人生って、長いようで短い。
そして不思議なことに、一本の物語みたいに、いくつもの章でできている。

章ごとに、始まりがあって、終わりがある。
その区切りには、必ず“温度”がある。

あなたの物語、私のゴミ、そして「最高」の終止符。

人生という短くて長い、あるいは長すぎて退屈な一冊の本。 

そこには、自分でも読み返したくないページもあれば、何度も指でなぞってしまう一節もありますよね。

 

  ページをめくれば、光と影のストロボ。

 

学生時代、喉が焼けるような部活の達成感や、鼻高々だったテストの成績。 

…かと思えば、次のページには「いじめ」という、インクをぶちまけたような真っ黒な記憶。

 

社会に出れば、「あなたが必要だ」という甘美な言葉と、 

「これっぽっちの給料?」という冷めた待遇の間で、心は激しく振り子のように揺れ動く。

 

光が強ければ強いほど、影は濃くなる。 そんな当たり前の残酷さを、私たちはこの物語の読者として、嫌というほど味わわされてきました。

 

どれも、ひとつひとつが章。
時間の区切り。
始まりと終わり。

人生は、そういう「小さな物語」を積み重ねてできている。

  「意味のない時間」という名の、輝く余白。

一つ一つの章を切り取ったら、
「良かった」と思えるものもあるし、
「最悪だった」としか思えないものもある。

 

でも、本当に血肉になっているのって、実は「ストーリーの本筋」とは関係ない余白だったりしませんか?

  • 旅先で目にした、名もなき景色のグラデーション。

  • 居酒屋で、名前も知らない隣の人と交わした、内容のない会話。

  • 道に迷って途方に暮れ、スマホが圏外になった瞬間の、あの圧倒的な孤独。

効率を求める大人たちからすれば「時間の無駄」であり、「迷子」や「圏外」なんてただのトラブル。

でも、その「予定調和の崩壊」こそが、物語を瑞々しく彩る最高の伏線なのです。

 

つまり、人生の章は、いつも単純に色分けできない。

“良い/悪い”で終わらないものが、確かにある。

  私の宝物は、誰かのゴミ。

 

ここで、一つだけ覚悟しておかなければならない「絶望的な真実」があります。

あなたが「あぁ、あれは最高の宝物だ」と大切に抱えているその記憶。 

 

他の誰かにとっては、ただのゴミにしか見えないかもしれない。 

「あれ、何が楽しいの?」
「そんなの時間の無駄じゃない?」
「そんな思い出、思い出すだけ苦しくない?」

そう言われることもある。

それどころか、一緒にその道を歩いた人にとっては、二度と思い出したくない「後悔」や「苦い記憶」かもしれない。

 

でも、それでいいのです。

 いえ、それが「人生」というものの、最高にシニカルで明るい本質なのですから。

他人の評価という物差しで測れるものを、私たちは「宝物」とは呼びません。

 

同じ章を生きたのに、
同じ出来事を見たのに、
感じ方は違う。 

 

「誰に何と言われようと、私にとっては宝石だった」 そう言い切れる強情さこそが、私たちの魂の形なんです。

 

宝物って、本来そういうものだと思うから。

  最後のページに、一筆。

 

どんなに惨めな章があっても。 どんなに救いようのない展開が続いても。

最後のページを閉じる瞬間、 「あぁ、楽しかった!」 と、誰にともなく独りごちること。

自分がやりたいことをやり、自分で見つけたものだけを信じてきた。 

“自分の思いでやった時”にだけ、身体の奥から湧いてくる実感なんだと思う。

 

その実感を、誰かに「私は楽しかったよ」と伝えて、筆を置く。

 

評価されなくてもいい。
誰かの正解じゃなくてもいい。
他人にとってゴミに見えてもいい。

少なくとも私は、自分の物語の最後に、言いたい。

「あぁ楽しかった」

って。

 

そして、できれば誰かに言いたい。
「私は楽しかったよ」って。

それは自慢じゃなくて、生きた証として。

それ以上に素晴らしいエンディングなんて、この世に存在するのでしょうか?

  ……からの?

「宝物は、誰かの理解じゃなく、自分の実感で決まる。」

 

さて、あなたの「人生という物語」

今まさに書き進めているその一文は、「楽しさ」という名のインクで書かれていますか?

それとも、「他人のための脚注」で埋め尽くされていますか?

 

もし後者なら、今すぐそのページを破り捨てて。 

圏外の道端で、スマホをポケットにしまい、 あえて「迷子」を楽しんでみるのも、悪くないかもしれませんよ。

 

次は、その「迷子になった自分」を、どんなタイトルで目次に書き込むか、考えてみましょうか。

「あなたが物語の次の章に、こっそり仕込みたい『無駄な冒険』は何ですか?」