同じ言葉でも、救われる人と傷つく人がいる。
同じ出来事でも、意味はまるで違う。
それは世界が違うんじゃなくて、「見ている人」が違うだけでした。

人はつい、物事を「何があったのか」で整理したくなります。
何を言われたのか。何が起きたのか。何を失ったのか。
でも、本当に心を揺らしているのは、出来事そのものではなくて、『それを誰がどう受け取ったのか』なのかもしれません。

同じ言葉を聞いても、傷つく人もいれば、気にしない人もいる。
同じ景色を見ても、救われる人もいれば、何も感じない人もいる。


それはきっと、世界が違うのではなく、その世界を見ている「誰か」が違うからなんですよね。

 

「何か?」ではなく「誰か?」で見ること

 

私たちは、つい物事の本質や正しさを知りたくなります。
これは何か。どういう意味か。何が正解か。
もちろんそれも大切です。

でも、人の経験って、そんなに簡単に「何か」で片づけられない気がするんです。

悲しかったことも、嬉しかったことも、腹が立ったことも、全部、
私にとってはこうだったという形でしか現れません。


つまり経験は、いつだって人称を持っているんです。

だからこそ、同じ出来事でもズレが生まれる。


でも、そのズレは間違いじゃない。
ただ、「見ている人が違う」というだけなのだと思います。

 

  自分の中にも、いろんな「私」がいる

 

そして厄介なのは、他人とのズレだけじゃないんですよね。
自分の中にも、いろんな「私」がいる・・・

 

やりたい私。
やめたほうがいいと言う私。
信じたい私。
どうせ無理だと否定する私。

葛藤って、弱いから起こるんじゃなくて、
自分の中に複数の思いや声があるから起こるものなんだと思います。

 

しかも、そのどれにも少しずつ共感してしまう。
欲望のままに進みたい気持ちも分かるし、
傷つかないように止まりたい気持ちも分かる。


だから苦しいし、だから迷う。

でもそれは、きっと不自然なことじゃありません。
むしろ、人が人として生きている証拠なのかもしれません。

  作られた自分と、これから作る自分

 

ここで大事なのは、今の自分が全部自由に作られたわけではない、ということです。
環境、関係、過去、言われてきた言葉。
そういうものに、私たちは少なからず作られてきました。
そこは、なかなか選べません。

でも、今この先の自分まで、全部決まっているわけじゃない。


これから誰と関わるか。
どんな言葉を選ぶか。
どんな自分を育てていくか。

そこには、少しずつでも選べる余地がある。

 

私は、ここに価値があるのだと思っています。
価値というのは、誰かに認められることだけじゃなくて、
「どの自分を生かしていくか」を自分で選び取ろうとすること

の中にも生まれるんじゃないでしょうか?

 シンプルフレーズ

何があったか。
何が正しいか。
それを考えることも大事です。

でもときには、少し立ち止まって、
「それを感じているのは、自分の中のどの私なんだろう?」
と考えてみてもいいのかもしれません。

 

自分を一つに決めつけなくていい。
迷う自分も、求める自分も、止まりたがる自分もいていい。


その上で、今日はどの自分を前に出して生きるのか。
それを少しずつ選んでいくことが、自己理解の扉を開くことなんだと思います。

何があったか?より、誰が感じたか?
そこに目を向けたとき、少しだけ、自分のことを優しく理解できるのかもしれません。

人から「好かれる人」と、なぜか強く心に残る「惹かれる人」は、少し違う。
優しい人が必ず惹かれるわけじゃないし、静かな人が印象に残らないわけでもない。
人間関係って、この違いを知るだけで、少し見え方が変わるのかもしれない。

なぜあの人は好かれて、あの人には惹かれるのか

  話しやすい人は、なぜ人から好かれるのか

人から好かれやすい人って、たぶん聞き上手なんだと思う。

自分の話ばかりしない。
途中で相手の話を奪わない。
否定から入らない。
笑って頷いてくれる。
ちゃんと沈黙を待てる。

人はみんな、語りたい。
知ってほしいし、分かってほしいし、見てほしい。
 

承認欲求とか顕示欲とか、難しい言葉にしなくても、結局は「自分のことをちゃんと扱ってほしい」だけなんだと思う。

 

だから、その気持ちを満たしてくれる相手には、自然と心を開きやすい。
好かれる人は、相手を気持ちよく話させるのが上手いんだろう。

  聞き上手には、ちゃんと“型”がある「聞き上手のスキル」

聞き上手って、才能だけじゃない。
ちゃんと技術がある。

 

1.質問する。
2.否定しない。
3.オウム返しをする。
4.笑って頷く。


そして、相手を気持ちよくさせる言葉を知っている。

 

5.会話の「さしすせそ」。

さ:流石だね
し:知らなかった
す:凄いね
せ:センスいいね
そ:そうなんだ

 

この一言って、思っている以上に強い。


相手は「ちゃんと受け止めてもらえた」と感じるからだ。

たった一言で、人は救われる。
たった一言で、もっと話したくなる。
聞き上手な人は、「この人と話すと気分がいい」と思わせる力を持っている。

だから、人から好かれる。

  でも、惹かれる人は“心地よさ”だけじゃない

ここが面白いところだと思う。

好かれる人は、会話の中で安心をくれる。
でも、惹かれる人は、それだけじゃない。

 

惹かれる人って、背中で語る人なんだと思う。(個人的な意見です。)

何かを成してきた人。
何かを失ってきた人。
何かを背負って、それでも立っている人。
多くを語らなくても、過去や経験が雰囲気になって滲んでいる人。

 

それは、見た目の良さだけじゃない。

肩書きや実績だけでもない。
もっと曖昧で、でも確かに伝わるものだ。

 

「あ、この人は、自分の美学で生きてきたんだな」
そう感じる瞬間がある。

 

惹かれる人は、話が上手い人というより、生き方が雰囲気になって出ている人なんだと思う。

  “好かれる”と“惹かれる”は、似ているようで違う

人間関係って、この二つを混同しやすい。

 

話しやすい人は、好かれる。
でも、忘れられない人は、惹かれる人だ。

 

好かれる人は、安心をくれる。
惹かれる人は、印象を残す。

好かれる人は、一緒にいて疲れにくい。
惹かれる人は、なぜか気になってしまう。

 

もちろん、両方を持っている人もいる。
聞き上手で、なおかつ背中で語れる人。
そんな人は、ずるいくらい魅力的だと思う。

 

でも、多くの場合は少し違う。

 

広く好かれる人は、相手に気持ちよく喋らせるのが上手い。
深く惹きつける人は、自分の生き方に嘘が少ない。

  だから人間関係は、少し面白い

好かれたいなら、聞く力は大事なんだと思う。
「さしすせそ」も、頷きも、沈黙も、ちゃんと人間関係を支える技術になる。

 

でも、惹かれたいなら、それだけじゃ足りない。

背中で語れるものが必要になる。

何を成したか。
何を失ったか。
何を守って生きているのか。
その人の過去や美学が、言葉より先に滲み出るからだ。

だから私は思う。

好かれる人は聞き上手。
惹かれる人は、背中で語る。

どちらが上かじゃない。
ただ、人が人に向ける感情には、少し違う種類がある。
その違いを知っているだけで、人間関係は少し面白くなるのかもしれない。

 シンプルフレーズ

話を聞いてくれる人に心は開く。
でも、心を持っていかれるのは、生き方が滲んでいる人だったりする。

今の時代は、何でも残せる。
言葉は文字になり、花は写真になり、気持ちさえも履歴として保存されていく。
でも、残せるようになったはずなのに、なぜか昔より気持ちは伝わりにくくなっている気がする。

 

消えていくものの方が、気持ちを託しやすかった

 

人は、なぜ花を贈るのだろう・・・?

今の時代、プレゼントなんて選び放題だ。
便利なものもある。
高価なものもある。
実用的で、長く使えて、失敗しにくいものだって山ほどある。

 

それなのに、今でも花は選ばれ続けている。

花は残らない。
咲いた瞬間から変化して、少しずつ表情を変えて、やがて枯れていく。


つまり花は、「物」としての価値よりも、時間そのものを渡している。

しかも花には、色がある。
形がある。
香りがある。
季節がある。
そして、花言葉まである。

だからこそ花は、ただの飾りでは終わらない。
言葉にしきれない感情や、うまく説明できない想いを、静かに預けられる。

たぶん人は、残るものより、消えていくものの方が気持ちを託しやすかったんだと思う。
だって、消えていくものには、その瞬間にしかない熱があるからだ。

 

  言葉も本当は、花に近かった

 

花だけじゃない。
言葉も本当は、同じだったんじゃないだろうか?

 

言葉は、本来その場のものだ。
声の大きさ、言うタイミング、目線、表情、空気感・・・そういう全部が混ざって、初めて気持ちになる。

同じ「ありがとう」でも、昨日のありがとうと今日のありがとうは違う。
同じ「ごめんね」でも、怒りながら言うのか、泣きそうな声で言うのかで、届き方はまるで変わる。

 

言葉は、意味だけで出来ているんじゃない。
温度で出来ている。
揺らぎで出来ている。
曖昧さの中に、本音が宿ることだってある。

 

だから昔は、言葉は消えていくものとして、気持ちを託す器になれていたんだと思う。
風みたいに流れていくからこそ、本音を乗せる余白があった。

  でも今は、何でも残りすぎる

 

ところが今の時代は違う。

言葉は文字になる。
会話は履歴になる。
メッセージはスクリーンショットされる。
気持ちは記録され、証拠になっていく。

 

花も同じだ。
本当は、目の前で咲いて、香って、少しずつ萎れていく変化ごと受け取るものなのに、写真にした瞬間に「一番きれいな一瞬」だけが切り取られる。

もちろん、記録すること自体が悪いわけじゃない。
残したい気持ちもあるし、大事にしたい思い出だってある。

でも、何でも残せるようになったことで、逆に気持ちそのものは伝わりにくくなった。

 

なぜか・・・?

 

それは、残るものには責任が発生するからだと思う。

 

消えていく言葉なら、その場の空気に預けられた。
でも、残る言葉は固定される。
固定された言葉は、揺らぎを失う。
揺らぎを失った言葉は、安全にはなるけれど、気持ちの温度まで削ってしまう。

 

その結果、人はますます慎重になる。
誤解されないように。
責められないように。
あとで揉めないように。

そうして選ばれるのは、正しくて安全で、でもどこか血の通わない言葉だ。

それでは、気持ちが届きにくくなるのも当然かもしれない。

 

  変化を失った世界では、気持ちも痩せていく

 

花の美しさは、完成された瞬間だけじゃない。
つぼみの時間もある。
咲き始めもある。
満開もある。
そして、枯れていく切なさもある。

そこまで含めて花なのに、記録された瞬間、それは「完成された一枚」になってしまう。

言葉も同じだと思う。
本当は迷いながら言った一言も、震えながら送った一文も、文字にした瞬間に整いすぎてしまう。


そこにあったはずの躊躇いや、迷いや、言いきれなさが消えてしまう。

でも、気持ちって本来そんなにきれいじゃない。
揺れる。
ぶれる。
変わる。
矛盾する。

それなのに、今は何でも「分かりやすく」「残る形で」「説明できるように」求められる。


そんな世界で本音が言いにくくなるのは、ある意味で必然なんだろう。

気持ちは本来、静止画じゃない。
もっと曖昧で、もっと不安定で、もっと流れていくものだ。
だからこそ、消えていくものの中にこそ、本音は宿りやすかったのかもしれない。

 

  気持ちが伝わらない時代なんじゃない!気持ちを残しすぎる時代なのかもしれない

 

便利になった。
記録も出来る。
保存も出来る。
共有も出来る。

それなのに、なぜか人の気持ちは届きにくくなった。

その理由は、伝える力が落ちたからじゃないのかもしれない・・・


むしろ、気持ちを残る形に翻訳しすぎたからなのかもしれない。

 

本当は、その場の空気にしかなかったもの。
変化していく途中にこそ意味があったもの。
消えていくからこそ渡せたもの。

そういうものを、全部「残る形」にしようとするから、気持ちが痩せていく。

 

花が今でも選ばれるのは、そのことを人がまだ本能で知っているからなんじゃないだろうか?

残らない。
変わっていく。
それでも美しい。

その在り方に、人はきっと自分の気持ちを重ねている。

 

言葉も本当は、そうだったはずだ。

消えていくからこそ託せたものがある。
残らないからこそ、本音を乗せられたものがある。

今の時代は、気持ちが伝わらない時代なんじゃない。
気持ちを残しすぎる時代なのかもしれないね。

 シンプルフレーズ

花も、言葉も、本来は消えていくものだった。
だからこそ、その一瞬に気持ちを託せた。

でも今は、花は写真になり、言葉は文字になり、何でも履歴として残っていく。
その便利さの代わりに、私たちは「揺らぎ」や「曖昧さ」や「変化ごとの美しさ」を手放し始めているのかもしれない。

 

残ることだけが価値じゃない。
消えていくことにも、変わっていくことにも、ちゃんと意味はある。

 

花が今でも人に選ばれるのは、
そのことを、まだ人の本能が忘れていないからなんだと思う。

言葉には力がある
言葉を変えれば世界は変わる
発する側と受け取る側で意味と価値はズレて当然
だからこそ、理性と欲望を分けるように、言葉も分けて扱う必要がある

同じ言葉なのに、なぜこんなにも苦しくなるのか

 

同じ言葉を聞いているはずなのに、人によって受け取り方が違う。

同じ言葉を使っているはずなのに、伝わっている意味が違う。

 

それはきっと、当たり前のことなんだろう。

 

だって、言葉は辞書の中だけで生きているわけじゃない。
その人の経験、立場、欲望、恐れ、期待、記憶。
そういうものを全部まとって、初めて「意味」になるからだ。

 

だから、言葉の意味と価値が、
発する側と受け取る側で違うのは必然なんだと思う。

 

でも、私たちはその当たり前を忘れやすい。
同じ日本語だから通じるはず。
同じ言葉だから同じ意味のはず。


そう思ってしまう。

そして、通じなかった時に傷つく。
否定された気がする。

分かってもらえないと感じる。

 

けれど本当は、
最初から言葉はズレるものなんだろう。

 

  言葉には力がある

私は、言葉には力があると思っている。

言葉は、ただ気持ちを説明するための道具じゃない。
言葉は、世界の見え方そのものを変える。

 

たとえば、

「失敗」と言えば苦くなる。
でも「経験」と言えば少しだけ意味が変わる。

 

「我慢」と言えば苦しい。
でも「選択」と言えば、少しだけ自分の意志が残る。

 

「人生」と言うと重い。
でも「LIFE」と言うだけで、少しだけ余白が生まれる。

 

「計画」だと固い。
でも「プラン」だと、まだ揺れや遊びが残る。

 

たったそれだけの違いなのに、
心の受け取り方は変わる。


見え方が変わる。
生き方まで変わっていく。

だから、言葉を変えれば世界は変わる。

世界そのものがすぐに変わるわけじゃない。


でも、世界に押し潰される自分の受け取り方は変えられる。
それはとても大きなことだと思う。

 

  世界は一つの意味を押し付ける

 

本当は、言葉にはもっと余白がある。
もっと複数の意味があっていい。
もっと曖昧で、もっと揺れていていい。

 

でも、世界は一つを押し付けてくる。

主体性とはこういうもの。
責任とはこういうもの。
幸せとはこういうもの。
大人とはこういうもの。
正しさとはこういうもの。

まるで正解が一つしかないみたいに。

 

だから苦しくなる。

一つの意味に合わせられない人は、
間違っていることにされる。
遅れていることにされる。
足りないことにされる。

でも違うんだと思う。
言葉に一つの意味しかないんじゃない。
一つの意味に固定したがる世界の方が、不自由なんだ。

 

  使う側として、受け取る側として、言葉を分けて扱う

だから私は、
言葉を一つの意味で持たない方がいいと思っている。

 

使う側としての言葉。
受け取る側としての言葉。

その二つを分けて考える。

 

さらに言えば、
理性と欲望を分けるように、
言葉の理解と受け取りも分けた方がいい。

 

理性で見れば、
「ああ、この人はこういう意図でこの言葉を使ったんだな」と理解できる。

 

でも欲望や感情の側では、
「その言い方は傷つく」
「その言葉は重い」
「私はそうは受け取れない」
ということがある。

 

それでいいんだと思う。

 

理解できることと、受け入れられることは違う。
意味が分かることと、納得できることも違う。

ここを無理に一つにしようとするから、
言葉に押し潰される。

 

だから、理性では理解する。
でも感情では距離を取る。
あるいは、欲望の側で別の言葉に置き換える。

 

そうやって、自分を守るための言葉を持つことが必要なんだと思う。

  言葉を増やすことは、逃げることじゃない

 

言い換えを持つこと。
別の表現を知ること。
似ているけれど少し違う言葉を集めること。

それは、逃げじゃない。

むしろ、自分の世界を守るための知恵だと思う。

一つの言葉しか知らなければ、
一つの意味に閉じ込められる。

 

でも、複数の言葉を持っていれば、
複数の見方を持てる。
複数の受け取り方を持てる。
複数の生き方を持てる。

 

言葉が増えることは、
選択肢が増えることだ。

そして選択肢が増えることは、
生きる意味の部屋が増えることなんだと思う。

  言葉の力の方向性を見出だしたい

 

言葉には力がある。

だからこそ、
言葉の使い方は大切だし、
言葉の選び方も大切だし、
言葉そのものをどう持つかも大切なんだと思う。

 

発する側と受け取る側で、
意味も価値も違うのは当たり前。


だからこそ、
一つの言葉を一つの意味で固定しないことが大事なんだろう。

 

理性で理解する言葉。
欲望で受け取る言葉。
自分を守るために選び直す言葉。

その全部を持っていていい。

世界は一つの意味を押し付ける。
でも、私たちは複数の言葉で生きていい。

 

その方がきっと、
少しだけ自分を見失わずに済むから。

 シンプルフレーズ

言葉を変えれば、世界の見え方は変わる。
だから私は、一つの言葉に一つの意味しか与えない世界を信じない。

 

フォレストのように、簡単には笑えない

  それでも人は、囚われながら生きている

 

前回、私は『フォレスト・ガンプ』を見て思ったことを書いた。

幸せとは、悲しみと苦しみの上にしか生まれないのかもしれない。


幸せすら相対的価値で、「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれない、と。

 

戦争を知ったから、平穏が分かる。
批判を知ったから、受け入れられることが分かる。
離れる現実を知ったから、一緒にいられる時間が分かる。

そんなふうに、人は失う可能性を知ったあとでしか、
目の前にあるものの価値を、本当の意味では受け取れないのかもしれないと思った。

でも、書いたあとにもう一つ、強く思ったことがある。

・・・とはいえ、
フォレストのように簡単には笑えない。

ここが、現実なんだと思う。

今日はその続きとして、
人が悲しみや苦しみに囚われることの普通さについて書いてみたい。

 

  人は、悲しみと後悔をそんなに簡単には越えられない

 

映画の中では、笑顔が象徴になることがある。
苦しみを通って、それでも笑えた顔。


それは確かに美しい。

 

でも現実の人間は、そんなに綺麗じゃない。

失った事実。
苦しかった事実。
裏切られたこと。
傷つけられたこと。
どうにもならなかった時間。
取り返せなかった過去。

そういうものは、簡単には消えない。


むしろ、ずっと残る。

 

しかも厄介なのは、
記憶として残るだけじゃなく、人を縛る形で残ることだ。

「あの時こうだったから」
「また同じことになるかもしれない」
「もうあんな思いはしたくない」

そうやって人は、過去から学ぶ。
でもその学びは、自由になるための知恵であると同時に、
次の一歩を止める鎖にもなる。

 

だから、悲しみや苦しみの上に幸せがあるとしても、
そこへ辿り着くまでには長い時間がいる。
あるいは、辿り着けないことだってある。

 

ここを飛ばして、
「辛い経験も意味があるよ」
「全部あなたの糧になるよ」
なんて言われても、正直困る。

糧になる前に、まず傷だからだ。

  人の学習は、痛みを土台に積みあがる

 

カマス効果というモノをご存知だろうか?

一度ぶつかる。
一度痛い思いをする。
一度傷つく。
すると人は、その痛みを学習する。

本来それは、生き延びるために必要なことなんだと思う。


同じ失敗を繰り返さないため。
同じ絶望に呑まれないため。
同じ苦しみを避けるため。

でも、この学習はすごく残酷だ。

 

人は、「ここまでは危ない」
ではなく、「もうやめておこう」
を覚えてしまうことがある。

 

一度の失敗が、次の挑戦を止める。
一度の喪失が、次の愛情を止める。
一度の批判が、次の言葉を止める。
一度の痛みが、次の可能性を止める。

そうやって人は、自由より先に防衛を覚える。

 

だから、苦しみと痛みは確かに人を育てることもある。
でも、それ以上にまず、人を縛る。

自由と可能性を見出せないほどに、
幸せや喜びを感じられないほどに、
人を小さくしてしまうことがある。

 

これが現実なんだと思う。

 

  フォレストは、学んだけれど囚われなかった

 

フォレスト、彼は何も知らなかったわけじゃない。
ちゃんと失っている。
ちゃんと苦しんでいる。
ちゃんと別れも知っている。
学んでもいるし、経験もしている。

でも、いわゆる「普通の人」がするような仕方では、そこに囚われなかった。

 

ここがすごく不思議だった。

普通なら、止まる。
普通なら、萎縮する。
普通なら、もう一度傷つくくらいならやめようと思う。

 

でもフォレストは、そうならなかった。
彼のあの笑顔は、何も知らない笑顔じゃない。
傷つかなかったから笑えた顔でもない。

 

むしろ、学んだのに、
学習に支配され切らなかったからこそ、あの笑顔があったように見える。

 

ここに少し皮肉がある。

知能の低さと言われるものがあったからこそ、
「普通の人」が過剰に抱え込む意味や失敗や羞恥や恐怖に、
完全には囚われなかったのかもしれない。

 

だとしたら、
私たちが“普通”と呼んでいるものは何なんだろう。

  囚われるのが普通なのか、囚われないのが異常なのか

 

ここで、少し怖い問いが出てくる。

囚われる人の方が普通なのか。
囚われない人は異常なのか。
それとも、逃げ出すことこそ当たり前なんだろうか。

世間では、傷ついても前を向ける人が立派に見える。
囚われて動けなくなる人は、弱い人みたいに扱われる。
でも本当にそうだろうか。

私はむしろ逆だと思う。

傷ついたら囚われる。
痛みを知ったら止まる。
後悔を覚えたら慎重になる。
これはすごく自然だ。

 

つまり・・・囚われることの方が普通なんだと思う。

人は意味を考える。
失敗を記憶する。
痛みを一般化する。
「あの時ダメだったから、もうやめよう」
と、ちゃんと学習して、ちゃんと止まる。

 

その意味では、普通であることは、
傷をちゃんと覚えて、ちゃんと縛られることなのかもしれない。

だとしたら、囚われないことは何なんだろう。

異常というより、
世界の合理性から少し外れていることなのかもしれない。

 

学んでも、従い切らない。
傷ついても、止まり切らない。
苦しみを知っても、なお逃げる。
なお笑う。

それは危うい。
でも、だからこそ自由にも見える。

  逃げることは、弱さじゃなく自由なのかもしれない

 

私が敬愛する山下清。
彼なら笑っただろうか?
彼なら囚われて動かなかっただろうか?

 

いや、たぶん彼なら、逃げ出して笑ったんじゃないか?と思う。

 

ここで言う逃げるは、ただの敗北じゃない。
過去からも、トラウマからも、苦しみからも、
いったん距離を取るということだ。

 

普通の人は、痛みから学ぶ。
恥を覚える。
迷惑を覚える。
空気を覚える。
そしてどんどん囚われる。

 

でも、逃げる人は少し違う。


囚われる前に離れる。
縛られる前に外へ出る。
意味づけで固まる前に、身体ごと動いてしまう。

それはきっと、綺麗なことじゃない。
立派でもない。
でも、生き延びるためには必要なことなんだと思う。

 

囚われるのが普通なら、
逃げて笑うことは異常じゃなくて、自由なのかもしれない・・・

  最後まで逃げられなかっただけの話なのかもしれない

 

ただし、人はずっと逃げ切れるわけじゃない。

どこかで捕まる。
身体に。
社会に。
時間に。
老いに。
病に。
死に。

だから「逃げればいい」で全部済むわけでもない。
最後まで逃げられなかっただけの話、というのも、たぶん本当だ。

 

逃げられる間は逃げていいんじゃないか。
笑える間は笑っていいんじゃないか。
囚われる前に距離を取れるなら、それも一つの才能なんじゃないか。

 

だって、人はそんなに強くない。
後悔も悲しみも苦しみも、簡単には越えられない。
ならばせめて、そこに完全に呑まれる前に、
少しでも外へ出ることができたなら、それは立派な生き方だと思う。

 

フォレストのように簡単には笑えない。
でも、だからこそ分かる。

笑うって、何も知らないことじゃない。
苦しみを消したことでもない。
囚われなかったことでもない。

囚われ切る前に、ほんの少しでも外へ出られた瞬間のことなのかもしれない。

  フォレストのように笑えない私たちは、それでもどう生きるのか

 

前回、私は幸せとは「そうじゃない」を知った人だけが笑える感情なのかもしれないと書いた。

でも現実の私たちは、フォレストのように簡単には笑えない。


後悔と悲しみは簡単には越えられないし、
失った事実、苦しかった事実は、人をずっと縛る。

人の学習は、苦しみと痛みを土台に積みあがる。
そしてその土台は、人を育てるだけじゃなく、
自由と可能性を奪う檻にもなる。

 

だから囚われるのは、たぶん普通だ。
痛みを学習して、過去に縛られて、動けなくなるのは、むしろ人間として自然なんだと思う。

 

それでも、囚われずに逃げて笑える人がいる。
あるいは、囚われ切る前に、少しだけ外へ出られる人がいる。

 

それは異常なんかじゃない。
弱さでもない。
たぶん、自由だ。

フォレストのように笑えない私たちは、
だからこそ問われているのかもしれない。

 

痛みを抱えたまま、
囚われたまま、
それでもどこまで逃げられるのか。
どこまで自分を外へ連れ出せるのか。

幸せは、悲しみの上に咲く花なんかじゃない。
悲しみに縛られたまま、それでも一瞬だけ笑えてしまう現実のことなんだと思う。