性悪説について

人間は放っておくと、欲望や利己心に流されやすい。
だから、教育・ルール・仕組みで整える必要がある。

っていう考え方

 

人間は完璧じゃない前提で、

失敗しても壊れない仕組みを作ることが大事なんです。

つまり性悪説は、人間不信ではなく、
人間の弱さをちゃんと見た現実的な考え方です。

 

職場で言えば、

人はミスをする。
だから責めるより先に、ミスが起きにくい仕組みを作れ。

っていうこと。

 

反省会という名のつるし上げに、性悪説が足りない

 

職場でよくある反省会。

問題を指摘して、原因を探して、状況を確認して、対策を考える。
そこまでは分かる。大事だと思う。

 

でも、最後の落としどころがいつもこれ。

「次から気を付けます」
「確認します」
「注意します」

いや、それで何が解決するの?

 

私は甚だ分からない。

気を付けられなかったから起きたんだろう。
確認できなかったからミスになったんだろう。
注意が続かなかったから問題になったんだろう。

 

それをもう一回、
「気を付けましょう」
で終わらせるなら、それは対策じゃない。

 

ただの精神論だ。

そして、現場への責任転嫁だと思ってしまう。

  現場は、そんなに万能じゃない

限られた環境。
限られた時間。
限られた人数。
決められた方法。
終わらせなきゃいけないタスク。

その中で働いていたら、意識はどうしたって「終わらせること」に向く。

それは仕方ないだろう?

 

早くやれ。
品質を守れ。
ミスをするな。
確認しろ。
時間内に終われ。

うん、分かった。
言っていることは全部正しい。

 

でもさ。

それを全部、人間ひとりの集中力と注意力に任せるのは無理があるんだよ。

体調が悪い日もある。
気が散る日もある。
眠れていない日もある。
嫌なことを抱えている日もある。
魔が差す日だってある。

だって、人間だもの。

 

それなのに反省会では、そこが見えなくなる。

「なぜ確認しなかったのか」
「なぜ気付かなかったのか」
「なぜ出来なかったのか」

いや、違うんだよ。

見るべきなのは、
なぜその人がミスをする状況になったのか?
だろう。

  問題は、出来てしまうことなんだよ

現場の厄介なところは、案外出来てしまうことだ。

人が足りなくても出来てしまう。
時間が足りなくても出来てしまう。
手順が面倒でも出来てしまう。
誰かが無理をして、誰かが気を利かせて、誰かが帳尻を合わせてしまう。

だから会社は思う。

「出来るでしょ?」
「前も出来ていたよね?」
「いつも出来ているよね?」

 

・・・違う。

出来ているんじゃない。
壊れないギリギリで回しているだけなんだよ。

そのギリギリを通常運転にして、たまたま失敗した時だけ現場を責める。

 

それは反省会じゃない。
ただの、つるし上げだ。

 

本当に、人間のコトを無視して、会社の利益だけを追求したルールや規範ばかりに思えてしまうんだ。

その反省会に何の意味があるんだ?

「気を付けます」「注意します」って言う回答。

意味があるのかい?現場に責任を押し付けているだけなんじゃないのか?

 

って、思ってしまうんだ。

私は、そんな現場に責任だけを押し付ける「自己責任論」が大嫌いだ。

 

  現場に対して人間を見てないルールが多すぎる。私は性悪説を推奨したい!

私が足りていないって思う人間性をとてもよく表現しているのが性悪説だと思う。

 

性悪説って聞くと、
「人間は悪い存在だ」
「人は信用できない」
みたいに聞こえるかもしれない。

 

でも、私はそうは思わない。

性悪説って、もっと現実的な人間理解なんだと思う。

人は疲れる。
人は焦る。
人は忘れる。
人は楽をしたくなる。
人は自分を守りたくなる。
人は失敗する。

それを前提にして、ルールや仕組みを作りましょうって話だと思うんだ。

 

つまり、人を責めるための考え方じゃない。
人をちゃんと見るための考え方なんだよ。

  もっと人間を見て欲しい

本当に必要なのは、犯人探しじゃない。

人がミスをしても止まる仕組み。
確認しやすい手順。
焦らなくて済む時間配分。
一人に頼りすぎない配置。
声を上げても責められない空気。

そういう受け皿を作ることだと思う。

 

性悪説って、冷たいようで優しい。

人は完璧じゃない。
人は失敗する。
人は利己的にもなる。
だからこそ、失敗しても壊れない仕組みを作る。

それが本当の意味で、人間を見るってことなんじゃないかな。

会議室には、性悪説なんて無いのかもしれない。
あるのは、見栄と責任転嫁の縮図だけ。

 

でも、問題はいつも現場で起きている。
事件は現場で起きている。

だからこそ、責任まで現場に押し付けるんじゃなくて、
もっと人間を見て欲しい。

 シンプルフレーズ

人は失敗する。
だから責めるより先に、失敗しても壊れない仕組みを作れ。

 

または、少し毒を残すなら、

性悪説を知らない会議室ほど、
現場にだけ善人であることを求めてくる。

私の普通ってさ、カレーなら辛口だよ。
お酒はウイスキーかな。
でも、それって本当に「普通」なのかな?

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あなたの普通を、まず話してごらん

普通じゃないって言う全ての人へ

普通だと思っている全ての人へ

何が普通で、何が普通じゃないのか分からない人へ

 

分かってる。普通って、大多数が決めたルールみたいなものなんだ。

だからこそ、決められていない部分での普通が分からなくなってしまう。

だからさ、私の普通をお話しするね・・・

 

  『普通って何だろうね?』

自分は普通じゃない。
普通になりたい。
自分は変なんです。

そう言う人がいる。

分かるよ。
私だって普通じゃないと思っているし、普通に憧れる気持ちも分かる。

でもさ。


その「普通」って何なんだろうね。

「私の普通ってさ、カレーなら辛口だよ。お酒はウイスキーかな。」

 

これは好み?

それとも「普通」?

 

「会話は出来る事?ちょっと違うな、話しを聞けることかな。」

私にとっては、話せることより、聞けることの方が普通に近い。
相手の言葉を拾って、少し考えて、返す。
それくらいは普通にしたいと思っている。

でも、それが誰かにとっては普通じゃないのかもしれない。

「毎日筋トレをするコト。休日に神社に行くこと。花を愛でること。全部普通のコト。」

私にとっては普通。
でも、誰かにとっては変かもしれない。

電車に乗ったら優先席は避ける。
困っている人がいたら、困っているかどうか分からなくても声をかけてみる。
職場に新しい人が入ったら、こちらから声をかける。

「かけられるのを待つのはちょっと違うかな。」

挨拶なんて軽率にするよ。

 

でも、道行く人全員には無理。
それはさすがに怖い。
職場とか、ある程度の範囲だろうね。

 

これも私の普通。

でも、あなたにとってはどうなんだろう?

  『普通って何だろうね?』

ギャンブルはしない。
でも、株は手を出しちゃう(笑)

これは、好き?嫌い?好みの話し?

 

車を持っているのが普通?
でも、私は持ってないことが普通。

テレビがあるのが普通?


でも、私はテレビが無い。

「歯を磨くのは普通?寝る前はするけど、毎食後はしてないね。」

 

音楽ならロックが好き。
ポップやアイドルはあんまり詳しくない。

 

ニュースも見る。
でも、事件が多いから面白く無い。

 

オカルトやスピリチュアルの話も万人受けはしない。
哲学をかじるなんて、それこそマイノリティだよ。

 

そして思うんだ。

「普通って何?」

私は普通?それとも変な人?

 

  『普通って何だろうね?』

あなたの普通って何だろう?

「私の普通は、きっとあなたにとっての異常なんだろう。」

 

それでいい。
たぶん、普通ってそういうものなんだと思う。

みんなが同じように使う言葉なのに、
中身は人によって全然違う。

 

私の普通は、アクセサリーを着けること。

毎日晩酌すること。
テレビが無いこと。
車が無いこと。

今の普通は、恋人もいない。
地元にも帰れない。
お金も時間もない。

 

でも、それは今の普通。

「これからは分からないよ。いつまで今の普通なのかな?明日?明後日?最後まで?」

 

普通って、固定されているようで、案外すぐ変わる。

今までの普通。
今の普通。
これからの普通。

どれを「普通」と呼んでいるのかで、話は変わる。

  『普通って何だろうね?』

だから、普通になりたいと言う前に、まず聞きたい。

「あなたの普通はなんなんだい?」

そこから始まらないと進まないよね。

私の普通を話す。
あなたの普通を聞く。


その違いを見て、少し笑う。
少し驚く。
少し分かる。

それでいいんじゃないかな?

 

普通を押しつけるんじゃなくて、
普通を比べるんじゃなくて、
まずは自分の普通を話してみる。

普通って不思議だね。

 

私の普通は、あなたにとって異常かもしれない。
あなたの普通は、私にとって不思議かもしれない。

でも、だからこそ会話になるんだと思う。

 シンプルフレーズ

普通って、みんなと同じことじゃない。
自分が当たり前だと思っている世界の形なんだと思う。

だから、まずは話してごらん。

あなたの普通はなんなんだい?

「自分は普通じゃないんです」
「自分は変なんです」
「普通になりたいんです」

うん。分かるよ。
その気持ちは分かる。

でも、少しだけ意地悪に言うなら、私はこう思う。

 

で?どうするの?

って、思ってしまうんだ・・・・

 

普通じゃない私が、普通を目指す人と会話するとこうなる

はっきり言って、私だってマイノリティなんだよ。

波乱があるのは、やっぱり私に理由があるんだろうし、上手くいかないのも私に理由があるんだろう。

だって、世界は自己責任って言うからね?

だから、その自己責任を自分のせいだって言いたくない私はやっぱり普通じゃないって思うんだ。

  普通じゃないことは、悪くない

自分のコトを変だって言う人がいる・・・
おかしいんだって言う人がいる・・・
普通になりたいって言う人がいる・・・

 

なーに?
否定してほしいの?

 

それとも、

「それでも大丈夫だよ」
「それが個性だよ」

って言ってほしいの?

 

いいよ。言ってあげる。

「別にいいんじゃないか?それが個性だろ?私だって普通じゃないから困ってるし、似た者同士だね。」

 

本当にそう思う。

私だって普通じゃない。
自覚もある。

 

だから、普通に憧れる気持ちは分かる。

誰もが当たり前にできることを、当たり前にできる人でありたい。
そう思うことは、悪くない。

 

でもさ。

「自分は変だから」
「自分は普通じゃないから」

それを何度も言っているだけなら、話はそこで止まる。

  普通って、何なんだろうね?

その人に聞いてみた。

「あなたにとって普通って何?」

返ってきた答えは、

「会話が繋がる人、誰とでも話が出来る人、仕事に問題が無い人」

ふむふむ。
分かるよ。

会話が繋がる人。
誰とでも話せる人。
仕事に問題がない人。

確かに、そういう人は普通っぽく見える。

 

でも、そこで思うんだ。

普通になりたいなら、普通に近づく努力はしたのかい?って。

 

会話ができる人になりたいなら、会話の材料を持つ必要がある。
共通の話題を知る必要がある。
相手の言葉を拾う必要がある。

 

だから私は言った。

「会話が出来る人が普通だとしたら、共通の話題を持つ努力からするべきじゃないかい?自分のコトをどうこう言う前に、みんなが見ているTVを見るなり、本を読むなり、スポーツや音楽を知るなりさ、それをしてから会話が出来るとか言ったら良いじゃない?」

 

これは、みんなに合わせろって話じゃない。
個性を捨てろって話でもない。

会話したいなら、会話の入口を増やそうよって話。

 

私だって、興味の無いアニメ見てますよ?私だって、関心の無いニュース読んでますよ?私だって、信じてない陰謀論聞いてますよ?それくらいは、嗜みですよ。

  「いいですね~」で終わるから、会話が終わる

そのあと、その人が聞いてきた。

「休日は何してるんですか?」

 

・・・お?おう。さっきの私の回答聞いてた?それに対する反応がそれかい?

私は、「どんなジャンルが良いですかね~?」くらいの掘り下げが来ると思っていたけど、まぁ良いですよ・・・

私は答えます。答えますとも!聞かれてますからね。

「休日はサイクリングに筋トレに読書が多いね。夜飲みに行くことも多いかな。後は今はバラの時期だから見に行くね。今だと、○○公園が見ごろだからおすすめだよ!」

 

すると返ってきたのは、

「いいですね~」

 

うん・・・。


そういうとこだよね。

「いいですね~」は悪くない。
感じも悪くない。

 

でも、それで終わったら会話も終わる。

「どこまでサイクリングに行くんですか?」
「どんな本を読むんですか?」
「バラってどこに見に行くんですか?」

そう聞けば、会話は続く。

 

別に難しいことじゃない。
相手の言葉を少し拾えばいいだけ。

 

興味を持てとは言わない。
でも、話したいなら、相手が話したくなる返しは必要なんだと思う。

普通が会話が出来る人なら、それくらいの返しがあった方が続くんだろうと思うのは私だけなのかな?

  私とだけ会話が続く理由

そりゃ、私となら会話は続くよ。

だって私が、

話を振って、
拾って、
広げて、
落として、
次の話題まで用意しているから。

 

そのうえ人生相談まで答えるわけだから。

普通の人にはハードル高いて(笑)

 

だから、

「この人とは話せる」
「この人は分かってくれる」

と思うのは、分からなくはない。

 

でも、それは会話ができているんじゃなくて、
私が会話を回しているだけかもしれない。

ここは、ちょっとだけ分かってほしい・・・

 

  普通じゃないを、言い訳にしない

普通じゃないことは悪くない。
変わっていることも悪くない。
会話が苦手なことも悪くない。

 

でも、

「自分は普通じゃないから」

それを言い訳にして止まるのは違う。

 

普通になりたいなら、普通に近づく練習をすればいい。
会話ができる人になりたいなら、会話の練習をすればいい。

 

自分を責めなくていい。
でも、自分を説明して終わらなくてもいい。

変なままでいい。


でも、変なまま誰かと関わりたいなら、関わるための技術は必要だ。

それは個性を捨てることじゃない。
孤独を少し減らすための工夫なんだと思う。

 シンプルフレーズ

普通じゃないことは、悪いことじゃない。
でも、普通になりたいなら、普通じゃない自分を言い訳にするな。

変なままでいい。
不器用なままでいい。

でも、人と話したいなら、
相手の言葉を少し拾う努力くらいはしていたい。

だって、変な人間にも、
会話を楽しむ権利くらいあるんだから。

会社の飲み会では教訓になることが、仲間内なら思い出になる。

腹を割って話す相手くらい、選ばせてほしい。

お酒は弱さを引き出すけど、弱さを否定しない。

乾杯は、感謝の言葉より先に心を近づけることがある。

酒は心の潤滑油なんかじゃない。私にとっては、心の羽だ。

会社のペルソナを脱げないまま飲む酒なんて、酒に失礼だ。

会社の飲み会が苦手な理由。お酒は、思い出を作る場所だから

会社の飲み会と、仲間内の飲み会。
何が違うのか考えてみたら、店でも料理でも会費でもなかった。
違うのは、そこで“自分のまま”でいられるか?どうかだった。

  会社の飲み会は、居酒屋に移動した会社だ

私は・・・会社の飲み会が、どうにも苦手だ。

別に、お酒が嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだ。かなり好きだ。
同僚と飲みに行くのも嫌いじゃないし、話をするのも楽しい。

上司が嫌いだから行きたくないとか、苦手な人がいるから無理とか、そういう単純な話でもない。

 

ただ、会社の飲み会になると、どうしても感じてしまう。

「あれ?ここ、居酒屋だよね?」
「でも、やっていることは会社の延長じゃない?」

上司は上司のまま。
部下は部下のまま。
幹事は幹事のまま。
盛り上げ役は盛り上げ役のまま。
空気を読む人は、飲みの席でも空気を読む。

お酒を飲んでいるのに、まだ会社のペルソナを脱げない。

 

これが、私にはしんどい。

乾杯して、料理が来て、グラスが空いて、笑い声があって。
一見すれば楽しい飲み会に見える。

でも、どこかで役割を演じている。
帰りたいと言うタイミングを探している。
誰に話しかけるかを考えている。
誰に失礼がないかを気にしている。
帰り際には「ありがとうございました」なんて言っている。

 

いや、もちろん大事だよ。
礼儀は大事。
感謝も大事。
大人としての振る舞いも大事。

 

でもさ・・・酒を飲みに来たんじゃなかったっけ?

私はお酒に強い方じゃないから、しっぱいも沢山ある。

あれやこれやと数え始めたら・・・枚挙に暇がない(笑)

でもさ、それが思い出になるって最高の機会なんじゃないか?って思ってるんだ(笑)

  飲み会が嫌いなんじゃない。仮面を脱げない酒が嫌いなんだ

会社の飲み会にも意味はあるんだと思う。

普段話さない人と話す機会になる。
歓迎や送別の節目になる。
職場の関係が少し柔らかくなることもある。

それで救われる人もいるだろう。
それが楽しい人もいるだろう。


そこは否定しない。

 

ただ、私はそこではあまり自由になれない。

たとえば、仲間内の飲み会なら、もっと雑でいい。

「あの店行きたい」
「今日飲みたい」
「来たい人だけ来ればいい」
「眠くなったら帰る」
「つまらなかったら次に行く」

それでいい。

 

誰か一人が主役じゃなくて、そこにいる全員が主役になれる。
誰かを立てるために、自分を薄めなくていい。
誰かの人生訓をありがたく受け取る顔をしなくていい。
小言を聞いて、後日「あれは勉強になったね」なんて無理に美談にしなくていい。

仲間内なら、馬鹿にして、皮肉って、笑って、それで終わる。

失敗も、失言も、情けなさも、酔った勢いのくだらなさも、後からダメ出しではなく笑い話になる。

 

これが大きい。

会社の飲み会では教訓になることが、仲間内なら思い出になる。

私は、この違いがとても大きいと思っている。

  腹を割る相手くらい、選ばせてほしい

私は、ある程度なら誰とでも上辺の付き合いはできる。

仕事の話もする。
雑談もする。
笑うこともある。
それなりに合わせることもできる。

 

でも、「腹を割って話す」となると話は別だ。

腹なんて、誰にでも割るものじゃない。
割る相手を選ぶから、本音なんだと思っている。

特に私の場合、人生観や世界観が重い。
まあ、自分で言うのも何だけど、軽く飲みながら話すには少々カロリーが高い。

「最近どう?」と聞かれて、うっかり本気で答えたら、相手のグラスが止まる可能性がある。

 

だから選ぶ。
誰に話すかを選ぶ。
どこまで話すかを選ぶ。
どの温度で話すかを選ぶ。

会社の飲み会でそれをやると、どうしても上辺の延長になってしまう。

 

悪いことじゃない。
むしろ社会では必要なことだ。

 

でも、そこでは私の本音はあまり出てこない。

一方で、仲間内の飲み会なら違う。
少し重い話をしても笑える。
皮肉を言っても流せる。
弱音を吐いても、変に励まされすぎない。
説教にもならない。
感動演出にもならない。

「まあ、お前そういうところあるよな」

これくらいで終わる。

 

それがありがたい。
本当にありがたい。

 

人は、自分のペルソナを外せる場所がないと、じわじわ疲れていくんだと思う。

会社の顔。
社会人の顔。
大人の顔。
ちゃんとしている人の顔。
分かっているフリをする顔。

そういうものを全部つけたまま生きていると、どこかで息が詰まる。

 

だから、仲間内の飲み会は大事なんだ。

そこは、ただ酒を飲む場所じゃない。
少しだけ自分に戻れる場所なんだ。

  お酒は、弱さを否定しない

お酒ってさ、美味しいんだ。

もちろん、飲みすぎはよくない。
人に迷惑をかける飲み方もよくない。
お酒で全部を解決しようとするのも危ない。

 

そんなことは分かっている。

でも、それでも私は思う。

お酒は、心の羽になってくれる時がある。

凝り固まった気持ちを、少しだけほどいてくれる。
言えなかった言葉を、少しだけ口元まで運んでくれる。
笑えなかった出来事を、少しだけ笑い話にしてくれる。

お酒は逃げ場所にもなる。
でも、帰る場所にもなる。

今日くらいは弱くてもいい。
今日くらいは情けなくてもいい。
今日くらいはくだらない話で笑ってもいい。

そう思わせてくれる時がある。

お酒は、弱さを引き出す。
でも、弱さを否定しない。

これが好きなんだ。

だからこそ、会社の飲み会でお酒がただのコミュニケーションツールみたいに扱われると、少し寂しくなる。

酒は心の潤滑油。
よく聞く言葉だ。

でも、私はそれだけじゃないと思っている。

お酒は、人の弱さを包む場所でもある。
馬鹿みたいな話を思い出に変える場所でもある。
笑って終われる夜を作る場所でもある。

だから、酒の席くらい、もっと自由でいいじゃないかと思う。

  乾杯は、ただの開始合図じゃない

乾杯って、不思議だ。

グラスを合わせるだけ。
たったそれだけのことなのに、場の空気が少し変わる。

「お疲れ」
「久しぶり」
「今日は飲もう」
「まあ、いろいろあったな」

言葉にしなくても、グラスを上げるだけで伝わるものがある(笑)

 

昔の乾杯には、毒見や信頼の意味があった、なんて話もある。
本当のところは知らない。


でも私は、乾杯には少しだけ“一緒に倒れる覚悟”みたいなものを感じる。

大げさかもしれない。

でも、同じ時間を飲み込む。
同じ場にいることを認める。
今日だけは、少しだけ共犯になる。

それが乾杯なんじゃないかと思う。

だから私は、乾杯が好きだ。

感謝の言葉より、乾杯の瞬間の方が繋がる気がする時がある。
きれいな挨拶より、不器用な「お疲れ」の方が胸に残る時がある。

でも、そんな乾杯の場で、まだ会社の仮面をかぶっているなんて、どうかしている。

いや、分かるよ。
社会人だもの。
大人だもの。
立場もあるし、関係もあるし、空気もある。

 

でもね。

だからこそ言いたい。

酒くらい、仮面を脱いで飲ませてほしい・・・私はね・・・

  お酒は、自由に選んでいい個性だ

 

お酒には、たくさんの種類がある。

ビール。
日本酒。
焼酎。
ワイン。
ウイスキー。
ハイボール。
カクテル。

甘い酒が好きな人もいれば、苦い酒が好きな人もいる。
強い酒をゆっくり飲む人もいれば、軽い酒で楽しく過ごす人もいる。
飲まない人だって、その場を楽しめるならそれでいい。

お酒って、自由なんだ。

銘柄も、味も、香りも、飲み方も、それぞれ違う。
まるでファッションみたいに、自分で選んでいいものだと思う。

 

なのに、会社の飲み会になると、その自由が少し狭くなる。

「とりあえずビール」
「上司のグラスが空いている」
「主役に一言」
「そろそろ締め」

うるさいな、もう・・・

 

私のグラスは、私のタイミングで空く。
私の酒は、私の気持ちで選ぶ。
私の夜は、私のものだ。

そんな当たり前のことさえ、会社の飲み会では少し言いにくくなる。

だから苦手なんだ。

敵は無視でいい。
分からない人には、たぶん分からない。
分かってもらうために飲んでいるわけじゃない。

私は、私が一緒に飲みたい人と飲みたい。

それだけだ。

 

  お酒は、思い出を作る場所だから

会社の飲み会が好きな人は、それでいい。

歓迎したい人は歓迎すればいい。
送り出したい人は送り出せばいい。
職場の関係を大切にしたい人は、大切にすればいい。

 

ただ、私は私の飲み方を守りたい。

お酒は、誰かの機嫌を取るためだけのものじゃない。
上司の人生訓を聞くためだけのものじゃない。
空気を読むためだけのものじゃない。
会社のコミュニケーションを成立させるためだけの道具じゃない。

 

お酒はもっと自由で、もっと柔らかくて、もっと人間臭いものだ。

弱音が出てもいい。
愚痴が出てもいい。
くだらない話で笑ってもいい。
少し皮肉ってもいい。
馬鹿にして、笑って、でも次の日には普通に戻れる。

そういう夜が、私は好きだ。

 

後から思い出して、

「あの日、ほんと馬鹿だったな」
「でも楽しかったな」
「また飲みたいな」

そう思える時間が好きなんだ。

 

だから私は、会社の飲み会が苦手なんだと思う。

お酒が嫌いなんじゃない。
人付き合いが嫌いなんじゃない。
ただ、酒の席まで会社のペルソナを持ち込みたくないだけなんだ。

お酒は、思い出を作る場所だから。

教訓にされるより、笑い話にしたい。
評価されるより、一緒に酔いたい。
役割を演じるより、自分のままでグラスを持ちたい。

会社の飲み会では教訓になることが、仲間内なら思い出になる。

 

だから私は、行きたい店に、行きたい人と行く。
来たい人は来ればいい。
来たくない人は来なくていい。

主役はいらない。
演出もいらない。
ありがたい挨拶も、できれば薄味でお願いしたい。

 

ただ、グラスを上げて笑えればいい。

酒くらい、私の自由で飲ませてほしい。
そして、どうせ飲むなら、会社の顔じゃなく、私のままで飲みたい。

 シンプルフレーズ

会社の飲み会が嫌いなんじゃない。
ペルソナを脱げない酒が嫌いなんだ。
酒くらい、私のままで飲ませてほしい。

 

最初に書いた私のお酒の失敗談・・・

失敗は数々あれど・・・

一つ上げるなら、お店で酔いつぶれて気が付いたら知らない家。

フラフラでトイレを探したい・・・

手に着いたものを頼りに立ち上がろうとしたら・・・

バターン!「ギャー!」?????

なんのこっちゃ?ですよ。

 

その後聞いた話です。

友人の家に担ぎ込まれ、起きた時に手にしたのはTV。

フラフラ立ち上がった私は、TVに手をかけなぎ倒したらしい。

結果、横で寝ていた友人の顔面に直撃💦

友人は悲鳴、TVは大破、私はトイレでゲロゲロ・・・

ごめんじゃん?未だに笑い話だよ(笑)会うたび言われるわ💦

最高の思い出ありがとうw

 

TVは弁償しました。

人を好きになるって、本当に力になる。

なんというか、心のよりどころのような感じがある。

もちろん、少し冷静に見れば、恋に恋しているだけなのかもしれない。

 

恋は、自分に覇気を戻してくれる

好きな人がいる自分に酔っているだけなのかもしれない。

でも、それでもいいじゃないか?と、私は思ってしまう。

 

だって、人を好きでいる時間には、確かに生活に覇気が出るから。

週末の予定を考える。
髪型を少し気にする。
服を選ぶ。
言葉遣いを考える。
姿勢や表情や立ち居振る舞いを、少しだけ意識する。

 

普段なら面倒くさいと思うことまで、なぜか出来てしまう。

「少しでも良く見られたい」
「少しでも魅力的に見られたい」
「少しでも、あの人の目に留まりたい」

そう思えるだけで、人は自分に手をかけ始める。

 

それは、ただモテたいという感覚とは少し違う。

モテたいは、不特定多数に向いている。
でも、好きな人に好かれたいは、たった一人に向いている。

誰でもいいから認められたいんじゃない。
その人に、見つけてほしい。

その違いは、とても大きい。

  好きな人がいるから、自分を見るようになる

不思議なことに、人は誰かを好きになると、自分を見るようになる。

あの人から自分はどう見えているんだろう?
この言葉はどう受け取られただろう?
この服装は似合っているだろうか?
この態度は恥ずかしくなかっただろうか?

 

そうやって、相手の目を想像する。

そして、その相手の目の中に、自分を見る。

 

これは、少し怖いことでもある。
だって、自分だけでは見えなかった自分が見えてしまうから。

雑な自分。
弱い自分。
格好つけたい自分。
認められたい自分。
好かれたい自分。
嫌われるのが怖い自分。

好きな人の存在は、鏡みたいなものなのかもしれない。

 

ただし、普通の鏡ではない。

自分の顔を映す鏡ではなく、
自分の心の姿勢を映す鏡。

だから、好きな人がいると、自分に関心が戻ってくる。

何も好きじゃない。
誰も好きじゃない。
他人に興味もない。

そんな状態では、自分自身にすら関心を持つことが難しい時がある。

 

自分を磨こうとも思えない。
自分を知ろうとも思えない。
どこへ行きたいのかも、誰に会いたいのかも、どんな自分でいたいのかも、ぼんやりしてしまう。

でも、好きな人がいると違う。

あの人に会うなら。
あの人と話すなら。
あの人の前に立つなら。

そう思うだけで、自分を整えたくなる。

恋は、相手に向かっているようで、
実は自分へ戻ってくる道でもあるんだと思う。

  恋は下心でいい

「恋は下心で、愛は真心」

この表現は、本当に上手いと思うwww

 

恋には、どうしたって下心がある。

好かれたい。
見てほしい。
振り向いてほしい。
選ばれたい。
特別に思われたい。

そんな感情がない恋なんて、たぶん綺麗すぎる。

いや、綺麗すぎるというより、人間味がない。

好きな人に良く見られたい。
好きな人に褒められたい。
好きな人に「素敵だな」と思われたい。

それは下心だ。

 

でも、その下心は汚いだけのものじゃない。

下心があるから、人は努力する。
下心があるから、自分を磨く。
下心があるから、相手のことを知ろうとする。
下心があるから、言葉を探す。
下心があるから、少しだけ勇気を出せる。

だから、恋は下心でいい。

 

ただし、下心のままで終わると、相手を見失う。

自分が好かれること。
自分が満たされること。
自分が輝くこと。
自分が救われること。

そこだけを見てしまうと、相手はいつの間にか、自分を照らすための道具になってしまう。

 

それは恋に酔っているだけなのかもしれない。

相手を見ているようで、
本当は、相手に見られている自分だけを見ている。

ここは、少し怖いところだと思う。

  振り向かれたあとに、愛は始まる

よく「釣った魚にエサをやらない」なんて言う。

 

あれは、かなり核心を突いた言葉だと思う。

振り向いてほしい時は頑張る。
手に入れたい時は努力する。
相手がこちらを見ていない時は、必死になる。

 

でも、相手が自分を向いてくれた瞬間に、安心してしまう。
そして、雑になる。
手を抜く。
大切にしなくなる。

それは、相手を好きだったのではなく、
「振り向かせようとしている自分」が好きだったのかもしれない。

 

きつい話だけど、これはあると思う。

恋は、振り向かせるまでが楽しい。
でも、愛は、振り向いてくれたあとに問われる。

相手が自分を見てくれたあとも、ちゃんとその人を見ることが出来るか?
自分の寂しさを埋めるためではなく、一人の人間として大切に出来るか?
自分の灯だけではなく、相手の灯も守れるか?

 

そこからが、本当の始まりなんだと思う・・・

恋は非日常をくれる。
愛は日常を守る。

恋は自分を動かす。
愛は二人の時間を育てる。

恋は「見てほしい」と願う。
愛は「見ていたい」と思える。

この違いは、とても大きい。

  家族の好きと、恋愛の好き

家族を好きだと思うこともある。

夫婦。
子供。
両親。
兄弟。

大切な存在であることは間違いない。

 

でも、大人になると、家族への好きは日常の中に溶けやすい。

そこにいるのが当たり前になる。
分かってくれているのが当たり前になる。
自分を向いてくれているのが当たり前になる。

子供に対してもそうかもしれない。

子供は、こちらを唯一無二の存在として見てくれる。

 

それは本当に尊いことだと思う。

でも、その尊さに慣れてしまうことがある。

 

自分を向いてくれている人を大切にするより、

まだ自分を向いてくれていない誰かを振り向かせたくなる。

これは、人間の弱さなのかもしれない。

手に入っていないものは輝いて見える。
すでにそばにあるものは、当たり前に見えてしまう。

 

でも、本当に大切なのは、
自分を向いてくれたあとも、ちゃんと向き合い続けることなんだと思う。

恋の高揚だけではなく、
日常の中で大切にし続けること。

そこに、愛の難しさがある。

そして、そこに愛の美しさもある。

  恋は、自分を見つける灯

私には、しっくりくる言葉がある。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

恋は、自分の中に灯をともしてくれる。

暗かった日常に、少し明かりが差す。
ぼんやりしていた自分の輪郭が見えてくる。
何を着たいのか?
どう見られたいのか?
どんな言葉を使いたいのか?
どんな自分でいたいのか?

好きな人がいることで、自分の姿が少しずつ見えてくる。

 

でも、その灯を自分だけのために使っているうちは、まだ恋なのだと思う。

自分だけが照らされている。
自分だけが力をもらっている。
自分だけが救われようとしている。

それも悪くない。

 

恋の始まりは、きっとそれでいい。

でも、愛はその先にある。

自分を照らしてくれた灯を、相手にも渡せること。

 

相手もまた、自分自身を見つけ始める。
相手もまた、少しだけ自分を大切にしたくなる。
相手もまた、自分の言葉や姿勢や生き方を見つめ直す。

そうなった時、初めて二人は、お互いを知り始めるのだと思う。

 

一方通行の憧れではなく、
お互いがお互いの中に、自分を見つけていく。

それを愛って呼べたら、素敵じゃないか?

  愛は、下心を真心へ育てること

恋は下心でいい。

好きな人に好かれたい。
選ばれたい。
振り向いてほしい。
特別になりたい。

それは自然な感情だと思う。

 

でも、その下心を下心のまま終わらせないこと。

自分が満たされたいだけではなく、
相手も満たされているだろうかと考える。

自分が見てほしいだけではなく、
相手のことを見ようとする。

自分が救われたいだけではなく、
相手がその人らしくいられることを願う。

 

そうやって、下心が少しずつ真心へ変わっていく。

その変化を、愛と呼ぶのかもしれない。

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

自分だけが明るくなるのではなく、
相手の世界にも、そっと明かりを渡すこと。

 

その灯で、相手を支配するのではなく。
その灯で、相手を焼くのでもなく。
その灯で、相手を自分の都合のいい形に照らすのでもなく。

 

ただ、そっと渡す。

「あなたも、あなた自身を見つけていいんだよ」

そう思えること。

それが、私にとっての愛なのかもしれない。

 シンプルフレーズ

恋は、自分を見つける灯。
愛は、その灯を相手にも渡せること。

 

人を好きになることは、自分を知ることでもある。
そして、誰かを愛することは、相手が相手自身を知っていく時間を、大切に出来ることなのだと思う。