こんにちは、シンプル・フレーズです。

人と人の出会いは、合縁奇縁。 良くも悪くも、袖振り合うも他生の縁。

 

そんな言葉があるけれど、 結局のところ、最後にその縁を掴み取るのは いつだって「自分の意思」次第なんですよね。

 

「人間関係と出会いのリアル」について

昔から言われるように、誰と出会うかは自分では決められない。

 

学校の友人も、職場の同僚も、自分で自由に選べるものじゃない。

もっと仲良くなりたいと思っても簡単には距離は縮まらないし、離れたいと思っても簡単には離れられない。

今はリアルだけじゃなく、SNSやコミュニティ、マッチングアプリなど、出会いの場はたくさんある。

 

でも、出会いの入口が増えただけで、本当に繋がれる人はそんなに増えない。

 

人が深く付き合える人数なんて限られているし、覚えられる顔や名前にも限界がある。

だから、出会いを探すのは思っている以上に難しいって思いません?

  出会いは偶然。でも関係は偶然では育たない

だからと言って、待っているだけでは何も始まらない。

 

出会いは偶然。

 

でも、関係は偶然では育たない。

声を掛ける。

挨拶をする。

言葉を届ける。

人は言葉を使って関係を作る生き物なんだから。

 

ただすれ違うだけ。

「いいね」を押しただけ。

存在を知らせるだけのマーキングみたいな行為では、何も掴めない。

 

偶然は偶然のまま。

 

でも、その偶然のあとに言葉を届けることはできる。

そこから繋がるかどうかは分からない。

だからこそ、人との出会いは面白い。

  運命の出会いより、刺激的な出会いがいい

私は「運命の出会い」という言葉も少し不思議に思う。

もし運命が最初から決まっているなら、出会った人全員が運命の人になる。

 

それじゃあ、少しつまらない。

 

私は出会いって、もっと刺激的なものだと思いたい。

学校で初めて顔を合わせる日の緊張。

職場で自己紹介をする時の緊張。

 

「どんな人だと思われたいかな。」

「どんなキャラでいこうかな。」

 

そんなことを考えながら、一歩目を踏み出すあのドキドキ。

あれこそが、出会いの醍醐味なんじゃないかな?

  人は少しずつ、自分らしくなる

最初、人は少し演じる。

「見られたい自分」がいる。

 

理想で、幻想で、想像の中の自分。

そして、「見せたい自分」もいる。

 

今の自分ができる範囲で切り取った、現実の自分。

どちらも、自分が思い描いた自分自身だ。

 

言ってしまえば妄想(笑)🤣

 

でも、その妄想やエゴが人それぞれ違うから、人間って面白い。

やがて思うようにいかなくなる。

ボロが出る。

見せたい自分を演じ続けられなくなる。

理想にも届かない。

その時、妄想と現実の狭間から、その人だけの「らしさ」が見え隠れする。

 

私は、その「らしさ」に人は惹かれるんじゃないか?と思う。

 

完璧だからじゃない。

取り繕えなくなった、その人だけの現実が見えるからこそ、人は繋がっていく。

  正解を探すんじゃない。正解にしていく。

出会いに正解なんて無い。

 

「こうすれば良い友達ができる。」

「こうすれば運命の人と出会える。」

そんな答えは誰も持っていない。

 

だから、正解を探す必要もない。

 

偶然出会って、言葉を交わして、失敗して、笑って、ボロを出して、それでも関係を続けていく。

その積み重ねが、振り返った時に「あの出会いは正解だったね」と思えるだけなんだろう。

 

出会いに正解はない。

正解にしていくプロセスこそが、自分らしさを表現する。

だから私は今日も歩く。

……いや、歩くというより、絶壁をクライミングしている最中だけどね(笑)

 

落ちないように必死に登りながら、それでも前へ進む。

その先で誰かと笑い合えたなら、それもきっと、合縁奇縁なんだろうね。

いつだったか、誰かと私の趣味の話をした時にさ、

「神社に行って何するの?お参りしたら終わりじゃない?」って言われたことがあるのよね。

 

確かにその通り。お参り自体は一瞬で終わるし、アトラクションがあるわけでもない。

 

でもさ、神社巡りが大好きな私から言わせれば、

「お参りして終わり」なんてもったいなすぎるのよ! 

「何しに行くの?」って聞かれたら、もうこれしか言えないんだよね。

 

「神社を楽しみに行っているんだよ!」って。 

まあ、伝わらないんだけどね(笑)。



「私は神社が好きだから行くんだよ」

でも、私にはその質問がちょっと不思議だった。

「神社に何しに行くの?」

「え?神社を楽しみに行くんだよ?」

これが私の答え。

 

私は神社巡りが好きで、御朱印も集めている。

写真も撮るし、ご神木も眺める。

境内を散策して、彫刻や建物を見て、「この狛犬、他と全然違うな」なんて楽しんでいる。

花手水が綺麗だったら嬉しいし、池や川があれば眺める。

町中の小さな神社も好きだし、誰も居ない村社も好き。

何か一つが目的じゃない。

全部ひっくるめて、「神社を楽しんでいる」。

 



だから、「何するの?」って聞かれても、説明しづらいんだよね。

 

  趣味って、そういうものじゃないかな?

ゲームでも、料理でも、音楽でも、お酒でも、推し活でも、聖地巡礼でも同じ。

 

外から見れば「何が楽しいの?」って思われることでも、本人は夢中になっている。

 

人には分からない楽しみを見つけて、自分だけの価値を乗せていく。

それが趣味なんだと思う。

 

共有できる誰かと出会えたら、それはとても幸運なこと。

でも、出会えなくたって構わない。

 

自分が楽しくて満足しているなら、それで十分だから。

 

そして、趣味って人との出会いにも少し似ている。

 

出会いは偶然。

でも、好きになるのは偶然じゃない。

 

時間を重ねて、一緒に笑って、いろんな思い出が積み重なって、「好き」が育っていく。

 

趣味も同じ。

偶然出会った神社が好きになったり、ゲームが好きになったり、お酒が好きになったり。

 

その出会いを、自分だけの大切な時間にしていくのは、自分の感情であり、自分の意思なんだ。



  だから私は、今日も神社を味わい尽くす!

私は神社が好き。

神話や神様の話は昔から好きだった。でも、宗教や信仰とは違う。

教えや教義が好きなわけじゃない。

ただ、神社が好き。

 

それだけ。

理由を並べることはできる。

でも、一番しっくりくる理由は、やっぱりこれなんだ。

「私は神社が好きだから行くんだよ。」

 

好きって、案外それだけで十分なんじゃないかな?

 

私は、普通に参拝して、境内をのんびり散策する。


礼儀作法?そんなの知りません!(笑)

 2礼2拍手1礼がスタンダードなんだろうけど、神社によって違ったりするじゃない?

イチイチそこまで把握できないよって思うわけ。神様だって作法が違ったくらいで怒らないでしょ?

ってスタンスで、気楽に楽しんでる。

 

境内に入れば、そこはもう見どころしか無いのよ!

職人さんの遊び心が詰まった、いろんなポーズの狛犬を探したり。

 

 圧倒的な生命力のご神木を堪能したり。 

「映え狙ってるな〜(笑)」って花手水を眺めたり。 

お守りやおみくじは買わずに「見てるだけ〜」をしたり。

観光地!ってところじゃなくて、町の中の誰も来ないような小さな村社にふらっと行って、

横の公園から聞こえる子供の声をBGMに「地域の雰囲気」を感じるのも最高に楽しい。

 

丸太橋があれば嬉しいし、鳥居の朱色が綺麗ならそれだけでハッピーじゃん?

 

  次の「好き」を積み重ねに

観光として消費するんじゃなくて、ただそこにある空間を五感で楽しむ。 

これが私の「極上の散策」なの。

 

ちなみに、私が次に行きたいのは、遠州森町の「遠江国一宮 小國神社」!

あそこ、本当にいいとこなんよ!

 

また新しい偶然と、最高のトロフィー(直書き御朱印)を求めて、大好きな空間をのんびり歩いてきます。

誰になんと言われようと、「好きだから行く」。

 

 これ以上の理由なんて、本当にいらないんだよね!


 シンプルフレーズ

好きに理由はいらないって誰もが言う。

それでも、好きになる前には必ず出会いがある。

出会いはきっと偶然だろうし、必然の時もあるかもしれない。

そこから、相手を、モノを、何かを、好きになっていくのは

触れ合う中での積み重ねと、発見の連続の時間が作り出してくれる感情だ。

 

好みは大切にして欲しい。

それは、自分が積み上げて来た大切な時間の集大成だろうから。

先日の会社での議題。

「浮気しない男は居ないのか!?」

 

職場のあちこちで白熱する議論を眺めながら、私の結論は最初から決まっていた。

「私的には、居ないね。」

……いやいや、ちょっと待ってくれ。(笑)

 

最後まで読んでから石を投げて欲しい。

私は浮気を擁護したいわけじゃない。

 

むしろ逆だ。

「浮気しない関係って素敵だよね。」

って話をしたい。

 

「浮気しない人」は居るのか?

私は、この問題?質問?自体が少し違うと思っている。

「浮気しない男は居るか?」

じゃなくて、

「浮気できる状況を作らない人は居るか?」

こっちの方が本質なんじゃないかな。

 

人ってさ、状況や環境に流される生き物なんだよ。

そこに男も女も関係ない。

欲望だってある。

本能だってある。

魅力的な人を魅力的だと思うことまで否定はできない。

 

だから私は、

「絶対に浮気しません。」

という自己申告だけで安心できるほど、人間を信用していない。

 

だって、人は利己的だもの。

メリットに弱い。

環境に流される。

都合の良い言い訳なんて、いくらでも作れる。

  「私はしない」は、誰の努力?

もちろん、

「私は浮気しない。」

そう思っている人もいるだろう。

 

それは全然否定しない。

でも、それだけで関係が続くと思ってしまうのは、少し違うと思うんだ。

 

だって、それって結局、

相手の意思と価値観に全部丸投げしているだけだから。

「私はしないから、あなたもしないでね。」

「あなたなら大丈夫。」

それって信頼なんだろうか?

 

私は少し違うと思う。

 

むしろ、

依存なんじゃないかな?

 

相手が誘惑に勝つこと。

相手が良心を持ち続けること。

相手が自分を思い出し続けてくれること。

全部、相手任せ。

 

それを私は、

「浮気しない人を探している」

というより、

「浮気しないことを相手に依存している」

ように見えてしまう。

  私が好きなのは「浮気しない関係」

だから私は、

「浮気しない男」

より、

「浮気しない関係」

の方が好きなんだ。

 

恋愛も結婚も、一人で作るものじゃない。

共同体なんだ。

だから、

理解も、

譲歩も、

協力も、

努力も、

全部、お互いに必要なんだと思う。

 

相手だけに要求して、

自分は何もしない。

それじゃ共同体じゃない。

 

依存だ。

 

パートナーなのか?

宿主なのか?

 

好きに呼んだらいいさ。(笑)

  努力って、もっと具体的でいい

努力って言うと、

「愛情を伝えましょう。」

「コミュニケーションを大切に。」

そんな綺麗な言葉ばかり並ぶ。

 

私は、もっと具体的な話が好きだ。

 

例えば・・・

同じアクセサリーを身につける。

スマホの暗証番号を共有する。

予定を共有する。

相手の予定があるなら送迎をしにいく。

一緒に旅行のための貯金をする。

次はどこへ行こうかって話をする。

一緒の目標を持つ。

私は、こういう努力の方が好きだ。

 

一緒に時間を共有する。

一緒に未来を作る。

 

相手が独り身のような感覚になる時間を減らしていく。

「帰ったらあの人がいる。」

「今度の休みは旅行だ。」

「一緒に貯金してるんだ。」

そんな思い出や予定が、人を繋ぎ止めるんじゃないかな?

 

  努力と管理は違う!勘違いしないでね?

ここを勘違いして欲しくない。

 

私は、

位置情報を強制しろ。

メッセージを見ろ。

SNSを制限しろ。

なんて話をしているんじゃない。

 

それは一方的な要求になりやすい。

私は、それを管理と呼ぶ。

 

でも、

双方が理解して、

双方が譲歩して、

双方が納得して、

「共有しよう。」

となるなら話は別だ。

 

私は、

一方的な要求を管理と言い、相互理解を努力って言うんだ。

行動そのものじゃない。

大切なのは、

お互いが納得しているかどうか?

そこなんだと思う。

  相手に求めるなら、自分も差し出す

「浮気しないでね。」

もちろん!!!、そう思う。

私だって思う。

 

でも、

相手に求めるなら、

自分も出来るだけの開示と提示をしないと始まらない。

 

『私はしません。』

……自己申告だけなら、何とでも言える。

ペルソナなんて使い放題だ。

 

だったら、

お互いに見せられるものは見せる。

お互いに共有できるものは共有する。

お互いに譲歩できるものは譲歩する。

 

その積み重ねが、

信用になり、

信頼になり、

「この人と一緒に居たい。」

に変わっていくんじゃないかな。

 

  恋は盲目。でも、共同体は現実だ

恋は盲目。

だから、

「好きだから大丈夫。」

って思いたくなる。

 

でも、共同生活は現実なんだ。

 

人は利己的だ。

欲望もある。

誘惑もある。

環境にも流される。

だからこそ、

私は、

「浮気しない人」を探すより、「浮気しない関係」を育てたい。

その方が、よっぽど現実的だと思うから。

お互いを理解する。

お互いに譲歩する。

お互いに協力する。

お互いに努力する。

そして、一緒に時間を共有していく。

 

私は、それが一番素敵なパートナーシップなんじゃないかと思う。

 

だから今日の議題、

「浮気しない男は居ないのか?」

私の答えは最後まで変わらない。

「私的には、居ないね。」

でも、それは人間を諦めているからじゃない。

むしろ逆だ。

人は弱い。

人は利己的だ。

人は環境に流される。

だからこそ、

お互いが「浮気しない関係」を一緒に作っていく。

その努力を惜しまない二人なら、私は何より素敵だと思うんだ。

 

8月おとめ座の総合運

おとなしく過ごすのが得策

予定通りに物事が運ばない月です。
できるだけおとなしくしているほうが得策で
す。じっと様子をうかがっているうち、
運気が上昇する兆しが見えてくるでしょう。

提供元:Ameba占い館SATORI

今日も相変わらず、世界の理不尽と正面衝突しながら、左斜め上を観察してます。

ここ最近、「人が人をコントロールしたがる理由」についてずっと考えてたんだけどさ。

 

結局、人間って本質的にみんな利己的なんだよね。

自分の都合の良いように物事を運びたいし、自分の思い通りになって欲しいって誰もが願ってる。

 

本当に、人間ってバカだよね(笑)

強者のルールと愛想笑い、そして私の秘密基地

人って、人をコントロールしたがるんだ

自分の思い通りにしたい。
自分の都合の良いように物事を運びたい。

上司が部下に。
親が子に。
先輩が後輩に。
先生が生徒に。

「ルールだから」
「マナーだから」
「常識だから」
「規律だから」

物は言いようだよね。

結局さ、強い方の言うことを聞くしかないのよ。

辛いよね。

もう嫌だって思う時もある。
嫌いだって思う時もある。

だって、私も利己的だもの。

都合の悪い上司もいらない。
都合の悪い親もいらない。
都合の悪い先輩もいらない。

そう思うのは、ある意味で必然なんじゃないかな。

 

  言いたいことが言えるのは、自由じゃない

「言いたいことを言えるって、自由なことだ」

そんなふうに思っていた時期もあった。

 

でも、今はちょっと違うと思っている💦

 

言いたいことが言えるのは、自由というより力関係なんだよね。

だって、上司には言えるけど部下には言えないことがある。

親には言えるけど、子供から同じことを言われたら腹が立つこともある。

先生が生徒に怒ることは許されても、生徒が先生に同じように怒れば問題になる。

同じ言葉でも、誰が誰に言うかで意味が変わる。

 

だから、言いたいことを言えるというのは、ある意味で特権なんだと思う。

 

怒りって、水と同じなんじゃないかな?

高いところから低いところへ流れていく。

強い人が弱い人に怒る。

弱い人は、その怒りをさらに弱いところへ流す。

 

そして、その流れの中で、誰かが誰かをコントロールする。

人間は利己的だから、自分の都合の良いようにしたい。

だから強権を振るう。

でも、人間は利己的だからこそ反発もする。

「俺の都合を押し付けるな」

って思う。

 

これが面白い🤣www

 

  ある日の会社での一コマ

先日、会社でこんなやり取りがあった。

 

「時間です。ちゃんと時間内に終わらせてください。決まった時間があるんで、そのように動いてください」

「終わりません。すみません」

「知りません。時間は決まってます。仕事なんで時間内に終わらせるようにしてください」

「分かりました・・・」

 

(え? その仕事をする時間をください?)……って思った。

いや、こっちも知りませんよ?

終わらなくても知りませんよ?

 

だって、終わらせろと言うなら、その仕事をする時間をくださいよ。

 

時間内に終わらない仕事を、時間内に終わらせろ?

終わらなかったら、こっちの責任?

(アホなんですか?)

 

でも、終わらせるための時間は、こっちでは決められない?

 

これって、結局は力関係なんだよね。

 

上司の「時間内に終わらせろ」は、会社のルールになる。

私の「その仕事をする時間をください」は、ただの言い訳になる。

どっちも自分の都合を言っているだけなのに。

 

  私も利己的だから

私は、上司だけが利己的だと言いたいわけじゃない。

 

人間は利己的なんだ。

上司は上司の都合がある。

会社には会社の都合がある。

部下には部下の都合がある。

 

私にも私の都合がある。

 

だから私は、都合の悪い上司なんていらないと思う。

私の都合の悪い人間にまで、私が合わせ続けなきゃいけない理由なんてないと思う。

 

でも、弱者の私は強者をコントロールできない・・・

 

ここが現実なんだよね。

だから、今まで私は何度も抗おうとして、躓いて、苦しんで、そして排除される側になってきた。

「嫌なものは嫌だ」

「おかしいものはおかしい」

「納得できないものは納得できない」

そうやって真正面からぶつかれば、そりゃ負ける。

 

だって、力が違うんだから・・・(´;ω;`)ウゥゥ

  だから今なら言える

愛想笑いって、最強のツールなんじゃないか?

 

顔で笑って、心で泣く。

「ごめんなさい」

「すみません」

「申し訳ございません」

そうやって荒波をかわしていく。

 

マインドフルネスも、スピも、自己啓発も、何も役になんて立たない。

少なくとも、その瞬間に自分を守ってくれるのは、そんな立派な言葉じゃない。

ただ、その場で笑顔。

ただ、頭を下げる。

ただ、やり過ごす。

 

それでいい。

 

別に納得してなくてもいい。

 

心の中では、

「知らんがな」

でもいい。

 

だって、相手を変えられないんだから。

だったら、自分の出し方を変える。

それも一つの戦い方なんだと思う。

 

  でも、うっぷんは溜まるんよ

ただし、これには当然、代償がある。

顔で笑って、心で泣く。

その場は荒波を交わせる。

でも、怒りは消えない。

悔しさも消えない。

吐き出せない思いもある。

どうしようもない感情も溢れてくる。

 

愛想笑いをしたからって、心の中まで笑顔になるわけじゃない。

 

「すみません」と言ったからって、本当に自分が悪いと思っているわけじゃない。

むしろ、

「なんで私が謝らなきゃいけないんだよ」

って思っているかもしれない。

 

でも、言わない。

言えない。

言ったところで、こっちが損をする。

 

だから笑う。

それで生き残る。

でも、吐き出せないものは、どこかに溜まっていく。

 

だからこそ、私はもう一つの居場所が必要なんだと思う。

  もう一つの居場所

創作でもいい。

SNSでもいい。

配信でもいい。

非日常で、非現実の世界。

普段の自分とは違う場所で、自分を吐き出す。

 

会社では「すみません」と言っている私が、創作では好き勝手言っていい。

会社では愛想笑いをしている私が、SNSでは毒を吐いてもいい。

普段なら飲み込んでしまう感情を、別の場所に出していい。

それは、逃げじゃないと思う。

現代の蘇生術であり、サバイバル戦術なんじゃないかと思う。

一つの場所で全部の自分を生きようとしない。

それでいいんじゃないか。

 

  2面性? 良いじゃないか

 

「二面性がある」

「本当の自分を隠している」

「ペルソナなんて偽物だ」

そんなことを言われるかもしれない。

でもさ。

2面性?

良いじゃないか。

だって、私は利己的だもの。

私の都合の良いペルソナくらい使いますよ。

会社で使う私。

家で使う私。

友達といる時の私。

創作している私。

SNSで好き勝手言っている私。

 

どれが本物で、どれが偽物なんて、そんなことどうでもいい。

全部、私なんだから。

 

強者は、人をコントロールする。

弱者の私は、ペルソナを使いまわして、強者の利己的な人間性と折り合いをつける。

相手を変える力がないなら、自分の出し方を変える。

 

相手に合わせることだってある。

笑うことだってある。

謝ることだってある。

 

でも、それで私の全部が決まるわけじゃない。

吐き出す場所は、別に持っておけばいい。

  強者が強いから正しい世界で

権力と正しさなんて、簡単に区別できない。

強い方が正しい。

勝った方が正しい。

歴史なんて、そういうところがある。

もちろん、本当に正しいかどうかなんて別の話だ。

 

でも、何を正しいこととして通すのか。

何をルールにするのか。

誰の言葉が「常識」になるのか。

そこには、どうしたって力が関わっている。

核を使ったアメリカにも国連がある。

強い国が、世界のルールを作る側にいる。

 

会社だって同じだ。

強い立場の人間の「都合」が、「ルール」や「常識」という名前を与えられることがある。

 

だから私は、もう「正しさ」だけで戦おうとは思わない。

正しいかどうかなんて、力関係の前では簡単にひっくり返るから。

 

だったら私は、私のやり方で生き残る。

愛想笑いでもいい。

「すみません」でもいい。

ペルソナでもいい。

創作でもいい。

SNSでもいい。

配信でもいい。

顔で笑って、心で泣いて、それでも別の場所では思いっきり吐き出す。

 

それでいいんじゃないかな?

だって私は利己的だもの(笑)

私の都合の良いように、自分くらい使い分けますよ。

強者が人をコントロールするなら、弱者の私はペルソナを使う。

それもまた、私が生き残るための戦術なんだから。