「諦めたら楽になる」

誰がそんなことを言ったんだろうな?

諦め方を覚えたら悩みが消える。
感情を整理すれば苦しみが軽くなる。
欲望に優先順位をつければ、自分の本音が見えてくる。

 

そういう言葉は、たしかに綺麗だと思う・・・

でも、私は思う。

 

違うんだよ。

諦められないから苦しんでるんだよ。

忘れられない。
手放せない。
割り切れない。
納得できない。

だから悩んでいる。

知りたいのは、諦める方法じゃない。


手に入れる方法なんだよ。

 

それを教えてくれよ、って私は思う。

 

今あるものを手放せば、新しいものが手に入るかもしれない。

でも、手に入らなかったら?

 

今あるものを失って、欲しかった未来も手に入らない。

それが怖いから動けない。

 

じゃあ、未来を諦めればいいのか?

 

違う。

 

未来を諦めたら、今が残る。

変えたかった今が残る。
逃げ出したかった今が残る。
苦しくて、悔しくて、どうにかしたかった今が、そのまま残る。

 

それのどこが楽なんだろう?

 

「今を大切にしましょう」
「足るを知りましょう」
「執着を手放しましょう」

そんなことを平然と言う人がいる。

 

でも、今が苦しいから未来が欲しいんだ。

足りてないから求めてるんだ。

手放せないほど欲しかったから、苦しんでるんだ。

 

そこを見ずに、諦めたら楽になるなんて言わないでほしい。

 

諦めることが悪いとは思わない。
手放すことで救われる人もいるんだろう。

 

でも、少なくとも私は違うんだ。

私は、楽になりたいだけじゃない。
欲しかったんだ。

今を変えたかったんだ。
未来を諦めたくなかったんだ。

だから苦しい。

 

諦めたら楽になるんじゃない。

諦めたら、変えたかった今だけが残る。

その残酷さを、私は簡単に綺麗な言葉で片付けたくない。

 シンプルフレーズ

諦めたら楽になるんじゃない。
諦めたら、変えたかった今だけが残る。

私事ではあるんだけど、どうしても「あいつ嫌い」って思う相手に出会った。

本当に、久しぶりに会話が出来ない相手だった。

正しさとか、ルールとか、マナーじゃない

会話をしようとしない。それなのに、自分の身勝手を押し付けてくる。

 

身勝手だと思ってしまうくらいに、歩調が合わないって

正直イライラする。

これを怒りと言わないで何というのか?

怒りは、消すより逃がした方がいい

怒りは悪い感情じゃない。
でも、ぶつける相手を間違えると、人を傷つける。
だから怒りには、逃がす場所が必要なんだと思う。

 

怒りって、とても大切な感情なんだと思う。

喜怒哀楽のどれが欠けても、人間らしさは消えてしまう。


それなのに、怒りだけは否定されやすい。

 

きっと、怒りに身を任せた後に、後悔が始まるからだろう。

怒りが生まれる原因はシンプルだ。

気に入らない。

自分が正しいと思うこと。
必要だと思うこと。
大切にしていること。

それを蔑ろにされた時、人は怒る。

 

でも怒りは、いつも正面に向かうわけじゃない。

自分より強い相手には、怒りとして出せないことが多い。
悔しさや口惜しさはあっても、ぶつけられない。

そして、その怒りは自分より弱い相手へ向かってしまう。

子供。
後輩。
家族。
自分に逆らえない人。

だから辛いんだと思う。

 

人間だからね。
怒りをぶつけてしまう時もあるさ。

 

だから大切なのは、ごめんなさいなんだと思う。

 

でも、それで済まないのが人間の感情なんよ。

大人の怒りが子供に向かった時、子供はさらに自分より弱い相手へ向けたくなる。
そうやって悲しい連鎖が終わらない。

だって、歴史は繰り返されるから。

でも、吐き出さないと生きられない。

人は、少なくとも私は弱いから。

 

だから、ブログでも配信でもSNSでも良いんじゃないか?と、思う。

他人を攻撃しない。
誰かを名指しで傷つけない。
ただ黙々と、不満を垂れ流す場所を持つ。

 

それは有りの選択だと思うよ。

私はね。

 

怒りを消すなんて無理だ。
飲み込み続けた怒りは、優しさにはならない。


ただ腐るだけだ。

 

だから、誰かにぶつける前に、言葉の中へ逃がしてやればいい。

怒りを人にぶつけるくらいなら、
言葉にして外へ逃がせばいい。

怒りは消せない。
だから、誰かを傷つける前に、
言葉の中へ逃がしてやればいい。

 

 シンプルフレーズ

怒りは悪いわけじゃない。

怒りが生きる力にも、スポーツや仕事の成功に繋がることもある。

「負けん気」って言うのは、とても大切な才能だと思うんだ。

 

ただ、怒りを自分に向けるだけだと自分を傷つける。

自分より弱い相手に向けるだけだと、弱い相手がさらに弱者を求める。

 

だからって、簡単にコントロールして有効活用できるわけない。

私は弱いし未熟だし人間だから。

 

怒ることを知ることが出来れば、それを大切に出来るようになると思うんだ。

何を大切にしているかを知るキッカケでしかないよ。

怒りなんて他に使い道なんて無いんだから。

私は、いつもアクションを起こす側だ。

誰かに声をかける。
話を振る。
場の空気を見て、会話のきっかけを作る。

そうやって自分から動くことが多い。

 

“自分が動かなくても、誰かの中に自分が存在している感覚”

 

別に、それが嫌いなわけじゃない。
むしろ、自分から動いた方が楽な時もある。


待っているより、自分で動いた方が早い。
自由だし、自分のペースでいられる。

 

でも、ふと思う時がある。

「たまには、声をかけられる側になりたいな」

誰かに誘ってもらいたい。
誰かの方から話しかけてほしい。
誰かの中に、自分の存在が浮かんでいてほしい。

 

それは、派手に必要とされたいというより、
「自分が動かなくても、誰かの中に私は居るんだ」と感じたいだけなのかもしれない。

  自由に見える人ほど、寂しさを隠している

私は、周りから見ると一人で自由な人に見えるらしい・・・

 

一人で動ける。
一人で過ごせる。
自分の好きなことをしている。

 

それは確かに、私にとって大切なことだ。
自由でいたい。
誰かに縛られたくない。
自分の時間や選択権を手放したくない。

 

でも、自由に見えることと、寂しくないことは同じじゃない。

 

一人でいられるからといって、
誰からも声をかけられなくて平気なわけじゃない。

 

自分から動けるからといって、
誰かに気にかけてほしくないわけじゃない。

ここが、少しややこしい。

  誘われたいけど、誘われたら面倒くさい

 

正直に言えば、誘われたいと思う。

 

でも、誘われたら誘われたで、面倒に感じることもある。

 

予定を合わせるのが面倒。
気を遣うのが面倒。
行ったら行ったで疲れるかもしれない。

 

だったら一人でいた方が楽だと思う。

 

だけど、誘われないと寂しい。

 

この矛盾が、自分でも厄介だと思う。

必要とされたい。
でも、縛られたくない。

気にかけてほしい。
でも、干渉されたくない。

誘ってほしい。


でも、行くかどうかは自分で決めたい。

 

なんて面倒な人間なんだろうと思う。

でも、たぶんこれは私だけじゃない・・・と、思う。

 

人はきっと、誰かに必要とされたい気持ちと、
一人で自由でいたい気持ちの間で揺れている。

  欲しいのは予定じゃなくて、気にかけてもらうこと

たぶん、私が本当に欲しいのは、予定そのものじゃない。

 

「今度行こう」
「一緒に来る?」
「無理ならいいけど、一応声かけた」

そのくらいの軽さが欲しい。

 

強制じゃなくていい。
絶対に行きたいわけでもない。
毎回誘ってほしいわけでもない。

 

ただ、ふとした時に思い出してもらえたら、それだけで少し救われる。

 

自分から声をかけなければ何も始まらない関係は、少し寂しい。

私が動かなかったら、この関係は止まるのかな。
私から話しかけなかったら、誰も来ないのかな。


そう思うと、なんとも言えない寂しさがある。

 

声をかけられるというのは、ただの誘いじゃない。
そこには、

「あなたのことを思い出したよ」

という小さな証明がある。

  自由でいたい。でも、忘れられたいわけじゃない

私は自由でいたい。

 

一人で動ける自分も嫌いじゃない。
誰かに依存しすぎない自分も、たぶん悪くない。

でも、だからといって忘れられたいわけじゃない。

放っておいていい人になりたいわけじゃない。
声をかけなくても大丈夫な人として、雑に扱われたいわけじゃない。

 

自由な人に見える人にも、寂しさはある。

一人で平気そうに見える人にも、
誰かに気にかけてほしい瞬間はある。

 

誘われたら面倒。
でも、誘われないと寂しい。

 

この矛盾を抱えている自分は、たしかに扱いづらいのかもしれない。

でも、それは欠点というより、
人間らしい揺れなのだと思う。

私は自由でいたい。
でも、誰かの選択肢の中に、少し居たい気持ちもある。

自由って何だろう?

自由に生きている人ってどんな人だろう?

 

成長って何だろう?

成長している人はきっと、日々を精一杯生きている人だと思う。

私は成長したいと思うけど、成長って具体的なことは分からない。

 

私が分かるのは自分の欲望だけだ・・・。

辞めていく人の背中と、成長の呪い

仕事を辞めていく人が居る。
新しい道に進む人が居る。

次の仕事を決めて、進む道を決めて、目的を見つけて踏み出す人。
今の仕事をやりきって、もっといい場所を求めて、自分の可能性を模索している人。
今の仕事や職場に不満があって、そこから飛び出そうとする人。

 

理由はそれぞれ違う。
意味も違う。
価値ある時間を作るための選択も違う。

 

それでも、そういう人たちの背中はとても魅力的に見える。

まるで、変化しているように見える。
進んでいるように見える。
成長しているように見える。

だから、その背中を見ていると、いつまでも進めていない自分も「何かしなくては」と焦ってしまう。

 

でも、そこでふと思った。

これは、私も「成長の呪い」にかかっているからかもしれない。

 

  成長しろと言われてきた

学べ。
成長しろ。
大人になれ。
変われ。
進め。
挑戦しろ。

私たちは、昔からそういう言葉を刷り込まれてきた。

 

だから、変化しないこと。
変わろうとしないこと。
進もうとしないこと。
動けないこと。

それ自体が、どこか非難される世界にいる。

 

動かない自分。
出来ない自分。
変わらない自分。
進めない自分。

それらは、自他ともに否定の対象になってしまう。

 

言い訳ならいくらでも出来る。
世界の情勢が悪い。
他にいい仕事がない。
新しい仕事の準備をしている。


今はまだ時期じゃない。

理性はしっかり仕事をしてくれる。
辞めない理由も、動かない理由も、いくらでも用意してくれる。

 

でも、どれだけ正当化したとしても、動かない事実だけは残る。
そして、その事実だけが「成長していない証拠」みたいに見えてしまう。

これが、成長の呪いなんだと思う。

  私は成長が出来ないジャンルの人間だ

でも、正直に言えば、私は「成長」っていうことが出来ないジャンルの人間なんだと思う。

 

私は、自他ともに認める普通じゃない人。

 

だから、世間が言うような成長がよく分からない。
キャリアアップ。
正社員。
安定。
昇進。
評価。
市場価値。
立派な未来像。

そういう世間の正解や正しさが、どうにも理解できない。

 

もちろん、大切なことなんだろう。
多くの人にとっては必要なことなんだろう。

 

でも、私の中では、それがそのまま人生の正解にはならない。

正社員というラベルにも、そこまで興味がない。
留まることにも執着はない。
キャリアアップという言葉にも、あまり心が動かない。

 

では、私は何を求めているんだろうか。

考えてみると、それは「自由」なんだと思う。

  私にとっての自由

自由とは何だろうか?

答えは人それぞれだと思う。

好き勝手に生きること。
誰にも縛られないこと。
お金に困らないこと。
どこへでも行けること。
何でも選べること。

いろいろあるだろう。

 

でも、私が思う自由は、選択権を手放したくないということだ。

言われたからやる。
指示されたからやる。
そうしないとダメだからやる。
守る。
言うことを聞く。
従う。

大いに結構だ。
それも必要なことだと思う。

 

ルールや法律を守らないと、人権すら与えられない。
守り、従うことは、人間である以上、避けられない部分がある。

 

でも、そうじゃない部分があるだろう。

選択できるはずの部分があるはずなんだ。

誰の指示を聞くか。
どこの組織に属するか。
そのやり方で本当に守ることになるのか。
どこまでなら融通が利くのか。
どこから先は譲れないのか。

そういう線引きがあり、その線をどこに引くのかを、どこまで自分で決められるのか。

それが、私にとっての自由の権限なんだと思う。

 

  自由の領分を増やしたい

私は、極力、自由の領分を増やしたい。

 

だから、出来ることを増やしたい。
知っていることを増やしたい。
使える道具を増やしたい。
肉体を維持したい。
情報を集めていたい。

才能が無くても。
器用さが無くても。
センスが無くても。

それでも、出来る方法を見つけ出せるだけの自由の領分を守りたい。

 

だから、成長っていう変化を手に入れ続けたいのかもしれない。

でも、それは世間が言う成長とは少し違う。

偉くなりたいわけじゃない。
立派になりたいわけじゃない。
誰かに認められるためだけに成長したいわけでもない。

私が恐れているのは、選択肢を奪われることだ。

たとえば、職場で人間関係が悪くなれば、発言権がなくなる。


多少のミスも許してもらえなくなる。
何をしても責められるようになる。

 

それは自由じゃない。

 

たとえば、破産すれば、お金に関する可能性が極端に狭くなる。
でも、お金を借りることは、用途の可能性を広げてくれることもある。

だから、私はお金を借りること自体には反対しない。


・・・ただ、破産は避けたい。

取捨選択をするなら、私は可能性を広げてくれるものを選びたい。

 

  成長ではなく、自由を守るために

今のままでも、十分に生活は出来る。
生きていくことも出来る。

でも、その先に何かを思いつくかもしれない。
何かをやってみたいと思うかもしれない。
成功を渇望する日が来るかもしれない。

その時に、動けない自分ではいたくない。

 

だから、体を維持していたい。
情報を集めていたい。
考え続けていたい。
選択できる状態でいたい。

それを成長というのか。
変化というのか。
努力というのか。

正直、よく分からない。

私は何も成長していないのかもしれない。
変わっていないのかもしれない。

 

でも、もともとそういうスタンスで生きてきた。
そうありたいと思うから、そうしているだけなんだ。

 

だから、私は成長したいんじゃない。
成長しなければならないという呪いに従いたいわけでもない。

 

私は、自由でいたい。

選択肢を奪われたくない。
従うしかない場所に追い込まれたくない。
自分の線引きを、自分で持っていたい。

仕事を辞めていく人の背中は、確かに魅力的に見える。
新しい道に進む人は、確かに眩しく見える。

 

でも、私が本当に求めているのは、その背中を追いかけることではない。

私が求めているのは、私の自由の領分を守ることだ。

辞めることも、残ることも、進むことも、立ち止まることも。
それを自分で選べるだけの余地を、私は手放したくない。

成長とは、上に進むことだけじゃない。
変化とは、別人になることだけじゃない。

私にとっての成長とは、自由を失わないために、自分の選択権を守り続けることなのかもしれない。

誰にも求められず、必要とされない。

こんな楽なことは無い。こんなに自由なことは無い。

何のしがらみもなく、誰のことを気にする必要もない。

 

そして、1人にある。

その時間は、とても退屈だと痛感する日々だ。

求められない時、人はそこに居るだけに耐えられない

 

人は、誰かに求められる視線の中で、自分を作り上げていくんだと思う。

 

「こうしてほしい」
「こうあってほしい」
「こういう人でいてほしい」

 

そんな期待や役割があるから、私たちは自分の形を作ることが出来る。

 

仕事なら、仕事をする自分。
家庭なら、家族としての自分。
友人なら、友人としての自分。
恋人なら、恋人としての自分。

誰かに求められるから、そこに立ち位置が生まれる。
役割があるから、振る舞い方が分かる。
期待があるから、応え方を探せる。

そう考えると、求められることは窮屈だけど、同時に安心でもあるんだと思う。

  「素直」も、他人がいるから必要になる

よく「素直になれ」と言う。

 

でも、素直っていうモノは、本当に自分一人だけで必要になるものなんだろうか?

私は違うと思う。

一人なら、素直も本心もいらない。
ただ食べて、寝て、好きにして、生きるだけでいい。

 

・・・でも、他人がいる。
関係がある。
社会がある。

だから、探り合いが生まれる。


忖度が生まれる。
線引きが生まれる。

 

そして、相手が望んだ答えじゃない時に、
「素直になれ」
「本当のことを言え」
「ちゃんと向き合え」
と求められる。

つまり、素直とは、自分の中に最初からある綺麗な何かというより、
他人との関係の中で求められる態度なんだと思う。

 

  求められない時、人は何者にもなれない

求められている時、人は自分を作ることが出来る。

 

良い人を演じることも出来る。
普通の人を演じることも出来る。
頼れる人にも、優しい人にも、ちゃんとした人にもなれる。

 

だけど、何も求められない時はどうだろう?

役割がない。
期待がない。
答えがない。
演じる相手もいない。

 

その時、人は「素直」と同じように、何かを表現する必要すらなくなる。

 

ただ、そこに居るだけ。

 

でも、人はその「ただ居るだけ」に耐えられないんだと思う。

 

何かをしていないと不安になる。
誰かに必要とされていないと、自分の形が分からなくなる。
誰かの役に立っていないと、そこに居る理由を失ってしまう。

  ただ在ることが、一番難しい

人は、自分のためだけに生きられるほど強くない。

誰かに求められて、
誰かに必要とされて、
誰かの期待に応えて、
ようやく自分の立ち位置を確認しているところがある。

 

だから、求められない時が怖い。

 

そこには、正解も役割もない。
褒められることも、責められることもない。


ただ、自分がそこに居るだけ。

 

でも、その「そこに居るだけ」が難しい。

何者かになろうとしなくてもいい。
何かを証明しなくてもいい。
誰かに認められなくてもいい。

そう言われたところで、簡単には信じられない。

 

だって私たちは、求められる視線の中で、自分を作ってきたから。

 

だから、求められない時、
人は自分の立ち方を失ってしまう。

 シンプルフレーズ

人は、求められる視線の中で自分を作る。
でも、求められない時は、ただそこに居るしかない。
そして人は、その“ただ在るだけ”に耐えられるほど、強くはない。