大人になるって、何だろう。

 

責任?
成功?
気配り?
我慢?

 

気づけば私たちは、そんな条件ばかり並べるようになる。


そしていつの間にか、「出来る?」じゃなくて、
「無理じゃない?」
「大変でしょ?」
「失敗するよ?」
って言葉を先に口にしてしまう。

 

でもさ・・・
それって、本当に“大人になった”ってことなのかな。

 

子供の頃って、
「楽しそう!」
「面白そう!」
「気になる!」
「やってみたい!」
 

そんな感情だけで、世界に飛び込んでた。

遊びって、失敗しても、間違えても、出来なくても、
笑えて、やり直せて、「もう一回!」って言える場所だった。

 

それが、遊び心なんだと思う。



なのに今はどうだろう。
子供や友人や部下に対して、
不安ばかり与える大人が増えていないだろうか。

「出来ない理由」
「リスク」
「効率」
「採算」

 

そればかり見つめて、
「大丈夫!」
「出来るよ!」
「何とかなる!」
「それも楽しいよね!」
って言葉を、使えなくなってしまっている。

 

私は、それがすごく悲しい。

 

大人になるって、
遊び心を捨てることじゃないはずなのに。

子供に「楽しみ方」を見せられない大人は、
人生の良さを、伝えられない大人だと思う。

そんな大人の価値を、私は見いだせない。

それでも・・・
時間は確実に、私の体と心を変えていく。

どれだけ運動しても、
どれだけ筋トレしても、
思考の柔軟さを保とうとしても、
「余裕」が少しずつ減っていくのが分かる。

 

多彩な経験は、確かに私の糧になる。


だけど同時に、
多彩な経験は、私の重りにも、枷にもなる。

 

遊び心を忘れたくない。
挑戦も、失敗も、怖がらないつもりでいる。

 



それでも・・・
リスクを、見てしまう。

なぜなら、
やり直せるだけの時間と体力を、
もう無限には持てないから。

今からゼロから始めるほどの強さを、
私はもう持てないかもしれないから。

 

それが、怖い。

 

人を許せる余裕が増えていく分、
自分を許せない時間が、少しずつ減っていく。

それは、悲しくはないけれど・・・
正直に言えば、少し、寂しい。

 

人生の正解は、いつも後からやってくる。

 

終わった時にどうなっているか。
どうなっていたいか。
自分の望んだ形になっているか。

きっとどれも、大事だ。

 

人を育てることも、同じだと思う。


自分では最善だと信じて選んできて、
周囲から見ても正しく見えて、
社会的にも正解に見えても・・・

結局、「どう育ったと感じるか」は、
育てられた側にしか分からない。

 

それは、
育てる側には、決して測れない“結果の正解”なんだと思う。

 

だからこそ先人は、
楽しさも、面白さも、
厳しさも、辛さも、
全部知った上で、ただ見せていくしかなかったんだろう。

 

「やって見せ、言って聞かせて、
させてみて、褒めてやらねば、人は育たず。」

 

そして最後は・・・
「任せてやらねば」なんだ。

 

遊び心って、
若さでも、体力でもない。

未来を信じる力で、
もう一度やってみようって思える心だ。

 

だから私は、
余裕を失いながらでも、
怖さを抱えながらでも、
今日も小さく、遊び心を選び続けたい。

 



それが、
“大人として生きる”ってことなんじゃないかなって、
今の私は、そう思っている。