今の私なら・・・

単純な勉強の魅力を、楽しめたのかもしれない。

って思うことがある。

たぶん、今の私なら予備知識があり、予習をした状態で勉強に向き合えるからかもしれない。

 

でも、そうだとしても、勉強が好きになるとは言い切れない。

だって、嫌いなんだもの・・・

子供の頃に勉強を楽しめなかったのは、勉強が嫌いだったからじゃない。

勉強ってさ、なんであんなに強制されるんだろうか?

確かに、大学を出た人の進路はさすがの一言です。

職場にも居ますよ、大卒・院卒の方がね?

でも、人生楽しめてるのかな?って思ってしまうのは、私の負けず嫌いな性分のせいでしょう(笑)

 

  勉強って、大人になったら楽しくなるんだろうか?

40歳になった今の経験と感性を持って、もう一度学生時代に戻ったなら。
あの退屈で大嫌いだった勉強を、少しは楽しめたのかもしれない・・・

そんなことを、ふと思った・・・

 

学生時代の勉強は、本当に楽しくなかった。
意味も分からなかったし、価値も見えなかった。

英語。
数学。
理科。
歴史。
国語。

もちろん、今になって思えば面白いものもある。

 

哲学は面白い。
歴史にも興味がある。
国語っていう、言葉の色どりには楽しみを覚える。

でも、それは今だからだと思う。

 

40歳になって、人生の時間を少しは越えてきたから。
失敗も、後悔も、人間関係も、仕事も、社会の理不尽も、少しは経験してきたから。

今なら、勉強から見えてくる言葉や流れや意味を、違う見方で楽しめるんじゃないだろうか?

 

でも、ここで一つ疑問が出てくる。

じゃあ、子供の頃に楽しめなかったものが、本当に楽しいと思えるようになるんだろうか?

 

私は英語を話せるようになりたいと思う。
関心はある。
興味もある。

でも、「勉強」と思った瞬間に心が折れる。

英単語を覚える。
文法を覚える。
聞き取る練習をする。
発音を直す。

もう、その時点でしんどい。

 

学びたいという思いだけでは、なかなか先には進まない。

 

たぶんそこには、明確なビジョンが無いんだと思う。

英語を話して楽しんでいる自分の姿。
英語を使えるようになった自分の姿。
その可能性が、リアルに見えてこない。

だから動けない。

大人になると、目的や意味や価値が無いと、なかなか行動に移せない。
給料になる。
仕事に繋がる。
自分の可能性が広がる。
誰かと話せる。
どこかへ行ける。

そういう明確なビジョンがあれば、それが魅力になる。

 

嫌でも勉強できる環境になることもあるし、可能性をリアルに持てれば、自発的な勉強にも繋がるんだろう。

 

  でも、子供の頃は違った。

 

子供の頃は、目的も意味も価値も、明確なビジョンも必要なかった。

虫取り。
友達とのカードゲーム。
ミニ四駆。

そこに将来のビジョンなんて無かった。

 

虫を取ったから何になる?
カードゲームで勝ったから何になる?
ミニ四駆を速くしたから将来どうなる?

そんなことは考えていなかった。

でも楽しかった!!
前向きに、必死に、夢中になっていた。

ミニ四駆だって、私はレースにほとんど参加できていない。
家庭の事情っていうやつだ。

それでも楽しかった。

じゃあ、なぜ勉強には夢中になれなかったんだろう。

同じ子供時代の時間の中で、虫取りやゲームには時間を使えた。
でも、勉強には時間を使えなかった。

その違いは何だろうか。

私は、魅力だと思う。

子供は、魅力があるものに振り向く。

そこに余白とか余裕とか、そんな綺麗な言葉はいらない。


子供はもっと単純だ。

面白い。
楽しい。
触りたい。
やりたい。
もっと知りたい。

そのキラキラした魅力があるから、時間を使う。

限界でも、ギリギリでも、楽しみや面白さや輝きがあれば、そこに力を振り絞れる。

 

それが一生懸命なんだと思う。

命をかけるって、そういうことなんだと思う。

 

だからこそ、勉強を楽しめなかった理由は、勉強そのものが嫌いだったからではない気がする。

勉強から、楽しいという魅力を奪われたから楽しめなかったんだ。

勉強は、魅力的なものとして差し出されなかった。

「知るって面白いよ」
「分かるって楽しいよ」
「世界が広がるよ」

そういう顔ではなく、

「勉強しないと将来困るよ」
「ちゃんとやらないとダメだよ」
「今やらないと後悔するよ」
「普通はこれくらいできるよ」

そんな形で差し出された。

 

他人からの強制。
将来という漠然とした不安。
先達たちの心配。

それが勉強に貼り付けられていた。

 

もちろん、心配してくれた人たちに悪意があったとは思わない。
親も先生も、大人たちも、きっと良かれと思って言っていたんだろう。

 

でも、その心配は子供にとって、勉強の魅力にはならなかった。

むしろ逆だ。

与えられたものが魅力的じゃないから、倦厭するようになる。

楽しくない。
分からない。
出来ない。
つまらない。
嫌い。

そうやって、勉強は嫌いなものになっていく。

勉強が嫌いだったんじゃない。

勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかったんだ。

 

これは、大人でも同じだと思う。

義務や職務で押し付けられるものには、なかなか魅力を持てない。

仕事だってそうだ。

楽しいからやっているというより、給料という分かりやすいご褒美があるから出来ることも多い。

給料は大事だ。
それがあるから頑張れる。

 

でも、給料があるからといって、その仕事そのものを楽しいと思えるかは別の話だ。

楽しいと思えるかどうかは、常に飴と鞭、メリットとデメリット以外の部分にある。

 

魅力があるかどうか?

 

これが大きい。

褒められることも、点数が上がることも、評価されることも、たしかにご褒美にはなる。

でも、それは人を動かす理由にはなっても、好きになる理由とは少し違う。

好きになるには、魅力がいる。

 

だから、私は思う。

子供の頃に勉強が嫌いになったのは、勉強の魅力を見る前に、不安と心配を押し付けられたからなんじゃないだろうか。

勉強しなければならない。
将来困る。
ちゃんとしないといけない。
普通から外れてはいけない。

そんなものを背負わされた勉強を、子供が楽しいと思えるわけがない。

 

もし、あの頃。

誰にも強制されず。
将来という漠然とした不安も与えられず。
先達たちの心配も押し付けられず。

ただ、勉強そのものの魅力に触れられていたなら・・・

 

今の私の感性で、今の経験を持って、子供の頃に戻れたなら。

もしかしたら、あの退屈で大嫌いだった勉強も、楽しめたのかもしれない。

歴史を、ただの年号ではなく人間の物語として見られたかもしれない。
国語を、ただの読解問題ではなく言葉の色どりとして楽しめたかもしれない。
英語を、ただの単語と文法ではなく、世界と繋がる音として感じられたかもしれない。

数学や科学や生物は…まあ、今でも怪しいけれど。


そこは無理に綺麗にしなくてもいい。

全部の勉強を好きになれたとは思わない。

でも、少なくとも勉強を嫌いになる前に、魅力に触れることは出来たのかもしれない。

 

  大人になった今だから、そう思う。

勉強が嫌いだったんじゃない。
勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかった。

 

そして・・・

楽しくないから学べない。
学べないから分からない。
分からないからつまらない。
つまらないから嫌いになる。

この流れは、きっと子供だけじゃない。


大人だって同じだ。

だから、学び直しに必要なのは、立派な根性論じゃない。
正しい努力でもない。
綺麗な余白でもない。

まずは、魅力だ。

面白そう。
知りたい。
触ってみたい。
もう少し分かりたい。

その輝きがあるから、人は動ける。

余裕があるから楽しむんじゃない。
魅力があるから、余裕がなくても命を振り絞るんだ。

 

勉強も、そういうものとして出会えていたなら。

私は、もう少し違う学生時代を過ごせたのかもしれない。

 

 シンプルフレーズ

勉強が嫌いだったんじゃない。
勉強から楽しいっていう魅力を奪われたから、楽しめなかったんだ。

 

善意だから許されるわけじゃない。
正論だから届くわけじゃない。
心配だから人を育てるわけでもない。

むしろ、善意と正論と心配は、かなり都合よく人を縛る。

 

勉強は、魅力として渡されなかった。
不安として渡された。
なぜなら、その方が大人にも社会にも都合がいいから。
子供が楽しむかどうかより、子供が従うかどうかの方が優先された。

優しい人に憧れる気持ちは私もある

優しい人になりたいと思う

 

でも、私は優しい人にはなれないんだ。

 

だって、渡す人と、受け取る人が居ないから・・・

 

優しさを探して

 

優しさって、最初から「あるモノ」じゃないんだと思う。

渡すものでもない。
ねだるものでもない。
手に入れるモノでもない。

 

ただ、受け取った側が、

「ああ、これは優しさだな」

って感じた時に、初めて生まれるものなんだと思う。

 

強さも、勇気も、不安や心配も、きっと同じだ。
お節介も、余計なお世話も、結局は受け手次第なんだと思う。

 

だから、誰かの為に何かが出来るなんて思うのは、とても傲慢なことなのかもしれない。

それって結局、

「やってやった」

っていう押し付けになってしまうから。

 

だからこそ、優しさって、渡そうと思って渡せるものじゃない。

 

  優しさは、心の余裕だと思う

私は、優しさは心の余裕だと思う。

 

限界で、切羽詰まっている時。
もう自分ではどうにもならない時。
そんな時に、誰かが少しだけ余裕を作ってくれる。

 

その余裕を感じた時に、人はそれを「優しさ」だと思えるんじゃないだろうか?

 

例えば、手が空いている時間に、誰かの作業を少し手伝う。
自分に体力があるから、誰かの荷物を持ってあげる。
少し気持ちに余裕があるから、誰かの話を聞く。

自分の余っている何かを、誰かに渡してあげる。

 

そして、それを受け取った側に少しでも余裕が出来た時。
その余裕であり、余白のことを、人は「優しさ」だと感じるんだと思う。

  自分に余裕がなければ、誰にも何も渡せない

 

心の余裕って言葉を使っているけど、結局、自分に余裕がなければ誰にも何も渡せない。

時間もない。
体力もない。
気持ちもない。
自分自身が限界なのに、誰かに優しくするなんて、そう簡単には出来ない。

 

だから、優しさって「良い人であること」じゃないんだと思う。

渡せる心があること。
それが余裕のある心で。

余裕のある心が出来る行為が、優しさに繋がる可能性がある。

 

優しさは、渡すものじゃない。
受け取った側に余裕が生まれた時に、あとから優しさになる。

 

私は、そう感じている。

何のために生きるのか?

誰の為に?自分の為に?

自分の為だけに生きられるほど強くない

でも、誰かの為に生きられるほど器用でもない

 

何か目標や夢がある?

 

目的のある人生って何だろう?

 

ただ、流されるままに生きていけるほど柔軟でもないし

その場その場の状況に合わせて取り繕えるほど引き出しも多くない

 

だからさ、出来る事なんてそんなに選択し無いんだよ

 

何者かに成ろうとか

何かを成し遂げようとか

大層なコトを言いたい気持ちもわかるけど

 

今生きてるだけで精一杯なんだよね。

実際はさ・・・

 

だからさ、そんなに頑張らなくてもいいんだよ。

 

無理しない、頑張らない。

誰かの為に生きることは難しいけど、誰かに助けてもらいながらなら出来る事もあるだろう

自分の為に生きるのは難しいけど、自分にしか出来ない事もあるだろう

 

誰かの為に自分の出来ることが出来たらきっと素敵だろうけど、

そんなに世の中上手く回っていくわけじゃない。

 

結果論で判断するのは世界の常識かもしれないけれど、

結果が出るのなんて今じゃないんだ

判断するのも今じゃないんだ

 

だからさ、笑う方法だけ探して見るのを私はおススメするよ。

笑うって素敵だと思うからさ

笑顔が嫌いな人って少ないからさ

笑顔が下手だって言う人も居るけど、私はそんな人の笑顔も好きだからさ

 

「ごめん」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「ありがとう」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「またね」って笑顔で言えたら十分でしょ?

「うれしい」ってい笑顔で言われたら十分でしょ?

「よろしく」って笑顔で言われたら十分でしょ?

 

少なくとも、私はそれで十分だよ。

私は見たいんだ、あなたの笑顔がさ・・・

嫌なことがあっても平気

失敗しても大丈夫

逃げ出しても良い

 

結局、『それで死ぬわけじゃない』

って、開き直っちゃうと、なんとかなる。

 

実際、死ぬようなヘビーなことって、そうそう無い。

 

もしも自分の身に危険を感じたり

自分の大切なモノが危険にさらされたりするような状況なら

 

それは、どんなに嫌でも・辛くても・逃げられないし、失敗できない。

その瞬間だけ、一生懸命に本気で全力で何とかする方法を探せばいい。

 

そうじゃない時は、なんとかなるって

自分に言い聞かせて、もっと気楽に過ごすのも良いんじゃないか?

 

だって、『死ぬわけじゃない』

 

大切なのは、自分の気持ちが一方向からしか見られない状況を変えること

もうダメだ

限界だ

逃げ出したい

って、辛いことばかりに目が行ってしまうから、メンタルはダメになる。

 

それでも大丈夫って、自分に言える理由と、感じられる方法の一つが

 

『開き直る』こと、

 

『それでも死ぬわけじゃない』って、自分に言い訳してあげたら、

気持ちが楽になって、気楽に生きて行けるようになるよ。

酔えればいい酒もある。
騒げればいい夜もある。
でも、忘れられない一杯は、
酔いではなく、特別を教えてくれる人がつくる。

本物のお酒は、酔わせるんじゃない

  思っていたより、ずっとスッキリしていた

先日、本格的なbarに行った。

そこでバランタイン17年を飲ませてもらった。

 

正直、思っていた以上にスッキリしていた。
深い香りがあって、氷が溶けるたびに口当たりが変わっていく。


決して薄いわけじゃない。
決して誤魔化された味でもない。

 

それなのに、不思議と酔わない。
むしろ、酔いがさめるような感覚があった。

美味しいお酒って、こういうものなんだと思った。

 

  マンハッタンで知った、大人のなめらかさ

その後に頼んだマンハッタンも、忘れられない一杯だった。

カクテルに詳しいわけではない私でも分かるくらい、なめらかで、冷たくて、深い。


ウイスキーを使っているはずなのに、ウイスキーが強く主張しすぎない。
 

でも、確かにそこにいる。

これが本物のお酒なんだと思った。

 

  ギムレットには、まだ早すぎる

そして最後に、味変でスッキリしたものをお願いした。


出てきたのはギムレット。

「ギムレットには早すぎますね」

なんとまぁ、気の利いたバーテンダーさんだ。


まだお別れには早いらしい(笑)


とはいえ、終電の時間はあるんだけどね・・・

 

ライムの利いたスッキリした口当たり。
砕けた氷の刺激。
その一杯に、ちゃんと物語があった。

 

  楽しいだけでは、忘れられない

 

お酒って、楽しく飲めばいいと思う。
誰と飲むのか、いつ飲むのか、何を飲むのか。
それぞれに楽しみ方がある。

安いお酒を気軽に飲む夜だってある。
騒いで笑って、ただ酔うために飲む日もある。
それはそれでいい。

でも、忘れられない一杯になるのは、楽しいだけでは少し足りないのかもしれない。

 

  好きになるには、体感が必要だ

何かを好きになるって、本物を体感した時に起こる感情なんだと思う。
人からどれだけ熱く語られても、体感していなければ「お、おう」で終わってしまう。

 

車でも、スポーツでも、映画でも、お酒でも同じだ。

風を感じて、空気に触れて、熱量を受け取って、誰かと言葉を交わして。


そこで初めて、心が動く。

 

だから私は、映画を一人で見るのがあまり得意じゃない。
感動した時間を誰かと話して、表現して、共有した時に、初めてその時間が完成する気がするから。

 

  一杯が、物語に変わる時

今回のbarで飲んだお酒もそうだった。

 

ただ美味しいだけじゃない。
ただ酔うためのお酒じゃない。


バーテンダーさんの気遣いと、言葉と、空気と、その場の時間があって、初めて忘れられない一杯になった。

 

本物のお酒は、酔わせるんじゃない。
その夜を、特別な記憶に変えてくれる。

 シンプルフレーズ

楽しい時間の過ごし方は、誰しも自由だ。
でも、忘れられない感動をくれるのは、
“特別”を教えてくれる人との出会いなんだ。

 

お酒は楽しく飲めばいい。
でも、忘れられない一杯は、楽しいだけでは生まれない。
その先にある“特別”を教えてくれる人との出会いが、
ただの一杯を、物語に変える。

 

が・・・さすがにいいお値段ですね。