私のMBTIは、INFP-T らしい・・・

他の診断結果の人はそんなに違うの?って思ってしまう。

 

外向的でズバズバ言える人。
論理的で感情に振り回されない人。
決断が早くて迷いが少ない人。
豪快で前向きな人。

……本当にそんなに、きっぱり分かれるんだろうか?

分類されても、私は私のまま。

私は占いや診断にはあまり関心が無い。

どうとでも解釈できてしまう結果には正直心惹かれない。

ただ、実際に見える人っていうのに会ってみると全然違うことが分かるから怖い。

本当に分かられてしまう。知られてしまう。私の心の中まで見られてしまう。

それがまたちょっと怖い。

 

だから・・・

自分は自分で探して、自分で見つける。

人は見たいように世界を見る事しか出来ないから、自分のコトも見たいように見ようと思っている。

 

その上で、MBTIっていう最近流行りの診断。

どうやって使うのが良いのか?って言うのを私は考えてみた。

  「私は私でしかないのに」

 

私はたぶん、ずっとどこかで思っている。
「私は、私でしかない」って。
誰かの代わりにはなれないし、誰かと完全に同じにもなれない。

 

なのに、大人になるほど、「似た誰か」を探すようになった。

似た性格、似た悩み、似た生きづらさ。見つけた瞬間、少しだけ安心する。

ああ、私だけじゃないんだって。

 

孤独が、ほんの少しだけ薄まる。

 

そんな私のMBTIは、INFP-Tらしい。

仲介者、理想主義、繊細、共感体質、不安は標準装備。

一人の時間がないと静かに死にます。

優しくて、自分を傷つけるタイプ。

 

……でも、正直こうも思った。
それって、今を生きてる人、だいたいそうじゃない?

  診断に救われる私たちと、その曖昧さ

 

心理テストは昔から人気だった。適性診断、性格検査、職業診断。

今では発達障害や適応障害すら、テスト結果で振り分けられていく。

新しい病名が増えるたび、私たちは少し安心する。

 

「これは私の弱さじゃなくて、特性なんだ」って言えるから。

でも同時に、どこかで分かってもいる。
名前が付いても、生きやすくなるわけじゃない。
 

仕事は急に楽にならないし、手は痛いままだし、月曜は普通に来るし、人間関係の難易度も下がらない。

それでも私たちは診断をやめられない。

 

なぜなら人は、「分からない」を何より怖がる生き物だから。

「人は、説明できない不安より、説明できる不安を選ぶ。」

これはたぶん、今の時代の真実だと思う。

  INFP-Tは「頑張れるけど壊れる」・・・でもそれって?

 

INFP-Tは「頑張れるけど壊れるタイプ」らしい。
ここで私は、少し笑ってしまった。

だって今の時代、頑張っていない人を探す方が難しくない?


みんな頑張ってる。仕事も、家庭も、勉強も、人間関係も、将来の不安も、体力の限界も、全部抱えて必死に生きている。

そして、壊れる。

 

壊れるのはINFP-Tだけじゃない。
雑に扱われて平気な人なんて、一人もいない。
誰だって限界を超えれば、心も体も折れる。

結局、「どこにどう表れるか」だけの話で、その壊れ方は千差万別。誰かと同じになるなんて、ありえない。

 

私は、誰もが特別だと思っている。
 

誰もがオリジンで、誰もが特殊で、誰もが変質的。

完全に同じ価値観を持つ人なんて、この世界に存在しない。

同じ経験をした人もいないし、同じ時間を生きた人もいない。

誰もが、自分だけの時間と、経験と、後悔を抱えて生きている。

家族でも、兄弟でも、同じ遺伝子でも、同じ世界を同じ角度で見て、同じ感想になるなんてありえない。

 

それなのに、人は同じ枠に入りたがる。

ここが、人間のいちばん不思議で、いちばん切ないところだ。

  それでも人は、誰かと同じで安心したい

 

それでも人は、誰かと共感したい。
同じタイプ、同じ診断、同じジャンル。その「同じ」があるだけで、距離は一気に縮まる。「仲間だ」と感じる。

グループ、チーム、ファミリー。

寂しいから。
孤独より、上辺だけの共感でもいいから欲しいから。


なにより、見付けられて、認められて、「ここに居てもいい」って言ってほしいから。

 

たとえ本質が違っていても、上辺だけで、人は案外満足できてしまう。

ペルソナという仮初めの自分の居場所ができた気がするから。

 

同じ価値観の人には、きっと出会えない。
それでも、人は誰かを探す。
その矛盾ごと、人間なのだと思う。

 

だから私は思う。
診断やテストは、「自分を知る」だけの道具じゃない。

誰かに知ってもらい、誰かと繋がるための“呼び水”なのかもしれない。

今の時代、何でもすぐに発信できて、すぐに反応が返ってくる。

その構造が承認社会であり、資本の温床でもあることを、私は正直あまり好きになれないけれど……

 

それでも、使い方次第では、人を孤独から少しだけ救うこともできる。

 

だから私は、
「私、INFP-Tなんだ」って、公言してみようと思う(笑)。
枠に収まるためじゃない。


誰かと繋がる“きっかけ”として。

 

  ■シンプルフレーズ

 

「人は一人では生きられない。だが、誰かといることで自分を見失ってはいけない。」

 

分類されても、私は私のまま。
同じにならなくていい。
違うままで、誰かと笑っていられたら、それでいい。

「共感は欲しい。でも、私は私をだけも見ていたい。」

ぼんやりする時間がきっと一番大切なんだろうな。 

ボーっとしている時間も脳は回転しているんだろう。 

 

想像力や柔軟な思考、肉体を使った後の何も考えられないような時、

空を見上げてのんびりする時間。きっと一番私を作り出す時間なんだろうな。

町の夜と、焚火と、星と・・・ONとOFFのあいだで

 

疲れているのかな・・・?


それとも、ただ静かな時間を求めているだけなんだろうか。

町中の夜空は、いつも明るい。
星は少なくて、夜なのに、どこか昼の延長みたいだ。

 

静寂とは、程遠い。
車の音、話し声、エンジン、信号、スマホの通知・・・
町の夜は、眠っているふりをしながら、ずっと騒がしい。

 

情報と刺激が溢れかえって、
余裕も余白も、あっという間に押し流されていく。

 

そんな世界の中で、「生きにくいな」と感じている自分が、確かにいる。

 

でも一方で、生きるためには、町のほうが圧倒的に“生きやすい”。

 

お店も、交通も、仕事も、病院も、全部、人が暮らすために整えられていて、
町の中でこそ、私はちゃんと生きられるとも思う。

便利で、合理的で、
生き延びるためには、ここが一番優しい場所なのかもしれない。

 

それなのに、どうしてだろう。

ふと、静寂を求めてしまう夜がある。
平穏に、逃げたくなる瞬間がある。

 

きっと私は、ONとOFFの切り替えスイッチが欲しいんだと思う。

 

生きやすい場所で、生きること。
生きにくい場所で、非日常に身を置くこと。

 

どちらかじゃなくて、
どちらも欲しいと願ってしまう、
なんとも欲張りな私がいる。

 

楽しい時間。
素敵に物思いにふける時間。
悲しい時間。
自分に浸る時間。
塞ぎ込む時間。
辛くても動き続ける時間。
休めない時間。
悩む時間。
迷い、彷徨う時間。

 

その全部の合間に、ぽつんと置かれた
「静かな一瞬」がある。

それでこそ、人生はカラフルになるんだと思う。

 

色と色が混ざって、
ときどき濁って、
ときどき滲んで、
それでもちゃんと、多彩になる。

カラフルに生きたい私がいる一方で、
モノクロの世界で、
ただ時間を使いたくなる私もいる。

 

そのどちらも、
きっと・・・間違っていない。

 

星を見上げて、「この星、なんて名前なんだろうな・・・」
なんて思う、あの時間。

 

答えなんて出なくてもいい。
知識がなくてもいい。
ただ、そう思っている時間そのものが、もう充分に、豊かだったりする。

寒いから、ほんの少しの時間しか見ていられないけれど、
それでもその数秒だけで、心の奥に、ふっと灯りがつく。

本当は、焚火なんかしながら、
ホットワインを片手に、ゆっくり空を眺めたい。

 

火の音だけが、静かに揺れて、
身体はあたたかくて、星は名前も知られないまま、
ただ、そこにある夜。

 

その時の私は、
何者でもなくていい。
役割も、評価も、肩書きも要らない。

 

ただ・・・ぼんやりしている私で、
それだけで、もう十分なんだと思える。

 

生きやすい町の中で、ちゃんと生きて。
ときどき、生きにくい静寂の中へ、そっと逃げる。

その行き来ができたら、きっと私は、
もう少しだけ、自分に優しくなれる気がしている。

若い頃ってさ、
寝なくても動けたし、無茶しても回復したし、失敗しても笑えた。

 

今はどうだろう・・・?

 

勝手に寝る。
気が付いたら寝る。
手首が痛い。肩は常に在宅。
どれだけ運動しても体重だけ正直。

 

――そう、これが老化。

 

でもね、世界のキラキラは変わらないの。
音楽も、映画も、景色も、夢も。
興味も関心も、実は若い頃と大して変わってない。

 

ただ一つだけ、決定的に違うものがある。

「体が、ついてこない」

 

憧れはある。
やりたい気持ちもある。
でも、踏み出す前に脳が言う。

「出来る?」
「無理じゃない?」
「大変じゃない?」
「それ、やり直せる?」

……いや、やり直せないんですよ。
時間と体力が有限だと、知ってしまったから。

これが、大人になるってことなのかもしれない。

若さは才能、老化は仕様。それでも私は遊び心を諦めない

 

若さって、才能だったんだなって、最近つくづく思う。

無謀も、無茶も、後先考えない選択も、
全部「若さ」の一言で許されてた。

体力があって、回復力があって、
寝なくても動けて、無理がきいて、
怪我も病気も「まぁ何とかなる」で済んでいた。

 

若い頃は、無謀も無茶も“習慣”にできた。
体力も、回復力も、無視する力もあったから。

 

それが今はどうだろう。

勝手に寝る。
気づいたら寝てる。
足腰はギシギシ、手首はズキズキ。
肩こりはもはや常連。
どれだけ運動しても、なぜか痩せない。

 

……ああ、これが老化ってやつか。(T_T)/~~~

 

興味も関心も昔と変わらない。
見上げるものも、憧れも、理想も同じまま。
なのに――

身体だけが、ついてこない。

このズレが、地味にいちばんキツい。

 

  老いを盾にした瞬間、もう負けだと思った

 

人は大人になると、
自然と「リスク」を先に数えるようになる。

出来るかどうか。
失敗したらどうするか。
やり直しが効くのか。
今さら遅くないか。

若い頃はそんなこと考えなかった。
考えなくても、時間も体力も勝手に背中を押してくれた。

 

でも今は違う。
やり直すには時間も体力も足りない。
ゼロからのスタートに踏み出すほど、もう無茶も出来ない。

 

だから怖い。

人を許せる余裕が増えた代わりに、
自分を許す時間が減っていく。

それが、悲しいというより――
ちょっと、寂しい。

 

「良いことをすると気持ちがいい」って、
あれ、本当に“善意”だけなんだろうか?

ドーパミンが出てるだけじゃない?
承認欲求が満たされてるだけじゃない?

誰かに褒められて、
「すごいね」「ありがとう」って言われて、
その評価と承認で満たされてるだけじゃない?

 

それでもいい。
それでも、ちゃんとウィンウィンだ。

 

でも――その匙加減、気づくと「余計なお世話」に傾いていないか?

「それは危ない」
「やめたほうがいい」
「無理しなくていい」

安心の顔をしたブレーキばかり、自然と踏むようになってしまう。

 

これが、老化の正体なのかもしれない。

ニーチェはこう言った。

「かつて人間は、踊る星を生むために混沌を抱いていた」

 

若い頃は、確かに混沌だった。
何も整っていなくて、めちゃくちゃで、無謀で、
だけど、やたらとエネルギーだけはあった。

今はどうだ。

安全、安定、無難、効率、リスク管理。
踊る星どころか、表情筋すら固まっている。

 

  「まだこれからです」は、大人の反抗期

 

それでも私は思う。

若さを諦めたくない。

「やらない理由」を正当化するのが、一番イヤなんだと思う。

 

もう戻れないことは分かっている。
体力も、回復力も、勢いも、時間も、全部違う。

 

それでも――
「諦める側」にだけは立ちたくない。

若さは年齢じゃない。
無謀さでもない。
体力でもない。

 

たぶん、

まだ惹かれるかどうか。
まだ心が動くかどうか。
まだ「見たい」と思えるかどうか。

そこに残っているものなんだと思う。

身体は置いていかれても、心まで老ける必要はない。

私はまだ、ついてこない身体を引きずりながらでも、少し先を、ちゃんと見ていたい。

若さは才能だった。


でも――
諦めないのは、意志だ。

私は諦めないよ?若くあろうとするよ?まだまだこれからですよ?

若くありたいんじゃなく、若さと老化を言い訳にしたくないからね!

 

昨日の俺と今日の俺は別人だ!昨日の約束など知らん!

って、言いたい・・・・・

 

昨日の私と、今日の私は、たぶん別人だ。
昨日の約束なんて、正直知らない顔をしたくなる日もある。

若さなら、笑い話で済む。
でも大人になると、それは“信用を捨てる行為”になる。

それでも私は、
自分自身を一番信用できないまま、今日も生きている。

  「私は、私が一番信用できない」

 

私は、心変わりする。
欲望にも負けるし、感情にも流される。
お酒に逃げたくなる日もあるし、架空の物語に夢を見てしまう夜もある。

 

昨日の私を、今日の私は否定したくなる。


でも、あれも私で、これも私なのだ。

だから私は、私を信用できない。

 

私は変わる。
私は揺れる。
私は裏切る可能性を持っている。
だから、私を神格化するな。
同一の私なんて、どこにも見つからない。

 

  「それでも他人は、信じたい」

 

逆に、他人のことはどうだろう。


信じたい気持ちは、確かにある。
信じる努力をしたいとも思っている。

 

「バカをみた自分より、先に約束を守った自分を誇りに思え」

by武田好誠
この言葉が、今でも胸に刺さっている。

 

だから私は、
他人を疑うより前に、好意的に解釈して繋がりたいと思ってしまう。
何も信じたくないくせに、何かを信じたいとも思っている。

 

約束なんて、苦しくなるだけだし、ストレスが増えるだけなのは分かってる。

でも、それでも、私はいつまでたっても・・・

この言葉が忘れられない。

 

  「無償の関係が、いちばん怖い」

 

正直に言うと、人と人の繋がりの中にも
金銭のやり取りがあった方が、私は安心してしまう。

 

無償の関係の方が、何より怖い。

金銭のやりとりに安心する自分が一番怖いけど・・・

 

お金が発生すれば、
そこには責任も契約も、逃げ場もはっきり見える。

 

けれど、想いだけの関係は、
いつでも逃げられて、いつでも裏切れる。

気づけば私は、
感情や想いより、貨幣の方が信じられてしまう側の人間になっていた。

感情は裏切る。
気分は裏切る。
善意も裏切る。

 

でもお金は、

・契約書があり
・法があり
・強制力がある

だから「信じる」というより「従わせられる」

なにこれ・・・怖いな・・・

 

  「自分には、自分に費用を払えない」

 

他人にはお金を払える。
でも、自分にはお金を払えない。

 

自分に発生するのは、
時間と労力の消費だけ。

費用が発生しないものは、
この世界では“価値が見えにくい”。

 

それなら――
自分を信じられなくて当然なのかもしれない。

私は、私の期待に応えていない。

 

期待した通りの人生を生きられていない私は、
私自身から信用を失っている。

 

  「できることしか、できないと知っている」

 

それでも私は、
できることしかできないと、理解している。
分からないことは、分からないままだ。
持てる分だけを、持てる分だけで抱えている。

 

正解を背負いたいんじゃない
失敗の後悔を背負いたくない

 

だからこそ、奇跡みたいな自己信頼は、最初から持たない。
それは諦めというより、現実と折り合うということ。

 

自分で自分の信用を、最初に叩き壊す呪文

『昨日の俺と今日の俺は別人だ!昨日の約束など知らん!』

言いたいけど、言えないことを知っている。

これが現実だと割り切って折り合いをつけるための、落としどころを探してる。

 

  「後悔が、私を少しずつ変えているなら」

 

それでも思う。

もし後悔が、
私を少しでも変えてきたのだとしたら。

今までの選択にも、意味があったと言えるんじゃないか。

私は、新しい私が、
今の私より少し素敵であることを願って、
後悔から、違う選択と行為をしているつもりだ。

 

でもそれも“今の私”で、
明日の私は、また違っているかもしれない。

結局、何も変わらない私も、ここに居る。
それでも私は、今日の選択だけを、引き受けている。

 

 シンプルフレーズ

私は他人を信じたい。
でも信じきれない。


私は貨幣の方が信用できる。
でもそれが空しいのも知っている。


私は自分を信じられない。
でも後悔が私を動かしているのも事実だ。
変わりたい私は居る。
変わらない私は、もっと居座る。

 

そして結局――

 

私は私を信用できないまま、
それでも今日の選択だけを引き受けて生きている。

 

軽薄で浅学で自分のコトすらおぼつかない私。

いつまでたっても、自分一人で立って生きていくことが出来ない。

 

常に誰かに頼って、寄りかかって、弱さを噛みしめながら

生きている。

そう、まだ生きている。

これでも、生きている。

まだまだ、生きているっていうことなんだよね。

 

そんな私の夜の日課的な自己満の思考の塊をここに日々綴る・・・

 

「壊れる自由」と倫理・・・翻訳されないまま生きるということ

人を見て、「壊れた」っていうことが少なからずあるんじゃないだろうか?

それは、どんな時に使うかな?どんな場面で見聞きすることになるのかな?

誰も気にするほどのことでは無いだろうし、単なる比喩で意味もなく使われるだけのコトも多いだろう。

そんな、壊れるって言うことを少し掘り下げてみようと思った今日この頃・・・

 

  人が「壊れた」と言われる瞬間

 

人が「壊れた」と言われる時、それは本当に“壊れて”いるんだろうか?

お酒に酔ってテンションが上がった人を「壊れた」と言う。
社会の空気を読まない行動をする人にも「壊れた」と言う。
法や常識から逸れた人、集団に馴染まない人、声の大きな活動家を「壊れている」と言うこともある。

 

でも、私が思う「壊れる」とは、
自分を見失った状態じゃなくて、むしろ“他人に合わせる自分”をやめた瞬間なんじゃないかと思う。

 

ペルソナを脱いで、
損得も評価も関係も全部いったん横に置いて、
ただ「こうしたい」「こう在りたい」という衝動で動いた時。


それを、社会は「壊れた」と呼ぶ。

壊れているのは、その人じゃなくて、
その人を“説明できない側”の感性の方なのかもしれない。

  倫理とは、誰と生きるための思考なのか

 

一方で、倫理とは何かと考えると、
それはきっと「社会と共存するための思考」だ。

正しさ、規範、説明、理解、共感、合意。
それらを通して、集団は安定を保つ。

でも、「壊れる自由」と「倫理」は、構造的にぶつかる。

 

壊れるとは、
社会に向けた説明を拒否すること。


倫理は、
説明し、理解され、納得されることを前提とする装置。

 

だから、壊れる人はたいてい孤独になる。
マイノリティになり、反対者になり、ときには敵にされる。

 

理解されないのは、理解を求めないからじゃない。
理解される“翻訳の言葉”を、最初から持っていないだけかもしれない。

知らない言語でどれだけ話しても、伝わらないのと同じだ。

  世界は生を与え、社会は生に値札を貼る

 

この世界は、生きたいという衝動そのものは否定しない。
呼吸も心臓も、勝手に動かし続けてくれる。

 

でも社会は、生きるための対価を必ず求める。

お金、労働、役割、生産性、効率、価値。
生きるためには、誰かの場所を借りるか、買うか、奪うしかない。

 

世界は生を与える。
社会は生に支払いを求める。

 

この矛盾の中で、
「生きたいだけ」という思いは、いつも宙ぶらりんになる。

 

そして気づけば、
翻訳されない思い・伝わらない思いは、
結果と利益だけで切り捨てられていく。

  換金されなかった自由は、本当に敗北なのか

 

「換金されなかった壊れる自由は、本当に救われない自由なのか?」
「翻訳されないまま生きることは、敗北なのか?」

私は、そうは思わない。

翻訳されなかったのは、価値がなかったからじゃない。


最初から、“売らなかっただけ”なのかもしれない。

誰にも説明されないまま、在り続けること。
評価も意義も与えられないまま、ただ生き続けること。

 

それは確かに、社会の中では敗北に見える。

でもそこには、
在ったという事実だけが残る。

人は、その「在った」を失ってから、
「後悔」という新しい価値に作り替えて生きていく。

 

  後悔は、鎧にも鎖にもなる

 

後悔は、人を縛ることもあるし、守ることもある。

動きたい時には「鎖」になり、
動けない時には「鎧」になる。

 

だけど、後悔があるからこそ、
人は「違う選び方」を探そうとする。

誰かを傷つけたから、次は傷つけたくないと思う。
失敗したから、別の言葉と別の行動を探そうとする。

 

後悔は、
未来を選び直すための“通行料”なのかもしれない。

  翻訳されなかった自由は、敗北ではない

 

壊れる自由は、完全には社会の重力から逃げられない。
それでも、翻訳されないまま進み続ける人がいる。

 

お金にならなくても、
評価されなくても、
理解されなくても、
出来ることにだけ、命を懸けて進む人がいる。

社会に勝たなくてもいい。
説明できなくてもいい。
救われなくてもいい。

 

翻訳されなかった自由は、敗北ではない。

それが、今日の私の答えです。