人生は取捨選択の連続。

常に何かを選んで、決めて、時間を進めていく。

 

その時の基準って、なんだろうね?

好きだから選ぶ。
嫌いだから選ばない。
必要だから残す。
要らないから捨てる。

 

まあ、分かりやすい。

 

でも、そのどっちでもないモノってあるじゃない?

「特別好きじゃないけど、別に嫌じゃない」

私は、この感情って結構大事なんじゃないかと思うんだ。

 

何気なく選んでいる自分を発見する話

私には結構ある。好きでも嫌いでもない。

どうでもいいわけでもない。

かといって、特別でもない・・・微妙とまではいわないけど

 

特別好きじゃないし、嫌いとは思は無いし、普通なコト。

麦茶とか

ポップコーンとか

お笑い芸人とか

冷蔵庫の種類とか

一人で食べる晩御飯とか・・・

そういうの、別に適当だけど嫌いじゃないし、特別好きじゃないみたいな?ね?

  「好き」って、どこから来たんだろう?

そもそも、好きになる理由ってなんだろうね?

好みって、どこから生まれるんだろう?

 

食べ物なんか分かりやすい。

家庭でよく食べていた料理。
親が美味しそうに食べていたモノ。
子どもの頃から何度も食卓に並んでいたモノ。

 

もちろん、それだけで好みが決まるわけじゃない。

 

それでも、ある程度は影響されるだろう。

だって、好きなモノって誰かに伝えたくなるじゃない?

 

親が刺身好きなら、

「美味しいよ!食べてみな!」

って子どもにも食べさせるだろうし、

 

逆に親が嫌いなモノなら、

「私はこれ苦手なんだよね」

なんて話もする。

 

人間関係だって似たようなところがある。

自分の大切な人が誰かを好きなら、その人に好印象を持ちやすい。

 

逆に大切な人から、

「あの人、本当に嫌い!」

なんて話を延々と聞いていたら、一度も会ったことがないのに警戒することだってあるだろう。

 

つまり、私達の「好き」と「嫌い」には、自分だけではなく、今まで関わってきた人や環境の影響も混ざっている。

それも含めて自分なんだけどね。

 

  じゃあ、「普通」は?

そこで気になった。

「別に嫌じゃないよ」

っていう感情。

 

好きってほどでもない。
嫌いでもない。
普通。

この何ともハッキリしない感情(笑)

 

でも、ここにその人のカラーが出るんじゃないかな?

 

例えば、麦茶。

「麦茶が大好きです!」

って言うほどでもない。

かといって、

「麦茶なんて絶対飲まない!」

でもない。

 

冷蔵庫を開けて麦茶があれば普通に飲む。

水と麦茶があったら、なんとなく麦茶を取る。

 

「なんで?」

って聞かれても、

「いや……別に嫌じゃないから」

くらいしか出てこない。

 

でも毎回、麦茶を選んでいる。

それって面白くない?

 

  理由より先に、自分が選んでいる

好きなモノには理由をつけられる。

嫌いなモノにも理由をつけられる。

 

でも、

「なんとなく、こっち」

には、たいした理由がない。

 

もちろん本当は、過去の経験や習慣なんかに影響されているのかもしれない。

 

それでも、その瞬間の自分はそんなこと考えていない。

服を選ぶ時。

ご飯を選ぶ時。

いつも座る席。

休日に向かう場所。

人との距離感。

 

どっちでもいいはずなのに、気が付けばいつも似たような方を選んでいる。

 

「なぜ?」

なんて考えていない。

 

ただ、こっち。

私は、こういう選択に意外とその人が出ている気がするんだ。

  自分らしさって、そんなものかもしれない

私達は「自分らしさ」を探そうとすると、

何が好き?
何が嫌い?
何を大切にしている?
どんな価値観を持っている?

そんなハッキリした答えを探したがる。

 

でも、自分らしさってそんな立派な看板じゃないのかもしれない。

 

むしろ、

何も考えずに手に取ったモノ。

なんとなく選んだ服。

気が付けばいつも座っている場所。

別に大好きじゃないのに、ずっと使っているモノ。

 

「好きじゃないけど、嫌じゃない」

そうやって理由に左右されず、自然に選び続けているモノ。

 

その小さな選択を並べてみたら、

「ああ、私ってこういう人なんだ」

って見えてくるのかもしれない。

 

自分らしくしようとしなくていい。

だって、自分らしくしようと思った瞬間、

「自分らしくしなきゃ」

っていう理由に左右されちゃうから(笑)

好きでもない。

嫌いでもない。

なんとなく、こっち。

何も考えずに選んでいるものには、

意外とその人が出ている。

私は、そんな何気ない選択の中にある自分も、結構好きだと思う。

自分の人生に意味を持たせるのは自分自身だ!

なんてよく聞く言葉。

でも、意味を持たせるとか言う前に、消してしまいたくて・・・忘れてしまいたい過去何て誰でもあるんじゃない?

 

少なくとも私にはあるよ。

黒歴史?数えきれないね・・・

意味を与えるより、消してしまいたいさ

無意味から有意味へ~意味があるから人生になる

 

その人生っていう道のりを、どう見て、何を思って、何を感じるのか。

そして、そこに意味を持たせるのは自分だ。

私は最近、そんなことを考えていた。

人生を振り返る時って、どうしたって自分の感情や記憶に引っ張られる。

 

嫌だったこと、辛かったこと、失敗したことばかり思い出しながら振り返れば、

「なんて過酷で、辛くて、残念な人生だったんだろう」

って思うだろう。

 

逆に、楽しかったことや嬉しかったことを思いながら振り返ることが出来れば、

「まぁ、悪くない道のりだったな」

くらいには思えるかもしれない。

 

結局、同じ人生でも、どう見るかで随分変わってしまう。

だからこそ私は、「見る」っていう行為そのものが大切なんじゃないかと思う。

 

  消せるなら、四の五の言わずに消す

今までの道のりから目をそらしたくなる気持ちは、痛いほど分かる。

私だって、忘れたい過去なんて枚挙に暇がない。

黒歴史なんて山ほどある。

 

例えば、若い頃。

酔っ払って道路で寝てしまって、起きたらゲロまみれ。

 

……うん。

最悪だね。

完全なる黒歴史。

 

出来ることなら記憶ごと消してしまいたい。

 

「過去も大切な経験です」

なんて言われても、

いや、消せるなら消すよ。

 

四の五の言わずに消す。

 

でも、消えないんだよ。

これが厄介なんだ。

忘れたつもりでも、ある時突然思い出す。

 

しかも、そういう時ほど思考はネガティブに走って、頭の中でクルクル回る。

「あー、最悪だったな」

「なんであんなことしたんだろう」

って。

 

だったらもう、見るしかない。

 

  最悪には、最悪という意味を持たせればいい

私は別に、過去に良い意味を持たせようなんて思っていない。

 

悪いことには、悪い意味でいい。

失敗は失敗。

最悪だったことは最悪。

恥ずかしかったことは恥ずかしい。

 

それでいい。

 

大切なのは、良い意味に変えることじゃない。

無意味だったものに、意味を持たせること。

 

「あれは最悪だった」

これだって立派な意味だ。

 

「あれは二度と繰り返したくない」

これも意味。

 

「あれで酒の限界を知った」

これも意味。

 

「あの頃は若かったな」

って、笑い話になるなら、それも意味。

 

別に武勇伝にしなくてもいい。

美談にしなくてもいい。

正当化なんてしなくていい。

 

ただ、

「あれは何だったのか?」

って、自分で見て、自分で意味を持たせればいい。

 

私のゲロまみれ事件だって、出来事そのものは今でも最悪だ。

でも今では、飲みすぎ注意の経験でもあるし、酒を知った経験でもあるし、若気の至りの笑い話でもある。

 

最悪だった出来事が、善い出来事に変わったわけじゃない。

 

ただ、

無意味じゃなくなった。

 

  意味を持たせるから、道のりは人生になる

たぶん、ここなんだと思う。

 

人は生まれてから死ぬまで、ずっと何かを経験している。

働いた。

失敗した。

誰かを好きになった。

別れた。

傷ついた。

笑った。

泣いた。

後悔した。

ただ、それだけなら出来事が並んでいるだけだ。

 

時間が流れて、道を歩いてきただけ。

 

でも、

「あれは私にとって何だったんだろう」

「私はあの時、何を感じていたんだろう」

「今の私は、あの出来事をどう思うんだろう」

そうやって見つめた時に、初めて意味が生まれる。

 

そして意味を持った時、

ただ歩いてきただけの道のりを、

「私の人生だった」

って呼べるようになるんじゃないかな?

だから私は、目をそらしたままの出来事って、まだ人生になっていない気がする。

消したいだけの黒歴史。

触れたくない過去。

思い出したくない出来事。

そこには、まだ自分の意味がない。

 

でも、

「くそっ」

って思いながらでも見る。

 

「このやろー」

って思いながらでも掘り返す。

 

「本当に最悪だったな」

って言いながらでも見る。

 

そうやって意味を持たせた時に、ようやく自分の道のりの中に置くことが出来る。

 

  人生に価値を求めなくてもいい

意味と価値は違うと思う。

 

意味は、自分で持たせることが出来る。

 

でも価値って、たぶん他人との関係の中で生まれる。

必要とされる。

評価される。

交換される。

誰かが「欲しい」と思う。

 

そういう時に価値は生まれる。

 

だから、

「私の人生には価値があったのか?」

なんて考えなくてもいいんじゃないか?

 

誰かの役に立ったか?

何かを残したか?

成功したか?

認められたか?

 

そんなことを人生そのものに求めなくてもいい。

 

  人生に必要なのは、価値じゃなくて意味なんじゃないかな。

 

意味なら、自分で持たせることが出来る。

良い意味でもいい。

悪い意味でもいい。

最悪でもいい。

くだらなくてもいい。

無意味だったものを、有意味に出来る。

 

そして、その意味の積み重ねが、

ただ歩いてきただけの道のりを、

人生にしていく。

 

だから、最後に自分の歩いてきた道のりを見た時に、

「色々あったな」

「最悪なこともあったな」

「楽しかったこともあったな」

「でも、まぁ、全部私の人生だったな」

って言えたら、

それで善く生きたって言えるんじゃないかな?

 

それを人生って呼ぶんだと思うよ。

少なくとも私は、そう思いたい。

まぁ、本当に消せる黒歴史があるなら、

意味なんて持たせずに、迷わず消すけどね。

 

だから、「自分の人生に価値を求めるな!」って言いたいね。

人と人の繋がりや関係って、きっと妥協点探しなんだと思う。

お互いに譲れない部分はもちろんある。

何に癇に障るのか?
何が琴線に触れるのか?
どんな言葉がどう伝わって、どう感じられて、どう受け取られるのか?

そんなもの、全部分かるはずがない。

 

相手のことを知ることは出来る。
でも、相手の全部を知ることなんて出来ない。

 

だからこそ、私は人間関係って「分かり合うこと」よりも、どこで折り合えるかを探すことの方が大切なんじゃないかと思っている。

 

  人は「譲る理由」を作っている

妥協って聞くと、なんとなく我慢とか負けとか、そんな印象がある。

 

でも、私はそうは思わない。

 

人が誰かに譲る時って、その人に屈しているんじゃなくて、

「今回はまあいいか」

って、自分が譲ってもいい理由を作っているんだと思う。

 

好きだから。
家族だから。
親だから。
上司だから。
今回は相手の方が詳しいから。
喧嘩するほどでもないから。
昨日は自分が譲ってもらったから。

好みでもいい。
立場でもいい。
ルールでもいい。
モラルでもいい。
メリット、デメリットでもいい。

何を理由にするかは人それぞれだ。

 

大切なのは、自分がその結果を引き受けられる理由があることなんだと思う。

 

妥協って、真ん中を取ることじゃない。

自分が納得出来る落としどころを探すことなんだ。

  どうしても譲れない時もある

もちろん、いつでも譲れるわけじゃない。

 

相手が一歩も引かない時もある。

こちらが引けば引くほど、どんどん押し寄せてくる人もいる。

癪に触ってしょうがない。
どうしても許せない。
譲る理由なんて一つも見つからない。

 

そんな時は、戦うしかないことだってあると思う。

 

でも、戦い方だって一つじゃない。

逃げる。
離れる。
外部に頼る。
仲間を増やす。
正面からぶつかる。

全部、選択だ。

夫婦喧嘩なんて、もうやるしかない時だってあるだろうからね💦

 

ただ、私はその先が大切だと思う。

 

やりきって許せるならいい。
お互いに譲歩が出るならいい。
相手に譲らせるでも、自分が譲るでもいい。

 

その後に落としどころが見つかるなら、関係は続いていく。

 

逆に、それがどうしても見つからない時は、関係が終わる時なのかもしれない。

 

私の経験からの意見だよ・・・。

  「分かり合う」って本当に出来るのか?

私は、人と人が完全に分かり合うなんて無理だと思っている。

一緒にいれば、相手のことは少しずつ分かってくる。

何を嫌がるのか。
何に喜ぶのか。
どこで怒るのか。
何を大切にしているのか。

でも、その奥にあるものまで全部知ることなんて出来ない。

 

「私を知って」
「あなたを知りたい」
「お互いに分かり合おう」

そうやって、ずっとお互いだけを見続ける関係って、私はかなり難しいと思う。

 

だって、分かり合えないことの方が多いから💦

 

  それでも「分かり合える」と思いたい時がある

ただ、一つだけ。

私なりに「分かり合える」と思いたい形がある。

 

それは、同じ目標や目的に向かっている時だ。

 

運動会で勝つ。
演劇や舞台を成功させる。
一人一人がそれぞれの役をこなして、同じ場所を目指す。

 

そんな時は、それぞれの意志も価値観も違っていていい。

表現も方法も違っていていい。

 

ただ、同じ方向にベクトルを向けることが出来る。

 

その時は、相手に譲っているんじゃない。

伴走しているんだと思う。

私は私の役割を果たす。
あなたはあなたの役割を果たす。

 

そして、その先に同じ目的地がある。

相手に期待して、信頼して、その歯車がかみ合う時って、きっとそういう時なんじゃないだろうか?

 

  恋愛は向き合う時間

恋愛は、きっとお互いと向き合う時間なんだと思う。

 

相手を知り始める段階だからね。

何が好きで、何が嫌いなのか。
何を大切にしているのか。
どこで笑って、どこで怒るのか。

そうやって相手を知ろうとする。

 

でも、その中で本当に知るのは、

「この人の全部を知ることなんて出来ない」

っていうことなのかもしれない。

 

だから恋愛って、分かり合うための時間というより、

分かり合えないことを知っていく時間なんだと思う。

 

  夫婦は同じ未来を見る時間

その上で夫婦になるんだとしたら、今度はお互いだけを見続けるんじゃない。

 

恋愛の中で知ったズレも、違いも、分かり合えなさも踏みしめて、

「じゃあ、この二人でどこに向かう?」

って未来を見る時間なんだと思う。

 

恋愛では、

私とあなたが向き合う。

夫婦になったら、

私も未来を見る。
あなたも未来を見る。

同じ方向を見ながら歩いていく。

 

もちろん、夫婦になっても向き合う時間は必要だ。

 

でも、ずっと

「私を分かって」
「あなたをもっと知りたい」
「なんで分かってくれないの」

だけでは、きっと苦しくなる。

 

お互いを理解し切ることよりも、

この二人でどう生きるか?
何を大切にするか?
どこまで歩いていくか?

そっちの方が、ずっと大切なんじゃないだろうか?

  幸せは「なっていく」もの

私は、幸せって掴むモノでも、手に入れるモノでも、与えられるモノでもないと思っている。

幸せは、なっていくものだ。

 

結婚した瞬間に幸せになるわけじゃない。

理想の相手を見つけたから完成するわけでもない。

相手を全部理解出来たから幸せになるわけでもない。

 

分かり合えないことを知る。

譲れないところを知る。

それでも、譲れる理由を探す。

時には喧嘩する。

離れる。

また向き直る。

 

そして、同じ方向を探す。

 

その積み重ねの中で、幸せになっていくんだと思う。

分かり合えるから一緒にいるんじゃない。

分かり合えないことを知った上で、それでも同じ未来を見て歩いていく。

夫婦って、きっとそういう関係なんじゃないだろうか?

人は、総じてネガティブな面を持っている。

 

悪いことの方が気になるし、嫌なことの方が記憶に残る。

褒められたことは忘れるのに、たった一度言われた嫌味だけは何年経っても覚えていたりする。

心理学では、こういう傾向を「ネガティブバイアス」と呼ぶらしい。

 

そして、こと日本人においては、この傾向が強くなりやすい環境で育っているんじゃないか?と私は思う。

 

ネガティブを感じたらそのままアクションに変える!

出来ることは出来る事だけなんだよ。

知っていることは知っている事だけなんだよ。

持てるモノは持てる分だけ。

それなのに、アレコレ考えて、悪い方に意識が言ってしまうのは悲しいかな。

私達の現実が目の前にあるからだよね。

  失敗を恐れるように出来上がっていく

出来たことを褒めるより、出来なかったところを指摘される。

失敗すれば叱られる。

間違えれば恥をかく。

迷惑をかけるな。

失敗するな。

ちゃんとしろ。

そんなものを幼い頃から積み上げられていけば、そりゃ失敗を恐れるようになる。

 

「出来なかったらどうしよう」

「間違えたらどうしよう」

「怒られたらどうしよう」

チャレンジする前に、不安と心配が先に立つ。

 

まぁ、当然と言えば当然なんだろう。

 

あるスピリチュアル系の人が、人の感情も上から下へ落ちていくようなもので、重い感情ほど下に溜まり、ネガティブなものほど強く影響する、みたいな話をしていた。

・・・そこから使命だの加護だの、ネガティブからの解放だのという話になったので、そこは置いておく。

 

でも、「悪いものほど強く残る」という感覚自体は、なんとなく分かる。

  ただの出来事に、勝手に答えをつけてしまう

連絡が来ない。

いつもよりそっけない。

返事が短い。

急に雨が降ってきた。

 

本来なら、それだけの出来事だ。

 

なのに頭の中では、

「嫌われた?」

「何か悪いことしたかな?」

「怒ってる?」

「運悪すぎる」

「やっぱり私はダメなんだ」

と、勝手に話が大きくなっていく。

 

でも実際には、忙しいだけかもしれない。

疲れているだけかもしれない。

返信を忘れているだけかもしれない。

雨だって、天気予報を見ていなかっただけかもしれない。

 

それでも、人は早く答えを欲しがる。

 

分からない状態が嫌だから、理由を簡単に作ってしまう。

そして一番手っ取り早いのが、

「自分が悪かったのかな?」

なんだと思う。

 

自分を責めれば、とりあえず理由は完成するから。

  「考えないようにする」なんて無理だろう

そこでよく言われることがある・・・

考えすぎない。

決めつけない。

ありのままを受け入れる。

ポジティブに考える。

手放す。

 

・・・いやいや。

どこの無我を目指してるんだよ?、と思う。

 

出来るなら最初から苦労していない。

出来上がった思考パターンなんて、一朝一夕で変わらない。

幼い頃から積み上げてきた不安や失敗への恐怖を、自己啓発の動画一本で消せるわけがない。

 

だから私は、解決しようとしなくても良いんじゃないか?と思う。

 

ネガティブになったっていい。

不安になったっていい。

心配したっていい。

ただ、一つの選択肢として私が思うのは、

考えるより、行動してしまえばいい。

ということだ。

  考える前に、現実に触れてしまえばいい

連絡が来ない。

「嫌われたかな?」

「怒ってるかな?」

「昨日のあれかな?」

 

と一人でグルグル考えるくらいなら、

「え?なんかあった?」

って聞けばいい。

 

元気がないなら、

「どした?大丈夫?」

って言えばいい。

 

急に雨が降ってきたなら、

「あぁぁぁぁ!傘忘れた!走れ俺!」

でいい。

 

そこで人生まで悲観しなくていい。

走ればいい。

濡れたら濡れたでいい。

転んで痛かったら泣けばいい。

勘違いなら笑えばいい。

自分が悪かったなら謝ればいい。

相手が悪かったなら怒ったっていい。

 

起きてから感じたままに行動すればいいんだ。

考える為に、起こしてしまえばいいんだよ!

  いい子ちゃんでいようとするから動けない

みんな少し、いい子ちゃんでいようとしすぎなんじゃないか?と思う。

 

間違えないように。

嫌われないように。

怒られないように。

恥をかかないように。

失敗しないように。

だから、行動する前に考えすぎる。

 

そして、考えすぎた結果、何もしない。

 

・・・仕方ない。

だって私たちは、失敗やミスを責められることを怖がるように育ってきたんだから。

 

・・・仕方ないさ。

でも、行為しないと何も変わらない。

 

  ネガティブは「変化に気付いた」サインかもしれない

私は、ネガティブになっている時って、何かの変化に気付いた時でもあると思う。

いつもと違う。

何か変だ。

何か引っかかる。

もちろん、その感覚が正しいとは限らない。

勘違いかもしれない。

思い込みかもしれない。

ただの不安かもしれない。

でも、それなら尚更、頭の中だけで答えを作るより、現実に触れた方が早い。

 

女性がネイルを変えた。

髪型を変えた。

アクセサリーを変えた。

気付いた!!!

 

そこで、

「言ったら変かな?」

「勘違いだったら恥ずかしいな」

なんて考えて何も言わなければ、何も起きない。

 

でも、

「ネイル変えた?」

って言えば、そこに一つ出来事が生まれる。

喜ばれるかもしれない。

「あ、そうです」

で終わるかもしれない。

別にそれでいい。

 

結果までこちらが決めなくていいんだ。

 

ネガティブバイアスなんて、たぶんなくならない。

マイナス思考も、不安も、心配も、全部消すなんて無理だと思う。

だったら消そうとしなくていい。

 

感じた。

気付いた。

不安になった。

そこから一つ、行為に変えてみる。

頭の中で勝手に答えを出すくらいなら、現実に一回触れてみる。

 

ネガティブにならない人になる必要なんてない。

「あれ?」

と思った時に、考え込んで固まるのか?

それとも一歩だけ動くのか?

その違いは、案外大きいんじゃないかな?

運って、自分でコントロール出来るんだろうか?

「運」という言葉を使ってしまうと、人の成長は止まってしまう。

そんな話を聞くことがある。

 

良いことがあれば、それまでの努力や積み重ねを無視して、

「運が良かっただけです」

 

悪いことがあれば、原因を調べることも、改善策を考えることもせず、

「今回は運が悪かった」

 

確かに、それでは先に進めない。

 

でも私は、「運」っていう言葉は必要だと思うんだよね。

 

運をコントロールする!運否天賦の前にアプローチを考えよう!

どこかのタレントメンタリストさんの本を読んだんだけど、運はコントロールできる。

意識的な、意図的な自分の意思決定で運って呼ばれる領域の結果に影響出来るみたいなことを書いていた。

まぁまぁ、概ね何となくは分かりますよ。

 

その上で、成功するためのアレコレを書かれていたけど、結局さ・・・

結果がどうなるか?っていうのは、自分の裁量意外に影響されるから、運って言うんじゃないかな?

って思いましたよ(笑)私はね。

 

気になる方は見てみると良いのかもしれないよ。

運を操るそうだから。

 

 

  運は、便利な責任転嫁術でもある

ゲームやギャンブルなら、運という言葉は普通に使う。

人間関係だってそうだし、今では「親ガチャ」なんて言葉まである。

 

もちろん、何でも運のせいにしていたら何も変わらない。

 

でも、世の中のすべてに理由を見つけて、良し悪しを決めて、誰が悪かったのかまで決める必要もないと思うんだ。

「あれは運が悪かった」

それで終わらせた方がいいことだってある。

 

何でも自分の責任にする必要もなければ、何でも誰かのせいにする必要もない。

 

要するに、自己責任論じゃなくて責任転嫁術だ。

 

運っていう曖昧な何かに責任を押し付けてしまう。

私は、それくらいあってもいいと思っている。

 

ただ、ここで一つ疑問がある。

運の良し悪しって、いつ決まるんだろう?

 

たぶん多くの場合、結果が出てからだ。

 

成功したから運が良かった。

失敗したから運が悪かった。

 

だったら、その結果に至るまでの経過や経緯に手を加えることが出来たら、結果にも多少は影響を与えられるんじゃないだろうか?

それが、私の考える「運をコントロールする」っていう話だ。

  チャレンジ回数を増やせばいい?

よく言われるのが、

「挑戦する回数を増やせば、成功する可能性は上がる」

確かにそうだと思う。

 

10回挑戦する人より100回挑戦する人の方が、成功する回数は増えるかもしれない。

 

でも当然、失敗する回数も増える。

チャレンジする回数が、そのまま運の良し悪しを経験する回数になっていく。

 

だったら、

結局、運じゃね?

って思う(笑)

 

しかも、何度失敗してもゲームオーバーにならないことが前提だ。

 

恋愛だって、誰でもいいから100人誘えばいいという話なら、それでもいい。

でも、

「この人!」

って決めた相手に対して、

「成功率を上げるために告白回数を増やしましょう!」

なんて出来るわけがない(笑)

そこで私は、チャレンジ回数ではなく、試行回数を増やしたらどうだろう?と思う。

 

  本番じゃなくて「お試し」を増やす

試行っていうのは、お試しとか無料体験みたいなものだ。

 

いきなり本番に突っ込まない。

 

その前に、打診したり、前振りしたり、前座を作ったりする。

情報を集めることもそう。

自分を磨くこともそう。

でも、それだけじゃなくて、本番に入る前の小さなプロローグを増やしてみる。

例えば、デートに誘いたい人がいるとする。

いきなり告白するのは難しい。

だからといって、たいして仲良くもないのに突然、

「二人で食事に行きませんか?」

これだって、それなりにハードルは高い。

 

だから、その前に話す。

挨拶する。

ちょっとした会話を増やす。

好きな食べ物を聞いてみる。

休日の話をしてみる。

相手の反応を見る。

自分のことも少しずつ知ってもらう。

 

そうやって、本番ではない小さな試行を積み重ねていく。

 

これは、異性の数を増やして成功率を上げるのとは違う。

一回しかないかもしれない本番の前に、自分が出来ることを増やしている。

私は、こっちの方が「運をコントロールする」に近い気がするんだよね。

 

  最後は運でいい

もちろん、それでもダメな時はダメだ。

 

どれだけ関係を作っても、相手には相手の気持ちがある。

仕事だって、商売だって、人間関係だってそうだろう。

自分がコントロール出来るのは、自分が出来ることだけなんだから。

 

だから私は、

出来ることをやった。

情報も集めた。

試してみた。

準備もした。

 

それでも上手くいかなかったのなら、

「いやぁ、運が悪かったね!」

でいいと思う(笑)

 

逆に上手くいったなら、

「私、運が良かったじゃん!」

って喜べばいい。

 

努力したから成功したんだ!なんて、全部自分の手柄にする必要もない。

運が良かったと自分を褒めてあげるのも素敵じゃないか?

 

だから、神頼みだって私は大いにありだと思う。

神様に全部やってもらおうって話じゃない。

自分に出来ることは、自分に出来ることだけなんだから。

そこまでは自分でやる。

 

そして、自分ではどうにもならないところまで来たら、

「ここから先はお願いします!」

って神様に丸投げする(笑)

 

それくらいでいいんじゃないだろうか?

 

運をコントロールするって、未来を思い通りにすることじゃない。

運そのものを操ることでもない。

結果が出る前に、自分が触れられるところを少しずつ増やしていく。

本番を何度も繰り返すんじゃなくて、本番までの試行を増やしてみる。

 

そして、自分に出来ることをやった先に残ったものは、

運が良かった。

運が悪かった。

それでいい。

だって最後くらい、運のせいにしたっていいじゃないか。

自分に出来ることは、出来ることだけなんだから。