ、今日のモヤモヤは今日のうちに吐き出していい。
愚痴を吐くことは弱さじゃない。自分を守るための古井戸だ。

 

「大様の耳はロバの耳~」ってね(笑)

将来の不安に強い人って、たぶんいるんだと思う。
老後のために貯金して、健康のために節制して、未来のために今を積み重ねていける人。
でも、私はどうにもそっち側の人間じゃない。

未来を考える前に、今の感情を吐き出した方がいい

 

  将来のために動けと言われても、だいたい今で手一杯だ

将来のために投資をしましょう。
将来のために身体を大事にしましょう。
将来のために今を我慢しましょう。

 

そんな話は、もう耳にタコができるほど聞いてきた。

 

でもね、そういう“正しい話”って、今を何とか生きている人間には、時々ちょっと遠すぎるんだよ。

将来のために投資?
大概失敗する。

病気や怪我に備えましょう?
いや、もうNOW進行形で病気ですよ。金欠病。治りますか?って話だ。

 

笑い話みたいに言っているけれど、これ、けっこう切実だ。
今を乗り越えるので精一杯の時に、「5年後の安心のために」なんて言われても、正直そこまで視界が届かない。

未来を見ろと言われても、今がしんどすぎたら、そんなの見えるわけがない。

 

  今を生きることと、未来を考えることは別の才能かもしれない

もちろん、未来を考えることは大事なんだと思う。
備えることも、計画することも、たぶん間違いじゃない。

 

でも、それが出来ないからダメだ、とは思わない。

だって現実には、今をやり過ごすだけで精一杯な日がある。
不安を整理する余裕もなく、感情を押し込めながら、とりあえず今日を終わらせることしか出来ない日がある。

 

そういう時に、「もっと先を見ないと」なんて言葉は、励ましというより追い打ちになることがある。

先を見る余裕がある人は、それでいい。
 

でも、今に飲まれている人間には、まず今をどう扱うかの方が大事だ。

私はずっと、そこに葛藤している。

今を楽しめと言われても不安になる。
未来のために我慢しろと言われても息が詰まる。
結局、どう使うのが正解なのかなんて、いつまで経っても分からない。

 

そして、結果がどうなるかなんて――
それこそ、知ったこっちゃないよ(笑)

 

開き直りに見えるかもしれない。
でも、ある意味ではこれも正直な本音なんだと思う。

  今の感情は、今しか吐き出せない

・・・ただね。私は思うんだ。

 

未来がどうなるか分からないとしても、今の感情だけは今しか出せない。

 

苦しい。
しんどい。
不安。
腹が立つ。
泣きたい。
もう嫌だ。

そういう感情って、後回しにすると腐るんだよね。

明日落ち着いてから考えよう。
時間がある時に整理しよう。
そのうち言葉にしよう。

そうやって先送りにした感情は、消えるんじゃない。
溜まって、濁って、別の形で自分を苦しめる。

 

だから私は、明日にしないで今吐き出すことを大事にしたい。

立派な言葉じゃなくていい。
綺麗な文章じゃなくていい。
愚痴でも、弱音でも、みっともなくてもいい。

今の感情は、今の自分にしか出せない。


そして、それを今ちゃんと外に出してやることは、思っているより大事なことなんだと思う。

 

  吐き出したところで、人生はすぐ変わらない。でも明日は少し変わるかもしれない

正直に言えば、吐き出したからって人生が劇的に好転するわけじゃない。
金欠が治るわけでもない。
不安がゼロになるわけでもない。
問題が一瞬で解決するほど、世界は甘くない。

 

でも、吐き出さなかった時よりは、少しだけ呼吸がしやすくなることがある。

 

少しだけ、自分の中の圧が抜けることがある。
少しだけ、「まだ今日を終われるかもしれない」と思えることがある。

 

その少しを、私は軽く見たくない。

どうせ変わらない。


そう思って飲み込んだ言葉が、自分をじわじわ削っていくこともあるから。

だから、明日にしない。
今の気持ちは、今のうちに出しておく。

未来のために立派な行動が出来なくても、
今日の自分を少しでも潰さないための行為なら、今すぐ出来るかもしれない。

 

それだけで、明日が変わるかもしれない🤭
ほんの少しでもね。

 シンプルフレーズ

未来が見えない日には、未来を語らなくていい。
せめて今の感情だけは、今のうちに吐き出していこう。
それだけで、明日が少しだけ変わるかもしれない。

行動は、明日でも出来る。
でも、迷うことや悩むことは、今しか出来ないのかもしれない。
だから私は、迷いと悩みをちゃんと分けて考えたいと思っている。

星の数ほど選択肢があっても、進む先は一つでいい

私は・・・正直何をやっても上手くいかない。

それなりに器用で、仕事も出来ると思っているんだけど・・・結果はそうならない。

何て愚かなんだろうね。

出来ると思っているのに、出来てない。これが、残念な私の人生の集大成。

悩むし、迷う。それでも、自分を捨てきれない。

そして、進むことにさえ躊躇っている・・・・

 

「明日できることを、今日やるな」マーク・トウェイン

そうだよね!とりま、今を全力で生きるには、大いに悩んで迷うのも有りだ!と思うのは、私の解釈違いかな?

でもさ、迷いと悩みって違うんだよ・・・

 

  迷うことと、悩むことは同じじゃない

私はずっと、何となく感じていたことがある。

それは、迷うことと悩むことは似ているようで、実は少し違うんじゃないかってことだ。

 

どちらも立ち止まっているように見える。
どちらも、すぐに答えが出ない状態に見える。


でも、自分の中をよく見てみると、その質が違う。

迷っている時は、まだ選べていない。
やるかやらないか、その土台自体が固まっていない。

 

だから、進めない。

でも悩んでいる時は違う。
もう心のどこかでは、進みたいと思っている。
進む前提で、何を選ぶか、どう踏み出すか、その痛みや責任を引き受けるかを考えている。

 

だから私は、自分なりの基準を作った。

迷うならやらない。
悩むならやる。

これが、今の私のスタイルだ。

  投資は、まさにこの感覚がよく出る

私は趣味というか、投資が好きでやっている。

株でも仮想通貨でも、買う銘柄を選ぶ時、売る銘柄を選ぶ時、ただ何となく動くわけじゃない。
買う価格と売る価格をある程度目算して、先にターゲットを決める。
情報も集めるし、人の意見も聞く。
でも、最後に決めるのは自分だ。

もちろん、ほとんどうまくいかない😭


そんなことは分かっている😩
でも、それでもやるって決めているからこそ、悩むことが出来るんだと思う。

 

ここが大きい。

投資をするかしないかを迷っている時は、まだ土俵に上がれていない。


銘柄自体を選べないなら、私は買わない。
でも、銘柄を絞って、情報も集めて、そのうえで買うかどうか悩んでいるなら、私は進む。

 

なぜなら、その時の悩みは、もう「やる」と決めた人間の悩みだからだ。

未来なんて、どうなるか分からない。
だからこそ、進まないと分からないことがある。

持ってみないと分からない怖さがある。
買ってみないと分からない重さがある。
当事者になって初めて見える景色がある。

 

誰だって思うだろう。
ビットコイン、もっと早く買っていれば・・・って。

でも、あの時に本当に買えた人は、結果を知っていた人じゃない。
不安も怪しさも、全部ひっくるめて、それでも当事者になることを選んだ人なんだ。

 

後からなら何とでも言える。

でも、当事者にならない限り、見えない世界はある。

  恋愛も同じ。踏み出さないと始まらない

恋愛なんて、まさにそうだと思う。

好きになることに、きれいな理由なんてない・・・


気づいたら好きになっている。
それだけのことも多い。

でも、そこから先は別だ。

その人の好みを知りたい。
恋人がいるか知りたい。
趣味や距離感も知りたい。


どう近づけばいいのか、どうしたら嫌われないのか、ちゃんと考えたくなる。

ただ感情だけで突っ走るんじゃなくて、外堀を埋めたくなる。


それはずるさじゃなくて、むしろ誠実さなんだと思う。

相手にも人生がある。
都合がある。
気持ちがある。

 

だからこそ、知ろうとする。
可能性を探ろうとする。


それでも、最後は踏み出さないと進まない。

告白もそう。
プロポーズもそう。

いくら考えても、いくら準備しても、最後は自分が当事者になるしかない。

 

うまくいかないことなんて山ほどある。


そして周囲は優しく言ってくれるんだ。

「男も女も星の数ほどいるよ」ってさ(笑)

たしかに、それは間違っていないと思うよ・・・


でも、その時の自分にとっては、そんな正論はあまり意味がないんだよね。

星の数ほど人がいても、今の自分にとって一番輝いて見える星は一つしかないから。

  選べない時は、もっと探せばいい

私は思うんだ・・・

選べない時は、無理に進まなくていい。


もっと探せばいい。
もっと見ればいい。
もっと悩む前の迷いを引き受ければいい。

 

投資でもそう。
銘柄を選べないなら、まだ買わなくていい。


恋愛でもそう。
本当にその人なのか分からないなら、無理に告白しなくていい。

 

でも、選んだなら話は別だ。

これだと決めたなら、そこから先は「どうしようかな」で止まり続けても仕方ない。


だって、もう選んでいるから。

悩むっていうのは、進む覚悟がある人だけが持てる重さなんだと思う。

だから私は、こう考えている。

選べない迷いの時は、もっと探せばいい。
選んで決めたポラリスには、突き進まないといけない。

北極星みたいに、自分の中で「これだ」と思えたもの。
それが見えたなら、あとは進むしかない。

もちろん怖い。
もちろん失敗もある。
もちろん後悔だってある。

 

でも、進まなかった後悔は、いつまでも「もしも」のまま残る。
進んだ後悔は、少なくとも自分の人生になる。

私は、その違いは大きいと思っている。

  当事者にならないと、見えない景色がある

人生って、外から眺めているだけでは分からないことが多すぎる。

投資もそう。
恋愛もそう。

仕事も、人間関係も、きっとそうなんだろう・・・

 

安全な場所から見ているだけなら、傷つくことは少ない。


でもその代わり、手に入らないものも多い。

当事者になるって、怖い。
責任もある。
失敗した時に、自分で引き受けないといけない。

 

でも、その怖さごと引き受けた人にしか見えない景色がある。

迷うことは悪くない。
悩むことも悪くない。
むしろ、それだけ真剣に向き合っている証拠だと思う。

 

だから私は、これからもこの基準で生きていきたい。

迷うならやらない。
悩むならやる。

それは勢いではなく、自分なりに選び抜いて、当事者になる覚悟の話なんだと思う。

 シンプルフレーズ

迷いは、まだ選べていない証拠。
悩みは、もう進む覚悟がある証拠。
当事者にならないと、見えない景色がある。