最近、ふと思ったのだ。
私はいつから「会話」に疲れるようになったんだろう・・・と。
「聞いて聞いて!」
「お腹すいた・・・」「疲れた・・・」「はぁ・・・」
こういう“オナニートーク”に毎日巻き込まれて、私はどこで何を失ってるんだろう、と。
無意味な会話を娯楽として扱うのは人の嗜み?
話すことの大切さは私も分かっているつもり・・・
だとしても、常に相手のペースだけで進んで行く会話って言うのは
楽しさや刺激になるだけで終らないから、疲れちゃうって思うこともあるでしょ?
自己満トークは、話し手には常にメリットがある
正直、話し手は得しかしてない。
・過去を笑い話に変えて
・後悔を都合よく塗り替えて
・自分の気持ちを吐き出してスッキリして
・承認欲求を補給する
話す側は、自分の歴史も感情も“編集”しながら
自分に優しい物語をつくりあげていく。
話すだけで気持ちが軽くなる。
つまり、“話し手は常に利益を得ている”。
だからこそ余計に思う。
じゃあ、聞き手の私は何を得てるの・・・?
聞き手のメリットは、「好意」がある時だけ成立する
残酷だけど、本音を言う。
話してくる相手に“好意”があるなら、
どんな話でもメリットになる。
子供の話なんてそうだ。
内容は雑で軽くても、
その存在そのものが愛おしい。
話してくれるだけでご馳走だ。
そこに“納得”も“合理性”もいらない。
ただ「聞けること」が価値になる。
でも・・・
好意がない相手、
大切に思えない相手、
存在に価値を感じられない相手の“自分語り”は、
ただの負担だ。
じゃあ“優しさで聞く”という言い訳はどうだろう
「優しい自分でいたい」
そのために聞いてあげる、という人もいる。
でもそれは
“自分を保つための偶像”にすぎない。
実際にはこうだ。
・どうでもいい話に時間を奪われ
・一緒に怒られるリスクは増え
・集中力は削られ
・ストレスだけが積み重なる
“優しい自分”でいたいという自己像を守るために、
自分本体が削られていく・・・そんな矛盾。
唯一のメリットは「納得」という後付けの価値
ここまで来て、私は気づいた。
聞き手が得られる唯一のメリットは
“納得という疑似価値”だけなんじゃないか、と。
無意味でも、無価値でも、
問題の先送りでもいい。
「まあ、いっか」
「これも仕事だし」
「大人だから」
こういう“都合の良い納得”で、
自分の中に小さな価値を後付けして
何とか整理する。
納得には、その力がある。
価値の無い時間を
“意味ある時間だった”ように変えてしまう力。
本当の線引きは「相手」ではなく「自分」だった
私は最初、
「どの相手にまで聞くべきか?」
を考えていた。
でも違った。
線引きをするのは、相手ではなく私自身だった。
・私はどこまで価値を創れるのか
・どこまでが私の限界なのか
・どこから先は切り捨てるべきなのか
これは人間関係の話ではなく、
“自分の価値創造の話”だった。
だから大切なのは
「誰が相手か?」ではなく、
「私がどれだけ価値をつくれるか?」
「その人に価値をつくる気があるか?」
ただそれだけ。
落としどころなんて探すのが時間の無駄
オナニートークが悪いわけじゃない。
独り言テロが憎いわけでもない。
ただ私は、
自分の価値を守りたいだけなのだ。
誰に耳を貸すか?
どこで線を引くか?
相手ではなく、自分の内側で決めればいい。
今日もまた、
「はぁ・・・あ」とため息が聞こえる。
私の中でそっと答える。
「そのため息・・・受け止めるかどうか、決めるのは私だ。」




