絵が凄いんじゃない。
孤独が魅力なんじゃない。
自由の象徴だから凄いんじゃない。

私はそう思ってる。

 

山下清先生の本当の凄さは、
「出来ることに、命を全部使ったこと」
それだけだと思う。

山下清

 

人ってさ、本当は
「出来ないこと」の方が圧倒的に多い。

器用に生きられる人なんて、ほんの一握りで、
ほとんどの人は

・向いてない仕事をして
・得意じゃない人付き合いをして
・別に好きでもない役割を演じて
「普通」に見えるように生きている。

 

でも、山下清先生は違った。

 

出来ることしか出来なかった。
だから、出来ることだけをやった。
しかも、命を懸けて。

それが、あの絵だった。

 

社会に認められる方法なんて、いくらでもあったはずだ。

徴兵を受けるという選択だってあった。
そうすれば、世間も周囲も、
「立派だ」「えらい」「ちゃんとしてる」
そう言ってくれただろう。

 

でも彼は、逃げた。(実際は通らなかったけどね)

 

逃げて、絵を描いた。

それが迷惑だった人も、きっと沢山いたと思う。
叱られただろうし、困らせただろうし、
「なんでこんなことを…」と呆れられただろう。

それでも彼は、
関係なく、描くことをやめなかった。


人気が出たのは、
絵そのものの価値もあるだろうし、
ドラマの影響もあっただろう。

でも私は、それよりも何よりも、
あの制作スタイルが、とてつもなく美しいと思う。

 

時間に限りがあるこの世界で、
無限にあるかのような時間の使い方で、
気の遠くなるような細かい作業を、ただ繰り返す。

それは、効率でも、生産性でも、成功戦略でもない。

 

時間という、いちばん貴重な価値を、
いちばん無防備に浪費している行為。

なんて魅力的なんだろうって、私は思ってしまう。

 

ピカソみたいな思想の爆発でもない。
ゴッホのような魂の叫びとも違う。
モネの幻想でもないし、
北斎やゴーギャンのような技巧でもない。

ただ、
「見たものを、繰り返し、繊細に、再現する」だけ。

圧倒的な記憶の反復。
圧倒的な時間の消費。

それだけ。

でも、
それだけを、誰も真似できない密度でやった。

それが、あの人の価値だった。


彼は自由を求めたんだろうか。
それとも、ただの執着だったんだろうか。

選択肢が無かっただけかもしれない。
誰かに認められたかっただけかもしれない。
かまって欲しかっただけかもしれない。

 

正直、私には分からない。

 

でも、ひとつだけ確かなことがある。

彼は、生きて、作り続けた。

言い訳をせず、
意味を語らず、
説明もせず、
ただ描いた。

それだけで、私は、もう十分だと思ってしまう。

 

人は、出来ることしか出来ない。
出来ないことを、出来るふりして生きるから、苦しくなる。

 

でも、
出来ることに全振りする生き方は、
こんなにも、強く、自由で、孤独で、美しい。

社会に馴染まなくてもいい。
理解されなくてもいい。
評価が遅れてもいい。

「私は、これしか出来ない」って、
胸を張れたら、それだけで生きていける気がする。

明日も、うまく生きられなくていい。
誰かに認められなくてもいい。

それでも、
今日ひとつだけ、自分に出来ることをやればいい。

山下清先生の生き様は、
そんなふうに、静かに教えてくれる。

 

 シンプルフレーズ

天才だから凄いんじゃない。
“出来ること”に、命を全ベットしたから、凄いんだ。

前回は、「自分の機嫌は、自分で取る」というお話を書きました。
でも、そう簡単に機嫌なんて取れない夜もある。
どうしようもなく、孤独に飲み込まれてしまう夜もある。
今回は、そんな「孤独」と「被害者意識」について、少し深く考えてみました。

孤独は、あなたのせいじゃない・・・それでも私たちは「選んで」生きている

 

孤独って、なくせるものなんだろうか。忘れられない過去があるように、
消せない感情があるように、
孤独もまた、きっと生きてきた証みたいなものなんだと思う。

 

誰だって、好きで孤独になるわけじゃない。
好きで被害者になる人なんて、きっといない。

 

それでも気づけば、
「誰にも分かってもらえない場所」に
立ち尽くしてしまう夜がある。

 

  【孤独は「一人でいること」じゃない】

 

一人でいること=孤独、じゃない。
人に囲まれていても、誰かと話していても、
ふと心だけが取り残される瞬間がある。

  • 話を聞いてもらえない

  • 何を言っても否定される

  • 頑張っても当たり前に流される

そんな日が続くと、人は少しずつ、こう思ってしまう。

「私って、ここに居なくても同じなんじゃないか」
「居ない方が、楽なんじゃないか」

これが、孤独の始まりなんだと思う。

  人は、知らないうちに“被害者”になってしまう

 

最初から「私は被害者だ」なんて思って生きている人はいない。

でも――
何度も否定されて、
何度も分かってもらえなくて、
何度も我慢を重ねているうちに、

人は少しずつ、
「私は弱い側なんだ」
「私は守られない側なんだ」
そう思い込むようになってしまう。

職場で理不尽な扱いを受けても
声を上げられない。
家庭で雑に扱われても
「自分が悪いんだ」と飲み込んでしまう。

気づいた時には、
被害者になった“つもり”じゃなく、
被害者として“生きる癖”がついている。

 

  孤独が続くと、世界まで否定してしまう

 

理解されない。
助けてもらえない。
誰も味方がいないように感じる。

 

そんな状態が続くと、自己否定と一緒に、
周囲や世界までも否定してしまう。

 

「どうせ、誰も私のことなんて考えてない」
「この世界は冷たい」
「優しい人なんていない」

 

そして人は、知らないうちに
“被害者”と“加害者”の物語を作り始める。

 

誰が悪いのか。
誰のせいなのか。
そうやって理由を作らないと、
苦しさに耐えられないから。

  それは「孤独」じゃなく、承認が足りないだけの時もある】

 

今の苦しさは、
本当に“孤独”なんだろうか。

 

それとも――
「もっと見てほしい」
「ちゃんと認めてほしい」
その承認欲求が満たされていないだけなんだろうか。

 

認めてもらえない苦しさは、
確かに孤独とよく似ている。

だから人は、
「私は可哀想なんだ」
「私は被害者なんだ」
そう思うことで、必死に自分を守ろうとする。

それは弱さじゃなくて、壊れないための、防衛なんだと思う。

  それでも現実には、本当の被害がある

 

現実には、
本当に傷つけられた人もいる。
逃げられなかった人もいる。
声を上げられなかった人もいる。

 

だから、
「全部あなたの考えすぎ」なんて、
そんな乱暴なことは言えない。

 

ただひとつ言えるのは――
被害者意識もまた、
“生き残るための鎧”だったということ。

 

  孤独は、捨てられない

 

孤独は消せない。
疑う気持ちも、
不安も、
過去の影も、
たぶん完全には消えない。

一度芽生えた疑心暗鬼は、
新しい何かを手に入れても、
ふとした瞬間に顔を出す。

だから私は思う。

 

孤独は、捨てるものじゃない。
ただ、「どう持つか」を選び直すもの。

  捨てるのではなく、「選ぶ」という生き方

 

捨てなくていい。
無理に手放さなくていい。

ただ、
持てる分だけを、自分で選ぶ。

  • 大切な想い

  • 必要なつながり

  • 今の自分を支えてくれるもの

全部を抱えなくていい。
人は両手に持てる分しか、そもそも持てない。

【本当は、被害者でいたいわけじゃない】

本当はきっと、こう思っている。

「ずっと被害者のままじゃいたくない」
「孤独に振り回されずに生きたい」

だからこそ必要なのは、
「私は、どうなりたい?」
その問いを、自分に向け直すことなんだと思う。

不安と心配は、
たいてい人の言葉からやってくる。

 

「無理だよ」
「やめた方がいいよ」

 

でも――
大切なものが定まった瞬間、人は不安よりも、
「守りたい」「生きたい」「やりたい」という欲望で動き出す。

 

  捨てられない孤独と、生きていく

孤独は、あなたのせいじゃない。
被害者になってしまうのも、
弱さじゃなくて、生き延びるための形だった。

 

それでも・・・これから何を持つかは、選べる。

捨てなくていい。
ただ、選べばいい。

 

今日、
何を大切にするか。
何にフォーカスするか。

 

それだけで、人はほんの少しずつ、
被害者の物語の外へ、歩いていけるのかもしれない。

なんで人って、弱った時に
「誰かにかまってほしい」って思うんだろう。

人恋しいって、結局なんなんだろう。

 

ただの依存?
ただの甘え?

・・・たぶん、それだけじゃない。

かまってほしい夜に、私が考えていること

 

きっとあれは――
自分だけじゃどうしようもなくなった時に出てくる“SOS”なんだと思う。

 

どう考えても答えが出なくて
何度同じことを考えても同じところに戻ってきて
自分を責めて、悲しくなって、苦しくなって

答えが無いのに
それでも答えを探してしまう。

 

だから人は、
自分以外の誰かに「可能性」を求める。

 

誰かに答えを出してほしいんじゃなくて、
「一人じゃない」って思いたいだけ。

「私だけがダメなんじゃない」って思いたいだけ。

同情でも、共感でもいい。
なんでもいいから
「ここに居ていい理由」に触れたくなる。

・・・だってさ、
自分一人じゃ、どうしようもないって感じてるんだもん。

  「自分だけじゃ無理」と思い込んでしまう時

 

でも、ふと、こんなことも思う。

自分でどうしようもないって思っているのは、
本当に“出来ない”からなんだろうか?

もしかしたら――
「出来ないって思い込んでいるだけ」なのかもしれない。

自分はダメだって思いすぎて
答えなんてないって決めつけて
見えるはずの選択肢まで
自分で消してしまっているだけかもしれない。

 

自分を見失って
答えを見失って
「どうしたいか?」も
「どうなりたいか?」も
「何が出来るか?」も


分からなくなってしまっているだけかもしれない。

  助けを探すより、手放すものを探してみる

 

じゃあ、どうしたらいいんだろう。

人に頼ること?
共感してもらうこと?
助けてもらう方法を探すこと?

もちろん、それも間違いじゃない。

 

でも私は、最近こう思う。

探すのは「助け」より、「手放すもの」なんじゃないか。

 

いらないもの
重たいもの
今の自分にはもう必要のないもの

捨てられるものを探す。
手放せるものを探す。
不要なものを減らす。

過去や記憶や経験は、
そう簡単には捨てられない。

 

でもさ、
「物」くらいは手放せるんじゃない?

思い出の品って、知らないうちに・・・
モノと一緒に「感情」まで抱え込んでる。

 

モヤモヤの正体は記憶かもしれないけど・・・
今、ここにある“それ”を捨てたら
少しだけ世界の見え方が変わるかもしれない。

 

  手放したら、新しいものは入ってくる

 

不思議なもので
新しいアクセサリーを買った時って
ちょっと気分が上がるでしょ?

でも、いつまでも同じものを握りしめていたら
新しいものは入り込めない。

それって、
心も同じじゃないかなって思う。

 

手放したら、新しいが入ってくる。
減らしたら、その分だけ軽くなる。

脂肪みたいにね(笑)

 

  両手に持てる分だけで、生きていこう

 

人にかまってほしくなるのは、
弱さでも、甘えでもなくて
限界まで一人で耐えた証拠なのかもしれない。

 

でも、
誰かに助けてもらう前に
自分で一つ、手放してみる。

それだけで、
世界の見え方が少し変わる日もある。

たくさん抱え込まなくていい。
人が持てるのは、持てる分だけ。

両手に持てる分だけで、生きていこう。

気分のいい日と、悪い日。
なんで今日はこんなに重たいんだろう・・・って朝もあれば、
理由もないのに少しだけ心が軽い日もある。

 

それって、特別なことじゃなくて
**誰にでもある“ただの人間の波”**なんだと思う。

 

自分を助けられるのは、結局、自分だけ。

 

 

鬱やADHD・・・
名前がつく人もいれば、名前のつかないしんどさを抱えている人もいる。


理由になる人もいれば、理由にならないと言われる人もいる。

 

でもね、結局のところ――
誰にだって波はあって、誰にだって感情はある。

 

忘れられないこともあるし
悲しくてどうしようもない日もある
腹が立って眠れない夜もある
嬉しくて、理由もなく涙が出る日だってある。

 

人はみんな、感情に流されながら生きてる。


たまには自分をコントロールできなくなって、
かまってちゃんになる日もある。


もちろん・・・私だって、そう。

でも現実は、ちょっとだけ冷たい。

誰かに頼れる時もあれば
誰にも気づかれずに終わる夜もある。
助けてほしくても、
声をかけてもらえないことの方が、ずっと多い。

だから私は、こう思うようになった。

 

「自分を助けられるのは、結局、自分だけ。」

人は勝手に、勝手に助かる。
誰かが必ず救ってくれる、なんて
簡単に期待しない方が楽な時もある。

 

もちろん、
情けは人のためならず・・・
巡り巡って助けられることも、確かにある。

 

でもそれは
「期待するもの」じゃなくて、「起きたら奇跡」くらいの距離感でいい。

 

家族ですら、分かり合えない。
親子でも、夫婦でも、兄弟でも――
「全部」を分かり合うことなんて出来ない。

 

なら、他人となんて
分かり合えなくて当然だと思う。

だから私は、こう言う。

「自分の機嫌は、自分で取らないとダメ。」

楽しいもの
好きなもの
ほんの少しだけ気持ちがいい方向に、目を向けること。


それだけで、救われる日もある。

自分の「好き」と「嫌い」を
ちゃんと自分で天秤にかけてみること。
無理して「正しさ」に合わせなくていい。

自分を知れるのは、自分だけ。
自分のしんどさが分かるのも、自分だけ。


だからこそ――
自分が、自分の一番の理解者でいてあげられたらいい。

 

それが出来るようになると、
少しずつ
「セルフコントロール」って言われるものが育っていくんだと思う。

 

完璧じゃなくていい。
うまくできない日があってもいい。

 

今日もまた、
なんとか自分の機嫌を、自分で取って生きていけたら・・・
それだけで、もう充分だと思う。



大人になるって、何だろう。

 

責任?
成功?
気配り?
我慢?

 

気づけば私たちは、そんな条件ばかり並べるようになる。


そしていつの間にか、「出来る?」じゃなくて、
「無理じゃない?」
「大変でしょ?」
「失敗するよ?」
って言葉を先に口にしてしまう。

 

でもさ・・・
それって、本当に“大人になった”ってことなのかな。

 

子供の頃って、
「楽しそう!」
「面白そう!」
「気になる!」
「やってみたい!」
 

そんな感情だけで、世界に飛び込んでた。

遊びって、失敗しても、間違えても、出来なくても、
笑えて、やり直せて、「もう一回!」って言える場所だった。

 

それが、遊び心なんだと思う。



なのに今はどうだろう。
子供や友人や部下に対して、
不安ばかり与える大人が増えていないだろうか。

「出来ない理由」
「リスク」
「効率」
「採算」

 

そればかり見つめて、
「大丈夫!」
「出来るよ!」
「何とかなる!」
「それも楽しいよね!」
って言葉を、使えなくなってしまっている。

 

私は、それがすごく悲しい。

 

大人になるって、
遊び心を捨てることじゃないはずなのに。

子供に「楽しみ方」を見せられない大人は、
人生の良さを、伝えられない大人だと思う。

そんな大人の価値を、私は見いだせない。

それでも・・・
時間は確実に、私の体と心を変えていく。

どれだけ運動しても、
どれだけ筋トレしても、
思考の柔軟さを保とうとしても、
「余裕」が少しずつ減っていくのが分かる。

 

多彩な経験は、確かに私の糧になる。


だけど同時に、
多彩な経験は、私の重りにも、枷にもなる。

 

遊び心を忘れたくない。
挑戦も、失敗も、怖がらないつもりでいる。

 



それでも・・・
リスクを、見てしまう。

なぜなら、
やり直せるだけの時間と体力を、
もう無限には持てないから。

今からゼロから始めるほどの強さを、
私はもう持てないかもしれないから。

 

それが、怖い。

 

人を許せる余裕が増えていく分、
自分を許せない時間が、少しずつ減っていく。

それは、悲しくはないけれど・・・
正直に言えば、少し、寂しい。

 

人生の正解は、いつも後からやってくる。

 

終わった時にどうなっているか。
どうなっていたいか。
自分の望んだ形になっているか。

きっとどれも、大事だ。

 

人を育てることも、同じだと思う。


自分では最善だと信じて選んできて、
周囲から見ても正しく見えて、
社会的にも正解に見えても・・・

結局、「どう育ったと感じるか」は、
育てられた側にしか分からない。

 

それは、
育てる側には、決して測れない“結果の正解”なんだと思う。

 

だからこそ先人は、
楽しさも、面白さも、
厳しさも、辛さも、
全部知った上で、ただ見せていくしかなかったんだろう。

 

「やって見せ、言って聞かせて、
させてみて、褒めてやらねば、人は育たず。」

 

そして最後は・・・
「任せてやらねば」なんだ。

 

遊び心って、
若さでも、体力でもない。

未来を信じる力で、
もう一度やってみようって思える心だ。

 

だから私は、
余裕を失いながらでも、
怖さを抱えながらでも、
今日も小さく、遊び心を選び続けたい。

 



それが、
“大人として生きる”ってことなんじゃないかなって、
今の私は、そう思っている。