す不安な時には、不安な行動

考え事をしている時には、モヤモヤが現れる行動

嬉しい時にも、楽しい時にも、悲しい時にも・・・

 

全部の想いが行動になっている!

もしくは、それを隠すための行動や、まぎらわせて忘れようとする行動。

 

その一つひとつ・・・

全てが、思いから生まれているって気付けてる?

 

 

思いは実現する!だから、想いは叶えられる?

 

想いと行動が一致している?

実際は、無意識の行動なのかな?

無意識の間に、肉体は常に動いている?

 

だとしたら、それは自分の想いや気持ちを知ることが出来る鏡ってなっているのかもしれないね。

自分の想いが分からない・・・

自分の今の状態や、気持ちが分からない・・・

そんな時に、自分の行動を見てみると

 

考えている時に出る癖や行動をしていたり、悩んでいたり、迷っていたり・・・

自分の状態が分かるようになる。

でも最初は、どの行動と想いが繋がっているのか?が分からないだろう。

 

だから自分の行動や癖を見付けられるように、常に自分のコトを見つめることが必要になるだろう。

自分の行動をちゃんと知ることが、思いや感情を知ることが出来るようになる。

 

そして、自分の行動の一つ一つに意味があるとしたら、それは全部想いから生まれているのかもしれないよ?

 

 

  自分の想いと行動の繋がりを知る瞬間。想いを表す鏡が無意識の肉体の行動。

 

自分の無意識の行動。

それは、自分が意図せず肉体が勝手に動いてしまっている。

 

でも、それはある意味で思いと行動が一致している時。

自分の意思で肉体を動かしている時

行動をしている時は、行動の理由があって、目的がある。

それは、思考で動かしていて自分の行動には思いが関係していない時になる。

 

例えば・・・

遊びに行く・遊びに行く計画を立てる

仕事に行く・仕事をする・仕事の準備をする

勉強をする・・・

 

そこには、目的や理由はあるから、無意識の行動にはならない。

 

無意識の行動が想いを反映しているとしたら、

無意識じゃない時は、思考を反映しているんだろう。

 

私がブログを書いている時も、思いもあるかもしれないけれど、

文章を考え・言葉を考え・説明や例えを考え・・・

思考を反映している面がどうしてもある。

 

だから、自分の想いを知ろうとした時には、無意識にしている自分の動き。

肉体の行動を見る必要があって、意識している時の行動は思考の流れを知ることが出来る。

 

 

無意識の行動の見つけ方

普段から、無意識の行動を見付けられるようにしようと思っても、難しい・・・

一つの見つけ方は

思考で行動している時に、立ち止まる・手を止めてしまう時が、意識と無意識の隙間で自分の想いを見つける瞬間だろう

 

その隙間の行動を後から思い返しても良いだろう・・・

その時の行動は何をしていたのか、その瞬間に自分が何を想って感じていたのか?

行動と想いを知ることが出来れば、同じ行動をする時には、自分が何を想っているのか?が分かるようになる。

 

手を止めた瞬間は、言葉に迷ったのか?他のことに気が行ってしまったのか?

悩んだのか、惹かれるものがあったのか、迷ったのか、不安を感じたのか?

 

止まった時に何をしたのか?なぜ止まったのか?

 

それを知ることが出来れば、自分の無意識と思いを繋げることが出来るようになるだろう。

 

 

  想いが・願いが叶っている時

願いと行動の一致

それが願いを叶える方法。

そして、自分が今願っている願いや夢や願望は実際には、自分の本当の想いとは違っている時が多い。

夢や願いの大半が、他人に影響されていたり、関係しているから。

 

でも、自分の本当の願いはもっとシンプルで単純なモノだろう。

大切なモノもそんなに多くない。

私達は両手に持てる分しか、持つことが出来ないし、出来ることしか出来ないのだから。

 

そして、無意識の行動・肉体の行動は、自分の想いが反映されている結果になる。

 

想いが現れて、行動になっている!

ということは、思いが行動として叶っているということ。

 

不安の想いが、不安な行動として表れていたり・隠す行動として表れていたり

楽しい・嬉しい想いが表現されていたり

悲しい気持ちや、辛い感情が涙として溢れ出てしまったり

 

想いが叶っているから、肉体表してくれている。

 

それが、自分の想いが実現している証拠だろう。

 

想いが実現されているのは、行動や結果として肉体に思いが映し出されているから

 

肉体は思いを映す鏡だから、想いを実現することが出来る。

 

それは、私達が持つ願いや夢も、本当の想いとして持つことが出来れば、

肉体に実現することが出来るっている事だろう。

 

自分の本当の夢や願い

それがなんなのか?

自分の無意識の行動から、見つけることが出来れば、いくらでも夢の願いも実現して叶えていくことが出来るようになる。

実際、本当の夢や願い・・・って言う思いは、手に入れられるものしか望んでいないだろう。

 

その事実に魅力を感じないのは、ちゃんと叶えられる現実を見付けられていないだけのコト。

自分の願いが叶っていることを知ることが出来れば、

自分を好きになれるだろうし、大切に出来るようになる。

自分を好きになれて、大切に出来ていれば、自分に自信が持てて心に余裕が生まれる。

その余裕を、大切な人に渡すことが出来れば、大切な人を大切に出来るようになる。

それで、幸せって感じられないはずがない!

 

凄くないですか?

 

想いを肉体が叶えているって言うことを知るだけで、私達は『幸せ』になることが出来るんです!

 

アンメランD

皆さん、こんにちは。

ふとした夜、「私、なんでここに居るんだろう」「私の人生、何の意味があるのかな」なんて、

底なし沼のような孤独に飲み込まれそうになることはありませんか?

 

周りと比べては、何者にもなれない自分を責めて、

誰かに「居ていいよ」って承認(許し)を求めて彷徨ってしまう……。

 

今日は、そんな葛藤の中にいるあなたへ、「本来的価値論」という、

ちょっと不思議で、最高に明るい「諦めの哲学」をお届けします。

 

読んだ後、少しだけ肩の荷が軽くなるはずです。

あなたは「そこに居るだけ」で、爆弾級の価値がある

人はよく言う。

「自分には価値があるのかな」
「生きている意味が分からない」

でも最近、私は思うようになった。

もしかすると――
私たちは最初から、少し勘違いしていたのかもしれない。

 

  「価値」と「意味」は違うものだった

 

まず、この数式を見てください。アインシュタインが発見した、世界で一番有名な式です。

 

E=mc2

(エネルギー = 質量 × 光速の2乗)

 

これ、実は「存在論」として読むとすごいんです。

 

「質量(重さ)があるものは、そこに存在しているだけで、

凄まじいエネルギー(価値)を持っている」

 

動いていなくても、
何もしていなくても、
そこに“在る”だけでエネルギーを持っている。ということ。

 

あなたが今日、一歩も動けず、何も生産的なことができず、ただベッドの上で呼吸をしていたとしても。

あなたという「質量」がこの宇宙に存在しているだけで、あなたは物理的に莫大な価値そのものなんです。

価値は、誰かに認められるものではなく、最初から備わっている「物理現象」。

動いていなくても、あなたの「静止エネルギー」は、太陽のように輝いています。

ここまでは、案外シンプルな話だ。

 

じゃあなぜ私たちは悩むのか。

価値があるなら、
なぜ孤独になるのか。

理由はたぶんこれだ。

私たちが欲しいのは「価値」ではなく、
「意味」だから。

  「意味」が欲しいのは、自分を「許したい」から

 

「価値があるのは分かった。でも、やっぱり苦しいよ」

そう思うのは自然なことです。ここで、私たちが陥りがちな「価値」と「意味」の勘違いを整理しましょう。

  • 価値(Value): あなたが「在る」という物理的事実。100点満点中、常に100点。

  • 意味(Meaning): その価値をどう使うかという「物語」

私たちは、自分の持っている巨大なエネルギー(価値)をどう扱っていいか分からず、不安になります。

だから、「誰かの役に立つ」とか「目標を達成する」といった物語(意味)を欲しがります。

 

それは、自分自身に「ここに居てもいいよ」という【許し】を与えたいから。

 

「私がここに居るのは?」

この努力は報われるのか

「何でここに居るの?」っていう理由になる物語を欲している。

それは、「許し」が欲しいから。

 

評価が欲しいんじゃない。
本当は、「それでよかったよ」

という物語が欲しい。

 

だから不安になる。

 

でも、覚えておいてください。

「意味」が見つからなくても、「価値」が減ることは1ミリもありません。

 

  バンクシーの絵のように、人生は「勝手に解釈」していい

哲学者ベンヤミンは、こう考えていた。

「物語が失われつつある」

 

昔は人生に共通の意味があった。
でも現代では、それが壊れた。

だから私たちは、自分で物語を作るしかなくなった。

日記を書く。
詩を書く。
ブログを書く。

それは発信じゃない。

自分に意味を与える行為なんだと思う。

 

しかし・・・・正体不明の芸術家、バンクシー。

彼が誰なのか、何を考えて描いたのか、真実は誰にも分かりません。

 

でも、見た人が「これは素晴らしい!」と感動すれば、そこに価値が生まれますよね。

人生も同じです。

「真実は、受け手の解釈」でいいんです。

 

「心理は解釈なんだ。真理も解釈なんだ。好き勝手解釈して物語を作ってしまえばいい。」

  • 悲劇を、後日談を作って「喜劇」に書き換える。

  • 失敗を、笑える「落語」のネタにする。

  • 何の意味もない一日を「充電という名の聖域」と呼ぶ。

真実なんてどこにもない。

あるのは、あなたがどう語るかという「二次創作」としての人生だけです。

   承認なんて、ただの「ゲーム」

 

「誰かに認められたい(承認欲求)」という気持ち。

これは、自分の価値を確認するためではなく、自分の作った「嘘(物語)」がどれくらい通用するか試す、

いわばオンラインゲームのマルチプレイのようなものです。

 

「承認なんて必要ない。承認が欲しいならされたものを選べばいいだけのだ。都合の良いものを選ぶので解決でしょ?」

 

誰かに否定されたとしても、それは単に「その人の解釈(作風)」があなたと合わなかっただけ。

 

写真家・篠山紀信はこう言った。(篠山先生のお弟子さんから聞きました。)

「言語化できるから芸術になる」

感じたことを言葉にした瞬間、ただの出来事が「作品」になる。

 

同じように、

人生も語った瞬間に物語になる。

悲劇にもなるし、喜劇にもなる。

 

あなたの物理的な価値E=mc^2には傷一つ付きません。

 

  インチキな世界で、最高の嘘を生きよう

結局、人はそれぞれの解釈で世界を見る。

同じ出来事でも、

  • 悲劇にする人

  • 笑い話にする人

  • 成長物語にする人

全部違う。

哲学者ニーチェは言った。

「事実は存在しない。解釈があるだけだ。」

だから真実を探し続けて苦しむより、

自分が納得できる物語を選んでもいいのかもしれない。

 

どうせこの世界は、それぞれが自分勝手なメガネ(認知バイアス)で覗き込んでいる「インチキな嘘の物語」です。

だったら、もっと図々しく、自分に都合の良い「真実」を選びませんか?

 

「私は、ただ居るだけで宇宙レベルの価値がある。そして、その価値をどう楽しむかは、私が勝手に決める。」

そう自分に許可(許し)を出してあげたとき、あなたの物語は、もっと自由で、鮮やかで、明るいものになるはずです。

 

価値は、最初からある。
失われていない。

足りないのは意味だけ。

だから私たちは今日も、「これでよかった」と言える物語を探している。

孤独なのは弱いからじゃない。

意味を求めている証拠だ。

そしてたぶん――こうして言葉にしている時点で、
もう少しだけ、自分を許し始めているのかもしれない。

もし、あなたが今、自分に「許し」のハンコを押すとしたら……。 

どんな自分勝手な「物語」を書き始めたいですか?

 

コメントで教えていただけたら、私も一緒に「その嘘、最高だね!」って笑い合いたいと思います。

今日も、あなたがそこに居てくれるだけで、世界は莫大なエネルギーに満ちています。

先日行った美術館でとても感銘を受けた言葉を見つけた。

本当は、ゴッホ展に生きたかったんだけど、ケアレスミス・・・

間違えて違い美術館に行ってしまった。

 

とはいえ、「怪我の功名」

 

素敵な言葉に出会うことが出来た。

模写やリサーチは事実の積み重ね 対話の条件である嘘を排除行為

とても興味深く、関心を持たざるを得ない。

 

今回はその言葉について少し考えてみた。

その言葉についての考察を流れを・・・分かり易くしたつもりだが、読みにくいのはいつものことなので、ご容赦願いたい。

 

ただ、これが誰の言葉で、どういう意図の言葉なのかまでは分からない。

何かの絵画の説明文にあったのだが・・・

もし、書かれた学芸員さんが居いらっしゃったら教えて欲しい。

意図があるなら、聞きたいです・・・。

模写とリサーチは、対話の席に着くための武器だ

 

「ちゃんと話せば分かってもらえる」
そんな綺麗ごとが、何度も砕けた経験がある人へ。

こっちは冷静に説明しているつもりなのに、なぜか話が通らない。


むしろ、話せば話すほど空気が悪くなる。


気づいたら、相手の“正しさ”の方が強くて、こちらの言葉が押し潰されている。

そして最後はこうなる。

「それは違う」
「普通はこうだ」
「ルールだから」
「みんなそうしてる」
「あなたのためを思って」

……はい、出た。


この瞬間、会話じゃなくなる。
命令が始まる。もしくは尋問の開始だ・・・

 

  無知のままでは、命令される

 

ここ、残酷だけど事実だと思う。

相手が悪いとか、性格が悪いとか、そういう話じゃない。


構造の話。

こちらが無知だと、相手は“説明する必要”がなくなる。


説明しなくていい人は、強い。
強い側は、善意でも正義でも、簡単に命令できてしまう。

「あなたには分からないだろうけど」
この一言で、対話の席はひっくり返る。

 

  模写とリサーチは、真実探しじゃない

 

ここで出てくるのが、模写とリサーチ。

模写って、絵の話だけじゃない。
「相手の言葉の癖」
「どんな正義で動いているか」
「何を“当たり前”と思っているか」
「何を嫌がるか」
「何を守りたいのか」

そういうものを、いったん真似してみる。
なぞってみる。
理解できなくても、再現してみる。

 

リサーチは、さらに外堀を埋める作業。

「そのルールはどこから来た?」
「誰が得する?」
「それは一般的?ローカル?」
「例外はある?」
「他の選択肢は?」

これをやると、“命令”が命令のまま通らなくなる。

 

  事実を積むのは、嘘を消すためじゃない

 

よくある誤解がある。

「事実を集める=嘘を暴く」
みたいな、正義の裁判ごっこ。

でも、現実はそんなに単純じゃない。
嘘はどこにでもあるし、誇張もあるし、都合の悪い部分を言わないのもある。

 

そして厄介なのは、
嘘かどうか断定できないグレーが一番多いってこと。

だから目的は、嘘をゼロにすることじゃない。

  嘘が混ざる戦場でも、命令を対話に戻すために

 

模写とリサーチは、こういう時に効く。

「あなたの言ってること、正しいよ」
でも
「それって“唯一の正しさ”なの?」
「その正しさは、誰にとっての正しさ?」
「そのルールは、何を守ってる?」

こうやって、命令を“交渉”に戻す。

つまり——

  • 無知のままなら、命令される

  • だから事実を積む

  • 嘘を消すためじゃない

  • 嘘が混ざる戦場でも、命令を対話に戻すために

これが、模写とリサーチの役割だと思う。

 

  「戦うため」じゃない。「席に着くため」だ

 

誤解されたくないから言うけど、
模写とリサーチは、相手を論破するための武器じゃない。

対話の席に着くための武器だ。

席に着けない状態って、要はこういうこと。

  • こちらの言葉が最初から軽い

  • 反論が許されない

  • “正しさ”が決まっている

  • こちらが「説明される側」固定

この状態を崩すために、知る。
なぞる。
調べる。
外堀を埋める。

 

それは自分を守るためでもあるし、
相手を“命令する側”に固定しないためでもある。

 

  今日のシンプルフレーズ

模写とリサーチは、対話の席に着くための武器だ。
 

無知のままでは命令される。
だから事実を積む。
嘘を消すためじゃない。
嘘が混ざる戦場でも、命令を対話に戻すために。

 

もし今、あなたが
「言っても通じない」
「説明しても伝わらない」
「黙って従え、みたいな空気がしんどい」
そう感じているなら、

あなたに足りないのは、性格でも努力でもなくて、
席に着くための“装備”なのかもしれない。

 

そしてその装備は、才能じゃない。
模写とリサーチで、作れる。

 

最後にひとこと
命令の世界で生きるのは疲れる。


だからこそ、対話に戻そう。
自分が自分でいるために。

 

 

 

こんばんは。 

 

今日は、私のこれまでの「価値観」が 音を立てて崩れ去った、ある夜の話をさせてください。

正直に告白します。 

私はこれまで、ニューハーフバーやおかまバーという場所に 「怖いもの見たさ」という、

失礼極まりない好奇心を持っていました。

学生が心霊スポットに行くような、 テレビの向こう側の存在を確認しに行くような、 浅ましい先入観という色眼鏡をかけて。

でも、その扉を開けた瞬間。 

 

私は、自分の「普通」がいかに貧相なものか、 思い知らされることになったのです。

本物のプライドと、浅ましく醜く見えるプライド。その境界線は「覚悟」だった。

最近、強く思ったことがある。

プライドって、同じ言葉なのに
どうしてこんなにも「美しく見える人」と「醜く見える人」がいるんだろうって。

舐められたくない。
見下されたくない。
良く思われたい。
好印象でいたい。

私も当然ある。誰だってある。

でも、それだけで出来ているプライドって、どこか薄くて、どこか苦しそうで、時々とても浅ましく見えてしまう瞬間がある。

そんなことを考えるきっかけになったのが、
今回初めて行ったニューハーフバーだった。

  「怖いもの見たさ」だった正直な動機

 

会社の同僚と、「一回行ってみようか」という話になった。

正直に言えば——
怖いもの見たさ、だった。

学生の頃に心霊スポットへ行くような感覚。

テレビの影響もあるんだろう。
IKKOさんやマツコさんのようなイメージが頭に浮かんでいた。

先入観だと分かっていても、イメージは消えない。

だから少し緊張しながら夜の街へ向かった。

そして、私は愕然とした

店に入ってまず思った。

「……え、綺麗すぎない?」

忖度でも社交辞令でもない。
本気で驚いた。

 

女性より女性らしく、
男性より男性らしく、
そして圧倒的に「女性」だった。

 

美意識が隙なく行き届いている。

化粧、姿勢、立ち居振る舞い、話し方。
身体のライン、衣装の着こなし。
会話のテンポ、空気の読み方。

全部が完成されていた。

ただ生まれ持った容姿が良い、という話じゃない。

 

そこには明確に——自分を作り上げ続けてきた時間が見えた。

 

  「仕事」以上のものがそこにあった

 

夜の仕事をしている人たちが努力していることは知っている。

見た目も、会話も、気配りも、すべてが仕事の一部だ。

でも、今回出会ったキャストの皆さんから感じたのは、それを超えたものだった。

 

それは、神様から与えられたものをただ守っている美しさではありません。 

自らを律し、鍛え、削り、盛り、 「自分をどう見せるか?」という問いに 

血の滲むような努力と時間、そして「人生」を全掛けした結果の結晶。

  • 指先まで神経の行き届いた所作

  • 普通の努力では作れない、肢体の曲線美

  • ケバさを感じさせない、洗練された色気

そこは「働く場所」じゃない。

自分が生きる戦場だった。

流されてそこにいるんじゃない。
社会に与えられた役割を演じているわけでもない。

 

自分で選び、
自分で作り、
自分で立っている場所。

その覚悟が、立っているだけで伝わってきた。

 

  時々見せる「男性」が、逆に美しかった

 

女性より女性らしく、男性より男性らしく

 

完全に女性として振る舞いながら、
時折、意図的に男性を見せてくれる瞬間がある。

 

それがまた上手い。

隠しているのではなく、
否定しているのでもなく、

「これも私」

「全部が自分です」 と言っているようだった。

 

修正も努力も隠さない。

「化粧の一部でしょ?」

そんな軽やかさで、自分を肯定している。

 

時間も労力も惜しまない。
オールベットで自分を作り上げる姿。

正直、格好良すぎた。

 

  私が感動した理由

 

たぶん私は、
美しさに感動したんじゃない。

生き方に感動したんだと思う。

 

誰かに認められるためじゃなく、
自分が生きるために選んだ姿。

 

彼女たちが持っているのは、 「自分が自分をどう見るか」という、内なる矜持。

「これが私よ。文句ある?」と言わんばかりのスタンス。

 自分の欠落も、過去も、性別すらも 「装飾の一部」として使いこなすプロフェッショナルな姿。

時折、意図的に「男性」を覗かせるあざやかな手腕に、 私は「本物のプロ」の覚悟を見た。

 

そこに居たのは「自分が自分をどう見るか」という基準で立っている人たちだった。

だから魅力的だった。

だから尊敬した。

  本物のプライドとは何か

 

帰り道、ずっと考えていた。

誰のためのプライドか?

私たちが普段、後生大事に抱えている「プライド」って、一体何なんでしょう。

  • 誰かに舐められたくない

  • 他人より優位に立ちたい

  • 「まともな人間」だと思われたい

そんな、他人の目の中に自分を探すだけの 「他者比較」で生まれたプライドは、 彼女たちの前では、あまりに無力で、浅ましく、醜い。

 

本物のプライドって、
誰かより上に立つことじゃない。

強がることでもない。

見栄でもない。

 

きっと・・・自分が選んだ自分から逃げないこと。

それだけなんじゃないかと思う。

 

  そして私は気付いた「自分を抱きしめる」という戦い

トランスジェンダー、マイノリティ。 

言葉で言えば簡単ですが、この社会で自分を貫くことが どれほど困難で、孤独な道かは想像に難くありません。

それでも、彼女たちは誰のせいにもせず、 自分で選んだ居場所を、自らの手で築き上げていた。 

 

その姿は、ただただ「美しい」の一言に尽きます。

「自分から逃げず、自分を自分だけの自分として大切にする」

口で言うのは簡単ですが、 彼女たちはそれを、毎夜のステージで証明し続けている。 

私は、その「生きる覚悟」に、 ただただ、感動と尊敬を覚えずにはいられませんでした。

 

シンプルフレーズは、まだまだ実践力が足りない。

頭では分かっている。
言葉にもしてきた。

でも、あそこには「実際に生きている人」がいた。

自分を抱きしめて、自分の居場所を自分で作って、誇りを持って立っている人たちが。

 

学ぶことは、本当に多かった。

  最後に結論!

 

「自分という人間」を仕上げるために、 一切の妥協を捨ててオールベットする彼女たちの姿。

そこには、私たちが忘れてしまった「純粋な誇り」がありました。

 

今の私には、まだまだ実践力が足りない。 

でも、あの光を浴びた以上、 もう中途半端な自分でお茶を濁すことはできそうにありません。

 

……というわけで。 結論:もう一回行くしかありませんね!

あの美しき戦士たちに、また会いに行ってきます。

夜、一人でスマホを眺めていると、

「世界に自分一人しかいないんじゃないか」という錯覚に陥ることはありませんか?

 

SNSには誰かの日常が溢れ、街に出れば話し相手もいる。 

それなのに、胸の奥には冷たい風が吹き抜けている。 

 

実は、現代社会は「孤独を集めて作られたモザイク画」のようなものです。

誰もが寂しさを抱えながら、それを隠すために「ちゃんとした大人」の仮面を被って生きている。

 

今日は、日本の最底辺を自認する私が、古今の哲学者や物語の力を借りて、

この「孤独という病」の正体を暴いてみたいと思います。

孤独を集めて出来ている世界

人は孤独を嫌う生き物だと言われる。

だから人は集まり、社会を作り、組織を作り、家族を作り、SNSを作った。

なのに――

こんなにも人がいる世界で、どうして私たちは孤独を感じるのだろう。

電車には人がいる。
職場にも人がいる。
スマホを開けば誰かの声が流れてくる。

 

それでも夜になると、「あれ?私は、どこにも居ない気がする」

今日は、その孤独について少し整理してみたい。

  私たちは「他人の目」という檻に住んでいる

 

なぜこんなに寂しいのか。

それは、私たちが「他人の目」を通してしか自分を確認できなくなっているからです。

 

 

参考:ソクラテスの「鏡」 

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、対話(他者)なしに自己は成立しないと考えました。

「汝自身を知れ」と語ったが、彼は一人で考え続けたわけではない。
常に対話を通して自分を探した。

自分一人の思考は見えませんが、他者と対話することで、初めて自分が何者かが鏡のように映し出されるのです。

 

さらに近代哲学では、ヘーゲルが「承認」という考えを示す。

人は、誰かに認められて初めて「私」になる。

名前を呼ばれ、反応され、理解されることで自己が成立する。

言い換えれば、

私たちは社会に生きているのではなく、
他人の目の中に生きている
のかもしれない。

 

しかし、現代の「鏡」は歪んでいます。 

ハラスメントを恐れ、評価に怯え、常に「正解の自分」を演じる。

他人の期待に応えようとすればするほど、本当の自分は見失われ、喪失感という名の孤独だけが残ります。

 

  孤独は「搾取」のためのインフラである

 

さらに残酷な視点があります。私たちは孤独に「させられている」のかもしれない、という仮説です。

 

引用:ミシェル・フーコーの「構造」 

フランスの思想家ミシェル・フーコーは、
人間は社会の制度や規範によって形作られる存在だと考えた。

学校、会社、常識、マナー、評価。

私たちは知らないうちに「望ましい人格」を演じる。

孤独でバラバラな個人は、結託もしなければ、理不尽に抗うこともありません。

 

支配する側にとって、孤独な人間ほど扱いやすい存在はありません。

不安を埋めるために消費し、寂しさを忘れるために働き続ける。

 

 

誰からも嫌われないけれど、本当の自分を置く場所がなくなる。

孤独とは、一人でいることでも、私たちが自ら選んだものでもなく

孤独は・・・効率よく搾取されるために「与えられた配給品」なのです。

 

   ホールデンが叫んだ「インチキな世界」

この偽善だらけの社会を、真っ向から罵倒した少年がいます。

 

ライ麦畑でつかまえて J.D.サリンジャーの小説

サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデンです。

彼は世の中を「インチキ野郎(phony)」だらけだと嫌悪しました。

それでも彼は人を求め続ける。
つまり孤独とは、人間性の欠如ではなく、人を求める力が残っている証拠なのだ。

 

彼(主人公ホールデン)は反抗しているのではない。

社会の仕組みに気づいてしまったのだ。

 

本心で繋がりたいのに、誰もが仮面を被っている。

その「純粋さ」ゆえに、彼は孤立します。 

 

「ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが崖から落ちないように守るキャッチャーになりたい」 

そんな彼の切ない願いは、自分自身すら救えな

い私たちの無力感と重なります。

「傷つくことを奪ってはいけない」とは、何とも辛い現実の認識なんだろうか・・・

   絶望の先に見つけた「石を削る音」

 

では、私たちはこの孤独という監獄からどう脱出すればいいのか。 

 

映画『ショーシャンクの空に』

 

 

その答えを、映画『ショーシャンクの空に』のアンディが教えてくれます。

彼は孤立無援の刑務所の中で、何十年も小さな金槌で「石を削り」続けました。 

希望とは未来の約束ではなく、「今の行為に意味がある」と信じる力だったと言っているように思える。

 

自己とは、誰かに見られる存在ではなく、「何かを継続する行為」そのものなんじゃないか?

と、感じさせてくれた。

 

誰に読まれなくても、私はシンプルフレーズを書き続ける。誰に笑われても、私はおにぎりを噛み締めて今を生きる。

 

  孤独とは欠陥ではない

 

ここまでをまとめると、孤独には三つの顔がある。

  1. 他者のまなざしで生まれる自己(ソクラテス・ヘーゲル)

  2. 社会構造によって生まれる人格(フーコー)

  3. 行為によって支えられる自己(ショーシャンク)

そして私たちは、そのすべての間で揺れている。

孤独は失敗ではない。

むしろ、世界をちゃんと見ようとした時に現れる感覚(ホールデン的)

なのかもしれない。

 

  だから孤独な社会になる

 

現代社会は、孤独な人たちが集まって出来ている。

誰もが寂しさを抱え、
誰もが理解されたいと思いながら、
少しずつ本音を隠して生きている。

それでも私たちは人を求める。

完全に孤独になれないから、人間なのだろう。