前回は、「自分の機嫌は、自分で取る」というお話を書きました。
でも、そう簡単に機嫌なんて取れない夜もある。
どうしようもなく、孤独に飲み込まれてしまう夜もある。
今回は、そんな「孤独」と「被害者意識」について、少し深く考えてみました。
孤独は、あなたのせいじゃない・・・それでも私たちは「選んで」生きている
孤独って、なくせるものなんだろうか。忘れられない過去があるように、
消せない感情があるように、
孤独もまた、きっと生きてきた証みたいなものなんだと思う。
誰だって、好きで孤独になるわけじゃない。
好きで被害者になる人なんて、きっといない。
それでも気づけば、
「誰にも分かってもらえない場所」に
立ち尽くしてしまう夜がある。
【孤独は「一人でいること」じゃない】
一人でいること=孤独、じゃない。
人に囲まれていても、誰かと話していても、
ふと心だけが取り残される瞬間がある。
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話を聞いてもらえない
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何を言っても否定される
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頑張っても当たり前に流される
そんな日が続くと、人は少しずつ、こう思ってしまう。
「私って、ここに居なくても同じなんじゃないか」
「居ない方が、楽なんじゃないか」
これが、孤独の始まりなんだと思う。
人は、知らないうちに“被害者”になってしまう
最初から「私は被害者だ」なんて思って生きている人はいない。
でも――
何度も否定されて、
何度も分かってもらえなくて、
何度も我慢を重ねているうちに、
人は少しずつ、
「私は弱い側なんだ」
「私は守られない側なんだ」
そう思い込むようになってしまう。
職場で理不尽な扱いを受けても
声を上げられない。
家庭で雑に扱われても
「自分が悪いんだ」と飲み込んでしまう。
気づいた時には、
被害者になった“つもり”じゃなく、
被害者として“生きる癖”がついている。
孤独が続くと、世界まで否定してしまう
理解されない。
助けてもらえない。
誰も味方がいないように感じる。
そんな状態が続くと、自己否定と一緒に、
周囲や世界までも否定してしまう。
「どうせ、誰も私のことなんて考えてない」
「この世界は冷たい」
「優しい人なんていない」
そして人は、知らないうちに
“被害者”と“加害者”の物語を作り始める。
誰が悪いのか。
誰のせいなのか。
そうやって理由を作らないと、
苦しさに耐えられないから。
それは「孤独」じゃなく、承認が足りないだけの時もある】
今の苦しさは、
本当に“孤独”なんだろうか。
それとも――
「もっと見てほしい」
「ちゃんと認めてほしい」
その承認欲求が満たされていないだけなんだろうか。
認めてもらえない苦しさは、
確かに孤独とよく似ている。
だから人は、
「私は可哀想なんだ」
「私は被害者なんだ」
そう思うことで、必死に自分を守ろうとする。
それは弱さじゃなくて、壊れないための、防衛なんだと思う。
それでも現実には、本当の被害がある
現実には、
本当に傷つけられた人もいる。
逃げられなかった人もいる。
声を上げられなかった人もいる。
だから、
「全部あなたの考えすぎ」なんて、
そんな乱暴なことは言えない。
ただひとつ言えるのは――
被害者意識もまた、
“生き残るための鎧”だったということ。
孤独は、捨てられない
孤独は消せない。
疑う気持ちも、
不安も、
過去の影も、
たぶん完全には消えない。
一度芽生えた疑心暗鬼は、
新しい何かを手に入れても、
ふとした瞬間に顔を出す。
だから私は思う。
孤独は、捨てるものじゃない。
ただ、「どう持つか」を選び直すもの。
捨てるのではなく、「選ぶ」という生き方
捨てなくていい。
無理に手放さなくていい。
ただ、
持てる分だけを、自分で選ぶ。
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大切な想い
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必要なつながり
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今の自分を支えてくれるもの
全部を抱えなくていい。
人は両手に持てる分しか、そもそも持てない。
【本当は、被害者でいたいわけじゃない】
本当はきっと、こう思っている。
「ずっと被害者のままじゃいたくない」
「孤独に振り回されずに生きたい」
だからこそ必要なのは、
「私は、どうなりたい?」
その問いを、自分に向け直すことなんだと思う。
不安と心配は、
たいてい人の言葉からやってくる。
「無理だよ」
「やめた方がいいよ」
でも――
大切なものが定まった瞬間、人は不安よりも、
「守りたい」「生きたい」「やりたい」という欲望で動き出す。
捨てられない孤独と、生きていく
孤独は、あなたのせいじゃない。
被害者になってしまうのも、
弱さじゃなくて、生き延びるための形だった。
それでも・・・これから何を持つかは、選べる。
捨てなくていい。
ただ、選べばいい。
今日、
何を大切にするか。
何にフォーカスするか。
それだけで、人はほんの少しずつ、
被害者の物語の外へ、歩いていけるのかもしれない。





