ギャンブルに走るのは、期待値って言う願望と欲求の答え

「ワンチャン」「当たるかも?」「もしかしたら」「きっと」

そんな言葉を胸にいつも人は・・・宝くじ売り場に並んでしまう。

 

そう!もうすぐ時代は年末ジャンボ!

買うのか?って聞かれたら、多分・・・買わないと思う。

 

私は運が悪いから・・・多分きっと、私に運ゲーは向いてない。

私は感情で生きる人間だから。

 

期待値と感情のバランスなんて最初から見つからない

期待値って結局確率論で、可能性で、理性的な思考の結果の言い訳

 

期待するって言うのは、自分以外の何かに自分の運命を任せてしまうような行為だと、私は感じている。

是非を言うつもりはない。

 

人に期待するのは必然だろう。

誰かの言葉に期待して、評価に期待して、感想を期待する。

至極当然の人間らしい、人間の思考パターン。

 

誰かに期待することと同じように、自分の未来の可能性にも期待する。

そして、期待値を測定するために確立や%を使って、数字として意味を作り出す。

 

パチンコの大当たり確率があるように、人生の未来すらも数字にして判断しようとする。

それは、“損を最小化する”生き方だ。
感情を排し、データと確率に基づいて、「一番うまくいく選択」を選び続ける。

 

数学的に、人生を「確率論」として見てしまう。

一見とても理性的で合理的に見える。しかし・・・面白さがないようにも感じてしまう。

例えば・・・

「この人と付き合っても、別れる確率は60%。」
「結婚しても、離婚率は30%。」

そう考えた瞬間、恋は“再現性のない実験”に変わる。


そして、いつの間にか「心」より「結果」を優先するようになる。

 

アリストテレスは言った。

「理性とは、欲望を導くための道具である。」

でも、現代では逆だ。
“理性が感情を制御すること”が正しいとされている。
それはつまり、感情を「ノイズ」として扱っているということだ。

 

 

  感情で生きるということ

私は感情で判断するタイプの人間だ。

合理的判断はあまり得意じゃない。

理性なんて、私からしたら「言い訳製造機」だ。

 

欲望があって、感情が生まれて、行動に繋がって、それの合理性と正当性を後から整えるのが理性だと思っている。

要するに、理性が先行して行動を主導するのは、人じゃなくプログラムされて社会と周囲の調和と合意に認められた機械と同じだろうと感じてる。

 

って、どれだけ私の理性的な理性の批判を並べても、

『感情で動く人は、合理的じゃない』

と、言われてるのが実際のところだ。

悲しいかな・・・感情で生きて何が悪いんだろうか?

 

【好きだからやる。ムカつくからやめる。泣けるから続ける。】

 

とても人間らしくて、素敵な感情と行動の一致じゃないだろうか?

そこには『生きている実感』があるって言えないかな?

 

そこに期待値はない。
あるのは、“自分の声”だけだ。

ただし、感情は強い燃料でもあり、毒でもある。
情熱が続けば輝き、途切れれば燃え尽きる。
「好き」を信じた者ほど、壊れたときの反動も大きい。ものすごく大きい。それはもう・・・破綻するほどに・・・

 

ニーチェは言った。

「感情を抑えるな。制御できないのは、抑圧された感情だ。」

つまり、“感じないふり”をする人ほど危険なのだ。


理性で押さえ込んだ感情は、
ある日、理性を喰い破って顔を出す。
それが鬱であり、過食であり、突然の涙である。

  ■期待値と理性で生きていきたいって思うこともあったり無かったり・・・

 

期待値とは、数学的に未来を測る行為の結果の良い方にベットするコト。

良いと思っている?

結果が良くなる方?

何が良いのか?それは、きっと自分が望む形になるか?どうか?と言うことだろう。

 

自分の望みに近くなること・・・・・・

きっと凄まじいカオス理論とバタフライ効果で計算しているんだろう。

私にはどうやって計算して未来に期待値を持ってくるのか分からない・・・。

私の頭が弱いからかな?

 

世間的には、期待値が数字になっているだけで正当性を持ってしまう。

そして、正当性は合理的で多数派で甘美で魅力的だから・・・

 

正当性を持って生きている人は、理性的な人に見える。

理性的で理知的な人。誰もが目指して憧れて魅力的に見える人。

 

理性を持って生きたいと誰もが願う。

感情をコントロールして、人に見せず悟られず常に平静な人。

欲望を支配して、欲のない人を演じて、欲深さを消して、嫉妬も妬みも持たないかのように振舞う。

 

そうなれたらすごく素敵だね。

感情を持たないかのような、冷静で平静でクールな人で、

欲が無いように、皆に平等で謙虚で仏のような人。

 

感情に振り回されて、欲望に忠実に生きるより、どんなに魅力的で素敵な人になるだろうか・・・

でもさ、実際は感情も欲望も簡単にどうこうできることないんだよ。

 

少なくとも私は、感情のままに選んで生きていくことの魅力を届けたいと思っている。

欲望の必要性と、生きるための燃料になり熱意に繋がる可能性を届けたいと思っている。

 

  理性と感情の間にあるモノ

多くの人が・・・“理性か感情か”で揺れている。


でもさ・・・本当は、どちらも生きるために必要だと思うんだ。

感情や欲望は未来に繋がる力を持っていて、理性は今を整えてくれる。

理性は正しさを見出してくれるけど、感情が無ければ嬉しいも悲しいも見付けられず、欲望が無ければ幸せを感じられない。

 

カミュは『シーシュポスの神話』でこう言っている。

「不条理の世界で生きるとは、希望を持たずに、それでも前へ進むことだ。」

 

つまり、
「報われる保証がなくても、歩みを止めない」こと。
それは理性でも感情でもない、“意志”の領域だ。

期待値を信じても、感情を信じても、
どちらも裏切ることがある。
それでも生きていくのは、
私たちが“矛盾の中でしか存在できない”生き物で、

矛盾を抱えてでしか、生きられない生き物だから。

ただね・・・希望は持ちたいし、世界が不条理なのが何より悲しい事実なんだけどね。

だから、損もしたくないし、負けたくないし、不利になりたくないけど、勝ちたいし、得をしたいし、有利になりたいんだ。

 

  人は、計算できない生き物?少なくとも私は、計算では生きられない生き物。

「損をしたくない」という理性と、
「それでもやりたい」という感情。

 

この2つの板挟みの中で、
人間は“合理的に不合理な”選択を繰り返している。

 

どんなに期待値を計算しても、

恋に落ちる瞬間は0か100しかない。


どんなに理性で抑えようとしても、
涙が出るときは出る。

 

そう・・・人間は、統計に従わない。
それが、不完全であるからの魅力で感情で生きることの証明なんじゃないかな?

損はね、私だってしたくないさ、儲けたいし利益を出したいし、勝ちたいし有利になりたい。

でも、損も不利益も不条理があったとしても、後悔に繋がったとしても・・・

それでも私は・・・計算で生きるより、笑って幸せを求めて感じられる生きるを選びたいからね。