『口は災いの元』

 

 

「口は災いの元」ということわざは、言葉や発言が原因で問題やトラブルを引き起こすことがあるという意味です。軽率な発言や不用意な言葉が、自分や他人に悪影響を及ぼすことがあるため、慎重に言葉を選ぶべきだという教訓を含んでいます。

 

いや、もう・・・本当にそうだと思う。

 

何気ない言葉が人を傷つけるし

傷つけられる

 

気軽に言った話が、誰かの尊厳を脅かすし

脅かされる

 

かといって、コミュニケーションを取るには、

言葉が重要であり、そのほかの方法での意思疎通は難しい。

 

困ったね。

 

だからと言って、コミュニケーションを取らず、1人で生きていくことも出来ないし。

どこかで諦めて、覚悟して人との距離感を作っていくしかないんだろう。

 

人とのコミュニケーションが出来なかったり、周りの環境や、考え方が合わないからと言って、

【ホールデン】のように

「僕は耳と目を閉じ口をつぐんだ人間になろうと考えた」

とは、簡単には出来ないし

 

周囲に合わないから!と言っている人に対して

【草薙素子】のように

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ」

なんてさらに難しい。

 

結局、私達は常にリスクをはらんで人と話すことしか出来ない。

どんなに仲が良かったとしても、どこが地雷で落とし穴かなんて分からないんだから。

 

  人とのことは無理でも、自分のコトなら

 

だったら、せめて自分の気持ちと心だけでも守れたらいいんじゃないかな?

 

言葉を使う以上

誰かを傷つけることもあるし、トラブルになることもあれば、すれ違って上手くいかない時もある。

それを乗り越えるのはとっても大変。

 

でも、投げ出せないし、解決しないといけない。

それはもう、言葉を変えて溝を埋めるしかないだろう。

伝えたい想いがあるのなら、その想いを違う言葉を使って伝えるしかない。

上記の人のように、【人は簡単には変わらない】から、気持ちを変えるのもきっと難しい。

(まぁ結局上記の二人も変わらないんだが)

 

だから、せめて自分の思いを守って、自分の気持ちを守れるように。

言葉を変えて、時間を変えて、少しずつ溝を埋める方法を探して行くしかない。

 

自分を守る為に、誰かの理解を得るのは難しい。

必要なのは、自分を守る為に言葉を選ぶこと。

理解してもらう結果を求めると辛くなるから・・・

言葉を選んで、自分はしっかり伝えた。自分は出来ることは全部やった!って、

自分の気持ちを整理して、自分を守れるようにしていくことが大切なコト。

 

自分を守る方法の中で、

人間関係に疲れて、社会に絶望して、目の前の現実を受け入れられないから

『目を閉じ耳を塞ぎ口をつぐんでしまう』のも、一つの選択肢だって思えるだけでいい。

【口は災いの元】

って、言うかもしれないけれど、その本質は

『自分の言葉が原因だ』って思ってしまっている自分がいるってこと。

 

足りていないのは、自分を守る為に言葉の選択が出来ていないコト。

大切なのは、自分が納得できて、割り切れるまで言葉を選んで伝えること。

image

それでダメなら、言葉が原因でも口が問題でもなく

単純に合わないだけ。それをどうにかするのは、きっと・・・・「骨折り損のくたびれ儲け」

諦めて、別の人探して仲良くしましょう。

居場所が無いのは、
私に価値が無いからではない。


意味と価値を、奪われた世界に
私は、ただ放り込まれただけだ。

 

奪われたのは、居場所だった。


生きることの可能性だった。
生きていていい、という承認だった。
時間も、未来も、愛も、大切も。

 

意味とは、生きるための意味。
価値とは、生きたから生まれる価値。

 

その入口と出口の両方を、
この世界は、静かに奪っていった。

 

歯車として。
奴隷として。
駒として。
それだけが、与えられた「場所」だった。

 

与える側と、与えられる側。
選ぶ側と、選ばれる側。


その分断は、
資本なのか、政治なのか、
世界なのか、SNSなのか、世論なのか。

 

それとも――
私自身が、手放したのか。


奪われた意味と価値を
もう一度、自分の手に取り戻すための
記録であり、抵抗であり、生存である。

 

私は、シンプルフレーズ。
奪われた価値と意味を、
奪い返すために、言葉を書く。

マキャベリを知ると、今の社会はどこまでもマキャベリズムを反映していることを実感する。

どこまでも個々人には救いがなく

国家は全体の為に、誰かの為じゃなく国家の為に・・・

 

私が生きるこの世界は、私には冷たく非情で不条理を感じる時しかない。

 

現実が過酷なのは十分理解しているつもりだけど、

それでも、現実以外では生きられないことを私は知った・・・

現実にしか私には居場所が無かった。

逆に現実じゃない場所に居場所がある人が居た。

私とは交差しない場所だったんだろう。

 

思うところはあるんだ・・・

居場所が現実にないって感じながらもがく私は、いつまでも自分の居場所を探して生きていく

image

過去のために生きるのか、過去を糧に生きるのか

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
イタリア・フィレンツェ共和国の外交官、政治思想家。

 

彼が生きた当時のイタリアは、
戦争・裏切り・陰謀・腐敗・侵略のオンパレード。
正義や理想ではどうにもならない世界のど真ん中にいた。

 

だからこそ、彼の思想は“現実を直視する勇気”に満ちている。

 

  正しさだけでは、人は生きられない

 

生きたいだけ。
居場所が欲しいだけ。

それだけなのに、
それだけが、どうしてこんなにも難しいんだろう。

安全で安心できて、
表現も行為も縛られない自由な場所。

そんな場所があったらいいなって、
人はずっと願ってきたんだと思う。

 

でもね、
安全な庇護は、自由をくれない。
危険な自由は、安心をくれない。

どちらも欲しいのに、
どちらも同時には手に入らない。

だからこの世界は、不条理で、
弱い人ほど、ハードモードになる。

居場所が欲しい。
大切な存在と一緒に生きたい。

それは「わがまま」でも「贅沢」でもなく、
生き物として、あまりにも自然な欲望。

 

でも現実は冷たくて、
お金がなければスタートラインにも立てない。

お金がないと、
居場所も、同伴も、選択肢も、ぜんぶ消える。

 

そう思うと、
「正義って、結局お金なの?」
「悪って、貧しさのことなの?」
そんな疑問が、胸の奥で腐らずに残る。

 

  人を豊かにするのは?

 

私は知っている。
支配されたくないけれど、
支配なしに生きられない現実も。

今の支配の正体は、武力でも王様でもなく、
資本と制度だ。

 

国家が資本の流れを握り、その庇護の内側でしか、
私たちは夢を見ることすら許されない。

 

支配から抜け出したいと思うたびに、
居場所は遠ざかる。

でも、孤独で生きられるほど、
人は強くないことも、私は知っている。

 

私は、
たくさんの「死体みたいに生きている人」を見てきた。

国家なんて感じる余白もない。
誇りも理念も考える余裕もない。

 

あるのは、
「出来ないと価値がない」という烙印だけ。

善意も悪意も関係なく、
出来なければ、
意味も、価値も、存在すら削られていく。

拷問も独裁も、
遠い国の話じゃない。


会社で、組織で、関係の中で、
私たちはもう十分に経験している。

 

  居場所と自由は、同時に手に入らない

 

人は、
正しさだけでは、生きられない。
正義だけでは、救われない。
綺麗事だけでは、息ができない。

 

だからといって、
「悪が必要だ」とも言いたくない。

ただ一つだけ確かなのは、
悪は、正しさと正義がある時にだけ成立する
ということ。

 

 

私は何を捨てるのか?
正直、何も捨てたくない。

自分も、
大切な人も、
夢も、
自由も、
全部、手放したくない。

 

でも現実は、
取捨選択を強制してくる。

 

何を捨てよう?
それとも、何を守ろう?

そうやって迷い続けた先で、
ある日、ふと気づいた。

私は、後悔だけは、最後まで手放さない。

過去も、経験も、
泣いた時間も、選び損ねた道も、
私は忘れない。

 

忘れる自由もあるのに、
私は「忘れない」という自由を選ぶ。

侵略されても、
奪われても、
壊されても、

最後まで残るのは、
「覚えている」という選択だけなのかもしれない。

 

忘れられないことは、鎖にもなる。
でも同時に、それは未来に繋がる糧にもなる。

 

  過去のために生きるのか、過去を糧に生きるのか

 

だから私は、こう思いたい。

後悔で人が変わるなら、
人は「過去のために生きている」んじゃない。

過去を、未来の燃料にして生きているんだ。

 

過去を抱えたままじゃないと、
私は前に進めないから。

忘れないという選択は、
未来の自由を、まだ諦めていないという証拠だから。

 

居場所は、
まだ見つかっていない。

 

でも私は、後悔を抱いたままでも、歩ける。

捨てきれなかった想いごと、
この世界で、生き続ける。

 

それが、今の私に残された、
たった一つの自由なんだと思うから。

私は1人の時間をとても大切に思っている

思考する時間

嗜好の時間

誰に気を使う訳でもなく、いつでも自由を感じられる。

 

私は、自分のやりたい時に、やりたいことを、やりたいように、私のやり方でやりたい。

って言うのは、私の若かりし頃の言葉だ。

未だに変わらんのだね。

未だに成長せんのだね。

 

いつまでたっても、1人の時間を楽しんでいると・・・思っているのは上辺だけ・・・・

守りたいから、今日も少し孤独になる・・・それでも家族という居場所で

どれだけ一人を楽しんでいても、どこかに寂しいって言う感情は在るもので

誰かとの繋がりを求めてしまうモノで

職場でも友人は増える

飲みに行くことだってある

 

でも、やっぱり自分の居場所か?って言われると

やっぱりここじゃないって思ってしまう。

 

一人の居場所を求めているのか?

それとも、過去にあった居場所を求めているのか?

居場所なんてそもそもなかったのか・・・・

  居場所が欲しい。守りたい。だから孤独になる

 

居場所が欲しい。
安心できる場所。
ここに居てもいいって思える場所。

それって、そんなに贅沢な願いじゃないはずなのに、
どうしてこんなに難しいんだろう。

 

私は、自分を守りたい。
大切なものも守りたい。
失いたくない。
壊されたくない。

だから、必死になる。
無知でも、臆病でも、過剰でもいい。


とにかく「守る」ことを選ぶ。

 

でもそのたびに、なぜか孤独が増えていく。

守るって、誰かを遠ざけることでもあるんだと、
・・・あとから気づく

 

  孤独は「弱さ」じゃなく、「防衛」だった

 

傷つかないように距離を取る。
踏み込まれないように線を引く。
悟られないように、本音を隠す。

 

これ、全部「強がり」だと思われがちだけど、
私は違うと思っている。

これは、生き延びるための防衛反応だ。

 

壊れないように。
もうこれ以上、失わないように。
同じ痛みを繰り返さないように。

 

孤独は、
逃げじゃなくて、
「これ以上壊れないための静かな選択」なんだと思う。

 

そうやって、
ちゃんと自分を守っているはずなのに、気づけば、誰も入ってこない場所に立っている。

  家族という、いちばん近くて、いちばん孤独な居場所

 

そしてこの「守り」と「孤独」は、
何よりもまず、家族の中で始まる

家族って、本当に不思議な関係だ。

・一番近いのに
・一番分かり合えないこともある
・一番守りたいのに
・一番傷つくこともある

親だから、分かり合えるとは限らない。
子どもだから、守れるとは限らない。
一緒に暮らしているから、心まで共有できるとは限らない。

 

「守りたい親」と「守られたくない子」

 

親は言う。

「あなたのために」
「心配だから」
「失敗しないように」
「傷つかないように」

でも、子どもは思う。

「信用されてないのかな」
「信じてもらえないのかな」
「私は弱い存在なのかな」

守る側は、
良かれと思って壁を作る。

守られる側は、
その壁のせいで孤独になる。

どちらも「間違ってない」のに、
どちらも少しずつ、傷ついていく。

 

「迷惑をかけるな」の呪いと、家族の沈黙

 

小さい頃、言われなかっただろうか。

泣くな。
大声を出すな。
人に迷惑をかけるな。
弱音を吐くな。

その言葉は、
家庭を守るための言葉だったのかもしれない。

でもその代わりに、
感情を出す場所は、どんどん失われていった。

家族の中でさえ、
泣くことが迷惑になり、
怒ることが問題になり、
悲しむことが重くなり、
黙ることが「大人」になった。

その結果、
家族の中にいるのに、
心だけがひとりぼっちになる。

 

守ることで、家族も自分も孤独になる

 

親は、子を守ろうとする。
子は、親を傷つけまいとして本音を隠す。

そして気づけば、

・誰も悪くないのに
・誰も弱くないのに
・誰も裏切っていないのに

家族みんなが、少しずつ孤独になっている。

守るって、
とても尊い行為だけど、
同時に、とても孤独を増やす行為なんだ。

  それでも人は、居場所を捨てられない

 

それでも、人は、私は居場所を欲しがる。

誰もいない場所で、
どれだけ心が静かでも、
どれだけ安全でも、
そこに「温度」がなければ、生きている気がしない。

 

孤独だけで生きていけるほど、人は強くない。

 

孤独だけでは、生きられない。
誰かと繋がりたい。
誰かに「居てもいい」と言ってほしい。

守ることで増えた孤独も、誰かと並んで座ることで、
少しずつ薄まっていくことがある。

 

だから私たちは、

また少しだけ開いて、
また少しだけ守って、
その繰り返しをしている。

 

  孤独を抱えたまま、自分という居場所へ

 

孤独を捨てられない人もいる。
孤独がないと、生きられない人もいる。

それでも、
孤独を抱えたままでもいいから、
自分の居場所に立っていたいと願ってしまうのが、人なんだと思う。

完全に分かり合えなくてもいい。
完全に許し合えなくてもいい。
それでも同じ場所に居る。

それだけで、
もう十分すぎるほど、「居場所」なんだと思う。

  守るから孤独になる。それでも居場所を求める

 

居場所が欲しい。
自分を守りたい。
大切なものも守りたい。

でも、守ると孤独が増える。

 

でも、
それでいいんだと思う。

 

守りながら、
ときどき孤独になりながら、
それでも居場所を探してしまうのが、
たぶん、人間なんだ。

 

 ■シンプルフレーズ

 

「守るって、孤独になること。でも、それでも居場所を捨てないこと。」

人は、庇護と支配の中でしか生きられないのに、
その庇護の代価として「自分」を差し出すしかないのか?
そして、それでも後悔だけは最後まで手放さずにいられるのか?

欲しいのは、居場所。手放したいのは私を縛る鎖。

私は我が儘で傲慢で自己中で利己的で天邪鬼で・・・

それでいて、弱くてもろくて、強がっていて、カッコを付けていて・・・

 

あるのは後悔だけの、空っぽの存在かも知れない。

でも、後悔を活かして生きていけるな・・・・

 

私にも生きる意味と価値があるんだろ?

って、思いたいだけの願いを込めたブログ・・・

 

  居場所とは、安心と自由の両立なのか

 

私が欲しいのは、
安全と安心が担保されていて、でも表現と行為は縛られない場所。
 

そんな都合のいい居場所だ。

でも、きっとそれは成立しない。

安全な庇護は、自由を奪う。
危険な自由は、安心を奪う。

全部が揃う場所なんて、どこにもない。


だからこの世界は、不条理で、
弱者にとっては最初からハードモードなんだと思う。

 

生きたいだけ。
居場所が欲しいだけ。
この欲望は、綺麗ごとじゃなくて、
感情で、行為で、必然だ。

 

でも、この世界では――
お金がなければ、スタートラインにすら立てない。

 

居場所も、
大切な存在との同伴も、
どれも、金がなければ届かない。

正義は結局、金なんだろうか。
悪とは、金がないことなんだろうか。

 

それとも、
庇護と自由を少しずつ分け与えられる代わりに、
対価として“自分そのもの”を差し出すこと
なんだろうか?

  支配されたくないのに、支配なしでは生きられない

 

支配されたくない。
でも、支配がなければ、生きられない。

この矛盾を、私はもう否定できない。

 

現代の支配の正体は、
制度でも暴力でもなく、資本だ。

 

資本の流れを国家が握っているから、国家は絶大で、
私たちはその庇護の中でしか、夢を見ることができない。

 

支配から抜け出したいと思った瞬間、
人はこう言われる。

「じゃあ、ひとりで生きろ」

でも――
孤独で生きられるほど、人は強くない。

 

だから私は、
首輪があることも、リードがあることも・・・
分かっているのに、

それでも散歩に行く。

 

支配と自由は、反対語じゃない。
支配の中でしか、自由を“実感”できない人間の弱さが、そこにある。

  私が最後まで手放さないもの

 

私は、何一つ捨てたくない。

自分も、
大切な存在も、
夢も、
居場所も。

でも現実では、
取捨選択は、生存条件だ。

 

何を捨てるか。
何を守るか。

考え続けた末に、
私はこう気づいた。

私は、後悔だけは、手放さない。

 

経験も、
知識も、
過ごした時間も、
全部、忘れない。

たとえ、
すべてを奪われたとしても、
最後まで残せる自由は――
「忘れない」という選択だけなんだ。

 

後悔は、鎖でもあり、
同時に、未来の糧にもなる。

忘れられないから、束縛になる。
忘れないから、未来に変わる。

 

この表裏一体が、
私に残された自由だ。

  後悔は、正当化できないから“後悔”になる

 

後悔って、
納得できないから後悔なんだ。

正当化できないから、後悔なんだ。

 

だから人は、
同じ選択をしないために、違う行為を選ぶ。

 

遊んで宿題が終わらなかったなら、
次は遊ぶ前に、宿題を終わらせる。

それが、
後悔を“思い出”で終わらせず、
“糧”に変える唯一の方法なんだと思う。

 

でも――
何度も同じ後悔を繰り返しているなら、
それはもう後悔じゃなく、
ただの思い出だ。

 

失っていないから、繰り返せる。
代償を支払っていないから、浸っていられる。

失って初めて、人は本当の後悔を知る。

 

津波で家族を失った人は、
もう海の近くには住まない。

そういうことだ。

  私は、過去のために生きているのか?

 

もし、
後悔で人が変わるとしたら――
人は、過去のために生きていることになるのだろうか。

 

でも私は、こう考えたい。

私は、過去に縛られて生きているんじゃない。
過去を“糧”にして、生きている。

 

もう、失ってしまったものは戻らない。
でも、失ったからこそ、
今の行為が決まる。

離婚も、
子どものことも、
恋愛も、
親も、
実家も。

全部、もう失っている。

だから私は働く。

必死に、
身を粉にして、
働く。

 

いつか、
お金という現実的な形で、償うために。

 

資本主義万歳だ。
金でしか返せない後悔も、
この世界には、確かに存在する。

 

それでも私は、
この生き方を選んでいる。

 

  後悔は杭か。糧か。

 

後悔は、
私を縛る杭でもあり、
私を前に進める糧でもある。

 

どちらに変わるかは、たぶん――
次の行為でしか、決まらない。

 

私は、
正義を持たない。
善人でもない。
たぶん、敵で、たぶん、悪だ。

 

それでも、
忘れない。
手放さない。
後悔し続ける。

それが、
私がこの世界で生き続けるための、
いちばん静かな自由だから