「学校に行きたくない」
「仕事に行きたくない」

この言葉は、なぜこんなに誤解されるんだろう。

怠けてる。
甘えてる。
逃げてる。
根性がない。

そんなふうに見られてしまうことが多いから、言えなくなる。
言えないまま、ひとりで潰れてしまう。

でも私は思う。
それ、ほんとうに「行きたくない」なのかな?って。

行きたくない、って言葉が誤解される

 

「学校に行きたくない」 「仕事に行きたくない」

世間ではこれを「問題」と呼びますが、 私から言わせれば、それは最高にピュアな心の叫びです。

だっておかしくないですか?

「行きたくない」の裏側には、 必ず**「○○したい!」**という、 キラキラした欲望が隠れているんですから。

 

  「拒否」ではなく、猛烈な「希望」

行きたくない、じゃない。
その奥に、もっと強い「・・・たい」がある。

 

「行きたくない」という言葉を翻訳してみましょう。

  • 家にいたい

  • お母さんといたい

  • 誰にも会わずに、自分を守りたい

  • 本当は、認められたい

  • 本当は、褒められたい

これ、全部「希望」ですよね。

 

……でも、出来ない。
出来ない現実がある。
だから苦しくなる。

その結果として出てくる言葉が、「行きたくない」なんだと思う。

 

社会はそれを「怠慢」だの「不適応」だのと言って、 活版印刷機で「正解」を上書きしようとしてきますが。

余計なお世話、というものです。

 

空っぽになった大人にはもう持てない、 剥き出しの「……たい!」というエネルギー。 

自分の「・・・たい!」が。
子どもの「・・・たい!」が。
相手の「・・・たい!」が。

正解を押し付けられて、当たり前になってしまった人は、
こういう形で表現できなくなる。
空っぽになった大人は、そもそも「・・・たい」が出てこない。

 

それを持っていること自体、 実はものすごく、贅沢で幸せなことだと思いませんか?

 

例えば・・・

スマホのバッテリーが赤くなった時。
「壊れた」って思う人もいるけど、ほんとは違う。

ただ、充電が必要なだけ。
休ませる時間が必要なだけ。

 

人も同じだと思う。

 

行けない日があるのは、壊れたからじゃない。
心の充電が切れそうなサイン。
そしてそのサインの奥に、必ず「・・・たい」がある。

 

  40歳、無一文。私の「青春(笑)」を振り返る

 

ここで、私の輝かしい「黒歴史」を少しだけ。

小学校から問題児。 中学校は暗黒。 高校ではいじめられ、殴られ……。

当時はヤンキー漫画が全盛期。 弱肉強食のピラミッドの中で、 私は見事に「捕食される側」を全うしました(笑)

 

空手を習って強くなろうとしたら、さらに状況が悪化。

「青春? 何それ、美味しいの?」状態で社会に放り出され、 職を転々とし、結婚しても一人に戻り……。

ブラックは消えなくて。

 

そして今、40で無一文の再スタート。
今を生きるだけで精一杯。

 

普通に考えれば「詰み」の状況かもしれません。

でも、不思議ですね。 これだけボロボロになっても、 私の「……たい!」は、全く死んでいないんです。

  諦めた先に見つけた、本物の「たい!」

 

今の私の「……たい!」は、とってもシンプル。

  • 「家で出来る仕事で、悠々と生活したい!」

  • 「子供たちに会った時(いつか遠い未来で)、最高にカッコいい人でありたい!」

社会のレールから派手に脱線して、 ようやく見つけた、私だけの宝物です。

 

効率とか、換金率とか、 そんなつまらない「正解」は、全部社会に差し上げます。

私は、私の「……たい!」だけを持って、 この爽やかな絶望の中を、胸を張って歩いていこうと思います。

 

行けない日があっても、
「・・・たい」は死んでない。

むしろ、行けない日こそ、
あなたの「・・・たい」が浮かび上がる。


「行けない」の奥にある「・・・たい」を、見捨てないでほしい。

社会がダメだと言っても。
世界が出来ないと言っても。

「・・・たい」が残ってるなら、あなたはまだ終わってない。

 

もし、あなたが今、 「行きたくない」と震えているのなら。

おめでとうございます。 

あなたはまだ、自分を失っていません。

その「行きたくない」の裏側に隠れた、 あなただけの「……たい!」を、 どうか大切に、握りしめていてくださいね。

次は、あなたの「……たい!」を聞かせてもらえませんか?✨

 

 

皆様、いかがお過ごしですか? 

必死に漕いでも漕いでも、目的地が「滝つぼ」だと知った時の、あの清々しいまでの虚脱感。

 

経験したことはありますか?

 

今日は、私の「傀儡(かいらい)時代」のお話をしましょう。

第2章:私は、豪華な泥舟の「馬車馬」だった。

特別、長く語るような出来事じゃない。
本当に、怒涛の勢いで、あっという間だった。

 

私はといえば、崩れかけた生活の土台を必死に繕おうと、新しい仕事を探し、馬車馬のように働き、明日のパンの心配をしていました。

 

ところが、私のパートナーは違った。

彼女は、私の預かり知らぬところで「人生の強制終了(自己破産)」という名の特急券を、勝手に予約していたのです。

 

これには正直、脱帽しました。 

私が「どうにか家を残せないか」「再生への道はないか」と、泥臭い生存戦略を練っている間に、彼女はすでに弁護士という名の「執行人」との面談をセッティング済み。

「はい、面談の日決まったから。行くよ。GO!」

この圧倒的な推進力。 

向かう先が「破滅」でなければ、どれほど頼もしかったことでしょう。

 

  弁護士事務所での「置物」体験

いざ、弁護士先生との面談。 

そこでは、私の意志など入り込む隙もないほど、事務的で、清潔で、残酷なまでに淡々と手続きが進んでいきました。

 

私の仕事は、ただそこに座って「はい」と頷くことだけ。 

面談にも相談にも来ていないはずのパートナーの意向が、なぜか完璧に反映された書類が積み上がっていく。

 

「あれ? 私、この人生の主役じゃなかったっけ?」

そんな素朴な疑問は、弁護士先生の流れるような説明の中に溶けて消えました。 

気づけば私は、自分の人生の幕引きを、客席から眺めているただの「傀儡」になっていたのです。

 

理解が追いつかない。
しかも、そこにいるのは私だけ。
実際に話を進めているパートナーは来ていない。

 

不思議な感覚だった。

 

弁護士の先生に言われたことをまとめて、家に帰って伝える。
そして私は仕事に行く。
新しい仕事で必死に働く。

今思えば、「働くだけで生きていた時間」は、ものすごく楽だった。

 

  衣食住という名の「期間限定サービス」

 

それからの日々は、実に奇妙でした。

 家ではパートナーが破産の準備を着々と進め、私は外で必死に働く。

 

時間だけが、静かに流れていった。

 

 家のこと、子供のこと、借金のこと……全てをパートナーに「丸投げ」にできたあの時間は、皮肉にも、私の人生で最も「楽」な時間だったのかもしれません。

 

仕事さえしていれば、とりあえず今日を生きる衣食住はある。

 車もまだある。 「あれ? 破産するって言っても、意外と困らないもんだな」 なんて、お花畑な思考に浸っていた私は、本当におめでたい「あんぽんたん」でした。

 

でも、時間が進むにつれて、現実が形を持ち始める。

 

  私は「保身」、あの人は「更地」

しかし、時間は残酷です。

 やがて現実は、具体的な形をとって私を殴りに来ました。

 

「家と車を手放す」

当たり前の結末です。

 

ローンが払えないのだから。

でも、私はまだ往生際悪く、それらにしがみつこうとしていました。

「手放したくない」と過去に恋々とする私と、「全てを更地にして次に進もう」とするパートナー。

 

この絶望的なまでの温度差。 

「勝手に決めて、私を置いていかないで」という叫びは、働きすぎて疲弊した喉の奥に飲み込むしかありませんでした。

 

結局、私はただの後ろをついて歩く馬車馬。

自分の意志で走っているつもりで、実は誰かが引く手綱に従って、崖っぷちに向かっていただけ。

 

さて、家も車も、そして「自分というアイデンティティ」さえも削ぎ落とされた先に、何が待っていたのか。

……それはまた、次のお話で。

 シンプルフレーズ​​​​​​​

 

「前に進んでいたのは人生じゃない。選ぶことを、誰かに預けていただけだった。」

 

今日も、自分という操り人形を、精一杯明るく操作していきましょう。 

皆様の糸が、どうか心地よい力加減で引かれますように。

 

ここまでで凄いのは、私は仕事しかしていない。

何一つ家族を見ていなかったんだろうな・・・状況も心情も顔すら見ていなかったんだろう。

仕事しかしていなかったから、こういうことになっている。

 

知らない間に出来た借金

知らない間に進んだ破産

気が付いたら家と車と仕事を手放す流れ

 

自業自得というより、やっと初めて・・・そういうことよ・・・

皆様、ごきげんよう。 

今日もお財布の中身と、ついでに心臓は元気に動いていますか?

 

今日から少し、私の「華麗なる転落劇」……もとい、昔話を始めようと思います。

 

 今の私を形作っているのは、努力でも才能でもなく、

「1回、人生をコンプリート(破産)させた」

という清々しいまでの事実です。

 

正直に言うと、まったく実感がなかった。

たぶん私は、状況と環境に流されていただけなんだと思う。

  1. 幸運という名の「撒き餌」

 

当時の私は結婚しておりまして、それなりに「持っている」側の人種でした。 

 

そんな時、パートナーが持ってきたんです。

 

とびきり甘くて、とびきり胡散臭い**「儲け話」**という名の果実を。

最初は半信半疑でしたよ、ええ。

 

でもね、不思議なことに、一度手を出した瞬間に「次の獲物」が列をなしてやってくるんです。 

宇宙が「さあ、君の財産をデトックスしてあげよう」と囁いているかのようでした。

 

私はただ、突き進むパートナーの後ろ姿を、映画の観客席から眺めるような気分で容認していました。

 

当時はそれなりにお金もあって、多少の融通がきいた。

だから、「まぁ、いいか」でお金を出していた。

今思えば、ここが最初の分岐点だったんだろう。

生活に困っていないという心の余裕が、判断力を「お花畑」に変えていたんでしょうね。

 

  2. 「勝者」という名の、最高に痛い錯覚

 

もうその頃の私は、何が正しくて何が間違っているのか、正直よく分からない状態だった。

でも、相方は突き進む。

不思議なことに、一つ儲け話に乗ると、次から次へと儲け話が集まってくる。

笑っちゃうことに、本当に儲かったんです。 

 

通帳の数字が、まるでバグったかのように増えていく。

私は半信半疑のまま、生活に困っていたわけでもないから、それを容認していた。

 

「ああ、私は選ばれたんだ。自由を掴んだんだ」 そう思いました。

本気で。 今振り返ると、あれは**「処刑前の豪華な晩餐」**だったというのに、

当時の私は自分が世界の王にでもなったかのように、軽やかにステップを踏んでいました。

 

人は、急激に上昇している時、自分が「落ちるためのフラグ」を立てまくっていることに気づかないものです。

 

あの時の私の万能感、今思い出すと最高に滑稽で、愛おしさすら覚えます。

 

今なら分かる。あれは自由じゃなくて、ただの勘違いだった。

 

  3. 魔法が解けた、その後の「ギフト」

 

もちろん、魔法には期限があります。 

ある日、目覚めると出資先は霧のように消えていました。 

「あれ? 昨日のパーティ会場はどこ?」状態です。

 

いわゆる、世間で言うところの「詐欺」ですね。

 

そして、私の手元に残されたのは、思い出ではなく

「私の名前で膨れ上がった、見たこともない額の借金」という重厚なギフトでした。 

 

私の名前で、膨大な借金が残っていた。

知らない間にできていた、私の借金。

借りられるだろうよ。
当時の私は、お金を借りられる立場だったんだから。

 

夫婦の間に名義の壁なんてない。借りられるだけ借りる。

「信用」という文字が、これほどまでに凶器に変わるとは、人生は本当によくできたコメディです。

 

  4. 絶望は、いつだって「遅れて」やってくる

 

当時の私、驚くほどノー天気だったんですよ。

 「まあ、また働けばいいか」「0からのスタートね」なんて。 

家はあるし、手足は動く。なんとかなるだろう・・・と。

 

でも、現実は私の想像力を遥かに超えていました。

  • カードは上限まで使い果たされ、もはやただのプラスチックの破片。

  • あんなに威勢の良かったパートナーは、メンタルという名の迷宮に閉じ込められ、動けない。

私一人が、空っぽの財布を抱えて、青い空を見上げている。

 

  「あ、これ、詰んでる?」 絶望という名の波が、足元からゆっくりと、

でも確実に這い上がってくるのを感じたのは、もう少し後のことでした。

 

たぶん私は、まだ何も分かっていなかった。

本当の意味で、
「失う」ということも、
「背負う」ということも。

この先、何が待っているのかも。

 

何も起きていないように見える時ほど、人生は静かに崩れていく。

さて、この先どうなったか。 それはまた、次の講釈で。

続きを待っていてくださる奇特な方がいれば、これ以上の喜びはありません。 

皆様の今日は、どうか「実体のある」一日でありますように。

「もっと成長したい」

そんな殊勝な願いを抱いてしまったあなたへ。 

おめでとうございます、修羅の道の入り口です。

 

そもそも、あなたの言う「成長」って何でしょう?

スキル? 経験? 人間性?

それとも、もっとキラキラした「何か」ですか?

 

あ、別に答えなくて大丈夫です。 

どうせ、人によって正解はバラバラですから。

ただ一つ確かなのは、 「今の自分じゃ、満足できない」 という、ある種の自己否定から全ては始まっているということ。

なんて健気で、なんて残酷な出発点なんでしょう。

「何を伸ばしたいのか」を、先に決めてあげる

成長したい。
そう思った瞬間って、ちょっと痛い。

今の自分に不満がある。
今の現実を変えたい。
今のままじゃ嫌だ・・・って、心が言う。

 

でも同時に、こうも思う。
「成長って、結局なに?」って。

スキル? 経験? 思考力?
それとも・・・人間性?

成長を語る前に、私たちが一度だけやるべきことがある。
それは、“自分にとっての成長の定義”を、ちゃんと作ること。

 

  成長のカタチは、人の数だけある

 

成長のカタチは、ほんとに千差万別。
求めているものが違うから。

  • 目に見える成長が欲しい人
    (資格、収入、成果、数字、肩書き)

  • 目に見えない成長が欲しい人
    (心の余裕、考え方、自己肯定、安心感)

さらに言えば、成長したい対象も違う。

自分の成長を望む人もいるし、
子どもの成長を願う人もいる。
組織やチームの成長を望む人もいる。

 

でも結局、どんな成長も根っこは同じで、
「今より、少しでも良くなりたい」という願いなんだと思う。

 

その願いがあるから、私たちは学ぶ。
試す。動く。整える。やり直す。

 

つまり成長って、成果じゃなくて、
「より良くなりたい」という願いを、生活の中で扱い続けることなのかもしれない。

  成長したいと思った時、必ず“邪魔”が入る

 

成長したい・・・って思ったら、人は行動する。

誰かの話を聞きに行ったり
新しい知識を学びに行ったり
今の自分を変えようとしてみたり。

でも、そこで必ず出てくる。

疲れる。出費が増える。時間が減る。
そして、続かなくなる理由が増える。

 

けれど、本当に厄介なのはこれ。

『外野の言葉。』

  • それ本当に大丈夫?

  • その人、信じて平気?

  • 無理じゃない?危ないんじゃない?

  • できないんじゃない?

否定って、分かりやすく痛い。
だけど、もっと心を折るのは、これ。

「そんなことより、こっちをやって」
「他にやることあるでしょ」

否定じゃない顔で、人生を“現実”に戻される。
それが一番しんどい。

 

そして残念だけど・・・
あなたの成長を、願っていない人もいる

 

それは、あなたが悪いんじゃない。
私たちは一人で生きていないから、起こるべくして起こる摩擦なんだと思う。

 

  成長の本体は「続けられる思考」だった

 

ここで、結論に近い話をする。

成長に必要なのは、根性でも、才能でもなくて、
「自分の想いを、最後まで大切にできる思考」だった。

 

最初は、誰でも燃える。
やりたい・・・変えたい・・・って思える。

 

でも途中で、必ず揺れる。
余裕がなくなる。
心も、時間も、お金も、削れていく。

その時に必要になるのが、
“思い出せる思考”なんだよね。

諦めそうなときに、
「私は何のために始めた?」って、戻ってこられる思考。

それがある人は、成長する。
才能じゃない。
続け方を知ってるだけ。

 

  自分の想いを最後まで大切にできる思考の持ち方

「成長したい理由」と「今の現実」を天秤にかける

最初にやることは、気合いを入れることじゃない。
自己啓発を読むことでもない。

 

“理由の精査”

  • 今の現実に不満があるから成長したい

  • 目指す現実があるから成長したい

ここまでは普通。

でも、次が大事。

  • その成長は、今の現実を捨てるほどの理由なのか?

  • 今の自分を否定するほどの意味があるのか?

  • その願いは「自分の本音」なのか、それとも「他人の視線」なのか?

ここを曖昧にしたまま走ると、外野の言葉に負ける。
なぜなら、自分の中に“軸”がないから。

成長って、「今の自分を否定して作るもの」じゃない。
今の自分を理解して、その上で選び直すもの。

 

だから最初に、
“成長したい理由”を、自分の言葉で持つ。
これが、思考の土台になる。

 シンプルフレーズ

 

成長って、派手な変化じゃない。
「やりたい」を、手放さない練習だと思う。

 

誰かの言葉で揺れてもいい。
余裕がなくなって止まってもいい。


でも、自分の本音だけは、置いていかない。

シンプルフレーズはこうなったら素敵だと思う。
「成長は、私を否定することじゃない。私の想いを、最後まで守ることだ。」

 

他人の影響で成長したいなんて、一番コスパの悪い贅沢ですから。

自分の「想い」が、ちゃんと自分のものだと確認できたら。

 

その時は、一緒に笑いながら絶望的な成長の道へ踏み出しましょう。

大丈夫、その先にあるのは 今の自分より少しだけ「マシ」になった、新しい絶望(現実)ですから。

さあ、今日はどの「自分」を捨てて、 どの「自分」を愛でてあげましょうか?

人生って、長いようで短い。
そして不思議なことに、一本の物語みたいに、いくつもの章でできている。

章ごとに、始まりがあって、終わりがある。
その区切りには、必ず“温度”がある。

あなたの物語、私のゴミ、そして「最高」の終止符。

人生という短くて長い、あるいは長すぎて退屈な一冊の本。 

そこには、自分でも読み返したくないページもあれば、何度も指でなぞってしまう一節もありますよね。

 

  ページをめくれば、光と影のストロボ。

 

学生時代、喉が焼けるような部活の達成感や、鼻高々だったテストの成績。 

…かと思えば、次のページには「いじめ」という、インクをぶちまけたような真っ黒な記憶。

 

社会に出れば、「あなたが必要だ」という甘美な言葉と、 

「これっぽっちの給料?」という冷めた待遇の間で、心は激しく振り子のように揺れ動く。

 

光が強ければ強いほど、影は濃くなる。 そんな当たり前の残酷さを、私たちはこの物語の読者として、嫌というほど味わわされてきました。

 

どれも、ひとつひとつが章。
時間の区切り。
始まりと終わり。

人生は、そういう「小さな物語」を積み重ねてできている。

  「意味のない時間」という名の、輝く余白。

一つ一つの章を切り取ったら、
「良かった」と思えるものもあるし、
「最悪だった」としか思えないものもある。

 

でも、本当に血肉になっているのって、実は「ストーリーの本筋」とは関係ない余白だったりしませんか?

  • 旅先で目にした、名もなき景色のグラデーション。

  • 居酒屋で、名前も知らない隣の人と交わした、内容のない会話。

  • 道に迷って途方に暮れ、スマホが圏外になった瞬間の、あの圧倒的な孤独。

効率を求める大人たちからすれば「時間の無駄」であり、「迷子」や「圏外」なんてただのトラブル。

でも、その「予定調和の崩壊」こそが、物語を瑞々しく彩る最高の伏線なのです。

 

つまり、人生の章は、いつも単純に色分けできない。

“良い/悪い”で終わらないものが、確かにある。

  私の宝物は、誰かのゴミ。

 

ここで、一つだけ覚悟しておかなければならない「絶望的な真実」があります。

あなたが「あぁ、あれは最高の宝物だ」と大切に抱えているその記憶。 

 

他の誰かにとっては、ただのゴミにしか見えないかもしれない。 

「あれ、何が楽しいの?」
「そんなの時間の無駄じゃない?」
「そんな思い出、思い出すだけ苦しくない?」

そう言われることもある。

それどころか、一緒にその道を歩いた人にとっては、二度と思い出したくない「後悔」や「苦い記憶」かもしれない。

 

でも、それでいいのです。

 いえ、それが「人生」というものの、最高にシニカルで明るい本質なのですから。

他人の評価という物差しで測れるものを、私たちは「宝物」とは呼びません。

 

同じ章を生きたのに、
同じ出来事を見たのに、
感じ方は違う。 

 

「誰に何と言われようと、私にとっては宝石だった」 そう言い切れる強情さこそが、私たちの魂の形なんです。

 

宝物って、本来そういうものだと思うから。

  最後のページに、一筆。

 

どんなに惨めな章があっても。 どんなに救いようのない展開が続いても。

最後のページを閉じる瞬間、 「あぁ、楽しかった!」 と、誰にともなく独りごちること。

自分がやりたいことをやり、自分で見つけたものだけを信じてきた。 

“自分の思いでやった時”にだけ、身体の奥から湧いてくる実感なんだと思う。

 

その実感を、誰かに「私は楽しかったよ」と伝えて、筆を置く。

 

評価されなくてもいい。
誰かの正解じゃなくてもいい。
他人にとってゴミに見えてもいい。

少なくとも私は、自分の物語の最後に、言いたい。

「あぁ楽しかった」

って。

 

そして、できれば誰かに言いたい。
「私は楽しかったよ」って。

それは自慢じゃなくて、生きた証として。

それ以上に素晴らしいエンディングなんて、この世に存在するのでしょうか?

  ……からの?

「宝物は、誰かの理解じゃなく、自分の実感で決まる。」

 

さて、あなたの「人生という物語」

今まさに書き進めているその一文は、「楽しさ」という名のインクで書かれていますか?

それとも、「他人のための脚注」で埋め尽くされていますか?

 

もし後者なら、今すぐそのページを破り捨てて。 

圏外の道端で、スマホをポケットにしまい、 あえて「迷子」を楽しんでみるのも、悪くないかもしれませんよ。

 

次は、その「迷子になった自分」を、どんなタイトルで目次に書き込むか、考えてみましょうか。

「あなたが物語の次の章に、こっそり仕込みたい『無駄な冒険』は何ですか?」