私が、恋だ愛だと語ることは本当におこがましいと思うけど・・・

それでも、思うところはある。

語ることろも無いから、ここで書いてしまうけど・・・

些細なコトなんだよ。

一人でいる事しか出来ない私が、1人で居ることの意味を知ったことから、見えた世界があるって言うだけのことなんだ。

 

恋は下心?愛は真心?

 

人を好きになると、自分に少し灯がともる。
でも、その灯を自分だけのために使ってしまえば、恋は独りよがりになる。
愛とは、その灯を相手にもそっと渡せることなのかもしれない。

  恋は、自分を照らしてくれる

 

人を好きになると、不思議なくらい自分に関心が戻ってくる。

服装を気にする。
言葉を選ぶ。
立ち居振る舞いを少し意識する。
週末の予定に、少しだけ意味が生まれる。

「あの人に会うなら」
「あの人に見られるなら」
「あの人と話すなら」

そう思うだけで、自分の中に少し覇気が戻る。

 

だから私は、恋は自分を見つける灯なのだと思う。

ぼんやりしていた自分の輪郭が、少しだけ見えてくる。
どんな自分でいたいのか。
どんな言葉を使いたいのか。
どんなふうに人と向き合いたいのか。

好きな人がいることで、自分を見るようになる。

 

でも、ここで気をつけないといけない。

その灯を、自分だけを照らすために使ってしまうことだ。

  恋は下心でいい。でも、相手を見失ってはいけない

恋には、どうしたって下心がある。

好かれたい。
振り向いてほしい。
見つけてほしい。
選ばれたい。

それは、悪いことではないと思う。

 

好きな人に良く見られたいから、少し頑張れる。
好きな人に会いたいから、自分を整えようと思える。
好きな人に届きたいから、言葉を探す。

だから、恋は下心でいい。

 

でも、その下心のまま進んでしまうと、相手を見失う。

自分が好かれること。
自分が満たされること。
自分が救われること。

そこばかり見てしまうと、相手は一人の人間ではなくなってしまう。

自分の寂しさを埋める場所。
自分の不安を受け止める器。
自分の物語を進めるための登場人物。

そんなふうに、相手を使ってしまう。

 

本人は、好きなつもりなのに。
大切にしているつもりなのに。

気づけば、相手ではなく、
相手に見られている自分ばかりを見ている。

これが、恋の独りよがりなのだと思う。

  好きだからこそ、相手の自由を見る

好きになると、期待してしまう。

返事がほしい。
会いたい。
分かってほしい。
自分を特別に見てほしい。

その気持ちは自然だと思う。

 

でも、好きという気持ちは、相手を縛る理由にはならない。

相手には、相手の生活がある。
相手には、相手の疲れがある。
相手には、相手の価値観がある。
相手には、こちらを選ばない自由もある。

ここを忘れると、好きは重くなる。

 

好きだから、近づきたい。
でも、好きだからこそ、踏み込みすぎない。

好きだから、知りたい。
でも、好きだからこそ、相手の沈黙も尊重する。

好きだから、会いたい。
でも、好きだからこそ、相手の都合も見る。

 

この距離感は、本当に難しい。

 

でも、ここを見失うと、恋は自分勝手になる。

相手を大切にしたいなら、
自分の気持ちだけではなく、相手の自由も見なければいけない。

綺麗ごとかもしれないけれどね・・・

  愛は、灯を渡せること

私には、しっくりくる言葉がある。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

恋は、自分を照らしてくれる。

好きな人がいるから、自分を整える。
好きな人がいるから、少し良くありたいと思える。
好きな人がいるから、自分の言葉や態度を見つめ直す。

それは、とても大切な灯だ。

 

でも、その灯を自分だけで抱えているうちは、まだ恋なのだと思う。

愛に近づくには、その灯を相手にも渡せるかどうか。

相手もまた、自分自身を見つけられるように。
相手もまた、自分を大切に出来るように。
相手もまた、その人自身でいられるように。

そう願えること。

 

それは、相手を変えようとすることではない。
相手を自分好みに照らすことでもない。
相手の暗闇を勝手に暴くことでもない。

 

ただ、そっと渡すこと。

「あなたも、あなた自身を見つけていいんだよ」

そう思えること。

それが、愛なのかもしれない。

  好きな人を、自分の救済にしない

好きな人を求めることは、悪いことではない。

寂しいから。
不安だから。
支えが欲しいから。
弱音を吐ける場所が欲しいから。
自分を見つけたいから。

そうやって誰かを求めるのは、とても人間らしいことだと思う。

 

でも、好きな人に自分の救済を全部背負わせてはいけない。

好きな人は、自分を救うためだけに存在しているわけではない。
自分の寂しさを埋めるためだけにいるわけではない。
自分の人生に意味を与えるためだけにいるわけでもない。

その人には、その人の人生がある。

ここを忘れないこと。

 

好きな人を求めていい。
でも、好きな人を「自分を救う人」にしない。

好きな人を、
自分も相手も知っていく入口

にする。

そこからなら、恋は少しずつ愛に近づいていけるのだと思う。

 

  独りよがりにならないために

恋は、最初から綺麗なものではない。

期待する。
求めすぎる。
不安になる。
相手の反応に振り回される。
自分の寂しさを、相手に背負わせたくなる。

 

そんなこともある。

でも、大切なのは、完璧にすることではない。

気づいた時に、相手の方へ視線を戻すこと。

今、自分だけを照らそうとしていないか。
相手の灯を消そうとしていないか。
相手の自由を見失っていないか。

そう問い直せること。

 

それが、独りよがりにならないための灯なのだと思う。

 

恋は、自分を見つけるために誰かを求めること。
愛は、その誰かもまた、自分を見つけられるように願うこと。

そう考えたら、人を好きになることは、やっぱり素敵なことだと思う。

 シンプルフレーズ

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

自分を見つけるために、誰かを求める。
そして、その誰かもまた、自分を見つけられるように願う。

それを、愛って呼べたら素敵じゃないか。

人を好きになると、不思議なくらい自分に関心が戻ってくる。
服装も、言葉も、週末の予定も、少しだけ丁寧になる。
もしかすると私は、恋人が欲しいんじゃなくて、「好きな人がいる時の自分」を求めているのかもしれない。

  人を好きになると、生活に覇気が戻る

人を好きになるって、本当に不思議だと思う。

好きな人がいるだけで、少し生活に覇気が出る。
週末の予定を考える。
服装を少し気にする。
髪型を整える。
言葉遣いや立ち居振る舞いまで、ほんの少し丁寧になる。

普段なら面倒くさいと思うことでも、

「あの人に会うなら」
「あの人に見られるなら」
「あの人と話すなら」

そう思うだけで、なぜか出来てしまう。

 

これは、ただモテたいという感覚とは少し違う。

モテたいは、不特定多数に向いている。
誰かに評価されたい。
誰かに認められたい。
誰かに良く見られたい。

もちろん、それも人間らしい感情だと思う。

 

でも、好きな人に好かれたいという気持ちは、もっと具体的だ。

誰でもいいから認められたいんじゃない。
その人に、見つけてほしい。

その人の目に映る自分が、少しでも恥ずかしくない自分でありたい。

 

だから、人を好きになると、自分を見始める。

これは、とても大きなことだと思う。

  好きな人を求めるのは、自分を求めているから

私は、ただ恋人が欲しいわけじゃないのかもしれない。

もちろん、恋人という存在に憧れがないわけじゃない。
一緒に出かけたり、他愛ない話をしたり、弱音を吐いたり、ただ隣にいてくれる誰かがいることに救われる時もあると思う。

でも、それだけじゃない。

 

もっと正確に言えば、私は
好きな人がいる時の自分を求めている
のかもしれない。

 

誰かを好きでいる時の自分。
少し背筋が伸びる自分。
少し良くありたいと思える自分。
言葉を選ぶ自分。
自分の姿や態度に関心を持てる自分。

そういう自分を、どこかで求めている。

何も好きじゃない。
誰も好きじゃない。
他人に興味もない。

そんな状態になると、自分自身にすら関心を持つことが難しくなる時がある。

自分を磨く理由がない。
自分を知ろうとするきっかけがない。
どんな自分でいたいのかも、ぼんやりしてしまう。

朝起きて、仕事に行って、帰って、寝る。
生活は出来る。
生きることも出来る。

 

でも、自分に熱が戻らない。

何のために服を選ぶのか。
何のために言葉を整えるのか。
何のために自分を少し良く見せたいと思うのか。

 

その理由が見つからない。

でも、好きな人がいると違う。

あの人にどう見られているだろう。
この言葉はどう届いただろう。
この態度は雑じゃなかっただろうか?
もう少し魅力的でいられないだろうか?

 

そうやって、相手の目を想像する。

そして、相手の目の中に、自分を見つけようとする。

だから、人を好きになることは、相手を求めることでありながら、同時に、自分を求めることでもあるのだと思う。

  他人の目の中に、自分を見ている

人は、自分一人では自分を見切れない。

自画像を描く時に、鏡が必要になるように。
自分の声を録音して初めて、思っていた声と違うことに気づくように。
自分の姿も、自分の言葉も、自分の印象も、自分だけでは分からないことが多い。

だから、人は他人の目を借りる。

好きな人がいると、その感覚はもっと強くなる。

あの人の前の自分は、どんな人間なんだろう・・・?
あの人から見た私は、優しく見えているだろうか?
面白く見えているだろうか?
重く見えているだろうか?
雑に見えているだろうか?
ちゃんと人を大切に出来る人間に見えているだろうか?

そんなことを考える。

 

それは少し怖い。

だって、他人の目の中に自分を見るということは、自分だけでは隠せていたものまで見えてしまうから。

格好つけたい自分。
好かれたい自分。
嫌われるのが怖い自分。
弱音を吐きたい自分。


でも、弱く見られたくない自分。

好きな人の存在は、鏡みたいなものなのかもしれない。

 

ただし、普通の鏡ではない。

顔を映す鏡ではなく、
心の姿勢を映す鏡。

だから、好きな人がいると、自分に関心が戻ってくる。

それはきっと、相手を見ているようで、自分も見ているからだ。

 

  弱音を吐ける場所が欲しい

恋人という言葉だけで考えると、少し狭くなる。

本当に求めているのは、恋人という役割だけではないのかもしれない。

弱音を吐ける場所。
自分を整え直せる場所。
自分の輪郭を確認できる相手。
自分が必要として、自分もまた必要とされる関係。

そういう存在を、人は求めているのだと思う。

 

支えが欲しい時もある。
寂しさを紛らわせたい時もある。
不安を抱えている時もある。

それを全部、依存だと切り捨てるのは簡単だ。

 

でも、人は一人で完全に立てるほど、単純には出来ていない。

誰かに聞いてほしい。
誰かに見てほしい。
誰かに分かってほしい。
誰かの前でだけは、少し力を抜きたい。

そんな気持ちは、きっと人間の弱さであり、同時に人間らしさでもある。

 

もちろん、家族の必要性をわざわざ語る必要はないのかもしれない。

家族は大切だ。
親族は大切だ。
支えになることもある。

 

でも同時に、負担になることもある。
不満が生まれることもある。
ネガティブな感情が生まれる場にもなる。

大切だから、何もかも綺麗になるわけじゃない。

 

むしろ、大切だからこそ、面倒も増える。
距離が近いからこそ、傷もつく。
必要だからこそ、負担にもなる。

 

それでも人は、自分以外の誰かを求めてしまう。

面倒くさい。
傷つく。
誤解される。
不満も生まれる。

それでも、誰かを求めてしまう。

 

本当に、ままならん。

でも、そのままならなさの中に、好きという感情の入口があるのだと思う。

  素直は、一人では必要ない

私は、素直という言葉についてよく考える。

素直でいること。
本音を話すこと。
自分らしくいること。

どれも綺麗な言葉だと思う。

 

でも、よく考えると、素直なんてものは一人では必要ない。

もし無人島で一人きりで生きていたなら。
もし終末世界で、誰とも関わらず一人だけで生きていたなら。

そこに素直なんて必要ない。

誰に対して素直なのか。
誰に対して本音を言うのか。
誰に隠すのか。
誰に見せるのか。

相手がいないなら、その問い自体が生まれない。

生きるだけなら、素直なんていらない。

生きられるなら生きる。
生きられないなら幕を閉じる。

ただそれだけの世界なら、素直も、本音も、自分らしさも、そこまで必要にはならないのかもしれない。

 

でも、人と関わると話が変わる。

素直でいてほしい。
本音を話してほしい。
ちゃんと向き合ってほしい。
嘘をつかないでほしい。
分かってほしい。
分かりたい。

そう求められるから、初めて素直という表現が現れる。

 

つまり、素直さは、自分の中に最初から完成品として眠っているものではないのだと思う。

誰かとの関係の中で、初めて立ち上がる態度。

誰の前なら弱音を吐けるのか。
誰の前なら格好つけなくて済むのか。
誰の前なら、少し良くありたいと思えるのか。
誰の前なら、情けない自分を見せてもいいと思えるのか。

 

その相手によって、自分の形は変わる。

だから、自分らしさも、本当の自分も、完全に一人では見つけきれないのかもしれない。

  自分らしさは、関係の中で見えてくる

「自分らしく生きよう」
「本当の自分を大切にしよう」

そんな言葉はよく聞く。

 

もちろん、それは大切だと思う。

でも、私は少し疑っている・・・

自分らしさって、本当に一人で見つかるものなんだろうか。

本当の自分って、どこか心の奥に完成品として置いてあるものなんだろうか。

 

私は、そうではない気がしている。

誰かと話した時に出てくる自分。
誰かに怒った時に出てくる自分。
誰かに優しくしたいと思った時に出てくる自分。
誰かに嫌われたくないと思った時に出てくる自分。
誰かを好きになった時に、少しだけ良くありたいと思う自分。

 

そういう関係の中に、自分の形が見えてくる。

 

だから、自分探しでさえ、本当は独りよがりには出来ないのかもしれない。

自分のことなのに、他人が必要になる。
自分の本音なのに、誰かとの関係の中でしか現れない。
自分らしさなのに、誰かの前に立った時に初めて分かる。

 

それは、とても生きにくいことだ。

でも、だからこそ人を好きになることには意味がある。

 

好きな人の前で、自分はどんな人間になるのか。
好きな人の目の中に、自分はどんなふうに映るのか。
好きな人と関わることで、自分は何を大切にしたいと思うのか。

その問いが、自分を動かしてくれる。

  どの人の目の中に、自分を見たいのか

結局、大切なのはここなのかもしれない。

どの人の目の中に、自分を見たいのか。

 

誰でもいいわけじゃない。

自分を見つけたいからといって、誰の目の中でもいいわけじゃない。

冷たい人の目の中に自分を探せば、自分まで冷たく見えてしまう。
雑に扱う人の目の中に自分を探せば、自分の価値まで雑に見えてしまう。
承認を餌にする人の目の中に自分を探せば、自分の価値が相手の機嫌に支配されてしまう。

 

だから、人を好きになることは、ただ相手を選ぶことではない。

自分を見るための鏡を選ぶことでもある。

どの人の前なら、少し素直になれるのか。
どの人といる時の自分なら、嫌いじゃないと思えるのか。
どの人に見られる自分なら、少し信じてみたいと思えるのか。

 

その誰かを探すことが、
「好きな人を求める」
ということなのかもしれない。

 

恋人という形になるかどうかは、まだ分からない。

恋になるのか。
愛になるのか。
ただ大切な人になるのか。

 

・・・それもまだ分からない。

 

でも、自分以外の誰かを求めることには、きっと意味がある。

それは寂しさかもしれない。
不安かもしれない。
支えが欲しいだけなのかもしれない。

 

でも、それだけではない。

人を好きになるから、自分を求める。
自分を求めるから、人を好きになる。

その繰り返しの中で、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。

 

だから、私は好きな人を求めているのだと思う。

ただ恋人が欲しいだけではなく、
誰かの目の中に、自分を見つけたいから。

 シンプルフレーズ

人を好きになるのは、誰かに選ばれたいからだけじゃない。
その人の目の中に、自分を見つけたいからなのだと思う。

 

自分探しでさえ、独りよがりには出来ない。
だから生きにくい。

でも、だからこそ人を好きになることには、意味がある。

日々の連続

同じ朝を起きて、同じ一日を過ごして、同じ時間が過ぎていく

毎日同じだと思って生きている。

それが悪いことじゃない。

でも、その中でも・・・変わっている人が居る。

成長している人も居れば、変わろうとしている人も居る。

 

そして、変わっていく自分もいれば、変わらない自分もいる。

 

今日をちゃんと生きているかどうか なんだと思う。

髪型を変えた。
髪色を変えた。
アクセサリーを着けた。
ネイルや化粧を少し変えた。

そんな些細な変化に気が付ける人って、本当に凄いと思う。

別に、気付いてほしくて変えているわけじゃない。
自分だけの楽しみかもしれない。
ただの自己満足かもしれない。

 

それでも、誰かに
「髪変えた?」
「今日、雰囲気違うね」
「それ似合ってるね」
って言われたら、やっぱり少し嬉しい。

少なくとも私は嬉しい。

  毎日見ているから、気付けないこともある

人の変化に気付けるかどうかって、単純に観察力だけの話じゃないと思う。

 

毎日顔を合わせているからこそ、気付けないこともある。
毎日見ていると、その人の姿が日常の一部になってしまうから。

昨日と今日を比べていない。
その人を見ているようで、日々の流れの中に置いている。

 

そうなると、人も、景色も、季節も、自分自身さえも、全部が背景になってしまう。

 

昨日のその人。
今日のその人。
昨日の自分。
今日の自分。

その区切りを持たずに、日々をただの連続として流していると、変化なんて見えなくなるんだろう。

 

  変化に気付ける人は、時間を見ている

人の変化に気付ける人って、その人だけを見ているんじゃない。
きっと、時間を見ているんだと思う。

昨日と今日の違い。
季節の移り変わり。
空気の変化。
表情の揺れ。
声のトーン。
身に着けているものの違い。

 

そういうものを、ちゃんと「今日」として受け取っている。

 

時間は有限だ。
誰もが同じように持っている、唯一の資本であり、才能なんだと思う。

 

若さだってそうだ。
若さとは、体力や見た目だけじゃなく、使える時間の多さでもある。

以前のブログでも、若さっていう才能について書いたけど、それなんだよね。

 

でも、同じ1時間でも濃度は違う。

考えている時間。
感じている時間。
悩んでいる時間。
言葉にしようとしている時間。
誰かの変化に気付いた時間。

そういう時間には濃度がある。

 

一方で、ただ終わるのを待っている時間もある。


仕事が終わるのを待つだけの時間。
早く帰りたいと時計だけを見る時間。
何も感じず、何も見ず、ただ流れるのを待つ時間。

同じ時間なのに、濃さがまるで違う。

 

  捉え方じゃなく、捉えられるかどうか

 

よく「物事は捉え方次第」って言う。
それはそれで間違っていないんだろう。

でも、私は少し違う気がしている。

 

大事なのは、捉え方じゃなくて、
捉えられるかどうか?なんじゃないか。

 

今という時間を、ちゃんと感じられるか?
昨日と今日の違いを、ちゃんと受け取れるか?
人の変化を、ただの外見の違いではなく、その人の今日として見られるか?

 

そこなんだと思う。

髪型を変えた。
髪色を変えた。
アクセサリーを変えた。
ネイルを変えた。
化粧を変えた。

それは些細なことかもしれない。


でも、その些細な変化には、その人の今日がある。

少し気分を変えたかったのかもしれない。
少し自分を好きになりたかったのかもしれない。
何となく新しい自分を試してみたかったのかもしれない。

 

そんなもの、本人にしか分からない。
でも、気付いてもらえたら、少しだけ嬉しい。

「見てもらえていたんだ」って思えるから。・・・私はね。

  言うか、言わないかの難しさ

ただ、人の変化に気付くことは、正直めんどくさい。

気付いたとしても、言って良いのか迷う。
ハラスメントっぽくならないか考える。
余計なお世話にならないか不安になる。
逆に気付かなかったら、それはそれで面倒になることもある。

このバランスが本当に難しい。

 

だから、言わない方が無難。
それも分かる。

 

でも、私は思うんだ。

言ってもらえたら嬉しいことは、誰かにも言ってあげたい。

もちろん、何でも言えばいいわけじゃない。
痩せた、太った、疲れている、老けた。
そういう言葉は、気付いても言わない優しさがある。

 

でも、相手が楽しんでいる変化。
自分で選んだ変化。
髪型や色、アクセサリーやネイルみたいなものなら、優しく触れてもいいんじゃないかと思う。

「今日、雰囲気いいね」
「それ似合ってるね」
「なんか素敵だね」

それくらいでいい。


大げさじゃなくていい。
踏み込みすぎなくていい。

 

  変化に気付くことは、今日を大切にすること

人の変化に気付ける人は、きっと優しい人なんだと思う。

でもそれは、ただ気が利くとか、観察力があるとか、そういう話だけじゃない。

 

昨日と今日を比べられる人。
日々をただの連続として垂れ流さない人。
時間を積み重ねとして感じられる人。
相手の今日を、ちゃんと今日として見られる人。

そういう人なんだと思う。

 

時間が人を作るんじゃない。
時間を積み重ねていると実感した時に、人の中に濃度が生まれる。

その濃度が、自分の変化にも、他人の変化にも、世界の変化にも気付かせてくれる。

 

人の変化に気付くって、
その人を見ているということ。

 

そして、今という時間を、ちゃんと生きているということ。

だから私は、できるなら気付ける人でいたい。
そして、距離感を間違えないようにしながら、優しく言える人でいたい。

誰かの変化に気付くことは、
その人の今日に、少しだけ光を当てることだと思うから。

 シンプルフレーズ
人の変化に気付ける人は、他人を見ている人じゃない。
今日という時間を、ちゃんと見ている人なんだ。

 

自分を見つけることが、何に繋がるんだろう?

そんなことをいつも考えて、シンプルフレーズは活動している。

 

自分探しの意味と価値は?

 

自分の感性や、心の揺れを感じるためのアウトプット。

そのために、きっとレビューや日記、そして『恋』っていうモノが役に立つと私は感じている。

 

  レビューは、自分を知るための道具

食べて、見て、体感して。

何を思ったか?

何に良さを感じて、何に魅力を感じなかったか?

それを言語化することで、見えてくるものがある。

問題や不安を箇条書きで書き出すと、少し整理できることがある。

それと同じように、自分の「感じること」も、書くことで可視化できるようになると思う。

 

レビューって、お店や商品を評価するためだけのものじゃないと思う。

自分が何に反応したのか。

どこで嬉しくなったのか。

何に違和感を持ったのか。

何が思ったより刺さらなかったのか。

そういうものを言葉にすることで、自分の感性が少し見えてくる。

 

美味しかった。

楽しかった。

綺麗だった。

それだけでも良い。

でも、少しだけ踏み込んでみる。

なぜ美味しかったのか?

どこが楽しかったのか?

何に綺麗だと感じたのか?

そこに、自分の輪郭が出てくるんだと思う。

image

  恋は、他人の目の中にいる自分を知ること

そして、自分がどうありたいか?

どんな人間に憧れて、どんな自分を演出したいか?

それを知ることができるのが、恋というモノだと思う。

自分を見る時、人は他人の目の中でしか見られない。

 

だからこそ、誰の目の中の自分を見たいのか。

誰の目の中の自分を、どうしたいのか。

どんな自分を見せて、どんな自分を作り上げたいと思うのか。

 

それが、恋という形で自分を見つけるキッカケの一つになると思う。

好きな人にどう見られたいか。

どんな言葉をかけたいか。

どんな自分なら胸を張れるのか。

恋は相手を知ることでもあるけれど、同時に、自分の願望や憧れを知ることでもあるんだろう。

  日記は、生きた時間を噛みしめるもの

そして、日記。

日記は何を書いても良い。

書かなくても良い。

誰かに見せる必要もなければ、見直す必要もない。

 

その時々の「何か」を残すことが、自分が生きた時間を噛みしめる時間になる。

 

振り返るのは、書く時。

アウトプットする時なんだろう。

それを後からさらに思い返す必要なんかない。

ただ、あったこと。

感じたこと。

愚痴でも、不満でも、不安でも、心配でも良い。

その時々を整理するために、きっと役に立つと思う。

 

なにより、自分が何に何を感じたか。

どんな場所や人や出来事が記憶に残ったか。

それを知ることで、自分を少しずつ知ることができるようになると思う。

  人生の大半は、普通でマンネリだ

単調な日々の中で、刺激を求めて活動して、行為することはとても大切で素敵なコトだと思う。

 

でも、そんなの週末の一時だけだろう?

大半の自分の人生の時間は、マンネリで、普通で、何事もない。

 

ただ、そこに予想外や望まないことが起こる度に「不幸だ」と言いたくなる。

願ったことが叶えば「幸せだ」と言いたくなる。

きっと、人はそうやって幸せと不幸を決めているんだと思う。

 

だからこそ、その不幸と幸せの境界や、自分が求めるモノを知ることで、幸不幸の取捨選択ができるようになるんじゃないだろうか?

もちろん、選べないことは多い。

進学先。

就職。

賃金。

上司。

親。

友人。

出会い。

選べるか?って言われたら、選べないって言う人も多いだろう。

 

だとしたら、選べるのは自分の感じ方になってしまう。

どこに、何を、どうやって感じるのか。

そこを取捨選択するしかない。

  自分探しは、大げさなものじゃない

出来る事は、出来る事だけ。

知っていることは、知っている事だけ。

持てるモノは、持てる分だけなんだ。

 

だからこそ、出来る事の中から心がときめくモノを探さないとダメだろうし、知っている事から魅力を見付けないとダメだろうし、持てる分から大切を見付けないとダメなんだと思う。

 

自分探しは、限られた選択肢と、限られた状況と時間の中から、有意義を見つけるための手段なんだと私は思う。

 

生きやすいとか、生きにくいがすべて解決するわけでもない。

自由を手に入れたり、幸せを見付けたりなんて、大仰なことも言えない。

でも、出来ること。

持てるモノ。

知っていて、分かっていて、使えて、手に入れて、選べること。

 

その中から何かを探すためには、自分の感性を知っていることが必要なんだと思う。

何に?

何が?

どうして?

自分は感動するのか。

それを知っていることは、きっと効率が良いし、合理的だ。

 

そして何より、自分の人生を少しだけ、自分の手で選び直すために役に立つ。

自分探しとは、自由を広げることじゃない。

限られた世界の中で、自分の心が動く場所を知ることだ。

 シンプルフレーズ

自分探しとは、自由を広げることじゃない。
限られた世界の中で、自分の心が動く場所を知ることだ。

性悪説について

人間は放っておくと、欲望や利己心に流されやすい。
だから、教育・ルール・仕組みで整える必要がある。

っていう考え方

 

人間は完璧じゃない前提で、

失敗しても壊れない仕組みを作ることが大事なんです。

つまり性悪説は、人間不信ではなく、
人間の弱さをちゃんと見た現実的な考え方です。

 

職場で言えば、

人はミスをする。
だから責めるより先に、ミスが起きにくい仕組みを作れ。

っていうこと。

 

反省会という名のつるし上げに、性悪説が足りない

 

職場でよくある反省会。

問題を指摘して、原因を探して、状況を確認して、対策を考える。
そこまでは分かる。大事だと思う。

 

でも、最後の落としどころがいつもこれ。

「次から気を付けます」
「確認します」
「注意します」

いや、それで何が解決するの?

 

私は甚だ分からない。

気を付けられなかったから起きたんだろう。
確認できなかったからミスになったんだろう。
注意が続かなかったから問題になったんだろう。

 

それをもう一回、
「気を付けましょう」
で終わらせるなら、それは対策じゃない。

 

ただの精神論だ。

そして、現場への責任転嫁だと思ってしまう。

  現場は、そんなに万能じゃない

限られた環境。
限られた時間。
限られた人数。
決められた方法。
終わらせなきゃいけないタスク。

その中で働いていたら、意識はどうしたって「終わらせること」に向く。

それは仕方ないだろう?

 

早くやれ。
品質を守れ。
ミスをするな。
確認しろ。
時間内に終われ。

うん、分かった。
言っていることは全部正しい。

 

でもさ。

それを全部、人間ひとりの集中力と注意力に任せるのは無理があるんだよ。

体調が悪い日もある。
気が散る日もある。
眠れていない日もある。
嫌なことを抱えている日もある。
魔が差す日だってある。

だって、人間だもの。

 

それなのに反省会では、そこが見えなくなる。

「なぜ確認しなかったのか」
「なぜ気付かなかったのか」
「なぜ出来なかったのか」

いや、違うんだよ。

見るべきなのは、
なぜその人がミスをする状況になったのか?
だろう。

  問題は、出来てしまうことなんだよ

現場の厄介なところは、案外出来てしまうことだ。

人が足りなくても出来てしまう。
時間が足りなくても出来てしまう。
手順が面倒でも出来てしまう。
誰かが無理をして、誰かが気を利かせて、誰かが帳尻を合わせてしまう。

だから会社は思う。

「出来るでしょ?」
「前も出来ていたよね?」
「いつも出来ているよね?」

 

・・・違う。

出来ているんじゃない。
壊れないギリギリで回しているだけなんだよ。

そのギリギリを通常運転にして、たまたま失敗した時だけ現場を責める。

 

それは反省会じゃない。
ただの、つるし上げだ。

 

本当に、人間のコトを無視して、会社の利益だけを追求したルールや規範ばかりに思えてしまうんだ。

その反省会に何の意味があるんだ?

「気を付けます」「注意します」って言う回答。

意味があるのかい?現場に責任を押し付けているだけなんじゃないのか?

 

って、思ってしまうんだ。

私は、そんな現場に責任だけを押し付ける「自己責任論」が大嫌いだ。

 

  現場に対して人間を見てないルールが多すぎる。私は性悪説を推奨したい!

私が足りていないって思う人間性をとてもよく表現しているのが性悪説だと思う。

 

性悪説って聞くと、
「人間は悪い存在だ」
「人は信用できない」
みたいに聞こえるかもしれない。

 

でも、私はそうは思わない。

性悪説って、もっと現実的な人間理解なんだと思う。

人は疲れる。
人は焦る。
人は忘れる。
人は楽をしたくなる。
人は自分を守りたくなる。
人は失敗する。

それを前提にして、ルールや仕組みを作りましょうって話だと思うんだ。

 

つまり、人を責めるための考え方じゃない。
人をちゃんと見るための考え方なんだよ。

  もっと人間を見て欲しい

本当に必要なのは、犯人探しじゃない。

人がミスをしても止まる仕組み。
確認しやすい手順。
焦らなくて済む時間配分。
一人に頼りすぎない配置。
声を上げても責められない空気。

そういう受け皿を作ることだと思う。

 

性悪説って、冷たいようで優しい。

人は完璧じゃない。
人は失敗する。
人は利己的にもなる。
だからこそ、失敗しても壊れない仕組みを作る。

それが本当の意味で、人間を見るってことなんじゃないかな。

会議室には、性悪説なんて無いのかもしれない。
あるのは、見栄と責任転嫁の縮図だけ。

 

でも、問題はいつも現場で起きている。
事件は現場で起きている。

だからこそ、責任まで現場に押し付けるんじゃなくて、
もっと人間を見て欲しい。

 シンプルフレーズ

人は失敗する。
だから責めるより先に、失敗しても壊れない仕組みを作れ。

 

または、少し毒を残すなら、

性悪説を知らない会議室ほど、
現場にだけ善人であることを求めてくる。