分からないままで、今日は書く。
答えを出したくて書くんじゃない・・・
むしろ、答えが出ないから書くんだ。

私はずっと思ってきた。
人を変えるのは、希望じゃない・・・後悔だと。

選択を間違えた
傷つけた
逃した
見捨てた
自分を裏切った

その痛みに、私は何度も動かされてきた。

でも、最近どうしても引っかかる。
後悔が未来を作り変えるはずなのに・・・
どうして私は、
「納得」という麻酔を使って今を続けようとするのか?

後悔は未来を変える力のはず?

 

ソクラテスは言った。
「吟味されない生は、生きるに値しない」

ニーチェは言った。
「人は真理を求めない・・・安心を求めるのだ」

そして私は思う。
 

「安心したい私」が、「変わりたい私」を殺しているのかもしれない・・・と。

  私の後悔は“未来へ進め”と言う

 

私は、後悔をこう理解してきた。

後悔とは・・・
自分の行為を、自分で納得できないことから始まる。

納得できない
許せない
理解できない
飲み込めない

その“不一致”が、葛藤になり
葛藤が、自己否定になり
自己否定が、
「変わりたい」「やり直したい」という未来への意思になる。

つまり後悔は、
 

未来を作り変えるための“痛みのエネルギー”だ。

 

  なのに私は“納得”で今を続けようとする

 

おかしい・・・そう思う。

だって私は、変わりたいはずなのに。
現状に不満があるのに。
このままじゃ嫌なのに。

 

なのに、どうして
「まあこんなもんでしょ・・・」という自己流の納得
今日を延命しようとするのか?

ここにズレがある。

後悔は未来へ押し出す力なのに
納得は今へ引き戻す力になる。

 

  後悔の種類か?納得のカタチか?

 

私は思う。
もしかしたら、問題は
**後悔そのものではなく、“後悔の種類”**なのかもしれない。

未来へ押す後悔
自分を壊す後悔
責め続ける後悔
言い訳としての後悔

後悔にも、生かすものと、殺すものがある。

同じように
納得にもカタチがある。

・本音の納得
・妥協の納得
・逃避の納得
・麻酔としての納得
・責任を手放すための納得

これらを全部「納得」という言葉で包んでしまうから
自分の中が混線する。

後悔が変化のエネルギーになるのは本当だ。
でも、
納得という麻酔を打ちすぎると、その痛みが届かなくなる。

だから、未来が動かなくなる。

  言葉は“痛みを麻痺させる麻薬”なのか?

 

ここで、もうひとつの疑問が出てくる。

『人を納得させてしまう言葉の麻酔は
痛みを痛みのまま耐えるための麻薬なのか?』

 

これはとても怖い問いだ。

だって私自身・・・
言葉を書くことで
痛みを整理して
痛みを麻痺させて
痛みの形を変えながら
生き延びてきたから。

 

つまり、私は
痛みを鎮めるために言葉を使ってきたのか?
それとも
痛みから逃げるために言葉を使ってきたのか?

これは、正直まだ分からない。

 

  私は、言葉で自分に“納得の嘘”をつけるのか?

 

あなた(=私)は最後にこう問いかけている。

 

私が言葉を紡ぐのは
痛みを痛みのまま麻痺させたいだけで
言い訳で納得を目指しているからだろうか?

 

すぐに答えを出してはいけないと思う。

 

なぜなら、それは
言葉そのものの意味(存在論)に触れる問いだから。

私は思う。

言葉は「麻酔」にもなる。
でも本来は「メス」にもなる。
傷に触れるための道具にもなるし
傷を誤魔化すための布にもなる。

だから、
「どっちか」ではなく
「どっちも」なのだと思う。

  疑問は疑問のまま

 

最後に、このままにしておきたい言葉がある。

後悔は未来を作り変える
納得は今を守ろうとする

なら、私はどちらに立っているんだろう?

後悔を燃料にしたいのか
納得の麻酔で眠りたいのか
言葉で未来を変えたいのか
言葉で痛みを隠したいのか

 

今は、分からない。
分からないままでいい。
この「分からない」が、今日の私の答えだから。

変化にはリスクがある・・・
変わらないことにもリスクがある・・・


分かってるのに、私たちはなぜか「他人のリスク」にだけ敏感で、「自分のリスク」には妙に鈍い・・・
そうやって、誰かを笑い、誰かに笑われ、最後に自分を笑う・・・


そんな世界で今日も生きてる・・・

 

「他人を見ている時間を、全部自分の為に使える人」なんてほぼ存在しない。
だからせめて、自分の為に使う割合を・・・少しずつ増やしていけばいい。

変化には常にリスクが伴う。

それは、今までの安定や安心と違う環境になる可能性があるからだ。

 

転職・引っ越し・離別、大きなリスクを感じるだろう。

入学・資格取得・婚姻、大きな可能性を感じるだろう。

 

しかし、それはどちらも同じカードの表と裏。

人はリスクを恐れ、メリットを望む。

 

別に人の考えを否定する必要は無いだろうが・・・

それでも人を見下し、嘲笑い、自分と違う価値観の人を否定したい。

 

だって、負けたくないから。誰かより優位に立ちたくて、勝ちたくて、強者でいたいから。

  ■恋愛:別れたら「見る目ない」、続いたら「都合のいい人」

 

恋愛ってほんと分かりやすい・・・
別れた人に対しては「ほら見たことか」って言い、
続いてるカップルには「それって妥協じゃない?」って言い、


結婚したら「早まったね・・・」
離婚したら「やっぱりね・・・」

 

どっちに転んでも、結果論で刺してくる人っている・・・
でも、刺してる本人の恋愛はだいたいもう瓦礫・・・
だからこそ刺すんだろうね・・・自分の瓦礫が見えなくなるから・・・

 

  ■転職:辞めても笑われ、辞めなくても笑われる

 

転職を決めたと言えば「甘いよ・・・現実見なよ・・・」
辞めないと言えば「チャレンジ精神ないよね・・・」

昇進すれば「社畜の道へようこそ・・・」
昇進できないと「実力ないんじゃない?」

 

ねえ・・・じゃあ何を選べば正解なの・・・?

 

結局、誰かの基準で生きれば誰かが笑うし、
自分の基準で生きれば自分が不安になる・・・
ほんと、地獄の二択みたいな世界・・・

  ■起業:成功すれば嫉妬、失敗すれば嘲笑

 

起業の世界はもっとシンプルで残酷・・・
成功したら
「たまたまだよ・・・運が良かっただけ・・・」

失敗したら
「ほら言ったじゃん・・・無理だと思ってた・・・」

成功も嫉妬で笑い、失敗は都合よく笑う・・・


でも実際に起業する人なんて、笑ってる人の1%もいない・・・
リスクを背負わない人ほど、リスクを語るのが得意になる・・・


これ、もう人間の仕様なのかもしれないね・・・

 

  ■引っ越し:変わる勇気より、変わらない安心

 

引っ越すと言うと、
「え、そこ治安悪くない?」
「家賃高すぎじゃない?」
「前のとこで良かったじゃん・・・」

 

引っ越さないと言うと、
「同じ場所に居続けるの怖くない?」
「人生停滞しちゃうよ・・・?」

 

変化すれば不安を煽られ、
変化しなければ焦りを煽られる・・・
どっちにしても煽られる世界って、何なんだろうね・・・

 

  ■投資:買えば下がり、売れば上がり、結果論が一番強い

 

投資の世界はもっと露骨・・・


株を買えば「高値掴み乙・・・」
売れば「もったいない・・・上がったのに・・・」
放置していれば「勉強不足・・・」

 

結果が出てからは誰でも予言者になれる・・・
だから安心して人を笑える・・・


でも、一番損してるのは
「行動しない理由を笑いで正当化してる人」だと私は思う・・・

 

  ■そして、人は結局 自分を笑う

 

人は他人を笑うけれど・・・
本当に見ているのは、他人の人生じゃなくて
自分の不安と過去なんだよね・・・

  • あの時の選択ミス・・・

  • あの時の我慢・・・

  • あの時の臆病・・・

  • あの時の無駄な努力・・・

全部、自分で抱えてきたからこそ
他人を見るたびに
「あの時の自分」を思い出してしまう・・・

 

だから、人を笑う。
自分を守るために・・・
自分を正当化するために・・・
そして「自分が一番怖い」から・・・

  変わることや変わらないことを選ぶより、笑いたいだけ

 

変化を笑う人も、変化しない人を笑う人も、
どちらも結局は
「自分の不安と過去を見たくないだけ」なんだと思う・・・

 

アホは暇になるとろくなことしない・・・


ほんとそう・・・

暇になると
他人を観察して、比較して、批判して、分析して、
自分の人生の時間を丸ごと“他人の人生”に持っていかれる・・・

 

その時間・・・
誰かを笑うためじゃなくて
自分を護るために使えたら良いのに・・・

 

変わってもいいし、変わらなくてもいい・・・
ただ、自分の時間くらい自分のものにしたいよね・・・

アーレントの「ナタリティ」は**他者や公共に依存する“窮屈な自由”に見えた。
けれど日々のブログで「楽しいは作れる」と書きながら——

自分一人の趣味を、誰かに語る/見せることで、同じ行動が別の意味で“始まり直す”**瞬間を体感した。

ここで見えたのは、承認を乞う話ではなく、「現れる」ことで行為が立ち上がるという構造そのものだった。

 

「ナタリティ」

 

  ■ナタリティとは何か?

「人間は生まれたから、新しい“始まり”になれる。」

誕生(birth)は単に命が生まれる出来事ではなく、
「この世界に、新しい行為の可能性が現れた」
という意味だと説明する。

人が生まれたこと=世界に“今までなかった始まり”が追加されたこと。

  ■なぜ「始まり」が大事なのか?

 

アーレントにとって自由とは、

「誰も予測できないことを、世界の中で始められる力」

のこと。

人間だけが、これまでの因果の流れをそのまま続けるのではなく、
“流れを横切って何かを始める” ことができる。

その能力の根っこが ナタリティ=誕生性

 

  ■始まりは「他者とのあいだ」でしか成立しない

ここが最も誤解されやすいポイント。

アーレントの言う「始まり」は、世界に“現れた”時点で始まりになる。

つまり・・・

  • 人が見ている

  • 誰かに伝わる

  • 世界のどこかに「その出来事があった」と残る

この “可視性・認識されること” があって初めて、行為は「始まった」と言える。

ただし、これは「承認されること」とは違う。

必要なのは『見られる場』であって、好かれることでも、歓迎されることでもない。

  ■公共性とは何か?

 

公共性とは、大げさな社会舞台のことではなく、

「あなたの行為が他者の目に触れ、言葉や出来事として置かれる場」

のこと。

最小単位は

「あなた+誰か一人」

それだけで「公共」になる。

  ■なぜ一人では行為が成立しないのか?

 

アーレントはこう考える。

  • ひとりで思いつくこと

  • ひとりで心の中で決めること

これはすべて “準備” にすぎない。

思考は大事だが、それは行為(始まり)が起こるための前段階

行為そのものは、他者の前に現れた瞬間 に初めて世界の出来事になる。

「現れなかった行為は、世界の中では“起こっていない”扱いになる」

これがアーレントの主張の肝。

  ■ナタリティ=「世界に入り込むこと」

アーレントにとって“生きる”とは、

世界に姿を現し、言葉と行為を通して、自分が“誰か”を示すこと。

その都度、世界に小さな「始まり」が差し込まれる。

これが彼女のナタリティの思想。

  シンプルフレーズの解説

私が最初アーレント出会って、「ナタリティ」について勉強していて、

言葉を知って色々考察している時、どうしても好きになれなかった。

 

アーレントの思想や価値観は、個人主義ではなく社会主義的で協和的。

個人の意見も発想も、1人では何一つ完結出来ず、自分以外の他人が居て初めて生まれて、認められて、意味と価値が作られるっていうニュアンスだった。

だから、世間から批判されるような思想や趣味趣向は生まれないし、生まれてはいけないって言う立ち位置での思想に見えた。

公共性と他者性を重視する価値観は、公で自分以外の誰かと共有出来て初めて生まれるって言っていた。

それは、生まれただけでは意味がなく、生まれたことを誰かに伝えて、周囲が認めて初めて認識されるっていう考え方で、私の持っている価値観とは合わないと感じた。

私の価値観は、他人の承認や公での周知を必要とせず、

自分が居て、自分で自分を認識して感じられたらそれで十分意味と価値があるっていうスタンスだ。

 

そこに、他人が居ないと、公共でないとダメだって言われているみたいで不満がたまったんだ。

 

ただ、それがある時一変した。

私は日記感覚でブログを毎日書いている。

その日の感情や出来事を元にしたり、気になった言葉を綴りながら考察を入れて、自分なりの価値観で表現した文章だ。

 

毎日の繰り返しの中で、正直単調な作業になっていたのは否めない。

 

ある日のブログを書いている時の内容が「楽しいは作れる」

何気ない日常を自分なりに演出することで、特別な日に出来て、楽しい時間や素敵な時間に出来る!っていう内容だ。

このブログを書いている時に、ふと・・・アーレントのナタリティを思い出す。

新しく生まれる事から、自由や人間の可能性を表現しようとした言葉だ。

最初の私にはなかった発想が、ブログを書いている時に生まれる・・・

 

他人に伝えるカタチ

公共での発言のカタチ

 

当初の私はそこに、他人の承認や共感って言うことを前提に感じていて、面白みがなく自由が無いと思っていたんだ。

でも、見方を変えることが出来た。

それは、必ずしも共感も承認も必要としないって言う見方で、

他人の反応を無視することで実現可能なんじゃないか?っていう可能性。

 

ようは、無理やり誰かに聞かせて、公共の場で堂々と発言してしまえばいいって言うことだ。

 

隣の人が「苦笑い」して、周囲が「・・・」となっていても関係ない。

私はこれをやる!私はこれが好きだ!私はこれが良くて、私にはこれが正しいと思う!

っていう、個人の価値観の宣言でも、意思表示でも、行動の目的明示でも良い

 

image

 

例えば、私が神社に行くのが好きだ。

それだけなら、ただの日常で、ありふれた休日の過ごし方でしかない。

でもそこに、会社の同僚に延々と今度の休みに神社に行くんだ!って言って

神社の良さを無理くり聞かせて、同僚をげんなりさせる。

そりゃ~同僚からしたら「興味ねーよ」だろう。

でも、私はこの行動宣言で、いつどこに行くのか?どうやって行くのか?行って、何をして、何を見て、何を食べて、ついでに観光もしてって、計画のクオリティを上げることが出来るようになる。

ただ、1人で行くだけなら特に「映え」も気にしないだろうし、土産話になるようなことも考えないだろう。

だが、誰かに言うことによって、行動の意味や価値を追加する。

「映え」も盛るし、「土産話し」も盛る。なんなら、ブログに乗せられるように写真も撮るし、迷子になった逸話も載せてやる。

誰かに言う・誰かに見せられるようにするって言う行為が、

神社に行って来るだけの趣味の時間が、特別なアドベンチャーになる。

これこそ、他人を強制的に巻き込んだナタリティで、新しい意味と価値の創造だ!

私達は、自分の意思と行動で、今までになかった「意味と価値」をナタリティ出来る!

ナタリティは直訳すると「生の始まり」らしい、言い方が難しい。

 

誕生って言うことだろ?

 

だったら、私の感じているナタリティは命だけのことじゃない!

生まれるモノの善悪や善し悪しは正直関係ない。他人や公共が善を求めるから、生まれるものが善って言う認識なるだろうが、それは些細なコト。

重要なのは、生まれた事実だ!他人を無理やり巻き込むことで、アーレントのナタリティは実現可能なんだ!

 

それは、私達が今まで当たり前だと思っている事や、つまらない・面白く無いって思っているコト、無意味や無駄だと思っているコトでも、自分の演出次第で最高のイベントに出来る。

仮に、自身に意味がないって思ってたり、価値が無いって思っている人が居たとしても、

これからの演出次第で、いくらでも新しい価値も意味も持たせることが出来るって言う最高の言葉だと、私はやっとわかった。

 

とりあえず・・・隣の人か知り合いを無理やり巻き込んじゃえ!

そしたら世界は変わるから!

                                                          

ナタリティとは価値観そのものを自分の手で創造する行為

🍁【今年2度目】紅葉狩り in 夜の森

ライトアップされた木々が本気出してきた件について。

今年二回目の紅葉狩り。
そう、二回目です。
一回で終わるわけないでしょ、秋よ。あなた魅力ありすぎなのよ。

そして今回……
夜のライトアップ。
もうね、紅葉界の"ライブツアー千秋楽"みたいな仕上がり。

 

いや・・・もうね、夜よ?本番は?ライトアップのために夜ってあるの!多分ね・・・



  🌙森の中に吸い込まれる

最初の一歩で思った。

「あれ?私、異世界転生した?」

 

ライトに照らされる木々が全部キラッキラ。
枝一本一本が舞台に立ってる。
主役争いが激しい。
オーディションでもあるの?ってくらい全員輝いてる。

 

もうね、この山奥にこんなに人いた?って言うくらいの異世界感・・・

紅葉を見る前に、屋台と露店でワチャワチャ



  🔥この木…やる気がすごい

木々たちは昼間と人格が違う。
昼:穏やかで優しいお母さん
夜:突然スパンコール衣装着てくるタイプの母

もうね、誰がこんな美人に育てたの?ってレベル。

 

待て待て・・・どっちもお母さんなのなんで?

でも、包み込まれる世界観はきっと・・たぶん・・・包容力的な?

 

ちょっと斜めに生えてる木なんて、ライト浴びた瞬間
「私、今日イケてる?」
って言ってるように見える。
可愛い。

 

マジでイケてます!最高です!


  🍁オレンジの森、火の海みたい

オレンジに染まったエリアは完全にボス戦。
「ここが最終ステージです」
って言われても信じる。

 

地面まで光が反射して、明るすぎて
森なのに夜じゃない。


だれか電気代払ってる?大丈夫?

寒い夜には豚汁とラーメンとうどんと蕎麦と・・・・



  🕯竹灯りゾーン、センス爆発

最後に現れた竹灯り。
これ……
「インスタのために作りました?」
ってぐらい映える。

 

切り抜かれた紅葉の形から、ほわ〜っと光が漏れて
足元も綺麗すぎて歩き方が急にモデル歩きになる。
(誰も見てないのに気取ってしまうやつ)

 

問題は、私の撮影技術・・・どうしてもっと・・こう・・・なんていうかさ?あれよ・・・



  😆今年一番、テンション上がった

色づき、光、雰囲気、全部が“ちょうどいい”。
夜風もちょうど良くて、髪がいい感じに揺れる。
「今年もう一回行く?」
って自分に聞いたら、
「行くに決まってるじゃん!」
って返ってきた。

 

夜紅葉って、感動半分・テンション半分・謎のハイ20%。
とにかく最高でした。

 

問題は渋滞と返い道の「帰りたくない!」感。

私の場合は、1人で・・・自転車で・・・寒空の下・・・孤独と、暗闇の恐怖と、まぁなんやいろいろ。



🍁今日のひとこと

「ライトアップは裏切らない。」
むしろ仕上がってくる。

また行くね、秋。
まだ帰らないで、秋。

 

ギャンブルに走るのは、期待値って言う願望と欲求の答え

「ワンチャン」「当たるかも?」「もしかしたら」「きっと」

そんな言葉を胸にいつも人は・・・宝くじ売り場に並んでしまう。

 

そう!もうすぐ時代は年末ジャンボ!

買うのか?って聞かれたら、多分・・・買わないと思う。

 

私は運が悪いから・・・多分きっと、私に運ゲーは向いてない。

私は感情で生きる人間だから。

 

期待値と感情のバランスなんて最初から見つからない

期待値って結局確率論で、可能性で、理性的な思考の結果の言い訳

 

期待するって言うのは、自分以外の何かに自分の運命を任せてしまうような行為だと、私は感じている。

是非を言うつもりはない。

 

人に期待するのは必然だろう。

誰かの言葉に期待して、評価に期待して、感想を期待する。

至極当然の人間らしい、人間の思考パターン。

 

誰かに期待することと同じように、自分の未来の可能性にも期待する。

そして、期待値を測定するために確立や%を使って、数字として意味を作り出す。

 

パチンコの大当たり確率があるように、人生の未来すらも数字にして判断しようとする。

それは、“損を最小化する”生き方だ。
感情を排し、データと確率に基づいて、「一番うまくいく選択」を選び続ける。

 

数学的に、人生を「確率論」として見てしまう。

一見とても理性的で合理的に見える。しかし・・・面白さがないようにも感じてしまう。

例えば・・・

「この人と付き合っても、別れる確率は60%。」
「結婚しても、離婚率は30%。」

そう考えた瞬間、恋は“再現性のない実験”に変わる。


そして、いつの間にか「心」より「結果」を優先するようになる。

 

アリストテレスは言った。

「理性とは、欲望を導くための道具である。」

でも、現代では逆だ。
“理性が感情を制御すること”が正しいとされている。
それはつまり、感情を「ノイズ」として扱っているということだ。

 

 

  感情で生きるということ

私は感情で判断するタイプの人間だ。

合理的判断はあまり得意じゃない。

理性なんて、私からしたら「言い訳製造機」だ。

 

欲望があって、感情が生まれて、行動に繋がって、それの合理性と正当性を後から整えるのが理性だと思っている。

要するに、理性が先行して行動を主導するのは、人じゃなくプログラムされて社会と周囲の調和と合意に認められた機械と同じだろうと感じてる。

 

って、どれだけ私の理性的な理性の批判を並べても、

『感情で動く人は、合理的じゃない』

と、言われてるのが実際のところだ。

悲しいかな・・・感情で生きて何が悪いんだろうか?

 

【好きだからやる。ムカつくからやめる。泣けるから続ける。】

 

とても人間らしくて、素敵な感情と行動の一致じゃないだろうか?

そこには『生きている実感』があるって言えないかな?

 

そこに期待値はない。
あるのは、“自分の声”だけだ。

ただし、感情は強い燃料でもあり、毒でもある。
情熱が続けば輝き、途切れれば燃え尽きる。
「好き」を信じた者ほど、壊れたときの反動も大きい。ものすごく大きい。それはもう・・・破綻するほどに・・・

 

ニーチェは言った。

「感情を抑えるな。制御できないのは、抑圧された感情だ。」

つまり、“感じないふり”をする人ほど危険なのだ。


理性で押さえ込んだ感情は、
ある日、理性を喰い破って顔を出す。
それが鬱であり、過食であり、突然の涙である。

  ■期待値と理性で生きていきたいって思うこともあったり無かったり・・・

 

期待値とは、数学的に未来を測る行為の結果の良い方にベットするコト。

良いと思っている?

結果が良くなる方?

何が良いのか?それは、きっと自分が望む形になるか?どうか?と言うことだろう。

 

自分の望みに近くなること・・・・・・

きっと凄まじいカオス理論とバタフライ効果で計算しているんだろう。

私にはどうやって計算して未来に期待値を持ってくるのか分からない・・・。

私の頭が弱いからかな?

 

世間的には、期待値が数字になっているだけで正当性を持ってしまう。

そして、正当性は合理的で多数派で甘美で魅力的だから・・・

 

正当性を持って生きている人は、理性的な人に見える。

理性的で理知的な人。誰もが目指して憧れて魅力的に見える人。

 

理性を持って生きたいと誰もが願う。

感情をコントロールして、人に見せず悟られず常に平静な人。

欲望を支配して、欲のない人を演じて、欲深さを消して、嫉妬も妬みも持たないかのように振舞う。

 

そうなれたらすごく素敵だね。

感情を持たないかのような、冷静で平静でクールな人で、

欲が無いように、皆に平等で謙虚で仏のような人。

 

感情に振り回されて、欲望に忠実に生きるより、どんなに魅力的で素敵な人になるだろうか・・・

でもさ、実際は感情も欲望も簡単にどうこうできることないんだよ。

 

少なくとも私は、感情のままに選んで生きていくことの魅力を届けたいと思っている。

欲望の必要性と、生きるための燃料になり熱意に繋がる可能性を届けたいと思っている。

 

  理性と感情の間にあるモノ

多くの人が・・・“理性か感情か”で揺れている。


でもさ・・・本当は、どちらも生きるために必要だと思うんだ。

感情や欲望は未来に繋がる力を持っていて、理性は今を整えてくれる。

理性は正しさを見出してくれるけど、感情が無ければ嬉しいも悲しいも見付けられず、欲望が無ければ幸せを感じられない。

 

カミュは『シーシュポスの神話』でこう言っている。

「不条理の世界で生きるとは、希望を持たずに、それでも前へ進むことだ。」

 

つまり、
「報われる保証がなくても、歩みを止めない」こと。
それは理性でも感情でもない、“意志”の領域だ。

期待値を信じても、感情を信じても、
どちらも裏切ることがある。
それでも生きていくのは、
私たちが“矛盾の中でしか存在できない”生き物で、

矛盾を抱えてでしか、生きられない生き物だから。

ただね・・・希望は持ちたいし、世界が不条理なのが何より悲しい事実なんだけどね。

だから、損もしたくないし、負けたくないし、不利になりたくないけど、勝ちたいし、得をしたいし、有利になりたいんだ。

 

  人は、計算できない生き物?少なくとも私は、計算では生きられない生き物。

「損をしたくない」という理性と、
「それでもやりたい」という感情。

 

この2つの板挟みの中で、
人間は“合理的に不合理な”選択を繰り返している。

 

どんなに期待値を計算しても、

恋に落ちる瞬間は0か100しかない。


どんなに理性で抑えようとしても、
涙が出るときは出る。

 

そう・・・人間は、統計に従わない。
それが、不完全であるからの魅力で感情で生きることの証明なんじゃないかな?

損はね、私だってしたくないさ、儲けたいし利益を出したいし、勝ちたいし有利になりたい。

でも、損も不利益も不条理があったとしても、後悔に繋がったとしても・・・

それでも私は・・・計算で生きるより、笑って幸せを求めて感じられる生きるを選びたいからね。