「もし、叶わなかったらどうしよう?」

そう思って準備する「保険」や「予備の道」。

とっても、素晴らしい心がけですね。

 

おかげで、あなたの夢は 「叶わないこと」が前提になりました。

 

失敗した時の準備を完璧にするほど、 私たちの脳は、律儀にその「失敗」へ向かって 全力疾走してくれる。

これぞ、効率化の極み。 最高に皮肉な成功法則だと思いませんか?

【夢】保険をかけるほど、遠ざかる怪。

子供の頃の夢、覚えていますか?

「夢は追いなさい」って言うわりに、同時にこうも言われる。

失敗するな。
道を踏み外すな。
保険をかけろ。
現実を見ろ。

 

……ねえ。
それ、どっちに向かって生きろって話?

私たちはいつの間にか、 夢を追う方法ではなく、 「道を踏み外さない方法」を叩き込まれました。

 

私は最近、ずっと引っかかっている。
夢を叶えたいはずなのに、叶わなかった時の準備を同時にしていると、結局どこへ向かってるのか分からなくなる。

引き寄せの法則みたいな話をしたいわけじゃない。

 

不満を抱えながら働き、 給料明細を見てはため息をつき、 週末には自己啓発やスピリチュアルに救いを求める。

なんて完成されたシステムなんでしょう。

みんなと同じ道を歩んで、 みんなと同じように絶望する。

これこそが、現代の「スタンダード」な幸せ ……なのかもしれません。

 

もっと現実的な話。

「叶えるための行動」と「叶わないための行動」を同時にやったら、
人間のエネルギー・・・どっちに割れると思う?

多分、割れる。
そして割れた分だけ、夢は遠のく。

 

  夢を後回しにして、保険を先に用意してしまう理由

 

夢って、持ってたはずなんだよね。
子どもの頃の夢。
学生の頃に抱いた希望。
社会人になって見つけた「こう生きたい」。

 

でも気づくと、夢は「贅沢」になって、
希望は「現実逃避」になって、
いつの間にか私たちは“生きるための正解”を暗記する側に回ってしまった。

 

失敗しないように。
恥をかかないように。
迷惑をかけないように。

その結果どうなった?

仕事をしていても不満。
給料を見てため息。
人間関係で削れて、立ち止まって、
自己啓発を探して、
見えない世界に救いを求める。

 

「正解」を踏んだのに、
心だけが置き去りになってる。

……これ、私たちの“よくある人生”だよね。

 

  学校の価値は否定しない。でも、万能だとも思えない

学校に行けば、人間関係が学べる? 人脈が広がる?

それ、20世紀の話ですよね。

 

コミュニティを学ぶ。
人間関係を学ぶ。
知識を得る。
先達の人脈を得る。

うん、分かる。否定しない。
ただ、私は思う。

 

ほとんどの人が同じ道を歩いているのに、
夢を叶えてる人が少なすぎない?

同じ道を進む人が全員ライバルだとして、
叶えられるのが一部なら、残りはどうなるの?

じゃあ、学校に行けない子は、夢も希望もないの?

……そんなの、悲しすぎる。

 

今の時代、コミュニティは画面の中に溢れています。

「顔が見えないと不安」なんて、 化石のような悩みはもうおしまい。

 

  「学校に行かない」は、終わりじゃなくて選択肢になり得る

 

今はネットがある。
知識も、経験も、教材も、先生も、
いくらでも転がってる。

コミュニティだって作れる。

リアルの狭い教室で、 たまたま隣り合わせた40人と馴染めなかっただけで 「人生終了」なんて、あまりにコスパが悪すぎます。

みんなが学校で同じことをしている間に、 全然違う道を選択する。


顔が見えないからダメ?
それって、本当に“ダメな理由”になるのかな。

 

結局、人間関係って「場所」じゃなくて「選び方」なんだと思う。
リアルでも、ネットでも、
自分が何を選び、誰と繋がり、何を信じるか。

 

先達の人脈?
確かに強い。
でも今は、SNSで自分を売り出す時代でもある。
企業ですら高額を払って宣伝してるのは、そこに力がある証拠だ。

そう思うと、学校に行くことが「唯一の正解」には見えなくなる。

 

むしろ、
みんなが学校に行ってる時間に、
自分の夢のために積み上げられるなら。

 

それは「逃げ」ではなく、ただの「戦略」です。

「学校に行かない」は、夢を叶えるための“戦略”にもなり得る。

  「行けない」子たちに必要なのは、絶望じゃなくて言葉

 

学校に行ける子は、行けばいい。
行く理由があって、夢に繋がる明確な目的があるなら、最高だと思う。

 

正解なんて、どこにも落ちていないから。

 

でも、行けない子はどうする?

社会は平気で言う。
「レールに乗れ」
「普通になれ」
「将来困るぞ」

……それってさ。


困るのは誰のため?
その子の人生なのに、誰の都合で脅してるの?

私が伝えたいのは、これだけ。

 

学校に行かない。 レールから外れる。

それで絶望する必要なんて、1ミリもありません。

むしろ、保険を全部脱ぎ捨てて、 「これしかない」と笑える人の方が、 案外、ひょいっと夢を掴んでしまうもの。

たとえ掴めなかったとしても、 それはそれで、ひとつの面白い結末です。

 

行けなくても、大丈夫。
夢は終わらない。
方法は一つじゃない。

夢を叶える方法に、正解なんか存在しない。
だからこそ、自分の選んだ道を信じる力が必要なんだと思う。

  シンプルフレーズ

 

保険があるから、安心できる。
それも事実。

 

でもね・・・
夢に必要なのは“安心”だけじゃない。
「私はこの道でいい」って、決める勇気。

 

世界がどう言おうと、
学校がどうであろうと、
あなたの人生は、あなたのもの。

 

選んだ道を、恥じなくていい。
行けない日々を、負けにしなくていい。

 

夢は、学校に通うことで生まれるんじゃない。
夢は、「自分の気持ちを捨てない」ことで残り続ける。

 

最後に一言だけ置いておくね。

「夢は、保険で守るものじゃない。覚悟で育てるものだ。」

どうせ最後は、みんな同じ場所に行き着くんですから。

それなら、誰かが決めた「正解」を演じるより、 自分の選んだ「間違い」を愛した方が、 よほど明るい諦念に浸れると思いませんか?

学校に行ってもいい。 行かなくてもいい。

あなたの絶望も、あなたの希望も。 全部、あなたの自由です。

さあ、今日はどの「保険」を捨ててみましょうか?

皆様、今夜もグラスを傾けていますか?

 

私は今、心地よいアルコールの霧の中にいます。

 

かつての私――「まとも」な人生のレールを走っていた頃の私――から見れば、今の姿はさぞかし無様で、堕落しきった「負け犬」に見えることでしょう。 でも、不思議ですね。

 

今の私は、その無様さが愛おしくてたまらないのです。

「酔える私」になってしまった日々と、それでも今を選ぶ理由

 

  あの頃の私が見たら、きっと驚く

 

私は今、お酒に酔っている。
そして、気づけば毎日のようにお酒を飲めるようになった。

 

結婚していた頃の私には、想像もできない姿だと思う。


「堕落した」って言われたら、否定できない気もする。
だって、あの頃の私は“ちゃんとした私”だったから。

 

でも・・・不思議なことに。
今の私は、誰にも見せられないような生活をしているわけじゃない。

 

同僚や友人と楽しくお酒を酌み交わして、
ちゃんと笑って、ちゃんと楽しい時間を過ごせている。

 

・・・だから余計に、自分の中で言葉が揺れる。
「これは逃げ?」
「それとも、ただの新しい生き方?」

 

誤解しないでくださいね。

過去が苦しかったわけではないんです。 

ただ、「別の楽しみ方」を見つけてしまっただけ。 

たとえそれが、世間様から「現実逃避」と呼ばれようとも。

 

  過去が苦しかったわけじゃない。でも、今は今で魅力がある

 

誤解されたくないのは、ここ。

過去が地獄だったわけじゃない。
あの頃には、あの頃の幸せがあった。


守られていたし、整っていたし、制限の中にも安心があった。

 

もし、「あの頃に戻れるボタン」があったら? 

ええ、私は迷わず押すでしょう。

喜んで、あの不自由で、でも何かに守られていた日々に戻りたいと言うでしょう。

 

でも、戻れない。
やり直しなんて、ない。

 

だから今の私に残された自由は、
「今を楽しむこと」だけなんだと思う。

お酒に逃げているって言われたら、否定できない。


過去の私から見れば、今の私は「ありえない姿」。 

でも、今の私から見れば、過去の私は「二度と手に入らない、贅沢な苦しみ」の中にいた。

 失ったからこそ、あの頃の不自由さが、今では宝石のように眩しく見える。

 

なんて皮肉な話でしょう。


過去の私からしたらありえないだけで、
今の私は、ただ“今の人生”を生きているだけ。

 

  私は過去に縛られているんじゃない。過去に持てなかったものを、今持ってるだけ

 

私、思ったんだよね。

今の私は、過去に縛られているわけじゃなくて、
過去に手にできなかったものを、今手にしているだけなんだって。

 

人は皆、持っていないものに魅力を感じます。

隣の芝生はいつだって青いし、失った楽園はいつだって美しい。 

でも、私はもう、何も持てないし、何もできない身。

 

持てるのは、この手に収まる分だけ。 できるのは、今日をなんとか凌ぐことだけ。

だからこそ、過去の私から見たら、今の私は魅力的かもしれない。


・・・でも、今の私から見たら、
「制限の多い過去の私のほうが良かった」って思う時がある。

 

それって、失ったからこそ感じられる感情なんだと思う。
二度と戻れないからこそ、言えること。

 

人って、持っている時は当たり前で、
失った時にようやく“価値”が見える。

・・・これ、たぶん格言みたいに言うならこう。
「失ってから気づくのは、弱さじゃなくて人間らしさ」

 

だからこそ私は、今の私が持っているもの「今、手の中にあるもの」に、フォーカスしたい。


他人と比べて、誰かの何かを羨ましく思うのも自然。
無いものねだりって、誰だってやる。

 

でも私は、
持てるものは持てる分だけ。
できることはできることだけ。

 

だから・・・今あるものに、全力で“楽しさ”と“魅力”を詰め込む。
たまたまそれが、毎日お酒を飲めることだった。

 

・友人や同僚と、笑いながら食事ができること。

・毎日、お酒を飲んで「あぁ、楽しかった」と脳を誤魔化せること。

たったそれだけのこと。 

でも、かつての私が「正しさ」と引き換えに捨てていた、最高の非日常がここにあります。

 

過去にもできたかもしれない。
手に入れられたかもしれない。
・・・でも、できなかったことが今できる。

こんなに素敵なこと、ないと思う

  負け犬の遠吠えでもいい。私は今日も生きてる。それで十分だ

 

他の誰かから見たら、
「負け犬の遠吠え」って言われるかもしれない。
「敗北主義だ」って言われるかもしれない。

どうぞ、お好きなラベルを貼ってください。

 

私は今を生きられている。

明日も立派な「社畜」として社会の歯車になります。 

今の私には、それで十分。 いえ、それこそが「生きている」という最高の娯楽なのです。


・・・十分だ。

 

幸せとか魅力とか、必要なものって言い出したらキリがない。


でも、ひとつだけ確かなのは、

「あぁ楽しかった」って言える日を増やすには、
新しい目標や娯楽や魅力を探し続けるしかない」

 

私は今、その途中にいるだけ。

もしまた、人生のガラクタの中から「新しい魅力」を見つけたら、話すよ・・・

・・・シンプルフレーズは、こうなったら素敵だと思う。
「戻れない過去を美化するより、今の私に似合う楽しさを、ちゃんと選べる人でいたい。」

 

今夜は、このあたりで。 皆様も、どうか「今あるもの」だけで、最高に贅沢な夜をお過ごしください。

乾杯。

絶望という名の、一番輝く宝物の見つけ方

 

皆さま、今日も「正解」を探して指先を滑らせていますか?

SNSに溢れる「丁寧な暮らし」
「理想の家族」
「素敵な夫婦」
「幸せな母」

・・・その多くは、誰かが書いた台本です。


しかも厄介なことに、あれは“憧れ”に見える顔をして、私たちを静かに疲れさせる。

今日は、その台本をなぞるのに疲れた人へ。
とびきり残酷で、でも不思議と美しい話をします。

 

  自分で触れたものしか、血肉にならない

アン・サリヴァンがヘレン・ケラーの手に「水」を流したあの日。


冷たさに震えた感覚と、手のひらに綴られた言葉が結びついて、
“記号”だったものが、“実体”になった。

あれは、教えたというより、触らせたんですよね。

 

私たちも同じです。

「火は熱い」と知識で教わるのと、
うっかり触れて「アツいッ!」と叫ぶのとでは、まったく違う。

 

この世界には、
感じないと分からないことがある。
いや、正確に言えば、感じて初めて“自分のもの”になることがある。

 

自分で見つけた痛みや手触りだけが、
私たちの血肉になり、人生の中で「宝物」になっていく。

でも大人になると、私たちはその“手触り”を忘れます。

 

なぜなら、社会がこう言うから。

「感じなくていい。正解を覚えろ」
「体験しなくていい。効率よく生きろ」
「転ばなくていい。失敗するな」

・・・はい、ここで人生は一気に退屈になります。

 

  「綺麗」が「損得」に変わる時

 

子供の頃、カブトムシを見て「カッコいい」と思った。
あれは理屈じゃない。身体の反応。

そして触った瞬間に知る。
足が食い込む感覚。顎の力。生き物としての圧。

その時カブトムシは、ただの虫じゃなくなる。


“畏怖すべき生命”になる。

 

ところが大人になると、世界はこう変質します。

ビー玉を見て「宇宙だ」と思っていたのに、
いつしか「ただの硝子玉」と呼び、値札が付いた「トンボ玉」を有難がる。

河原の石を見て、ただの石として切り捨てる人がいる一方で、
水切りの“向き不向き”を語り出し、そこに是非を持ち込む人がいる。

タンポポを見て「綺麗」と言う子供と、
「根が強い雑草」と言う大人。

ここで起きていることは、単純な成長ではないんだろう。

 

経験が増えると、視点が増える。
視点が増えると、世界の解像度が上がる。
でも同時に、そこへ忍び込む。

損得
評価
役に立つ/立たない
正しい/間違い

つまり、世界が「発見」から「査定」に変わっていく。

 

私たちは賢くなったんじゃない。
査定癖がついただけです。

そしてこの査定癖は、最後に“最も大切なもの”へ向けられます。

 

  結婚という、倫理の檻と崩壊の輝き

 

子育ては、確かに逃げ場がない試練です。
でも、まだ救いがある。

なぜなら子育てには、最初からこういう前提があるから。

「試行錯誤していい」
「うまくいかなくて当然」
「正解は一つじゃない」

・・・苦しいけれど、模索は許されている。

 

問題は結婚です。

 

結婚は、なぜか“未完成”が許されない。

世間が押し付ける
「モラル」
「一般常識」
「倫理観」

それが本来、互いを守るためのものだったとしても、
現実ではしばしば「縛るための檻」になる。

夫婦がすれ違う。
すり合わせようとする。


模索している最中なのに、社会はもう判定を始める。

「それはダメ」
「普通じゃない」
「我慢が足りない」
「努力が足りない」

そして、ふと頭をよぎる二文字。

離婚

世間はそれを「失敗」と呼ぶ。
でも私は、こう呼びたい。

結婚観の崩壊という、最高の宝物を見つけた瞬間。

なぜなら、崩壊したのは“愛”じゃない。


崩壊したのは、“台本”です。

理想の夫婦像。
理想の妻像。
理想の夫像。
「こうあるべき」のセット。

その瓦礫の中からしか、見えない空がある。

崩壊は終わりじゃない。


自分の価値基準が、ようやく発見される入口

 

  明るい絶望は、誰にも奪えない宝物になる

 

結局、人生って、
子供の頃に拾った“光る石”を、また見つけようとする旅なんだと思います。

理想が砕けた時。
台本が破れた時。
「正解」が通用しなくなった時。

 

その瞬間にしか、触れられないものがある。

「ああ、これが、私の人生の温度だったんだ」

この“明るい絶望”こそが、血肉になる。

 

誰にも奪えない。
誰にも代わってもらえない。
あなただけの宝物です。

 

 シンプルフレーズ(今日の結論)

 

「絶望は、正解の台本が燃え尽きた後に残る“本物の手触り”だ。」

 

さて、最後にひとつだけ問いかけます。

理想の結婚。理想の自分。理想の教育。
その「キラキラしたゴミ箱」を、あなたはいつまで抱えますか?

あなたが今、いちばん捨てたい“綺麗なゴミ”は何ですか。

なんだか最近、ずっと「何かしなきゃ!」っていう焦り抱えていませんか?

 

新しい服を買っても、
美味しいものを食べても、
誰かと会って笑っても、
予定を詰めて忙しくしても。

その瞬間はまぎれるのに、
家に帰って一人になった途端、また静かに戻ってくる。

 

「なんでだろう」って思うのに、理由が言葉にならない。

 

それでも明日もちゃんと動いて、ちゃんと頑張ってしまう。

たぶん、それが“埋まらない心の穴”の感じです。

 

「埋まらない穴」の正体は、外じゃなく“自分の中”にあるのかもしれない

 

  探しているのは「モノ・コト・人」じゃないのかもしれない

 

私たちは、何かが足りないと感じた時、つい外側を探してしまいます。

  • もっと良い環境

  • もっと分かってくれる人

  • もっと楽しい予定

  • もっと意味のある何か

  • もっと満たされる買い物

でも、探しても探しても、手に入れても手に入れても、
なぜか“埋まらない”。

 

入れても入れても入れても、埋まらない。

それって、穴が深いからじゃなくて、
「そこに入れるものが違う」からかもしれません。

 

  心の穴の正体は「失ったもの」だけじゃない

 

もちろん、穴ができる理由はあります。

大切な人を失った穴。
大切な時間を失った穴。
大切にしていた何かが壊れた穴。
自分の中の“信じてたもの”が折れた穴。

そういう穴は確かに存在するし、痛い。

そして、代わりで埋めることもできます。
気を紛らわすこともできます。

でもまた、きっと同じように探し始める時が来る。

なぜなら、その穴は「失うとまた出来てしまう」から。
埋めたつもりでも、新しい穴が生まれてしまうから。

 

  本当は、最初から持っているものなのに

 

ここが一番大事なところです。

あなたが埋めようとしているものは、
本当は“外で見つけるもの”じゃないのかもしれません。

最初からあなたが持っていたのに、
いつからか気づけなくなって、
見つからなくなって、
分からなくなってしまったもの。

それはきっと、

  • 本当の自分

  • 本当の気持ち

  • 大切な想い

  • 「私はどうしたい?」という声

そういう“自分の中心”みたいなもの。

 

穴の正体は、欠けたモノじゃなくて、
「自分の気持ちを受け取れなくなった状態」なのかもしれません。

  だから必要なのは「癒し」なのかもしれない

 

あなたに本当に必要なものは、
「モノ・コト・人」ではなく、ただただ癒し。

癒しって、何か特別なことじゃなくていいんです。

むしろ、派手なことは要らない。

必要なのは、自分の中と、自分自身と、自分の想いに向き合う“時間”

外を探すのは、もう十分じゃないですか。
十分探したんじゃないですか。

次は、自分の中を探してみてほしい。

 

  自分と向き合う時間って、こういう時間

 

「向き合う」って言うと、ちゃんと何かを考えなきゃいけない気がするけど、逆です。

  • 何もしない時間

  • 何もない時間

  • 何も見ない

  • 何も聞かない

  • 何も考えない

そういう時間。

忙しくて、慌ただしくて、
家事や育児に追われて、
仕事に追われて、
「自分のための時間」を後回しにしてきた人ほど、

この“何もしない時間”が一番難しい。

でも、それが一番効く。

なぜなら、その静けさの中でしか、
本当の自分の声って聞こえてこないから。

 

  本当のあなたは、あなたに語りかけてくる

 

自分を癒してあげてください。

自分の気持ちを癒してあげてください。
本当の自分を癒してあげてください。

 

その時きっと、本当のあなたがあなた自身に語りかけてくれるはずです。

 

「私、本当はこう思ってた」
「私、本当はこうしたかった」
「私、ずっと我慢してた」
「私、寂しかった」

そういう“特別な想い”を、やっと受け取れるようになる。

  心の穴を埋めるのは「外の何か」じゃなく「気づいてあげること」

 

あなたの中には、必ずあります。

 

今まで探しても、
見つけたと思っても、
入れても入れても埋まらなかったもの。

それは外にはなくて、あなたの中にある。

 

だから今日、ひとつだけ。

ほんの10分でもいいから、
「自分を癒すだけの時間」を取ってみてください。

何かを頑張る時間じゃなくていい。
何かを達成する時間じゃなくていい。

ただただ、自分の想いを・・・感情を・・・願いを・・・

聞いてあげる。

自分の言葉に耳を傾ける

 

言いたいけど言えない思い

分からないけどモヤモヤする感じ

どうしようもない焦燥感

 

ただ、自分に戻るために使う時間。

それが、あなたの心の穴を埋めていく方法だと、私は感じています。

朝、目覚ましは鳴る。
起きて、支度をして、いつもの場所へ向かう。
特別なことは何もないし、昨日と今日の違いもほとんど分からない。

 

「このままでいいのかな」
そんな問いが、ふと浮かぶことがある。

 

でも同時に、こうも思う。
「変えたところで、何が良くなるんだろう」
「失敗したらどうする?」
「今より悪くなったら、立て直せる?」

考えれば考えるほど、動けなくなる。


だからといって、考えるのをやめても、時間だけは勝手に進んでいく。

何もしなければ安全かと言われれば、そんなこともない。
何も選ばなくても、何も賭けなくても、
人生は一方的に“消費”されていく。

動かないのも怖い。
でも、動くのも怖い。
そんな板挟みの中で、
「正解が分からないまま生きている人」は、きっと少なくない。

 

――ここから先は、
そんな“動けない時間”を何度も通ってきた私の、
今の考え方の話です。

 

エンジンが私なら、選択肢はきっとタイヤくらい数がいる

  動かなければ何も変わらない。でも、動くのは怖い

 

部屋から出なければ、素敵な人には出会えない。
宝くじは買わなければ当たらない。
映画は観なければ楽しめない。
歌は聴かなければ歌えない。

当たり前の話なのに、人生になると急に難しくなる。


なぜなら、そこにはいつも「リスク」がついてくるから。

安全と安心が担保されている状況なんて、滅多にない。
むしろ現実は、助かる道が用意されていないことの方が多い。


それでも時間は流れる。

その残酷さが、思考を加速させる。
「どうすればいい?」
「何が正解?」
「失敗したらどうしよう?」

考えるほどに、頭の中で同じ場所を回り続ける。
けれど現実は、待ってくれない。

 

  考え続けても答えが出ないとき、必要なのは「負荷」

 

ここで私は気づく。
正解が分からないときって、情報が足りないんじゃなくて、
“思考だけで完結する問い” になっていることが多い。

 

凝り固まった意識や思考は、
どれだけ思案しても、同じ材料で同じ結論を繰り返す。

だから、状況を変えるには、動くしかない。
でも、短絡的に感情で突っ込んだら、状況は悪化しやすい。

 

そこで出てくるのが、今日の核心。

「賭け方が“現実を動かす負荷”になっているか?」

ここでいう負荷は、根性でも根性論でもない。


現実が反応せざるを得ないレベルの「行動量」と「密度」のこと。

・ちょっと調べた
・一回だけやってみた
・気が向いたときに少し触った

この程度だと、現実はほぼ動かない。
現実が動かないから、また「分からない」が続く。


そして思考は加速し、焦りだけが増える。

つまり、現実が動かない時って、
私が弱いんじゃなくて、負荷が足りないこともある。

  小さく賭け続けると、安パイ癖と永遠の試運転になる

 

とはいえ、無鉄砲に全てを賭けるのは危険。
それもまた現実だ。

 

じゃあ「分割して賭ける」のが正解か?
 

ここで私は、別の怖さにぶつかる。

分割して賭け続けたら、
安パイに賭ける癖がつくんじゃない?
小さく賭けて、小さく撤退して、
結局“変わらない自分”を繰り返すだけじゃない?

この不安、すごく分かる。


小さな賭けは「安心」をくれる代わりに、
“人生が動くほどの衝撃”を奪うことがある。

 

だから私の落としどころは、こうなる。

「分割でオールベット」

人生丸ごと一発勝負じゃない。


でも、一回の期間の中では中途半端にしない。
そして賭け先は複数持つ。

私はエンジン。
タイヤを複数つけて、接地面を増やす。
一つに全てを預けて滑るより、
複数のタイヤで地面を掴みながら前に進む方が合理的。

 

  安全はない。だから「賭け方」に秩序を入れて前に進む

 

結局、助かる道がないことの方が多い。
それでも時間は流れる。

 

だから私は、
「安全になったら動く」ではなく、
動けるように賭け方を設計する

その設計の中心はこれ。

  • 情報収集で地雷を減らす(ゼロにはならない)

  • 一回の期間はオールベットで踏む(現実を動かす負荷をかける)

  • ただし賭け先は分ける(全部が崩れても私が残るように)

  • そして何より、「自分の時間を自分のものとして扱う」

私が賭ける時間は有限で貴重だ。


だからこそ、
曖昧に薄く賭けて消耗するんじゃなく、
現実が動く密度で賭ける。

安全は無い。


でも、秩序は入れられる。
そしてその秩序が、私を壊さずに前へ運ぶ。

最後に、私の今のシンプルフレーズはこれ。

「現実を動かす負荷で賭ける。私はエンジンで、タイヤは複数。」

・・・多分、これが今の私の前進の仕方なんだと思う。
まだ完璧な正解は分からない。
でも、戻れないから進むしかない。
だから私は、賭け方だけは自分で選ぶ。