「自由になりたい」と願うとき、私たちは無意識に「安定」をセットで求めてしまう・・・

 

しかし、私たちはどうだろうか?

帰る場所も、守ってくれる土台もない。

そんな私たちが「自由」を口にするとき、それは美談ではなく、剥き出しの「生存」そのものです。

破天荒に生きるということ――帰る場所を持たない者の自由

 

人は、なぜ破天荒な生き方に惹かれるのだろう。

常識を気にしない人。
嫌われることを恐れない人。
世間の違和感の中を平然と歩く人。

ああいう人を見ると、どこかで思う。

「楽そうだな」って。

でも本当は、楽だからそう生きているわけじゃない。

むしろ逆だ。

何かを失ったから、そう生きるしかなくなった人なのかもしれない。

 

  逸脱という名の「高い通行料」

 

私たちは、たくさんのもので縛られている。

心配や不安で心を縛られ、
マナーや常識で行動を縛られ、ルールやモラルで思考を縛られる。

そして最後に、
誰にも命令されていないのに、自分で自分を監視し始める

 

これをしたら嫌われる。
こう思われたら終わりだ。
ここで間違えたら居場所を失う。

気づけば人生は、常に採点され続ける試験会場になる。

 

だからかな?  破天荒な人に惹かれる

彼らは自由だからではない。

評価を人生の中心に置いていないからだ。

嫌われる可能性。
逸脱のリスク。
世間の違和感。

それらを受け入れているように見えるのは、
強いからではない。

 

ただ、自分の価値を測る物差しを・・・世間の外側に置いただけなのだ。

 

  歴史を見れば、似たような生き方はずっとあった。

 

ディオゲネス(古代ギリシャ)のように、社会を笑いながら漂う者。
寅さん(映画・フィクション)のように、帰る場所を持ちながら旅を続ける者。

一方で、

釈迦(仏教の人)のようにすべてを捨て、苦行というさらに過酷な道を選ぶ者もいた。

 

同じ「捨てる」でも、方向が違う。

世界を軽くするために離れるのか。
世界そのものから降りるのか。

自由とは、一枚岩ではない。

 

けれど現代は少し事情が違う。

自由になるには、資本が必要だ。

お金。
安定。
安全。
帰れる場所。

それらがあって初めて、「嫌われてもいい」と言える。

社会に従属して資本を確保しなければ、
生きることすら難しい。

だから多くの人は、破天荒に憧れながら、破天荒にはなれない。

生きるために、従うしかないからだ。

 

山下清という存在が特別なのは、何も持たなかったことではない。

帰れる場所があったことだ。

完全な孤独ではなかった。
世界から排除されきってはいなかった。

帰る自由があった。

それが、人を生かす。

  贄(にえ)として生き、ピエロとして笑う

 

では、帰る場所を持たない私たちはどうするのか。

安心も安定もない。
未来の保証もない。

選択肢は残酷に見える。

社会の贄として生きるか。
世界を皮肉りながら笑うピエロになるか。

私は考えた末に、こう思った。

ピエロでもいい。

笑われてもいい。

だって私は、根無し草だから。

住む場所も、
生きる場所も、
まだ「ここだ」と言える場所を持っていない。

 

ならば、未来を設計するより、
今を生きるしかない。

  根無し草だからこそできる「今」への集中

 

今にフォーカスする。

それは諦めじゃない。

根を張れない者の、生存戦略だ。

未来への不安は、
未来への投資でしか回収できない。

私に今できる投資は何だろう。

 

資格でもなく、

地位でもなく、
安定でもない。

言葉だ。

 

シンプルフレーズ。

 

自分の感じた不条理を、飲み込まれる前に言葉にする。

それだけが、今の私が未来に残せる資本なのかもしれない。

 

破天荒に生きるとは、社会を壊すことじゃない。

ただ、少しだけ距離を取ることだ。

縛られながらも、完全には従わないこと。

壊れないために、少し笑うこと。

 

自由とは、解放ではない。

不自由の中で、自分を失わない技術なのだと思う。

 

帰る場所がなくても、まだ歩ける。

根無し草でも、風の向きを選ぶことはできる。

 

破天荒ではなく、
ただ少しだけ・・・世界に従いすぎないように。

 

  ピエロは、誰よりも自由だ

私は日本の最底辺を生きるピエロです。 

でも、ピエロは仮面の下で何を考えていても自由です。 

社会に縛られ、他人に笑われ、それでも内心で「世界をバカにする」という矜持を持ち続ける。

 

気がついたら楽ですよ。

失うものがない私たちが、今この瞬間に全神経を集中させて笑うとき、

私たちは三島や堀江氏さえも到達できなかった「剥き出しの自由」に、一歩近づいているのかもしれません。

 

「安定という土台がないのなら、踊りながら生きるしかない。ピエロの仮面は、社会という監獄から心を隠すための、唯一の隠れ家である。」

 💡 未来への投資:シンプルフレーズ

「底辺を歩くのではない。大地を最も近くで感じているのだ。」

「未来を案ずる暇があるなら、今の自分を笑い飛ばせ。」

同じ意見を言うのが嫌

みんなとはちょっと違うことを言いたい

同じ音楽を楽しめない

人とは違った曲で楽しみたい

誰かと同じものを持つのは嬉しくない

個性的で珍しいものを見付けたい

 

みんなと同じになるのが、どうしても面白く思えない。

でも、誰かが美味しいと言ったものは食べてみたいし

楽しいって言った場所には行ってみたい

 

同じは嫌だけど、同じものを知っていは居たいって思ってしまう。

 

そんな私はきっと問題児

 

自分だけの感性で、誰かとの違いを楽しみたい

 

職場の会議やミーティング

どうしても人とは違った目線と見方の意見を言いたくなってしまう。

なんとなく、みんなが賛成している雰囲気の時には、反対したくなってしまう。

 

別に変なことが言いたいわけでもないし、

話し合いを長引かせたり、周囲を振り回したいわけじゃない。

 

ただ、何も考えない。何も感じないで、人の意見に流されていくのが面白く無い。

 

今、流行りのファッションやお店

わざわざ人気のない商品を探しに行ってしまう。

流行りのお店にはとても興味はあるけど、流行りが落ち着いたころに自分だけで行きたいって思ってしまう。

 

話題に乗り遅れて、話しに着いていけない時もある

自分だけ違うモノを持っていて、浮いてしまう時もある。

 

でも、何も気にならない。逆にお勧めしたいくらいだよ私が見つけた魅力をね!

 

私はいつもマイノリティ

誰かと同じになることが、どうしても良いことだと思えない。

天邪鬼で、困ったちゃんの性格を持っているのは重々自覚しているけど、

それが私の個性だって自信を持って言うことが出来る。

 

誰かとの違いに悩まずに、誰かとの違いを楽しめるのが私の感性で、価値観なんだって思ってる。

 

 

根本的に、集団行動が苦手

人が集まる場所が嫌いなんじゃなく、集まるっていう行為が出来ない。

 

仕事や付き合いの上で、時間を合わせたり予定を合わせたりすることはよくある。

もうね・・・ストレスです。

ちゃんと時間を守る為に行動します。

間に合うように準備して、その他の用事を時間通りに終わらせたり、調整したり

 

正直私もそんなに暇じゃない。

やることも、やりたいことも山のようにある。

 

それでも、誰かとの予定を楽しむために必死に準備して用意する。

嫌じゃない。

でも、負担が無いわけじゃない。

 

友人たちとの食事はとても楽しい!

共通の話しも盛り上がるし、くだらない会話で笑い合うのは最高の時間だと思う。

人と行動することが、嫌いじゃないけど、負担が無いわけじゃない。

 

どんなに仲が良くて、気の置けない間柄だったとしても・・・

気を使ってしまうし、言葉を選んでしまう時がある。

勢いに任せて行動したり、発言をして後から後悔することが多い。

だからどうしても距離を作りたいって思ってしまうのは、自分を守るためだし、周囲と上手く過ごして行く為の方法だと思っているからだろう。

 

なにより、みんなと違う目線で物事をとらえたいと思っていて、

人の持つ感想とは違う感想を探しているから、共感出来なくて価値観が合わない。

楽しい会話でさえ、盛り上がる内容を選ぶから楽しい時間を過ごせるだけで、

自分が本当に興味がある内容・・・

今書いているブログの話しや、自己啓発や自分を大切にする生き方について話したって

友人たちには関心が無いし、興味が無い。

投資や自転車、神社について話したって共感なんか得られない。

 

自分の好きな話題を選んでしまったら、楽しい時間を過ごすことなんて出来ないんだから

一緒に居る相手に合わせた話題と行動で、素敵な時間を作る。

 

きっと、それは私に限った話じゃないだろう。

相手だって、私に合わせた会話をしてくれているだろうし、私が話せる内容を選択してくれている。

 

正直、それが面白く無い。

私に気を使う必要なんかない。好きにしてくれたらそれでいい。

合わないなら、離れていくだけで・・・私にはなんの問題もない。

 

この価値観が、きっと一人って言う環境を作っていくんだろうね。

 

 

誰かに分かって貰おうなんて思ってない。

同じものを見て、同じ感想を持って、同じ言葉を言う。

私にはそれが耐えられない。

 

同じの良さが分からないし、同じである事のメリットを見いだせない。

嫌、分かるよ?

共感から得られる安心感とか

同じ感想を持つ仲間を見つけて、意気投合して盛り上がる楽しさとか

同じ境遇・同じ環境でお互いを励まし合うとか

凄く分かる。言葉としてね。

 

私には、必要性を感じないだけなんだろう。

 

シンプルフレーズはいつも伝えている。

誰かに伝えなくても良いんだって、

自分が分かっていればそれで良いし、自分の中には建て前の自分と本音の自分がいるんだから、

本音の自分が分かっていればそれで良いんだって伝えてる。

 

自分のメンタルは自分でケアしないとダメで、誰かに吐き出したいような問題や障害は

見方を変えて、捉え方を変えて、細かく分けて考えることで問題だけを排除する方法を探す。

 

1人で抱え込んでしまうようなネガティブな気持ちは、

時を変え、場所を変え、環境を変えることで、気持ちの方向性を変えていく。

 

私は1人で解決する方法をいつも探しているし、実践している。

だから、共感も共有も求めていない。

誰かと同じ感想や、同じ行動することで得られる安心感や心の安定は私には必要ない。

人と違う感想を持つことで、周囲から奇異の目線を貰うこともある。

空気を読んでいるけど、場の雰囲気に合わせないで、雰囲気を壊すような行動をしてしまう。

変な人だと思われている自覚はある。

 

他人に何を思われて、何を言われて、どんな評価をされても気にしない!

それで私にどれだけの不利益があったとしても、私はそれを受け入れるし、乗り越えられる!

自分のコトは、自分だけが分かっていればそれで良いって思っているから、

他人の評価や感想の為に、自分を否定する理由は無い。

 

人と同じになるくらいなら、違う目線で物事を捉えて、違う感想を持って

違う意見を言いたい。

わざわざマイノリティーを選んでいるのは、同じが楽しくないし面白く無いって私の心が言っているから。

 

違うことが楽しいわけでも、面白いわけでもない。

違う意見と感想を持つことに意味があると思っている。

違うからこそ見つけられる素敵があって、違うからこそ気付ける魅力がある。

世界中の全ての人が否定しても、私にだけ分かる魅力があれば私はそれを大切に出来る。

 

その、私にだけ分かる素敵と魅力を見付けたいって思っているから・・・

私はいつでも違った目線で生きていく。

そんな私でも、最低限のラインは合ったりする。

身だしなみと清潔感。

これは感想とか感性や価値観なんて関係ない。

私が出来る最低限のマナーでモラルだと思っているから、気を使っている。

 

 

 

 

やめたことも諦めたことは沢山ある。

私は両手に持てる分しか持てない。

持ちきれない部分を整理していかないと、溢れたモノに押しつぶされてしまう。

 

出来ないことに時間を使うのは勿体ない気がするし

自分が無理ない範囲でしか出来ることも出来ない

 

だから、無理じゃなく

楽しいって思える現実を作れるように生きていきたい

 

減らしていくからって、暇な時間が出来たり

何かが無くなっていくわけじゃない。

 

新しい何かに挑戦したくなるし、始めたくなる。

何かを始める・挑戦するためには、余裕が必要だから

何かを手放す必要がある。

 

出来ることをやる為には、出来ないことを諦めないとダメな時もある。

 

それで結局プラマイ0でトントン

 

私が選んだのは無理しない生き方。

 

「諦める」私の諦めるは、明らかにして受け入れる事。

出来ない事実を受け入れて、持てない現実を受け入れる。

大切に出来ないモノやコトを理解していって、受け入れる。

 

出来ないことは出来ないんだから、私は無理しない。

 

生きていたら、気持ちが変わることもある。

興味がある事も変われば

好き嫌いも変わる

一回経験したら必要ないって思えることもあるし

違う何かを探したくなることもある

 

成長や積み重ねた経験で物事の捉え方も変わるし、見方も変わる。

 

その変化の中で、挑戦したいことや始めたいことが出来ることもよくあること。

そしたら、新しい何かを手を伸ばすためには

今あるモノを手放さないと出来ない時がある。

 

だからって、手放したものを二度と手に出来ないわけじゃない。

今は自分が持ちきれないから、置いておくだけ

余裕が出来たら、

気が向いたら、

必要になったら、

また手を伸ばして取ればいい。

 

だから、気軽に置いておく。手放しておく。

  無理しないために選んだのは、生きやすくなる為の選択

 

私が望んでいるのは、自分を否定しないで生きていくこと。

 

正直、自分のコトを考えればネガティブな事ばかりが思いうかぶ。

 

楽しくない思い出

忘れたい過去

謝りたい人たちに

望んでいない現実のカタチ

 

全部受け入れたくないし、拒絶して楽に成りたい。

 

でも、私が今まで生きて来た事実がある以上

自分の意思に関係なく、過去はある。

 

悲しいけどそれが現実。

 

でも、だからっていつも自分を責めてばかりでは・・・

今が無意味だし、未来も必要なくなってしまう。

自分自身を諦めて、手放したくなってしまう。

 

そんな勇気はない。行動には移すことは出来ない。

 

だから・・・・

許して、認めて、良かったって言えたら素敵。

良かったって言えたら、きっと自分のコトを好きになれるって感じている!

簡単じゃない。

嫌な事を全部良かったって言えるほど私は強くない。

だから、目をそらす・・・気持ちを違う方向に向ける。

見方を変えて、受け取り方を変えて、悪かったことだらけの中から、素敵だけにフォーカスしたい。

その為に

 

私が諦めたこと・止めたこと

私が唯一手放して、持つことが無いって思うのが

他人に期待する事。

 

それ以外はただ置いてあるだけ。別に捨ててない。

今の私には持ちきれないし、気持ちの整理が出来ないし、コントロールできないから置いてある。

 

愚痴や文句を言ってしまえば、言葉に影響されて自分のメンタルも落ちていく

計画や予定をばっちり立てて、上手くいかなければ苦しくなってストレスになる

誰かと競えば、誰かを否定したくなるし

持ちきれないモノを持とうとすれば、どこかに無理が出て失って悲しくなる。

 

私はもう十分その経験を堪能した。

もう満足です。ご馳走様です。ありがとうございました。

 

もし、この先の私に余裕が出来て、手が空いて・・・気になったら

また手を伸ばして見るだろう。

 

それくらいの軽い気持ちで取捨選択をしている。

ただね・・・

他人に期待するのは正直辛い。

他人に期待している自分が許せない。

裏切られるって言うより、他人を裏切ってしまう自分が辛い。

期待する時は、同じように期待されてしまう。

 

私には、期待にこたえられるようなモノは何もない。

人の期待を背負って生きて行けるほど強くないし、頑張れない。

 

他人との距離感だけは、ほどほどが良いかなって今は感じてる。

 

私が始めたこと・挑戦しているコト

自分の気持ちを前向きにする為にやりたいことを考える。

前向きな気持ちの時には、自分を否定することを考えないから。

常に忙しくすることで、悪いことを考える時間を作らないようにする。

 

手の空いた時間

暇な時間

 

そんな時間を有意義に感じる為に、自分の好きを探すようにする。

好きを探している時間は、楽しい想像や想いを沢山出来る。

 

妄想と想像の世界だけかもしれないけれど、自分は自由に行動出来て、願いが何でも叶う。

そんな時間があっても良いじゃないか。

 

その中で、手が届きそうなことやどうしてもチャレンジしてみたいことを

リストにしていく。

順番に手を伸ばして見て、出来るか出来ないかじゃない

やってみることに時間を使って行く。

 

上手く出来なくても、失敗しても、やりたい事リストが埋っていく。

それだけで十分満足出来て、素敵な時間の積み重ね。

 

自分を否定する理由を忘れて

人生を楽しんでいける方法になるって信じてる。

  それぞれの価値観だろうけど、私は『自分を否定しない』が楽に生きる選択


何も出来ない私。

そうじゃない、出来ることしか出来ないだけ。

今までは、何でも出来るようになろうとしてきたから、挫折の連続になった。

 

出来ないことが出来るようになることは素晴らしい!

でも、出来ないままだと自分を否定したくなる。

 

もう十分否定してきました。

否定しながらの残りの時間を使って行くのは、疲れました。

だから、否定しないで生きていきたいって思う。

 

楽に生きる為には、肩の力を抜いて

今の自分を受け入れながら、出来ることを楽しんで行くのか素敵だって私は感じた。

 

人との摩擦に疲れてしまうから

人に合わせた仮面を付けて、

その場を楽しめるキャラクターを演じて

あとから、自分に「大丈夫」って言えば良い。

 

別に、特別仲良くなる訳じゃない。長い付き合いになるわけじゃない。

今だけの関係を楽しく過ごせたらそれで良い。

 

誰にでも合わせる必要はない。

 

近しい人が出来、仲良くなれた人がいたなら

カッコつけず

背伸びしないで

等身大で良いんだって

気を使う理由もない。

 

人間関係はそれで十分。

あとは、自分の「楽しい」を探して、行動していけば良い。

私は、無理しない頑張らない。

私は、私にしか成れないし、出来ることしか出来ない。

 

それで良い。

 

その為に、

無理なモノは諦めて

好きと楽しいに挑戦して

自分の気持ちを否定しないで真っ直ぐに生きていく。

 

自分を否定しないで生きていけるって本当に素敵だって思えてる!

 

 

 

 

人間は、承認なしでは生きられない。

これは綺麗ごとじゃない。


本能だ。

誰かに見られ、
誰かに評価され、
誰かの中に自分の居場所を作ることで、ようやく「私」という輪郭ができる。

だから、自己肯定感も自尊心も、
劣等感も承認欲求も、
全部セットで人間なんだと思う。

 

でも・・・それを扱いきれないと、途端に「めんどくさい人」になる。

…私みたいに。

【最底辺の聖域】40歳、派遣、貯金ゼロ。私が「自尊心の残骸」を捨てるまで。

「承認されたい」という欲望は、魂に刻まれた不治の病だ。 

かつて古代ギリシャのポリス(都市国家)で人々が議論に明け暮れた時代から、人間は「自分がどう見られているか」という葛藤だけで歴史を紡いできた。

社会の中でしか自分を定義できないのなら、承認を求めるのは呼吸と同じだ。

 

だが、その呼吸が時折、自らを窒息させる。

見つけてほしい。
認めてほしい。
良い人だと思われたい。
ぶっちゃけ、モテたい。

でも、思い通りに承認が得られないと、劣等感が暴れ出す。

「どうせ私は…」

と自分を否定しながら、
その裏で、

「私は負けていない」

と自尊心を作る。

 

あの人よりは上だ。
私はまだマシだ。

 

そうやって、自分より“下”を探して安心する。

誰かを踏み台にして自分の位置を確認する、SNSや職場は残酷なヒエラルキーの戦場になってしまった。

「ネガティブキャンペーン」

あれは他人への攻撃じゃない。
自分の自尊心を守るための応急処置だ。

 

でも、そんな自尊心で満たされた自己肯定感は、砂の城みたいなものだ。

風が吹けば崩れる。

「どうして見てくれないの?」

怒りと悲しみが、また自分を責める。

 

なんて、なんてめんどくさい生き物なのだろう、人間は・・・

 

  誰かを見下さなければ、自分を保てないという悲喜劇

 

見なきゃいいのに、他人を見る。
比べなきゃいいのに、比べる。
格好つけなくていいのに、かわい子ぶる。
言わなくていい余計な一言を言う。

負けたくないから。

 

誰に?

 

分からない。

でも、いつも誰かと競っている。

それはきっと、世界がヒエラルキーでできているからだ。

搾取と評価と序列で回っているからだ。

数百年前は奴隷がいた。
今は社畜がいる。

名前が変わっただけで、構造はあまり変わっていない。

 

自分の願った形で認められないとき、心は「自己否定」という名の鋭利な刃物を自分に突き立てる。

しかし、それ以上に恐ろしいのは、その痛みを紛らわせるために作り出す「偽りの自尊心」だ。

  私のスペックは、ニュースの「犯人」と一致する

 

ここで私の現実を並べてみよう。 

40歳、独身、派遣の工場勤務。住まいは寮で、車も貯金もない。 

 

悲しいかな、世間を騒がせる事件のニュースで読み上げられる「犯人の特徴」と、私のプロファイルは驚くほど一致する。

これが、私の生きている「日本の最底辺」の景色だ。

時折、ホームレスの方がよほど高潔に見えることがある。

彼らは社会のしがらみを捨て、自由と自尊を天秤にかけ、自らの意思でそこにいる。 

対して私は、社会という巨大なシステムの歯車にすらなれず、使い潰されるのを待つだけの「社畜」であり「奴隷」だ。

 

笑える?
笑えない?

でも、これが私の今だ。

最底辺だと認めたくない自尊心が、往生際悪く胸の内でごねている。

  諦念という名の、最高の解放

 

でも、気づいた。

認めたほうが楽だ。

私は最底辺だ、と・・・「あぁ、私は日本の最底辺なんだ」と。 

 

その事実を喉の奥へ無理やり飲み込んだ瞬間、世界は驚くほど静かになった。

 

誰かに勝ちたい、誰かより上でいたい、誰かに認められたい。 

そんな、他人の評価を燃料にした「自尊心の暴走」から降りたとき、初めて私は「自由」を知ったのだと思う。 

世界はヒエラルキーと搾取で回っている。

 

ならば、その最下層で泥を啜っている私には、もう失うべき地位も、守るべき見栄もない。

今の私にあるのは、自分を律するための「矜持」だけだ。 誰に笑われてもいい。

自転車がパンクしても、電車を乗り間違えても、それが「底辺」を生きる私の日常であり、私の真実なのだから。

 

「ヒエラルキーの最下層に到達したとき、人は初めて『他人』という鏡を割り、自分の顔を見ることができる。」

フンボルトの「他者が必要」
ベンヤミンの「虚飾を剥げ」
バタイユの「整えるな、裂け目に触れろ」

 

人と人の言葉には、意味がある

でも、その意味は変わってしまう。

意味に意味があるのか?

他人との繋がりを優先することを目指した人たちが居た

自己の中を優先することを目指した人たちが居た

 

社会を語り、他者を語り、公共を語り、監獄を語り、ヒエラルキーをかたり、意味と価値をその時代時代で説いてきた

 

私は、全てを失ったと感じたから、色々学べる機会を得た

哲学や思想や小説や名言や格言やスピや自己啓発や他人の価値観

沢山学べた。

 

その答え?答えは、結局その人の気分次第っていうことかな。誰が何を言おうが、どれだけ正しさを主張しようが、ルールと規範と枠組みとモラルを並べて押し付けようが・・・

結局、その人の気分と匙加減になってしまう。

 

それが、私が知った答えなんだと思う。

 

要するに?

 

どうしたって上手くいかない。

何を知って、何をしたってダメなモノはダメ

正解が無いんじゃなくて、思い通りにはいかないっていうこと。

 

先日書いたブログの、「聞きたいなら黙れ」知りたいなら「沈黙を知れ」っていう話も同じだ。

何かを成し得ようとするから、苦しいのさ・・・

でも、何もなさないとしても世界は辛いけどね。

 

その上で、今回の話し

出来ない事に満足したらいいじゃない?っていうこと

 

誰も彼もが、何かを出来るように、分かるようにしようとする

勉強で良い点数を取ろうと頑張る

仕事で出世しようとする

家庭で認められて、感謝されようとする

地域で存在感を示そうとする

交友関係で優位に立とうとする

 

良いことだよね。目指すべきことだろうし、人の生きる目的になってもおかしくないことだろう。

他人からの評価を受け入れて、その評価を良いものとして受け入れるって言う事実

それをもって、満足して、満たされて、幸せを感じられるんだろう・・・

 

ただ・・・私には無理だって言うだけのこと

手に入らなかったって言うだけの話しなんだ

全部奪われたって、言ったら語弊があるんだろうけど・・・

今はなにもない・・・それだけのコト。

 

だから私は、奪われない為にピエロを演じることにした

軽率で軽薄で、短絡的で、ポンコツ

 

凄い楽で、生きやすくて、気楽で、自由だ!とは言えない。

ただ、誰からも期待されず、求められず、信用されない。

 

そんな生き方をどれだけ言い訳して、取り繕って、正当化したって・・・

「良い」とは言い難い。

 

でも、出来ない事を受け入れて、出来ない事を諦める理由にはなったかな

言い訳を先に用意してしまっただけなんだけど、それでも・・・無理して頑張って自分を演じるよりは

良くも悪くも

奪われて、失うリスクは少なくなった気がする。

 

出来ない事を受け入れる

 

って言うと、とっても難しいことで、自己啓発のように聞こえるけど、

私の落としどころは、ピエロ・・・道化・・・

っていう、出来ない事を証明するだけの存在だ。

 

私のブログはいつだってそうだ。出来ない事を出来るようになることを目指してなんかない。

ありのままを受け入れようっていうことを言っていた時期もあったけど、

諦めるんじゃなく、明らかにして受け入れるんだって言う時もあったけども・・・

 

変わらないのは

 

出来ることは出来る事だけ

持てるモノは持てる分だけ

 

出来ない事を出来るようにするより、自分の出来ることに集中した方がきっといい

食べきれない食べ放題で元を取りに行くより

牛丼の大盛で満腹になった方が

余韻の幸せはあるんじゃない?っていう話。

終わった後にしか、幸せも不幸も善し悪しも分からないんだから、

そこそこに終わらせて、満足してしまうのは良い選択なんじゃないかな?

 

って、思うのは私だけかな?