アーレントの「ナタリティ」は**他者や公共に依存する“窮屈な自由”に見えた。
けれど日々のブログで「楽しいは作れる」と書きながら——

自分一人の趣味を、誰かに語る/見せることで、同じ行動が別の意味で“始まり直す”**瞬間を体感した。

ここで見えたのは、承認を乞う話ではなく、「現れる」ことで行為が立ち上がるという構造そのものだった。

 

「ナタリティ」

 

  ■ナタリティとは何か?

「人間は生まれたから、新しい“始まり”になれる。」

誕生(birth)は単に命が生まれる出来事ではなく、
「この世界に、新しい行為の可能性が現れた」
という意味だと説明する。

人が生まれたこと=世界に“今までなかった始まり”が追加されたこと。

  ■なぜ「始まり」が大事なのか?

 

アーレントにとって自由とは、

「誰も予測できないことを、世界の中で始められる力」

のこと。

人間だけが、これまでの因果の流れをそのまま続けるのではなく、
“流れを横切って何かを始める” ことができる。

その能力の根っこが ナタリティ=誕生性

 

  ■始まりは「他者とのあいだ」でしか成立しない

ここが最も誤解されやすいポイント。

アーレントの言う「始まり」は、世界に“現れた”時点で始まりになる。

つまり・・・

  • 人が見ている

  • 誰かに伝わる

  • 世界のどこかに「その出来事があった」と残る

この “可視性・認識されること” があって初めて、行為は「始まった」と言える。

ただし、これは「承認されること」とは違う。

必要なのは『見られる場』であって、好かれることでも、歓迎されることでもない。

  ■公共性とは何か?

 

公共性とは、大げさな社会舞台のことではなく、

「あなたの行為が他者の目に触れ、言葉や出来事として置かれる場」

のこと。

最小単位は

「あなた+誰か一人」

それだけで「公共」になる。

  ■なぜ一人では行為が成立しないのか?

 

アーレントはこう考える。

  • ひとりで思いつくこと

  • ひとりで心の中で決めること

これはすべて “準備” にすぎない。

思考は大事だが、それは行為(始まり)が起こるための前段階

行為そのものは、他者の前に現れた瞬間 に初めて世界の出来事になる。

「現れなかった行為は、世界の中では“起こっていない”扱いになる」

これがアーレントの主張の肝。

  ■ナタリティ=「世界に入り込むこと」

アーレントにとって“生きる”とは、

世界に姿を現し、言葉と行為を通して、自分が“誰か”を示すこと。

その都度、世界に小さな「始まり」が差し込まれる。

これが彼女のナタリティの思想。

  シンプルフレーズの解説

私が最初アーレント出会って、「ナタリティ」について勉強していて、

言葉を知って色々考察している時、どうしても好きになれなかった。

 

アーレントの思想や価値観は、個人主義ではなく社会主義的で協和的。

個人の意見も発想も、1人では何一つ完結出来ず、自分以外の他人が居て初めて生まれて、認められて、意味と価値が作られるっていうニュアンスだった。

だから、世間から批判されるような思想や趣味趣向は生まれないし、生まれてはいけないって言う立ち位置での思想に見えた。

公共性と他者性を重視する価値観は、公で自分以外の誰かと共有出来て初めて生まれるって言っていた。

それは、生まれただけでは意味がなく、生まれたことを誰かに伝えて、周囲が認めて初めて認識されるっていう考え方で、私の持っている価値観とは合わないと感じた。

私の価値観は、他人の承認や公での周知を必要とせず、

自分が居て、自分で自分を認識して感じられたらそれで十分意味と価値があるっていうスタンスだ。

 

そこに、他人が居ないと、公共でないとダメだって言われているみたいで不満がたまったんだ。

 

ただ、それがある時一変した。

私は日記感覚でブログを毎日書いている。

その日の感情や出来事を元にしたり、気になった言葉を綴りながら考察を入れて、自分なりの価値観で表現した文章だ。

 

毎日の繰り返しの中で、正直単調な作業になっていたのは否めない。

 

ある日のブログを書いている時の内容が「楽しいは作れる」

何気ない日常を自分なりに演出することで、特別な日に出来て、楽しい時間や素敵な時間に出来る!っていう内容だ。

このブログを書いている時に、ふと・・・アーレントのナタリティを思い出す。

新しく生まれる事から、自由や人間の可能性を表現しようとした言葉だ。

最初の私にはなかった発想が、ブログを書いている時に生まれる・・・

 

他人に伝えるカタチ

公共での発言のカタチ

 

当初の私はそこに、他人の承認や共感って言うことを前提に感じていて、面白みがなく自由が無いと思っていたんだ。

でも、見方を変えることが出来た。

それは、必ずしも共感も承認も必要としないって言う見方で、

他人の反応を無視することで実現可能なんじゃないか?っていう可能性。

 

ようは、無理やり誰かに聞かせて、公共の場で堂々と発言してしまえばいいって言うことだ。

 

隣の人が「苦笑い」して、周囲が「・・・」となっていても関係ない。

私はこれをやる!私はこれが好きだ!私はこれが良くて、私にはこれが正しいと思う!

っていう、個人の価値観の宣言でも、意思表示でも、行動の目的明示でも良い

 

image

 

例えば、私が神社に行くのが好きだ。

それだけなら、ただの日常で、ありふれた休日の過ごし方でしかない。

でもそこに、会社の同僚に延々と今度の休みに神社に行くんだ!って言って

神社の良さを無理くり聞かせて、同僚をげんなりさせる。

そりゃ~同僚からしたら「興味ねーよ」だろう。

でも、私はこの行動宣言で、いつどこに行くのか?どうやって行くのか?行って、何をして、何を見て、何を食べて、ついでに観光もしてって、計画のクオリティを上げることが出来るようになる。

ただ、1人で行くだけなら特に「映え」も気にしないだろうし、土産話になるようなことも考えないだろう。

だが、誰かに言うことによって、行動の意味や価値を追加する。

「映え」も盛るし、「土産話し」も盛る。なんなら、ブログに乗せられるように写真も撮るし、迷子になった逸話も載せてやる。

誰かに言う・誰かに見せられるようにするって言う行為が、

神社に行って来るだけの趣味の時間が、特別なアドベンチャーになる。

これこそ、他人を強制的に巻き込んだナタリティで、新しい意味と価値の創造だ!

私達は、自分の意思と行動で、今までになかった「意味と価値」をナタリティ出来る!

ナタリティは直訳すると「生の始まり」らしい、言い方が難しい。

 

誕生って言うことだろ?

 

だったら、私の感じているナタリティは命だけのことじゃない!

生まれるモノの善悪や善し悪しは正直関係ない。他人や公共が善を求めるから、生まれるものが善って言う認識なるだろうが、それは些細なコト。

重要なのは、生まれた事実だ!他人を無理やり巻き込むことで、アーレントのナタリティは実現可能なんだ!

 

それは、私達が今まで当たり前だと思っている事や、つまらない・面白く無いって思っているコト、無意味や無駄だと思っているコトでも、自分の演出次第で最高のイベントに出来る。

仮に、自身に意味がないって思ってたり、価値が無いって思っている人が居たとしても、

これからの演出次第で、いくらでも新しい価値も意味も持たせることが出来るって言う最高の言葉だと、私はやっとわかった。

 

とりあえず・・・隣の人か知り合いを無理やり巻き込んじゃえ!

そしたら世界は変わるから!

                                                          

ナタリティとは価値観そのものを自分の手で創造する行為