眠れない夜って、だいたい「自分がこの世界に居ていいのか分からなくなる夜」だと思う。

体がしんどいとか、頭が冴えるとか、
そういう話じゃなくて。
もっと根っこのところが、じわじわ揺れる。

「明日もちゃんと働けるかな」
「また迷惑をかけるんじゃないかな」
「役に立たない自分は、いつまでここに居ていいんだろう」

そんな問いが、誰にも頼まれていないのに、勝手に胸の中で始まる。

弱者でいるって、こういう感覚だと思う。


いつでも奪われる側に立たされている感じ。
いつでも「代わりはいくらでもいる」と言われそうな感じ。

だから、言葉が欲しくなる。
思想が欲しくなる。
自分を否定しないための、何かが欲しくなる。

でも、同時にこうも思ってしまう。

 

これって、ただの負け犬の遠吠えじゃない?
社会に適応できない私が、自分を正当化したいだけじゃない?

 

この疑い、たぶん、弱っている人ほど強く刺さる。

ソクラテスは、プラトンがいたから生き残った

 

眠れない夜って、だいたい「自分の価値」が揺らぐ。
身体が動かない。頭が冴える。明日が怖い。
そして気づけば、社会のルールが頭の中で勝手に裁判を始める。

 

働けないかもしれない。
稼げないかもしれない。
役に立てないかもしれない。

 

その瞬間、ただの不眠が、ただの疲れが、
「排斥の予告」みたいに感じてしまう。

弱者でいるというのは、こういうことだと思う。
いつでも奪われる側にいる。
いつでも「消えてもいい」と扱われる側にいる。
だからこそ、言葉を持ちたくなる。


思想を持ちたくなる。
自分を否定しないための根拠が欲しくなる。

 

でも同時に、こういう疑いが刺さる。

これって、負け犬の遠吠えじゃないのか。
ただの嫉妬と怨嗟を、思想って呼んでるだけじゃないのか。

  ソクラテスが“歴史に残った”のは、プラトンがいたから

 

ここで思い出すのが、ソクラテスとプラトンの関係だ。

ソクラテスは、問い続けた人だと言われる。
でも、その問いは「書かれていない」。
残したのはプラトンだった。

 

冷たい言い方をすれば、
ソクラテスが歴史に残ったのは、プラトンが優秀だったから
 

もしプラトンがいなければ、ソクラテスは「異端」で終わっていた可能性がある。
その問いは、価値として証明される前に消えていたかもしれない。

 

つまり、こういうことだ。

思想は、内容だけでは生き残れない。
思想が生き残るには、証人が必要だ。
承認が必要だ。
媒介する力が必要だ。

 

ソクラテスの思想が生きたのは、
ソクラテスの強さだけじゃない。
プラトンという他者がいたからだ。

 

  弱者の思想は、最初から「殺されやすい」

 

弱者の言葉は、残りにくい。
残りにくいどころか、消されやすい。

 

なぜなら、弱者の言葉は、社会にとって都合が悪いから。
構造の矛盾を言語化してしまうから。
「運用」を止める可能性があるから。

 

さらに弱者は、立場を持たない。


肩書きも、権威も、味方も、証人も、持てないことがある。

だからこそ、言葉は遠吠えになりやすい。
誰にも届かない。
届かないから、無かったことにされる。
無かったことにされるから、自分で自分を疑う。

 

私の思想は、ただの怨嗟かもしれない。
私は異常者で、社会不適合者で、負け犬なのかもしれない。

 

この自己疑いは、弱者の“当たり前の副作用”だと思う。
否定された側は、否定される前に、自分で自分を否定してしまうから。

  それでも、問いを捨てない理由がある

 

ここで大切なのは、慰めじゃない。
「大丈夫だよ」でもない。
現実はちゃんと残酷だ。

弱者の言葉は、消される。
弱者の思想は、遠吠えとして片付けられる。
そして社会は、何事もなかったように回っていく。

 

だからこそ、必要になるのが「プラトン機能」だと思う。

 

問いを、言葉として残す。
残して、並べて、整理して、編集して、見える形にする。
怨嗟のまま終わらせない。
ただの感情の爆発で終わらせない。

弱者の思想を、弱者のまま“生き延びさせる”ために。

 

  「プラトン機能」とは、才能ではなく、生存技術

 

プラトン機能って、たぶんこういうこと。

  • その時の自分の言葉を、ログとして残す

  • 自分の痛みを、言葉に翻訳する

  • 思いつきを、散らさずにまとめる

  • 書きっぱなしではなく、編集して残す

  • いつか誰かが拾える形にしておく

これは、成功者の証明のためじゃない。
有名になるためでもない。

消されないためだ。
弱者の言葉が「無かったこと」にされないためだ。


そして何より、
自分が自分を否定しないためだ。

 

社会が「無価値」と言ってくるなら、
私は「それでも在る」と言い続ける必要がある。

  たとえ証人がいなくても、ログは残る

 

ソクラテスにはプラトンがいた。


でも私は、必ずしもプラトンを待てない。

誰かが現れるまで、
私は生き延びなければならない。

だから、先に残す。
先に書く。
先に整理する。
先に編む。

言葉は、その時点で弱くてもいい。


脆くてもいい。
遠吠えでもいい。

遠吠えを、ログに変える。


ログを、思想に育てる。

それができるのは、
「正しさ」を持っている人ではなく、
「消えそうな灯」を抱えた人だけかもしれない。

 

 シンプルフレーズ

あなた自身が、自分のプラトンになれる

 

ソクラテスが生き残ったのは、プラトンがいたから。


それは事実だ。

でも、現代は違う。
現代は、あなたが書ける。
あなたが残せる。
あなたが編集できる。

思想の生存回路を、他者にだけ委ねなくていい。

たとえ弱者でも。
たとえ奪われる側でも。
たとえ承認がなくても。

あなた自身が、自分の問いの証人になれる。

あなた自身が、自分のプラトンになれる。

青春って何だろう?

青春って、とっても魅力的な時期に感じる。

凄く多感で、凄くエネルギッシュで、凄く前向きだったりしたりしなかったり・・・

 

新海誠監督が高校性を主役の物語を作るのには理由があるらしい。

私が言及することでは無いが、なんとなく思いがある事が伝わってくる。

 

私はね、年齢に関係なく青春っていう若さっていう才能を使い続けたいって思う。

綺麗ごと抜きで言えば・・・

 

私はまだまだ青春していたい!

老眼と統計に挟まれた40代の本音

 

この歳・・・40歳で青春したいって言ったら、ちょっと悲観的に受け取られかねないね。

というより、今更?何考えてんの?って言われそう・・・・

それで済めば御の字ってところ。 

40で青春?もう痛い大人。って言われるのは何となく痛感している。

 

人の親になったこともある。

会社を持ったこともある。

波乱も経験したことがあるつもり・・・

 

それでも言うのは、“Youth is not a time of life; it is a state of mind.”って感じなのかもね。

 

  青春を数字で測ろうとする、あほらしさ

青春って、何なんだろう。

高校生の恋愛のほとんどは破局する
そんな統計があるらしい。

 

7割とか、8割とか、
1年以内に9割近くが終わるとか、
平均交際期間は3〜4ヶ月とか。

 

それを見て、私は思った。

なんと、あほな統計を取ったことだろう。

 

だって、高校生だよ?
人生の仕組みも、感情の扱い方も、
何も分からない時期に、「続くか」「成就するか」そんな“結果”を測ろうとするなんて。

 

でもね。
それでも私は、その数字に振り回される姿が
すごく青春っぽくて、嫌いじゃない。

  若さは、才能だった

 

若さって、やっぱり才能だと思う。

やり直しができる。
失敗を後悔にしなくていい。


皮肉を言えば・・・

自分だけで責任を背負わなくて済む。

誰かのせいにできる。
言い訳も許される。
テスト、資格、学歴、習い事。
親の権威や環境という、分かりやすい指標が用意されている。

 

そこには「今はまだ途中」という、魔法の言葉がある。

 

でも、返す言葉があるのも事実・・・「坊やだからさ」

泣けるのはおっさんだからかな・・・?それとも厨二病?

  社会に出た瞬間、評価基準は変わる

 

でも、社会に出ると違う。

新しい評価基準が、勝手に追加される。

 

社会的ステータス。
収入。
肩書き。
立場。
資本に左右される評価。

 

規範や枠組みに、知らないうちに絡め取られていく。

気づけば、若さという才能を使えなくなって、青春を謳歌できなくなる。

 

そんな気がしてしまう。

  身体だけは、正直すぎる

 

一方で、身体はとても正直だ。

25を過ぎて体力が落ちた。
30を過ぎて回復が遅くなった。
35を過ぎて耳と目が怪しくなった。
40代で、眠りが浅くなり、長く寝られなくなった。

 

もう、笑うしかない。

 

どれだけ鍛えても、残るのは筋力くらい・・・
感覚も、回復力も、確実に落ちていく。

 

・・・これが現実。

  「老眼?」に反応した私は、まだ生きている

 

職場で、隣の20代が言った。

私が目を細めてスマホを見ていたら。

「老眼?」

はい。老眼です。
見えません。
文字が小さいんです。

 

でもね?
その一言に、私は反応した。

ムッとしたし、笑ったし、心の中でツッコミを入れた。

 

つまり、まだ刺激を受け取れている。

感性は生きている!はず? 思考は生きている!はず?

反応は出来ている!はず? 聞こえているし、感じられて、見えている!はず?

 

  それでも、青春がしたい

 

青春って、
アニメかもしれない。
話題かもしれない。
音楽かもしれない。
恋愛かもしれない。

正直、分からない。

40代で恋愛ラブコメができるか?
って聞かれたら、
私は「できない」って答える。

恋愛が得意なわけじゃない。
自分に負い目や引け目があるのも、否定できない。

 

でも・・・青春したいねん。

何事にもチャレンジしたい。
行動したい。
人を好きになりたい。
誰かに甘えたい。
右往左往して、笑いたい。

 

未来のための今じゃなくて、
明日のための今日じゃなくて、

今、この瞬間にオールベットしたい。

目の前の人。
目の前の出来事。
そこに全力で反応したい。

 

  年齢を言い訳にしない生き方を選びたい

 

老眼で、耳が遠くなると、反応できなくなる。

 

言い訳や理由や立場や状況や
自己理解が積み重なって、反応する前に足踏みしてしまう。

 

それを否定はできない。

でも、それでも。

年齢という数字を
「できない」「やらない」理由にするより、


やって後悔を積み上げた方が、私らしくないか?

その自問自答が、どうしても終わらない。

 

だから今日も、私は言う。

『青春したいねん。』

 

老眼でも、右往左往しながらでも。

 

きっと、あなたもどこかで同じことを思ってるんじゃないかな?

眠れない夜・・・

誰もが経験あるんじゃないだろうか?

寝る前の無意味な思考が止まらなくなる時・・・

 

実際私は、眠りも浅いが、寝つきも悪い。

正直仕事に支障が出ないか不安になる時だってある。

 

眠れないことが不安なのか・・・

不安があるから眠れないのか?

それとも、もっと別の何かで眠れないだけなのか・・・

 

はたまた、眠れないことを深く考え過ぎなんだろうか?

眠れない夜に、社会から少しずつ押し出されていく感覚

眠れない夜が続くと、それだけで世界から置いていかれるような気がしてくる。

 

ただ眠れないだけなのに。
誰かを傷つけたわけでも、怠けたわけでもないのに。

 

それでも現実はこうだ。

不眠

働けない

時間に縛られる仕事ができない

評価されない

お金が稼げない

価値がないと見なされる

居場所がなくなる

……生きられなくなる。

 

極端な話じゃない。
静かに、当たり前の顔で起きている現実だ。

 

  眠れないストレスと、ストレスで眠れないという地獄

 

「ストレスがあるから眠れない」
よく聞く言葉だけど、実際は逆もある。

 

眠れないから、ストレスが増える。

体は重いし、頭は冴えてしまう。
考えなくていいことまで考えてしまう。
「明日どうしよう」が何度も再生される。

眠れないこと自体が、人を追い詰めるストレスになる。

 

この状態で
「気にしすぎだよ」
「リラックスしよう」
なんて言われても、無理な話だ。

 

火事の中にいる人に
「落ち着いてください」
と言われているようなものだから。

  お酒という逃げ場所

 

だから、人は逃げる。

だから、私はお酒を飲む頻度が増えたのか・・・

ただお酒が好きなのは否定できないのが、私の残念なところ。

 

お酒に。
動画に。
SNSに。
何も考えなくていい時間に。

逃げ場所は必要だ。


誰にでも必要だ。

 

でも、逃げ場所は、
誰にでも用意されているわけじゃない。

 

合法で、安全で、翌日に首が飛ばない逃げ場所。

それが無い人ほど、「依存」と呼ばれる場所に流れやすい。

責められる話じゃない。
生存本能の話なんじゃないだろうか?

  心療内科に行けば救われるのか?

眠れない事や、ストレスの話しをすると、すぐに精神的な問題にする人が居る。

すぐに誰かに相談しろって言う人が居る。

 

でも、心療内科や病院は、魔法の場所じゃない。

不安の「原因」を取り除いてくれる場所でもない。
社会の構造を変えてくれる場所でもない。

 

心療内科ができるのは、
これ以上壊れないように
症状を下げることだけ。

 

それは逃げ場所を作ってくれる訳でもない、延命の方法を教えてくれる訳でもない。

「今のままでは削れ続ける」
そのラインを一度止めるための装置だ。

だから、不安そのものが消えるわけじゃない。

 

だって、その不安の多くは、
自分の内側から生まれたものじゃないから。

 

  不安は、誰かから与えられている

人は、本来そんなに不安で生きていない。

生まれた時、子供の頃から不安だけを抱えて生きている人なんて出会ったことが無い。

確かに、小さなころから不安や心配を抱えている人は居る。

でも、生まれた時には何も考えず笑顔になることが出来ていた。

 

しかし、いつからか不安っていうモノ、心配っていうモノを持つようになる。

それは、他人から不安は植え付けられるから・・・

教育や、親の言葉や、周囲の言葉や、セールスや、コマーシャル・・・

怪我をしないように、事故に合わないようにから始まり・・・

 

将来の為にっていう不確定な言葉を使って、

・働けなかったら終わり
・稼げなかったら価値がない
・役に立たなければ居場所がない

 

そう教えられ、そう扱われ、そういう空気の中で生きてきた結果、

眠れない夜に「自分はダメだ」という声が聞こえてくる。

 

でもそれは、あなたの声じゃない。私の声でもない。社会の声だ。

  「一時退避」という考え方

 

ここで大切なのは、
「元気になるまで頑張る」でも、「完全に立て直す」でもない。

一時退避という発想。

 

戦場から、少しだけ離れる。
完全に逃げなくていい。


でも、撃たれ続ける場所からは出る。

・毎日働かなくていい
・毎週安定しなくていい
・できない日があっていい

 

「継続」と「固定」を正義にしない。

月単位で、年単位で、波打ちながら生きていい。

それは負けじゃない。
自分に出来ることを取捨選択することでの、延命措置だ。

今の日本で生きていくには毎月20万円前後は最低必要になるだろう。

 

その為の方法の模索はあってしかるべきだ。

単一化しない収入の先と、地域の支援を効率よく受けるための窓口探しなどがいい例だろう・・・

 

あくまで例えの話しだが・・・

①固定ライン(主軸)・・・約12万円

夜勤警備 or 倉庫夜勤(週3〜4)

② 可変ラインA・・・約5万円

単発・派遣(倉庫・工場・引越補助)

③ 可変ラインB(非同期)・・・約3万円

文章・記録・代筆・AI補助

あくまで理想でしかないし、拘束時間は不安定でしかも長くなることもある。

 

後は、地域の支援窓口に行くのは必須になる。​​​​​​​

  • 地域包括支援センター

  • 社会福祉協議会

  • 相談支援専門員

  • NPOの生活相談窓口

大切なのはこれ。

「困ってから行く」のではなく「困る前提で整理しに行く」

 

書類・交渉・説明を肩代わりする存在は、確実にいる。
ただし、自分から行かないと出てこない。

 

  価値と意味を、奪い返すということ

 

私は思う。

弱者を否定しない。
非適合者を恥じない。

 

自己啓発も、マインドフルネスも、スピリチュアルも、多くは「適合者向け」の言葉だ。

 

それが効かない人がいて当然だ。

眠れないだけで、働けないだけで、
価値も意味も奪われる社会のほうが、どうかしている。

 

不安と心配は、私のものじゃない。
誰かが植え付けたものだ。

それに負けてしまう夜があっても、
それは人として自然なことだ。

  だから私は、問い続ける

 

どう救われるか、じゃない。
どう生き延びるか。

 

どう適合するか、じゃない。
どう削られずに済むか。

 

眠れない夜に、
「それでもまだ考えている自分」がいるなら、それはもう十分、生きている証だ。

 

一時退避を探すことは、諦めじゃない。

生きるための、静かな選択だと思っている。

今日は、眠れなくてもいい。
考えすぎてもいい。

 

不安に負けてしまう夜を、「甘え」や「怠け」とは呼ばない。

不安は、あなたの本質じゃない。
外から与えられた重りだ。

それを降ろそうとすることは、逃げでも、敗北でもない。

誰もが一度は望んだことがあるんじゃないだろうか?

少なくとも私は望んでいたんだと思う。

私を一番にして貰いたいって・・・一番になりたいって・・・特別で交換できない一人になりたいって・・・

それは、私だけなのかな?

それとも・・・そう思うこと自体が変質的なのかな?

私を一番にするのは、私でいい

一人になって気付くことが多いことに驚いた。

一人だった時には気にもならなかったことに敏感になったことに驚いた。

失ったことで、初めて知ることになったことに驚いた。

 

私は、誰かの一番になりたかったんだって・・・

40年生きてきて初めて自分の持っていた欲望の本質を知ることになった。

 

今まで、何も気にしていなかったんだろうし、考えもしなかった。

少なくとも、ブログを書いて・・・自分を見つめ直して、自分のコトを知るための時間を使う時が来るなんて思いもしなかった。

 

今までの私は、私のことを知らなかったんだ。

綺麗ごとと、見た目の良さと、良く思われるための行動と言葉で・・・自分を作ることばかりに気を使って・・・いた・・・

  誰かの一番になりたかった

 

誰かの一番になりたかった。
これは、とても正直な願いだったと思う。

特別になりたかった。
選ばれたかった。
代わりなんていらない存在だと思われたかった。

 

でも私は、誰かの一番には、なれなかった。

努力が足りなかったのか。
魅力が足りなかったのか。
価値が足りなかったのか。

 

そんな問いを、何度も何度も自分に向けてきた。

 

そして私は、
「誰かの一番になれない自分」を、
そのまま
「価値のない自分」だと思い込んでしまった。

 

これはあくまで結果論だ。そうなったから、そう感じた。

最初から自分は問題児だとは思っていたし、変な人間だと言う自覚はあったし、人とは違うとは思っていた。

ただそこに・・・価値が無いって加わったのは・・・結果論の話しだ。

 

  それでも他者を求めてしまうのが、人の弱さ

 

だから私は思った。

もう誰かの一番になろうとするのはやめよう。
そうすれば、傷つかなくて済む。
期待もしなくて済む。
失望もしなくて済む。

 

それなのに・・・

それでも私は・・・誰かを求めてしまう。
大切にしたいと思ってしまう。
近くに居たいと願ってしまう。

 

ああ、やっぱり人は弱い。
私は、ちゃんと弱い。

「自分を一番にする」と決めても、
他者を求めてしまうこの矛盾が、人間らしさなんだと思う。

 

私らしさなんだと思う。

一人で生きて行けるほど強くなく、自分の為だけに生きて行けるほど強くなく・・・

弱さだけを実感できてしまうほどには、人間が出来ていない。

 

  だから私は、自分を一番にすると決めた

 

誰かの一番になれなかった。
それはもう、変えられない事実。

でも私は、ここでやっと気づいた。

 

「誰かの一番になれなかった」ことと、
「自分を雑に扱っていい」ことは、まったく別の話だ。

 

誰かにとっての一番になれなくても、
私にとっての私は、ずっと一番でいいんじゃないか。

そう思うようになった。

 

誰かに選ばれなくても、私が私を選び続けるなら・・・
それはそれで、ちゃんと生きていると言えるんじゃないかと思った・・・

 

思いたくなったのかもしれない。言い訳を作りたくなっただけかもしれない。

でも、自分を捨てるほどに強く無いから、弱さを正当化したいって思っただけかもしれない。

  取捨選択を迫られる世界の中で

 

この世界は、いつも選択を迫ってくる。

  • 仕事か、休息か

  • 自分か、誰かか

  • 安定か、自由か

  • 我慢か、本音か

すべてを手に入れることは出来ない。
全部を守ることも出来ない。

 

そうやって、取捨選択を繰り返しながら、
私たちは生きている。

だからこそ思う。

 

優先順位の上位に、そっと「自分」を入れておくだけでいい。

それだけで、私は私を、ちゃんと大切に出来る気がしている。

 

自分を捨てられないから、自分を大切にしてくれる人も居ないから・・・

居ないなら、自分が自分を大切にするしかないんじゃないか?

他の誰かが大切にしてくれるならそれで良いじゃないか。

でも、現実はそんなに甘くない・・・少なくとも私の現実は甘くない。

 

仕事が出来なければ居場所が無く、生きることが出来ず、行く場所が無い。

私にはもう帰る場所も行く場所も無いから。

 

出来ることをするしかない。

誰かの大切にして貰うことを望むほどに、私は私の価値を過信していない。

だから・・・だったら・・・

わたしは、私だけを見ることが出来ても良いんじゃないだろうか?って、自分に言い聞かす。

 

   私を一番にするのは、私でいい

 

私は誰かの一番にはなれなかった。
そして私は、
誰かの一番になれる保証も、これから先はもう求めない。

 

でも――

私を一番にするのは、私でいい。

 

それでいい。

誰かの一番になるために生きなくても、
誰かに選ばれるために生きなくても、
私は、私の人生を生きていい。

 

それでも誰かを大切にしてしまう時もあるだろうし、大切に思う時もある。

それでいい。

 

大切に理由や損得を持ってくると辛くなるだけだから・・・

 シンプルフレーズ

誰かの一番になれなかった私が、
自分を一番にすると決めるまでには、
たくさんの後悔があった。

 

でも、その後悔があったから、
私はここまで考えることができた。

 

取捨選択を迫られる世界で、
迷いながらでもいいから、
「自分を優先する」という選択肢を持っていたい。

それが出来たなら、私はきっと、今日より少しだけ・・・
自分を大切に出来る気がしている。

 

私は自分を大切に出来ると思いたい。

私が誰かの一番になれるわけでも、私の一番になるわけでもなく、私を一番にするのは私でいい。

 

 

素直な心…を探して

 

本で出会った、松下幸之助の言葉が刺さりました。
「素直な心」。

 

でも私は、この言葉をそのまま“良い道徳”として飲み込みたくない。
なぜなら私は、素直を「従順」として使う社会を、何度も見てきたからです。

 

今日は、この言葉をいったん丁寧に引用解説して・・・

その上で、私の考察と思想に引き寄せて書きます。

 

 

 

 

  松下幸之助の「素直な心」・・・引用と解説

 

写真にある文章は、こういう内容でした。

素直な心とは、

  • 寛容にして私心なき心

  • 広く人の教えを受ける心

  • 分を楽しむ心

  • 静にして動・・・動にして静の働きある心

  • 真理に通ずる心

そして、素直な心が生長すれば、心の働きが高まり、道理が明らかになり、実相がよくつかめるようになる。
さらに、融通無碍・・・円満具足の人格形成・・・悟りの境地へ・・・と続きます。

 

最後に大事なのはここです。

 

素直な心になるには、まずそれを望むことから始める。
喜んで人の教えを聞き、自分も工夫し精進し、積み重ねていけば会得できる。

つまり「素直」は、才能や性格じゃなくて、望んで育てる“心の技術”だ・・・という言い方です。

 

  ここで私は立ち止まる・・・「素直」は美徳になった瞬間、武器になる

 

この言葉には、綺麗な理想がある。


でも現実の社会では、「素直」は簡単にこう変質します。

「素直に言うことを聞け」
「素直に従え」
「反抗するな」

そうやって、弱い側にだけ求められる“素直”がある。


そして適合できないと、異常者・・・異端者・・・病人・・・障害者・・・みたいな札が貼られる。

ここには、自己否定なんて生ぬるい話じゃない。
社会的否定というレッテルの暴力がある。

 

だから私は、松下幸之助の言葉を否定したいわけじゃないのに・・・

 

そのまま頷けない。

  私の結論・・・素直は「道徳」じゃなく「鏡」だ

 

松下幸之助の「素直な心」は、理想としては美しい。
でも私が大事にしたいのは・・・その言葉を、社会道徳の“従順”に回収させないこと。

私の中で、結論はもうはっきりしている。

 

「排除されて、居場所を奪われることもある。

しかし意味と価値はが奪われるわけじゃない」

ここが、私の本来的価値論の芯です。
居場所は奪われる。承認も奪われる。関係も奪われる。
でも・・・意味と価値は奪われない。

 

なぜなら、

「本能と欲望と感情がある以上奪えない素直が私にも貴方にもある」

これが残るから。
たとえ社会に拒まれても、私の内側に“反応”がある限り・・・私はまだ生きている。
泣きたくなる日も、むしゃくしゃする日も、言い返したくなる日も・・・その全部が、生の証明だと思う。

そして私は、ここに善悪を混ぜたくない。

 

「善悪を論ずるのは行為の後でしか出来ない」

本当にそう。
欲望や感情は、行為の前に起きる“発火”であって、裁判の対象じゃない。
裁かれるべきなのは「何を感じたか」じゃなく、「何をしたか」。
だから私は、欲望や憎しみを“悪”として封じる社会のやり方に、どうしても頷けない。

さらに、ここも重要です。

「『何をしてもいい』は傲慢な表現。

免罪符にするかどうかは、素直の問題じゃなく、理性の問題」

この一文で、私の中の整理が完成しました。


素直は、ただ映す。
理性は、どう動くかを選ぶ。
そして、その選択が外に出るとき・・・ペルソナという形になる。

 

「ペルソナは理性の表現された形なんだ」

 

だからペルソナを「偽り」だと断罪したくない。
TPOに合わせて、理性が私を守るために用意してくれる“形”なんだと思う。
問題は、ペルソナが悪いんじゃない。
素直が行き場を失って、内側で腐っていくこと

 

  水の比喩で言う・・・素直は「清さ」じゃなく「性」だ

 

松下幸之助の文章は、素直を「私心なき」「寛容」と言う。
ここを私は、道徳的に読むのではなく、水で読み替えます。

 

水は、綺麗なものだけじゃない。
濁る日もある。荒れる日もある。
でも水は、水のままです。

蒸気になっても・・・雲になっても・・・雪になっても・・・
性は失われない。

 

これが、私の見方で価値観で私の世界線・・・。

 

居場所は奪われる。
承認も奪われる。
でも意味と価値は奪われない。

 

なぜなら、欲望・・・本能・・・感情が残る限り、存在はまだ燃えているから。
憎悪や憎しみさえも、燃料になり得る。
それは「悪い心」じゃない。
境界線がまだ生きている証拠でもある。

  「一人なら素直は要らない」・・・それでも私は探したくなる

 

一人だけなら、本能で生きられる。
素直なんて概念は、確かに要らない。

 

でも私は思う。

素直は、一人で完成するものじゃなく・・・


“関係”や“環境”という器があるときに、鏡として立ち上がる。

 

水は器がないと形にならない。
同じように、心も場がないと自分が映らない。

 

だから素直は、待っていても見つからない。
望んで・・・探して・・・取りに行くしかない。

匿名が必要なときもある。
距離が必要なときもある。
安全な場所が必要なときもある。

 

その条件を、自分で取りに行く。
それが「素直を望む」ということなんだと思う。

  自己否定は入口かもしれない・・・でも終点にしない

 

自己否定って、苦しい。
でも私は最近、こう思うようになりました。

自己否定は、素直が行き場を失ったときに鳴るアラームかもしれない。

 

ただし、ここが重要。

自己否定を“真実”にしない。
信号として扱う。

「何が嫌だった?」
「何が怖かった?」
「何を守りたかった?」
その一次反応を拾い直す。

それが、素直の回収。

 

  私のまとめ

 

松下幸之助の「素直な心」は、理想としては美しい。


でも私は、そこに「従順」を混ぜたくない。

素直は、良い人になるための道徳じゃない。
生き残るために、自分を見失わないための鏡。

 

排除されても・・・居場所を奪われても・・・
意味と価値は奪われない。


欲望が残る限り、感情が残る限り、素直は残る。

そして、その素直は・・・私にも、あなたにもある。

 

  シンプルフレーズ

素直は・・・素直な心って言うのは、清さじゃない。
流れのまま、ありのままの自分を回収すること。

 

今日の私がどんな水でも・・・
濁っても、荒れても、凍っても・・・


性だけは失わずに、生きていけたらいいなと思う。