「ゴッホ展に行ってきた」

 

そう言うと、なんだか美術に詳しい人みたいに聞こえるかもしれない。
でも実際の私は、専門的なことをたくさん知っているわけじゃない。

ただ、念願だったゴッホ展にやっと行けて、そこで思った。
有名な絵を見たというより、ひとりの人間が何を取り入れ、何を悩み、どう変わっていったのかに触れられた時間だったと。

 

『ゴッホ展 家族が繋いだ夢』

 

小学校の頃、美術の教科書で見ていたゴッホの絵は、正直に言えば
「色が濃くて目立つな」
くらいの印象だった。

大人になってからも、今度は作品より先に「高額な絵」「有名な画家」という情報が入ってきて、人物や絵画そのものを、ちゃんと見ようとしていなかった気がする。

でも今回、彼の年齢を越えた今だからこそ、初めて見えたものがあった。
技法の工夫。
試行錯誤の跡。
感情のうねり。
そして、作品の奥にある“人間らしさ”。

そんな時間を過ごせたことが、とても嬉しかった。

 

 

  私が最初に惹かれたのは、あの独特なタッチだった

 

今回、特に印象に残ったのは、ゴッホ独特のタッチだった。

小さな点や線を無数に重ねていくような表現。
あれを見て私は、勝手な感想かもしれないけれど、版画や印刷物の影響を連想した。

 

※ハッチングというらしい。「細い線の集合(ハッチング)」

影響を受けたかどうかは本人に聞いてください。

 

彼が絵を描き始める前から、あるいは初期の頃から集めていたという版画や印刷物。
そうしたものを見てきた感覚が、あの細かな線や点の重なりに繋がっているんじゃないか。

 

そんなふうに思えた。

もちろん、これは美術史の断定ではなく、私の感想だ。


でも、ただ「激しい筆致」として見るより、何かを取り入れて、自分の表現へ変えていった跡として見ると、ぐっと魅力が増した。

ただの才能ではなく、試行錯誤の痕跡に見えたからだ。

 

  浮世絵の影響は、色だけじゃなかった気がする

ゴッホが浮世絵を好んでいたのは有名な話だし、色使いへの影響もよく語られる。

でも今回、私が面白いと思ったのは、色だけじゃなかった。
対象を線で囲って、その中に色を入れていくような表現。
あの“縁取りして塗る”感じに、私はどこか浮世絵らしさを感じた。

 

※「クロワゾニスム」というらしい。影響を受けたかどうかは本人に聞いてください。

 

今の感覚で言えば、ちょっと漫画っぽいとすら思った。
輪郭をしっかり立てることで、形も印象も強くなる。


それが当時の印象派の絵の中では、私には少し異質に見えて、そこがすごく嬉しい発見だった。

「有名だからすごい」じゃなく、
あ、自分はここに惹かれるんだな
と気付けたことが嬉しかった。

好きになるって、そういうことなのかもしれない。

 

  完成した名画より、“そこへ向かう工夫”が印象に残った

 

今回の展示で強く心に残ったのは、完成した作品だけじゃなかった。
むしろ私は、そこへ至るまでの工夫や試行錯誤に惹かれていた。

とても印象的だったのが、デッサンだ。
ランタンとつるはしを持っている工夫のデッサン。


あれは単純に「うまい」と思った。

でも、それだけじゃない。
どう持たせるのか。
どう立たせるのか。
どう見せれば伝わるのか。

 

「貧しい人々への憐れみと感情」工夫や農夫へのなんだろう・・・モヤモヤを表現したんだろう。

何をどう伝えたかったのか、単純に過酷な状況でも生きている事の証明?

しかし、表情はみんな暗い。刻まれた皺、睨むような瞳、不満を感じるが、怖さは無い。

不思議な表情なのか、表現なのか・・・

 

ただ、そういう描く前の思考が見える感じがして、すごく面白かった。

 

さらに、手紙に描かれていたデッサンも印象的だった。
完成作ではないのに、いや、完成作ではないからこそ、線の巧さや観察の鋭さがそのまま見える。

 

名画の前で「すごい」と立ち尽くすのももちろん良い。


でも私は今回、そこへ辿り着く前の、少し泥くさい工夫や模索に強く惹かれた。

たぶんそれは、上手くいった結果より、上手くいかせようとする過程に、人間らしさを感じたからだと思う

 

  後期のオリーブ畑に見た、“らしさ”といううねり

『オリーブ園』

後期の作品では、やはりオリーブ畑がとても印象的だった。

あのうねり。
あれは、まさに“ゴッホらしさ”だと感じた。

 

ただ風景を描いているだけじゃない。
木も、空気も、風も、感情も、一緒に動いているように見える。
景色の再現というより、景色を見た時の内側の揺れまで描いているように思えた。

 

よく、晩年の作品は精神的なものと結びつけて語られる。
たしかに、そう言いたくなる迫力もある。

 

でも今回の私は、単なる不安定さより、それでも表現しようとする熱量の方を強く感じた。

うねりや躍動は、壊れそうな苦しさだけじゃない。
 

見たものを、自分の中を通して、どうにか形にしようとした痕跡にも見えた。

だから惹かれたんだと思う。

 

  色を使って“透明”を求める、その感覚に惹かれた

『コップのある静物』※調べたよ!

もうひとつ、とても印象的だったのが、
色を使って透明を求めたという話だった。

 

透明を表現することに夢中になった。
机の上に水が置いてある絵を見ながら、その説明がとても強く残った。

作品名を忘れてしまったのは、ちょっと悔しい。


でも、名前を忘れても、心が動いたポイントは覚えている。
それで十分なんじゃないかと今は思う。

 

透明は、本来“見えない”ものだ。
なのに、それを描くために色を使う。
そこに私は、ただ物を描くのではなく、見えにくいものをどう見せるかに取り憑かれたような執着を感じた。

 

見えるものをそのまま写すだけでは足りない。
空気や光や透明感まで掴みたい。
そんな欲望が滲んでいて、すごく良かった。

 

芸術って、上手い下手だけじゃなくて、
何を見ようとしていたのか
が見えると、一気に近くなるんだなと思った。

 

  荒々しさの奥に、繊細で不器用な人間がいた

私は勝手に、ゴッホという人に対して、
情熱的で、荒々しくて、感情に飲まれるタイプの人、というイメージを持っていた。

 

もちろん、その印象は完全には間違っていないのかもしれない。


でも今回の展示では、それだけじゃない姿が見えた。

繊細で、葛藤があって、不器用で、それでも何かを表現し続けようとする人。


そんな人柄が、作品の変化や、残されたものの端々から伝わってきた。

そして何より、支えていた弟夫婦との関係が、なんだかとても良かった。

唯一の理解者である弟テオに必死に何かを伝えようと手紙を書く、もはや「報告」を超えて「共有」の渇望。


詳しく語りすぎなくても、そこに温度がある感じがして、少しほっこりした。

天才とか狂気とか、強い言葉だけで片付けると見えなくなるものがある。


むしろ私は、そういう大きな言葉の陰に隠れた、人間らしい小さな揺れに親近感を覚えた。

激しい人だった、では終わらない。
ちゃんと悩み、ちゃんと支えられ、ちゃんと揺れていた人だった。
だからこそ、作品にも惹かれるのかもしれない。

 

  37歳という年齢が、今の私には重く見えた

享年37歳。

この数字が、今回とても重く残った。

小学校の頃に見ていた時は、そんなことを考えもしなかった。
大人になってからも、「有名」「高額」「すごい画家」という情報の方に意識が向いていた。

でも今は違う。
彼の年齢を越えたからこそ、初めて感じるものがあった。

たった37年。
その中で、これだけ模索して、取り入れて、変わって、描き続けたのかと思うと、作品の見え方がまるで変わる。

そして同時に、私は思った。
今の自分だからこそ見付けられる時間があったのだと。

 

昔は分からなかった。
でも、その分からなかった時間も無駄じゃなかった。
子どもの頃に“色が濃くて目立つ絵”としてしか見られなかったことも、
大人になって“高額な名画”としてしか見られなかったことも、
全部ひっくるめて、今この瞬間に繋がっていた気がした。

ゴッホを見に行ったはずなのに、気付けば私は、
これまで自分が生きてきた時間の意味まで噛みしめていた。

それが、今回いちばん大きかったことかもしれない。

 

昔は分からなかった。
でも、分からなかった時間にも、ちゃんと意味はある。

そんなことを思えた展示だった。

 

  名画を見る時間というより、“変化と人間らしさ”に出会う時間だった

 

今回のゴッホ展は、ただ有名な絵を見る時間ではなかった。

変化を見られた。
工夫を見られた。
迷いも、模索も、うねりも見られた。
そして何より、作品の向こうにいる“人”を感じられた。

ゴッホの魅力は、完成された天才らしさだけじゃない。
ずっと何かを取り入れて、ずっと変わり続けて、ずっと表現を追いかけていたところにあるんだと思う。

 

だから今回の展示は、とても素敵だった。
ただ絵が上手いとか、有名だとか、そんな話だけでは終わらない。
人間らしさごと味わえる展示だった。

 

最高です。
かなりおすすめです。
ぜひ行ってみてほしいと思える展示でした。

 

 

  ただ一つの誤算は、帰り道の寒さだった

 

そして最後に、唯一の誤算がある。

寒さ対策を、完全に怠ったことだ。

 

昼間はそこそこ暖かい。
だから軽装で出かける。
でも美術館を出たのは17時過ぎ。

 

そりゃもう、寒い。
最高に寒い。
「この時期ならもう少し暖かいのでは?」という私の甘さは、夕方の冷気に一瞬で叩き潰された。

そこから晩ご飯を探して、少しゆっくりして帰った。
でも、その寒さも含めて、なんだか“その日の記憶”としてすごく残っている。

感動して、冷えて、晩ご飯を食べて帰る。


芸術も現実も、だいたいそんなふうに混ざっている。

それも含めて、楽しかったです◯

生物としては、人間は群れの動物で、幼少期は単独で生存しづらい。


だから子どもは「一緒に居たい」というより、一緒に居ないと死ぬに近い。

一方で親は、子を守るために「一緒に居る」を選ぶ。


でも同時に、個体としては「一人の時間」が必要になる。
ここで起きるのは、愛の矛盾じゃなくて、生存要件の衝突

 

子は「近接」を求める。
親は「近接」と「離脱」を同時に求める。
どっちも正常。だから・・・悲しい。

最初の世界

 

  人と一緒に居るのって、地味で面倒じゃない?

 

正直、人と一緒に居るのって面倒だ。

 

気を使う。
疲れる。
距離感を測り続ける。
黙れば気まずい。
話せばズレる。

だから思う。
「地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなの?」って。

 

でも一方で、完全に一人だと落ち着かない日もある。
この矛盾が、もう人間っぽい。

 

  その矛盾、親子の間で一番ハッキリ見える

矛盾が一番むき出しになるのが、親子だと思う。

 

子どもは「親と一緒に居たい」と思う。
親は「自分一人の時間が欲しい」と思う。

 

ねぇ、これって冷たいの?
親失格なの?
……違う。たぶん、これは“人間の仕様”なんだ・・・

 

ここだけ切り取ると冷たく見えるけど、たぶん違う。

 

子どもが求めるのは、愛情というより安心

・目が届く距離
・声が届く距離
・戻れる距離

それがあるだけで、世界は少しマシになる。

子どもにとって「一緒に居る」は、
「甘え」じゃなくて生存の設計みたいなもの。

 

親だって人間だ。

気を張り続ければ疲れる。
ずっと“誰かのため”で居れば、息が詰まる。

一人になりたいのは、逃げじゃない。
むしろ、壊れないためのメンテナンス

「離れたい」と思う瞬間があるのは、
愛がないからじゃなくて、人間だから

 

つまり同じ出来事を、子どもは“生存”として求め、
親は“維持”
として距離を必要とする。

 

同じ家にいて、同じ時間を過ごしてても、
見えてる世界が違う。
まさに「異国」。

 

  それでも結局、人生を変えるのは“他人”だった

 

ここで、私が最近いちばん痛感したことがある。

人生を変えるのは、言葉でも、環境でも、状況でも、習慣でもなく・・・
他人なんだって。

 

なぜなら、言葉も環境も状況も習慣も、大概の場合「他人」が運んでくるから。

 

・誰かの一言で、価値観が変わる

 言葉は、他人の口から出る。


・誰かの都合で、生活が変わる

 環境は、他人が作っている。


・誰かとの摩擦で、習慣が変わる

 状況は、他人の都合で変わる。

 

人間は、自分だけで完結してない。

どれだけ「自分の人生」って言っても、他人の存在に触れた瞬間に自分の意思に関係なく変えられてしまう。
面倒で、窮屈で、正直気乗りしないけど・・・

誰か、自分以外の存在と関係した瞬間に、自分が更新されてしまう。

 

  そして、その“最初の他人”は誰?

 

ここまで来ると、次の問いが出てくる。

「人格を最初に作り上げるのは誰?」

親?それとも本人?

私は、最初は親だと思う。

 

本人は、生まれた瞬間には世界を選べない。
どの家に生まれるかも、誰に触れられるかも選べない。

 

だから最初に入る情報は、ほぼ強制的に刷り込まれる。
いわゆる・・・インプリンティングみたいに。

そしてその刷り込みが、
「普通はこうだよね」
「こうしたら怒られる」
「こうしたら愛される」
みたいな認知のクセ(バイアス)になっていく。

 

本人が「自分で自分を作る」のは、もっと後。
だから「最初の世界」は、ほぼ親が作ってしまうと、感じている。

 

  でも「親」って、肉親のことじゃない気がする

でも、ここが大事。

 

親は、血のつながりだけじゃない。
育てた人だけでもない。

施設や里親でもいいだろうし、あるいは祖父母でも、兄姉でもいい。

 

血のつながりより、役割の方が大きい。


私が思う親という存在?立ち位置?は・・・

親=最初に世界を代表した人。

 

「この世界は安全だよ」
「この世界は怖いよ」
「こうしていれば愛されるよ」
「こうしたら捨てられるよ」

 

そういう“世界の見え方”を最初に渡してくる存在。
それが親。

  「親」という漢字が、全部を説明してる気がする

 

ここで、「親」という漢字が妙に刺さる。

 

親という字。
よく「木の上に立って見る」って言う。

でも私は、
「木の上に立っている姿を見ている」
とも取れると思ってる。

どっちにせよ、共通してるのは・・・観察者ってこと。

 

親は子を見ている。
子は親に見られている。

 

その「見られている感覚」が、
いつか子どもの中に移植される。

 

親がいなくなっても、
子は“親の目”で自分を見てしまう。

 

だから親って、育てる人である前に、
子どもの中に「自己観察の目」を作る存在なんだと思う。

 

  地味で面倒でも、人は他人で変わる

だから最初の問いに戻る。

地味で面倒でも、人と一緒に居ないとダメなのか?

 

「ダメ」ではない。


でも、人は他人に触れることでしか、更新できない部分がある。

 

そしてその最初の他人が親で、
親という観察者の目が、
自分の“内側の目”になっていく。

 

 シンプルフレーズ

親・人の目は、檻にも灯台にもなる。
だから私は、灯台を目指す人でありたい。

「もし、叶わなかったらどうしよう?」

そう思って準備する「保険」や「予備の道」。

とっても、素晴らしい心がけですね。

 

おかげで、あなたの夢は 「叶わないこと」が前提になりました。

 

失敗した時の準備を完璧にするほど、 私たちの脳は、律儀にその「失敗」へ向かって 全力疾走してくれる。

これぞ、効率化の極み。 最高に皮肉な成功法則だと思いませんか?

【夢】保険をかけるほど、遠ざかる怪。

子供の頃の夢、覚えていますか?

「夢は追いなさい」って言うわりに、同時にこうも言われる。

失敗するな。
道を踏み外すな。
保険をかけろ。
現実を見ろ。

 

……ねえ。
それ、どっちに向かって生きろって話?

私たちはいつの間にか、 夢を追う方法ではなく、 「道を踏み外さない方法」を叩き込まれました。

 

私は最近、ずっと引っかかっている。
夢を叶えたいはずなのに、叶わなかった時の準備を同時にしていると、結局どこへ向かってるのか分からなくなる。

引き寄せの法則みたいな話をしたいわけじゃない。

 

不満を抱えながら働き、 給料明細を見てはため息をつき、 週末には自己啓発やスピリチュアルに救いを求める。

なんて完成されたシステムなんでしょう。

みんなと同じ道を歩んで、 みんなと同じように絶望する。

これこそが、現代の「スタンダード」な幸せ ……なのかもしれません。

 

もっと現実的な話。

「叶えるための行動」と「叶わないための行動」を同時にやったら、
人間のエネルギー・・・どっちに割れると思う?

多分、割れる。
そして割れた分だけ、夢は遠のく。

 

  夢を後回しにして、保険を先に用意してしまう理由

 

夢って、持ってたはずなんだよね。
子どもの頃の夢。
学生の頃に抱いた希望。
社会人になって見つけた「こう生きたい」。

 

でも気づくと、夢は「贅沢」になって、
希望は「現実逃避」になって、
いつの間にか私たちは“生きるための正解”を暗記する側に回ってしまった。

 

失敗しないように。
恥をかかないように。
迷惑をかけないように。

その結果どうなった?

仕事をしていても不満。
給料を見てため息。
人間関係で削れて、立ち止まって、
自己啓発を探して、
見えない世界に救いを求める。

 

「正解」を踏んだのに、
心だけが置き去りになってる。

……これ、私たちの“よくある人生”だよね。

 

  学校の価値は否定しない。でも、万能だとも思えない

学校に行けば、人間関係が学べる? 人脈が広がる?

それ、20世紀の話ですよね。

 

コミュニティを学ぶ。
人間関係を学ぶ。
知識を得る。
先達の人脈を得る。

うん、分かる。否定しない。
ただ、私は思う。

 

ほとんどの人が同じ道を歩いているのに、
夢を叶えてる人が少なすぎない?

同じ道を進む人が全員ライバルだとして、
叶えられるのが一部なら、残りはどうなるの?

じゃあ、学校に行けない子は、夢も希望もないの?

……そんなの、悲しすぎる。

 

今の時代、コミュニティは画面の中に溢れています。

「顔が見えないと不安」なんて、 化石のような悩みはもうおしまい。

 

  「学校に行かない」は、終わりじゃなくて選択肢になり得る

 

今はネットがある。
知識も、経験も、教材も、先生も、
いくらでも転がってる。

コミュニティだって作れる。

リアルの狭い教室で、 たまたま隣り合わせた40人と馴染めなかっただけで 「人生終了」なんて、あまりにコスパが悪すぎます。

みんなが学校で同じことをしている間に、 全然違う道を選択する。


顔が見えないからダメ?
それって、本当に“ダメな理由”になるのかな。

 

結局、人間関係って「場所」じゃなくて「選び方」なんだと思う。
リアルでも、ネットでも、
自分が何を選び、誰と繋がり、何を信じるか。

 

先達の人脈?
確かに強い。
でも今は、SNSで自分を売り出す時代でもある。
企業ですら高額を払って宣伝してるのは、そこに力がある証拠だ。

そう思うと、学校に行くことが「唯一の正解」には見えなくなる。

 

むしろ、
みんなが学校に行ってる時間に、
自分の夢のために積み上げられるなら。

 

それは「逃げ」ではなく、ただの「戦略」です。

「学校に行かない」は、夢を叶えるための“戦略”にもなり得る。

  「行けない」子たちに必要なのは、絶望じゃなくて言葉

 

学校に行ける子は、行けばいい。
行く理由があって、夢に繋がる明確な目的があるなら、最高だと思う。

 

正解なんて、どこにも落ちていないから。

 

でも、行けない子はどうする?

社会は平気で言う。
「レールに乗れ」
「普通になれ」
「将来困るぞ」

……それってさ。


困るのは誰のため?
その子の人生なのに、誰の都合で脅してるの?

私が伝えたいのは、これだけ。

 

学校に行かない。 レールから外れる。

それで絶望する必要なんて、1ミリもありません。

むしろ、保険を全部脱ぎ捨てて、 「これしかない」と笑える人の方が、 案外、ひょいっと夢を掴んでしまうもの。

たとえ掴めなかったとしても、 それはそれで、ひとつの面白い結末です。

 

行けなくても、大丈夫。
夢は終わらない。
方法は一つじゃない。

夢を叶える方法に、正解なんか存在しない。
だからこそ、自分の選んだ道を信じる力が必要なんだと思う。

  シンプルフレーズ

 

保険があるから、安心できる。
それも事実。

 

でもね・・・
夢に必要なのは“安心”だけじゃない。
「私はこの道でいい」って、決める勇気。

 

世界がどう言おうと、
学校がどうであろうと、
あなたの人生は、あなたのもの。

 

選んだ道を、恥じなくていい。
行けない日々を、負けにしなくていい。

 

夢は、学校に通うことで生まれるんじゃない。
夢は、「自分の気持ちを捨てない」ことで残り続ける。

 

最後に一言だけ置いておくね。

「夢は、保険で守るものじゃない。覚悟で育てるものだ。」

どうせ最後は、みんな同じ場所に行き着くんですから。

それなら、誰かが決めた「正解」を演じるより、 自分の選んだ「間違い」を愛した方が、 よほど明るい諦念に浸れると思いませんか?

学校に行ってもいい。 行かなくてもいい。

あなたの絶望も、あなたの希望も。 全部、あなたの自由です。

さあ、今日はどの「保険」を捨ててみましょうか?

 

 

私はこの年で、40歳で新しく軟骨のピアスを開けてみた。

もともとピアス穴は開いていたけど、なんというか・・・アクセサリーが好きなわけですよ。

勢いで・・・

と言うより、もともと、軟骨にピアス穴は開けたいと思っていた。

 

10代20代前半戦、アクセサリーが好きで、シルバーアクセを粘土で手作りしていた時期もある。

でも、何故か軟骨や口、ボディピアスは開けていなかった。

正直痛いのは嫌いです。

怖いんですよね・・・

弱虫で臆病なんですよ私・・・

 

でも、考えるんです。

 

あと何年生きられるのか?

終わる時・・・最後の日に、笑って終われるのか?って・・・

 

正直、無理です。今はまだそんな余裕も満足感も達成感も持っていません。

 

でも、それでも・・・

興味のある事、関心のあったこと、出来ることは出来る事だけなんだとしたら・・・

出来ることはやっておいて損は無いかな?って思った。

 

ピアス

たったそれだけのコト。誰もが何気なく着けているアクセサリーの一つ

 

それなのに、周囲からは・・・

「歳考えて笑」「今更ですか?笑」「意味あります?笑」っていう反応だ。

これが、世間の反応なんだろう。

 

分かる。分かるけど、その年甲斐もなくって何ですか?

『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ』

サミュエル・ウルマンも言っているじゃないか!

心なんだよね。青春とか若さとか歳なんて関係ない。

思い残すことがあるくらいなら、やってみても良いんじゃないだろうか?

 

ただ心に残る言葉は他にもある。

『若さとは、誰もが一度は持つ才能だ』

コロ先生が言っていた。

その通りだと感じるし、これが大事だと思う。

若さとは誰もが持てる才能・・・それは、間違いを躊躇うことを必要としない。

失うものが無い・・・言い方が悪いね。失っても取り返す時間がある。

なにより、周囲と世間が若さを理由に許してくれる。

 

これは、青春とは違う問題だ。

サミュエルが青春を人生の期間と言わず、心次第だと言ったことに対して

若さが許されるのは、年齢による周囲の評価なんだろう

要するに、年が・時間が・年齢が直接的に世間と周囲の評価や判断基準になっているっていう事実だろう。

 

それがあるから、年甲斐もなくなんて言われてしまう。

 

ごめんね?

未だに、子供?青春?を求めていて。

 

ピアス一つ増やすだけで、周囲は・・・職場の同僚たちは批判と嘲笑で忙しい。

そりゃ生きにくい。

やりたいことも出来ない世の中で・・・

言いたいことも言えない世の中で・・・(POISON)

 

歳なんか気にして生きてたら、残り時間に何が出来るんだよ。

限られた時間

有限の時間、出来ることは出来る事だけ

 

終わった後に楽しかった(ヒンメル)って言える世界の歩き方をしたいなら、

世界の評価や、周囲の反応なんか気にしていたら出来ないことだらけだ。

そんなの私には向いてない。

出来る事しか出来ないのに、時間には限りがあるのに、余裕も余白もなく生きるだけで精一杯なんだ。

その時に、年を言い訳にして、出来ない理由を増やしていたら楽しめない。

だから、私は歳なんか関係ない。

体力?視力?聴力?もちろん落ちてるさ(笑)

もうね、肉体もそこそこ疲弊してますよ。髪だって薄くなってますよ。

それでもね?

 

年甲斐なんて気にして行動しないなんて

私には必要ない選択だね。

 

うん。ピアス空けたらね?治りが遅い。

うん。若さの余裕感が無いね、痛いよ?

うん。治るかな・・・困ったな・・・消毒します・・・( ´∀` )

 

 

そのうち、自撮りも載せるかもね・・・

「助けてほしい」って言葉は、
本当は、弱さじゃない。

生き延びたいっていう、
ただの本能だ。

 

でもさ。
助けが来ないとき。
人は、世界を悪にする。

 

その瞬間、自分の心の中に
“敵”が増え始める。

前回の続きとして言うなら・・・
救済と悪認定は、切り離せない回路なんだ。

「救済」という名の鎖を断ち切れ

 

「誰か助けて」と空を見上げている間、君の首には見えない鎖がつながっている。 

その鎖の先を握っているのは、SNSで君をあざ笑う誰かか、

あるいは君を「かわいそうな弱者」として利用したがる、どこかの誰かだ。

「自分を不幸だ」と名乗った瞬間、君は他人の顔色をうかがう家畜になる。

 誰かに正義を求めている限り、君は一生、その誰かの「悪」に縛られ続けるんだ。

 

自由っていったい何だい? 自由になりたくないかい? 

(尾崎豊『Scrap Alley』より)

 

自由とは、誰かに優しくされることじゃない。 

誰からも期待されず、誰のせいにもせず、ただ一人で闇の中に立っていることだ。

 

 

  「正しさ」という名の窓ガラスを叩き割れ

 

善悪は、神の判決じゃない。
多くの場合、権力のラベルだ。

 

多数派が貼る。
構造が貼る。
社会が貼る。

従わないものに、「悪」を貼る。

貼った瞬間に、排除が正当化される。

 

勝った奴が「正義」という旗を振り、負けた奴が「悪」という泥水をすする。 

そんな出来レースの物語に、君の貴重な感情を1ミリだって預ける必要はない。

 

不幸をスパイスにして愉悦に浸る世界なら、こっちだってその「不幸」をゴミ箱に捨ててやればいい。 

自分を正当化するための理由なんて、もう探さなくていいんだ。 

**「悪いのは俺じゃない、世界だ」**なんて叫ぶのは、もう卒業かもしれないね。

 

そんな「負け犬の遠吠え」を、世界は一番喜んで消費するのだから。

  支配からの卒業

 

だから、「悪だ」と言うのは負け犬の遠吠えじゃない。
まずは強者の特権なんだ。

・・・でも面白いのは、ここから。

弱者も、貼り返す。

「私は正しい」
「だから世界が悪い」

この瞬間、
善悪は裏表になる。

 

たとえ弱者だろうが、孤独だろうが、 「俺を救えるのは、俺だけだ」 そう腹の底から思えたとき、君はもう誰にも捕まらない。 他人が書き換えた過去も、押し付けられた恩義も、全部バイクの後ろに乗せて、夜の向こうへ置き去りにしてしまえ。

 

  不幸は、消えない。だから物語の主役になる

 

幸福は溶ける。
消える。
後に残るのは、ベタつき。

恩も消える。
忘れる。


でも押し付けられた恩は消えない。
残るのは、引け目と負債。

一方で、不幸は消えない。

消えないどころか、次から次へと襲ってくる。

だから人は、不幸を材料にして、物語を作る。

 

事実を脚色する。
意味を足す。
人生の糧にする。

・・・ここまでは、まだいい。

 

問題は、その糧が「正当化」に変わるとき。

「悪いのは私じゃない」
「誰かが悪いんだ」

不幸が、正義になる。
正義が、敵を呼ぶ。

 

世界を壊すんじゃない。
世界に従う自分を壊す。

これが革命。

 

  十五の夜は、まだ終わらない

 

大人たちは「現実を見ろ」と言う。 

でも、彼らが見ている現実なんて、誰かが作った都合の良い物語だ。

君が感じているその「痛み」や「苦しみ」は、物語の材料にするためのものじゃない。 

君が生きているという、たった一つの、熱い証拠・・・

 

幸せがアイスクリームのように溶けて消えても、 孤独という風がどれだけ冷たくても、

自分の足で立っている限り、君は「強者」の支配から逃げ切れる。

 

さあ、スマホを消して、自分だけの夜へ。 


「運命」なんていう言い訳を笑い飛ばしながら、誰もいない道を走り抜けようぜ。

 

・・・まだ世界は不条理だ。
でも、従わないだけで景色は少し変わる。

私たちは、殴らなくても反抗できる。

 シンプルフレーズ

「世界で生きなくていい。世界に従う自分を壊せ。」