皆さん、お疲れ様です!今日も「頑張って」いますか?
お仕事、家事、育児、SNSの更新……。
私たちは毎日、何かに追い立てられるように「頑張る」を連呼していますよね。
でも、ふと思ったことはありませんか?
「この『頑張る』って、一体誰のためのパスワードなんだろう?」って。
今日は、私たちの日常に潜む「明るい絶望」について、ちょっとだけディープに解剖してみましょう。☕️
「頑張っている自分」は、誰のために存在しているのか
人は、自分が納得したいから、
「自分を評価する自分」という他人を、心の中で飼っている。
誰かに褒められなくても、
誰にも見られていなくても、
「私はちゃんとやっている」
そう言ってくれる“内なる他人”が必要になる。
それがいないと、今の自分を肯定できないからだ。
「不活動」すら正当化できる視点
この見方を変えると、
少し不都合なことにも気づいてしまう。
「頑張っている」という言葉は、
何かをしている自分だけじゃなく、
何も変えられていない自分まで正当化してしまう。
今を生きることに頑張っている。
そう言えば聞こえはいい。
でもそれは、
ただ状況に流されている自分を、
自分で許すための言葉にもなる。
状況を打破できないのは、怠けではない
正直に言えば、
状況を打破するのは簡単じゃない。
雇用されている以上、
自分の身柄の決定権を、
すべて自己完結で自由にできるわけでもない。
仕事があり、
役割があり、
責任があり、
求められている行為がある。
家庭でも、地域でも、それは同じだ。
他者がいることで生まれる「公共性」
他者がいるから、依存が生まれる。
他者がいるから、役割が生まれる。
これが、公共性の正体なんだと思う。
そしてその公共性を、
都合よく回すために生まれるのが、
「頑張っている自分」
という存在だ。
他者性は、いつも無責任だ
ここは、あまり綺麗な話じゃない。
他人は、
自己以外に責任を持たない。
でも平気で、
責任を押し付けてくる。
それは悪意というより、
自分を守るための反射なんだろう。
だからこそ、他者性は怖い。
「頑張っている自分」という意志表明
そう考えると、
「頑張っている」という言葉は、
根性論でも美談でもない。
これはたぶん、
-
自己への言い訳であり
-
他者への許容限界であり
-
公共への存在証明
なんだと思う。
これ以上は持てない。
ここまではやっている。
だから、これ以上は勘弁してくれ。
そんな静かな意志表明。
それでも、私はこの言葉を使う
「頑張る」という言葉は、
ときどき欺瞞で、
ときどき逃げで、
ときどき鎧だ。
それでも私は、
この言葉を完全には手放せない。
なぜなら、
「頑張っている自分」は、
壊れないための最後の境界線だから。
シンプルフレーズ
最後に、この文章を一行にすると、こうなる。
頑張るとは、
自己への言い訳であり、
他者への限界宣言であり、
公共の中で消えないための存在証明だ。
「頑張る」は、自己への言い訳であり、公共への存在証明。
私たちが中身のないストローだとしても、それはそれで「何でも通せる」っていう強みでもあります。
無理に中身を詰める必要なんてありません。
社会というシステムの中で、適度に「頑張っているフリ」をして、責任のババ抜きを華麗にかわしていく。
「なーんだ、全部作り物の舞台だったんだ!」
そう気づいて笑い飛ばした瞬間、あなたの「頑張る」は、重い鎖から「軽やかなステップ」に変わるはず。
今日もスカスカの体で、美味しいコーヒーでもすすりながら、 この不条理な世界をニコニコと泳いでいきましょう。
明日はもっと、いい感じに「仕上がった」自分に会えるかもしれませんね。✨













