分からないままで、今日は書く。
答えを出したくて書くんじゃない・・・
むしろ、答えが出ないから書くんだ。
私はずっと思ってきた。
人を変えるのは、希望じゃない・・・後悔だと。
選択を間違えた
傷つけた
逃した
見捨てた
自分を裏切った
その痛みに、私は何度も動かされてきた。
でも、最近どうしても引っかかる。
後悔が未来を作り変えるはずなのに・・・
どうして私は、
「納得」という麻酔を使って今を続けようとするのか?
後悔は未来を変える力のはず?
ソクラテスは言った。
「吟味されない生は、生きるに値しない」
ニーチェは言った。
「人は真理を求めない・・・安心を求めるのだ」
そして私は思う。
「安心したい私」が、「変わりたい私」を殺しているのかもしれない・・・と。
私の後悔は“未来へ進め”と言う
私は、後悔をこう理解してきた。
後悔とは・・・
自分の行為を、自分で納得できないことから始まる。
納得できない
許せない
理解できない
飲み込めない
その“不一致”が、葛藤になり
葛藤が、自己否定になり
自己否定が、
「変わりたい」「やり直したい」という未来への意思になる。
つまり後悔は、
未来を作り変えるための“痛みのエネルギー”だ。
なのに私は“納得”で今を続けようとする
おかしい・・・そう思う。
だって私は、変わりたいはずなのに。
現状に不満があるのに。
このままじゃ嫌なのに。
なのに、どうして
「まあこんなもんでしょ・・・」という自己流の納得で
今日を延命しようとするのか?
ここにズレがある。
後悔は未来へ押し出す力なのに
納得は今へ引き戻す力になる。
後悔の種類か?納得のカタチか?
私は思う。
もしかしたら、問題は
**後悔そのものではなく、“後悔の種類”**なのかもしれない。
未来へ押す後悔
自分を壊す後悔
責め続ける後悔
言い訳としての後悔
後悔にも、生かすものと、殺すものがある。
同じように
納得にもカタチがある。
・本音の納得
・妥協の納得
・逃避の納得
・麻酔としての納得
・責任を手放すための納得
これらを全部「納得」という言葉で包んでしまうから
自分の中が混線する。
後悔が変化のエネルギーになるのは本当だ。
でも、
納得という麻酔を打ちすぎると、その痛みが届かなくなる。
だから、未来が動かなくなる。
言葉は“痛みを麻痺させる麻薬”なのか?
ここで、もうひとつの疑問が出てくる。
『人を納得させてしまう言葉の麻酔は
痛みを痛みのまま耐えるための麻薬なのか?』
これはとても怖い問いだ。
だって私自身・・・
言葉を書くことで
痛みを整理して
痛みを麻痺させて
痛みの形を変えながら
生き延びてきたから。
つまり、私は
痛みを鎮めるために言葉を使ってきたのか?
それとも
痛みから逃げるために言葉を使ってきたのか?
これは、正直まだ分からない。
私は、言葉で自分に“納得の嘘”をつけるのか?
あなた(=私)は最後にこう問いかけている。
私が言葉を紡ぐのは
痛みを痛みのまま麻痺させたいだけで
言い訳で納得を目指しているからだろうか?
すぐに答えを出してはいけないと思う。
なぜなら、それは
言葉そのものの意味(存在論)に触れる問いだから。
私は思う。
言葉は「麻酔」にもなる。
でも本来は「メス」にもなる。
傷に触れるための道具にもなるし
傷を誤魔化すための布にもなる。
だから、
「どっちか」ではなく
「どっちも」なのだと思う。
疑問は疑問のまま
最後に、このままにしておきたい言葉がある。
後悔は未来を作り変える
納得は今を守ろうとする
なら、私はどちらに立っているんだろう?
後悔を燃料にしたいのか
納得の麻酔で眠りたいのか
言葉で未来を変えたいのか
言葉で痛みを隠したいのか
今は、分からない。
分からないままでいい。
この「分からない」が、今日の私の答えだから。























