命令は聞ける。けれど、責任を隠したお願いは聞けない。

「分かって欲しい」なんて論外だ。

 

分かって欲しいって何だろう?

命令やお願いなら、相手の意図を知ることが出来る。

 

でも、「分かって欲しい」って・・・恋愛ならまだギリ分かる。

どれだけ忖度しても答えにたどり着ける自信が無い。

 

私は人の感情が分からないから・・・

優しい言葉ほど、無責任なことがある

  「お願いだから」がしんどい理由。命令のほうがまだ誠実だと思う話

 

世の中では、命令する人より、
お願いしてくる人のほうが優しいことになっている。

 

強く言う人より、
柔らかく頼む人のほうが感じが良いことになっている。

 

そして、
「分かって欲しい」と言う人は、
傷ついた側で、繊細で、真っ当な人みたいに扱われやすい。

 

でも、私はずっとそこに違和感があった。

むしろ逆じゃないかと思うことが多かった。

命令のほうが、まだ筋が通っている。
お願いのほうが、よほど無責任なことがある。
「分かって欲しい」は、相手に責任を押し付ける言葉になりやすい。

 

そんなふうに感じる場面が、
仕事でも、人間関係でも、何度もあった。

今日はその違和感を、
ちゃんと言葉にしてみたいと思う。

 

  命令は乱暴でも、責任を持つという表明がある

 

命令と聞くと、あまり良い印象はないと思う。

偉そう。
高圧的。
支配的。
上から目線。

たしかに、その通りな部分もある。
命令には圧がある。
重さがある。
言われた側は気分の良いものではない。

 

でも、それでもなお、命令にはひとつだけ・・・
お願いよりも明確なものがある。

 

それが、責任だ。

「これをやれ」
「こうしろ」
「これで進めろ」

命令するというのは、
相手を動かすということだ。
相手に負荷をかけるということだ。
その結果、失敗もあれば、不満もあるし、反発だって返ってくる。

 

それでも言う。
それでも指示する。

ということはつまり、
少なくとも建前の上では、
命令する側が責任を持つという表明なんだと思う。

 

有名な言葉を借りるなら、まさにあの感じだ。

「撃って良いのは、撃たれる覚悟のある奴だけなんだ」

命じて良いのは、
命じた結果を自分に返される覚悟がある人間だけだ。

だから命令は怖いけれど、
まだ分かりやすい。
誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰に返せばいいのか。
そこが見える。

この「見える」というのは、案外大きい。

  「お願いだから」は、優しさじゃなく責任回避になることがある

 

一方で、お願いはどうだろう。

「お願いできる?」
「できたらでいいんだけど」
「無理なら仕方ないんだけどさ」
「ちょっと頼んでもいい?」

言い方は柔らかい。
角も立ちにくい。
いかにも優しそうに聞こえる。

 

でも、ここにずっと引っかかっていた。

お願いって、
やってもらうことは求めるのに、責任は持たない形になりやすい。

できたら、相手の善意のおかげ。
できなかったら、
「いや、お願いしただけだし」
「無理なら仕方ないって言ったよね」
で終われてしまう。

これ、かなり便利なんだよね。

人を動かしたい。
でも、命令した責任は持ちたくない。
失敗した時に、自分の指示だったとは言いたくない。
相手が動かなかったとしても、強制はしていないと言いたい。

 

その逃げ道を、
優しい言い方で確保しているように見えることがある。

つまりお願いは、
優しい顔をしているけれど、

責任を受けない指示

になりやすい。

ここがしんどい。

 

命令なら、まだ腹を立てやすい。
「ああ、この人が言ったんだな」と分かるから。

 

でもお願いは違う。
断ると、こちらが冷たく見える。
空気が悪くなる。
気が利かない人みたいに扱われる。
善意が足りない人みたいに見られる。

 

だからお願いは・・・
柔らかいのに逃げ場がない。

そのしんどさを、優しい言葉は隠してしまう。

そのせいで、凄く息苦しくなってしまうのは私だけなんだろうか・・・?

  「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける

 

そして、もっと厄介なのがこの言葉だと思っている。

「分かって欲しい」

この言葉は、とても切実に聞こえる。
苦しさや寂しさもにじむ。
だから否定しづらい。
むしろ、否定したら自分が冷たい人みたいに感じてしまう。

でも、この言葉もまた、
かなり危うい構造を持っている。

 

なぜなら、
理解できなかった責任を相手に押し付ける言葉になりやすいからだ。

 

本来、何かを伝えるなら、
まず責任があるのは伝える側のはずだ。

どう言えば伝わるか。
何を省かずに話すか。
どこで誤解されるか。
どんな言葉を選ぶか。

その責任を引き受けた上で話すのが、本来の順番なんだと思う。

 

なのに、
それを飛ばして
「分かって欲しい」と言われると、分からない側が悪者になりやすい。

察せない人。
冷たい人。
鈍い人。
思いやりのない人。

でも、違うはずだ。

分かることは義務じゃない。
理解は強制できない。
共感は命令できない。

それなのに「分かって欲しい」は、その義務のないものを、
相手の責任に変えてしまう。

 

だから私は、この言葉がしんどい時がある。

切実な言葉だからこそ、なおさら重たい。
そして、重たいくせに責任の向きが曖昧なんだ。

  本当に怖いのは、強い言葉じゃなくて、責任を隠した言葉かもしれない

 

世の中はよく言う。

命令するな。
もっとやさしく言え。
気持ちを分かってあげろ。
察してあげろ。
思いやりを持て。

 

もちろん、それがちゃんと成立する関係もあると思う。


断っても責められない関係。
分からなくても怒られない関係。
お互いに責任の線を越えない関係。

そういう相手なら、
お願いも優しさになるし、
「分かって欲しい」も対話の入口になる。

 

でも、現実はそんなにきれいじゃない。

 

職場でも、家庭でも、人間関係でも、
責任を取りたくない人ほど、
やさしい言い方を使うことがある。

「お願いね」
「できる範囲でいいから」
「このくらい分かるよね?」
「普通ここまで言わなくても察するよね?」

こういう言葉のほうが、
怒鳴り声より長く残ることがある。

 

強い言葉は傷として見えやすい。
でも、責任を隠したやさしい言葉は、
こちらが悪いのかもしれないと錯覚させる。

それが一番やっかいだ。

 

  だから私は、命令のほうがまだ誠実だと思ってしまう

 

誤解してほしくないのは、
命令が好きだと言いたいわけじゃない。

命令は重い。
嫌だ。
怖い。
疲れる。

でも、それでもなお、
お願いや「分かって欲しい」より、
まだましだと思う時がある。

 

なぜなら命令には、
責任の所在が見えるからだ。

誰が言ったのか。
誰が決めたのか。
誰が引き受けるのか。


そこが見える。

でもお願いは見えにくい。
「分かって欲しい」は、もっと見えにくい。

 

見えない責任は、
気づかないうちに相手へ流れていく。
だから人は疲れる。
だから苦しくなる。
だから、やさしい言葉なのに息苦しくなる。

 

私はたぶん、
命令が好きなんじゃない。

責任を隠して人を動かす言葉が嫌いなんだ。

ただ、それだけなんだと思う。

  優しさより先に、責任を見たい

 

言葉の温度と、誠実さは一致しない。

冷たい言葉でも誠実なことはある。
やさしい言葉でも無責任なことはある。

命令は、命令する側が責任を持つという表明だ。
お願いは、責任を受けない指示になりやすい。
「分かって欲しい」は、理解できない責任を相手に押し付ける常套句になりやすい。

 

だから私は、
やさしい言い方かどうかより先に、
その言葉の責任を誰が持つのかを見たい。

本当に優しい人は、
口調が柔らかい人じゃない。
自分の言葉の責任から逃げない人だと思う。

 

やさしい口調で責任を逃がすくらいなら、
重たい言葉でも責任を引き受けるほうが、
まだ誠実だ。

そういう人の言葉なら、私はまだ聞ける気がする。

たぶんさ。

自己否定って、謙遜という名の美徳として・・・かなり広く浸透してるんだと思う。

「私なんて」
「全然ダメで」
「まだまだです」

これ、もう癖みたいなものだよね。

 

その上に、「人に迷惑をかけちゃいけない」

っていう刷り込みがある。

執着を捨てろ。
自己を捨てろ。
欲を捨てろ。

それが正しい、みたいな空気。

 

仏教的価値観って言えば綺麗に聞こえるけど、
言い方を変えれば、状況と環境に流される他力本願な生き方
って、言ったら怒られるのかな?

 

でも、現実ってそうじゃない?

過剰な謙遜は美徳のように扱われるが、それは時に「言い訳」の隠れ蓑になる。

「自分は選んでいない」「できないから」「悪い奴だから」……。 

そうやって自分を低く見積もることは、結局、何かあった時に「人のせい」にする理由を作っているだけではないか?

 

世の中は、何かを「できる」ように、何かを「持つ」ようにと急かしてくる。 

仕事の成功、家族の感謝、人より優れた立場。

 

自分のことを自尊して、
少し誇って、
尊ぼうとした瞬間に、

自己中。
わがまま。
ナルシスト。
「めんどくさい。」って言われるのが世の常だろう。

 

でも私は思う。己惚れているくらいが丁度いい。

己惚れって、他人を下に見ることじゃない。

自分を評価するときに、+αで見るってことだ。

 

どうせさ。

自分の自己評価と、他人の評価が一致することなんてない。

 

他人から見たら、十分魅力的な部分もあるかもしれない。

肩書きで持ち上げられることもある。
リップサービスもある。
先入観もある。

それも全部、自分に向けられた評価だろ?

 

だったら、それも含めて自分だって
言い切っていいんじゃないか・・・?ダメかな?

 

己惚れているって聞くと、なんか痛いイメージが浮かぶ。

でもさ。

己惚れている人って、

行動力あるよ。
発言力あるよ。
意欲あるよ。

 

何より、ミスも後悔も「自分が選んだからだ」って受け止められる。

これ、めちゃくちゃ大きい。

自己否定や謙遜が過ぎると、

「自分は選んでない」
「出来ないから仕方ない」
「環境が悪い」
「誰かのせい」

って、そっちに流れやすい。

 

私はね・・・それでは耐えられない。弱いから・・・

 

世界の不条理も、苦しみも、悲しみも、全部人のせいにし始めたら、

私はたぶん・・・復讐の鬼になってる。

善悪とか関係なく、行為に走る未来が見える。

それくらいの波乱は、正直楽しませてもらったからね。

 

でも、そうならないのは、

きっと私は・・・自分に酔ってるからだ。

己惚れて、
自惚れて、
うぬぼれている。

 

それは、不安と不満に押し潰されそうな現実の中で
生きるために必要なんだと思っている。

自分を少し高く見積もらないと、この世界は重すぎる。

 

「自分を大切に出来ない人は他人も大切に出来ない」

って言葉、よく聞くけどさ。

そこまで難しくなくていい。

マキャベリも言ってる。

人は利己的だ。

 

マルクスだって、
行為の結果は本人が受け取るって話だし。

 

ハイデガーだって、
話せる間は生きているって言ってる。

 

formyselfでいいじゃないか。

DIYだよ。

 

己惚れって、DIYなんだと思う。

Do It Yourself。

自分の人生は、自分で作っていい。

他人の評価に合わせて削らなくていい。
謙遜という名のヤスリで、
自分を削り続けなくていい。

 

己惚れているくらいが、ちょうどいい。

それは傲慢じゃない。

責任を引き受けるための、
最低限の自己肯定だ。

私は今日も、少しだけ自分に酔って生きる。

その方が、復讐よりずっと健全だから。

できないことを、できないと明らかにして、受け入れる。 

ありのままを目指すのではなく、自分の器の分だけで満たされる道を選ぶ。

私は今日も、自分のために用意した「うぬぼれ」という名のペンキを塗り、ピエロとして舞台に立つ。 

それが、この不条理な世界を生き抜くための、私なりの誠実さなのだ。

人生の重要な選択・・・なんて言葉を聞くと、
なんだか立派で、重たくて、ちゃんと考えなきゃいけないものみたいに聞こえる。

 

進学、就職、結婚、離婚、転職、独立。


世間はそういう場面を「人生の分かれ道」と呼びたがる。

でも、生きにくさを感じながら生きている人間からすると、
そんな“人生の重要な選択”って、いつでもあるし、同時に、いつもない。

 

だって実際は、
そんな大それた決断をして生きているというより、
状況と環境に流されながら、なんとか今日を終わらせているだけの日の方が多いからだ。

人生の重要な選択なんて、いつでもあるし、いつもない

そして正直、その方が楽だ。

何も考えない。
責任を背負わない。
自分で決めたことにしない。
上手くいかなければ、環境のせい、相手のせい、社会のせいにできる。

 

それの何が悪いんだろう?

 

責任から逃げるのは、そんなに罪深いことだろうか。
この世界で、好き好んで責任なんて重荷を抱えたがる人が、いったいどれだけいるんだろう。

 

今日はそんな、
「選べないこと」もまた人間らしさなんじゃないかという話を書いてみたい。

 

  人生の重要な選択なんて、あるようでない

 

人生には大事な選択がある・・・
たしかに、それはそうなんだと思う。

 

でも同時に、
本当に自分で選んでいる瞬間なんて、そんなに多くない気もしている。

 

気付いたらそこに居て、
気付いたら流れに乗っていて、
気付いたら決まっていて、
気付いたら「これで良かったのかな」と考えている。

 

そんなものじゃないだろうか?

 

自分で選んだつもりでも、
その“自分”自体が、環境や状況や人間関係や空気に作られている。

 

だったら、
人生の重要な選択なんて、
本当は「私が選んだ」の前に、
「そうせざるを得なかった」の積み重ねなのかもしれない。

 

そう考えると少し楽になる。

だって、選べなかった自分を責め続ける必要がなくなるから。

 

  流されて生きる方が、正直ずっと楽だ

 

何も考えずに流される。
これは怠惰でも、甘えでもなくて、ある意味ではとても合理的だと思う。

 

自分で決めるということは、
自分で責任を引き受けるということだ。

 

しかも厄介なのは、
責任を引き受けたからといって、別に救われるわけじゃないことだ。

頑張って決めても失敗する。
勇気を出して選んでも後悔する。
真面目に考えても報われない。

 

だったら、最初から流されていた方が楽だ。
責任を曖昧にできるから。
言い訳ができるから。
他人を批判して笑って、自分を諦めたふりができるから。

 

でも、人間はそこまで綺麗に諦めきれない。

自分を手放そうとしているのに、
誰かより優位に立ちたいと思ってしまう。
どうでもいいふりをしているのに、
見てほしい、分かってほしいと思ってしまう。

諦めたいのに、諦めきれない。
手放したいのに、拾いに行ってしまう。

この矛盾があるから、生きるのは面倒なんだと思う。

  選べないんじゃない、選びたくない時がある

 

何が大切なのか。
何が重要なのか。
何を優先すべきなのか。

そんなこと、本当は考えた方がいい。


きっと、世間的にはそうなんだろう。

 

でも、考えたくない時がある。

なぜか・・・?
考えれば考えるほど、
自分が何を捨てて、何を選ぶのかを突きつけられるからだ。

 

選ぶということは、
選ばなかった方を捨てるということでもある。

 

人は、これが案外できない。

「あっちだったらどうなっていたんだろう」
「別の道なら、もっとマシだったかもしれない」
「本当は違う選択があったんじゃないか」

そうやって、選ばなかった可能性をいつまでも眺めてしまう。

だから選択は重たい。
だから選択は面倒だ。
だから時には、考えない方が楽になる。

 

それは逃げだろうか?

 

私は、逃げでいいと思っている。
逃げることが悪いんじゃない。
逃げることでしか守れない自分だって、ちゃんと居るからだ。

 

  後悔とは、過去を受け入れられない自分の言い訳だ

 

結局、何を選んだって後悔する。

選んでも後悔する。
選ばなくても後悔する。
ちゃんと考えても後悔する。
勢いで決めても後悔する。

なぜなら人は、結果だけを見てしまうからだ。

 

過程を見ろと言われても、
実際は結果で判断される世界に生きている。


そしてその価値観を、私たち自身もどこかで信じてしまっている。

だから、後悔したくないと思う。
間違いたくないと思う。
失敗だったと認めたくないと思う。

でも、それでも後悔は無くならない。

私は最近、後悔って、
単なる失敗の証拠じゃない気がしている。

 

後悔って、
過去と向き合って受け入れるための、受け入れられないという言い訳なんじゃないかと思う。

あの時こうすればよかった。
あっちを選べばよかった。
なんで私はああしたんだろう。

そうやって過去を責め続けるのは、
過去を本当に受け入れたわけじゃないからだ。

 

でも逆に言えば、
後悔しているということは、
まだその過去が自分の中で終わっていないということでもある。

 

つまり後悔は、醜さでも弱さでもなく、
まだ自分が自分を処理しきれていない証拠なのかもしれない。

  どれだけ磨いても、後悔はたぶん消えない

 

人間性を理解したら後悔しなくなるのか。
感情を理解したら選択は上手くなるのか。
自分を磨いて、学んで、考えて、成熟したら、後悔は減るのか。

・・・たぶん、少しは減る。
でも、無くなりはしない・・・・・・・・・・・・

 

なぜなら人は、
後悔しないために成長するのではなく、
後悔に意味を与えるために成長しているような気もするからだ。

賢くなっても後悔する。
優しくなっても後悔する。
覚悟を持っても後悔する。

 

それでも人は、
「これで良かった」と言える理由を探し続ける。

 

結局、私たちは、
正しい選択を求めているようでいて、
本当は自分を納得させるための言い訳を探しているだけなのかもしれない。

 

そしてそれは、そんなに悪いことじゃないと思う。

人は利己的だ。
性悪説も持っているし、性善説も持っている。
善悪なんて、その時の自分に都合よく解釈する。

 

だからこそ・・・
都合の良い言い訳と解釈が必要になる。

それが無いと、人は自分を引き受けきれないからだ。

 

  だったら「若さ」という才能で割り切ってもいい

 

だったら、もういいんじゃないかと思う・・・

何を選んだって後悔する。
選ばなくても後悔する。
そんなに物分かり良くもなれない。
悟ったような顔もできない。
いい子ちゃんにもなれない。

だったらせめて、
自分に対して「若さっていう才能」を使ってもいいんじゃないかと思う。

「若さっていう才能」これは某漫画の言葉だ。

 

ただ、私の言う若さとは、年齢のことじゃない。

 

やり直しができると思えること。
一人で責任を背負わなくていいこと。
後悔や過去に縛られず、勢いで動けること。
無知のまま飛び込めること。

 

そういうもの全部ひっくるめて、
私は若さって呼びたい。

若さって、未熟さじゃない。
若さって、やり直しが効くと思い込める才能だ。

それは、とても大きい。

 

慎重さや賢さや正しさより、
ずっと乱暴で、ずっと危うくて、でも、ずっと前に進める力がある。

 

  特性でも病気でもなく、ただの才能の無駄遣いでいい

 

今の時代は、何でも名前をつけたがる。

特性。
MBTI。
障害。
病気。
性格。
気質。

もちろん、それが必要な人もいる。
その言葉に救われる人もいる。
だから否定したいわけじゃない。

 

でも、何でもかんでも

「これはこういう特性です」
「こういう傾向ですね」
「こういう診断に当てはまりますね」
と説明されると、少し息苦しくなる時がある。

 

そんな綺麗な話じゃないだろう、と思う。

 

だってこっちは、
そんなに立派に整理されて生きていない。

ただ迷って、
ただ逃げて、
ただ怠けて、
ただ見てほしくて、
ただ分かってほしくて、
ただ後悔しているだけかもしれない。

 

だったらもう・・・特性でも病気でも障害でもなく、

ただの才能の無駄遣い

くらいの言い方の方が、案外ちょうどいいのかもしれない。

 

才能なんだから仕方ない。
上手く使えないのも、また才能。
雑に使って後悔するのも、たぶん才能。

そう思えたら、少しだけ笑える。
少しだけ、自分を責めずに済む。

  後悔するのが人間なら、言い訳もまた生きる力なんだと思う

 

人生の重要な選択なんて、
いつでもあるし、いつもない。

私たちは、自分で選んで生きているようで、
実際は状況と環境に流されながら、
その場その場でなんとかやっているだけなのかもしれない。

 

それでも、選ばなかった可能性を捨てきれず、
見てほしい、分かってほしい、負けたくないと思ってしまう。


だから苦しい。
だから後悔する。

でも、その後悔すら、
自分を受け入れられない自分の言い訳だとしたら。

言い訳って、そんなに悪いものだろうか・・・?

 

私はむしろ、
言い訳があるから人は生き延びられるんじゃないかと思う。

 

綺麗に納得できないから、言い訳する。
受け入れきれないから、後悔する。
割り切れないから、可能性を捨てきれない。

 

それが人間なんだと思う。

だったらせめて、
自分に向ける言い訳くらいは、少し優しくていい。

 

若さっていう才能。
無知の特権。
才能の無駄遣い。

そうやって少し笑いながら、
自分を責め切らずに生きる方が、
この世界では案外、大事なのかもしれない。

何を選んだって後悔する。
それでも選ぶなら、自分を責めすぎないための言葉を持っていたい。

そして私は今、少しだけ思う。

才能なんだから、仕方ない。
そう割り切れることもまた、
生きるための才能なのかもしれない。

生きにくいって、貧乏とか忙しいとかだけじゃない。

“私が私でいると、迷惑になる”
この事実が、生きにくさの正体だと思う。

  • 正直に言うと角が立つ

  • 疲れたと言うと甘えになる

  • 嫌だと言うと協調性がない

  • 泣くと情緒不安定

  • 怒ると器が小さい

  • 黙ると不機嫌

  • 元気だと調子に乗ってる

  • 頑張ると「もっとできるでしょ」

詰んでる。
何しても詰む。

この社会、人生をループゲームにするの上手すぎる。
バグじゃない。正規の世界の使用になっている。

「使われない方法」なんか知らない。「私は私を消さない」ただそれだけ。

 

人間関係も、会社も組織も、何もかも自分らしさを認めてくれない。

だから、個性を語るだけでマイノリティーになってしまう。

 

アクセサリーを付けて、オシャレに気を使ったら?・・・チャラい。遊んでそう・・・

真面目に、ルールを守っていたら?・・・面白みがない。真面目で付き合いにくい・・・

上司の顔を立てたら?・・・忠犬。

コミュニケーションが苦手なら?・・・変な人、何考えてる分からない・・・

家族を大切にしたら?・・・付き合いが悪い。

仕事を頑張ると?・・・家族を放置して仕事ばかり・・・

 

正解が無さすぎる。

程よく丁度いいなんて、それこそ誰に合わせた回答なんだ?

誰かに合わせれば、誰かの批判の対象になり・・・

自分を優先すると、自己中と言われる。

 

そりゃ生きにくくて当たり前。八方塞がりとはこのことだろう。

  それでも私は順応しない・・・というか、できない

 

世間に順応するのが賢い。
うん、分かる。

「順応できないなら、社会に向いてない」
たぶんそう。

 

でも私には向いてない。

順応しようとすると、
心の奥が拒否する。

「それ、あなたじゃない」
「それ、あなたの人生じゃない」
「それ、誰のための“正解”?」

そう言われる気がする・・・。

 

だから私は、搾取されない方法を探すより、
順応して賢く生きるより、もっと単純なことを守りたい。

 

私を消さない。

 

社会が生きにくいって、結局こういうことだ。

生きるために順応しろと言われるのに、
順応した瞬間、私は私じゃなくなる。

 

  「搾取されない方法」を探すのが、もう搾取

 

自己啓発本が言う。
「搾取されないスキルを身につけよう」
「価値を上げよう」
「市場価値を高めよう」

・・・うん。分かる。正しい。賢い。

でも、その時点で詰んでるんだよね。

だってさ、
“搾取されないために努力しろ”って、
もう搾取じゃない?

生き延びるために努力して、
努力するために時間を売って、
時間を売るために心を削って、
心が削れたら「自己管理が足りない」って言われる。

 

この世界、ほんとコスパが良い。
社会にとってはね。

 

私のコストを搾取する社会と世界ですよ。

  シンプルフレーズ

 

先人たちが作り出そうとした「理想の人材」になれなかった私。 

有用性も、有能さも、責任感も、どこかに置き忘れてきた私。

 

ごめんね。社会には私の居場所が無いみたいだから。

とりあえず、散歩して寝ます。

自分のコトが一番分からない・・・

自分自身を客観的に見ることが出来ない。

自分はこういう人間だって思いたいって言う感情がある

出来る人でありたいと、優秀な人でありたいと、願う自分が居る。

 

しかし、現実はそうじゃないっていう事実を突き付けてくる。

 

だから、言い訳できるように、被害が少なく済むように

自分が出来ない人間だってアピールもして、

誰かの助けが無いとダメな人だっていう、印象を持ってもらえるように振舞って

どうしようもないっていう自分を演出している・・・

 

っていう、つもりになって、

その実、どうしようもない自分を認めたくなくて

 

社会で上手く生きられる人間でありたいって思う自分が居るのに、

社会なんかで生きていける訳が無い!って批判する自分もいて

 

要するに、自分は常に相反する感情と思考のせめぎ合いで・・・

 

本当の自分の気持ちなんか置き去りにして、

常に他人にどう見られるか?どう見られたいか?に注目していて、

 

自分がどうしたいか?

 

を、見つめられていない。

例えば・・・

将来の夢・・・5年後・10年後自分が何をしているか?想像なんて出来ない。

ここで簡単に、もういなくなっていればいいなんて思ってしまうのは・・・

私の弱さなのか、現実を受けとめた事実なのか

お金の使い道だってそうだ。

貯金する?私は苦手だし嫌いだ。

投資する?私の運は最低ランクだ。買った株が終値で暴落なんてよくある。

趣味に使う?アクセ?服?靴?もちろん使います。

お酒を飲みにも行けば、ご飯だって食べに行きます。

美術館は好きだし、神社に行けば御朱印は必ず貰います。

娯楽と道楽に逃げている・・・っていう現実と、株やらなんやらにも手を出して・・・

どうしたいの?って言われたら、どうにかしたいです。

 

独立して、事業を起こしたいと思いはするが・・・

仕事をして、ブログを書いて、SNSを見て、運動をして、友人と遊んで、

時間があるようでない。

 

正直、私も良いお年頃です。

残りの人生の時間を考える時が増える。

 

いつまでも過去に囚われていても進めない。

かといって、過去無くして今も無ければ未来もない。

 

私はどこに進んで行くんだろうか?

どうしたいんだろうか?

自分自身に聞いている・・・

 

とりあえず、やりたいコト、やってみたいコト、挑戦できること、始められるコト

を、順番に進めていく。

本も出した。

安価なフランチャイズなら加盟金を用意できるくらいにはなった。

歳は重ねて、体力は減って、余裕は減って、無茶が出来ない気がしている。

しかし、これ以上選択肢が減るのは楽しくない。嬉しくもない。面白くもない。

 

出来ることは出来る事だけ・・・

それは、今なら出来ること、今しか出来ないコトが含まれる。

だとしたら・・・

 

どうせ私は、どうなったって後悔する。

それなら、踏み出してから後悔しようって思っている。

 

今が奈落の底の地獄の一歩手前で、もう失うモノは無い。

保険?ダメだった時どうするのか?

どうせ、ダメじゃなくても、ダメだったとしても、時間は限られている。

終わりのある人生だ。

 

終わり方を学ぶにはいい機会でしょって思ってる。

 

生きやすい世界なんて無いんだよ。

世界は不条理で、残酷で、無常だ。

社会は人間を道具としてしか価値を見出ださない。

人は他人の目の中に自分を見るから、人の目ばかりのぞき込んでいる。

 

人が生きている間に救われる方法を私は知らない。

だから、自分が自分を抱きしめても良いかなって思ってる。

私の場合は1人だからね。

誰も抱きしめてくれはしないからね。

だからだろうさ、自分を自分で何とかしないとダメなのはね。