大切なモノを大切にしたいと思ったら、どうしますか?

 

いっぱい心配する?

安全な場所に囲って守る?

それとも、自分の一番近くに置いて、いつでも目や手が届くようにする?

 

私は、大切にする方法の一つは、

時間を共有すること

だと思っている。

 

大切にしたいから、私が出来る事をしたい。

例えば・・・

財布を無くしたくなければ、肌身離さず持つ。

家の鍵を無くしたくなければ、鞄とキーホルダーで繋げてしまう。

子どもが迷子にならないように、手を繋いで出かける。

何かあった時、すぐに手を伸ばせる距離にいる。

 

モノでも人でも、自分の目や手が届くところにある方が安心する。

大切だからこそ、近くに置いておきたいんだと思う。

 

  でも、人はモノじゃない!!

ここが難しい・・・

 

自分がどれだけ一緒にいたくても、相手も同じとは限らない。

 

心配して声をかけても、

「放っておいて」

って言われることもある。

 

大切だから近くにいたいと思っても、

相手からしたら、

ただの余計なお世話だったりする。

 

最悪、

「怖い」

って思われることだってある。

 

切ないけど、実際そうなんよ。

自分にとって嬉しいことが、相手にとっても嬉しいとは限らない。

だから、

大切にしたいっていう気持ちだけじゃ、人を大切には出来ない。

 

でも、だからって、その気持ちまで無くす必要はないと思う。

方法を変えればいい。

 

  大切だから、思い出せるようにする

人間なんて、四六時中ひとつのことだけ考えていられない。

 

仕事中は仕事を考えるし、

勉強していたら勉強に集中する。

目の前にやることがあったら、そっちに頭を使う。

 

だから、

「大切ならずっと忘れない」

なんて無理だと思う。

 

むしろ、

忘れるから、思い出せるようにしておく。

財布をいつもの場所に入れる。

鍵を鞄につなぐ。

写真を飾る。

スマホの壁紙にする。

思い出のモノを持っておく。

 

そういうのって、

全部「思い出すためのスイッチ」なんじゃないかな?

大切だから忘れないんじゃない。

大切だから、忘れてもまた思い出せるようにしておく。

それも十分、大切にする行為だと思う。

 

  大切にするって、結局は自己満だと思う

私は、ここを綺麗に言うつもりはない。

 

守りたい。

一緒にいたい。

失いたくない。

助けたい。

何とかしてあげたい。

 

全部、自分の欲だ。

願望だ。

エゴだ。

 

でも、そのエゴがあるから動ける。

時間を使える。

お金を使える。

労力を使える。

疲れていても迎えに行ける。

面倒でも話を聞ける。

何かあったら、自分の都合を後回しにしてでも動ける。

 

それって、

大切にしたいっていう欲望から、自分の払える費用を払ってる

ってことなんじゃないだろうか?

 

そして、その対価として、

「私は大切に出来た」

っていう自己満を手に入れる。

私は、それでいいと思う。

 

むしろ、

エゴも欲もなくして、どうやって何かを大切にするんだ?

って思う。

  だから、落としどころを探す

問題は、その自己満が相手にとって迷惑になること。

 

心配だからって縛る。

大切だからって行動を制限する。

守りたいからって、自分の正解に相手を乗せる。

 

そこまでいけば、

大切にしているんじゃなくて、所有したいだけになってしまう。

 

だから、

自分はどうしたいのか?

相手はどうしてほしいのか?

 

その間の落としどころを探すしかない。

人と人なんて、完全には分かり合えない。

 

だからこそ、

どうやって一緒の時間を作るのか。

どうやって伝えるのか。

どうやって離れるのか。

どうやって関係を続けるのか。

 

そこに時間を使う。

 

その時間だって、私は十分・・・

大切にしている時間

だと思う。

 

大切にするって、

相手のために自分を消すことじゃない。

 

自分の欲を持ったまま、

相手の欲とも折り合える場所を探していくこと。

 

近くにいられる時は、近くにいる。

離れている時は、思い出せるようにする。

何かあった時は、出来る限り手を伸ばす。

それでいいじゃないか?

 

大切にしたいって思う。

その思いがあるから行動になる。

行動するから、自分なりに大切に出来たって思える。

私は、それで十分だと思う。

それが、

私の考える

大切にする方法

なんだと思う。

幸せって、いったい何なんだろう?

 

幸せに形なんてないのかもしれない。

 

でも、人それぞれに「幸せを感じる何か」は確かにあると思う。

モノかもしれない。

時間かもしれない。

人かもしれない。

 

何を好きになるのか。
何を大切にしたいのか。
何をしている時に心が動くのか。

 

それは人によって違う。

だったら、その違いを「好み」って言ってもいいんじゃないだろうか?

 

「好き」があるだけで

誰かを好きなる

何かを好きになる

好きじゃない・・・と思うけど・・・無いと困る

好きとまでは・・・言えないけど・・・手放せない

 

きっと、それって特別なコトなんだ。

  「好き」って思えるだけで幸せなんじゃない?

私は思う。

 

好きって思える幸せ。

好きって言える幸せ。

好きでいられる幸せ。

好きを表現できる幸せ。

 

どれも、別に段階じゃない。

 

好きって思えたから次は伝えなきゃいけないわけでもない。

伝えたから相手に受け入れてもらわなきゃ幸せじゃないわけでもない。

 

相手の反応なんて、その次の話だ。

 

好きな人が自分を好きになってくれるかなんて分からない。

推しが自分の存在を知っている必要だってない。

それでも好きなんだ。

好きだから見たい。

好きだから聞きたい。

好きだから会いたい。

好きだから応援したい。

 

推し活なんて、まさにそうでしょ?

相手から何かを返してもらえなくても、

「私はこれが好きだ」

って思える。

 

その感情が自分の中にある。

それだけでもう、幸せって言って良いと思う。

  「好き」があるって、実は当たり前じゃない

ただ、その「好き」は何もない場所から生まれているわけじゃない。

 

安心がある。

安全がある。

食べられる。

眠れる。

生きることだけに追われていない。

自分の気持ちを感じるだけの余白がある。

 

お金だって必要だ。

 

お金が無ければ、推し活なんて出来ない。

好きな場所にも行けない。

好きなものを買うことも難しい。

 

それどころか、明日の生活すら分からない状態なら、

「好き」なんて言っている余裕そのものが無くなることもある。

 

安心と安全は、幸せ以前の土台なんだと思う。

生き物として存在するための基盤。

 

その土台があるからこそ、

「これが好きだな」

って思える。

 

だから私は逆に思う。

「好き」と思えているという事実そのものが、今ここにある幸せの証拠なんじゃないか。

  幸せって、失ってから気付く

幸せって、失ってから気付くことが多い。

 

当たり前にある時には、なかなか見えない。

あるアニメでは、幸せをガラスみたいなものとして表現していた。

透明だから、そこにあるのに見えない。

でも確かにそこにある。

そして壊れた瞬間に、その存在が分かる。

しかも割れたガラスは、今度は自分を切る。

 

住む場所があったこと。

食べられていたこと。

話せる人がいたこと。

会いたい人に会えていたこと。

好きな人を好きでいられたこと。

 

失って初めて、

「あれは幸せだったんだ」

って分かる。

 

だったら、失ってから気付くだけじゃなくていいじゃないか?

今、好きなものがある。

今、好きな人がいる。

今、「好き」って思える自分がいる。

その事実を、今のうちに幸せって言ってしまえばいい。

 

  「好き」を知ることは、自分を知ること

「好き」って、単なる感情でもないと思う。

 

何を好きになるのかには、自分が出る。

今まで見てきたもの。

経験してきたこと。

育ってきた環境。

趣味趣向。

価値観。

憧れ。

欲望。

その時の状態や状況。

 

いろんなものが混ざって、

「好き」

っていう感情になる。

だから、

自分の「好き」を知ることは、自分自身を知ることでもある。

私は何が好きなのか。

誰が好きなのか。

どんな時間が好きなのか。

どんな自分でいることが好きなのか。

 

それが分かっていけば、

自分が何に幸せを感じる人間なのかも、少しずつ見えてくる。

それは、

「本当の自分を探す」

なんて大層な話じゃない。

 

ただ、

自分の思いを知ること。

自分の心が何に動いているのかを、自分でちゃんと見てやること。

 

そして、その「好き」を大切にしていくこと。

 

それが、

幸せになっていく

ってことなのかもしれない。

 

幸せをどこか遠くに探しに行かなくていい。

何か大きなものを手に入れてから、ようやく幸せになれるわけでもない。

好きって思える。

好きって言える。

好きでいられる。

そんな自分が今ここにいる。

私は、その事実だけでも十分に幸せって言って良いと思う。

いや、

ちゃんと幸せって言おう。

「好き」がある。

それだけで、幸せなんだ。

前回、「行きたくない」という言葉について書いた。

 

「学校に行きたくない」
「仕事に行きたくない」

 

その言葉だけを聞いて、

怠けている。
甘えている。
逃げている。

そんなふうに答えを決めてしまうのではなく、

その言葉の奥に、まだ言葉になっていない「何か」があるんじゃないか?

 

そんな話だった。

今回は、その続きをもう少し考えてみたい。

分かって欲しい。でも、言えない。

人と人は完全に分かりあうことなんて出来ないんだろう。

例えそれが、親子や兄弟や恋人や夫婦だったとしても・・・

まして、友人や同僚なんてさらに無理だと思っている。

 

だからこそ、その「分かり合えない」の先に行く方法が必要なんだと思う。

 

  分かって欲しい。でも、言いたくない

言葉にならない思い。

誰にも言えないこと。

分かって欲しいけど、伝えられないこと。

 

どうしようもないのに、誰にも言えなくて、一人で抱えるしかない現実。

そんなもの、誰にだって一つや二つあるんじゃないだろうか?

 

それでも人は、何となく匂わせてしまう。

「学校に行きたくない」

「今日は帰りたい」

「もういい」

「別に」

「何でもない」

本当に言いたいことは、それじゃないのかもしれない。

 

好きな人に「好き」と伝える勇気はない。

でも、好意には気付いて欲しい。

 

助けてとは言えない。

でも、苦しいことには気付いて欲しい。

 

話したくない。

でも、何かあったことくらいは分かって欲しい。

 

「伝えたくない」と「伝わって欲しい」は、普通に同居する。

矛盾しているけど、人の感情なんてそんなもんだと思う。

 

  答えを当てる必要なんてない

じゃあ、「行きたくない」と言われたらどうするのか?

 

「いじめられてるの?」

「仕事で嫌なことがあった?」

勝手に答えを作るのも違うと思う。

 

何か言いたそうな顔をしているから、

「私に不満があるんでしょ?」

なんて決めつけるのも違う。

 

それは相手を理解しているんじゃなくて、

自分の解釈を相手に押し付けているだけだから。

 

本当のところなんて分からない。

だったら、

「何かあるんだろうな」

まず、それくらいでいいんじゃないかな?

 

無視することなんて簡単だ。

自分の事情や意見を優先して、正論を押し付けることも簡単だ。

 

でも、それを繰り返していたら、人と人は結局すれ違って、衝突して、嫌い合っていくんだろう。

  分からないことと、関わらないことは違う

私は、人と人が完全に分かり合えるとはあまり思っていない。

 

相手がちゃんと言葉にしてくれたって、その言葉を私は「私の経験」で理解するしかない。

まして、本人ですら言葉に出来ない感情なんて、分かるわけがない。

 

だから、

「あなたの気持ち、分かるよ」

なんて簡単には言えない。

 

分からんもんは、分からん。

 

落としどころを探すこともある。

「ここは分かり合えないね」と割り切ることだって必要だろう。

 

でもさ。

 

もし、その相手が自分にとってかけがえのない人だったら?

「分からないから仕方ないね」

そんな簡単に終われないこともあると思う。

 

  向き合えないなら、同じ方向を向けばいい

だからといって私は、正直に向き合えるほど出来た人間でもない。

相手のすべてを受け止められるほど、達観した人間でもない。

 

私にだって感情がある。

腹も立つし、面倒にもなるし、逃げたくもなる。

 

だから私は、

出来ることくらいはしたいな

って思う。

 

一緒にモヤモヤする。

一緒に悩む。

一緒に模索する。

答えのない答え探しをしてみる。

 

解決なんて出来なくてもいい。

相手の気持ちを全部理解出来なくてもいい。

向き合う力がないなら、無理して向き合わなくてもいい。

 

せめて、

同じ方向を向く努力くらいはしてあげたい。

 

私はあなたのことを全部は分からない。

あなたが見ているものも、感じているものも、本当のところは分からない。

でも、

分からないからって、一人でそっちを向かせなくてもいいじゃない。

 

私には何でも分かってあげられるほど器用じゃないし、何とかしてあげられるほどの力は無いし、受けとめきれるほどの器量も無いから・・・

  それでも、正解なんてない

もちろん、近づいて欲しくない人だっている。

 

「何も聞かないで欲しい」

「そっとしておいて欲しい」

それすら言葉に出来ないこともあるだろう。

 

だったら、離れることが正解になることもある。

近づくことも、離れることも、相手を思って選べてしまう。

 

だから結局、

人との関係に正解なんてないんだと思う。

それでも、何か言いたそうな顔をしていたら。

「行きたくない」と言ってくれたら。

 

私は、その言葉だけで答えを決めたくない。

分かってあげるなんて、大層なことも言えない。

 

ただ、

「何かあるんだろうな」って、目を向けるくらいは出来る。

分かり合えないから諦めるんじゃなくて、

分かり合えないことを知った上で、それでも同じ方向を向いてみる。

 

一緒にモヤモヤして、

「どうしたらいいのか、どうしたいのかも分からないね」

って言いながら考える。

 

それくらいの関係なら、私にも出来るかもしれない。

分からないまま、一緒に分からないままでいる。

 

それも、人と人が一緒にいる一つの形なんじゃないかな。

私は、そんなふうに思っている。

「学校に行きたくない」

「仕事に行きたくない」

 

この言葉は、なぜこんなに誤解されるんだろう。

怠けてる。
甘えてる。
逃げてる。
根性がない。

そんなふうに見られてしまうことが多いから、言えなくなる。

 

でも私は思う。

「行きたくない」って、本当にそれだけなのかな?

他人を知る。人を知るための最初の一言

誰だって、人に分かってもらいたい。

誰だって、誰かに知ってもらいたい。

でも、分かってもらうための表現って難しい、言葉選びも、伝え方も、関係も、何もかもが難しい。

 

自分のことだって、全部理解することなんて出来ないんだ。

嫌な事も、好きなことも、全部明確に言葉にできる人なんて居ない。

少なくとも、私のであってきた人の中で、ちゃんと言える人は居なかった。

 

でも、分かって欲しい気持ちはある。知ってもらいたい感情もある。

だからさ、それを知ってあげるためには、その人の些細な言葉を逃さないことなんだろうと思うかな。

  「○○たい」は、その時の感情なんだと思う

私は「○○たい!」っていう言葉が好きだ。

食べたい。
遊びたい。
会いたい。
逃げたい。
認められたい。
分かってほしい。

 

理由や動機はその時々で違うだろうけど、「○○たい!」には、その瞬間の欲望や感情が表れていると思う。

 

だから、

「学校に行きたくない」
「仕事に行きたくない」

にも、何かがある。

 

ただ、「行きたくない」は少し特殊だと思うんだ。

 

旅行に行きたいなら、旅行へ行く。
会いたいなら、会いに行く。

自分の行為へ向かう「たい!」がある。

 

でも「行きたくない」は、行動するための言葉じゃない。

 

怖いのかもしれない。
逃げたいのかもしれない。
誰かに気付いてほしいのかもしれない。
認めてほしいのかもしれない。

 

もしかしたら、本人にだって何が嫌なのか分からないのかもしれない。

 

それでも何かを伝えたい。

その時、最初に出てくる言葉が、

「行きたくない」

なんじゃないかな?って思う。

 

  本当に言いたいことは、最初から言えない

例えば、いじめを受けている子がいたとして。

 

その子が最初から、

「学校でこんないじめを受けていて、怖くて限界だから助けてほしい」

なんて説明できるだろうか?

 

怖いだろう。
恥ずかしいかもしれない。
親に心配をかけたくないかもしれない。
言ったらもっと酷くなると思っているかもしれない。

 

だから言えない。

​​​​​​​

でも、学校には行けない。

そこでようやく出てきた言葉が、

「学校に行きたくない」

なのかもしれない。

 

だったら、この言葉は「答え」じゃないんだよね。

 

まだ他人には見せられない。
上手く言えない。
分かってもらえるかも分からない。

でも、私の中には何かあるよ!

その存在を初めて外に出した言葉なのかもしれない。

  だから私は「希望」だと思いたい

もちろん、

「行きたくない=深刻な問題がある」

と決めつけたいわけじゃない。

 

単純に眠いだけかもしれない(笑)

面倒くさい。
ゲームしたい。
今日は何となく嫌だ。

それだって立派な「行きたくない」だ。

 

だから、理由はまだ分からない。

分からないからこそ、その先がある。

 

「怠けるな」
「みんな嫌でも行ってる」
「甘えるな」

そこで答えを決めてしまったら、会話は終わってしまう。

 

でも、

「何かあるのかな?」

と思えたら、そこから始められる。

 

私が言う「希望」は、本人にとっての明るい未来って意味じゃない。

 

本人は絶望の中にいるかもしれない。

それでも「行きたくない」と誰かに言えた。

その言葉を聞いた誰かが、その人を理解できる可能性が生まれた。

私は、その可能性を「希望」と呼びたい。

  「助けて」は、最初から「助けて」じゃない

人が本当に苦しい時、

ちゃんと「助けて」って言えるんだろうか?

 

「行きたくない」

「帰りたい」

「もういい」

「別に」

「何でもない」

 

本当に伝えたい言葉とは、全然違う言葉が最初に出てくることだってあると思う。

 

だから、言葉だけを見て答えを決めたくない。

その奥に何があるのかなんて、本人にしか分からない。

本人にだって、まだ分からないかもしれない。

 

それでも言葉が出た。

だったら、そこが最初の一歩なんじゃないかな。

「行きたくない」は、終わりの言葉じゃない。

まだ言葉に出来ない「何か」があることを、誰かに見せる最初の言葉なのかもしれない。

だから私は、

「行きたくない」と言われた時、

その言葉を簡単に否定したくない。

その奥にある「○○たい!」が何なのかを、勝手に決める必要もない。

 

ただ、

「何かあるんだな」

って思えたらいい。

その人を理解するための入口が、まだ残っている。

それだけで私は、

十分に【希望】なんだと思う。

私は、誰かの言葉を知らないから書くんじゃない。


むしろ、たくさん聞いて、たくさん学んできた。
それでも満足できなかった。

 

誰かの正しさでは、私が見てきたものを説明し切れない。

誰かの正解に、自分の人生を預ける気にもなれない。
誰かのアンサーで納得したことにできるほど、私は寛容ではない。

 

だから、自分で考えて、自分で言葉を作る。

そして、いかにも正しそうな世界を少し皮肉って、笑っている。

 

私にとって創作とは、答えを出すことではない。
誰かの答えだけで終わらせない場所なんだ。

心に刺さった言葉との出会い

先日、友人と食事に出かけた。

その友人も自分で本を書いているらしい。

最高に面白いじゃないか!

 

私も本を書いている・・・・と言っても道楽の域を出ない手慰みなんだけど

そんな私でも、Lineスタンプを描いてみたり、ブログを書いてみたり、動画を作ってみたり

依頼してみたり、いろいろ四方八方手を出している。

何一つ目立った痕跡が無いのが、何とも私らしい。

 

私一人の力では、何一つまともなカタチにしていくことが出来ない事を痛感している。

そこそこ器用で、そこそこ見聞も広いって言う勝手な思い込みを、ちゃんと世間が認識させてくれる。

 

そんな中出会った友人は、本を書いて出版しているらしいじゃないか!

ちゃんとした作家さんとの出会いじゃないか!これは千載一遇!

根掘り葉掘り聞きたいが・・・

まぁなんともそんなに世界は甘くない。

何を書いて何を出しているのかは教えてくれなかった。

それでも、そんな人が言った言葉が何より心に残った。

「足りないから創作している」

あぁ~さすがだなと、私のそれとは少し違うモチベって言うのかな?

ちゃんとした目的意識を持っている人の言葉は、私にとても素敵に響いたよ。

 

  創作の可能性を探す

刺激の多い今の時代創作したくもなるだろうと思う。 

 

私自身、アクセサリーが好きだからって、

自分好みのオリジナルシルバーアクセを粘土で作っていたころを思い出す。

なにより、今なら日々の日常の中でブログを毎日書いている。

その書くっていう行為すらも、私は創作の一つだと思いたい。

 

それは・・・

何か足りないって思うから、オリジナルで作り出そうと、

自分が満足する物を作り上げようとするんだろう。 

 

昨今いろいろな世界やジャンルにクリエイターと呼ばれる人たちが居る。

 

同人誌やフィギュアもそうかもしれない、

アクセサリーや服だってそうだろう、

執筆やイラストなんて王道だと思うし、

SNSに写真を投稿するなんて現代の典型的な創作の代表だと思う。

 

他にも、動画に歌に配信にネタにトークに笑いに千差万別の表現として創作が存在している。

 

誰も彼もがコピーやパクリから始まり、

二次創作を経てオリジナルを探していくんだろう。

 

私が大好きなバンドの人たちだって最初はコピーバンドから始まってる。

最初からいきなりオリソンなんて誰も聞いてれないからね。

 

何もかも、足りない、物足りない、もっと・・・よりよく、私らしくを追及していく先が、創作なんだろうと思う。

 

  自分を表現したいって言う願いはいつも自分の為に

私は、何かが足りないから創作する。
でも、足りない私を埋めるためだけに作っているわけじゃない、と思うんだ。


世の中にあるものだけでは、私を表現するには足りないから作る。
もっと私らしくしたい。もっと自分の感覚に近づけたい。
その「もっと」を諦められないから、私は創作を続けている。

そういう面って誰にでもあるんじゃないかな?

 

昔、エレソクって呼ばれるSS(ショートストーリー)のまとめサイトがあった。

今でもあるのかな?私はそこが結構好きで読んでいたりしたんだけど・・・

 

物語のアフターストーリーやifストーリー

どれもこれも、登場人物はその性格や口調のまま表現されているのに、

何とも新しい世界を演出してくれていた。

正直とても面白かった。

特にいうなら、コードギアスシリーズはほとんど読んだね(笑)

ドラゴンボールも鉄板だったし

何よりあの出会い・・・「ブーンがアルファベットを武器に闘うようです」

本当に素人か?っていうレベル。感動までさせてくれた。

本当の意味での創作っていうモノを見たと思う。

 

少し脱線したけど、書き手が見たい世界がそこに広がっていたんだと思うんだ。

さらに、読者側のニーズまで回収してくれている作品も多い(笑)

ただ書けるから書くって言うなら、編集でもジャーナリストでもコピーライターでも良いだろう

成功するかどうかも含めて、そっちの方が可能性高そうだ。

 

でも、彼らはその何のメリットも無いような世界で表現をして、創作から制作して投稿して

私を楽しませてくれていた。

別に私の為じゃないんだ。

本人の満足の為だったんだと思う。

 

だからこそ、とても魅力的な作品が溢れていたんだと思う。

誰も彼もが、自分のエゴを表現として作品として創作したからこそそこに在る。

最高に素敵な世界だと私は思う。

 

 

  「足りないから創作」を選べる強さ

創作って正直簡単じゃない。

 

0を1にするってそれはもう言葉には出来ないくらい難しく、ハードルが高くて、エネルギーが必要になる。

 

思っても出来ない

想像しても形に出来ない

そんなことはよくある。

神前で気軽に自分の欲望を並べるようなものだ。

言うだけなら簡単なんだよ。

 

それを知っているからこそ、作っている人との出会いは本当に素敵な時間を与えてくれる。

今回は、何一つ共感して、情報を共有できることは無かったけど

勝手に私は最高に満足させてもらった。

 

だって、最高の言葉を聞かせて貰ったから

「足りないから創作している」

これ以上の言葉は必要ないとさえ思えてしまう。

 

何かが足りないんだよ。

心にぽっかり空いた空白を埋める為に創作する人も居るだろう

ぶつけようのない感情を吐き出すために表現する人も居るだろう

作品でしか自分を表現できない人も居るだろう

 

私も、私以外の人もきっと、何かが足りていない

だって、足りていて充足して満足していたら

生きていくことが出来るほど世界は甘く無いからさ

足りないことを補うために、常に労働して自分の時間と労力を消費して

さらに金銭を支払って、対価を払って何かを手に入れようとするくらいに、足りていないんだ。

 

その中で、創作を選んで

自分を表現して、自分の世界を作り上げて、他人に見せることが出来ている

 

こんな素晴らしいことがあるんだろうか。

芸術を爆発だと言った人が居たけど、まさにそれだと思う。

自分の中の何かを爆発させる強さがあるから、作品として世に出せているんだろう。

とても素敵な話しだと思う。

 シンプルフレーズ

だからこそ私は思うんだ。

心の足りない部分があるから、未完で不足で自分自身に足りないから創作をするんじゃない。

 

世界には自分を表現して満足させるだけのモノが無いから、自分で創作を選んでいるだけなんだ。

 

足りないから創作しているのは、世界にないから自分で作り出すっていう自己実現の形なんだ。