ハングリー精神が成功の秘訣だ!みたいに言われることがある。

確かに、スポーツの世界でも、ビジネスの世界でも、いわゆる「負けん気」のような「こなくそ!」みたいな

負けず嫌いのような精神性は必要とされることがある。

 

でも、ハングリー精神とはそういうモノを指す言葉じゃないんだ。

hungry(ハングリー)を空腹と訳して、ハングリーマインドみたいに扱うからそもそも変なことになっている。

だから、ハングリー精神が足りないから試合に勝てない!みたいな言い方は根本から間違っているんだ。

ハングリー精神は成功の秘訣?

 

「ハングリー精神」って、どんなイメージでしょうか?

 

負けん気? 闘争心?「何くそ!」っていう気概?

……これだと、まるで「アングリー精神」じゃない?(笑)

 

ハングリー?(hungry)=空腹

 

肉体的な飢えや、精神的に追い詰められた欠落感・喪失感・・・。

それらはただ人をすり減らし、パフォーマンスを落とすだけで、なにも良いことが無いように思える。

貧困や病的な渇きを美化したところで何の意味もありません。

 

ただ、空腹状態の方が行動力が出て、活動的になり、意欲的になるなんて言われることもある。

空腹のときに買い物に行くと、以上にカゴに入れてしまうあれです。

※人間は空腹のときの方が、欲求に対して正直になると言われています。

 

かといって、満腹で満たされた状態は穏やかで寛容になれると言われるが・・・

正直、満腹なら些細なコトも気にならないけど、意欲も行動力もいまいち生まれない。

ダラけたくなるのが人の性。満たされているから、何も求めないっていう状態だ。

 

そんな状態からは「新しい何かをもとめて、今より!さらに!もっと!」という感情は生まれにくい。

 

  本当のハングリー精神

じゃあ、本当のハングリー精神って何なんだろう?

 

そう考えていた時、昔教科書で読んだ今西祐行さんの童話『一つの花』を思い出しました。

 

戦時中の物足りない時代、幼いゆみ子はいつも「ひとつだけ頂戴」とおねだりします。

出征する父親はそんな娘を見て、「あの子はもっと頂戴、いっぱい頂戴と言えないまま生きていくんだ」と涙を流す。

 

あの父親の涙は、単に娘がひもじかったから流したものではないと私は感じた。

 「もっと世界を知ってほしい、もっと欲張って求めてほしい」という祈りだったのだと思います。

 

「一つだけ」で満足するのは、与えられた小さな枠の中で納得してしまう諦めに近い感情何ではないかな?

 

そこに、

スティーブ・ジョブズの「ハングリーであれ、愚かであれ(Stay hungry, stay foolish)」が重なります。

 

周囲の計算や「リスク」に囚われず、自分の欲求と可能性に素直であり続けろ、と。

 

身体や心がどういう状況にあろうとも、内側から湧き出る「もっと、さらに、いっぱい」という純粋な好奇心、探究心、そして意志。

 

それこそが、ハングリー精神の真の正体なのではないかと私は思うんだ。

 

  ハングリーなイカロスは飛び上がるさ

高く飛びすぎれば、イカロスの羽のように燃え尽きる怖さは当然あります。 

まさに、ハングリー精神がもたらした「もっと!さらに!」を体現した時の結果の一つだろう?

 

裏がジョーカーかもしれないカードをめくりに行くのは、勇気がいります。

それでも、満たされないまま立ち尽くすくらいなら、手を伸ばし続けるしかない。

 

「成功」なんていう抽象的な記号を目指すのではなく、

まだ見ぬ出会い、仕事、事業、人間関係、そして自分自身の可能性に向かってカードをめくりに行く。

 

その意志を持っている人だけが・・・

ラストシーンに咲き誇るあの一面のコスモス畑のような、誰も見たことがない景色にたどり着けるのだと信じています。

その繰り返し・・・何度ダメでも挑戦し続け、手を伸ばし続け、求め続ける意思

それこそがハングリー精神で、それこそが成功につながる秘訣だって言う話なんだと私は思うよ。

ある意味、トレジャーハンターだわwww

 

「夏と言えばひまわりでしょ?」

そんな単純な思いつきひとつで、私の休日は始まります。

 

朝起きて、カーテンを開けた時に見えた空、陽の光、そして風。

「うん、太陽と空と風が私を呼んでるね」

(まあ、特別呼んではいないだろうけど笑)

いそいそと準備をして、愛車の自転車で家を出ます。


ほんの些細な日常が、なんだか楽しい

 

私の休日、というか連休の一コマ。

「ヒマワリを見たい!」

 

そう思って、朝起きてグーグルマップでひまわり畑を調べてみる。

すると、近くにあるらしい。

じゃあ、行くか!!!

 

私の行動原理は、シンプル極まる(笑)

朝起きてカーテンを開ける。

空が見える。陽の光がある。風もある。

「うん。太陽と空と風が私を呼んでるね」

……たぶん、特別呼んではいない(笑)

 

でも私は、いそいそと準備をして家を出る。

私は自転車が好きだ。

車は、どうしても好きになれない。免許はあるけど、維持費やら何やら、とにかく煩わしい。

その点、自転車は最高だ。

一人力とでも言おうか?

自分の足だけで、どこまでも行ける。

 

私の感覚では、徒歩の3倍速いのが自転車で、その3倍速いのが車。

計算式は知らない(笑)

 

ただ、そう感じているって言うだけの話し(笑)

 

そんな自転車に乗って、休日の空の下、ヒマワリを求めてペダルをこぐ。

これが最高の時間なんですよ。

 

まあ、ここは私の価値観です(笑)

風の中で陽の光に焼かれながら、自転車をこぐ。

私は、それが好きなんです。

 

そして2時間弱・・・

目的のひまわり畑に到着……?

土。

土。

土。

あれ?

ヒマワリは?

畑は、もう綺麗に耕されていました。

 

花なんて影も形もない。

「あぁ~、さすが私。予定も下調べも、なにもあったもんじゃない(笑)」

ヒマワリって、夏の間ずっと見られるものだと思っていたんですよ。

違うんですね~7月の終わりくらいが見ごろらしいですよ?知ってました?

 

でも、ここで諦めないのも私。

「花を見せろよ!コノヤロー!」

ということで、急遽、近隣で花が咲いていそうな場所を探す。

 

グーグルマップって便利よね。

Googleが世界一になったのもうなづける。

助かるよ、本当に。

 

そして見つけたのが、近くの緑地公園。

土だけになったひまわり畑から約20分。

行ける。

行く。

行きましょう(笑)

 

そして到着。

そこには、ひまわり……?

🌻?

ひまわり……だよね?

若干、小さいような?

よく見ると、なんか違う名前が書いてある。

 



……名前は忘れました(笑)

 

そういうところも私らしい。

でも、とりあえず花は見られた。

写真も撮れた。

満足。

じゃあ帰るか?

 

……そんな訳ない(笑)

 

神社、行くでしょ?

私の趣味なんだから仕方ない。

帰り道沿いの神社を見つけては参拝する。

そして、なかなかいい雰囲気の神社に出会う。

たまらん(笑)

さらに、蝉も大量。

今の時代、蝉も行く場所がないんだろうね。

暑いし。

コンクリートとアスファルトのジャングルより、少しでも木につかまりたいでしょ?

そんなことを思いながら、たくさんの蝉の鳴き声と一緒に参拝する。

 

そして木を眺めていたら……

蝉と一緒に、カタツムリ。

なんとも、ほっこり(笑)

 



ヒマワリを見に行っただけなのに、神社に行って、蝉を見て、カタツムリまで見つけた。

最初の予定には、そんなもの一つも入っていない。

 

でも、それでいいのよwww

 

私は、こういう休日が楽しい。

何か大きなことをしたわけでもない。

遠くまで旅行したわけでもない。

ただ、自転車に乗って、花を探して、神社に寄って、蝉を眺めて、カタツムリを見つけただけ。

 

でも、私は満足した。

だから、こういう時間を持てる休日があることに感謝です。

 

こういうのを「幸せ」って言うのかは知らない。

でも、私は満足できる。

 

それで十分じゃないかな?

 

「あるモノで満足しろ」とは思わない。

欲しいものは欲しい。

 

ヒマワリが見たいと思ったら、私は見に行く(笑)

 

でも、あるモノを大切にして、目の前にある時間を「いいな」と感じられること。

 

それって、素敵なことだと思うんですよね。

欲しいものを諦めることと、今あるものを大切にすることは、全然違う。

 

私は欲張りなままでいい。

そのうえで、目の前にあるものを楽しめれば、それでいい。

 

……まあ、しっかり肩とおでこは日に焼かれましたよ?

真っ赤です。

さらに汗疹でかゆい(笑)

 

これから私は脱皮して進化するのかと思うと……

掃除が大変だな~と思う今日この頃。


化粧水をたっぷり塗って寝ますよ。

しかし……

太陽って、どうしてこんなに私のコト好きなのかな?(笑)

迷っている時なんて、選べないから迷ってる。

 

運命の選択?

人生の分岐点?

重要な決断を迫られている?

 

そんな大きな選択を簡単に決めることなんて出来るわけない。

 

今夜の夕食を何にするかを決めることも出来ないのに・・・

迷ってるのに、急かされても決められないよ。

 

楽な方を選ぶのも有りだよきっと。

『迷ってる時は何を選んでも後悔するもの。だったら楽な方を選べばいい!』

とある物語に出てきた言葉。

 

物語の中では、とってもダメな解決策で・・・

正解じゃない

ろくでもない

残念な言葉として表現されていたように感じた。

 

でもさ、実際そうじゃない?

 

何を選んだって、選ばなかった方が魅力的に見えてしまう。

隣の芝は青く見えるんだから、どうしてもないモノ・選ばなかったものが魅力的に見えてしまうのは仕方ないんじゃないかな?

 

選択肢がある時に迷って迷って選んで、手に入らなかった方の結果がどうなるのか?

そんなものは分からない。

分からないからこそ、良く見えることもある。

希望と願望を持って、手に入らなかった結果を想像するから・・・

選ばなかった選択肢が気になる。魅力的に見える。

 

何を選んだって、選ばなかった方が良かったと思ってしまう。

結局どれだけ考えて、迷って選んだって後悔することになる。

 

だとしたら?

『楽』を選ぶのも良いんじゃないかな?

 

  なんで「楽な方」を選ぶのがダメなの?

 

成長や学びの機会を逃す可能性がある?

 

確かに何かを目指していたり、目的や目標があるんだとしたら、

叶えるために積み上げていくんだろう。

その為には、楽な道だけを選んで進んでいては、手に入らないこともあるかもしれない。

努力する経験もきっと素敵な力になるだろうし

求めるモノを手に入れるには、必要な時間の使い方になるはず。

 

自己責任を回避しやすくなる?

 

あくまでも自分の責任での選択になるはず。

それなのに、後から後悔する理由の一つになってしまう。

「もっと頑張っていれば」っていう、選ばなかった選択肢を思って後悔する理由になるかもしれない。

自分の責任のはずなのに、楽な方を選ぶことで

責任事態も軽くとらえようとする。

 

楽な方を選ぶことは、結果を求めない選択肢になるんだろう。

結果より過程を選ぶことが、『楽』を選ぶって言うこと。

 

楽な道を選ぶことが間違っている訳じゃないんだろうけど、

結果・・・

目指すものや求めるものを手に入れようと思ったら、願う結果になることは難しいのかもしれない。

 

  楽を選んでも良いじゃないかな?

 

日本人は固いね。

どうしてそんなに難しく考えるのか?

 

楽な道を選んでも良いじゃない!

 

楽な道が最善じゃないかもしれない・・・

ダイエットをしようとしていたら・・・楽な道に救いはない😭

分かってる。

でも、楽な道を選ぶのも必要じゃないか!

 

他人から見たら『楽』に見えることが、自分にとっては十分な努力や頑張りを要することかもしれない。

他人の評価や、言葉を求めているから

自分のペースや許容量を超えて、頑張ることになってしまう。

 

無理して頑張っても、体や心を壊してしまったら意味がない。

 

休憩も必要だし

求めるモノを手に入れるとしても自分に合ったペースはきっとあるはず!

私には、私の選択肢があるんだから

 

自分の求めるモノや

自分にとって大切なモノを大切にする選択

人それぞれ、優先する選択があるはず。

 

なにを選んだって、選ばなかった方を思って後悔するんだから

無理しない・頑張らない選択をするのも有りだと私は思うよ!

 

無理して頑張って、何かが壊れてしまったら意味がないって思うからね!

 

私達はどうやっても、出来ることしか出来ないんだから

出来ないことを何とかしようとして出来るようにするよりも

出来ることを、好きなコトを、楽しいって『楽』って思えることを選択して優先していくことは全然有りだよ!

 

それが、自分を大切にするって言うことなんじゃないかな?

自分にとって『楽』って思える道を選ぶのは、間違いじゃない!

 

山本五十六のあの有名な言葉

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」

子供に何かを願うなら、知っていた方が良い言葉なんだろう。

「賢く聡い子になって欲しい」という親の願い

子を持つ親なら、誰もが一度は思い描くだろう?

「賢く聡い子になって欲しい」と。

 

今の時代なら、なおさらだと思う。

勉強が出来ていれば、英語が話せたら、プログラミングが出来たら……。

 

人間って、無いものねだりだから、自分が持っていない可能性を子供に夢見るのは仕方がないんだろう。

自分が手に入れられなかった可能性。
自分が出来なかったこと。

 

そして何より、子供には幸せになって欲しい。

だから「賢い子になって欲しい」と願ってしまう。

その願いそのものは、私はとても素晴らしいものだと思う。

 

  でも、それで本当にいいのかな?親ガチャの当たりってなに?

そのために小さな頃から勉強をさせる。

塾に通わせる。
ダンスやピアノを習わせる。
外国語を学ばせる。
いろんな経験をさせる。

 

今の時代、「頭のいい子を育てるには?」と聞けば、幼い頃から学ぶことを生活にすることが大切だ、なんてAIでも答えてくる。

(GPTはそう言ったよ。)

 

確かに、学ぶ習慣や、分からないことを調べる習慣、考える習慣を身につけることには意味があるんだろう。

 

・・・でも、それで良いのかな?って私は思ってしまう。

 

「与える」という言葉でいいのか分からないけれど、親が用意したものを子供に与え続けることで、子供自身の自由な好奇心や、自分で探して、自分で見つけて、自分で作り出すという時間が、どんどん少なくなってしまわないだろうか?

 

環境や機会を与えることばかりに夢中になると、

子供が自分で不思議に思い、自分で探求して何かを作り出す「自由な好奇心」が、どんどん薄れていってしまう気がする…。

 

さらに現実を見れば、

世間では「頭の良さは7〜8割がDNAで決まる」なんて言われたり、

東大生の親の世帯年収は1000万円超えがザラだなんてデータが出てきたりする。

 

自分が勉強嫌いだったのに子供には勉強させようとしたり、我が家にそんな潤沢な資金がないのに高い理想ばかりを求めたり……。 

 

基盤も用意できないのに道だけを強いるのは、どうしても親のエゴであり、押し付けのように思えて苦しくなってしまう。

じゃあ、親に資金がなければ、良い遺伝子がなければ、子供の未来は諦めるしかないのか?

「親ガチャ」なんて言葉で片付けて、終わりにしていいのか?

 

金がある親が「当たり」なのかと言われたら、私はそうは思わない。

与えるものが多いから、当たりの親というわけじゃない。

お金があっても、子供のことを見ていなければ意味がない。

  「賢くなって欲しい」なら、親も一緒に歩く

だからこそ、私は山本五十六の言葉を思い出す。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」

 

そして、その続きとして知られている言葉もある。

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」

「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

 

頭のいい子になって欲しい。

賢く聡い子になって欲しい。

そう願うのなら、そのために親が出来ることを無視しちゃいけないんだと思う。

 

「勉強しなさい」と言うだけじゃなくて、自分も学ぶ。

「なんで?」と聞かれたら、一緒に考える。

分からなければ、一緒に調べる。

一緒に遊ぶ。

一緒に失敗する。

一緒に笑う。

食事をして、眠って、話をして、ときには怪我もする。

 

そんな何気ない時間の中で、子供が「なんだろう?」と思ったことに一緒に付き合う。

 

  子供に与えるだけが教育じゃない

私は、頭のいい子を育てる方法って、特別な教育方法じゃないと思う。

 

英語を何歳から始めるとか、何歳までに何冊本を読むとか、どこの塾に入れるとか・・・

 

もちろん、そういうものが役に立つこともあるだろう。

でも、それだけじゃない。

 

むしろ、

「頭が良くなって欲しい」と願うなら、親自身も一緒に頭を使って生きる。

これが一番大事なんじゃないだろうか?

 

簡単に年収が上がるわけじゃない。
DNAを変えることも出来ない。

親にどうにも出来ないことは、たくさんある。

 

だからこそ、子供に願うだけではなく、自分に出来ることをする。

「賢く聡い子になって欲しい」と神様に祈る。

 

でも・・・祈って終わりじゃない。

仕事をする。
家事をする。
子供と遊ぶ。
話をする。
一緒に考える。

子供が失敗したら、また一緒に考える。

 

その積み重ねなんじゃないかな?

 

  「頭のいい子」ではなく、「一緒に頭を使える子」

 

親が子供に何かを与えるだけではなく、親自身が子供と一緒に歩く。

その中には、きっと好奇心がある。

「これ何だろう?」

「なんでこうなるんだろう?」

「やってみようか」

「失敗したな(笑)」

そんな試行錯誤がある。

 

私は、それこそが子供の頭を育てる時間なんじゃないか?と思う。

 

「頭のいい子になって欲しい」という願いは、悪いものじゃない。

むしろ、子供を思うからこそ出てくる、尊い願いだと思う。

 

でも、その願いを子供に背負わせるだけじゃ駄目なんだろう。

 

親が願う。

親が祈る。

そして、その願いを叶えるために、子供と一緒に歩く。

 

与える親が当たりなんじゃない。

一緒に歩いてくれる親が、子供にとっての大きな財産になるんじゃないだろうか?

 

「頭のいい子になってほしい」

その願いや祈り自体は、とても尊くて温かいものです。 

だからこそ、神頼みや資金力に丸投げするのではなく、親である私たちが「一緒に歩む」という一番大切な行為を無視しちゃいけない。

お金やDNAに関係なく、子供にとっての本当の「当たり親」とは、自分のために一緒に泣き、笑い、歩んでくれた親のこと。

今日も我が子と手をつないで、時に立ち止まりながら、一緒に歩んでいきましょう。

それが私の思う、

「頭のいい子を育てる方法」

なんだと思う。

不安になったときって、何かに触れたくならないだろうか?

 

ぬいぐるみを抱いたり、クッションを抱えたり、毛布にくるまったり・・・?

人間にとって「触る」という行為には、何となく安心する、落ち着くという身体的な感覚があるらしい。

 

疲れているとき、不安定なとき、心配事で頭がいっぱいになっているとき。

何かに触れることで、自分の身体を少し安定させようとする。

「触覚」がもたらす安心のメカニズム

何かに触れたい・・・

ほとんど無意識の行動なんだ。

何も考えていないし、特に感情の変化があったわけでもない・・・

それなのに、常に何かに触れている。何かを触っている。

何かを触っていいじっている時って、結構安心したり、感情が安定したりする。

 

昭和って言うか平成の前半の人なら経験あるんじゃないかな?

電話中にコードをクルクルしちゃうあれですよ(笑)

 

ところが、今の時代。

その「触るもの」がスマホになってしまった💦

  不安だからスマホを触る

不安だからスマホを触る。

落ち着かないからスマホを見る。

暇だからスマホを握る。

 

でも、スマホって触った瞬間に新しい情報が入ってくる。

ニュースが流れてくる。

SNSで誰かの生活が見える。

 

知らなくてもよかったことまで知ってしまう。

 

人と比較してしまう。

通知が来る。

仕事の連絡が来る。

また別の情報が気になって、指を動かす。

 

つまり、

「何かに触れて安心したい」

という身体の欲求でスマホを触っているのに、

触れば触るほど、新しい刺激が入ってきてしまう。

 

身体は休もうとしているのに、頭の中にはどんどん情報が入ってくる。

不安になる。

スマホを触る。

情報が入ってくる。

 

さらに不安になる。

またスマホを触る。

 

なんだか、そんな循環ができてしまっているように思うんだ。

 

  本当は情報が欲しいわけじゃないのかもしれない

スマホを触っているとき、私たちは情報を求めているとは限らない。

ただ、何かを握っていたい。

何かに触れていたい。

手持ち無沙汰なのが嫌なのかもしれない。

不安な身体を落ち着けたいのかもしれない。

 

そう考えると、スマホという道具は少し特殊だ。

触っているという身体的な安心感を与えながら、その指先から大量の情報を流し込んでくる。

 

安心を求めて触っているのに、触ることが新しい不安の入口になる。

現代って、なかなかややこしいね💦

 

  だから「誰かと触れ合えばいい」でもない

じゃあ、不安なときは人と触れ合えばいいのか?

 

……そんな簡単な話でもない。

 

人との接触は、安心にもなるけれど、同時に怖さにもなる。

誰かにどう見られるんだろう。

迷惑じゃないだろうか。

弱っている自分を見られたくない。

触れられたくない。

自分の領域に入ってきてほしくない。

そんな気持ちもある。

 

だから、「肌と肌の触れ合いは安心につながるから、もっと人と触れ合いましょう」なんて簡単には言えない。

 

「触れてほしい」と「触れられたくない」は、同時に存在することだってある。

そこは、とてもデリケートなところだと思う。

 

  カンガルーケアとマインドフルネス

赤ちゃんを胸に抱いて肌と肌を触れ合わせる、カンガルーケアというものがある。

温度や呼吸、心拍、触覚。

身体を通して「ここにいる」という感覚を共有する。

 

大人にそのまま同じものが当てはまる、と簡単に言うことはできない・・・

 

でも、人間にとって身体的な接触や存在を感じることが安心と関係する、ということを考えるきっかけにはなる。

 

一方で、座禅や瞑想、マインドフルネスには、情報からいったん離れるという意味がある。

スマホから離れる。

外から入ってくる刺激から離れる。

そして、自分の呼吸や身体感覚に意識を戻していく。

これはこれで、とても意味がある。

 

ただ、マインドフルネスには「誰かに抱かれる」というような身体的な接触はない。

 

情報から離れることと、誰かに包まれていることは、似ているようで違うんだと思う。

 

  自分で自分に触れてみる?自分で自分を見つめる?

自分に触れてみる

だから、私はセルフハグって結構いいんじゃないか?と思う。

もちろん、これを万能な方法だと言いたいわけじゃない。

 

ただ、自分で自分を抱く。

自分の腕で自分の身体に触れる。

それなら、誰かに触れてもらう必要はない。

 

ぬいぐるみでもいい。

クッションでもいい。

毛布でもいい。

 

「誰かに安心させてもらう」じゃなくて、

自分で自分の身体に触れる。

 

そんな方法があってもいいんじゃないかと思う。

 

自分で自分を見る

そして、もう一つ面白いと思うのが「鏡」なんだよね。

誰かの視線って、ときどき怖い。

見られている。

評価されている。

比較されている。

そんな感覚になることがある。

 

でも逆に、「見てもらえている」ということが安心になることもある。

 

人間って、誰かの視線を恐れる一方で、誰かにちゃんと見てもらえていることを求めたりする。

だったら、自分で自分を見るというのも、案外大事なのかもしれない。

 

鏡に映った自分を見る。

自分の顔を見る。

疲れているな、と気づく。

今日はひどい顔してるな、と笑う。

別に「自分を好きになろう」なんて話じゃない。

ただ、

自分の存在を、自分自身がちゃんと見る。

それだけでもいいんじゃないだろうか?

 

  不安なとき、何に触れているんだろう・・・?

私たちは、不安になると何かに触れたくなる。

 

でも今の時代、その「何か」がスマホになっている。

スマホを握ることで、一瞬安心する。

 

でも、その指先から新しい情報が入ってきて、また不安になる。

 

それなら一度くらい、

「私は今、本当に情報が欲しいのか?」

と考えてみてもいい。

 

もしかしたら欲しいのは情報じゃなくて、ただ何かに触れている感覚なのかもしれない。

 

だったらスマホじゃなくてもいい。

ぬいぐるみでもいい。

クッションでもいい。

自分の腕でもいい。

鏡の中の自分でもいい。

不安をなくすことなんて、そう簡単にはできない。

 

だからこそ、

不安な自分が、何に触れているのか?

そこを少し考えてみたい。

安心するために触っているはずのものが、さらに自分を不安定にしていないか?

今の私たちは、そこまで考えなければならないくらい、情報から離れることが難しい時代を生きているんだと思う。