人はどうしたって、一人で生きていけるほど強くない。
そして、自分の為だけに生きていけるほど強くもない。

だって、生きることがどれだけ大変で、辛くて、苦しくて、悲しいことか・・・
もう、みんな知ってしまっているから。

その「知ってしまった」瞬間から、私たちは子供という生き物から、
少しずつ「大人」という別の生き物に変わっていくんだと思う。

 

“揺れ続ける自分”

  遊び心を置いてきた場所

 

大人になる途中に、私たちはいろんなものを置いてくる。

簡単に言えた「ごめんなさい」
当たり前みたいに言えた「一緒に遊ぼ」
素直に感じていた「好き」「嫌い」

あれもこれも、だんだん言えなくなって
出来なくなって
分からなくなっていく。

そして、やり直したくてもやり直せない気がして
後悔だけが静かに積み上がっていく。

なのに、どこかでこう言い訳する。

 

「これが大人ってことだから」

 

その言い訳は、いつも「誰か」との関係の中で生まれてくる。
一人で生きられないっていう現実を、
嫌でも思い知らされるから。

 

  「思いやり」という他人軸の押しつけ

 

私たちは「思いやり」という名前の他人軸を、
あたりまえのように押し付けられる。

相手の立場を考えて
空気を読んで
波風立てないように動いて

その結果、自分の本音や欲望や感情は、
いつのまにか優先順位の一番下に追いやられていく。

辛くて、苦しくて、悲しいことも多いけれど
それをまとめて「これが生きるってこと」「大人ってそういうもの」
って自分に言い聞かせる。

 

・・・これだって、立派な「納得」のかたちだ。

  納得という、脳内麻薬

 

私たちは、「納得」という言葉で
自分を丸め込みながら生きている。

納得できる理由を探して
納得できる物語をつくって
納得できる言い訳で自分を守る。

その納得を、少しでも魅力的なものにするために
私たちはそれを「快楽」や「娯楽」に変換してしまう。

・刺さる名言
・心に響いたっぽい自己啓発
・分かったような気になる雑学
・シャアのセリフで人生語る現代

そんな言葉たちで、脳内麻薬をちょっとだけ分泌させて
「まあ・・・これでいいか」と自分をなだめているだけなのかもしれない。

 

勝手に名言:
「納得とは、心に効く市販薬・・・でも、効き過ぎると副作用で何も変えられなくなる。」

 

  「知る」と「納得」のあいだにあるもの

 

私の中で、人の行動の流れはだいたいこうだと思っている。

欲望 ⇒ 感情 ⇒ 行為 ⇒ 理性 ⇒ 言い訳・納得・理解

いちばん最初にあるのは「欲望」。


こうしたい、ああなりたい、手に入れたい、嫌われたくない・・・
その欲望が感情を動かし、行動を生み、
後から理性がその結果に意味をつけていく。

そして最後に出てくるのが
「自分なりの納得」だったり
「まあ、仕方ないか」という理解だったり
「だって、こうするしかなかったんだよ」という言い訳だったりする。

ここで大事なのは、
「知る」ことと「納得」することは、全然別物だということ。

 

  「知る」はナタリティの最初、「納得」はナタリティの始まり

 

アーレントの言葉を借りるなら
「知る」というのは、ナタリティ・・・
つまり「新しく始まってしまう何か」の、一番手前の入口。

 

「知らない」を「知ってしまった瞬間」に
人は、もう元の自分には戻れない。
それは無自覚な変化のスタートライン。

 

一方で「納得」は、
その知ってしまった事実を、自分の中に取り込むかどうか・・・
「これを自分の物語に組み込もう」と決める、
ナタリティの別の始まりだと思う。

だから、こう思っている。

 

勝手に名言:
「知ることは、世界を変える。
納得することは、自分の物語を書き換える。」

 

「知る」と「納得」のあいだには、
境界線なんてきれいに引けない。

 

そのあいだには、言葉にならない揺らぎがある。
好き嫌い、葛藤、理性、都合の良い解釈、
否定したい気持ち、見なかったことにしたい現実・・・

そして、何度も何度も同じことを考え直してしまう「永遠」みたいな時間が
ぐるぐると詰め込まれている。

  知ることの代償・・・「無知の知」が動かすもの

 

「知る」ことには、いつも代償がついてくる。

・もっと知りたくなる
・体験してみたくなる
・手に入れたくなる
・損したくないと思ってしまう
・誰かより有利でいたいと願ってしまう

それは知的好奇心でもあり、動物としての本能でもある。

「知らないまま」の方が楽なことなんて、山ほどある。
だけど、私たちは「損したくない」「チャンスを逃したくない」って思うから、
つい知ろうとしてしまう。

 

その瞬間、もうすでに
「知る前の自分」には戻れない。

子供が目を輝かせる瞬間みたいに、
人は「知らないという事実」を知った瞬間から変わり始める。

ただし、ここで起こっている変化は、ほとんどが 無自覚 だ。

 

本当に「変わりたい」「変えたい」という自発的な変化の動力源になるのは、
知ったことそのものじゃない。

知って、やってみて、
それでもうまくいかなかった時。
思った通りに出来なかった時。
「やっぱりダメだった・・・」と感じた、その瞬間に生まれる 後悔 だと思う。

 

  後悔は、未来を作り変えるエンジン

 

私はこう思っている。

「未来を変えるのは、希望じゃなくて、納得できなかった過去だ。」

 

後悔とは、自分の行為を自分で認められなかった記憶。
自分の選択や態度に、どうしても納得できない、あの詰まり。

その違和感が、自己否定や葛藤を生む。


でもその葛藤こそが、
「次は違う選択をしたい」と思わせる力になる。

・過去や今に納得できないからこそ
・今のままでは嫌だからこそ
・同じ後悔をもう一度したくないからこそ

人は未来を変えようとする。


希望や理想は、その後からついてくる飾りにすぎないのかもしれない。

昔から言われる「失敗は成功の基」って、きっとそういうことだ。

 

  危うい「納得」と、生き延びる為の「言い訳」

 

だけど一方で、
世界には「未来を捨てるための納得」も存在している。

・どうせ変わらないから
・これが現実だから
・大人なんだから我慢しなきゃいけないから

そうやって自分を丸め込む納得は、
後悔の芽を摘み取ってしまう。

痛みを痛みのまま抱え続けるのは、しんどい。
だから私たちは、言葉という麻酔を打つ。


勝手に名言:
「納得とは、痛みを生かすか、殺すかを決めるスイッチだ。」

 

私が言葉を紡いでいるのも、もしかしたら
痛みを痛みのまま抱えていたい自分と、
どうにかして言い訳でごまかしたい自分との、
せめぎ合いなのかもしれない。

  「知るだけでいい」という、ささやかな反逆

 

じゃあ、どうしたらいいのか。
立派な答えなんて、正直、私にはない。

ただ一つだけ、今のところ思っているのは・・・

「知ること」と「納得すること」を、無理にセットにしなくていい

ということ。

何かを知ったからといって
それを自分の生き方に反映しなくてもいい。
血肉にしなくてもいい。
「活かせていない自分」を責めなくてもいい。

だって、それは「他人のこと」でもあるから。

私たちは、自分だけで生きられないし
自分の為だけにも生きられない。
でも、「自分が自分の為に生きること」まで手放す必要はない。

他人と交差する瞬間があって
すれ違う場面があって
並走する時間があって
一緒に停車してくれる人がいる。

その「いろいろがある」という事実だけを
知っていれば、それでいいのかもしれない。

納得は、必ずしも義務ではない。
知るだけで留めておくことだって、私たちの権利だ。

 

  納得できない後悔が、私を私に連れ戻す

 

自分の思いを知り
自分の願いを知り
そのうえで、自分の気持ちに嘘をつかないでいた時・・・

そこで初めて、
「納得できない」という後悔が、
本当に自分を変える力になるんだと思う。

言い訳しないで
ごまかさないで
適当に笑ってやり過ごさないで

ちゃんと、痛みを痛みとして抱きしめたとき、
そこからやっと「次の選択」が生まれる。

それが、過去を活かすということ。
失敗が成功の基になる・・・たった一つの条件。

そしてたぶん、それこそが
私が言葉を使って、
「知る」と「納得」のあいだを
今日もぐるぐる歩き回っている理由なんだと思う。

勝手に名言:シンプルフレーズ
「大人になるって、出来ることが増えることじゃない。
・・・知ったまま、納得できない自分を抱えて生きる覚悟のことだ。」

 

人ってさ・・・
どうしたって一人で生きていけるほど強くないし、
自分の為だけに生きていけるほど、冷たくもなれない。

生きるって、簡単じゃない。
辛くて、苦しくて、悲しくて・・・
その全部を知った瞬間、人は“大人”っていう生き物に変わっていくんだと思う。

“自分のために生きる”と“他人と関わりながら生きる”を両立する唯一の方法は、
「知る」ことであって「納得」することではない。

 

「知ること」が他人と自分を両立させる

大人になるってなんて魅力的な言葉。

子供心ってなんて魅力的な言葉。

 

でも、私には両方が曖昧で、両方が「こういうものだ!」って、説明するだけの何かを持たない。

だから、今の私はままならんのかな・・・

 

  失われていく「遊び心」

 

子供の頃は、すべてが簡単だった。

「ごめんなさい」も
「一緒に遊ぼ」も
「好き・嫌い」も
心で感じたままを、そのまま声にできた。

 

でも、大人になると出来なくなる。
言えなくなる。
感じられなくなる。

 

そして、その“不自由さ”が
いつしか 後悔 へと繋がっていく。
やり直したいのに、やり直せない・・・
あのとき戻れない自分を抱えて、ただ立ち尽くすだけ。

  大人の言い訳「これが大人だ」

 

私はずっと思ってきた。
大人になるって、立派になることじゃない。
ただ、生きる痛みを知ってしまうこと なんだと。

 

だから、人は言い訳をする。

「これが大人なんだ」って。


あれも、これも、辻褄を合わせて・・・
自分以外との関係の中で、自分を守るために。

その言い訳は弱さから生まれるものだし、
同時に、生き抜くための鎧でもある。

 

だって、私たちは
1人で生きられないし、
自分の為だけに生きられないから。

  名言×格言

 

ニーチェは言った。
「人は真理を求めない・・・安心を求めるのだ」

まさにそう。
私たちは、安心のために“納得”という麻酔を打つ。

痛みと向き合わないように。
変化しないで済むように。

 

  納得は麻酔・・・知ることは呼吸

 

納得って、魅力的な言葉みたいに聞こえるけど
その正体は「反映」なんだよね。

自分の中に取り込もうとしてしまう。
自分を変えようとしてしまう。
だから苦しくなる。

 

本当は・・・
知るだけでいいのに。

納得も
共感も
正しさも
世界観も
自分の中に取り込まなくていい。

 

だってそれは“他人のもの”だから。

必要なのは「理解し合うこと」じゃなく、
「他人と交差する瞬間がある」という事実を知っていること。

寄り添えるときもあるし、
すれ違うときもあるし、
並走するときもある。
そして、ふと同じ場所で休むときもある。

それを知っておくだけで十分なんだ。

 

  後悔は、変化を生む“痛み”

 

私が強く思っているのはここ。

後悔こそが、未来を変える力だ!ってこと。

 

納得できない過去を
言い訳しないで
誤魔化さないで
ごまかしの理屈で包まないとき、

初めてその痛みは「推進力」になる。

 

悲しかった
辛かった
悔しかった
情けなかった

 

その痛みを麻酔で消してしまえば、未来は何も変わらない。

でも、痛みを痛みのまま抱えたとき
そこに“次の選択”が生まれる。

それが、
失敗は成功の基
・・・という言葉の、本当の意味なんじゃないだろうか。

 

  最後に・・・

 

大人になるって、出来ることが増えることじゃない。

知っていることが増えること。
感じられることが増えること。


そして、自分の気持ちに“納得できる瞬間”を
少しずつ拾っていけるようになること。

私はそう思うんだ。

人生に疲れたって感じる時があるのは正直・・・ホント

生きる意味を探すことが大変って、思うこともある。

 

たぶん・・・余裕が無くなってるんだろうなって思う。

今に必死過ぎて、何もかも見えなくなってて、分からなくなってるんだろうって

 

でも、大人ってそういうモノなのかな?って思うこともある。

現実を見るってそういうことなのかなって感じる時もある。

大人になるって、遊び心を捨てることじゃない

 

大人になると、よく言われる。
「責任を持て」「気配りをしなさい」「ちゃんとしなさい」って。

うん、分かるよ。
社会で生きるなら、どれも必要なことだと思う。


その中に“遊び心を捨てる”って項目、あったっけ?

私は、どれだけ探しても見つからなかった。いや・・・見付けたくなかったのかな

 

  ■不安を与える大人、喜びを渡せる大人

 

周りにいないだろうか。

「出来る?」「無理じゃない?」「大変だよ?」
・・・と、出来ない理由ばかり並べる大人っていうか、そういう人。

 

あれって、優しさでも助言でもなくて、
ただ“自分の不安”を相手に投げてるだけの場合が多い。

逆に、こう言ってくれる人もいる。

「やってみようよ」「何とかなるよ」「それも楽しみ方だよね」

この人たちは、無責任なんじゃない。
失敗を許せる“余裕”を持ってるだけなんだ。

 

子供の頃、私たちはみんなこうだったはず。

「楽しそう!」「気になる!」「やってみたい!」

この感情だけで動けた。
失敗しても、間違えても、出来なくても、また笑ってやり直せた。

遊び心って、本当はこれなんだと思う。

  ■遊び心を失うと、人生の“味”が消える

 

子供に楽しみ方を見せられない大人は、
人生の良さを伝えられない気がする。

 

仕事ばっかりの大人
不安ばっかり言う大人
「やめとけ」を先に出す大人

 

そんな姿を見せられて育つ子は、
“生きるってしんどいもの”って誤解してしまう。

でも本当の大人の役目って、

  • 疲れてても笑おうとする姿

  • 失敗しても立ち上がる背中

  • 無駄に思えることを楽しめる余裕

これを“見せる”ことなんじゃないかな。

人生は、味わっていい。

その「味」を伝えるために、遊び心は必要なんだと思う。

 

  ■責任と遊び心は、同時に持てる

 

責任のある大人になることと、
遊び心がある大人になることは、矛盾していない。

 

むしろ、

責任の重さを知っているからこそ、
遊び心でバランスを取れる大人が、いちばん強い。

 

心が折れそうな日もある。
不安でいっぱいの日もある。
何も楽しめない日も、もちろんある。

それでも、「ちょっとだけ遊び心」を残しておく。

 

その余裕が、子供を安心させて、友人を励まして、
自分自身を救ってくれる。

 

  シンプルフレーズの意見

遊び心はね、
“子供っぽさ”じゃなくて、
“生き延びるための余裕で力”だと思う。

 

大人になるって、
心を固めることじゃなくて、
心の中に「遊べる場所」を残すこと。

その余白がある大人を、
私は美しいと思う。

最近、ふと思ったのだ。
私はいつから「会話」に疲れるようになったんだろう・・・と。

 

「聞いて聞いて!」
「お腹すいた・・・」「疲れた・・・」「はぁ・・・」

こういう“オナニートーク”に毎日巻き込まれて、私はどこで何を失ってるんだろう、と。

 

無意味な会話を娯楽として扱うのは人の嗜み?

話すことの大切さは私も分かっているつもり・・・

だとしても、常に相手のペースだけで進んで行く会話って言うのは

楽しさや刺激になるだけで終らないから、疲れちゃうって思うこともあるでしょ?

  自己満トークは、話し手には常にメリットがある

 

正直、話し手は得しかしてない。

・過去を笑い話に変えて
・後悔を都合よく塗り替えて
・自分の気持ちを吐き出してスッキリして
・承認欲求を補給する

話す側は、自分の歴史も感情も“編集”しながら
自分に優しい物語をつくりあげていく。

 

話すだけで気持ちが軽くなる。
つまり、“話し手は常に利益を得ている”。

だからこそ余計に思う。

じゃあ、聞き手の私は何を得てるの・・・?

  聞き手のメリットは、「好意」がある時だけ成立する

 

残酷だけど、本音を言う。

話してくる相手に“好意”があるなら、
どんな話でもメリットになる。

子供の話なんてそうだ。
内容は雑で軽くても、
その存在そのものが愛おしい。

話してくれるだけでご馳走だ。
そこに“納得”も“合理性”もいらない。
ただ「聞けること」が価値になる。

 

でも・・・

好意がない相手、
大切に思えない相手、
存在に価値を感じられない相手の“自分語り”は、

ただの負担だ。

  じゃあ“優しさで聞く”という言い訳はどうだろう

 

「優しい自分でいたい」
そのために聞いてあげる、という人もいる。

でもそれは
“自分を保つための偶像”にすぎない。

 

実際にはこうだ。

・どうでもいい話に時間を奪われ
・一緒に怒られるリスクは増え
・集中力は削られ
・ストレスだけが積み重なる

“優しい自分”でいたいという自己像を守るために、
自分本体が削られていく・・・そんな矛盾。

 

  唯一のメリットは「納得」という後付けの価値

 

ここまで来て、私は気づいた。

聞き手が得られる唯一のメリットは
“納得という疑似価値”だけなんじゃないか、と。

無意味でも、無価値でも、
問題の先送りでもいい。

「まあ、いっか」
「これも仕事だし」
「大人だから」

こういう“都合の良い納得”で、
自分の中に小さな価値を後付けして
何とか整理する。

納得には、その力がある。

価値の無い時間を
“意味ある時間だった”ように変えてしまう力。

  本当の線引きは「相手」ではなく「自分」だった

 

私は最初、
「どの相手にまで聞くべきか?」
を考えていた。

でも違った。

線引きをするのは、相手ではなく私自身だった。

・私はどこまで価値を創れるのか
・どこまでが私の限界なのか
・どこから先は切り捨てるべきなのか

これは人間関係の話ではなく、
“自分の価値創造の話”だった。

だから大切なのは
「誰が相手か?」ではなく、

「私がどれだけ価値をつくれるか?」
「その人に価値をつくる気があるか?」

ただそれだけ。

 

  落としどころなんて探すのが時間の無駄

 

オナニートークが悪いわけじゃない。
独り言テロが憎いわけでもない。

ただ私は、
自分の価値を守りたいだけなのだ。

誰に耳を貸すか?
どこで線を引くか?
相手ではなく、自分の内側で決めればいい。

今日もまた、
「はぁ・・・あ」とため息が聞こえる。

私の中でそっと答える。

「そのため息・・・受け止めるかどうか、決めるのは私だ。」

 

私達は何を信じて生きていくのがいいのかな?

 

『他人の評価や言葉』

 

誰かが私達に言ってくれる言葉?

周りにあふれている情報や評価?

自分が経験したり体験したこと?
なにかを選んだり決めようと思う時には、常に何かを基準にしようとしたり、誰かの感想や意見を聞いてみたり・・・
 
自分にとって何が良いのか?自分が何を好きで、何を大切にしたいのか?
 
それを探す時にも、なにか基準にしようとしたり、理由や原因を求めてしまう。
 
あなたは何を探しているのかな?
 
自分の事なのに、他の誰かを基準にして生きていこうとしてしまう。
 
 

 

それが悪いことではないんだろう。だって、私達は1人では生きていくことが辛い時があるから。1人だけで自由に過ごせるわけでは無いだろうし、誰かとの時間を求めてしまうだろうし、1人で居たいと思っても、心のどこかでは他人の評価や感想を待っているから。
だから、他の誰かや、何かを基準にして生きていこうと、選んで・決めていこうと考えてしまうことは仕方ない。どうやっても抜け出せない現実の一つなんだろうと感じます。

 

 

私達は、今まで沢山の影響の中で生きている

 

私達は、いつも・・・今までも・今も・これからも・・・

誰かの言葉を受け取りながら生きていくし、成長して変化して沢山のことを経験しながら、感じながら過ごしている。

それは・・・

最初、親や家族から言われた言葉から始まり・・・

学校の成績や、先生の評価になり・・・

社会に出て、先輩や上司の評価や、会社の評価・・・

 

沢山の影響を・評価を受けながら生きている。

 

だから・・・

私達が何かを考えたり、選んだり、決める時には、常に他の誰かの評価を気にしていくことが必要になってしまうし、

それが出来ない人間は、『残念な人』だと評価を受けることになってしまう。

 

他人の評価を気にする必要はないのかもしれないけれど、完全に無視することも出来ないのが現実じゃないんだろうか?

他人の評価は、、常に・・・勝手に・・・自分の意思とは無関係にされてしまうことが多い。

 

それなのに、完全に無視することが難しいのが、私達が苦しくなって、辛くなって、逃げ出したくなる原因で・・・

 

自分に自信を持つことが出来なくなる理由。

 

人との付き合いがある以上・・・

他人の評価は無視できない。

 

学校や会社・地域や家族の関係・・・

集団や組織やグループの中に居る以上

避けられない他人の言葉。

 

1人が楽で、好きで、自由に生きたいと感じていても、

どこかで人との繋がりを求めてしまう・・・

だから、誰かと一緒に居たい。

 

私達は、1人よりも・・・

2人の時に幸せを感じられるのかもしれないから。

誰かと過ごしたいと感じるから、『他人の評価や言葉』を求めてしまうし、探してしまう。

自分の事を探しているつもりでも、自分にとって嬉しい『他人の評価や言葉』を探している。

 

でも、自分が望むような・・・自分が願うような・・・

 

『他人の評価や言葉』 が、得られないと

 

自分に自信が無くなってしまうし、自分を見失ってしまう。

その結果・・・

 

自分が嫌いになっていく。

そして、

自分が嫌いだから、人が嫌いで、

人が嫌いだから、現実が嫌いで辛い

そんな自分が・・・さらに嫌いになっていく・・・・

でも、

 

それでも大丈夫!

私達は、自分を信じることが出来るようになるから!

自分の気持ちを知ることで、他人の評価や言葉と向き合うことが出来るようになる。

 

だから、大丈夫!

自分の気持ちより、先に他人の評価や言葉を受け取るから、おかしくなるだけ。

先に自分の想いを受け取ることが出来たなら、

 

あなたは、ありのままの姿で生きていくことが出来るようになる!