分かり合えないまま、一緒に生きている

 

 

人と人は、きっと
本当の意味では、分かり合えない。

 

それは冷たい結論じゃなくて・・・
むしろ、とても自然なことなんだと思う。

 

親子でも分かり合えない。
兄弟でも理解し合えない。
それぞれが生きている「世界の秩序」が、違いすぎるから。

 

親は「世間」で生きていて、
子どもは「学校」で生きている。

会社で評価される人と、
テストで評価される人。

友達との会話で共感する人と、
SNSの知らない誰かに共感する人。

アニメや映画で泣く人もいれば、
自然やニュースに心が動く人もいる。

ギャンブルが趣味な人、
投資が嫌いな人、
貯金ができない人、
無駄が嫌いな人。

晴れが好きな人もいれば、
雨で心が落ち着く人もいる。

 

・・・面白いほどに、
人は千差万別なのに。

それでも私たちは、
「理解し合おう」
「協調しよう」
「共感しよう」
って、当たり前のように言われ続ける。

助けたいと手を伸ばす人がいて、
助けてって言えないまま、
ひとりで泣いている人もいる。

分かり合えないのに、
分かろうとすることだけが美徳にされて。

すり合わせて、
辻褄を合わせて、
なんとなくそれっぽく頷いて、
愛想笑いして、
同情しているような顔をして。

 

一緒に泣くのに、
一緒には笑えない時もあって。

一緒に笑って、
誰かを泣かせてしまう時もある。

 

「価値観の違い」
って言ってしまえば簡単だけど。

その価値観をつくっているのは、
遺伝や運命や業じゃなくて、
きっと経験の違いなんだと思う。

 

誰ひとりとして、
同じ経験をして、
同じ時間を越えて、
同じ流れに乗って生きることは出来ない。

だから人は、
人を理解しようとすることは出来ても、
本当の意味で理解することは出来ない。

 

それなのに、
道徳やモラルは、いつも
「分かれ」
「分かり合え」
「共感しろ」
って、理解を強要してくる。

 

そのたびに、
納得できない経験が積み重なって、
苦しみや悲しみが増えていく。

「理解できない」という現実は、
「納得できない」という痛みに変わる。

 

親がよく言う言葉がある。

「あの子が何を考えているか分からない」

・・・当たり前じゃないだろうか。

 

むしろ
「完璧に分かる」ほうが、不自然だ。

じゃあ、この悲劇の主役は誰なんだろう。

 

理解できない人?
理解されない人?
それとも・・・

主役がいないのに、
無理やり悪役だけを作ろうとしている社会なのか。

「分かり合えなさを否定するから苦しむ」

 

だったらもう、
最初から孤独に生きたらいいのにって、
私は思ってしまう。

 

みんなと同じじゃなくていい。
分かり合えなくてもいい。
無理に交わらなくてもいい。

 

それでも、ここにいる。
それだけで、もう十分なんじゃないかって。

分かり合えないことは、
冷たさじゃない。

それはただ、
それぞれが、ちゃんと違う世界を生きている証拠なんだと思う。

 

 シンプルフレーズ

分かり合えないのは、壊れているからじゃない。
それぞれが、違う世界を生きているだけ。

「分かり合えないのに、分かろうとすることだけが美徳にされている」

これが一番の苦しみと悲しみの原因なんだよ。きっとね・・・