今まで苦しい人生だった・・・

この年で諦める事を覚えたらとても楽になった。

 

そんな話よく聞くよ。

SNSでも達観したかのように語っている人が居るよ。

 

今あることや、モノに目を向けるのかな?それとも、今あるモノやコトにしがみつくのかな?

手を伸ばすことをやめてしまう。
欲しいものを追いかけることをやめて、今あるものに満足できるようになる?

 

「諦める」って言うと、手放す感じがしない?

欲しいものを諦める。
やりたいことを諦める。
出来ないことを諦める。

 

諦めたら、そりゃ楽になる。

 

だって、手を伸ばすことをやめたんだから。

「今のままでいい」と思えるようになったんだから、苦しくなくなるのは当たり前なんだよね。

 

それでいいと思う。

楽になっていい。

 

でも、私は「諦める」と「受け入れる」は、ちょっと違うんじゃないか?と思う。

 

諦めるって、現実を受け入れたというより、手を伸ばすことをやめただけかもしれない。

 

欲しいけど、手に入らない。

辛いけど、どうにもならない。

だから「もう欲しくない」とする。

 

それは、現実を理解したこととは違うんじゃないだろうか?

  欲があってもいい

「強欲は身を亡ぼす」なんて言葉もあるけれど、私は欲があっていいと思う。

 

もっと欲しい。
もっとやりたい。
こうなりたい。

そんな欲があるから、人は手を伸ばす。

 

問題なのは、欲そのものじゃない。

 

出来ないことへの悔しさや辛さを紛らわせるために、「欲しがることなんて意味がない」と言い訳にしてしまうことなんじゃないだろうか?

 

手に入らないことへの言い訳として、諦めてしまう。

だから私は、最初から手放すことを選ぶより、まず自分の現実を明らかにしたい。

  明らかにして、受け入れる

じゃあ、自分には何が出来るのか?

何が出来ないのか?

何を持っているのか?

何を持っていないのか?

なぜ、それが欲しいのか?

本当に自分が欲しいものなのか?

誰かと比べて欲しくなったものじゃないのか?

 

そうやって「なぜ?」を繰り返して、自分自身を見ていく。

 

私はこれを、ちょっとデカルト的な問題解決なんじゃないか?と思っている。

 

自分を疑って、自分に問いかけて、自分の中にあるものを明らかにしていく。

そして、そのうえで選ぶ。

これが私の言う「明らかにして受け入れる」ということ。

  「出来ない」も、自分のものにする

例えば、

「これは出来ません」

と言う。

 

これは、自分を諦めたんじゃない。

「自分には出来ない」ということを、自分の現実として知ったということ。

 

欲しいものが手に入らないなら、

「じゃあ、今回は違うものにしよう」

と選ぶ。

 

欲しいという気持ちを捨てたわけじゃない。

「今の自分では、これは手に入らない」という現実を知って、そのうえで別の選択をしただけ。

 

だから私は、手放すとか、捨てるという言葉を使いたくない。

 

持っているものは持っている。

持てるものは持てるだけ持つ。

出来ることは出来るだけやる。

そして、出来ないことは「出来ない」と知る。

持っていないものは「持っていない」と知る。

それだって、自分のものなんだと思う。

  アウトプットすることで、形になる

そして、ここで大事になるのが「外に出すこと」なんじゃないだろうか?

 

誰かに話す。

文章にする。

「出来ません」と言う。

「今回はこっちにします」と選ぶ。

頭の中にあるだけだったものを、言葉や行動として外に出してみる。

 

すると、ぼんやりしていた自分の考えに輪郭が出来てくる。

「私はこう思っていたんだ」

「私はこれが嫌だったんだ」

「私はこれが欲しかったんだ」

「でも、今はこれを選ぶんだ」

そうやって、自分の選択として外に出した時、それが少しずつ自分のものになっていく。

 

「絶対に認めない」というのだって同じだと思う。

 

それは、事実そのものを認めているわけじゃない。

でも、「私は認めない」という自分の選択は、ちゃんと自分のものにしている。

 

受け入れるって、何でも肯定することじゃない。

 

  諦めるのではなく、選ぶ

だから私にとって「受け入れる」は、

何かを捨てることじゃない。

欲をなくすことでもない。

「今のままでいい」と無理やり納得することでもない。

 

自分が何を持っていて、何が出来て、何を欲しがっていて、何が出来ないのか?

それを明らかにする。

 

そして、その中から自分で選ぶ。

持てるものは持つ。

出来ることはやる。

欲しいものには手を伸ばす。

 

それでも届かないものは、「届かない」という事実まで含めて、自分のものにする。

 

それが、私の「明らかにして受け入れる」というスタイルなんだと思う。

 

諦めて手を放すんじゃない。

自分を知って、現実を知って、そのうえで次の一手を選ぶ。

手放すのではなく、明らかにする。
捨てるのではなく、知る。
そして、自分で選ぶ。

私は、そんなふうに生きていきたい。

「価値観」

価値観とは、「何を大切だと思うか」「何が良い・正しい・意味があると感じるか」という、その人なりの考え方や判断基準のことらしい。

誰と付き合っても、結局価値観の違いに迷い戸惑うモノさ

「価値観が合う人と付き合いましょう」

よく聞く言葉ですよね。

 

でも、そもそも価値観って何なんだろう?

 

私は最近、価値観っていうのは、単純に「自分が大切にしているもの」だけじゃないんじゃないかと思うようになりました。

 

価値観っていうのは、何かと何かを比べたときに、

「私はこっちを優先する」

と決めるための、自分なりの判断基準なんじゃないだろうか?

仕事とプライベート。

恋人と友人。

家族と自分。

遊びと勉強。

人生って、結局は選択の連続です。

 

そのときに、どちらを選ぶのか?

その「選ぶ理由」の中に、価値観が表れるんだと思う。

  その価値観、本当に自分だけで作ったもの?

じゃあ、その価値観はどこから生まれたんだろう?

 

もちろん、自分の経験もある。

でも、親や先生、友人、社会の中で出会った人たちから受け取ったものもある。

 

誰かを見て、

「あんな人になりたい」

と思うこともある。

 

逆に、

「あんなふうにはなりたくない」

と思うこともある。

 

そういうものを一つひとつ自分の中で選んで、積み重ねていく。

だから、誰かにそのまま「植え付けられた」というより、いろいろな影響を受けながら、自分なりに作っていったもの。

同じ親に育てられた兄弟でも、価値観が違うのは当然なんですよね。

 

  人と人なら、価値観が違って当たり前

例えば、勉強が嫌いな子どもがいる。

 

子どもは、

「遊びたい」と思っている。

 

でも親は、

「勉強してほしい」と思っている。

 

ここには、価値観の違いがあります。

 

「勉強したらご褒美をあげる」

という方法を使うこともできる。

 

「勉強したらゲームをしていいよ」

という約束だってできる。

 

でも、考えてみれば、

子どもの「勉強したくない」という気持ちは消えていない。

親の「勉強させたい」という気持ちも消えていない。

 

どちらかが相手の価値観に変わったわけじゃないんです。

 

ただ、違ったままでも一緒に行動できる方法を探した。

私は、これが人間関係なんじゃないかと思うんです。

  溝を埋めるんじゃなく、橋を架ける

だから私は、「価値観の違いを埋める」という言葉に、少し違和感があります。

そもそも、埋まらないんじゃないか?

 

価値観は、それぞれ違ったままでいい。


溝を埋めるとか、価値観の違いをすり合わせるとか、交渉やお互いの我慢でやり過ごすとか私は言わない。

溝は埋まらない。谷はそのまま残っている。

どれだけ何を言って、何をして、何を与えて与えられたとしても、きっと、勉強は嫌いなままだから。

だって遊びたいんだよ!少なくとも、私はそう思うよ。

 

だったら、溝を埋めるんじゃなくて、その間に橋を架ければいい。

 

自分が我慢するのか。

相手に我慢してもらうのか。

何かを交換するのか。

ご褒美や報酬を使うのか。

それとも、今までとは違う第三の方法を探すのか。

 

橋を架ける方法はいろいろある。

 

そして、その橋を架けるために、

「誰が何を差し出すのか?」

という選択が必要になる。

  でも、何でも譲ればいいわけじゃない

もちろん、橋を架けることが大切だからといって、何でも譲ればいいわけじゃない。

 

本当に大切なことまで、相手に合わせてしまったら、自分が自分でなくなってしまう。

「ここだけは譲れない」

というものだってある。

 

それもまた、自分の価値観なんでしょうね・・・

 

どこまでなら譲れるのか?

何なら差し出せるのか?

そして、何だけは絶対に差し出せないのか?

 

そこを考えることも、人との関係には必要なんだと思います。

  価値観が合う人を探すより

「価値観が合う人がいい」

そう思うのは、当然のことです。

 

でも、人は一人ひとり違います。

親子だって違う。

兄弟だって違う。

夫婦だって違う。

ましてや、もともとは赤の他人だった人と、全部の価値観が一致するなんて、なかなか難しい。

 

だから、

「価値観が合う人を探す」

 

というより、

「価値観が違ったとき、どうやって橋を架けられるか?」

を考える方が、ずっと人間らしいんじゃないかな。

 

価値観は、優先順位を決めるための判断基準。

だからこそ、人と人の間には違いが生まれる。

 

そして、その違いがあるからこそ、橋が必要になる。

価値観を同じにする必要なんてない。

違ったままでもいい。

ただ、その違いの間に、どうやって橋を架けるのか。

私は、人間関係って、そういうことなんじゃないかと思うんです。

才能の見つけ方?

やってみないと分からない。

そして、時間を忘れて熱中できることがあるんだとしたら、それがあなたの好きなコト。

 

「好きこそ物の上手なれ」

 

好きなコトが上達していったときに、もしかしたら周囲からは才能って見られてるのかもね?

 

才能なんて、気にしないで良いんじゃない?

 

今、好きなコトがあるならそれでいい。

 

もし、好きなコトや趣味って言えることが無いんだとしたら、それを探しに行く?見付けに行く?

やってみないと分からないから、なんにでも挑戦してみる?

 

でも、実際は時間も予算もそんなに余裕はないから、新しいことに挑戦することなんて出来ない。

何より、今の現実を乗り越えるだけで精一杯で、他のことを始めるなんて出来ない。

 

仕事は忙しいし

子供や家族を放置なんて出来ない

時間もなければ

体力もないし

何よりお金もない・・・

 

仮に何かの才能があったとしても、今更・・・この歳で・・・って思ってしまう。

やりたいことがあっても出来ない理由が多すぎて、始められないし挑戦なんて論外。

 

それが私達の現実で、才能?なんて言葉を思案する以前の問題。

趣味も好きなコトも見つけることすら出来ないのが今のリアル。

でもね?探そうとするから無理って思うだけだよ?

ホントはね?才能?ギフトって、すでに自分の生き方に反映されていて、活かされている。

絶対にね?

 

 

  それが才能って言われるあなたのギフト

 

例えば・・・

私は配信アプリでお話をしている。

メインは雑談でダラダラお話をしていることが多いし、たまに相談されることがあれば受け答えもする。

ただ、シンプルフレーズとしての言葉の是非は分からないから、やんわりだけど自分の意見を言わせてもらっている。

 

その配信アプリの中で、他の配信者さんを見ると、本当に楽しそうに上手に話している。

歌を歌う人もいれば、楽器の演奏、ゲームの実況、ものまね、コントやセリフまで、本当に色々な配信をしている人が居る。

そして、誰もがとても魅力的に素敵な配信者さんだと感じる。

 

その、配信者さんたちは、自分の才能がなんなのか?なんて考えていないだろうし、リアルでは他の仕事をしているだろう。

専業の人もいるかもしれないが、いろいろな職業の人が居て、学生や主婦等々・・・もう想像も出来ないような人が溢れていて、

素敵な配信を毎日見ることが出来る。

 

まさに、それがその人達の才能って言って良いだろうって私は感じている。

 

ほんの少しの空いた時間に、無料のアプリで自分のコトを発信している。

それが出来ている時点で、それがその人の才能だろう。

話しが好きな人は、話すのが才能

歌が好きな人は、歌を歌える才能

楽器も、セリフも、企画やイベントも・・・

全部がその人達の才能で、ギフトを活かしている現実だと私は感じている。

 

でも、本人たちは・・・

「私は何も出来ない」「才能がない」「上手くない」「〇〇みたいには出来ない」

って、謙遜なのか?自分を認められていないだけなのか?

自分の才能とは言う人に出会うことが少ない。

私からしたら、その人達はみんな天才で魅力的な人たちで、最高の配信をしている配信者さんだ!

それが才能以外のなんなのか?

むしろ私が教えて欲しいくらいだよ。

 

  気付いてないのは、あなただけ、私はそれがあなたの才能って知っている。

 

才能なんて、考えるから分からなくなる。

実際には、既に自分の中で活かせていて、楽しい時間を作り出しているんじゃないかな?

 

私は、歌も歌えないし、話しも上手く出来ない、家事も苦手で料理は出来ない・・・

でも、文字を書くのは結構好き!(笑)

 

他の人からしたら、文字を書けているだけで才能!って言って貰えるかもしれない。

書いている内容や、文章が読み易いか?分かり易いか?って聞かれると、

自分では何とも・・・ちょっと・・・えっと・・・自信ないわ。

 

そういうモノじゃないのかな?

才能なんて、自分では分からない。分かりにくい。

 

私からしたら、他の誰かの才能なんてすぐ分かるし、見つけられる!

だって、私に持ってないものを持っているから、魅力的に見えるし、本当に輝いているから。

私の動画を作ってくれている人も、本当に魅力的な配信者さん。

配信の内容はその時々によって違うから、是非を言うつもりはないけれど

いつも素敵な配信をされている。そして、それがその方の才能なんだろうって私は感じている。

歌もそうだろうし、トークもそうなんだろう。本人がどう思っているのか?は、私には分からない。

 

自分の才能なんて、自分からしたら当たり前で、普通のコト。

でも、周囲からしたらすぐ分かる。

それがあなたの才能で、ギフトで、あなたが天才なんだってね!

 

だから、無理に探す必要なんてない。

新しく挑戦する必要もない。

 

『やってみないと分からない!』のは、周囲が認めてくれるかどうかだけ。

自分で、『やってみたら分かる!』なんてのは無いだろう。

だって、自分では普通で当たり前のことなんだから。

そして、自分より上手い人や出来る人を見て、他の誰かと自分を比べて、

「私はダメだ」「全然出来てない」って、自分を否定するだけになる。

 

 

  あなたの才能はもうそこにある!

 

聞くな!感じろ!

自分の才能を誰かに聞いて、教えてくれたら・・・

「自分なんて」って否定するんじゃないかな?

 

だったら、聞かなくて良いと思う。

じゃあどうするか?

 

探す必要なんてないんだよ!

才能は常に自分の元にあって、自分はそれを活かせている!

 

それが、ありのままのあなたが輝ける!って言うこと。

 

才能を探す必要なんてない!すでに、活かして生きている!

それが何かは、あなた以外の誰かが分かっているから大丈夫!気にしなくて大丈夫!

 

家事や料理かも知れない。

歌や楽器かも知れない。

トークやネタかもしれない。

車の運転かも知れないし、旅行の計画を立てることかもしれない

 

何だっていいじゃない!

それがあなたの才能で、既にそれを活かして生活出来ているんだから!

なにも困ることも、後悔も、今更なんて思うこともない!

あなたは、今!その瞬間!絶対輝ける何かを持っていて、それを気が付けていないだけ!

大丈夫!私は知っている!

 

あなたは、そのままで十分素敵に輝けているから✨

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不自由を感じる時

何も出来ないって感じる時

 

出来ない事ばかりに気が行ってしまう

 

ベットの上で、動けない・・・

起き上がれない・・・

 

それでも、自由がそこにある

 

私たちの心は、いつでも自由

 

「何を感じるか?」

「何を思うのか?」

どんなときも、どこにいても、私の心は縛られない。

 

心は自由。
心だけは自由。

 

そう言われても、「私たちには自由なんてない」と感じる人もいるかもしれません。

 

何をするにも、どこへ行くにも、お金や環境、身体、家族、仕事、社会のルール……。

自分の思い通りにならないことなんて、いくらでもあります。

 

では、あなたは何を理由に「不自由だ」と感じているのでしょう?

  自由じゃない理由

欲しいものが手に入らない。

行きたい場所に行けない。

やりたいことができない。

 

「もっとお金があれば」
「もっと時間があれば」
「健康だったら」
「家族がこうだったら」

そんなふうに、何かが足りないから自由じゃないと思ってしまう。

 

でも、その「欲しいもの」や「こうなりたい」という願いは、本当に自分だけのものなのでしょうか?

 

誰かと比べて欲しくなったものかもしれない。

誰かの生き方を見て、羨ましくなったのかもしれない。

誰かの影響を受けて、「自分もこうなりたい」と思ったのかもしれない。

 

それでも、手に入らないものがあると、私たちは「不自由だ」と感じてしまいます。

 

では、もしそれが全部叶ったら?

自由になった自分は、何をしているでしょう。

 

そして、その自分は何を感じているのでしょうか?

  心は自由に生きられる

私たちはいつも、「まだ叶っていない現実」を見ています。

 

だから不満になる。

 

でも、叶った自分を想像することはできる。

行きたい場所へ行った自分を思い描くこともできる。

欲しいものを手に入れた自分を想像して、その喜びを感じることだってできる。

 

だって、心は自由だから。

 

身体には、できることに限界があります。

お金がなければ行けない場所もある。

身体が動かなければ、できないこともある。

環境によって、選べないことだってある。

 

でも、心まで同じように制限されているわけじゃない。

ベッドの上からでも、世界中を想像できる。

過去を思い出すこともできる。

まだ見ぬ未来を思い描くこともできる。

 

誰かに何を言われても、何を感じるのか、何を思うのかは、自分の中に残っている。

もちろん、心だって傷つくし、思い通りにならないこともある。

 

それでも、想像すること、感じること、考えることまで、誰かに完全に奪われるわけじゃない。

 

  私達は、最高の自由を持っているのに、それに気が付けていない。

私たちは、すでに自由を持っている。

ただ、その自由に気づかないまま、「自由になりたい」と言っているのかもしれません。

 

自由って、何も制限がないことだけじゃない。

制限のある現実の中でも、

「私は何を感じるのか?」
「私は何を思うのか?」

そこだけは、自分の世界として残っている。

 

だから私は思うんだ。

肉体には限界があっても、心はいつでも自由。

気づけばそこに、自由はある。

そして、その自由をどう感じるのかも、また自分で選べるのだと思います。

人生を変えたいって思っている人はどれくらい居るのかな?

分からないけど、私の周りには・・・・そんなに居ない・・・

結構な人が、現状に満足していて

それなりに、生活が回っていて・・・困ってない。

人生を変えたい!なんて思っている人は少ないのかな?

人生が変わるのは、「選択」した時

 

人生が変わる時って、どんな時だと思いますか?

就職した時?
結婚した時?
子どもが生まれた時?

それとも、離婚、破産、病気、失業……。

確かに、人生の風景が大きく変わる出来事ではあります。

でも、「人生が変わった」と本当に感じるのは、出来事が起きた時じゃなくて、自分で何かを選択した時なんじゃないでしょうか。

  出来事だけでは、人生は変わらない

例えば引っ越し。

住む場所も部屋も変わる。
周りの景色も変わる。

 

でも、朝ギリギリまで寝て、夜はスマホを眺めて、休みの日はダラダラ過ごす……。

 

結局、自分の中の何かが変わらなければ、しばらくすると前と同じ生活に戻ってしまう。

風景が変わっただけで、自分が変わったわけじゃないんですよね(笑)

  「どう生きたいか」を選ぶ

結婚したから人生が変わるんじゃない。

「この人と一緒に生きていく」と自分で選んだから、人生が変わる。

 

離婚したから新しい人生が始まるんじゃない。

「ここからもう一度、自分の人生を生きよう」と選んだから、新しい人生が始まる。

 

大きな出来事も、自分が選ばなければ、ただの出来事で終わってしまう。

選んでいないものは、自分の人生になりにくい。

   小さな選択が、未来を変えていく

人生を変える選択は、大きな決断ばかりじゃない。

 

朝、あと10分寝るのか、起きるのか?

愚痴を言い続けるのか、紙に書き出してみるのか?

SNSを見るのか、本を読むのか?

「まあいいか」と流すのか、「このままじゃ嫌だ」と向き合うのか?

 

一つひとつは小さな選択です。

 

でも、その選択の積み重ねが、少しずつ自分の未来を変えていく。

だから、「変わりたい」と思った瞬間も、すでに一つの選択なんだと思う。

 

  誰かに人生の舵を渡さない

「運気が悪いから」
「厄年だから」
「今は動かない方がいいと言われたから」

そういうものを信じることが悪いとは思いません。

 

でも、それを理由にして、自分で選ぶことまでやめてしまったらどう?

 

「流れに任せる」というのも、結局は自分が選んでいることなのかもしれない。

 

だから私は、できることなら自分で選びたい。

失敗してもいい。
うまくいかなくてもいい。

 

誰かに「こうすれば人生は変わる」と教えてもらうのを待つんじゃなくて、

「私は、こう生きたい」

その気持ちから、自分で次の一歩を選びたい。

 

人生が変わるのは、何か特別な出来事が起きた時だけじゃない。

「私は、こうしたい」と自分で選んだ、その瞬間から人生は少しずつ動き始める。

それが、私にとっての「転機」なんだと思います。

 シンプルフレーズ

人生が変わるのは、「選択」した時。

大きな決断じゃなくてもいい。

今日、何を選ぶのか。

その小さな選択が、明日の自分を作っていくんだと思う。