「見て。あれが未来の君たちの姿だよ」
そんな言葉、誰も言わない。
でも、言うべきなのかもしれない。
子どもに夢を見せるなら、大人がもっと目を覚ませ
社会科見学でやって来た子どもたちを、自動車工場の片隅から見ながら、ふと思った。
無邪気に目を輝かせて、大きな機械を見ている。回るベルトコンベア、鳴り響くエンジン音、説明にうなずく先生たち。
そこに間違いはない。だけど、どこかが空っぽなんだ。
“そこで生きている人間の現実”は語られない。
それは、大人たちが“見せたくない現実”なのか、
それとも、もはや“見えていない現実”なのか。
見せられる現実と、見せない現実
子どもたちに見せるのは、整った設備と機械の凄さだ。
でも、その裏で働く人たちの顔を、どれだけ見せているだろう。
無表情で黙々と部品を取り付ける手。黙って流される日々の中で、感情をしまい込んだ目。
本当は、そこにも“現実”がある。けれど、そこはカリキュラムに含まれていない。
「働くって、こういうことなんだよ」っていう説明には、
「そのとき、何を思うか」という問いが置いてけぼりになっている。
自分達に都合の良い現実。人が見て綺麗で不満の無い現実。
その陰に隠れている、声にならない叫びと苦悩と汗と涙・・・
見たいモノを見るのが人なんだろうけれど、
自分の見たい現実と、見せたい現実だけを伝えるのが、今の大人の姿なのかもしれない。
綺麗な現実だけを並べて・・・何が分かって、何を伝えようって言うんだろうか?
レールに乗る安心と、問いかけの欠如
大人たちは、子どもに“安心できる道”を見せたがる。
レールに乗っていれば、間違わない。迷わない。考えずに済む。
でも、それは「正解しか存在しない世界」への誘導ではないか?
運動会でみんなと違う方向に走った子、空を赤く塗った子、授業中に窓の外を見ていた子。
その子たちが見ていた“別の現実”を、大人はちゃんと見ようとしたのか?
「現実って、そんなに一つだけ?」と問う勇気を、大人自身が忘れてしまっていないか?
現実なんて、本当は何通りもある。
でも、大人が「こっちが正しい」と言ってしまえば、
子どもは“それ以外の現実”を探す力を失ってしまう。
大人の都合で削られていく視点が、
どれほど豊かな可能性を含んでいたか――
それに気づいたときにはもう、ずいぶん時間が経っている。
私達の現実は、一つしかないのか?それとも、一つしか許されていないのか?
想いを行動にした時、認めて許してくれる環境なんて、実際には手に入らない。
いつも誰かが用意した枠の中にしか、【現実】なんてものは存在しない。
私達は子供の時に、自分だけの何かを探すことを見失ってしまっている。
正解の美しさと、その裏にある不自由
数学は美しい。
一つの答えに辿り着くまでの道のり。論理的に積み重ね、見事に導き出された解。あの快感と確信。
人は正解に惹かれる。
それは救いでもある。
だからこそ、大人は子どもに“間違わない道”を与えたくなる。
でも、それって本当に子どものため?
もしかして、それは「大人自身が安心したいから」じゃないのか?
子どもが自分とは違う選択をしたとき、不安になるのは誰か。
「その道は危ないよ」と先回りするのは、誰の都合か。
子どもたちが求めているのは、
自分が知らない世界を自由に見て、感じて、いいんだよっていう“安心”なんじゃないかな?
誰かの意見や顔色を伺って、大人の評価を気にして、指摘に恐怖するなんて必要ない。
自由に感じさせて、何を見て、知って、そして、見たいと思って、感じたい・考えたいっていう自由な感性を持たせてあげること。
それが、「大人」という存在の役目なんじゃないだろうか。
少なくとも私はそう思ってるし、
そのために、あなたにも自由に感じてほしい。
自分の感じた思いを、大切にしてほしい。
だから私は、今、こうして言葉を届けている。
問いを持たせること、それが夢への道
教え方にも、見せ方にも、もっと「問い」を入れよう。
ありふれた感想や、よくある共感も大切だ。
でも、その前に“個性的な感想”や“その子だけの見解”があってもいい。
たとえば、騙し絵のように見る角度で変わるもの。
太陽の塔の裏側のように、見えないものの中に意味を宿すもの。
そんな「見方によって価値が変わる」経験を、子どもたちに渡してみたくはないか?
問いは、想像力の入り口だ。
問いは、違和感に名前をつける手段だ。
正解じゃなくていい。
「なぜ?」と考える力こそが、
自分の人生を選ぶ力になる。
シンプルフレーズの価値観として:選択の自由
この世界に、たった一つの正解なんてない。
だからこそ、選び方には価値がある。
正解よりも、自分の現実を、自分の問いで選び取ること。
選ぶということは、自由を使うこと。
そして自由とは、責任じゃなく、“希望”を持ち続ける力のこと。
誰かの理想をなぞるのではなく、
誰かの指示通りに動くのではなく、
“自分の違和感”に正直でいること。
それが、選び方を鍛えていくということなのかもしれない。
最後に
子どもに夢を見せたい。私もそう思う。
でもそのためには、大人がまず目を覚まさなければいけない。
「こうすればいい」「こうなれば正しい」と言う前に、
「あなたはどう思う?」「なぜ、そう見えたの?」と問いかけてみる。
答えはひとつじゃない。
だからこそ、問いのある言葉には希望がある。
正解のない日々を、問いながら歩くこと。
その姿を見せることが、大人にできる最大の“夢の見せ方”かもしれない。
そしてその問いは、相手のためだけじゃなく、
自分自身が“自分を信じて問い続けている証”にもなる。
子どもたちの目が輝く世界のために。問いを手渡すという、ささやかで確かな優しさを忘れずにいたい。
✨シンプルフレーズ
夢は与えるものじゃない。問いを通して、拾いに行かせるものだ。














